smell like you



ファミレスのバイトをクビになった、その日の夜。 ヤケ酒でも流し込んで布団に潜り込もうかと思っていた、夜中の11時頃。 かかってきた電話の声は、いつも通りに疲れて不機嫌そう。 ひとこと「俺だ」とつぶやいた。 「はいはい。今日はどっち」 「・・・煙草」 それだけ聞いて、なにも言わずに電話を切った。 愛車の中古ベスパに跨って、家を出たあたしはコンビニに立ち寄る。 そこで鬼の副長ご愛用の煙草を買うと、半年前までの職場兼住まいだった「真選組屯所」に向かって走り出す。 「お疲れさまっスさん!」 「こんばんはー。お疲れさまでーす。入っていい?」 「もちろんですよ、ささっ、どーぞどーぞ!」 見張りの隊士に挨拶しながら、いつも通りに屯所の門をくぐる。 半年前まで同僚だった人達が殆どだから、ここで止められることはまず無いんだけど。 ・・・・勝手な理由でここを辞めたあたしを下にも置こうとしない、元同僚の態度に気が引ける。 どうしても身体が痒くなってしまう。 あたしが「副長の女」だったことは、ここの誰もが知っている。 だからタメ口を聞かれて当然の人にまで、当然って顔で敬語を使われてしまうのだ。 このやりづらさには今でも慣れない。ついつい閉口してしまう。 やりづらい、と愚痴ったら、デリケートさに無縁な仕事バカにくだらねェ、という顔をされた。 「言わせておけ」と一言放り投げるだけ。あたしのちいさな悩みなんて取り合おうともしない。 あたしのちいさな悩み。 それはこの真選組屯所内だけに限定されている現象だ。 ここでは近藤さんや総悟なんかのごく数人を除く全員が、みんな相変わらず誤解したまま。 まだあたしが副長と付き合ってる、って。 屋内に入り、いつも通りに勝手に廊下を進んで行く。 勝手も何も、近藤さんのへそくり通帳の隠し場所まで知りつくした屯所の中だ。 一人暮らしをしている今でも、まるで我が家に帰ったみたいに気のおけない場所。 足音を忍ばせながらさらに進み、奥の居室の手前で立ち止まる。 廊下を這うようにしてそっと手を伸ばした、副長室の障子を通して。 吸わないあたしまですっかり慣れて、身体に染み付いてしまった煙草の匂いが流れてくる。 それだけで息が詰まった。 すこし迷ってから、思いきってパンっと障子を横に引く。 笑いながらズカズカと室内に踏み込み、あたしは威勢よく手を挙げる。いつも通りに。 「土方さん毎度ー。出前でーす!!」 隊服の上着が畳に放り出されているのが、まず目に入る。 その傍で、空になった煙草の箱が潰れていた。 あたしはそれを拾い上げて、脱いだ当人の背中を眺めた。 それから黙って箪笥を開け、上着を畳んで仕舞いこむ。 空箱を片付ける。これもいつものこと。 机に向かう鬼の副長の背中は、振り向きもしない。 もうとっくに深夜だというのに、机に積まれた山のような書類に 難しい顔をしながら目を通している。 あたしがここへ来るときは、必ずといっていいほどこんなかんじ。 遠慮も無しに飛び込んでいく。 そして決まって無視される。 それはこのひとにとってもいつも通りのことで、当然のことらしい。 今更すぎて説教する気も失ってるのか、呆れる気すらとっくに失っているのか。 短くなった煙草を灰皿に押し付けると、やっと重たげに口を開いた。 「せめて一回くれえ静かに入ってこれねえか」 「せめて一回くらい他のものを注文してみたらどうですかっ。 てゆーか、煙草はともかくマヨって何、マヨって。 夜中にコンビニでわざわざマヨ買ってる女なんて江戸中探したってあたしだけだよ?」 「ふん。」 鼻で笑ったきり書類を目で追う。言い返そうともしない。 ・・・てゆーか、こんな時間にわざわざ煙草買って来てやったあたしの顔すら、 悪くするとあたしの存在すら、視界の隅っこにも入ってなさそうなんですけど、このひと。 「オイ土方。無視?無視ですか?電話一本でちゃんが出前に来てやったのに、無視ですかコラ」 「あァ?俺ぁ別に頼んでねえ。お前ェが勝手に来たんだろ。 来たついでに茶のひとつくれえ淹れてけ。おら、そこにあんだろ」 「おかしいなあ。気のせいかなあ。なーんか調子に乗ってませんか、このマヨラー」 「おかしかねーだろ。気のせいに決まってんだろ。 調子に乗ってんのはてめえのほうだ、この馬鹿力。どれだけ急須壊しゃ気が済むんだてめぇは」 「ちぇっ。どーせお茶一杯満足に淹れられないですよっ」 「女の舌打ちはみっともねえ。やめろ。早く茶ぁよこせ、茶」 「はいはいはいはいは・・・・あれっ、これって・・・」 お盆に並べられた急須や茶碗に混じって、萌黄色の薄様紙に包まれた小さな包みがひとつ。 取り上げてみると、包み紙にはあたしの好きな和菓子屋さんの紋様が施されていた。 「茶屋街の、角の置屋の姐さんからだ」 「え」 「お前のダチだろ。何つった。あの、ちょっと睨みが利く顔した芸妓の」 土方さんは書類から顔を上げて考えこみ、それからこっちに向き直った。 どこか探るような目であたしを見据える。最近このひとは、なぜか時々こんな顔をするのだ。 「角の、って・・・菱屋の小菊姐さん?」 「それだ。見回りで通りかかったところに出くわした。 お前の贔屓の店の菓子が入ったから、渡してくれってよ。 ・・・ったく、菓子ひとつで俺を使い走りにするたァ。豪気な女だな、あれは」 「うわあ・・・姐さん、覚えててくれたんだ・・・」 「いつでも遊びに来いだとよ。おら、食えよ」 「うん!ありがとう土方さんっ。いただきます!」 「礼ならあの気丈夫に言え」 包みの薄様をそっと剥がす。 出てきたお菓子を見て、あたしはあっ、と声を上げた。 「・・・土方さん!すごいよ、知らない包みだと思ったら。これ、新作だよ!」 「ああ?」 「知らないの?もおっ、ほんと疎いんだから。 すごく貴重なんですよ、これ。人気の限定商品でめったに手に入らないんだから。 うわあ・・・まさかこんなところで食べれると思わなかった・・・!」 「悪かったなこんなところで。菓子の味なんざ、どこで喰ったって変わらねぇだろうが」 包みをといた中から出てきたのは、 大好きだけれど敷居も値段も高すぎて、自力では買えない老舗の新作菓子。 ワイドショーでリポーターが味見しているところを見てうらやましがっていた、高級レア物だ。 まだ隊士だったころ、見回り中に縁があって親しくなった小菊姐さん。 ずっとご無沙汰していたのに、まだあたしの好みを覚えていてくれたなんて。 これ一個に込められた姐さんの情の深さを思うと、クビになった憂鬱さも吹き飛ぶほどに嬉しい。 嬉しさと、口いっぱいに広がる上品な甘さの二段構え。 あたしはすっかり気を取り直しかけていた。 目の前にいる滅多に笑わない人が、呆れたような馬鹿にしたような笑いをこぼす。 「はっ。幸せな奴だ。」 「え?」 「喰い物ひとつで、よくもまあそこまでツラが緩むもんだな。昼間の不機嫌はどこ行った」 鬼にまで笑われるほどに緩んだ顔をしているんだろうか、あたしは。 けれど「昼間の不機嫌」はあたしの中から消えてしまったわけじゃない。 お菓子の美味しさと小菊姐さんの優しさの陰に隠れて、なりをひそめているだけなのだ。 「・・・・他に幸せになれるようなことが無いんだもん・・・」 昼間の一件を思い出して、急に途方に暮れる。 菓子をお盆に戻してうつむくと「話してみろ」とだけ言われた。 「・・・実は。」 「おう」 「土方さんに紹介してもらったファミレス、クビになりました」 とたんに不機嫌な顔になった土方さんに睨まれる。ぞっとしてあたしは姿勢を正した。 除隊して半年経ったとはいえ、怒ったときのこのひとの怖さは 隊士だった間にイヤというほど身に染みている。 ビクビクしながら話を続けた。 「・・・その。今日。店の控え室で。店長に。触られたんですよお尻を」 睨み顔が、煙草の箱に手を伸ばしながらぴたりと身体ごと固まった。 「ぁあァァ!!?」 かと思ったら、鬼の形相で怒鳴られた。 怒鳴られる覚悟はしていたのに、条件反射には逆らえない。 やっぱりあたしの身体は縮み上がった。 おびえながら頭を下げる。 「すいません!!!つい!でも、でもね?我慢しなきゃとは思ったんですよ? でも、この程度で怒っちゃいけないと思ったときにはもう、足が回し蹴りの体勢に入ってて」 「・・・・・・・・・」 「あのう・・・控え室で、棚の上にあるものを取ろうとして、椅子の上に立ったんですよ。 それで。そこにいつのまにか店長が来てて。気がついたら足元にいて。手がお尻のあたりで、こう・・・」 嫌な回想に眉をしかめながら、あたしは店長の手の動きを自分の手で再現してみせた。 その程度のセクハラで、我慢出来ずに回し蹴りを放ったことに呆れ返ったのか。 睨みっぱなしで動かなかった土方さんは、ブツブツ小声で何か言いながら煙草に火を点けた。 見放されても文句は言えない。このひとが口を聞いてくれた仕事をクビになるのは、もう七回目だ。 「ジャストな位置に店長の顔があったんです。 蹴りがきれいに入って店長が吹っ飛んで、ちょうどそこに遅番の子たちが来て。もう大騒ぎで」 「・・・ ・・・ァんのジジイィ ・・・・・・・」 「えっ?何?何か言いました?」 「何でもねえよ。・・・・チッ」 「はあ!?チッ、て何!?何ですかそれ! 可愛い元カノがセクハラに遭ったのに、慰めるどころか舌打ち!?」 「・・・おい、いいか。ジジイも悪いがお前もお前だ。前から気になってはいたが。 どういうことだ。お前、得物が無えと隙だらけじゃねえか」 「得物って。だって仕方ないじゃん、まさか制服に刀挿してファミレスに立てないでしょ」 「んなこたあ言ってねえ」 ピシリと言い切った土方さんの口から、半端じゃない量の煙が吐き出されていく。 この煙の量だけで、イライラしているのは見て取れる。 このひとのイライラレベルゲージは、喫煙量にぴったり正比例するのだ。 「おかしいのはてめえだ。お前の普段は隙が多すぎんだ。 立ち廻りの最中は澄ましきって太刀筋ひとつ外さねえくせに、普段がいけねえ。 思い出してみろ、この半年の間お前が次々クビになった理由を。どこでも似たような話で切られやがって」 「うう・・・・だって・・・・」 だって、の後が続かない。言い返すことなんて、ひとつもないのだから仕方がない。 悲しいことに、言われたことは全部が事実。肩を竦めてうなだれるしかなかった。 「・・・ごめんなさい。次は自分で探すから。・・・それじゃ。」 すごすごと立ち上がりかけたら、着物の袖を引かれた。 待ちやがれ、と慌てた口調で引き止められる。 「だって。もう用事無いでしょ。煙草も買ってきたし」 「お前が今帰ってみろ。明日の朝が面倒臭え。いーから朝になってから帰れ。 俺ァ片付けもんがある、先に寝てろ」 盛大に煙を吐きながらの、イラついた声。 煙草で指された部屋の奥には布団が敷かれている。 あたしが無言で畳にへたりこんで座ったら、袖を掴んだ手は離れた。顔は怖いままだけれど。 この前来た時は、同じ棟で眠っていた隊士たちが目を覚ますほどのケンカをした。 あたしは大暴れしたあげく、くすぶった煙草の灰を部屋中に投げ散らかして家に帰った。 翌朝の、隊士揃っての朝飯時にはすでに、屯所じゅうに噂が広まっていたらしい。 「ケンカした」「愛想をつかされた」「逃げられた」「ついに他に男が」「別れ話」「二股されたらしい、副長が」 そんな短時間で屯所中に広めるような真似、あいつの仕業に決まっている。 だからこのひとが激怒してあのにやけ顔を追い回しても、誰も止めようとはしなかったらしい。 「・・・土方さん」 「何だ」 「ちゃんと言えばいいのに。もう別れた、って」 「とっくに言った。誰も本気にしねえだけだ」 でも、と言いかけたあたしを鋭い目線で遮る。 無言のままで再び机に向かうと、置かれた書類を手に取った。 「いまさら何を。面倒臭え。 どうせあいつら、お前の名前が出ただけで勝手に盛り上がって聞きゃしねえんだ」 背中を向けたままでつぶやかれる言葉。 自嘲気味な口調に、あたしはいたたまれなくなった。今すぐ逃げ出したかった。 何も言えずに、茶器に手をつける。 黙ったままでお茶の用意をした。 真選組に入隊した頃。 あたしはお茶の一杯満足に淹れられなかった。 それを知っているくせに、このひとはこの部屋にあたしを呼ぶといつも云うのだ。 『茶ァ淹れろ』と。 不味いとわかっているくせに。なのに、必ず言う。 あたしが淹れたものを口にした土方さんは、いつも眉間に深く皺を寄せた。どう見ても苦しそうだった。 それでも何も云わない。不味いとも旨いとも、一言もない。ただ毎回、苦しそうな顔で黙って飲み干してくれた。 だからあたしは、お茶の淹れかたを陰でこっそり練習した。 実は隊を辞めた今も、家でこっそり練習している。 以前よりは飲めるものを出しているはず。だけどいまだにこのひとは、旨いとも不味いとも云わない。 前と同じに、ただ黙って飲み干してくれる。 「。」 見た目はそれなりな緑茶を茶碗に注ぎ終わったころ、土方さんはあたしを呼んだ。 見ると、こっちに背を向けたままだった。 「はい?」 「・・・どうして「どっち」としか聞かねえんだ、てめえは」 何のことだろう。 一瞬考えて、ああ、と思う。 たぶん夜中に土方さんから電話が来た時の、いつもの第一声のことか。 「・・・電話のこと?」 訊き返しても返事が無い。 だけど、返事が無いということは、当たっているということだろう。 勝手にそう呑み込んだ。 「そんなの、聞く必要がどこにあるんですか。煙草でもマヨでもない、って。 ありえないじゃん。この仕事の鬼に、他に何があるっていうんですかぁ」 「・・・ああ。何にもねえよ。あるわけねえ」 言いながら、後ろ姿の腕だけが動く。 灰皿に煙草を押し付ける仕草だ。 それから振り返って、あたしを表情の薄い涼しい顔でじっと見つめた。 「・・・どうしたんですか?」 「気が変わった」 素っ気無い言い方と一緒に、手が差し出される。 あたしはふと息を呑んだ。 「来いよ」 この言い方。差し出す手。 これはいつもの合図。抱かせろ、の合図。 あたしは黙ってその手に触れる。 これも、いつもの合図。どうぞ、の合図。 触れればごつごつと硬く、暖かい手。 指先も手の平もマメだらけ。剣の稽古を怠らない人の手だ。 これだけ忙しいひとが、いったいいつ稽古をしているのか。 あたしはいまだに見たことが無い。 傷跡だらけの無骨な手。 この手が、あたしがこのひとを好きになった最初の理由だった。 このひとは、いつもこうだ。 いつもこうして手を差し出すだけ。 無理に押し倒したりはしない。 必ずあたしに、選ばせるのだ。 一度だけ、軽い気持ちでなんとなく聞いたことがある。 どうしていつも、こうして手だけを差し出すのか。無理強いしないのか。 そのときあたしが聞いてみたかったことは、実はもうひとつあった。 でもそれは言えなかった。 どうしていつも、「今日は嫌」と断っても、帰れとも言わずにただ抱き寄せるのか。 同じ寝床で静かに眠ってくれるのか。 無理強いしない理由を訊く。それだけで気恥ずかしかった。 そしてもうひとつの問いかけは、無理強いしない理由を訊くよりもっと気恥ずかしい問いかけだ。 そう気づいたらもっと気恥ずかしくなった。 自分から抱きついて、このひとの胸に顔を埋めた。 土方さんは何も言わなかった。このひとにはよくあることだ。 けれど、それでなんとなく解った気がした。 このひとが答えてくれないときは、ふたつのうちのどちらかなのだ。 「無言の肯定」か、「答える気が無い」かの、どちらかひとつ。 あたしのした問いかけは、肯定のひとことでは返せないものだった。 だから答えてもらえないのだと諦めて、いつものように唇を重ねた。身体を預けた。 ところが返事は返ってきた。 自分で言い出したことすら忘れそうなほどに、このひとに翻弄されてしまっている頃になって、ようやく。 間を置いて返ってきた答えは、このひとらしく素っ気の無い、無器用なものだった。 『てめえのもんじゃなくなった女に、することじゃねえだろ。』 何をされているのかさえ解らなくなるほどに意識を乱される中で、あたしの耳元に届いた言葉。 表情の見えない声でボソっと返された。 軽い気持ちで聞くんじゃなかった。 聞いてしまった答えにも、そんなことを答えさせてしまったことにも後悔した。 夜中に酔っ払って呼び出したり。 緊迫した仕事中に迷惑な電話をかけたり、一晩泣き喚いたり。 隊を辞めたころのあたしは、この忙しいひとの負担にしかならないことばかりした。 なのに、土方さんはあたしと縁を切ろうとしなかった。 どうしてなのか、聞いたことはない。 聞いてしまえばまた「聞かなければよかった」と後悔しそうなのは目に見えたから。 この半端で呼びようの無い関係が、いまだにこうしてなんとなく続いているのは。 仕事のことしか頭に無い、ひどく忙しいこのひとにとって、すごく都合がいいからなんだろう。 あたしだってそうだ。都合がいいからここへ来る。 けれど、あたしの都合はこのひとのような、傍目からも薄々測れそうな整合を持たない。 矛盾だらけで不恰好で、女々しくて。ぐちゃぐちゃとみっともなく散らかって、どうにも片付けようがない。 だからこうして夜中に呼び出されても、身体を求められても、理路整然とした、それらしい文句というものが出てこない。 だいたい、こうされることを嫌だと思ったことなんて一度も無いのだ。 最初から、一度も。 女々しさに嫌気がさす。 自分から「別れてください」と言い出したくせに。 ほんとのところは、あたしはまだこのひとが好きなのだ。 今ならまだ、間に合うのかもしれない。 乾いて突っ張ってしまった意地も、いまさらすぎることへの恥ずかしさも捨てて。 「傍にいたい」とひとこと言えば、あたしが隠している不恰好な願いは解かれて叶うのかもしれない。 何度も何度もそう思って、何度も何度も口に上りかけたあたしの願い。 なのに勝手に胸を衝いて流れ出しそうなその願いは、このひとを目の前にすれば決まって凍りついた。 どうしようもなく怖い。怖くてしょうがない。 もしこのひとと、もう一度別れることになったらどうしよう。 そう思うと、流れ出しそうな願いが胸の奥でたちまち凍りつく。 もしも二度も付き合って、二度も「別れてください」なんて云ったら。 土方さんだって今度こそ、あたしに嫌気がさすだろう。 夜中に呼び出されることも無くなるだろうし、電話にだって出てくれないだろう。 何よりあたしが、このひとに合わせる顔が無い。 そんなのは嫌だ。きっとあたしは耐えられない。 これ以上、このひとから離れるなんて。 それだったらいっそ、このままつかず離れずでいたい。 せめてこのひとに、夜中に煙草を届けてくれる他の誰かが現れるまでは。 腕から布団に抱き下ろされる途中で、あたしの視界に文机が入った。 質素というか頓着がないというか、この部屋には家具というものがほとんど無い。 室内に普通に置いてあっていいはずの家具は、三つだけ。 文机と箪笥と、古びて傾きかけた書棚が部屋の隅に収まっているくらい。 書類が積まれた文机の、小さな引き出し。 まだ封の切られていない、買い置きらしい煙草の箱が、わずかに開いた引き出しから見えた。 ちゃんと買ってあるじゃないですか、煙草。 そう言おうとしても、喉が詰まって声が出なかった。 それを見たら、あたしはほっとしたのだ。 ほんとうに馬鹿だ。 たったそれだけのことで、涙が出そうなくらいに安心するんだから。 「・・・煙草、引き出しにあるじゃないですか」 「無ぇよ。見間違いだろ」 「土方の・・・・馬鹿・・っ・・」 「・・・・・馬鹿はてめえだ」 抑えきれずに、口から嗚咽が漏れた。 抑えきれずにあたしの目に浮かんだ涙が、無骨な指に、こするような無造作さですくわれる。 この指は、一拭いであたしの心まで救い上げてしまう。 このひとの言うとおりだ。 馬鹿なのはこのひとじゃない。あたしだ。 でも。 馬鹿なあたしがいつまでたっても馬鹿のままなのは、あなたのせい。 あなたのせいだよ。 煙草の匂いが身体の奥まで染みついて、離れないから。

「 smell like you 」text by riliri Caramelization 2008/07/21/ -----------------------------------------------------------------------------------                               next