月灯り はにかむ猫 4
その夜も、月明かりの蒼く冴えた夜だった。 外回りを終え、土方は遅い時間に帰路についた。 屯所に近づくころには、すでに日付が変わっていた。 その日は出入りや派手な事件こそ無かった。 無かったのだが、なぜか市井の細々とした諍いのつまらない仲裁に明け暮れた。 彼のような、どんな大事の前にも平然と構えているような男でも、こういう日には気が滅入る。 いや、そういう男だからこそ、そのつまらなさにいっそう苛立つのか。 眉を顰めて煙草をふかし、殺伐とした空気を放つ不機嫌そうな彼が、夜の繁華街を闊歩する。 飲み屋帰りに通りを往く人たちは、酔いの回った足をふらつかせながらも彼の周囲を避けがちにしていた。 帰り着いたころにはすでに、局内は静まり返っていた。 礼を向ける見張りの隊士に軽く頷き、門をくぐる。 こんな日はさっさと寝てしまうに限る。 そう思いながら屋内へ入ると、入ってすぐのところで声を掛けられた。 女の声だった。 この時間、女中たちは家に帰っている。 残る女はといえば、当然一人しかいない。彼の拾った雌猫だ。 不機嫌そうに振り向いた彼に、女は怯えた目をしてたじろいだ。 それでも思い切って口を開いた。 「お疲れ様です。あの」 「急ぎの用か」 厳しい声でぴしりと放たれた言葉に、女が身を竦める。 細い声で返した。 「・・・いえ」 「だったら明日にしてくれ。」 言葉も無い女を置き去りにして、土方は縁側に沿った廊下を進んだ。 しばらく進んだところで、背後から足音が近づいてきた。 彼の背後に追いついた気配はあったが、それでも構わずに歩を進めた。 疲れていたし、機嫌も悪い。 何より、この女とは関わり合いになりたくなかった。 この女を目にするたびに、彼の勘が言うのだ。近づいては面倒なことになる、と。 その涼しい面と悠々とした姿に一方的な思いを募らせて、彼に押しつけてくる女は多い。 女を冷たくあしらうことには慣れている。 このまま知らぬふりで、部屋までの間に振り切るつもりだった。 しかし彼は、次の瞬間うっと呻いた。 思わず足が止まった。 目の前に回り込んだ女が、いきなりすとんと板張りの床に正座して。 彼に向かって、深く頭を下げたからだ。 「思い出したんです」 たったそれだけ云われても、返す言葉があるはずもない。 ただ目を見張った。 「副長の。煙草の匂いで、・・・あの。思い出したんです。 背負われて、ここに・・・ここに連れてきていただいた時と。同じ匂いでした」 意外なまでに、たどたどしくてつたない喋り方。 無表情に黙っていたときは、気圧すような気品を放っていたのと同じ女が。 口を開けば、ここまで頼りなげな口調を晒すのか。 肩がぎゅっと竦められている。自分を怖がっている気配も感じられる。 だが、その緊張を差し引いても、見た目と口調の落差は激しい。 一方でなるほど、と合点もいった。日毎に女を取り巻く男が増えていったことに対してだ。 男の単純さというか、こういった女が見せる落差に、ころりとやられる手合いは多い。 「あのときは・・・色々あって、何もわからなくなっていて。 最近になって、お礼も言わなかったことをようやく思い出したんです」 苛々と、土方は横を向いた。 目の前で頭を下げる女。その低い姿勢は、ほとんど土下座に近いもの。 そこまでされるようなことをした覚えはないし、実際にここまで大仰なことをされるのは真っ平だった。 そんな姿を目にしてしまえば、心が勝手に揺れるからだ。 「この前副長が、縁側で、煙草を吸っていらしたときに。 後ろを通ったんです。・・・あの時と、同じ匂いがしました。 それで沖田さんに尋ねて、それで。・・・・あの。わかったんです」 思惑の掴めない、沖田の顔が目に浮かぶ。 愉快そうに目を光らせて、自分を眺めて笑う顔だ。 やりやがったな。 小さく苦く、つぶやいた。 「副長だったんですね。あたしを拾って下さったのは。 あの・・・ほんとうに、ありがとうございました」 床に長い髪を垂らしたまま、女は頭を下げて動かない。 どうにも居心地が悪かった。 隊服の上着から、煙草を取り出す。 「別にたいしたことでも無え。礼なら、あんたを世話してる奴らに言ってやれ」 取りつく隙すら見せない冷えた口調でそう言ってから。 なぜか彼は、ふと尋ねてみたくなった。 「あんた、あの時。どうして」 どうしてあんなところで倒れていたのか。 どうして背負われるままにここへ来たのか。 聞きたいことは、堰を切ったように彼の中に溢れ出た。 しかし途中まで言いかけて、口をつぐんだ。 煙草に火を点け、間の悪さを紛らすように吸い始める。 聞いたところでどうなるものか。 俺はこの女がここへ入り込むことを、拒んだのだ。 「いや。もう礼はいい。あんたも」 早く休め。そう云いかけたのを、女は遮った。 焦ったように流れ出た、緊張に裏返った高い声で。 「あのまま死のうと思っていたんです」 女が頭を上げた。 しかし目を合わせようとはせず、斜に顔を背けてうつむいた。 こんなことを言いながら土方の顔を見るのは、さすがに気が引けた。 それでもたどたどしい口調で、恩人に向けて話し続けた。 「けれど、救われました。救っていただいたから、まだ生きています。 あんまり思いつめすぎて、ずっと忘れていたんです。 生きていれば、こんな綺麗な月も眺められるんですよね。そんなことも忘れてました」 縁側へと顔を向ける女。 差し込む月の光に白々とそまる、屯所の庭を静かな顔で仰いだ。 女は思い出していた。 今でも胸をひんやりと刺すような記憶。 なのに夢のように目まぐるしくて、あやふやな記憶を。 たちまちに思いつめて、自分のすべてを捧げて夢中になって。 夢中になったのと同じ速さで、失望はすべてを褪せた色に変えた。 気づいたときには帰る場所すら失くしていたのだ。 愕然とした。誰かを責める気にすらなれなかった。自分の愚かさを、女は思いつめた。 思いつめたすえに路上で行き倒れた。そして見知らぬ誰かに拾われた。 拾われてここへ来てからも、女はしばらく闇に沈み込んでいた。 しかし次第に我に返った。 それからやっと気づいたのだ。 今自分がどこにいて、どんな人たちに世話になっているのか。 行き倒れた路上から、自分を拾い上げてくれた人は誰なのか。 あのまま死ぬはずだった自分を拾い上げ、連れ帰ってくれた暖かい背中が誰のものなのか。 「考えたんです。一度死んだと思えば、何でも出来るんじゃないかって。それに」 ただ、恩に報いたかった。 押し黙っていたときの近寄りがたく褪めた印象とは不釣合いな、根がひたむきな女だった。 女の仕事は出来ない。他に出来ることもない。 それならば、せめて自分に出来ることで恩に報いたい。 どっちにしろあたしには、もう帰る場所すら無いのだ。 何も失くすものは無いのだ。 もし恩義を返すために死んだとしても、悔やむことはひとつも無いはず。 そう思う自分は愚かなのかもしれない。そんなことも思った。 けれど愚かなくらいにひたむきな女が命を賭けるには、それだけで充分な理由になった。 「死ぬ気で務めれば、救っていただいた恩返しが出来るかもしれない・・・って・・・」 土方は女の話を黙って聞いていた。 煙草の煙と一緒に、溜息が出た。 それが本音だというのなら、この女は間違いなく馬鹿だ。 でなければよほどの世間知らずの箱入りか。 どちらにしても、変わった女なのは間違いない。 何かの事情を抱えているにしても、なぜ自分から死線に立ちたがる。 これだけの器量を持ち合わせながら、なぜその美しさに相応しい幸せを諦める。 馬鹿に決まっている。 しかも女としては最高に馬鹿な部類だ。 綺麗な着物も、その気になればすぐに手に入るはずの愛情も贅沢も、女としての人並みの幸せも放り出し 気まぐれに猫を拾っただけの男に恩義を返す。 たったそれだけの理由で命を投げ出すような仕事に就きたがる女など、馬鹿に決まっている。 間近に見下ろす女の横顔は、縁側からの月明かりにほのかに照らされていた。 近くでみるのは二度目だった。連れて帰ったとき以来。 目を惹く容貌の美しさは、泥と埃にまみれていたときと変わらない。 けれどあの夜の、美しいけれど空虚な面影とは別人のような、澄み切った目をしている。 横目に女を眺めながら、土方は諦めの境地に立っていた。 呆れた、といったほうが正しいのかもしれない。 しかし一方で納得しかけていることもあった。 男にはどうにも解りづらい、どうにも理解が及ばない思いの成り立ちの中で。 この女にはこの女のことわりにかなった、死すら厭わない覚悟があるらしい。 どういった成り立ちで、この女がそこまでの覚悟を決めたのか。 訊いたところで、おそらく無駄だ。 女の理屈だ。男の俺には一生わかるまい。 そう思うしかないのだろう。 いつのまにかそう納得しかけてしまうくらいに、横にいる女の目はすっきりと澄んでいた。 呆れた女には違いない。 しかしこの女にはこの女なりの、俺の理解が及ばない恩義の返しかたがあるらしい。 思えば俺が拾ったのは、月明かりの下に落ちていた猫だった。 猫には猫の、ひとの理解が及ばない恩義の返しかたがあるのだろう。 そう思えばたいして複雑なことでも無いような気がした。 「・・・すいません。ご迷惑ですよね。勝手なことをしました」 女は軽く頭を下げた。 「明日出て行きます。ほんとうにお世話になりました」 顔にこそ出さなかった。だが内心土方は、その言葉に驚いていた。 彼には初耳だった。しかし、彼以外にはとっくに知れ渡っていた話だ。 彼女を寄せ付けようともしない土方に、皆が遠慮して伝えようとしなかったのだ。 「あてはあるのか」 「え?」 「行くあてだ。あるのか」 女は何も答えなかった。 ただ、頼りない顔で微笑んだ。 「・・・お前。いつからここにいた」 「え?」 「ずっとここにいたのか」 「いえ。・・・あの、庭で稽古をしてましたから」 「この遅くまでか」 「いいえ、ずっとじゃないんです。稽古は三時間くらいしか」 くらいしか、と謙遜するには相応しくない時間だ。 煙草の煙を深く吸い込みながら、土方は思案に耽り出した。 「あの。そこに座ってたんです」 ぽつりと女がつぶやく。 縁側のあたりを指差した。 「月を。月を見ていました」 恥ずかしそうに言って、ふっと慌てた顔になる。 「すみません。どうでもいいことを言いました」 「いや。いい」 くわえた煙草の灰が床にこぼれ落ちる。 女がそれをどうするべきかと伺うような困った顔をして、彼を見上げた。 それでも動かず、土方は黙って女を見下ろした。 ひとこと礼を言うためだけに、こんな時間まで。 縁側にひっそり座って自分の帰りを待っていたのか。 浮かぶ月を、何を思って眺めていたのだろう。この女の、澄んだ瞳は。 彼は縁側に腰掛けて月を見上げる、ほっそりした女の姿に思いを馳せた。 それはしばらく忘れていた温もりを呼び起こし、面倒な感情を揺り起こしそうだった。 呆れとはまったく別の、舌打ちしたくなるようなくすぐったさを伴う感情を。 「あんた、名前は。」 素っ気無い態度の恩人に名前を問われたことに驚いて、 女は不思議そうな顔をした。 「・・・です。といいます」 。 女の名を低くつぶやく。 つぶやきは声にはならずに、彼の胸へとゆるやかに染みた。 「恩か。」 「え?」 「返してもらうとするか」 「はい・・・?」 「。明日から朝稽古に加われ。起床は五時、もし遅れたら一週間朝飯抜きだ」 「・・・・あの・・・・」 大きな目が、さらに大きく見開かれ。 女は呆然と土方を見つめた。その言葉が信じられなかったのだ。 「返事」 「え」 「返事しろ返事!返事ひとつ出来ねえヤツはウチには要らねェんだ!」 降ってきた叱咤にもすぐには反応出来ないくらい、女は驚いていた。 途中ではっと我に返って、ビクッと肩が揺れた。 「・・・・・は・・・・はいっ、副長!」 遅れたもののはっきりと返事を返す。 それに軽く頷いた土方が、縁側に向かって歩き出した。 「、茶ァ淹れろ」 「え。」 「返事はどうした。それともてめェ、お茶のひとつも淹れられねえのか?」 「はっ、はい!今、今すぐ。今すぐお部屋にお持ちしま」 「いい。そこに持って来い」 力が抜けてしまったかのように座り込んだままの女を振り返り、目で縁側を指す。 この時間に、男の部屋に入る意味を知らないと見える。 どこの姫ィさんかと訊いてきた、沖田の言葉を思い出した。 着物の裾を乱しながら慌てて台所に向かう後姿を、土方は苦笑混じりに見送った。 それから縁側に腰を下ろして、隊服の襟元を緩める。 二本目の煙草に火を点け、女を待った。 縁側に差し込む月明かりは、あたりを見透かすように冴えている。 身体の疲れは変わらない。 こうしていると、蒼くすき透る冴えた光に身体を貫かれるような思いがする。 けれどここに一人座って待っていた女の思いが、彼の苛立ちを和らげた。 女の呆れるほどのひたむきさが、自分の偏見をじんわりと溶かしたのかもしれない。 ぼんやりと、土方は鬼の副長らしくもないことを思った。 それ以上深く考えることを止めて、彼は夜空を見上げた。 円く満ちた月は目に眩しく、見つめるほどに懐かしい。 浮かぶ月を、こうしてただ眺めること自体、久しく無かったと気づく。 ふと故郷の、重く覆いかぶさってくるような闇空を思い出した。 女が茶を運んできた。 一口飲んで、土方は口を歪めて咳き込んだ。 女が淹れてきた茶は、正直なところ美味いとは言い難い。 いや、控えめに言っても「不味い」と言い切らざるを得ない味。 噴き出すのをこらえるのがやっとだった。 まるで漢方薬でも飲んでいる気分になる。何か劇物でも混ぜなかったかと問いたくなる。 どうやったらここまで不味く出来るのか。 それとも俺を殺す気か、と茶碗を叩き返したくなる。そんな味だ。 茶が淹れ方次第でここまで不味いものになるのかと、土方はげんなりした。 しかし、それでもひとことも文句を漏らさなかった。 表情こそかなり強張ったものの、黙ってそれを飲み干した。 不味いものを不味いともいわず、土方がそれを飲み干した理由。 理由は隣で彼を眺めている女にある。 そんな表情をされては、飲み干すより他になかったのだ。 月明かりの蒼く冴えた夜。 縁側に座って苦い顔をしている男と、その隣に座る女。 隣で月明かりに照らされている女は、幼さの残るはにかんだ微笑みを浮かべ。 茶を飲み終わった男がそこを離れるまでずっと、嬉しそうに彼を眺めていた。
「 月灯り はにかむ猫 」end text by riliri Caramelization 2008/07/25/ ----------------------------------------------------------------------------------- こんなかんじで 時々主人公と土方さんの過去を混ぜつつ進みます 次は現在 銀さん登場。 next