あれは何時頃だったんだろう。 瞼の裏を照らしてくる淡い眩しさで目が覚めた。 最初に見えたのは暗い天井だった。そこから視線を横に移すと、縁側に面した障子戸一面が ――真っ暗な部屋の中でそこだけが、白々とした光に照らされて浮き上がってみえる。 戸を透かして入り込んでくる強い光。あたしが寝ている布団とその周りの畳まで照らしている。 今夜は満月なのかな。思わず目を細めてしまうような月明りだ。 寝覚め直後でぼんやりしているはずの視界にもくっきりした白黒の輪郭を与えている。
お お か み さ ん の ふ ゆ や す み *2
香りの乏しい冷気の中には、よく知った煙草の匂いがわずかに紛れていた。 起き上がって布団を出る。頭から被った毛布を引きずりながら、月明りを浴びた障子戸へ向かった。 薄く隙間を空けると、ほんの少し前までは布団の中でぬくぬくと甘やかされていた肌には 痛いくらいの冷気が忍び込んでくる。急な温度差のせいで喉が驚いたのか、咳が出かける。 両手を口に宛てて我慢して、そうしている間にも自分を包んでいく寒さに思わず身を縮めた。 裸足の爪先を凍てつかせる刺すような空気。微かな物音なら容易く掻き消してしまいそうなこの独特な静けさ。 ぴんと張りつめて透きとおっていて、どこか厳しい。冬の深夜にしか感じられない気配だ。 ・・・ああ。そうだ。やっぱり。帰ってきてるんだ。 戸にもたれかかって外へ顔を出す。隣の部屋の前には、胡坐で腰を下ろした隊服のままの姿があった。 直視すると目がくらんでしまう、眩しくて大きな月が出ていた。土方さんの頭上の空で輝いている。 庭に視線を向けた姿を障子の影から窺っていると、静電気みたいな素早い痛みが、ぴりっ、と頭の片隅を走っていった。 「・・・っ、」 頭の右奥がほんの少しだけ疼いている。こめかみをきつく抑えても止まなかった。 これも寒さのせいなのかな。さっきの咳とおなじで、急な温度差に身体が驚いているせいなのかも。 指先で痛みを宥めながら歩いていく。 一日がかりで手こずらされたあの爆破事件に疲れきって、ほとんどの人が寝静まっているみたいだ。 暗闇を伝ってくる深夜の気配に耳を澄ましてみても、物音ひとつしなかった。 この静けさだ。あたしの足音には気づいているだろう。それでも振り返ろうとしない背中を見つめていると、 なにかよくわからない、不思議な感覚が湧いてきた。 知っている。あたしはあの背中を――みたことがある。あんなふうに、一人で深夜の縁側に座る土方さんを。 見覚えがある。そう感じたし、こんな頭痛にもどこかで煩わされた覚えがある気がした。 この痛み。これも知っている。頭の奥に流されたパルスみたいに走っている、なかなか止んでくれないかすかな痛みを。 なのにこの痛みに纏わる記憶があたしの中にはない。いつだっけ、と思い出そうとしても見つけられない。 自分のことなのに思い出せないなんて。なんだか釈然としない、妙なかんじだ。 思い出すのにひどく長い時間を要するような、強烈な物忘れをしているみたい。 ひた。ひた。ひた。 裸足の足裏がかじかむほどに冷たい。夜露で湿った床板をかすかに鳴らして歩いていく。 こめかみに残る頭痛と、それに纏わりついた違和感を気にしているうちに、腰を下ろしたひとの傍まで辿り着いた。 土方さんの周囲には、ほんのわずかに――煙草の煙と冷気に紛れて消えてしまうくらいのわずかさで、血の匂いが漂っていた。 「土方さん」 声を落として控えめに呼んでみる。寒さに凍えてしまったせいで、歯がかちかちと鳴っている震え声になった。 返事はなかった。あたしの声が聞こえているらしい反応もない。黙って庭に視線を向けている。 煙草を咥えて薄く開いた口許から、たまに吐息が白くこぼれる。少し待ってみたけれど、やっぱり何も言葉はなかった。 一歩だけ近寄って、こっちを振り返りもしない真っ黒な頭の天辺を見下ろす。 土方さんの手許からは、白い煙がゆらめきながら昇っている。煙草を挟んだ指先は凍りついたみたいに動かない。 このひとの周りだけ時間が静止しているみたいに空気が重たい。 毛布を被り直しながら傍にしゃがんで、感情まで冷気に冷やし固められてしまったような表情を窺った。 「おかえりなさい」と瞬きもしない横顔に喋りかけてみる。それでも返事はなかった。 「そんなところで。・・・寒くないの」 「お前ほどじゃねえ。歯が鳴ってんじゃねえか」 「うん」 「部屋ァ入ってろ」 「・・・土方さんは?」 二度目の問いかけには返事をくれなかった。 長い指が煙草を口から外して、深く睫毛を伏せる。少し逸らされたその顔は、 あたしが隣にいることまで忘れてしまったような無表情だ。 言いつけも聞かずに、脚を崩した姿勢で横に座った。袖と袖が触れ合うくらいの距離まで身体を寄せる。 それでも暗く据わった目で庭を眺める横顔は、あたしを拒んでいるみたいに動かない。 気づかれないようにそっと手を伸ばす。床を覆った隊服の裾に触れた。 分厚い布地の表面が夜露でひんやりと湿っている。すごく冷たい。触れ続けていると指先が凍傷になりそうな冷たさだ。 腰から伝わってくる廊下の床板の温度とあまり変わらないような気がする。 「いつからここにいたんですか」 「・・・さあな。忘れたが。・・・十分程度じゃねえか」 「えー。うそだぁ」 「嘘じゃねえ」 「うそですよー」 そんなはずないよ。 ほら。この裾に触ればわかる。こんな遅い時間まであなたに付き合わされた隊服は、こんなに冬の寒さを染み込ませているのに。 顔が半分隠れるくらいにくるまれた毛布の中で、声を抑えてくすくすと笑う。 ふ、と隣から、短くて籠った響きの笑い声が耳に届いた。 あたしは毛布の中の身体をもぞもぞと動かして、手だけを出して。床に手を突いた土方さんの腕に ぴったりと抱きついた。腕を絡め、頬を寄せたのは隊服の右腕。このひとの利き腕が右腕だからなのか、 血の匂いが特に強い。隊服に染み込んだ冷たさと、鼻孔を突くような匂いの濃さと鋭さは 普段は思い出さないようにしているいろんな記憶をあたしの中にちらつかせた。 「・・・少しはあったかくなった?」 そう訊いてもこっちを見てくれないからつまらない。 普段なら自分から抱きつこうなんて思わないんだけど、――いつもとどこか違う様子なのが気になったし、 この時間なら人目を気にしなくてもいいから、・・・ちょっと背伸びして頑張ってみたのに。 ちぇっ、と小声でつぶやくと、土方さんが表情を緩めて声もなく笑う。肩が可笑しそうに揺れていた。 「風邪引いたって知らねえぞ」 「追い返そうとしたってだめですよー。ここにいるの。土方さんが部屋に入ってくれるまでは戻りません」 「・・・なら。せめて離れろ」 また倒れられちゃかなわねえ。 疲れきったような声で溜め息混じりにそう言って、脇に置かれていた刀を目で指した。 鞘にも柄にも、赤黒い飛沫が飛び散っているのが暗い中でもうっすらと見える。あの鞘を抜いたら一際濃い匂いがしそうだ。 人の血を吸った刀の匂い。鉄錆のような香りが混ざった、嗅いだ人に生々しく襲いかかってくる強烈な匂い。 一度あれを知ってしまったら誰だって忘れられなくなるだろう。記憶の底にこびりついてしまう匂いだ。 「お前。とっくに気づいてんだろ」 「うん」 「うん、じゃねえ。だったら俺の言いてえこたぁ判んだろ」 「うん。なんとなく」 「・・・。お前なぁ。ちったぁ自覚しろ。いつ出たっておかしかねえんだぞ、あれぁ」 「大丈夫ですよ?最近は息苦しくなったこともないし。あっ、もしかして!もう治っちゃったのかなぁ」 「・・・・・・・・。んなわけがあるか。ったく、・・・」 鋭い目を細めて横目にあたしを睨んだ土方さんは、ちっ、と舌打ちして、口端をつまらなさそうに大きく下げた。 面白くなさそうにしているひとには悪いけれど、――その顔を見つめていたら、なんだか嬉しくなってしまった。 だって。判ってるよ。そんな顔されなくたって。 いつ出るかも判らないあたしの発作のことを、今でも心配してくれていることも。 疲れきって屯所に戻ったはずのこのひとが、自分の部屋で休もうとしなかった理由も。 ここに座っていた土方さんから、かすかな血の匂いを感じたときにはもう判ってた。 でもね。大丈夫。そんなに心配してくれなくてもいい。 土方さんはこんな時、いつもそうやってあたしを遠ざけようとするけれど。 あたしには見つからないように、影から心配そうな視線を向けてくれているのも知っているけど。 でもね。 土方さんから見れば頼りなくて危なっかしくて、ちょっとしたことでも弱音を吐いてばかりのあたしだって 大好きなひとのためなら、ちょっとだけ強くなれるんだよ。 ・・・そんなふうに思ってしまうのは、この温かさを独り占めしていられるせいで生まれた、図々しい自惚れなのかもしれないけれど。 「大丈夫。平気だよ。このくらいなら平気だから」 「はっ。どうだかな」 「・・・?」 「お前の「大丈夫」は信用ならねえ」 「なにそれぇ」 つまんない、と拗ねながら、ぎゅうっと抱いた腕を締めつける。 あーあ。ほんとうに土方さんって可愛くない。疲れきってるはずの時でもこういう口の悪さは減らないんだから。 煙草を口端に差した土方さんは、あたしが口を尖らせても知らんぷりで、何か考えているような目つきを庭に向けている。 その姿を横から見つめているうちに、なんとなく不思議になってきた。 腕や胸元から血の匂いは漂ってくるのに、煙草を挟んだ指に汚れはない。白いシャツやスカーフの襟元にも、血の跡はない。 どこかで染みを落としてきたのかな。・・・でも、どこで? 怪しいなあ、と首を傾げながら、抱きついた腕を引っ張った。 「いいですってばもう、あたしのことはぁ。それより土方さんは?疲れてないの?眠くないんですか」 「ああ。まあな。あんな現場だ。疲れはしたが。・・・眠くはねえな」 ひどく気だるそうな、全身から息を吐き出すような長い溜め息を吐き出して。 土方さんの表情が変わっていった。 眉を少しだけ顰めて。思い出したくない何かを思い出してつい零れ出たような、複雑そうな苦笑いに。 「身体はそれなりに疲れはしたが。・・・眠れる気がしねえ」 独り言みたいな静けさでつぶやいて、深く目を伏せて黙り込む。 冷えきった夜の空気の中を沈黙が流れていくうちに、抱きついた腕の気配が、どことなく硬くなっていったような気がした。 「・・・土方さん」 「あぁ?」 「もう行こ?こんなところにいたら凍っちゃう。部屋に戻ろうよ」 言いながら手を伸ばした。口端に挟まれていた煙草をすっと抜き取る。 土方さんはふと息を詰めて、煙草の行方を目で追った。 「あたしのこと心配してくれるのは嬉しいけど。でもね。自分の身体も大事にして」 「・・・誰が心配したって言った。おい、返せそれを」 「してたじゃないですかぁ。あたしのこと気にして部屋に入らなかったんでしょ」 「してねえ。発作起こされんのぁ面倒だと思っただけだ」 「ふーん。そっかあ。じゃあいいよ、心配されてなかったってことで。そこはこの際どっちでもいーから」 「いいのかよ。つか、どっちでもいいんなら最初っからケチつけてくんじゃねーよ」 「だけど、・・・だけどね。こんなの駄目だよ」 首元に巻かれたスカーフに手で触れて、上着の衿元を、ぐいっ、と強く引っ張って。 床に膝立ちになって、土方さんに覆い被さるような格好で迫った。 被っていた毛布がするりと滑り落ちて、ばさりと床に落ちる。 「いくらバケモノなみに頑丈だからって、こんなところで一晩過ごしたら風邪ひいちゃうから」 引き寄せられたひとが意外そうに目を見張っている。 その表情が変わってしまわないうちに、素早く顔を重ねて。 瞬きもしないであたしに注がれた強い視線にどきっとさせられながら、慌てて目を閉じて。 「・・・どうしても眠れないなら、あたしが眠らせてあげる」 煙草の匂いがする唇に触れて。啄ばむだけの、ほんの一瞬だけのキスをした。 唇を離して、取り上げた煙草を口端に戻して。 見つめ合って数秒経ってから、ばつが悪くなったあたしはしどろもどろにつぶやいた。 「・・・。あの。・・・今日は。あたし。やだって、言わない、から。なんでも。するから。・・・だから。一緒に、眠って?・・・・・・」 表情を固まらせていた土方さんは、閉じていた口許をふっと緩めて。 潜入捜査中の山崎くんに無線で状況報告を求めている時みたいな、感情の籠ってない醒めた口調で尋ねてきた。 「どうする気だ。薬でも盛るか。それともてめえのあの耳の割れそうな歌で、子守唄でも聞かせる気か」 「・・・・・・。そういう意味じゃ、・・・・・・・ない、もん・・・」 恥ずかしくて口籠ってしまって、それ以上は言えなくなった。 頬がかあっと熱くなって困る。黙ってこっちを見ている土方さんの目が、どことなく愉快そうな色を浮かべているからだ。 近くなった煙草の香りにむせたふりで、こほん、と出ない咳を無理に出して。口許に当てた手で顔を隠してうつむいた。 ・・・判ってるくせに。意地悪だ。 顔を抓ってあげようかと手を伸ばしたら、身体を後ろに倒して肩透かしを食わされる。 赤らんだ頬を膨らませてあたしは土方さんを睨みつけた。こういう時に必ず先を読まれてしまうのも憎たらしい。 だけど、土方さんの表情はさっきまでよりもすこしだけ楽しそうになっている。 腕に抱きついた時には素っ気なかった態度も、どことなくくつろぎ始めたというか、和らいでいる気がする。 そんな姿を眺められたことが嬉しくて、あまり機嫌を損ねる気にもなれなかった。 「・・・訊かねえのか」 「なにを?」 「とぼけんじゃねえ。これ見て、何を、もねえだろう」 「いいんですか、訊いても」 「訊かれたかねえな。まあ、どうしてもってえなら別だが」 「そう言われると思ったから訊かなかったの。それに、・・・・・・・・」 「それに。何だ」 腰に土方さんの腕が回ってくる。少し冷えた大きな手に、帯の下のあたりを抑えられた。 もう片方の腕に背中を押されて、そのまま前に倒れ込んで。組んだ脚の間に座る恰好で抱き寄せられる。 猫の毛並でも撫でるような無造作さであたしの頭を撫でると、そのまま胸に押しつけた。 埃を被ってうっすらと白い隊服に右の頬が埋まる。冷えた隊服越しに伝わってくる硬い胸の温かさや、 頭を覆った大きな手の感触が心地良くて、はあ、と自然に吐息が漏れた。 真夜中の冷えた空気の中に、雪玉みたいにほわりと浮き上がった息の白さは、真っ黒な隊服を背景にしているせいか やけに目について見える。 少し目線を上げてみると、土方さんが伏せた目でこっちを見ている。あたしは黙ってかぶりを振った。 「いいの。何も言ってくれなくても。土方さん、ちゃんと帰ってきてくれたから。・・・・・それだけで、いいよ」 嗅いでいるうちに慣れてきた誰かの血の匂い。よく知っている煙草の匂い。 それと、慣れ過ぎて身体の奥まで染みついてしまったこのひとの温かさ。 目を閉じて、その感触に意識を埋もれさせて。――うん。これだけでいい。何の不満もためらいもなく、そう思えた。 そう思えるようになった自分が嬉しい。もしかしたら、独りよがりな自己満足なのかもしれないけれど――それでもいい。 そんな自分がほんのちょっとだけ誇らしい。そんな気さえして、思わず顔がほころんでしまうくらいに嬉しくなった。 「土方さん」 「あぁ」 「少しはあったかくなった?」 「ああ。まあな。もう寒かねえが。どっかのバカが加減なくしがみつくせいで、今度は身体が重てぇ」 季節外れのあれに憑りつかれちまった気分だ。 ぼそっと耳元に囁いて、短い笑い声を吐息といっしょに漏らす。 背中に回っていた腕であたしを腰から抱き上げると、土方さんは勢いよく立ち上がった。 何も言わずに歩き始めたひとの脚は、障子戸が半分開いたままの部屋へ向かっていく。 相変わらずの乱暴な扱い。大きな荷物みたいな担がれ方だ。ぽいっと肩に乗せられて、甘い雰囲気なんてどこにもなくて。 「・・・・・土方さぁん」 「何だそのぶすったれた面は。落とされてーのか」 「・・・あのぉー。忘れてるみたいだから言っておきますけど。これでも一応、女の子なんですけどあたしも。 この担ぎ方はないと思うんですけど。もっとあるでしょ他に。もっと丁寧に優しく、こう、・・・」 間近から見る整った横顔がこっちに目線を流してきて、ふっ、と何か企んだみたいに口端を歪ませて笑った。 浮いた身体が速い歩調に合わせて揺れる。わざと大きく、ゆらゆらと、腕の中から転がり落ちそうなくらいに揺らされた。 「!きゃっ、ちょ、や、ひゃ、ねえっ。落ちるっっ」 「うっせーぞ、夜中にはしゃぐんじゃねえ。てかお前、案外と喜んでんじゃねえか?」 「喜んでないぃっっ」 「はっ。これだからガキは」 「だから違うってばぁあ」 抱きついた真っ黒な頭の後ろ髪をぐいぐい引っ張って笑いながら、あたしは、なぜかさっき感じたあの違和感を思い出した。 暗い縁側に独りで座るこのひとを見た時。あのときに感じた、あの感覚。 あれは既視感だったんだろう。 あれと似たような土方さんの姿を、あたしは幾度となく見てきたから。 誰がどうなっても構わない、とでも思っているような、冷たそうな顔ばかりを周囲に見せているこのひとは 隠しごとが増えれば増えるほど、あたしを――周りのみんなを遠ざけようとする。 苦しくなればなるほど弱音を吐かなくなる。苦しいときほど独りになりたがる。 周りをそれとなく遠ざけて。誰にも気づかれないように姿を消して。 心の底に、澱のように溜まったはずの辛い思いは誰にも見せようとしない。 一人で抱え込んだ何かを誰かに分け与えてくれることなく、自分の中に鍵をかけて閉じ込めてしまう。 へんなひと。おかしなひとだ。 憎たらしくなるほど頭は切れるし要領だっていいのに、その一方ではとんでもなく不器用で。 見ているこっちが悲しくなってしまうくらいに、辛かった思いは誰にも明かそうとしない。 さっきぽつりと漏らした、あの言葉。 『眠れる気がしねえ』 そう言っていた。何気なくつぶやいていた、あの言葉は ――あれがこのひとの最大限の、最大譲歩の弱音だったんだと思う。 ずっと傍で見てきたから、そういうひとだって知っている。一度決めたことはとことん曲げない頑固なひとだってことも。 だから。何も訊かないよ。 土方さんの背中を見ているだけしか出来ない今のあたしは、不安になることもあるけれど。 それでもいいよ。問い詰めたりしない。 あなたはあたしが世界中の誰よりも信じてるひとだから。どんなことがあってもついていくって決めているから。 だから、あたしからは訊かない。 あの刀を濡らしたのが誰の血なのかも。こんな寒い夜に部屋にも入らずに、何かを思い悩んでいた理由も。 今のあたしはまだ、思ったように刀も揮えない弱虫で。 大事なひとを失くす怖さから抜け出せなくて、身体がいうことをきかなくなったままだ。 けれど、何も出来ない自分をもどかしがっていた時間の長さのぶんだけ。ほんのちょっとだけ、強くなれた。 不安を一人でこらえていられた時間のぶんだけ、信じる気持ちだって強くしなやかになっているから。 だから何も言わなくていい。あたしのための嘘なら、もうつかなくていい。 嘘の影で自分を責めて、倦んだ思いを閉じ込めて。苦しい思いに拍車をかけたりしなくてもいいから。 背中を向けていたっていい。何も言ってくれなくてもいい。 こうして戻ってきてくれたら。こんな夜でも隣にいさせてくれたら、それだけでいいよ。 あなたが隣にいてくれさえすれば、あたしは馬鹿みたいに怖いもの知らずになれる。 他には何も――この腕の中以外に帰れる場所なんて何処にもなくたって。ぜんぜん平気な気がしちゃうんだよ。 煙草の匂いがするちょっと硬めな黒髪に顔を埋める。 身体から力を抜いてもたれかかると、こんな時間なのに眠たげな気配のない切れ上がった目が 軽くこっちを見上げてきた。 「えらく冷えてんな。お前の身体」 「うん。風邪ひいたら土方さんのせいだよ。責任とってね」 「ああ」 ・・・そんなに真顔で、当前だ、って口調で言われると。 困るよ。どきっとしちゃうから。土方さんの肩に触れているあたりで、心臓の音が勝手に跳ね回るから。 「眠てえか」 「うん。このまま眠っちゃいそう」 「そりゃあねえな」 「え?」 「・・・フン。判っちゃいねえ」 「え。な。何が・・・?」 「お前はこのまま寝正月でも楽しみてえところだろうが、俺ぁそーいう気分じゃねえ。しかもこれから一日非番だ」 「そ。そっか、じゃあせっかくだから、これから徹夜で初日の出でも拝みに」 「ざっけんな。眠らせてやるとか大見得切ったのぁどこのどいつだ」 「・・・・・・・・誰でしたっけ」 「残念だったな。まあ、初日の出なら寝床の中から拝めんじゃねえか」 「・・・・・・・・」 うん。いいよ。 あの部屋で、煙草の匂いがするお布団の中で。あたしのこと、土方さんのしたいようにして。すきなようにしていいよ。 だからいっぱい、ぎゅって抱きしめてね。あったかくしてね。 …なんて、恥ずかしくって言えないけど。返事のかわりに小さく頷いた。 「・・・・・人のことは言えない、かなぁ」 「何の話だ」 「・・・ううん。なんでもない」 軽い調子で笑いながら答えて、冷たくなった隊服の首筋にぎゅっと抱きつく。 背中に回っていた大きな手が、あたしの仕草に呼応するように強く抱き直して応えてくれる。 ちょっと乱暴なくらいの、この腕の力強さが気持ちいい。はぁ、と自然に口から真っ白な吐息が漏れた。 分厚くて冷えた隊服越しに伝わってくる体温が、凍りかけていた素肌に少しずつ、じんわりと染みていく。 頭の良さは比較するまでもないし、性格だって全然違う。 だけどあたしたちって、意外と似た者どうし、なのかな。 言いたいことも言えないことも、こうして一緒くたにして胸の奥に閉じ込めてしまうあたしだって、 このひとに負けず劣らずなくらいに頑固で不器用なのかもしれない。
「 おおかみさんのふゆやすみ *2 」 text by riliri Caramelization 2011/01/01/ ----------------------------------------------------------------------------------- *3は大人限定です next