月灯り はにかむ猫

3

ある日、突然だ。 長引く大雨。 誰もが蒸し暑さにうっとおしさと苛立ちを覚えてしまいそうな、ある日の午後。 厄介者の雌猫は、黙って稽古場に足を踏み入れた。 何事かと目を見張る、沖田たち数名の隊士の前にまっすぐ進み出る。 しかも。何を思ったのか、よりによって沖田の前で深く礼をした。 「手合わせを、お願いします」とほざいたのだ。 やれやれ。 薄気味悪い女だとは思っていたが。 この暑さに気でも違ったんですかィ。 そう思いながら、面白がった沖田が竹刀を投げ渡すと。 宙で回った竹刀の柄を、女がぱしりと鳴りの良い音を立て、慣れた手つきで掴み取った。 突然始めた見世物に口笛を鳴らした沖田や、周囲の輩の怪訝な反応などには目も向けない。 手にした竹刀を見下ろし、女は表情の薄い声でつぶやいた。 「拾っていただいた身です。今日までご恩も受けました。 ですが、女の仕事ではお役に立てません。 今の私はこれでしか、皆さんのお役に立てそうにないんです」 手にした竹刀を握りなおす。 今までずっと伏せ続けていた目が、ぎこちなく目の前の沖田へと向けられた。 「沖田隊長。わたしの腕を計っていただけませんか」 顔を上げた女の度量を計るような、冷えた目を沖田が向ける。 「そこまで言うからには、並じゃねえ自信があるってことでしょうねェ」 女は答えなかった。 そのかわりに、あきらかに素人とは違う、流れるような動きで構えをとった。 それを見た沖田の目の色が変わった。 「わかりやした。どうかがっかりさせねェでくださいよ、姉さん」 喉の奥で笑った沖田が、合図も無しに踏み込んだ。 結果は意外なものだった。 真選組随一と謳われる瞬速の剣の使い手から、雌猫は三本中一本を取る好手を見せた。 しかもその一本、有効の手合いを重ねてのものではない。 目にも止まらぬ沖田の攻めを防ぎながら、上段から切り込むとみせて腕をひらりと下ろし、 まるで舞うような美しい身体の運びで間合いに踏み入る。 そこから一気に胴を、鋭く、女とは思えない強さで打ち込んだ。 女相手と油断しきっていた沖田は、一撃をまともに喰らい。 細身で軽い彼の身体は、打たれた反動で後ろへ飛んだ。 文句のつけようのない見事な一本。 目にした誰もが、そして後になってその話を耳にした誰もが言葉を失くした。 その話を沖田本人から聞いた、土方も。 「使えますぜ、あれは」 馬鹿にしていた女から一本取られたというのに、沖田は嬉しそうにすら見えた。 既に局長に一切を話し、一番隊長として女の腕前に太鼓判を押してきたという。 ニヤついたその顔をちらりと眺めただけで、土方は目前の書類に目を戻した。 その素っ気無さがかえって、からかいたさを煽ったらしい。 沖田は彼の隣に座り込み、間近に迫って顔を覗き込んだ。 「ガキの頃から親に教え込まれたそうです。親ったって、義理の親だと言ってましたがね。 何の流派か知らねェが見たことの無え動きをしやがる。しかも隙が無ぇ。女の剣にしちゃ、力も」 「喋ったのか。」 「え?」 「あの女がそれを言ったのか」 思惑の見えない、しかし女のような美しさの沖田の顔が黙り込む。 土方の言葉に含まれた何かに、疑問の色を浮かべながら。 それでも、わざと事も無さげな軽い口調で答えた。 「ええ。他にもいろいろと。江戸の生まれだそうですぜ。 職も住まいも転々としてて、身寄りも少ねぇんだそうです。 年は・・・えーと。幾つって言ってたかねェ。俺よりも」 「てめえは見回りの時間だろ。いつまで座ってやがる。油売ってねえでさっさと行け」 覗き込んでくるやつの頭をガンと一発殴りつけ、土方はやや無理な話の遮りかたをした。 肩を竦め、へいへい、行きゃあいいんでしょう、と憎まれ口を叩いて沖田が立ち上がる。 殴られて筋でも違えたのか、しきりと首をひねりながら部屋を出て行った。 部屋を出て行く沖田の足音を耳で追いながら、土方は煙草に手を伸ばした。 あの雌猫のことを、知りたくなかったのではない。 聞きたくなかったのだ。思惑たっぷりな沖田の口からは。 沖田と雌猫の一手の話は、どよめきとともに屯所中を駆け巡った。 一本だけとはいえ、あの沖田から一撃でもぎ取ったのだ。 誰もが雌猫を見る目を変えるには、それだけで充分だった。 毎日、わずかずつだが女を取り巻く男の数が増えていく。 取り巻かれた女のようすも以前とは違っていて、わずかずつだが受け答えに笑顔を添えるようになった。 はにかんだような、少女っぽさの残るぎこちない笑顔を。 無表情に黙っていても美しい女が、無意識とはいえ男心を揺らすような笑顔を見せるようになった。 その無意識ぶりがまた、男心をくすぐり、揺らしたのかもしれない。 ただでさえ女気に飢えた連中揃いだ。 笑顔見たさの取り巻きの輪が厚みを増すのに、時間はまったくかからなかった。 その輪の中心で、必ずといっていいほど女の隣に並んでいたのは沖田の姿。 見事な一本で跳ね飛ばされて以来、彼は以前までと違って女に興味を抱いていた。 しかしこうして隣にいるのは、それだけが理由でもない。 自分が女の隣にいれば、ある男が内心気を揉むことに感づいていたからだ。 その「ある男」はといえば、そのようすを遠目に眺めるだけだった。 眺める、とまでもいかない程度。ほんのわずかに、その鋭い眼差しを向ける程度。 あれはただ、気まぐれに拾ってみた雌猫。 元気になったあれがどう振舞おうと、どこへ行こうと俺には関係ない。 どうでもいいことだ。 そう自分に嘘ぶいた。 少女のように可憐な笑顔を、目で追うことすら自制するほどに。 だから気づくことはなかったのだ。 拾った雌猫が時々、同じように彼を遠くから目で追っていたことに。 ある日、土方は局長から女の仮入隊の話を打診された。 女自身がそれを望み、沖田を伴って願い出たと云う。 局長もまんざらでは無さそうだ。素朴な好漢である彼もまた、女の笑みに弱かった。 気乗りの無さそうな曖昧な返事をして、彼はその話を保留にした。 是とも否とも口にしなかった。 しかし腹のうちは決まりかけていた。 口にしないで局長室を退いたのは、色々と考えた末の結論だ、という体裁を整えるためだ。 土方の本心は、考えるまでもなく否、だった。 あれは要らない。 隊を実質的に率いる立場の副長として、危ぶみたくなる因子でしかない。 何よりも、まずあれは女だ。 女の身でひとり男の群れに飛び込んだところで、どうなるというのか。 沖田から好手で一本を奪う腕を持つとはいえ、真剣での実戦は道場剣術とはまったく異なるものだ。 命を賭して飛び込む覚悟。いつでも死線を越える覚悟が無ければ、この仕事は務まらない。 戦うことに意義を見出さなければ、戦う覚悟も奮い立たないのだ。どれほど腕が立つとしても。 己の信じる道にすべてを捨てて突き進み、それに命を捧げるということ。 それは彼の思うところの、女という生き物の本質とはまったく逆のことわりだ。 それだけの覚悟を秘めた女など、存在しない。持論からしてそう決め込んだ。 しかも厄介なのは、あの女の微笑みにうつつを抜かす隊士が日毎に増えていること。 今でさえそうなのだ。もしあの女が入隊して行動を共にするとなれば、どうなるか。 当然隊の規律は乱れるだろう。 腑抜けたツラが、うんざりするほど増えそうだ。 結論は、局長室を後にして廊下を歩く間に出た。 副長としての立場から、彼は反対を唱えることに決めた。 局長をはじめ、一同が女の入隊を望んでいるのは目に見える。 それでも手を打つ気はなかった。 反対するためのもっともらしい理由など、策師の彼には他に幾らでも思いつく。 自分の意を通す自信はあった。 あの女を組織に率入れても、何ひとつ良いことなど無い。 拒んで当然の理由だ。 そう決め込んだ。 なのに、心のどこかが揺らいでいた。 土方は、真選組においての実質的な統率者。 大胆な策師であり、緻密な軍略家でもある。 彼の唱えた隙無く強固な反対に、局長をはじめ一人も異論を挟む余地を見出せなかった。 雌猫のこれからの処遇は、彼の一声でふたたび宙に浮いた。 鬼の副長の反対だ。 誰もが仕方のないことだと諦め、陰でこっそり肩を落としていた。 ある一人を除いては。 沖田には、土方の隙を窺わせない反対ぶりがかえって滑稽に見えていた。 表にこそ出さなかったものの、陰で不遜な笑いを浮かべていた。

「 月灯り はにかむ猫 3 」text by riliri Caramelization 2008/07/25/ -----------------------------------------------------------------------------------                               next