深緋の回廊 5
また夢を見た。 あの夢のはじまりは、飽きもせずにいつも同じところから繰り返される。 あのときと同じ背中。 真正面から大きく斬りつけられた土方さんの身体が、床に沈む。 あたしの目の前、手を伸ばせば届く距離で。 黒い隊服の背中が崩れ落ちる。 あのときと同じ音。同じ声。 刀が激しくぶつかり合う音が、硬く高い音が耳を裂くように鳴り響く中。 土方さんを呼ぶ声。近藤さんの太い声が轟く。 床に倒れて動かない土方さん。 刃に裂かれた隊服の胸を、吹き出した鮮やかな血の赤が濡らしていく。 止まることなく流れ続ける赤が床へこぼれ、吸い込まれる。 鮮やかな色が、暗く澱んだ色へと移っていく。 倒れて動かない身体を、暗い紅に染め上げる。 あのひとから目を離せずに、脱力して座り込んだ女の狂ったような悲鳴が耳を裂く。 あれは、あたしのあげた悲鳴。 これが夢じゃなくて、何かの記憶媒体に残された映像だったらいいのに。 それならあたしは、ただ目を閉じて耳を塞げばいい。 ボタンを押して映像を止めて、データを消去してしまえばそれで済む。 倒れるあのひとの背中を、もう二度と見なくて済む。 その映像が残されているのはあたしの頭の中だ。 あの発作を起こさせる原因。 それが頭の中に残された記憶では、どんなに苦しくても取り除けない。消せない。 忘れかけた頃に必ず訪れる、夢の中で。 時折ふとした拍子に浮かび上がる、記憶の中で。 スローモーションで何度も繰り返される、あのひとの背中。 血の飛沫を宙に舞わせながら、倒れる背中。 除隊する二ヶ月前。 今日の出入りのような、大捕物の最中だった。 敵の刃を前にしながら、あたしは動けなくなっていた。 もうここで死ぬんだ。そう覚悟した。 そこを土方さんに庇われた。 斬られることを覚悟したあたしの前に、飛び込んできた見慣れた背中。 飛び込んで、上段から振り落とされる敵の刀を受けて払った。 すでに血まみれの床が、飛び込んできた土方さんの足元を掬った。 わずかに膝をつき、立ち上がりかけたところを斬られたのだ。 大きく振りあがった敵の白刃が、一太刀であのひとの身体を弄った。 その場に崩れ落ちた土方さんから目を逸らせずに、全身から力が抜けたあたしは床にへたりこんだ。 自分のものとは思えない、うわずった悲鳴をあげて。 そこまでは覚えている。けれど、その先は闇でしかない。 何もない黒の中。何も見えない黒の中。 ただ茫洋として、底が無い。 手探りで彷徨っても、どこにも出口の見つからない場所。 あたしはそこに閉じ込められた。 どのくらいそこにいたのか。そこにいた自分がどうしていたのかも、わからない。 気がついたら病院にいた。 点滴に繋がれた土方さんの腕が、枕元にしがみついて泣きじゃくるあたしの頭を力無く小突いていた。 それからあたしの身体はいうことを聞いてくれなくなった。 すっかり腑抜けてしまった。 最初は、立ち合いの最中に視界が揺れた。眩暈がした。 たまに理由の解らない息苦しさを感じるようになった。 けれどその変化は些細なもので、気にするほどのことではなかった。 重傷を負って入院していた土方さんが戻ってくるまでは、普通に振舞えていたのだ。 あの発作が始まったのは、小さな出入りがあったとき。 刀を抜くのはあたしや総悟の数人に留まった。 たいした騒ぎにもならず、やくざ同士の揉め事程度で現場は片付いた。 指示された事後処理に追われながらの、魔がさしたとしか言いようのない一瞬だった。 あたしの目はふと、あのひとの背中に留まった。 隊服の背中をじっとみつめる間に、呼吸は荒くなった。 息が吸えない。苦しさに呼吸はどんどん早くなるのに、息が吸えなかった。 胸が潰れそうに苦しくなって、息を吸おうともがいて。 最後には手足が痺れて、感覚が無くなって。そのまま倒れた。 その日から現場に立てなくなった。 立ち合いの最中や、血生臭い現場で土方さんの姿が目に入ると、身体が縛られる。 動きが止まって、発作が起きる。 そのくせ、あのひとがいない場所でならどうとでもなるのだ。 土方さんがいない。見慣れたあの背中が見当たらない。 それだけで身体と刀は元のように軽くなって、意のままに自在に動いた。 現場で副長の姿を目にしたら動けなくなる隊士。 そんなどうにもならない役立たずを、局内の誰ひとりとして責めなかった。 責められないことがかえって苦しかった。文句をつけてくれたほうが、この辛さは紛れるのに。 ついそんなことを思って恨んでしまうのは、勝手な甘えだ。 それに気づいて自分にうんざりして、あたしは除隊を願い出た。 元々ここに居ついたのは、路頭から拾ってくれたあのひとに恩返しがしたかったから。 恩も返せず、あの忙しいひとの負担になることばかりを増やしていく。 そんなあたしじゃ、ここにいる意味がない。 あのひとの隣にいる資格すら無い気がした。 辞めると決めて、土方さんにそれを伝えた。 土方さんは黙って頷いた。 じっとこっちを見ているだけだった。 しばらくしてから「近藤さんには自分で言え」と言われたのを覚えている。 それを話し終えたその口で、「別れてください」とつぶやいた。 あのひとの顔は見ていない。胸が苦しくて見れなかった。 だからあのひとがあのとき、どんな表情であたしの言葉を受け止めたのか。 それをどう聞いたのか、あたしは知らない。 ひとことも返ってこなかったから。 あのときの返事を、あたしはいまだに貰っていない。 あの夢の中を漂っていた。 何度も繰り返し、目の前で倒れるあのひとの背中。 それがいつのまにか、目の前から消えていた。 気が付くと、暗闇に置き去りにされていた。 やっと途切れた夢の中から、あたしの意識は這い出した。 静まった気配の中で、布団に寝かされていた。 あたりは暗い。 見なくても誰のものなのかわかる、煙草の匂いがうっすらと漂っている。 この部屋にもこの布団にも、あたしにも。 同じ匂いが染み付いているから。 あのひとの煙草の匂い。あのひとの匂い。 最初に目にしたのは、障子戸に映る影絵だった。 月明かりに照らされる障子戸の向こう。 縁側に並んで座った二人の影は、動かなかった。 一人は広い背中を丸めがちにしていた。 もう一人は、煙草を手に上を見上げている。 たぶん近藤さんと、土方さん。 自分の腕が目に入る。 着ているのは隊服じゃなかった。 見慣れた白い着物。あたしがこの部屋に置いているものだ。 あれだけ身体にこびりついていた血は、もう残っていないらしい。 赤黒かった手は、元の色に戻っていた。 鼻につく匂いはまだわずかに漂って、まわりを囲んでいる。 けれど、眩暈や吐き気を呼ぶほどじゃない。 この時間だ。女中さんたちはもういない。 着替えの世話も、血を拭いてくれたのも。 たぶん、障子戸の向こうで煙をくゆらせているひとが。 「済まなかったな。トシ。」 「あんたが謝ることじゃねえ」 「いや、けどよ。俺がを」 言いかけた声を、土方さんが遮った。 「今日のことはただの偶然だ。あんたはこいつを呼んだ。 俺はとっつあんの用が早く終わった。偶然そうなった。それだけさ」 それからしばらく沈黙が続いて。 近藤さんが、きっぱりと言い切った。 「いや。それでもひとこと報せておくべきだった。済まねェ。」 「やめてくれ。こいつァ偶然だ。誰が悪いもねえことだ。」 疲れたようなだるそうな物言いで、土方さんは答えた。 答えたあとで、ふっと低い笑い声を漏らす。 「・・・・いや。そうじゃねえ。」 笑い混じりのその声は、さっき現場で聞いたのと同じ。 笑えない自分を笑うかのような、褪めた声。 「俺だよ近藤さん。こいつをこうしちまったのは。俺だ。」 そう言ったきり、声は途絶えた。 近藤さんも、それきり何も言わなかった。黙って立ち上がった。 大きな背中がバンと強い音を鳴らして、煙草片手の背中を打った。 立ち上がった影は、月明かりに照らされた障子戸の向こうを歩いて。 舞台の裾へと向かって消えた。 近藤さんへの最後のひとこと。 あれは、もしかしたら弱音だったのかもしれない。 負けず嫌いで意地っ張りのあのひとが、思わず漏らした本音の断片だったのかもしれない。 だってあんな声は、今まで聞いたことがない。 少なくとも、あたしには初めてだった。 縁側に残った影が、立ち上がった。 障子戸が音も無く引かれ、開けられる。 細く開けられた隙間から、夜の湿った冷気と淡い月明かりが差し込んだ。 無言で入ってきたひとは、目が合っても何も言わなかった。 顔色ひとつ変えることなく様子を窺って、それから枕元に座り込む。 空気の重さが気になって、ついあたしのほうから口を開いた。 「土方さん」 声を掛けてから、やっと気づいた。 嘘つき。 口の中で小さくつぶやいた。 目の前に座ったひとの、着物の衿元から白いものが見えた。 肩に巻かれた包帯が覗いている。 斬られてないって言ったじゃない。嘘つき。 目元に、熱いものがせりあがってくる。 唇が震えて、止まらなくなった。 胸の奥からこみあげてくるのは、このひとにすがりついて泣いてしまいたいと思う衝動。 だけど、出来ない。あたしには出来ない。 刀を奮うことを。人を斬ることを。誰かの命を奪うことを。 あたしは怖いと思ったことがない。 闘いの中に立つことに恐怖を感じない。 斬られることを恐れたことがない。 自分の命を刃のひらめく中に晒すことに、躊躇を感じない。 だから怖くなんてなかった。あの日までは。 血に濡れた赤黒い床に命を投げ出そうとした、あの瞬間までは。 死ぬのはあたしのはずだった。なのに。 土方さんの背中が、あたしの代わりに目の前で床に崩れ落ちた。 あのときに、あたしの中でも何かが崩れ落ちてしまった。 怖くなってしまった。 命を奪うことの、奪われることのほんとうの怖さを、あのとき初めて知った。 自分よりも大切な誰かを、失ってしまうことの怖さを。 失くしたくないものを持つということの意味を。その怖さを。 もしこのひとが、目の前からいなくなってしまったらどうしよう。 ここで土方さんを失ってしまうかもしれない、と思う。その恐怖があたしを追い詰める。 現場に立つたびに、血の匂いに呑まれるたびに。 身体はあの瞬間の恐怖に襲われる。 身体が竦む。 息が出来なくなる。胸が苦しくなってしまう。 あのとき、あたしの中でしっかりと根を張って立っていた何が、一瞬で崩れた。 崩れたっきりで戻らない。 残ったのは腑抜けた身体と、弱い心だけ。 今、このひとの前にいるのは、ただの抜け殻だ。 このひとを失いたくない。 ただそれだけに囚われて、怖くなって。このひとの前から勝手に逃げ出した、意気地なし。 こんなふうにしてもらえるような奴じゃない。 このひとに触れられる資格なんてない。 このひとの隣に立つ資格を、あたしは捨ててしまった。 怖さに呑まれて何も見えなくなって、自分から捨ててしまったんだから。 唇を噛み締めたまま、あたしは涙をこらえていた。 不自然に黙りこくったあたしに、土方さんは怪訝そうに手を伸ばす。 「おい。どうした」 「・・・ううん。なんでもないっ」 触れられたらすぐに、あの胸に飛びついて泣いてしまいそうだった。 慌てて頭からすっぽりと布団に潜り込んだ。 潜り込んだ暖かい暗闇から、煙草と土方さんの匂いがする。 慣れた匂いに包まれて、疲れた身体はふにゃりと緩む。 身体は心地よく緩んだけれど、どこか空虚だ。何か物足りない。 だってほんとうは、触れられたかった。触れたかったのだ。あの硬くて大きな手に。 「眠るまででいいから。何か話して。」 こするように涙を拭って、鼻声で土方さんに頼んだ。 布団の中からの声だ。籠もった音で、少しでも紛らわせるかと思った。 でも、そう上手くはいかなかった。 「・・・人の寝床まで奪っといて。次は子守唄か?」 「土方さんの昔話して。・・・あれがいいな。田舎で、近藤さんと会ったころの話。」 「昔話だァ?俺の過去は昔話かよ、浦島太郎じゃねえんだからよ。 ジジイか俺は。あれからまだ十年経ってねーっての」 「早くー。あんまりグチグチ言ってると、ほんとにジジイみたいだよ?」 呆れたような短い溜息が響く。 返ってきた声も、呆れて不服そうな口調だった。 「、お前な。何回聞きゃあ気が済むんだ?話すこっちが飽きちまう」 「いいから話してよ浦島太郎。早くしてくれないと聞けないじゃん。寝ちゃうじゃん。」 「じゃあ寝ろよ。つーか寝るなら俺が話す意味あんのかよ」 不服そうな声でぼやく。 布団の上から、軽く蹴りを入れられた。 珍しく子供っぽい行動と、心底不服そうな声が可笑しい。 あたしは布団の中で身を屈めて笑い声をあげた。 「ったく。しょーがねー」 文句を言いながらも、ねだればこうして必ず話してくれる。 武州にいた頃の話。 あたしはこの話を聞くのが好きだ。 この話をしている時の土方さんの表情が、たまにふっと和らぐのを見るのも好き。 忙しいこのひとが普段は仕舞いっ放しにしている、懐かしい記憶。 そのひとつひとつを確かめ、ゆっくりと引き出しながら、ぽつぽつと紡いでくれる鮮やかな思い出。 あたしの知らない土方さんが、そこにいる。 このひとが見てきた景色を、あたしも一緒に見てきたような気分になる。 見たはずのないその光景。 何度もせがんで聞いたそれは、もうすっかりあたしの記憶の一片になってしまっている。 目にしたことも触れたこともない、その光景。 なのに、懐かしいとさえ思ってしまう。目の前にあるかのように、しっかり浮かんでくる。 ささくれ立った床板が足の裏に刺さる、見渡す限りボロボロで古びた道場。 そこに集う人たちの姿。 今と少しも変わらない、豪快な笑い声を響かせている。 近藤さんのおおらかな姿。 敵意剥き出しの表情で頬を膨らませ、土方さんを睨んでる。 小さな総悟が駆け回る姿。 たまにふわりと現れて、ふわりと淡い香りを残して去っていく。 総悟のお姉さんの儚げな姿。 「土方さん」 たまに言葉を途切れさせながら語る、低い声。 それを、途中で遮った。 「・・・ごめんなさい・・・」 「早く眠れ。」 静かな、内に抑えこんだような声が響く。 普段の厳しい鋭さのない、静かな声。なのにそれは身体に染みた。 あたしの身体に、胸の奥に。深く斬り込むように鋭く響く。 「・・・それでよ。近藤さんが・・・・・・」 膝を抱くようにして、布団の中で身体を丸めて。 その先に何を話してもらったのかは、覚えていない。 嗚咽と涙でぐしゃぐしゃになったあたしは、低くて途切れがちな子守唄を聴きながら またあの夢の中へ沈んで行った。 あのひとの身体が暗い紅に染まる、終わらない夢の中に。
「 深緋の回廊 」end text by riliri Caramelization 2008/08/30/ ----------------------------------------------------------------------------------- 次は大人限定です。まだ大人ではない方は * こちら * へどうぞ。 next