周ちゃんが意地悪を言って楽しんでる時 あたしは 乱気流に呑み込まれたみたいな気分になる。 気まぐれに巻き上がった風にぐるぐる回らされて 踊らされて 行きたくもない所まで飛ばされた鳥みたいな 落ち着かない気分になる。 そんなときでも周ちゃんの空気は いつも凛として澄んでいる。 女の人に間違われてもおかしくないくらいに綺麗な周ちゃんは いつもその見た目通りに綺麗な 透きとおった空気を纏ってる。綺麗な空気は心地良くて 何かあっても簡単に曇ったり 濁ったりしない。 一緒にいるだけで 周ちゃんの空気は あたしの周りの空気まで洗ってくれる。 一緒にいるだけで あたしの周りの空気までふわっとやさしく解れる。自分を自由に解放できる。 周りの人にもちょっとだけ優しく出来て 自分を好きになれる。ちょっとだけいい子になれる気がする。 周ちゃんに初めて彼女が出来た時は 置いていかれたみたいでさみしくて こっそり部屋で泣いた。 試合に勝った周ちゃんの姿は 自分のことみたいに誇らしくて嬉しい。負けた姿を見るのは 自分が負けるよりもつらくて痛い。 性別も性格も好きなことも違うのに あたしはいつのまにか 自分のことと周ちゃんのことに区別をつけなくなっている。 時々 もうひとりのあたしみたいだと思う。男の子に生まれた もうひとりのあたし。同じ場所で育って 同じ学校に通って 同じものを見て 同じ可笑しさや嬉しさを感じられる子は あたしには周ちゃんだけで 他にはいない。 きらい なんて言ったけど。周ちゃんは特別だ。 ほんとは あたしが周ちゃんをきらいになったことなんて 一度もなかった。 周ちゃんといる時間がすごく好きだった。 周ちゃんといるときの自分も好きだった。 誰といるよりも自由に笑えた。素直に甘えられた。 意地を張ってケンカしそうになることもあったけど それだって甘えの裏返した。 だけど。 そうじゃなくなった。もう そうじゃない。周ちゃんがそうしてしまった。一方的に壊された。


 き み が ぼ く を し っ て る

  * 2

次の日の一時間目はよりによって体育で 最悪だった。 最初のランニングから腰が重苦しくて お腹から太腿まで何かの塊か厚い鉄板が埋め込まれてるみたいで 本当はずる休みで見学したかった。だけど我慢して みんなより一周遅れになっても走っていたら 風を切って隣を追い越したミカが バシッと背中を平手打ちして行った。 グラウンドのコーナーでこっちを振り返って 足踏みしてる。 「ー、なにふざけてんのぉ?遅すぎ」 面白がって笑うミカに合わせて笑い返した。 本音では 笑うとこじゃないんだけど ってむきになって言い返したかった。 昨日の夜。 家に帰ってすぐにお風呂に飛び込んで シャワーを出しっ放しにして声を殺して泣いた。 泣きながら あのベッドの中で何をされたのかを思い出したら 周ちゃんがもっと嫌いになった。 初めてって 全然よくない。 ただ痛くて苦しくて 男の子は怖いって思い知らされるだけだった。 昨日は目が冴えてよく眠れなかったから いつもの朝より陽射しがきつく感じる。 体育館の真上に昇った太陽は 空を薄く覆った雲の向こうで半分透けている。 たまに目に入るその光の強さが押しつけがましくて嫌だ。 「うっそ、マジで。フツー人に言う?そういうこと」 「それが言ったんだって。本人が実験室で。授業中に、ふつーに化学反応の実験しながら。昨日あいつん家でヤッた、って」 「・・・信じらんなぁい。何それ。最悪じゃんあいつ」 「でさー、面倒くさかったとか、泣かれてウザかったとか、友達とゲラゲラ笑ってたんだって。 それが聞こえてあの子がキレちゃって、実験道具のビーカーとか叩きつけて、・・・・・・・」 後ろを走る子たちが顔を寄せ合って話してる噂話を CMで流れてる音楽みたいにぼんやり聞きながら走った。 真面目に走る気がなさそうな二人がひそひそ話しているのは 昨日あたしたちが隣のクラスの子に聞いたのと同じ話だと思う。 でも もしかしたら違う子の話じゃないかと思うくらい 昨日聞いたのよりも派手な話に書き換えられていた。 ミカとあたしは言い出したのが授業中だったなんて聞かなかった。 実験室でビーカー、なんてことも。 噂って怖い。 こうやって誰かの耳にこそこそ囁かれて そこからもっと大勢の耳へ囁かれて 爆発的に大流行するウイルスみたいに伝染していく。 あたしが聞いたのは昨日の放課後だ。それからたった一晩で この噂を聞き伝えた子たちの悪意が 後ろの二人の話にはもうすでにたっぷり混ざってる。 酷い目にあったあの子に同情もしているのに それでいて どこか楽しそうな話し声にも。 学校は楽しい。学校は好き。 どうして楽しいのかなんて考えなくていいくらい忙しくて いろんなことがあって いろんな子がいて。それだけで楽しい。 だけど あたしは いつもどこかで 楽しくて明るい学校に―そういう学校を楽しんでる自分に どこかで退屈してるのかもしれない。 中学生の毎日を明るく楽しんでる 学校が好きな普通の中学生の自分は嫌いじゃない。でも たまにちょっと飽きる。 だからこういう噂話を聞くとどきどきする。後ろめたくて秘密めいて 刺激があって面白いからだ。 あたしみたいにちょっと退屈しているみんなが 無責任に噂をおもちゃにして遊んで 好きなだけ楽しんで 話を大きく言いふらしてあちこちに広げていく。 この速さで広まれば あの子の噂は明日中には学年全部に知れ渡る。下の学年にだって飛び火するかもしれない。 それはあの子の体験とは似ても似つかない 大袈裟な話になるかもしれない。そうなったら きっとあの子はすごく困るだろう。 可哀そう。ここまで噂が広まってしまったら きっとしばらくは登校拒否したくなるくらい 学校が苦痛になるだろう。相手の男子の顔なんて 二度と見たくないって思ってるだろう。 でも ぜんぜん同情する気が起きない。 悔しいから認めたくないけれど あの子はあたしと同じだ。許す相手を間違ったんだ。 楕円を描いたトラックの土を巻き上げて 朝の空気を埃っぽくしながら あたしたちは広いグラウンドをぐるぐる回る。 滑車の中を夢中で駆けるハムスターみたいに 何も考えずに回る。 そんなことを言ったら 友達にはみんな嫌な顔をされそうだ。真面目に授業を受けてる友達をハムスターなんかに例えて 自分だって夢中で走るハムスターの中の一匹なのに 上から目線でみんなを馬鹿にしているみたい。 ミカは大らかな子だし 何でも笑って受け止めてくれるけど ミカだって もしあたしが更衣室でそんな話を始めたら きっと何もフォローのしようがなくて困るだろう。 あたしがぽろっとそんなことを言っても 周りの目線を気にしないで笑っているのは たぶん周ちゃんくらいだ。 ここを走ってるみんなの中で 言えない理由で身体が痛いのはあたしだけ。 ペースを上げて先頭に出たミカも。 ミカの後ろを走ってるあの子も。その後ろで固まって 喋りながら走ってる子たちも。 あたしのすぐ目の前を息を切らしながら走っている 体育の苦手なあの子も。 きっとほとんどの子は まだこんな痛さを知らない。男の子にねじ伏せられる怖さも みんなは知らない。 だからあんなに速く 何にも囚われずに軽々とグラウンドを蹴る。 空気の雲を切るみたいにすうっと風を切って 何も考えずに前を見て走れるんだ。 そう思いながら前を走るジャージ姿の一人一人を見ているうちに 昨日お風呂で流しきったはずの悲しさとか 悔しさが湧き出して 半分渇いた口の中から溢れてくる。喉の奥まで押し戻そうとしても ちっとも整理が追いつかない。 なんだかつまらない。何を見ても 何をしていても どうしても気分が落ち込む。 つまらないせいか 目に映るものが全部 ほんのり灰色がかっているみたいに 色褪せて見える。 バスの中で隣り合って座った高等部の人も 通学路の並木道も 空も校舎も教室も なんだか生気がないように見えた。 どんより重いお腹の気分とまるで一緒だ。 昨日までは瞳に張り付いて あたしの今日を綺麗に輝かせていた コンタクトレンズみたいなフィルターを あの時の周ちゃんに 目の中から抜き取られたみたい。そんな気がするくらいに 周りの景色の見え方が何か違ってしまってる。 なのに それほど何も変わっていないような気もする。 だって 昨日までとは違う身体になったのに。あたしの中身は変わらない。 身体が痛くて気分が鬱でも 男の子とセックスするのがどういうことなのか知ってしまっても 結局あたしは 昨日までのあたしのまま。 優しかった周ちゃんが どうして急に変わってしまったのかも どうしてあんなことをしたのかも わからないまま。 まだ 昨日起こったことだって 昨日の周ちゃんのことだって ほとんど受け止めきれていないあたしのままだ。 「。不二先輩、来てるよ」 「うん。知ってる」 ガットの上で撥ねるボールを見つめながら答えた。 答えるだけで ボールは止めない。 「知ってる、とかじゃなくてぇ!っ」と 呆れて叫んだミカが ネットを越えて近づいてきた。 あたしの頭をラケットで叩く真似もした。それでもあたしはボールの動きだけを目で追った。 落ちてきたボールはガットに吸いついて またすぐに垂直に撥ね上がって 雲がないくすんだ色の空でふっと動きを止める。 同じ動きをただ淡々と あたしが伝えた通りに繰り返してくれるボールから 目を逸らさない。 さっき他の子にも言われた。「不二先輩が待ってるよ」って。 その子が指したほうへ目を向けたら 周ちゃんがグラウンドとの境に建ったフェンスの外を歩いていた。 制服姿の周ちゃんはいつも通りの笑顔で 穏やかな仕草で手を上げて 寄ってきた男子部の子たちと話し始めた。 高等部の練習はテスト休みに入っているみたいで 菊丸先輩も一緒だ。 さっき「ちゃーん、ひっさしぶりぃー」って 満面の笑顔であたしを肩から抱っこした菊丸先輩が 何の悪気もなくコートに飛び込んできて女子部みんなの熱い注目を一身に集めても 周ちゃんはこっちに来なかった。 そういう時の周ちゃんは 一人でフェンスの外にいるか 男子部のコートへすうっと吸い込まれてしまう。 女子部コートの中までは入ってこない。そういうところは周ちゃんらしい。きっと周ちゃんを好きな女の子は そういう少し遠慮がちに いつも控え目に振る舞う思慮深そうなところも 好感が持てて好きなんだろう。 今も 周ちゃんファンの一年生が どんな小さな仕草も見逃さなさそうに 球拾いも忘れて熱い目を向けている。 「ほらあー、行って行って。大丈夫だって。ちょっと口きいたらケンカなんてすぐ忘れるよ。 ここで仲直りしたらいーじゃん。気まずくても一言くらい話してきなって」 「いいよ。別にケンカじゃないし。放っといていーよ、周ちゃんなんか」 「ちょーっ。ー、あんたさあ。幼馴染みだからってよくないよ、先輩にそーいう、・・・・ねえっ、もう、いいよ。 もう何でもいいから!仲直りなんてしなくていいからさあ、先輩にもう男子部に行ってって伝えてきてよ!」 ほら 見てよ もう。みんな全然上の空じゃん。 あんたが無視するおかげで先輩がずっとあそこにいるから みんながそわそわしちゃって 練習に熱が入らないんだからね。 焦った声で言いながら ミカはあたしが弾ませていたボールを空中で掴んで取り上げた。 それでも気がおさまらないみたいで 今度は肘をラケットのグリップでつついてくるから 走って隣のコートに逃げた。 ちょっと走っただけで痛みが疼いて 顔が強張る。気持ちの悪い違和感で身体がいっぱいになる。 振り返ると ミカはまだ周ちゃんのほうをチラチラ見て どうしよう って顔をしていた。 ミカ わかってない。そんな困った顔して向こうを見てたら 人の悪い周ちゃんはかえって面白がるだけなのに。 知らないふりで放っておけばいいのに ミカって本当に人がいい。 それに。みんなのため みたいに言うけど それはちょっと嘘だよね。 そう思ったけど 言ったらミカをもっと困らせそうだから言わなかった。 ミカは男子部のどの先輩よりも 周ちゃんが一番苦手だ。 「こんなこと言ったら先輩には悪いけど。不二先輩って何考えてるのかわかんないじゃん。 ちょっと怖いよ。あたしああいう人、すごく苦手」って 時々 困った顔になって済まなさそうに言う。 でも 女子部部長としては 先輩に失礼がないように ちゃんと応対しなくちゃいけない。 だからあたしを行かせて周ちゃんを早く追い払いたいんだろうけど あたしは周ちゃんに近づきたくない。 周ちゃんがあたしに会いに来たんじゃないのはわかってる。 昨日のことなんて忘れちゃったような顔で 何のわだかまりも感じていないような態度で あそこにずっと待っているのは よく中等部の練習に顔を出す菊丸先輩について来たから。 ここで幼馴染みのあたしを無視すると 菊丸先輩を含めた周りが変に思うから ちょっと声を掛けておきたいのかもしれない。 だけどあたしは周ちゃんの顔なんて見たくない。どこまでもお利口でいたい周ちゃんの都合なんて知らない。 男子部で遊んでいた菊丸先輩は あたしたちが練習を終える直前にこっちへ戻ってきた。 女子部レギュラーの中には 一人だけ飛び抜けて上手い一年生がいる。 ミカに頼まれた先輩は その子に練習をつけてくれた。時々声を掛けながら きっちり真剣にラリーを続けてくれた。 終わってコート中央で握手と挨拶をすると「やっぱり一日一度は打っとかないと気持ち悪いんだよねー」って 大きな声を弾ませて笑う。肩をグルグルと回して解して 腕まくりしたシャツの袖を戻しながら駆けてきて ミカが差し出したタオルを受け取った。 額が濡れていて 透明な汗が光ってる。いつも屈託なく話しかけてくれる先輩の笑顔には その透明さがよく似合っていた。 「サンキュ、ミカちゃん」 「おつかれさまです先輩。ありがとうございました!」 「うん、俺も楽しかったぁ」 「でも、遊びに来てくれるのは嬉しいですけどー、いいんですか?テスト前なんですよね」 「まーね!今回は俺、けっこう余裕だしぃ。ほら、あそこに優秀なカテキョもいるからさー」 自慢そうに言って顔だけで振り返った先輩は フェンスの向こうで待ってる周ちゃんを指した。 一年生数人からフェンス越しに話しかけられてる。周ちゃんがたまに小さく頷いたり 笑顔になったりすると 嬉しそうな笑い声が上がる。菊丸先輩を待つ間に見ていたんだろう。手には閉じた参考書が挟まれていた。 「これから不二ん家行って 古文と物理教えてもらうんだ」 ミカにそう返して 先輩は脱いだ学ランをベンチから拾い上げた。 周ちゃん目当てのフェンスの人だかりに気付いたミカは はあ と 疲れた溜息をついてそっちへ行ってしまった。 背中を強張らせて 小走りになってる。備品の片付けもコート整備も放り出して 周ちゃんと話すのに 夢中になってるあの子たちに きつめに喝を入れるつもりなんだろう。 ミカを面白そうに眺めながら学ランに袖を通して 菊丸先輩はあたしに顔を向けた。 「ねえ、ちゃんも来る?中等部ももーすぐテストでしょ」 「え、・・・・・」 「遠慮しないでおいでよ。俺と一緒に、不二先生に教えてもらえばいーじゃん」 丸くて大きな猫みたいな目が にいっ、と大きく笑って細められた。 周ちゃんは多分 あたしと何があったのかなんて 菊丸先輩には話さない。 先輩は何も知らないはずだ。もし知っていたら こんなことは言い出さないはずだし。 あたしは困って かなりあからさまに顔を曇らせた。それでもにこにこ笑ってる先輩にもっと困って 黙ってうつむいた。 ラケットを抱きしめて 見下ろしたテニスシューズの爪先で きゅっ きゅっ と何度も土を掻いた。 「はい、でも、・・・・・・今日は遠慮しておきます」 「えぇー。そーなの?何で?俺がいるからー?」 「ううん、そうじゃなくて。・・・あたしが行ったら周ちゃんが嫌な顔しますよ、きっと」 「何言ってんのさ。ないない、そんなことないって!中等部に寄ってから帰るって言い出したの、あいつだよ?」 え と少し驚きながら顔を上げると 好奇心一杯な視線とぶつかる。 あたしが顔を上げるのを待ち受けていたみたいに ぴたりと目が合った。 「だってさー。すげー珍しーんだよね。あいつが自分から行こうって言い出すなんて、・・・・・・」 うーん と不思議そうに空を見上げて 少しだけ黙って。意味ありげにあたしをチラ見した。 背中を丸めて顔を寄せてきて 自信ありそうに目をキラキラさせて耳打ちしてくる。 「なになに、もしかしてさ。最近不二がなんとなく変だなって思ってたんだけどさぁ。やっぱり何かあったんだ?」 「・・・・・菊丸先輩。そんなに周ちゃんが気になるんですか」 「え」 「ほんとは最初からそこが気になってて、どうにかしてその話に持っていきたかったんでしょ?」 「違うって!気になるってゆーかぁ・・・気になるけどさぁ、どこに話を持っていきたいとかじゃなくってぇ!」 えーと えーとぉ と 先輩は言葉に詰まって繰り返した。眉を八の字に下げて 困った顔になって目を逸らして 毛先の跳ねた頭を 何度も大きく掻き回してから またこっちを見る。 「・・・えーとォ、・・・・・・・・へへっ。バレた?実はさー。 不二が最近ぜんぜんちゃんの話しないからさあ。たぶん何かあったんだなーって、思ってたんだ」 あたしのことを友達に話したりするんだ。知らなかった。すごく意外。 驚いて黙っていたら 先輩はあたしが怒ってると思ったみたいで ごめーんもうしないから許してよー と半分ふざけてあたしを拝んで 子供みたいな笑顔で悪びれずに笑う。 その表情が すっきり晴れて気分がいい日の太陽みたいな曇りがない眩しさで 可笑しくなって 吹き出してしまった。 先輩が言うと 全然騙されたって気がしない。嘘を嘘で通せないでバラしちゃうところも 先輩らしくていいなあって思う。 周ちゃんの友達なのに 先輩は周ちゃんとはちっとも似てない。中等部の頃よりも背が伸びて 見た目だって大人っぽくなっているのに いつ会っても気さくで元気で 大きな子供みたいだ。 気付くと友達と話してるみたいに楽しくなっていて 先輩が周ちゃんと同じ年だなんて忘れそうになる。 もしも周ちゃんが 先輩みたいに明るくてまっすぐな男の子だったら。 ミカに苦手だなんて言われたり 「何考えてるのかわかんない」って言われたり 影で警戒されたりしないような 思ってることが態度や表情に素直に出る わかりやすい男の子だったら。 あたしはそれでも 周ちゃんに懐いていたのかな。それとも 裕ちゃんに懐いてたんだろうか。 それとも もっと他の男の子と仲良くなって その子を特別な子だって思うようになっただろうか。 先輩の笑顔につられて笑いながら そんなことを考えていたら 手に何かが触れた。 ラケットを抱いてる手を見下ろすと その手をあったかい手が掴んでる。先輩の手だ。 「そっか。まぁ、バレたんならもういーよなっ」 えっ と問い返したときには 先輩はあたしをぐいぐい引っ張って コートを出ていた。 まっすぐにフェンスの方へ向かってる。 半分引きずられるみたいによろけて歩きながら あたしは唖然として先輩の背中を見つめた。 「何があったのか知らないけど、あいつすげー気にしてるみたいだからさ。少しでいーから話してやってよっ。 ・・・・・・おーい、不二ぃ!」 「・・・!」 呼ばれた周ちゃんが振り向く。 ほんの二メートルくらい先に見える緑の金網越しに 少し驚いたような顔をしてこっちを見た。 びっくりしてあたしは足で急ブレーキを掛けた。 ほとんどしゃがみ込むくらいに腰を落として 身体を硬くして踏みとどまる。 周ちゃんは何も言わなかった。薄く開いた目が じっとあたしに視線を注ぐ。 その視線がどこを見ているのかが気になって 身じろぎしてごまかしながら先輩の後ろへ隠れた。 今まではいくら周ちゃんに見られても 気にしたことなんてなかったのに。 「英二、いつまで遊んでる気。もう帰るよ」 ふっ と口許で笑った周ちゃんが 後ろに建つ校舎の壁時計を見上げる。 「えーっ。もう帰んの、まだいーじゃん」 「僕はどっちでもいいけどね。期末でまた順位落として、手塚に睨まれても知らないよ」 「・・・!」 途端に目を丸くして慌てた先輩が「カバン取ってくる!」と男子部へ駆けていって。 他に誰もいなくなった。みんなは片付けでコートと備品置場を往復してる。フェンス際にいるのはあたしたち二人だけだ。 ミカの喝が効いたのか みんながせっせと真面目に後片付けをしているせいか 誰も近寄ってこない。 ざわざわした話し声は どの声も控え目だ。なんとなく遠巻きにされている感じもする。 誰でもいいから近くにいてくれたほうが 気まずさが紛れるのに。 あたしたちを隔てるものは ところどころに穴のある 緑色の網状フェンス以外に何もない。 周ちゃんはまたこっちを黙って見ている。途端に心細くなって 手に力が籠った。ラケットを胸の前で抱きしめた。 「今日は母さんたちも家にいるんだ。英二も夕飯食べて行くみたいだから、も来る?」 「・・・・いい。行かない。・・・・・・約束してるし。・・・ミカと」 ミカが聞いたら驚くだろう。約束なんてしてないじゃん って。 目を合わせたら周ちゃんに気付かれるような気がして 言いながら視線がふらふら揺れた。 コートで片付けをしているミカに聞こえてないかどうかも気になって 冷や冷やしながら周ちゃんの返事を待った。 「そう。じゃあ、部活が終わったらちょっとだけ話そうか」 「え、・・・」 「校門前でいいよね。待ってるよ」 あたしの返事なんて待たずに 周ちゃんは踵を返して歩き出す。 少し歩いて 肩越しにこっちをちらっと流し見た。あたしは一歩踏み出して 慌てて声を張り上げた。 「・・・・・・・・・周ちゃん!」 周ちゃんの足が止まる。少し間を置いてから ゆっくり振り返ってあたしを見た。 でも 思わず引き止めたけれど どうすればいいのかわからない。 言いたいことがありすぎる。 どれも頭の中で 絡まった糸みたいにぐちゃぐちゃになっていて かえって何も引き出せない。 こんなところじゃ言い切れないくらいに言いたいことはあるのに 何で。 「・・・・・周ちゃん、言ったよね。あたしのこと、勝手だって」 「うん」 「でも。周ちゃんだって人のこと言えないじゃん。すごく勝手だよ。どうして勝手に決めちゃうの」 「。何のことを言ってるのかわかるように話してよ」 「どうして全部一人で決めちゃうの。あたし、いいなんて言ってないよ」 「だから、何を」 「・・・・・・・・全部!・・・・・き、昨日の、ことも、・・・今だってそうだよ。 勝手に来て、勝手に待ってるって押しつけて。何それ。おかしくない?そんなの許せないよ。勝手だよ!」 ガットに指を掛けてぎゅっと握りながら言い切って しどろもどろになってうつむいた。 あたしは変だ。あんなに周ちゃんのことを怒ってたのに。もっと酷い言葉も浴びせてやりたかったはずなのに。 こうして向き合ってみたら どんな顔をして周ちゃんを見たらいいのか ちっともわからなくなる。 「・・・。うん。そうだね。言い訳はしない。認めるよ。僕はすごく勝手なことをしたんだ」 「・・・・・だったら、どうして、・・・・・・」 「だけど謝る気はないよ。勝手だってことは認めるけど、謝る気はない。・・・に許されようなんて、最初から思ってないし」 「・・・何それ。意味がわかんない。」 返事は一言もなくて フェンスの向こうの周ちゃんの気配は 静かに遠くなっていく。 顔を上げると 周ちゃんはとっくに校舎の角を曲がる手前まで歩いている。 「周ちゃん!」 大声で呼んだけど 返事もしてくれない。無視されたのが悔しくて あたしは目の前の扉を開けて走り出した。 フェンス際にラケットを放った。カン と コンクリートにぶつかる甲高い音がしたけど 振り返らずに走った。 周ちゃんの背中を見つめて後を追う。声には気付いているはずなのに 周ちゃんの背中は振り向かない。 角を曲がって校舎の影に消えた。あたしも続いて角を曲がった。 「待ってよ、・・・ねえっ。どうして?」 周ちゃんの目の前に先回りして立ち塞がる。 周ちゃんは少しだけ眉をひそめて表情を曇らせた。立ち止まらずに あたしの横を通り過ぎようとする。 「周ちゃん!」 カバンを下げた肩にしがみついて 力を籠めて引っ張って。その足を無理矢理に引き止めた。 周ちゃんは苛立った目をしてる。 前を見つめて立ち止まると 溜め息みたいに深く息を吐いてから 静かに睫毛を伏せる。 目を閉じて何か考え込んでから 瞼をわずかに上げた。こっちを見下ろした目は 責めるようにあたしを睨んだ。 「わかんないよ。どうして急にあんなことしたの?あんなこと、急に、・・・・・・周ちゃん変だよ。おかしいよ」 「そうかな。あの時のだって、僕に負けないくらいおかしかったよ。男と二人きりの時に、どうしてあんなこと言ったの」 「・・・あたし、そんなこと聞いてない。聞いてないし、そんなこと全然聞きたくない。ずるいよ。 周ちゃんが言ったことは、さっきからひとつも答えになってない。もっとちゃんと答えてよ!」 「・・・・・僕の答えなんて。」 そう言って 校舎の方に顔を逸らした。 「聞かないほうがいい。聞いたらがもっと困るだけだよ」 うつむいて地面を見つめる横顔は 前髪で半分隠れている。校舎の影が落ちていて 表情がよくわからない。 唇の端が引きつり気味に上がっている。なのに 笑っているようには見えなかった。 寂しそうにしか見えない。自分の寂しさを紛らわすために笑っているみたいにしか見えないその顔は 今までに見たことのない表情だ。昨日ベッドの上で見た 無表情な顔とも違う。 なんだか怖くなって あたしは周ちゃんから手を離した。 足を引きずって半歩下がる。ずっ と音をたてて シューズの裏で土が削れた。 「僕は違う。僕を信じきって無邪気に甘えてるとは違うから。 が僕をどう思ってるかも判ってたんだ。だから判ってた。あんな僕をは望んでないって。でも、僕は―」 「!・・・っっ」 驚いて声が飛び出そうになった。前に踏み出した周ちゃんの手が 急にあたしを掴んだからだ。 長い指があたしの手を握って 断りもなくぐっと引かれる。 前のめりにバランスを崩した身体に 瞬く間もなく腕が回ってくる。 背中からぎゅっと抱きしめられて あたしは学ランの胸に顔を強く押しつけた。 腕にもっと力が籠められる。あたしは苦しくなって身体を捩った。それでも腕は緩まない。 「・・・・・・、周ちゃんっ。・・・やめてよ。ねえ」 「ねえ。どうしてあのとき、僕みたいな奴がいいって言ったの。どうして本気で逃げ出さなかったの」 「そんなの、・・・・わかんない、よっ」 「嘘だ」 「嘘じゃないよ」 「嘘だよ。だっては僕を選んだ。僕に決めた意図なんて何もなかったみたいだし、ただ無意識に出た 選択かもしれないけど。無意識の選択にだって理由はあるよ。は自分をよくわかってたから、僕を選んだんだ」 「・・・・・・・・痛い。痛いよ、・・・ねえっ、周ちゃんっ」 「は怖がりだから。どうせ怖い思いをするなら、痛みはほんの少しだけで済ませたい。一番安心出来るやつがいい。 だからそれとなく僕を選んだ。そうだよね?」 「・・・・・・・・・・・わかんない。わかんないよ、そんな話っ」 息苦しくて深く息を吸い込む。途端に胸が詰まった。 同じ温度だ。ベッドの中で感じた周ちゃんの体温と同じだ。 あのときに感じた匂いと同じ香りがする。厚い制服を通しているのに あのときと同じように胸がざわめいて 息が詰まる。 「・・・・・ずるいよ。何もわかっていないような顔をしてるのに、本当は僕なんかよりずっとずるいんだ、は」 「周ちゃ、・・・」 「は無意識に判ってたんだ。だから僕を選んだ。 が知ってる奴の中で、を一番欲しがっていて。を誰より一番大事にしてきたやつを選んだ。」 辛そうに押し出された声と吐息で 耳の奥まで一杯になる。 その声に呆然とした。 息苦しさで固まりそうになっていた身体中の血が さあっと 音を立てそうなくらいにざわめいて沸き立った。 周ちゃんにこんなことを言われるなんて。そんなこと 思ってもみなかった。 「あのとき僕に言ったよね。初めては僕みたいな奴がいい、って、なんとなくそう思ったって。あのとき僕は、 頭がおかしくなりそうなくらい嬉しかった。君の前だってことも忘れて笑い出しそうになるくらい嬉しかったんだ」 深くうなだれた周ちゃんは あたしの耳の横に顔を寄せた。 ぎゅっ と押しつけられた頭が髪を滑らせながら傾いてきて 強い視線を斜め上に感じる。 顔を上げられなかった。何か嫌なことでもこらえるみたいにうつむいて 周ちゃんの腕の中でじっとして 黙っていた。 「僕はずっとが欲しかったから。のことが、ずっと好きだったから」 息遣いが近すぎる。驚いて声も出ないあたしを射竦めて 動けなくさせる。 すぐそこにある周ちゃんの気配が強張っていくのが空気から伝わってきて 身体を縛りつけられた。 「なのに、僕の本音なんて何も知らないで無邪気に甘えてくるが嫌だった。 本当はずっとムカついてた。泣かせたかったし、壊してやりたかった。だから、僕から壊すことに決めたんだ」 も。誰も。僕のすることを許さないだろうって 判っていたけど。 背中を抱いた手でTシャツを鷲掴みにして 周ちゃんは小さな声でそう言った。 喉に籠って霞んだ声で そう言った。耳の傍で言われているのに どこか遠くから話しかけられてるみたいだ。 何て返したらいいのかわからなかった。 どうしたらいいのかもわからない。 周ちゃんの肩越しに見える何もかもが遠くて 何もかもがあたしから離れようとしている。 みんながいるコートはすぐそこにあるのに あたしにはもう遠い。もう戻れない。 周ちゃんはまた あたしを勝手にどこかに引っ張って 連れて行こうとしている。 昨日と同じだ。一方的に壊して いつもの放課後からあたしを遠ざけようとする。 みんな遠い。周ちゃんとあたしから離れていく。 校舎の窓から漏れて聞こえてくる 誰かの話し声も。 誰かが遊びで鳴らしているような 途切れ途切れなピアノの音も。 誰も来ない通路を覆って 細長く伸びていく校舎の影も。校舎の向こう側から聞こえる 先輩の楽しそうな笑い声も。

「 きみがぼくをしってる *2 」 text by riliri Caramelization 2010/02/27/ -----------------------------------------------------------------------------------           next