久々に足を向けたその街では、相も変わらず暗闇に人の波が蠢いていた。
蜜を求めて彷徨する蜂たちが、夜にだけ咲く花々の甘い香を嗅ぎつけ群がってきたかのようだ。 赤い廓の格子戸越しに振り撒かれる女たちの色香に惹きつけられた男たちが、ふらりふらりと宵闇を行き交う遊興街。 上京して間もない頃に短い間だが世話になり、そこで出来た顔見知りたちがこの街を離れ、彼がここを訪れることがなくなってから、もう数年になるだろうか。 色鮮やかな羽織や化粧であでやかに装った女郎たちが格子窓沿いにひしめき彩る、廓街の目抜き通り。 道の両側にずらりと並ぶどの店からも流れ出てくるのは、道行く客に上目遣いで微笑を送る女たちの白粉の匂い。 この街へやって来た男たちを惑わせ、常夜の闇へと引きずり込むための媚薬のように作用している甘い匂いだ。
――変わらねぇな、と土方は胸の内でつぶやく。
表面上はまばゆく華やぎ賑わっているが、彼の目に映るこの街の夜は底無しに暗い。 そこかしこから漂ってくる湿気混じりの胡散臭さも、ちっとも変わりやがらねえ。
今となっては懐かしく感じる夜気の匂いに記憶の糸を引き解かれながら、目指す店へと足早に進んだ。すると背後から肩を叩かれ、振り返る。 そこにはやけに愛想のいい笑みを浮かべた小男がいた。

「御見かけしない顔ですねぇ旦那。どうです、うちはいい子が揃ってますぜ」
「他を当たってくれ。俺ぁ贔屓が決まってんだ」
「おや、こりゃあ失礼を。ご贔屓さんに飽きたら是非、うちにも寄ってやってくださいよ」

彼と並んで数歩歩いた客引きは、店の名が入った燐寸を渡して去って行った。赤や黄色の原色で花や蝶が描かれた、花札風の派手な箱だ。 それを火種に煙草に火を灯しながら歩くうちに、今のこの街の全貌が視界に飛び込んでくる。 春を売る女たちとの、一夜の夢を買いに訪れた男たち。彼等を誘う廓の客引き。たまに裏通りから顔を出す、一目でならず者と判る風貌をした女衒たち。 けばけばしい色合いの建物が並ぶ通りを過ぎゆく人々の姿はそう変わらないが、通りの端から端までを彩るあれは、彼が知るこの街の夜にはなかったものだ。 廓の軒下に沿って数珠繋ぎにずらりと並び、通りの宵闇をほわりと彩る赤い提灯。 どれも雪洞のようにふっくらと丸く、沈み切る寸前の太陽が放つような暖色の光を宿している。
郷里で目にした灯籠流しの燈火にも似たその色を横目に見つつ進んでいけば、目当ての店にはすぐに着いた。

『水籠』
眩しげに眼を細めて仰いだ、七階まである楼閣の大看板。そこに綴られた店の名も、昔と変わっていなかった。
鮮やかな青で塗り上げられたこの建物は、昔も今もこの街で最も大きな遊郭だ。 何年か前に楼主が変わり、その商売ぶりも様変わりしたと昔馴染みから聞いているが、店構えそのものは土方が知る頃と同じだった。 淡桃色に白で染め抜かれた名入りの暖簾を腕で押し上げ、その影から隙の無い目を走らせる。 視線を一通り巡らせたところで、玄関脇の格子戸越しに彼の整った容貌に見惚れていた十人ほどの女たちと目が合った。 涼しげに切れ上がった男の目と女たちの熱い視線がかち合えば、白粉で肌を飾った女の群れからきゃきゃあとはしゃいだ声が上がる。 その声に呼ばれたかのように他の女が駆けつけ、さらにまた別の女が駆けつけてきたが、口端に咥えた煙草から紫煙を靡かせ、派手な錦絵が描かれた三和土を踏み奥へと進んだ。 表向きは女を買いに来た客の一人を装っているが、今日の目的は他にある。艶めいた声や熱い視線にはちらりと一瞥を送るだけで、着飾った女達の容姿を値踏みすることなくさっさとそこを素通りする。 目に刺さりそうな赤や青の内装で飾り立てられた玄関口で、無造作に下駄を転がし脱いだ。

「いらっしゃいませ。お客様、初めてお越しの方ですね」

廓の客らしくもない男の態度にくすくすと笑みをこぼしつつ、奥の帳場から黒装束の女が出てきた。
三十路も半ばと思しき女将は、土方にとっては昔この店で知り合った古い馴染みの一人だ。 あらかじめ打ち合わせていた通りに初めて訪れた客の体で言葉を交わしていると、「履物をお預かりします」と下足番が声を掛けてきた。
足元で跪いた作務衣姿の小柄な男は、長めに伸ばした前髪のせいで表情が見えない。
ああ、と彼は頷き、その前をわざとゆったりした足取りで通り過ぎる。 通りざまに、近くに立つ番頭らしき男に聴かれないよう低く潜めた声で尋ねた。

「――奴等の動きは」
「どうも急ぎ働きを企てているようです。実行は来週あたりかと」
「・・・今夜、吉村と繋ぎをつけろ。二時に裏通りの蕎麦屋だ」

承知、とつぶやく下足番の声を聞き届けると、足を速めて廊下を進んだ。
そこで足を止め待っていた女将に、回廊状になった店内の中央に設えられた大階段へと案内される。 「お部屋は五階でございます」としっとりした笑みで告げられ、ぎしぎしと軋む古い階段へ黒装束の背中を追って踏み出す。 回廊沿いにぐるりと並ぶ数十の座敷や、そこで芸者遊びに耽る男たちの浮かれた様子を眺めながら、赤い毛氈が敷かれた階段をゆっくりと上がった。


「・・・面倒なことになっちまって済まねえな、紫のぶ姐さん」

三階の踊り場に差し掛かり、周囲に人目がないことを確かめると、前を歩く黒装束の背中に声を掛ける。
女将は足を止めて振り返った。懐かしげな表情で微笑むと、土方の隣を歩き出す。

「そんなこといいんだよ、気にしないでちょうだい」
「うちの奴が世話ぁ掛けてねえか」
「あの人ならよく働いてくれてるよ。あの連中にも、しっかり目を光らせてくれてるみたいだしね。 いざという時にすぐ警察が駆けつけてくれるなら心強いし、楼主も店の子たちも、あのお客たちには困り果ててたからね。こっちは逆に有難いくらいよ。・・・それより兄さん、」

あの頃よりも丸みを帯びた、気立ての良さそうな女の顔が彼を見つめる。 母親が子供に向けるような温かなまなざしをにっこりと細め、嬉しそうに何度か頷く。 土方は怪訝そうに眉を潜め、どこか不味いところでもあっただろうかと自分の姿を見下ろした。
身元を偽る必要があるため、今夜の彼は普段とは違う出で立ちだ。 身支度の際に現れた奴があれこれと悪ノリを施したせいもあり、どうも落ち着かない格好だった。 普段は目元を隠している漆黒の髪は、軽く上げて額を出している。着物は隊士の誰かの箪笥から引っ張り出された、えらく上等な織物の着流しと羽織。 花街に慣れた遊び人風を演出するための小道具として扇子や煙管まで持たされたが、そこまでやると却って襤褸が出そうな気がして羽織の袂に仕舞ったままだ。
『この柄の帯とこういう羽織の組み合わせが大店の若旦那たちの流行なの。これなら岡場所でも浮かないわよ』
などとそいつは太鼓判を押していたが、・・・武田の野郎。単に面白がってただけじゃねえのか。
人を着せ替え人形扱いしていた奴の爛々と輝く目つきとはしゃいだ様子を思い出し、うんざりしきった溜め息を吐く。 その表情を横から眺めていた女将は、ぽん、と労うような優しい手つきで彼の肩を叩いた。

「夢ちゃんから聞いちゃいたけど、見違えたよ。本当に立派になって・・・たいしたもんだねぇ」
「・・・・・・」

軽く目を見張った彼は、やや置いてから苦笑する。
元はここの女郎だった紫のぶは、年季明けの下働きから店の女将にまで昇り詰めた苦労人だ。 あんたほどには立派じゃねえよ、と照れ隠しにはぐらかしたくなったが、そんな言葉は無用だろうと思い直して肩を竦めた。

「立派ねぇ・・・どこがそう見えるんだか知らねえが、中身はここで雇われてた頃と変わりゃしねえぞ」
「ふふ。そういやぁ、いくら立派になっても愛想の無さはちっとも変わらないって、手鞠ちゃんは言ってたね」
「フン、あのガキ。いつまで経っても口が減らねぇな」

今度会ったらシメてやる、と羽織の中で腕組みしながら眉を吊り上げぼそりと漏らす。
横に並んで歩く女将は「そういうところも変わらないんだねぇ」と口許を隠しておかしそうに笑っていた。




 不 可 視 の 極 彩 色




「――お客さん、ここは初めてなんですってね」


開放された障子戸の向こうに見える大座敷で騒ぐ男たちを目で追っていた彼は、視線をそちらへ残しつつ背後へ振り向く。
話しかけてきたのは、土方をこの部屋に通した女将に代わって現れた芸妓だ。 商売慣れした仕草は粋で艶やかで、部屋の外ばかりを眺めている彼の不躾さを咎めるようなこともない。 捜査の邪魔にならない女を、というこちらの注文通りの芸妓を紫のぶは人選してくれたらしい。 客の身元を詮索するようなこともなく、黙って酒を啜るだけの男の態度に気を悪くした様子もなかった。 ねえ、と横から袖を引いてくる彼女とあらためて顔を合わせてみれば、目元から頬にかけて濃い目に差した紅の色が印象的だ。


「ここへ遊びに来られたのは、気晴らしか何か?」
「まあ、そんなところだ」
「さっきから似たような返事ばかりなさるのね。でも口が固い人って、あたし好きよ」

斜め下から覗き込んできた芸妓の顔に、美しいがどこか食えない笑みが浮かぶ。
女は腕に抱いた小ぶりな三弦を爪弾いている。 宵闇に溶けていく掠れた音色は物憂げな調べをゆったりと奏で、廓のあちこちから流れてくる賑やかな声と混ざり合って花街らしい風情を高めていた。 芸妓はふと三弦を弾く手を止め、彼の盃に酒を注ぐ。注ぎ終えるとまた撥を手に取り、細い手をしなやかに動かし弦を弾く。 かと思えば、急に思い出したかのように彼に声を掛けてきた。

「この街も初めてなんでしょう。座敷遊びなんてしたことがないから、場馴れした子を見繕って寄越せって仰ったんですってね」
「耳が早えぇな。どこから聞いた」
「一階の帳場はお兄さんの噂で持ちきりですよ。見慣れない色男が来た、あの人には誰が付くのかしら、あんないい男の相手が出来るなんて羨ましい、ってね」

女は扱くようにして爪先を滑らせていた三の糸から指を離す。握った撥は畳へと置いた。

「ねえ、お兄さん。他の子たちもここに呼んでいいかしら」
「そいつは勘弁してくれ。囲まれて飲むのは趣味じゃねえんだ」
「あら、残念。賑やかなお酒はお嫌いなのね」

ああ、と土方は短く答える。
すると女の表情はどことなく妖しい雰囲気へと変わり、深紅に彩られた唇の端を上げて嫣然と笑う。三弦は胸に抱いたまま、彼の肩へとしなだれかかって、

「それじゃあ・・・どうかしら。この近くに静かで眺めのいい茶屋があるんです。ねえ、よかったらご案内してさしあげましょうか」

この街で茶屋と言えば、団子や茶を売る店を指すのではない。料亭での座敷遊びを終えた客たちが、娼妓を連れ込む色茶屋だ。 柔らかな女の身を擦りつけられても黙って酒を啜っていると、今度はそうするのが当然であるかのような仕草で、芸妓は彼の腕を抱いて凭れかかってきた。 女の体温が近くなると、裾引きの着物のしなやかな衣擦れの音や、たっぷりと焚きしめられた香の匂いまで彼に纏わりついてくる。 こっちの着物にまで移り香が残りそうな、きつい匂いだ。思わず顔を歪めそうになったが、くい、と女に袖を引かれて、

「返事してくれないのね。あたしみたいな白粉くさい女はお嫌い?」

ぽってりと厚く紅を引いた唇に、蠱惑的に微笑まれた。 その笑みを目にした瞬間に、他の女の膨れっ面がふわりと脳裏に浮かんでくる。 感情が顔に出やすい彼女が、拗ねたときによく見せる顔。頬をぷうっと膨らませた、子供っぽくて可愛らしい顔だ。 猫の眼のように吊り上った大きな瞳にきつく睨まれたような気分になり、土方は反射的に身を引きそうになった。 しかし彼は思い留まり、自分の膝にそれとなく置かれていた女の手を取る。表情も変えずにその手を撫でれば、女は彼がその気になったと思ったのか間近まで顔を寄せてきた。 ここで女の機嫌を損ねれば、捜査対象の情報は掴みにくくなるだろう。閨まで付き合うつもりはねえが、この姐さんが知る限りのこたぁ吐いてもらうか。 そう考えた土方は、まんざらでもなさそうなふりを装い問いかけた。

「別に嫌っちゃいねえが。いいのか」
「何がです?」
「この店の女は、芸は売っても身は売らねぇ。さっき女将からそう訊いたが」
「ええ、この店の子たちはね。あたしは余所から借り出されて来てますから。お客さんみたいに芸者遊びが肌に合わない方のお相手も・・・ね」
「フン、そういうもんか」

薄い笑みを作って返せば、女は彼に腕を絡めてぴったりと寄り添う。今度は楽器も脇へ置き、お銚子を手に酒を勧めてくる。 ゆっくりと注がれた透明な液体が、白磁の盃をなみなみと満たしていく。 舌にぴりりと辛いそれを口に含めば、芳醇な甘さとともに熱が喉まで染み通っていった。
軽く口を付けた杯の縁に向いた視線を、それとなく外の景色へと流していく。 視線の先にあるのは、回廊の吹き抜けを挟んで真向かいに見える大きな座敷だ。 赤い格子が嵌められた窓越しに、中の様子が見渡せる。 この店の芸妓だろう引き着姿の女は三人、客の男たちは七人ほどか。彼は何気なさを装いつつ口を開いた。

「しかし大したもんだな。廓街ってのはどこも廃れてきてるって聞いたが、ここはえらく繁盛してるじゃねえか」
「ええ、吉原の廓がほとんど廃業しちまったせいで、お客さんがこっちへ流れてきたから。おかげで賑わってますけどね、ご新規さんの中には嫌な奴もいるんですよ」

へえ、と意外そうに反応してみせると、女は客が自分の商売に興味を持っていると思ったらしい。 女の盃に酒をたっぷりと注ぎ返してやり、 「俺ぁ商売が忙しくて普段はあまり暇がねえ、おかげでどうも世事に疎くてな。ここの仕来たりや客の様子が珍しいんだ」と、土方は嘘の中にも事実を織り交ぜながら控えめに語った。 すべてが出まかせな素性を語るよりは、嘘の中にも多少の真実を混ぜ込んだ身の上話のほうがそれらしく聞こえるというものだ。 間に沈黙を挟みながらも、幾つか質問を続けてみる。すると女の態度は、注いでやった酒を口に運ぶごとに和らいできた。 最初は媚びた色香ばかりが強かった口調は、次第に気安い馴染みの客に向けているかのようにおっとりした柔らかさに砕けていった。

「――ほんと、お客さんみたいに物分りのいい人ばかりならあたしたちも毎日楽しくお座敷を務められるのにねぇ。最近は無粋なお客が多くて・・・」
「そうか、芸妓ってのも大変なもんだな。無粋な客ってえのはどんな奴だ」
「大きな声じゃ言えないけれど、国の転覆を企んでる浪士の一派らしいの。幕府がどうとか政治がどうとかお酒を飲んでは喚いてるけど、 女にはやたらと威張り散らしたがる野良侍ばかりよ。あたしはたまにしか呼ばれないけど、運悪くご贔屓されちまった子たちはいつもうんざりしてるの」
「そいつら、ここにはよく来るのか」
「ええ、今日も来てますよ。――ほら、そこの窓から見えるでしょう?」

あそこです、と指されたのは、さっきから見張っていた例の座敷だ。 真っ赤な格子越しに見える景色を、物珍しそうな態度を装って眺める。 何気ない視線を送るふりで一人一人の人相を記憶に焼き付けていくうちに、ある女にふと目が留まった。 金屏風の前では、三弦が奏でる小唄に合わせて二人の芸妓が踊っている。彼の視線を射止めたのはそのうちの一人なのだが、


「――何だ、あれぁ。なっちゃいねえな。あれが舞妓か・・・?」

・・・・・・確かに身なりは舞妓だが、あれを舞妓と呼んでいいもんなのか。
訝しげに目元を細めた彼の顔に、呆れ気味な失笑が浮かぶ。
金屏風の前でフラフラと、舞っているというよりはたたらを踏んでいるといったほうが合っているような、遠目にも下手な踊りを披露している若い女だ。 薄桃色の引き着の裾を左右に持ち上げ、中の襦袢もすっかり肌蹴て膝から下がまる見えだった。どうやら踊りだけではなく、身繕いも下手な芸妓らしい。

「あの踊りで客を取ろうってのか。よくも座敷に立てたもんだな」

呆れきった土方が盃を口に運びながら皮肉ると、女は隣で困ったような笑いを浮かべていた。 彼の感想には同意したいが、同じ店で客を取る仲間のことをあまり悪く言う気にもなれないのだろう。 土方はしばらく下手な踊りを眺め、客の男たちの容貌を確認しようと部屋の奥へと視線を向ける。 ――しかし、その視線が徐々に男たちから逸れていき――浪士たちの様子を観察するつもりが、気付けば自然とあの女のほうへ視線を戻してしまっていた。 畳に引きずる長い裾を今にも踏んですっ転びそうな女に、いつしか彼の目は釘付けになった。他人事とはいえ、なんとなく目が離せなかったのだ。 いかにも座敷慣れしていなさそうな素人じみた動きや足元の危なっかしさが、なぜか気になってつい見てしまう。
下手な舞を終えた女が金屏風の前からよろよろと下がると、男たちの中の一人が膳の前から立ち上がる。 男は何か話しかけながらふらつく舞妓の腰を抱き、格子戸に寄りかからせるようにして彼女を窓辺に座らせた。 自分もその隣へ腰を下ろすと、衿元が大きく開いた肩を抱いて自分のほうへと引き寄せる。 男が腰や太腿へ手を這わせても、だらりと肌蹴た襦袢の上から胸を撫で始めても、舞妓はとろんと目を閉じ、ぐったりと身を預けてされるままになっていた。 その顔がやけに赤い。芸妓のくせに酒に弱いのか、酔って腰が砕けているらしいが――



「・・・・・・ん?」


格子戸越しに見える芸妓の横顔に鋭い視線をじっと注ぎ、彼は表情を強張らせた。
あまりの驚愕に手から一気に力が抜け、盃の中身をばちゃばちゃと朱塗りの膳へぶちまける。まさか、と一言、放心しきった声を絞り出した。 信じられないものを発見した驚きのせいで身体が硬直、さぁーっと血の気が引いていく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや、まさか。ありえねぇ。そんな訳があるか。俺の見間違いに決まっている。
いやだが、俺があいつを見間違えるとは――


「・・・いや、いやいやいやいや!〜〜っっ、んな訳があるか!あいつがここにいる訳が――」
「?どうしたんです、お客さん」

激しく狭まった眉間を押さえて焦りまくった口調の独り言をブツブツと口走れば、女が羽織の袖に触れてきた。 どうしたんです、とまた不思議そうに尋ねられ、土方は向かいの座敷を指す。

「おい、あれが奴等の贔屓の芸妓か!?」
「ええ。一人手癖の悪い人がいて、着物の中まで手を入れてくるから困るって・・・・・・あら、違うわ。背格好は似てるけど、誰かしら。 あんな子この店にいたかしらねぇ・・・?」

ここにはよく出入りしているらしい芸妓にも、あの顔に覚えはないらしい。 それもそのはずだ、と彼は怒りと悔しさに歯噛みしながら向かいの座敷の二人を睨む。
そう、あれは別に舞妓でもなければ女郎でもない。普段は花街に出入りするようなこともない、ただの素人娘なのだ。 舞妓の腰あたりを撫で回している男を睨みつけているうちに、ただでさえ眼光鋭い双眸がうっすらと血走り、元から開き気味な瞳孔はかあっと大きく見開かれていった。 急激な客の変貌ぶりを心配した芸妓が「何かあったんですか」と尋ねてきたが、そんな声もまったく耳に入らない。 がばっ、といきなり立ち上がり、お銚子や酒肴を載せた膳を派手な音を立てひっくり返す。驚いた芸妓は彼を見上げて、

「お客さん?どうしたんで――」
「〜〜っっっの馬鹿女ああぁ!何がどうしてんな店に・・・!」
「ひいぃぃっっっ!?」

ばきいいぃっ。
部屋の外まで轟く怒鳴り声とともに、そう薄くはない盃がいとも容易く握り潰される。 傍の芸妓は悲鳴を上げて怯えていたが、土方がすぐさま部屋を飛び出そうとすると、さすがに彼女も黙ってはいられないと思ったらしい。 狼狽えながらも「ちょっと!」と叫び、彼の羽織にがしっと縋って、

「な、何なの急に。どうしたっていうんですお客さん!?」
「悪いな姐さん、気が変わった。今日の相手はあの舞妓に決めた」
「ええっ!?そっ、そんな、待ってくださいよ、ねえ冗談でしょ、ちょっと・・・!」

縋りついてくる芸妓を振り切り、土方は等間隔に並ぶ赤い提灯に照らされた広い回廊に飛び出した。
どどどどど、と床を鳴らして疾走した勢いのままに、入口の襖戸を蹴り倒す。 戸口を破って乱入してきた見知らぬ男に、ただでさえ血の気が多い浪士たちは血相を変えた。 「誰だお前は」と威嚇され、今にも抜刀しそうな七人に周囲をぐるりと囲まれる。 しかし巷では「鬼」などと呼ばれ、江戸中の浪士たちを震え上がらせているこの男が、数人程度の浪士を前にたじろぐようなことはない。 無言で放った凄まじい眼力と背後にごうっと燃え上がる怒りの気配で、男達をじわじわと圧倒しながら迫っていく。 最初に飛びかかってきた奴は、酔っ払い舞妓を抱き寄せていたあの男だ。 この野郎、と舌打ちしていっそう表情を険しくした土方は、振り向きざまに腹に鋭い蹴りを喰らわせた。 そいつの口から血反吐が出るほどの一撃で男の身体は床の間へと飛び、掛け軸で飾られた壁に叩きつけられ落下する。 その直後に襲いかかってきた奴にも蹴りを喰らわせ、その身体をぶんっと振り回して盾にしながら他の奴等を殴り飛ばす。 それでもめげずに斬りかかってくる奴があれば倒した奴の刀を鞘ごと奪い、一人残らず薙ぎ倒した。 こうして彼が僅か一分ほどで七人を討ち倒してしまった頃に、階下にいるはずの下足番の男が大慌てで駆け込んできた。

「副長ぉぉぉぉ!ちょっっっ、何やってんすかあんたあぁぁぁ!」

客に大声で食ってかかった下足番に、こめかみに青筋が浮いた仏頂面が振り返る。 「うるせえ!」の罵声一つで顔面を掴まれ、ぶんっと投げ飛ばされた下足番――この店で潜入捜査中の山崎は、金屏風に頭から突っ込み悶絶した。 次に土方は、赤い格子戸が広がるこの部屋の窓辺まで突進する。そこでぐったりと寄りかかっていた例の酔っ払い舞妓を抱き上げると、

「おい、!起きろ酔っ払い!何だこの格好は、どういうこった。どうやってここに潜り込みやがった!?」
「〜〜〜んぅぅ〜〜・・・・・・・・?」

赤らんだ頬をぺちぺち叩くも、くうくうと寝息を立てていた舞妓は「うにゅぅぅ・・・もうお酒はいいれすぅ、飲めないれすぅ〜〜」などと、舌足らずな寝言を繰り返すだけ。 そんな女を今にも怒鳴りつけそうな顔で睨んでいた土方だったが、じきに長い溜め息を吐く。 羽織の胸元に収まって顔を擦りつけてくる女の身体を、ひょい、と肩上に担ぎ上げた。浪士たちの相手をしていた芸妓二人に振り返り、
「済まねぇ。騒がせたな」
疲れきったような苦い顔でそれだけ言うと、気絶している下足番の首根も掴んでずるずると引きずり連れていく。 急に現れた男の強さにぽかんとしていた芸妓たちの視線を一身に浴びながら、さっさとその場を後にした。











「・・・らあぁ〜〜からぁ〜〜、さっきも言ったらないれすかぁぁ〜〜〜!」

子供のようにじたばたと地団駄を踏みつつ、酒の入ったグラスを振り上げた酔っ払い舞妓が言い放つ。
土方が彼女を例の座敷から奪還してから、一時間ほど経っただろうか。 こっそり案内された部屋は、最上階の七階にある数十畳の大広間だ。 行燈ひとつがぽつりと灯る暗い部屋は、かつてはこの街きっての名太夫として君臨していた女の座敷兼私室として使われていた。 ずらりと並ぶ襖戸には、薄紅色の花弁降りしきる春景色。碁盤の目状に梁が走る天井には、今にもはらはらと舞い落ちてきそうな枝垂れ桜。 やけに大きな屏風には、暗闇で爛漫に咲き誇る山桜の巨木。 部屋中の装飾の意匠が咲き乱れる桜の花で統一され、江戸で有数の廓街を背負って立つ太夫に相応しい華やかさだ。 今は特別な贔屓筋の宴の場としてたまに開放されるだけで、土方が出入りしていた頃とは趣が少し変わっているが。

「お客さんとお酒を飲むらけの楽しぃアルバイトしませんかってぇ〜〜、すかうとされたんれすよ〜、すかうと〜〜。 バイトの帰り道でひじかたさんを見つけて〜〜、あんな恰好でどこ行くのかなぁって追いかけてきたらぁ〜、 ここのお店のひとにぃ、すかうとされたんれすってばぁぁ〜〜。どーして信じれくれらいのぉぉ」

へらへらと幸せそうに笑いながら、彼女はグラスに口を付ける。 それから真上にある男の顔を見上げて「ばーかばーか」と笑顔で罵り、すらりとした太腿を惜しげもなく晒したまま、一気にくいーっと酒を呑み干す。 それを目にした土方が咥え煙草の口端をいまいましげに下げ、肌蹴た襦袢で彼女の脚を覆い隠す。すると彼女は面白がって、ばたばたと足を暴れさせるのだ。 土方に言わせれば「警戒心がなさすぎて腹が立つほど」無防備な彼女ではあるのだが、武家出身の義父から古い時代の教育を受けてきたせいもあり、普段の仕草や立ち居振る舞いは良家の子女風で慎み深い。 しかし酒が入れば話は別で、べろんべろんに酔った今は年頃の娘としての箍まで外れてしまっているようだ。 室内には他の奴の目もあるというのに、暑ーい、などと漏らして着物の衿元を浮かせてぱたぱたと扇いだりもする。 そんな酔っ払いのいつにない大胆さのおかげで、最初から良いとは言えなかった土方の機嫌は悪化の一途を辿っていた。 彼女のグラスが空になるたび、顔中を強張らせた男の手が煙草の箱をわしっと掴む。 感情をあまり表に出さない土方だが、機嫌の悪さは喫煙本数の多さに解りやすく直結している。 灰皿にぎゅうぎゅうと押し潰された吸い殻の数は、早くも十本を超えようとしていた。

「いい加減にしろ馬鹿女。誰がてめーの言い分なんざ信じるかってんだ、呂律も回らねえ酔っ払いの話を!」
「呂律は回ってませんけど、全部本当の話らしいですよ副長」

もう裏は取れてます、と傍に控えた山崎がぼそりと言う。
あらゆる潜入捜査を務め上げてきたこの監察も、予想外の揉め事にさすがにげんなりしているようだ。 口調はどこか投げやりだし、目つきがすっかり死んでいる。

「ここの番頭の話によると、副長がここへ着いた直後に入口前でうろうろしていた女の子がいたそうなんです。 その子が中へ入りたいって言うんで内緒で引き入れて衣装を着せて、人手不足を補うために勝手に座敷に出したとかで」

まさかそんなことになっているとは、楼主も女将も思いもよらなかったらしい。 幸いにこの店の現在の楼主は、警察に対して協力的な人物だ。 破壊された襖戸や屏風などを弁償するのであれば、乱闘騒ぎを起こした土方を咎めるつもりはないと言う。 のことも独断で素人娘を引き込んだ番頭の不始末と判断、番頭は二度とこのような事がないよう厳しく言い渡されたらしい。 楼主と直接話をした山崎の弁によると、この分なら警察への捜査協力が打ち切られることもなさそうだ。 その楼主はといえば、今は女将と二人揃って浪士たちを宥めるために奮闘しており、 「あの男はどこのどいつだ、まだここにいるのではないか」と激昂している七人に、酒と芸妓を店の奢りで大判振舞いしている最中だそうだが。
はぁ、と土方が苦々しい溜め息をつきうなだれる。前髪を上げた額へと手を伸ばし、ぐしゃぐしゃと苛立たしげに掻き乱し始めた。 まったく、とんだ失態だ。何か弁解しようという気も起こらない。 いくら頭に血が昇っていたとはいえ、山崎の潜入捜査でただでさえ面倒を掛けている紫のぶに対し、掛ける必要のない面倒を掛けてしまった事実は何を言おうと変わらない。
――自分でしでかした事とはいえ馬鹿げている。何をやってんだ、俺は。
これで捜査はやりづらくなる。狙いをつけていた浪士どもは、騒ぎを機に贔屓にしていたこの店を離れるかもしれない。 しかも、だ。・・・俺が紫のぶに迷惑を掛けたと知れば、あの口が減らない三人姉妹が黙っちゃいねぇ。

「畜生、頭が痛てぇ・・・」
「それはこっちの台詞ですよ。あーあぁ、まさかあそこにさんがいるとはなぁ・・・」
「いいか山崎、今夜はあの座敷から目ぇ離すんじゃねえぞ。これで奴らを取り逃がしでもしたら最悪だ・・・!」
「言われるまでもありませんよ。俺だってこの半月の内偵が無駄になるのは嫌ですからね」
「うわぁ〜〜、これおいしい〜〜。甘くておいしいれすこのお酒〜〜。もっと持ってこいやひじかたこのやろ〜〜〜」
「・・・・・・」

急に醒めきった顔になった土方と山崎は、胡座を掻いた土方の脚の上に座り込んでこくこくと酒を飲み干す女を見下ろす。 そして二人同時に、深々と落胆した重い溜め息に肩を落とした。
泣く子も黙る鬼の副長を「このやろー」と扱き下ろした怖いもの知らずな酔っ払いは、元真選組隊士の。 山崎にとっては元同僚であり、土方にとっては元直属部下であり、同時に元は恋人だった女だ。 今でも互いが互いを思い合っており、誰がどう見ても付き合っているようにしか見えないこの二人だが、一概に恋人だとは言い切りづらいというか、人には少し説明しづらい関係にあった。 一年半ほど前に「別れたい」と言い出してきたのはのほうで、その時は土方も、仕方なく彼女の決心を受け入れた。 とはいえ、土方のほうには彼女を諦める気などさらさら無かった。 彼にとってのは他に替えがたい存在で、ゆくゆくは嫁に貰って所帯を持つ、と腹の中で既に決めている女だからだ。 だからが屯所を離れてからも、別れる前とあまり変わらない関係を、あれこれと苦労しながらも維持してきた。 彼のに対する気持ちは、付き合っていた頃から殆ど変わっていないのだ。今だって他の男が酔った彼女に触れたことが許せないし、 の周囲をウロウロしている諦めの悪い男たちのことは、いつかどさくさ紛れに殺してや、
・・・いや、いつか引導を渡してやろうと目論んでいる。奴等を完膚なきまでに叩きのめすためにも、彼女が頷いてくれさえすれば、今すぐにでも「よりを戻した」と公言したいと思っている。 なのに、一刻も早く公表したいと切望している元サヤ宣言は、今のところ実行できそうな兆しすらない。 主に側の事情によって、しばらくお預けとされたまま。 どちらかといえば気が短く、女に不自由したことが無いがゆえに、一人の女に夢中にさせられのめり込んでいった経験など無い土方にとって、これは結構な我慢というか苦行だった。 言えばが気に病むので、いくら焦れても口にはしないが。

「ひじかたさんはずるいれす〜〜。自分らけこんなお店れ〜〜、きれ〜〜なおねいさんいっぱいはべらせて〜〜、おいちいお酒をのんでるんれす〜〜。 これらから公務員はいやなんれすよぅ〜〜!こっっの税金どろろうがぁぁ〜〜!」
「煩せぇ、絡むな酔っ払い」

ごっっ、と真上から拳を落としてやれば、は「うにゃあっっ」と腑抜けた声を上げて頭を押さえる。
うらめしそうな涙目で振り向く女を、拳骨を構えた土方がきつく睨んで、

「つーかお前も元は税金泥棒の端くれだろうが。いいか、ちったぁ考えてみろ元税金泥棒。 俺がどうして身なりまで変えてこの手の店に入ったか、どうして山崎がここに居るのか、お前がうちで携わってきた捜査内容と照らし合わせて考えろ。そーすりゃ自ずと答えは出るだろーが」
「らぁ〜〜からぁ〜〜、二人でお座敷あそびしてたんれしょ〜〜? 知ってるんれすよあたひぃ、お座敷あそびってぇ、おいしそうで楽しそうなこといっぱいするんれすよねぇぇ。くりひろいとかぁ、わかめ酒とかぁ、あわびのおどりぐいとかぁぁ」

得意げに答える酔っ払いは、どう見てもそれらが廓や風俗街で使われる俗語だとは知らなさそうだ。 さらに言うなら、それぞれの俗語がどういった淫靡な行為を指すのかも知らなさそうだし、もしも知ったら顔を真っ赤にしてその場で卒倒するだろう。
頭痛がしてきた土方は額を押さえて「違う」と断言、二人を眺める山崎は、ははは、と乾ききった声で笑うしかなかった。

「何が栗拾いだ。どこぞの夜遊び狂いなグラサン親父じゃねえんだ、頼まれたってんなもんやるか。つーか誰に仕込まれたその下品な花街言葉」
「よろずやのだんなれすぅ。このまえよろずやのみんなとよしわらにあそびに行ったのー」
「んだとコラ。お前、まだあの馬鹿侍と会ってんのか!?」
「え〜〜違うんれすかぁ。お座敷あそびに来たんらないんれすかぁぁ」
「おいィィィ勝手に話を戻すな、俺が尋ねてんのは万事屋の話だ!」
「え〜〜、じゃあ〜〜、何れ・・・・・・ふあぁ、もう空になっちゃったぁぁ。やまらきくんっ、おかわりぃぃ」
「はいはい」

仕方なさそうに返事をすると、山崎は酒を注いでやる。 お銚子ほどの大きさの透明な瓶から、若い娘が好みそうな、練乳を混ぜた苺のような甘ったるい色合いのカクテルが流れ出てきた。

「じゃあ何れここに来たんれすかぁ〜〜。きれいなおねいさんとえっちなことしに来たんれすかぁぁ〜〜」
「仕事だ仕事!捜査機密上細けぇこたぁ省くが、要は性質の悪い浪士がこの店を贔屓にしてるっつータレコミがあってだな、こいつを張り込ませ」
「やまらきくーん、聞いて聞いてぇこのひとねぇ最低らの〜〜。いそがしいふりしてに内緒れうわきしてるのぉぉぉ〜〜!」
「はぁ!?っっっだとコルぁ、てめーこそ何だあれぁ!どこの馬の骨ともつかねえ野郎に好き放題触らせやがって!」

腹立たしげに怒鳴る土方がの手から酒を取り上げ、「やらぁぁお酒ぇぇ返してくらさいぃぃ」と暴れる酔っ払いに髪や顔を滅茶苦茶に引っ掴まれる。 ――が、それは傍目にはどう見ても、酔った恋人を膝に抱き上げた男が揉め事に乗じて彼女といちゃついているとしか思えない光景だ。 「あーあー、また始まったよ痴話喧嘩が」とでも思っていそうな醒めた半目顔で二人を眺めていた山崎だったが、途中で一言、ああ、とつぶやく。 桜花の図で埋め尽くされた天井を何か思い出したような顔で見上げて、

「そーいや副長、座敷で綺麗な芸妓さんに抱きつかれてましたよねぇ。 なーんかやけにいい雰囲気だったよなぁ。もしさんがいなかったら今頃はあの姐さんと色茶屋でしっぽり」
「やぁああまあぁざきいいぃぃ!仕事そっちのけで何を観察してやがったんだてめーは!」

空になったお銚子が山崎の眼前に飛来、眉間にごんっと命中する。
山崎は衝撃で仰向けに倒れ、「余計な情報ばっか集めやがって!」と土方はさらに彼を叱りつけた。 しかしその顔には冷汗が滲み表情はぎこちなく強張っているし、声はへの後ろめたさと動揺で鬼の副長らしくもなく上擦っている。 そんな土方を酒気に潤んだ目でぼうっと眺めていたは、濃い色の紅を乗せた唇をきゅっと噛む。 椅子扱いで寄りかかっている男の脚を、足袋を脱いで裸足になった足の爪先で軽く蹴った。 いてっ、と呻いた土方が眉を吊り上げると、さらにぱたぱたとその脚を蹴る。 ふーん、と鼻にかかった不機嫌そうな声を漏らして唇を尖らせ、彼の胸にくったりと凭れて深くうつむき、

「・・・・・・そんなことしてたんれすかぁ。おしごとなのに楽しそうれすねぇぇ」
「あぁ?今、何つった」
「・・・。なにも言ってないれすぅ」

ぷぅ、と頬を丸くしたが、首を傾げて覗き込んできた土方からぷいと顔を背ける。 急に腕をぶんぶんと振り「やらもぅ、このイスたばこくさいいっ」などと理不尽なことを喚いて暴れる。 お前が自分から乗ってきたんだろーが、と呆れている男の脚の上からごそごそと這い出し、広い部屋の真ん中に敷かれた廓用の真っ赤な布団まで這ったまま進む。 こんもりと高く膨らむ羽根布団で覆われた派手な褥に頭からもぞもぞと潜り込むと、

「もういいれす、ちゃんはとっても眠いのれもう寝るのれす。 おやすみなさいやまらきくんひじかたさん、ていうかひじかたばかやろー、ばーかばーかばーか女たらしーうわきものー、ニコ中へんたいV字はげー」
「誰がV字ハゲだぁぁ!あぁ畜生もう勘弁ならねぇそこから出て来い酔っ払い、てめーの頭をV字ハゲにしてやる!」
「まぁまぁ副長、落ち着いて!落ち着いてくださいよー」

もう我慢なんざしてやるか、とブチ切れ立ち上がった土方に、山崎があわてて後ろから飛びつく。 ギリギリと歯を噛みしめて今にもに襲いかかりそうな剣幕の男にズルズルと引きずられながら、

「副長だってご存じでしょう、酔っ払ったときのさんは何話したって全部忘れちまいますよっっ」
「だから腹が立つってんだ!放せ山崎いぃぃっ、その馬鹿を一発殴らせろォォ!」
「ダメですって、あんたが本気で殴ったらさんが死んじゃいますよっっっ。 〜〜あぁもうっやめてくださいよ!ここで副長がまた暴れて騒ぎになったら、奴等に居場所を嗅ぎつけられちまうでしょーが!」

そう言われて土方が固まり、っっ、と息を詰まらせる。
その隙を突き、いつになく強気な態度の監察は焦った口調ながらも一気にまくし立ててきた。

「いーですか今のあんたは匿われてる身なんですよ少しは大人しくしててください、これ以上店に迷惑掛けてどーすんですかっっっ。 俺の調べでは奴等の仲間はこの街中に潜伏してるんです、ここで見つかって乱闘沙汰になろうもんならそいつら一斉に乗り込んできますよ!さすがに楼主も許しちゃくれませんよ!?」
「・・・そっ、それぁあれだ。・・・・・・」

痛いところを指摘され、土方は気まずそうに視線を逸らして口籠った。
一階にあるこの店の出入り口では、さっき彼がこてんぱんに熨してしまった男たちの手下が見張り番として立っている。 おかげで土方はこの店から出るに出られず、そんな彼のためにと女将はこの部屋を用意してくれたのだ。 もしも奴等にここが割れたら、他に隠れる場所はない。 店にこれ以上の迷惑も掛けられない。万が一奴等を相手取るにしても、自分一人ならどうとでもなるが、足元が危うい酔っ払いを連れてとなると――
深酒のせいでろくに歩けそうもないのことまで考えが及ぶと、沸騰しきった彼の思考は徐々に落ち着きを取り戻していった。 畳のあたりを睨んでいた土方が強張っていた身体からすっと力を抜き、山崎の腕をぱしりと払う。すると、監察もほっとしたような表情を見せる。

「・・・ちっ。ここぞとばかりに正論ぶちかましやがって、山崎のくせに」
「何とでも言ってくださいよ。とにかく今夜はここから一歩も出ないで下さい、明日奴らが帰ったら報せに来ますんで」

そう言い置くと、山崎は部屋を出ていった。
かと思えば、すっ、と隙間を空けた襖戸から顔だけを出す。言いにくそうに口を開くと、

さんもさ、ちゃんと副長に説明したら。何も副長を困らせようと思ってここまで来たわけじゃないんでしょ?」
「・・・・・・」

は黙りこくっていたが、こんもりと丸く膨らんだ布団が続けて二回、こくこく、と中の女が頷いたかのように小さく揺れる。 山崎はその反応に苦笑いすると、静かに襖戸を滑らせていった。

「・・・廓街なんて裏の顔はどこも物騒で、女の子は滅多なことじゃ足を向けない場所ですよ。 なのにここまで来ちまったんだから、副長のことがよっぽど気になったんじゃないですか」

戸が閉まる寸前に見えた監察の表情は、彼女をあまり責めないでやって下さい、とでも言いたげだった。
この騒ぎで内偵は進めづらくなっただろうに――あれも結局、に甘い。 そう思いながら振り返った土方の目に、行燈の灯にほのかに照らされた赤い布団と、そこからしゅんとした様子で顔を出した女が映る。
(――まあ、これへの甘さについては俺も人のこたぁ言えやしねえが。)
苦笑した土方は吸いかけを灰皿で揉み消し、傍に置かれた行燈の火も落とす。
暗くなった大広間を一通り見回してから彼女の元まで近づいていき、借り物の羽織を脱ぎ落とした。 ばさり、と目の前に落ちたそれを潤んだ目で見つめたは、彼が掛布団を捲り上げて隣へ入る様子を何か言いたげな目で追っている。 それでも無言で背中を向ければ、後ろから細い手がおそるおそる伸びてくる。 ふっと息を呑んだ背中に、柔らかく温かな感触がぴったりと重ね合わせられた。





Caramelization *riliri 2014/04/24/          next →