深緋の回廊 3
「ちィーーす。おじゃましやーす」 総悟の声で、奥にいた男が数人、振り向いた。 あたしと総悟は二人だけで、料亭の表玄関に立った。 黒い格子の表玄関を抜け、黒い板壁に沿った細い通路の玉砂利敷きを歩く。 その先にあるソファを並べた待合に、人相の良いとは言えない、ガラの悪そうな奴等が数人。 酒を手にしてこっちを窺っている。どれも腰に大小の得物を挿していた。 土足で板張りの亭内にあがり、ズカズカと踏み込む。 総悟は普段と変わりない飄々とした表情で、やる気の無さそうな口上を発した。 「御用改めであーる。神妙にしやがれィ」 同時に、肩に担いだバズーカが構えられる。 「はいはい。兄さんら、退いて退いて。退いてくれねェと撃っちまうぜ?」 退かなくても撃つけど。 ボソッとそう言うが早いが、バズーカ発射。 あたしは爆音から耳を塞ぎ、一瞬だけ目を閉じた。 目を開ければ、目の前にはきな臭く焼け焦げた板張りの残骸があった。 爆撃にやられた男が数人、焦げた残骸と一緒に転がっている。 「行くぜ、」 「はい!」 煙に呑まれた奴等を置き去りにして、二階へ上がる階段に駆ける。 今の爆音が開始の合図。 続いて他の隊士が飛び込んでくることになっている。 駆け上がった階段の先には、爆音で飛び出してきたらしい浪士の姿。 下から昇ってきたきな臭さと黒煙に戸惑いながらも、数人が待ち構えていた。 総悟が無言で飛び出していく。間を空けずに、その背中について走る。 待ち構えていた浪士は、刀を抜く間も与えずに踏み込んだ総悟に一刀で斬られ、次々に倒れていく。 一人。二人。三人。四人。 血を噴いては足元から崩れ、呻くこともなく倒れていく奴等を避けながら、 離れずに総悟の背を追った。 五人目からは、あたしの目に追いつく暇を与えない速さだった。 あっという間に数人を斬り伏せ、奥の座敷に辿り着いた総悟が勢いよく襖を蹴り倒す。 倒れた襖のむこうには、酒の臭いと化粧の匂いが溜まっていた。 酒膳を囲む男たちと、それを囲む派手な着物の女たちが皆、それぞれに違う表情でこっちを見ている。 けれど、総悟の皮肉な予想はしっかり当たっているらしい。 血走った攘夷浪士の目はどれも皆、女の化粧の匂いと酒精に呑まれきってみえた。 これじゃ、どうやったって怪我なんて出来そうにない。 そう心の中で言い切って、少し笑った。 いくら半年ぶりとはいえ、こんな奴等に斬られるつもりは無い。 しかも局内一の遣い手が前を護ってくれている。 斬られるほうが、怪我をしてあのひとに怒られるほうが、これじゃよっぽど難しい。 背後からも気配がした。 階段を上がって追いついてきた浪士の影が、薄くなった煙の奥から近づいてくる。 鞘から刀を抜き払って、奴等に向かって踏み出す。 あたしが最初に対峙するのは、こっちのほう。 廊下を大きく踏み鳴らし、浪士が喚きながらこっちに飛び込んでくる。 刀を下段に構え、最初に飛び込んでくる奴を待つ。 荒々しく振り下ろされる刀。 酒のせいなのか、勢いはあるけれど雑なその一太刀を、顔の前で掬って受け止める。 相手はグイグイと押してくる。力では敵わない。靴底が、床をじわじわと滑っていく。 真正面から斬り込んできた。余程自信があるのだろう。 こっちが女だと認めた途端、高をくくったかのように鼻で笑った。 押してきた刀が、突然大きく振り上げられる。脇はがら空き、隙だらけの構えだ。 手首を翻して男の足元に踏み込み、頭上近くに上がった篭手を下から斬り上げる。 両手の手首から先が、刀を掴んだまま飛んだ。 激痛に呻く間を与えずに、もう一刀。今度は腹を横へ。深く素早く、確実に斬り裂く。 飛び散った鮮血が、目の前を舞って散る。 ひゅうっと喉笛を鳴らしながら、白目を剥いて男が崩れ落ちた。 屍体を踏み越え、前へ一歩出る。 その先で唖然とこっちを見ている男に向けて、再び刀を構える。 こんなとき、総悟を気にする必要は無い。 場数をこなし、修羅場をともに切り抜けていくうちに、 あたしたちは互いの呼吸がわかるようになった。 背を合わせて戦っているときだけじゃない。 少し離れた場所でそれぞれに討ち合っているときも、その感覚は鈍らない。 総悟の姿が視界に入っていなくても、どこにいるのか、何をしているのかがなんとなくわかる。 どっちにしたって、総悟が誰かに背を護ってもらう必要なんてない。 いつも護られていたのは、あたしのほうだから。 容赦無く挑んでいくときの、総悟の剣は凄惨だ。 血の匂う中で奔る刀は、刀身が見えないくらいに速い。 鉄じゃない、他の何かで出来ているみたい。 まるで意思を持った、生きた鋼。 しなやかで自在で、背筋が冷える。恐ろしいくらいに美しいから。 けれど、怖いと思ったことは無い。 一度も怖いと思ったことが無い。 光る総悟の瞳も。 血に染まる床も。濃く漂う血の匂いも。 さっきまでは生きた人間だったはずの、床に転がる残骸も。 濡れて匂ってこびりついて、洗い落としたところであたしの身体から一生離れようとしない、 まるで呪いをかけているような、名前も知らない誰かの血も。 刀を奮うことを、人を斬ることを。あたしは、怖いと思ったことが一度も無い。 気が付いたら、座敷の中央で剣を奮っていた。 数人を斬り、次の相手を探して周囲をざっと見渡したところで気が付く。 いつのまにか、広いはずの座敷には浪士と真選組が入り乱れ、 その足元には、踏み場が無いくらいに屍体が転がっている。 狂ったような声が寸断なく、どこかしこから上がる。 あれは何度も聞いた声。断末魔の呻き。 奈落へ堕ちる間際の、獣の悲鳴。 座敷いっぱいに血煙が舞う。 黒ずんだ紅が飛び散る。 それを横目に感じながら、次に目にした浪士に刃を向ける。 目が合った瞬間に、男の顔に怯んだ色が浮かんだ。 その色が消えないうちに間合いに飛び込み、肩から一太刀で斬り付ける。 背の高い身体が、刀を振ることもなく畳に沈んだ。 男の胸から噴き出した血が、あたしの顔を洗って散る。 刀にべったりと残る血糊を、軽く振り払う。 顔は拭かない。 まだやることが残っているうちは、気にしてなんていられない。 次の相手を探しながら、 座敷の奥に幹部らしい奴等を追い込んだ総悟の方へと近づいていく。 怖いなんて思わない。 あたしだって同類だから。 あたしだって総悟と同じ。 ここにいる、隊士のみんなと同じ。 こいつらと同じ。 酒に溺れて、欲に呑まれて。 黒々とした鮮血を、命を畳に吐き捨てた。この毒にしかならないヤツらと同じ。 生きている人も。息絶えた人も。ここにいる皆が、人殺しなのだ。 命を戴いた者と、屠られる者。ただそれだけの違いしかない。 半年ぶりの出番。 大捕物は、あっという間に片がついた。 全身にこびりついた血の匂いで、少し眩暈がした。 こんな現場は久しぶりだから、やっぱり身体が疲れている。 腕を上げるのも重苦しい。斬った相手の血が飛んだのか、目も霞む。 早くお風呂に入りたい。喉が渇いた。 立っているのが仲間だけだと確認して、この捕物の終局を見定めたころには、 もうそんなことしか頭にはなかった。 周囲には転がる屍体と、その処理に追われる隊士たち。 しばらくそれを手伝っていると、一番隊の人が来た。 手伝う必要は無いと告げられた。 元隊士でも今じゃ「お客さん」だから、というのもあるんだろうけど。 たぶん総悟が屍体を運ぶあたしを目にして、言って来いと命じたんだと思う。 することがなくなって、ふと窓の外を眺めた。 屋外はもうすっかり暗くなっている。 今は何時なんだろう。 そう思ってから、座敷の硝子窓に映った自分に気づく。 隊服も顔も、手も足も。 全身が赤黒く染まっている。 これも久しぶりに見る姿。 だけどこの汚れた姿も、あたしそのものだ。 今は屠る側の身。けれど、明日はどうなるか知れない身。 ここに転がっている奴等と何も変わらない。 普段どう暮らしていようと、人殺しは人殺しでしかないんだから。 そんな醒めた思いが、胸を過ぎる。 男女の違いがあるからだろうか。 あたしには、近藤さんや土方さんがよく口にする「士道」の意味がピンと来ない。 親のないあたしを育ててくれた人も、「士道」をよく口にした。懇々と説いてくれた。 なのに幼い頃から何度説かれても、あたしの身体にはなぜかそれが染みて来ない。 そんなだから、つい何の役にも立たない、ただ自分を落ち込ませるだけのことも考えてしまう。 こんな血生臭い捕物の後は、特にそうだ。どうしても気落ちする。 あたしの手は、一生拭えない罪で汚れてる。 赤黒い怨恨に厚く塗り固められた、あたしの手。 闘いの中を運良く潜り抜けて。運が良かった、というだけで、まだ動いている。生きている。 まだ温かい、あたしの手。 畳に転がる、裂かれて血に染まった誰かの手。 もう二度と動くこともない、何かを、誰かを掴むことも無い。 氷のように冷えて転がる、血濡れの手。 役に立たないこの気持ちは、きっと久しぶりに嗅いだこの匂いへの感傷。 斬ることを憂いてみたところで、きっとあたしはまたこの場に立つのだ。 人を斬ることに躊躇を覚えない。 あたしもそういう人間だから。 汗を拭った腕からも、血の匂いが昇り立つ。 久しぶりだったからなのか。 硬く握りすぎていた刀の柄から、指は呪いでもかけられたみたいに離れようとしない。 自分の手を見下ろして。 もう一度、広い座敷を見渡した。 襖の前で話している、数人の隊士の背中が目に入る。 その一人の足元に、手首のあたりで斬り落とされた、誰かの手が転がっていた。 すでに乾いて固まった血で黒く塗られた手。 上向きに空を掴もうとしているような角度で、指が天井に向かって伸びている。 ぼんやりとそれを眺めながら、また役にも立たない感傷に溺れ始める。 あたしが斬ったこのひとたちは、血濡れのこの手で何を掴もうとしたんだろう。
「 深緋の回廊 3 」 text by riliri Caramelization 2008/08/26/ ----------------------------------------------------------------------------------- next