ばた、ばた、ばたばたばた。 閉め切った障子戸の向こう側を、誰かの影が忙しない速さで過ぎていく。 遠ざかっていった足音が角を曲がって、聞こえなくなってからまた一人。すこし間を空けてもう一人。 庭を挟んで向こうにある隣棟からは、何か打ち合わせをしているらしい声が低いざわめきになって流れてくる。 一時間くらい前からずっとこうだ。 うとうとしかけるたびに誰かの気配が障子の向こうに現れて、眠気に水を差されてる。 失敗したかな。 不気味なくらい静かだった夕飯前までに、ちょっと眠っておけばよかったのかもしれない。 つい三時間前――大晦日の歌番組をぼんやり眺めていた頃までは、普段は賑やかなこの屯所は 嘘のように静かだった。昼過ぎに起こったショッピングモールの爆破事件でほぼ全員が出払ってしまって、 すっかりもぬけの空だったのだ。みんなが出払ってからの数時間は、知らない場所に来てしまったようで不思議だった。 廊下に出てもどの部屋を覗いてみても、誰とも顔を合わせないんだから。 行けば必ず誰か知った顔に会えるはずのここの食堂で、あたしは今晩、珍しく一人きりで夕飯を食べた。 それがようやく一人、二人、と疲れた顔で帰ってきて、廊下を人が慌ただしく行き交うようになって、いつもの活気が戻って。 今では真夜中とは思えないくらいのにぎやかさ。部屋の外を頻繁に通る足音で、居眠りから自然と揺り起こされてしまうくらいだ。 足元にある火鉢の上では、薬缶がほのかな湯気を昇らせている。 頭まで毛布を被った身体でずりずりと畳を這って、キャベツの上をのそのそと動く芋虫みたいに近寄っていく。 ほんのりした炭火の熱に手をかざして、蒸気の音に耳を澄ます。 持ち上げるだけでも力の要る真っ黒な鉄製の薬缶は、ほんのわずかな、くつくつと柔らかい音で煮立っていた。 押入れの前にはピンクのスーツケース。中にはここへ泊り込む時の必需品が詰まっている。 こんなに寒くなるとは思わなかったから、厚手のものを一枚も詰めてこなかったのを、ちょっと後悔しているところだ。 足の爪先が冷え過ぎてじんじん痛む。もぞもぞと毛布の中で爪先同士を擦り合わせる。 夕方から急に寒さが増した気がする。明日は雪でも降るのかな。三日先まで晴れだった天気予報は外れていたのかもしれない。 もっと着こみたいところだけれど、生憎と着込むものがない。 用意が悪い、と叱りながら自分の着物を貸してくれる人はいない。しかたなく毛布にくるまって、火鉢ひとつでやり過ごす。 音を低めて点けっ放しにしたテレビの中では、新年のカウントダウンが始まるところ。 どこかのスタジアムらしい大きなステージでは、スポットライトを浴びたお通ちゃんが元気な笑顔と掛け声を振り撒いている。 少し離れた場所から障子戸をがらっと引く音がした。この勢いの良さ。たぶん近藤さんだ。 遅いなぁ。この棟に自室がある人はもうみんな帰ってきているのに。 あのひとだけがまだ来ない。 ふう。 軽く尖らせていた唇の先からは、自分でも気づかないうちに重たい溜め息が漏れ出て。 「・・・いつになったら帰ってくるのかなぁ、土方さん・・・・・・・」 あたしのつぶやきを消し去る音量で、テレビの中からは「ハッピーニューイヤー!」の大歓声が湧き起こっていた。

お お か み さ ん の ふ ゆ や す み *1

横に放り出していたリモコンを持ち上げて、ぱちん。 ステージライトに照らされてカラフルだった画面が途端に暗くなる。 ぽいっ、とリモコンを投げ出した。毛布の中で背中を丸めて、膝を抱える。 いよいよこれで、何もすることがなくなった。 持ち込んだお菓子は全部食べてしまったし、コンビニで買ったマンガは何度も読み過ぎて飽きてしまった。 一人ぼっちであんまり暇だったから、夕方には部屋の掃除までした。布団だってもう敷いてある。 部屋の中央に、どーんと。シーツをぴんと張って綺麗に敷いて、中には湯たんぽまで仕込んでみた。 だけど眠る気になれない。あのひとよりも先にあの中で休んでいるのは気がひける。 それに――あの中へ潜り込んでも、あまり眠れる気がしない。今だってほんとうは、胸の中がなんとなく落ち着かない。 不安、とまではいかないけれど、なんとなく――そう。なんとなく、ざわざわした気分だ。 せめてここへ戻ってくる土方さんの姿を一目でも見てから。無事を確かめてから眠りたかった。 深夜になって屯所に活気が戻ってからは、この変なざわつきはもっとひどくなった。今日の現場の状況も知りたかったから まだ戻っていないはずのひとの目を気にしてきょろきょろと辺りを伺いながら、玄関先までみんなを出迎えにも行った。 土方さんが知ったらいい顔はしないだろう。「また発作が出たらどうする」って叱られそうだ。それでもこっそり行ってみた。 廊下を進むにつれて濃くなっていく血の匂い――嗅ぎ慣れた異臭は、混み合った玄関先で吹き溜まっていて 靴を脱ぐために腰を下ろした人たちは、どの人も疲れきった様子をしていた。誰も彼も、こびりついているのが血なのか泥なのかが 判別できないくらいの姿をしていた。「お疲れさまでした」と声を掛けると、みんなが口々に「きつかった」って笑う。 二言目には「腹減った」「とにかく風呂だ」と、声を揃えて言い合っていた。 思うことは誰も同じだろう。ここのお風呂と食堂は、きっと今頃芋を洗うどころの騒ぎじゃなくなっているはずだ。 ばた、ばた、ばたばた、ばた。 足音と人影が、またひとつ障子戸の向こう側を通り過ぎて行った。遠ざかっていくその音の方向をぼんやりと目で追った。 隣の棟から庭を渡って流れてくる誰かの笑い声。どこかの戸が閉まる音。 波音みたいな物音たちにじっと聞き耳をたてながら、小さく溜め息をついて膝を抱える。 ・・・なんだか今のあたしって、飼い主の帰りを待ちわびている犬みたいだ。しかも、かなりの忠犬かも。 何かの事件に忙殺されて、市中のどこかを駆けずり回っている土方さんを、じっとこの部屋で待つ。 いつものことだ。こんな夜は何度も過ごしてきた。そのくらい慣れっこだと自分でも思ってた。 でも、こんな気持ちで――こんなに落ち着かない気持ちであのひとを待つのはいつ以来だろう。 年末年始を屯所のこの部屋で過ごすのだって、隊士だった頃にもあったことだ。 ただ、事故や事件が急に多発するために出動回数も増える年末恒例の忙しさや、幕府が行う催事の警備とかで 毎年何かと慌ただしかった大晦日の夜を、こんなに静かに迎えたことはこれまでに一度もなかったから。 「おーい。ー。いるのかー?まだ起きてるかぁー」 遠くの誰かに呼びかけるような、張り上げた声があたしを呼ぶ。 やっぱり。近藤さんの声だ。今帰ってきたのかな。 「はぁーーーい。起きてまーす」 こてん、とうつぶせに畳に倒れて、芋虫ポーズでのそのそと畳を這っていく。 開けた障子戸の隙間から顔を出したら、戸を開ける寸前だった近藤さんとちょうど目が合った。 きょとんと開いた右目の下には、昼にここを出て行った時には無かった切り傷が走っている。 隊服を脱いで肩に掛けた全身から硝煙と血の匂い。両手の爪先に赤黒いものがたっぷりとこびりついていた。 障子戸を掴みかけた手を止めて何秒かあたしを見つめてから、近藤さんは可笑しそうに肩を竦め。ぷっ、と吹き出して破顔した。 「ははははは。なんだお前、すっぽり被っちまって。水族館からアザラシでも逃げてきたかと思ったぞ」 「防寒対策ですよ。だってここ、火鉢しか暖房がないから寒くって。おかえりなさい、お疲れさまでした」 「おう、お前もな。一人で留守番御苦労さん」 ぽん、ぽん。 分厚くてがっしりした近藤さんの手に、毛布の上から頭を軽く叩かれる。ふふ、と思わず嬉しくなって笑ってしまった。 近藤さんは時々、まるで小さい子でもあやすような仕草であたしに構う。その度になぜか懐かしい気持ちになるのは、 たぶん、このしっかりした感触が、記憶の中にある義父さんの手の感触にどことなく似ているからだ。 「近藤さん、怪我は?大丈夫ですか」 血をこびりつかせた手の様子を気にしながら訊いてみる。 すると近藤さんは、ん?と唸って、不思議そうな顔をした。それから自分の手を見つめる。 「あー、これのことか?いやあ、違う違う、心配すんな。俺のこいつは見た目だけでなぁ」 「え?」 「こいつはなあ、いつものあれとは違うんだ。自前の血でも返り血でもねえ。爆破現場で怪我人を運んだ時にな」 障子戸からすっと顔を出し、軽く部屋の中を見回した近藤さんは、ふと口をつぐむ。 ほんの一瞬だけ、何かを後悔しているような、少し悲しそうな目であたしを見つめた。・・・何だろう、今のは。 「・・・近藤さん?」 「ん?ああ、いや。その、なあ。・・・なんとなくな。思い出しちまってよ。 ・・・まったくひでぇ現場だったよ。場所柄だろうが、どこも女子供の遺体ばかりでな。今日のところは現場検証よりも、 救急隊に混じっての救助活動が優先だった。俺ぁもっと救助の手助けをしたかったんだが、迂闊にひょこひょこと動き回ると ・・・トシがなあ。「あんたはじっとしてろ、下への示しがつかねえ」ってな。目ぇ光らせて怒るからよー」 実はなぁ、たいした仕事は一つもしてねえんだ。 近藤さんは心底済まなさそうな表情をして、血まみれの手でぼりぼりと頭を掻いた。 思ったように役に立てなかった自分を恥じているような態度だ。ううん、近藤さんのことだから、 きっと本気でそう思ってるんだろうけど。・・・土方さんが見たら目の色変えて迫るだろうな。 「そういうこたぁ他の奴等にやらせとけ、あんたはどっしり構えときゃあいいんだ」って。 でも。近藤さんが現場でいてもたってもいられなかっただろう気持ちには、あたしも想像がつく。 夕方のニュースで見た現場の惨状は、つい昨年建てられて真新しいはずの建物がすっかり瓦礫の山で。 濛々と灰色の煙が立ち込めて、火がところどころに上がっていて。カメラ目線の遠いアングルでも充分惨いものだったから。 「そっか、・・・でも、近藤さんに怪我がなくてなによりですよ。もうみんな戻ってきてるんですか。怪我した人は?」 「いいや、珍しく各隊とも負傷者無しだ。総悟は他の隊長どもと、俺より先に戻ったはずだぞ。山崎はなあ、どうか知らんが、・・・・・」 口を止めて膝に手を付き、腰を屈めて姿勢を落とす。 ところでな、と表情を少し曇らせた微妙な笑顔を浮かべて前置きした。 「トシがなぁ。まだ戻れそうにねえんだ。切り上げるのが明け方になるかもしれねえから、先に寝ておけって伝言だ」 「・・・・・・」 「ん。どうした。やっぱり不満か。そうだよなぁ。寝ねえでずっと待ってたんだろう、お前」 「え、・・・いえ、そうじゃないんです。ただ、・・・変だなぁと思って」 ぱちりと瞬きして近藤さんを見つめた。 なんだか土方さんらしくない。だって、なんとなく遠回しだ。 しかも伝言を頼んだ相手が近藤さんだなんて。パシリ扱いしてる山崎くんならまだわかる気もするけど、どうして。 「・・・いつもなら電話してくれるのに」 ぽつりと口にしたら、微妙だった笑顔は眉をしかめた苦笑いに変わった。 「そうだなあ、・・・俺ぁついでに頼まれただけだが。その、あれだ、・・・ 自分じゃ言い出し辛かったんじゃねえのか。うん、そうだなあ、どうもそんな雰囲気だったぞ、あれは」 「えーっ、そんなこと思われたら逆効果ですよー。あたしだって気になって眠れませんから」 「ははは、そうか。そうかもなぁ。まあ、眠れねえようなら狸寝入りでもしてごまかしておけばいいさ」 じゃあな、よく休めよ。 そう言って踵を返してから、近藤さんはまた振り向いて言った。 「おぉ、そうだった。そういやあもう年を越してたんだったな」 「あ。そうでした!」 「だからって改まって言うほどのこたぁねえんだがなぁ。今年もひとつよろしくな」 「はい!あけましておめでとうございます。お年玉も待ってます!」 「いやあ、お年玉ときたかぁ。そういやあ総悟も言ってやがったなぁ、「お年玉下せェ」ってよー」 「はい。あたしたちね、こたつを買うんです。お正月セール中に家電屋さんに行こうって、総悟と約束してるんですよー」 ご協力、よろしくお願いします。 毛布の中で畳に手をついて、ぺこん、と大きく頭を下げる。 ははは、と豪快に声を上げて笑った近藤さんは、アザラシに餌をねだられた、と可笑しそうに帰っていった。

「 おおかみさんのふゆやすみ *1 」 text by riliri Caramelization 2010/12/27/ ----------------------------------------------------------------------------------- 現在編でお正月です 途中で年齢制限入りますが あまりヤマもなくオチもなくのんびりで いちゃいちゃとつづきます。     next