ベッドから起き上がって 端に腰かけて 寒くもないのに毛布を頭から被った。 うつむいて 薄いグレーのTシャツのお腹のあたりを見下ろして 手を当てて。ぎゅっと皺を寄せて掴んだ。 自分の身体がすこし恨めしい。 身体に残っていた痛みと重苦しさは 目が覚めた時には あっけなく消えていた。 あの痛さはどこへ行っちゃったんだろう。 こんなに早く治らなくてもよかった。あと一週間くらいは ずっと痛いままでよかったのに。 痛いままなら あたしはずっと ひどいことをした周ちゃんを恨んで 腹を立てて ずっと拗ねていられたのに。 むしゃくしゃして唇を尖らせて 足元のクッションを蹴った。壁に当たって跳ね返った。 高く脚を上げても もうどこも痛くない。ぴりっとも言わない。 まるで最初から何もなかったみたいに あたしの身体はすごい速さで傷を癒して 周ちゃんにされたことも 周ちゃんの身体が中に残した不愉快な重苦しさも 全部忘れようとしているんだ。 そう思ったら 失くした痛みが急に惜しくなってきた。 身体は治ってもまだ戸惑ってる自分が 自分の身体にも わけのわからないことをする周ちゃんにも 置き去りにされたみたいな気がしてさみしくなる。 だけど さみしくなる自分を なんだかくだらない とも思う。 だって それじゃあたしは あたしを自分のものみたいに扱った勝手な周ちゃんを 自分から全部許したがってるみたい。 見下ろした床に 毛布を被った自分の影が落ちている。 うるさい目覚ましの音が鳴り響くまで ただ黙って 窓から入った朝の光で縁取られた濃い灰色のかたちを じっと見ていた。


 き み が ぼ く を し っ て る

  * 3

ホットミルクのカップの中に 見つからないようにこっそり体温計を突っ込んだ。 38度に温度を上げた体温計を出したら ママは眉を片方だけ吊り上げた 意味深な笑顔であたしを見た。 特に何も聞かずに「学校には電話しておくから」て言って リビングから出て行く間際に立ち止って 「駅前のケーキ屋さんのプリンが食べたいわー。あれ、お昼前に行かないと売り切れちゃうのよねえ」って とぼけて言い残して すぐ仕事に行ってしまった。 つまり ずる休みは見逃してあげるから 売りきれる前にあのケーキ屋さんでプリン買っといて っていうこと。 うちのママって変わってる。プリンを交換条件にずる休みを許す親なんて 学校の先生が知ったらきっと頭を抱えるだろう。 ママの車が出て行く音を確かめながら 朝ごはんのお皿を片づけて 着替えをして すぐに家を出た。 この季節には珍しいくらいに天気がいい。空の青さが際立って鮮やかだ。 空気は冷たく乾いている。歩くとさらさらと頬を撫でてくれた。 教室で教科書を開いてるはずの平日の朝に 私服で家を出るなんて初めてだ。 今頃はみんな 眠気やあくびをこらえながら授業受けてるんだ。そう思うと ちょっとした優越感も感じる。 見飽きてるはずの駅前への道もなんとなく違った道に見えた。うきうきして足まで軽くなる。 あたしは学校をサボったんじゃない ママに頼まれてプリンを買いに行くんだから 親公認の正当なずる休みだ。 ・・・なんて思いこもうとしたけど ずる休みはずる休みに違いない。 やっぱりなんとなく落ち着かなくなってきて 周りの人の視線を気にしながら駅前へ急いだ。 十字路の手前で足を止める。 通り過ぎる車を数台待ってから 信号のない横断歩道を渡った。 渡ってからまた足を止めて 左を見た。 ゆるやかに昇る坂沿いに大きなお家がずらりと続く 緑が多くて静かな道に目を向ける。 ここを左に進めば その道は周ちゃんの家へ繋がっている。 まっすぐ続く道を見つめてから なんとなくその上に広がる青空を見上げる。さっきは気付かなかった白い線があった。 青空にぴんときれいに引かれた 真っ白な糸。飛行機雲が 周ちゃんの家へ向かう方向に走っていた。 空に向けて携帯を構える。雲の線が画面の中央を切るように位置を合わせて シャッターを押した。 でも ちょうど押した時に 後ろから来たお姉さんとタイミング悪く肩がぶつかってしまった。 撮ってすぐにその写真を開いてみる。輪郭がブレた ぼんやり滲んだ飛行機雲になっていた。 失敗した写メの白線と 頭の上に広がる青い空を滲みなく走ってる白線を見比べる。 ―周ちゃんが見たら すぐにカメラ構えそう。― 口の中でそうつぶやいてから ああ と気付いた。 今朝から数えてもう五度目だ。あたし また周ちゃんのこと考えてた。 最後の一押しの前に目を閉じて すうっと息を吸い込んで深呼吸した。 指にぎゅっと力をこめる。これでメールが送信された。 パチンと携帯を閉じてから 目の前にある周ちゃんの家のインターホンを押す。 少し待ったけれど返事はない。昼間は留守が多い家だから やっぱり誰もいないみたいだ。 そうだろうなと思っていたから 門を開けて中へ入る。 駅前で買い物をして ハンバーガーを一個お腹に押し込んだだけで戻ってきたから 時間はまだお昼を過ぎたばかり。コンビニで寄り道すればよかった。思った以上に早く着いてしまった。 たぶん不二家は みんな揃って夜までお留守。もちろんこの家の鍵なんてあたしは持っていない。 でも 中に入れるはず。 あたしたちがまだ小さかった頃 裕ちゃんは遊びに行くたびに鍵をよく失くしていた。 失くしたときのために用意してある秘密の鍵の隠し場所が あの頃と同じなら―― ドアの横には鉢植えが何個も並んでる。端の一つをちょっと持ち上げて底を触ったら ・・・あった。 しっとりした陶器の肌触りとは違う 硬くて先がギザギザした感触が。 銀色がピカピカ光る鍵を目の前に下げた。見ていたら嬉しくなって 顔が ふふっ とほころぶ。 なんだかおかしい。自分が変。 あたし 今 ものすごくいけないことをしてる。いけないってわかってるからうしろめたい。 なのに ちっとも悪いなんて思ってない。 やっていることはまるっきり泥棒だ。人の家の鍵を盗んで ドアを開けて 勝手にお家に入ってる。 どれもばれたら警察に捕まる。これも立派な犯罪なんだってわかってるけど 途中でやめる気もない。 ただ 思った通りにしたいだけ。今朝 学校をずる休みしようって決めた時に こうしたいって思った通りにやってみたかった。 音をたてないようにそっとドアを閉めて そっと鍵を掛けて 靴を脱いですぐに階段へ向かった。 周ちゃんの部屋に入ると 中の空気が おとといと違ってほんのり温かい。 カーテンが開いて床が光に照らされている中を ゆっくり見回した。 テーブルもベッドも物だらけのあたしの部屋と この部屋とは 全然違う。 ベージュのベッドカバーで覆われたベッドは 枕元の端が折れてるだけで 皺がなくてきちんと整ってる。 新しいコンボと その横に重ねられたCD。棚にもたくさん お行儀よく並んでる。 窓際で日向ぼっこしてるサボテンの鉢がふたつ。その隣に 小さい頃に撮った写真。 笑ってる周ちゃんと一緒に並んで映ってるのは ちょっと泣きそうな顔で口を尖らせてる裕ちゃんだ。 机の上には数学とか理系の参考書。その下に あたしがおととい忘れていった あの雑誌が置かれてる。 近寄って雑誌を抜き取って 参考書をぱらぱら捲る。中は知らない公式で一杯。まだ買ったばかりみたいで 表紙も中もぱりっと真新しくて 一つだけ付箋が貼ってあった。それを閉じてから 持ってきた紙袋を見下ろした。 白い紙袋には 小さな鉢に植えられたサボテンが入ってる。 卵みたいに丸い緑色の頭の天辺には 刺々した短い針が立ち並んでる。あたしが割ったのと同じ種類のサボテンだ。 周ちゃんが気に入るかどうかはわからない。もし受け取ってくれても あのサボテンと同じようには 可愛がってもらえないかもしれない。あたしが割ったあの鉢は 去年も その前にも ずっと周ちゃんの部屋に 飾ってあった鉢だから。 あのとき。あたしがわざと手を払ったのはわかったはずなのに 周ちゃんは何も言わなかった。 落ちた鉢の残骸に目を見開いて 眉をひそめて 少し戸惑ったような表情はした。でも それだけだった。 窓の前に膝を折って 割れた鉢の欠片を集めはじめても 怒りもしなかったし 文句も言わなかった。 どうして鉢を割ったのかも訊かなかった。 そんな周ちゃんに腹が立って あたしが黙って部屋を出て行ったときも 何も。 袋から鉢を出して ベッドの枕元に置いた。 ポン と腰から飛び乗って マットのスプリングを大きく弾ませた。 ぎし ぎし と マットが軋む音がする。そういえば あのときも シーツの下で同じ音が鳴っていた。 そのまま後ろへ倒れて仰向けになった。真上に淡いクリーム色の天井が薄暗く広がる。 窓から遠くなるほど濃くなる影のグラデーションを 窓から部屋の奥まで目で追いかけて眺めながら マットの動きに身体を委ねてみた。 背中が上下にゆらゆら泳ぐ。海の中で波に身体を浮かせてるときみたい。 軋みが止んで 身体が動かなくなってから すうっ と深く息を吸った。 背中を包んだベッドカバーは 周ちゃんの髪と同じ匂い。 二日前までは 周ちゃんの髪の匂いなんて知らなかったのに。あたしの身体は もう 周ちゃんの匂いを覚えてた。 しんと静まった部屋の気配やかすかな香りを 肌が空気と一緒に吸い込んで伝えてくる。 あたしがよく知ってる周ちゃんの気配と あたしが知らない 今までに見たことのない周ちゃんの気配。 両方がこの部屋にいて 両方の気配がこの部屋の中で混ざり合っていて 周ちゃんがいないときも この部屋の中で息をしてるみたいだ。 仰向けから横向きに ころんと転んで姿勢を変えた。 ブルーの遮光カーテンは今日は開けられていて 窓辺がすごく明るい。 ガラス越しの光があったかい。半分閉じた瞼から まぶしさが透けて目に入ってくる。 あくびをこらえながら寝返りを打ったら 枕元に置いたサボテンと目が合った。 植物と目が合う なんて言うのは変なことだ。急に自分が不思議ちゃんになったみたい。 だけど 本当にそんな気がするんだから仕方ない。なんだか向こうもこっちを見ていて おかしそうに目を細めながら 話しかけてきそうな感じがした。 ―ねえ どうしてあたしを買ってきたの? もう許してあげないんじゃなかったの? ねえ ほんとうはさ あたしたちに負けてるみたいで 悔しかったんじゃない?だからあたしの仲間を叩き落としたんでしょ? あんたより大切にされているあたしたちに あんたは嫉妬してたんだ。 どうしてあたしのことも サボテンみたいに大事にして 可愛がってくれないの そう思って悲しくなったんでしょ。 ねえ そうだよね?そうでしょ?正直に言ったらいいじゃん― なんて 見透かされた生意気な言葉を投げかけられていそう。 なんとなくむっとして 鉢をぱちんと弾いてあげた。 すごく不思議だ。どうしてあたしはここへ来たんだろう。 ―自分でもわからない。 学校を休んで 勝手にこの家の鍵を開けて 嫌な目にあった周ちゃんの部屋にいるんだろう。 ―サボテンを探していた間も ハンバーガーを食べていた時も 階段を上がる途中でも考えたけれど やっぱりわからない。 さっき送ったメールを 周ちゃんはもう見ただろうか。 ―わからない。まだ見ていないかもしれない。まだ授業中の時間だ。それに わざと見ないかもしれない。 無視するかもしれない。あたしを避けるかもしれない。 周ちゃんは もう当分あたしの顔は見たくないと思ってるのかもしれない。 昨日の周ちゃんの態度は そんなふうに見えた。 ―勝手なことをしたのは認める。でも謝る気はないし 許して欲しいなんて思っていない― 周ちゃんはそう言った。 あのときは なんてことを言うんだろうと思ってかあっとした。やっぱり許せないとも思った。 だけど 謝る気はない なんて言い切ってみせた周ちゃんは あの後 あたしを抱きしめたままで こうも言った。 「身体、まだ痛い?」って。いたわるような声で 声を控え目に落として尋ねてきた。 あたしが何も答えずにいたら もう一度同じ声音で尋ねてきた。 「痛かったよね」 「・・・・・・・・・・・・・」 「が帰った後で気付いたんだ。怖くて言えなかったんだろうなって。 あんなに何度もやめてって 泣きながら叫んでたのに。一度も「痛い」って言わなかったよね」 そうじゃない。周ちゃんは誤解してる。 違うのに。たしかに怖かったけど 怖かったから言えなかったんじゃないのに。 周ちゃんに腹が立って 悔しくて 悔しすぎて「痛い」なんて泣き言は言えなかったからだ。 そう思ったけど 泣いちゃうくらい怖かったのも本当だ。 黙っておでこを押しつけて頷くと 周ちゃんは うん と掠れた笑い声を漏らした。 「ごめん。。・・・・・ごめん」 笑い混じりなのに苦しそうな声で繰り返してから あたしの頭にそっと触れた。 天辺から髪の毛先に向かって何度か撫でて その手が動かなくなった。 「怖い思いをさせたのは本当に悪かったと思ってる。でも。僕は少しも後悔してない。 だから、僕がしたことをに謝る気もないよ」 そう言われたけど ぜんぜん意味がわからなかった。わけがわからなかった。 周ちゃんらしくない。言ってることがおかしい。最初に言ったじゃない。謝る気はない なんて言ったくせに どうして。 どうしてそんなに苦しそうに謝るの。どうしてまた 「謝る気はない」なんて言うの。 それからすぐに周ちゃんは帰ってしまったけど あたしはずっと考え続けた。 コートに戻って後片付けをしていても 部室に戻って着替えているときも 周ちゃんのことばかり考えていた。 狭い部室の中は あの話で持ちきりだった。隣のクラスの あの子の噂だ。 今日も隣のクラスでは何かまた 新しい展開があったらしくて みんな着替えも忘れてその話に夢中になっていた。 隅にあるベンチに腰掛けて ミカの着替えを待ちながら みんなの声を聞いていた。 一年の子も二年の子も みんなが口々に 相手の男子を責めている。 ひどい。最低。許せない。 全部 あたしがおとといの周ちゃんにぶつけてやりたかった言葉と同じだ。 あたしもあの子と同じ。 周ちゃんがしたことを許してなんていない。 今でも怒ってるし 周ちゃんの顔なんてもう見たくないとも思ってた。 ・・・でも。違う。もう違ってる。 今のあたしはもう あの子と同じようには 自分のことを嘆いたりできない。 急に変わってしまった周ちゃんを ばか 最低 許さない って責めてやりたかった おとといのあたしとは違ってる。 周ちゃんの顔なんて当分見たくないって思ってた 昨日のあたしとも違ってる。 ―――わからない。わからないことだらけだ。周ちゃんのことも 自分のことも。 まだ怒ってるのに。許してなんていないのに。それでもあたしは どうして――― 「―――、。」 呼ばれて瞼が震えた。 ぱちっと目を開くと 見えるものが全部光に染まっていてまぶしかった。いつのまにか眠っていたみたいだ。 自分がどこにいるのかも呼んでるのが誰の声なのかも 一瞬わからなかった。 クリーム色の天井が見える。窓から入る光が天井に映っていて 真上でちらちら揺れていた。 まだ眠い。ぼうっとして目をこすりながら横を向くと 次に目に映ったのは 隣に座ってる人の肩。 周ちゃんの肩だ。 「・・・・・いま、何時?」 「一時半かな」 「・・・・・・・学校は?授業は?もう終わったの?」 「終わってないよ。」 周ちゃんは静かに言った。 今帰ったばかりなのかもしれない。キャラメルみたいな色の短いコートを着たままだ。 ベッドに深く腰かけ直して 通学カバンの中から何かのノートを一冊出した。 ジッパーを閉じると床に置いた。どさ、と 足元から重めな音がした。 あたしはベッドに寝たままで ずっと周ちゃんを見ていた。 声を掛けても 返事をしてくれても カバンを置いても 周ちゃんは一度もこっちを見ない。 今は睫毛を深く伏せて 開いたノートに目を落としてる。 「周ちゃんでもさぼったりするんだ」 「さぼるよ。あんなメールが来たらね」 すぐに返ってきた声はひんやりしていて あんまり機嫌が良さそうには聞こえない。 そうだと思う。あんなメールが送られてきたら 誰だって機嫌はよくならない。 だってあれは脅迫だ。今すぐ来てくれないと部屋のサボテン全部割るから なんて 書いてあって 自分がいないときに勝手に部屋に入られたって知ったら 誰でも頭にくると思う。呆れ返るはずだ。 でも うつむいてノートをみつめる周ちゃんの横顔は そんなに怒っているようには見えない。 部屋の中も 窓の外も すごく静かだ。 たまに外を通り過ぎる車の音と ページを捲る音が ときどき部屋に響くだけ。 あたしは周ちゃんをしばらく見ていて それから起き上がって ベッドの端で体育座りになった。 周ちゃんはやっとノートから目を上げた。明るい色の目がすこし開かれて 初めてあたしを見た。 ノートを閉じて 隣に置いた。 ぱさっ。布と紙が擦れる小さな音まで 他に何も音のない部屋の中では高く響いた。 「驚いたよ」 「・・・・あたしだって驚いたよ。こんなに早く帰ってくると思わなかった」 「今すぐ来いって書いたくせに」 「・・・そのくらい書かないと本気にしてくれないと思ったんだもん。ねえ。周ちゃんは何で驚いたの」 「僕は、からメールが来たから」 「・・・・・・・?」 「驚いたよ。メールなんてもう二度と来ないと思ってたから」 「何で?」 「はもう、とっくに僕と絶交したつもりでいるんだと思ってた。 昨日は中等部まで行ったけど、英二が引っ張ってくるまでは完全に避けられてたしね」 ――自分でも 無視されるのは当然だと思ったけど。 遠くなっていく車の音を追うみたいに 周ちゃんは窓の外を見上げながらそう言った。 まぶしそうに目を細めてる。 ガラスを通して眺める空には雲がない。でも 朝に見た色よりもすこし白っぽく霞んでいた。 「あれ。が持ってきたの」 さっき買ってきたサボテンを指して聞かれた。 忘れてた。眠っちゃう前に 鉢をそこに置いたんだった。 こっちに振り向いた周ちゃんは どうなの と目で聞いてくる。 その目はいつもみたいに柔らかく笑ってる。一番見慣れた周ちゃんの表情だ。 だけど いつもの笑顔なのに どこかが 何かが違っていた。笑顔のどこかに影があって なんとなく曇って見える。 「・・・割っちゃったから。この前は、ごめんなさい。」 「いいのに。」 「だって。気に入ってたんだよね?あのサボテン」 「いいよ。割れたのは鉢だけだし。気にしなくてよかったのに」 「うん。・・・でも。・・・・ごめんね。」 どうしてだろう。なんとなく落ち着かない。 くっついてもいないし そんなに近くもないのに 隣の身体が近すぎる気がした。 どうしても気になって 少しずつ後ろに身体を引いていったら 周ちゃんがベッドに手をついた。 ぎっ とマットが軋んで音を鳴らした。その音で肩がびくっと強張って 脚を抱いた腕に力が入る。 短くてひらひらしたスカートの裾をぱっと抑えた。 でも 何もなかった。周ちゃんは少し横へ腰をずらして あたしから離れたただけ。 周ちゃんは気づいたのかもしれない。何も言わなかったけど ふっ と口許が笑った。何か考えながらあたしを見ていた。 「・・・困ったな。」 「・・・なにが?」 「うん。今、に謝られるのは。きつい、・・・かな」 周ちゃんはくすくす笑った。おかしそうに言った。 でも 楽しそうな声じゃない。昨日と同じで どこか辛そうな声だった。 天井を見上げると 周ちゃんはそのまま後ろにぱたっと倒れた。 ベッドのスプリングが軽く弾んで あたしの身体までふわふわ揺れる。 「?・・・・・・・何で?」 「何でって。・・・・・・・」 窓から入る明るさも 部屋の奥までは届かない。 周ちゃんの顔も影になっている。光の中にいるあたしには よく見えなかった。 「謝られる理由がないよ。謝るのは僕の方で、じゃない」 さっきと似たような声で小さく言って また 少しだけ笑った。 その声を聞いていたら 喉の奥が苦しくなった。すごく悲しくなって 泣きたくなった。 ばかみたい。周ちゃんはばかだ。 僕のしたことは にも 誰にも許されないんだって 周ちゃんはあたしに言った。 けど そんなの嘘だ。 周ちゃんを許せないのは あたしじゃない。他の誰かでもない。自分が許せなくて苦しんでる周ちゃんだ。 いやだ。そんなことを言う周ちゃんは そんな顔で笑う周ちゃんは 見たくない。 そんなのいやだ。ぜんぜん周ちゃんらしくなくて歯痒くなるし 見ていたらあたしまで悲しくなる。 少し考えてから あたしは脚を抱いていた腕をほどいた。 周ちゃんと同じように 並んでベッドに横になる。 マットが軽く弾んでる。ふわふわ ふわふわ 寝転んだ背中が波打った。 顔に光が当たらないから 急に部屋の中が薄暗くなったみたいだ。 クリーム色の天井の 一番窓から離れた暗いすみっこまで目を動かしながら 口を開いた。 「周ちゃん」 「うん」 「・・・・・お天気いいね。こんなに晴れてるのってひさしぶりだよね」 「ああ。そうだね」 「さっき駅前に行ったときにね、きれいな雲が出てたの。写メ撮ったんだけど、見る?」 スカートのポケットから携帯を出した。今朝撮った写真を画面に出して 周ちゃんのほうへ差し出す。 しばらく間を置いてから 周ちゃんの手は携帯の端を掴んで受け取った。 「見た?」 「うん。綺麗だね、飛行機雲」 「すごくきれいだったよ。周ちゃんも好きそうな雲だなあと思って・・・、見せてあげようと思って撮ったの」 「そうだなぁ・・・・・、構図はいいんじゃないかな。少しブレてるのが残念だけど」 「シャッター押したときに後ろから来た人とぶつかったからだよ。・・・・・・ねえ。周ちゃん」 「うん」 「どうしてあたしが周ちゃん家に来たのか、わかる?」 「サボテンを割りに?」 「違うよ。サボテン割るよりも、もっと周ちゃんを困らせてやるために来たの」 はい と笑い混じりな声がして 周ちゃんの手があたしの携帯を目の前に差し出してきた。 受け取って ぽい と 頭の傍にそれを投げた。 「周ちゃん」 「うん」 「周ちゃんのことはまだ怒ってるよ。嫌いだって思ったよ。でも、・・・・・・いくら怒ってても、・・・絶交とか、ないよ。 周ちゃんを絶対に許さないなんて、そんなの、ない」 そんなの ないよ。 胸の中でもう一回繰り返してから 横を向いた。 周ちゃんはあたしから顔を背けていた。 横顔も見えない。長めに伸びた髪が その髪と似たようなキャラメル色をしたコートの襟足を覆ってる。 腕を伸ばしていて あたしの目の前に 半分握ったかたちになった手が投げ出されてる。 その手に触ってみた。触ったときに 周ちゃんの手は気配をふっと変えた。でも 何も言わなかった。 動かない手をつかまえて 一方的に握手するみたいに握ってみた。仲直りの握手みたいだ。 あたしから手を繋ぐのなんて 何年ぶりかな。思い出そうとしたけど わからなかった。 「この前のことは、・・・まだ怒ってるし、また、あんなことになるのは・・・・・、やっぱり、怖いよ。 あたしね。周ちゃんを、男の子として好きかなんて、まだ、・・・わかんない。だから、嫌だって泣くかもしれないし、 周ちゃんにムカつかれても、・・・まだ、あたしは、少しずつじゃないと、・・・無理だよ。わかんないよ。・・・・・・・けど」 天井を見つめながら 精一杯考えて ひとつずつ言葉を選んだ。 言いたいことを間違えないように。言いたいことが伝わるように。 話す相手は周ちゃんなのに。どうしてこんなに 今までにないくらいに いろんなことを考えてるんだろう。 ひとことずつ ゆっくり考えながら口に出しているのに なぜか落ち着かなくて ドキドキしていた。 今までのあたしが知らない よくわからないドキドキだ。心臓が とくん とくん と 大きく弾んだ。 大きくなっていく心臓の音を身体に押し込めながら すうっと静かに 胸の奥まで息を吸う。 これで周ちゃんに伝わるのかな。わからない。わからない。わからないけど でも。 「でも、あたしは、周ちゃんと一緒がいい。 ・・・・・・・・・だって。どれだけ怒ってても、・・・怖い目にあっても。周ちゃんを嫌いになんて、ならないよ」 あのときの周ちゃんを まだ怒ってることもある。 全部許したのかって言われると そうじゃないかもしれないって思う。 でも 今のあたしにとって大事なのは 周ちゃんを許すとか許さないとか そんなことじゃなくて。 男の子として好きとか そうじゃないとか。そんなことは 今は どうでもよくて。 だって この感情に付ける名前が 誰から見ても恋とは呼べなくて 誰かが違うって言い張っても きっとそれはたいしたことじゃない。 あたしは周ちゃんがいい。周ちゃんと一緒にいたい。怒っていても 嫌いだと思っても 一緒にいたいのは 周ちゃんだ。 周ちゃんにしかわかってもらえないこともある。 他の子に話してもわかってもらえそうにない 他の子には話そうとは思わないことが一杯ある。 体育でグラウンドを走りながら あたしたちってハムスターみたいだと思ったことも。 サボテンを割ったときに すごくさみしかったことも。プリンでずる休みを許したママがおかしかったことも。 真っ青な空に走る飛行機雲を見上げて すごくきれいだと思ったことも。 空に向けて構えた携帯で あの雲を周ちゃんに見せてあげたいと思いながらシャッターを押したことも。 晴れた空と そこにぴんと引かれたきれいな白線を見上げたときに感じた嬉しさを 一緒に写真を眺めて分け合いたいと思うのは あたしには周ちゃんだけだ。他にはいない。 ――たったそれだけの理由で あたしを好きだって言う男の子の傍にいたいと思うのは すごく勝手で わがままなことなのかもしれない。しちゃいけないことなのかもしれないけど。 ・・・だけど。周ちゃんがあたしにしたことだって すごく勝手でわがままだ。 「だからね。もういいよ。・・・周ちゃんも自分を許してよ。ね?」 言いながら 言わないほうがよかったのかな とも思った。 あたしがこんなことを言っても 周ちゃんの自己嫌悪は終わらないのかもしれないなあって。 こういうときの男の子の気持ちなんて あたしには全然わからない。 もしかしたら もっと気にするのかもしれないし 励まされたらもっとつらいのかもしれない。 でも あたしだって わからない。あたしだっていろいろ自信がない。 許すって 何 とか こうしてるとやっぱり怖いかもしれない とか。こんな気持ちは恋じゃないのかもしれない とか思う。 好き とは違うかもしれない とも思う。 だけど それでもいい。だって 呼び方なんてどっちでもいい。 それでもあたしは周ちゃんがいい。あたしには周ちゃんが必要だ。 「・・・ねえ。周ちゃん」 指を折って きゅっ と握って 周ちゃんの手に呼びかけた。 周ちゃんの手は力が抜けきっている。指も手のひらも動かない。 何も言ってくれないし 動きもしないから 横を向いて その手を目の前まで勝手に引き寄せる。 重ねた手のひらは細長くて固くて ひんやり冷たい。コートの袖から 朝に嗅いだ風と同じ やわらかい匂いがした。 「ねえ。駅前のケーキ屋さんに行こうよ」 「・・・・・・うん」 「ケーキ二つおごって。オレンジの匂いがするカフェラテも飲みたい」 「うん」 「ママにプリン頼まれてるの。もう予約してあるんだ」 うん と周ちゃんは小さく繰り返した。それから寝返りを打った。 振り向いた周ちゃんはこっちをまっすぐ見てくる。さっきと同じような いつもの表情で笑ってる。 周ちゃんはいつも 考えてることをあんまり表情に出さない。だから さっきと何も変わってないみたいにも見える。 でも あたしは さっきは曇っていたその目が さっきよりも少しだけ晴れているような気がして ちょっと嬉しくなった。 あんなに色々喋ったあとで 目が合うのって恥ずかしい。 すぐ逸らしたくなったけど こっちから目を逸らすのはちょっと悔しいから 何も気にしていませんってふりをする。ばれないようにと思って ちょっとだけ笑ってみた。 黙って笑っていた周ちゃんの口が ふわりと開いた。 「」 「うん。なに?」 「キスしたい」 少し掠れ気味な声でそう言われた。 言われたことに戸惑って どうすればいいのかわからなくなって あたしの口も ふわりと開いた。 重なっていた周ちゃんの手が 手のひらをそっと握り返してきた。冷たい指先が 気持ちよかった。 「・・・・・・うん。いいよ。」 あんまり唐突でおかしくなったけど 周ちゃんが少し困ったような目をしてるから あたしは笑わないようにして ベッドカバーに身体を擦りながら顔を寄せた。 やっぱりわからない。 周ちゃんて。――男の子って わけがわからないって やっぱり思う。 きっとあたしは これからも 周ちゃんのことがちっともわからなくて はがゆくて 泣いたり怒ったり せつなくなったりするんだ。 そう思ったら なんだかこれからもっと大変なことになりそうで やめておこうかな 今のうちに逃げたほうがいいのかな と思う。 なのに 周ちゃんの手が あたしの髪を撫でようとして伸びてくるのを見ていたら 目の端に涙が滲みそうになった。 ちょっと泣きそうになるくらいに 嬉しかった。 何も言わないで キスをした。冷たい唇がそっと 軽く触れただけだった。 いやじゃなかった。周ちゃんのキスは いやじゃない。 キスなんてしたのはおとといだけなのに 身体はもう「このキスはいやじゃない」って覚えていた。でも まだ それだけだ。 周ちゃんと一緒にいたい。 まだ これだけしかわからない。あたしにはまだ 何もわからない。 周ちゃんのことも。あたしのことも。これからあたしたちがどうなるのかも。 恋とか好きとか そういう気持ちが どうやって育つのかも。 だって 実感がぜんぜんわかない。想像がつかない。 そんな不思議なものが あたしの中にも育つんだろうか。 それはどこから始まって あたしの身体のどこに種を落として どこから芽が生えて どうやって育っていくんだろう。 ベッドカバーごと身体が引き寄せられて 柔らかいベージュの中に ごそごそと 二人でくるまった。 頭まで被ったカバーの中は 薄暗くてふわふわしている。 周ちゃんの髪の先も あたしの頬にふわふわ当たって 温かいけど落ち着かない。 あたしを見ている周ちゃんの目が すごく近い。ベッドカバーを透かした光を集めているみたいな 明るい色の目は やっぱり不透明なビー玉みたいな 不思議な綺麗さだった。 この目にはあたしがどう見えるんだろう。そう思ったら恥ずかしくて つい目を閉じて なんとなく思った。 あたしたちが抱き合ってるベッドの ぐちゃぐちゃになっていくシーツの下からも。その種はいつか 小さな芽を吹くのかな。

「 きみがぼくをしってる 」 end*  text by riliri Caramelization 2010/03/11/ ----------------------------------------------------------------------------------- 不二先輩 お誕生日おめでと――!! …遅っ