ノックはしない。
返事を待つ時間がもどかしいから。
もしもこのドアが内側から開いても、部屋の住人がわたしを見れば、迷惑そうに顔を逸らすと判っているから。
だから手順はいつも同じ。
冷えたドアノブを手の中で滑らせる。重たいドアを注意深く押していく。
暗い室内から流れ出た冷ややかな空気は、その奥に居る人の気配も連れてきてくれる。
物音がない。身じろぎの音すらも。もう眠ってしまったんだろう。
自分の口角がゆっくりと吊り上がっていくのを感じる。ふ、と愉悦を殺しきれずに笑い声が唇から漏れた。
ドアの隙間を擦りぬける。黒衣の背中を押しつけてそこを閉めた。
錠を回す。かちゃりと短く音が鳴れば、こともなく密室は完成する。
部屋の主の気配しか感じられない部屋。この部屋の空気がわたしは好き。
殺風景で何もない、監獄のようなここが好き。こんな寒々しい場所に誰にも理解されなさそうな安寧を見出して、何の不満も持たずにくつろいでいられる。
そんな彼の、ある種呆れた才能が写し取られた場所。この場所は、わたしに光を与えてくれるから。
ドアにもたれて目を閉じて、身体中の息を吐き出していく。三日間の任務で積もった憂鬱ごと追い出してしまおう。
ゆっくりと。深く。深く。ダイブした深海で自分の限界を試す潜水夫のように。すべてを絞り出して胸が苦しくなってきたら、
吐き出したときと同じ速度で吸い込んでいく。ゆっくりと。少しずつ。
この部屋に眠るひとのかすかな香りで全身を満たす。
わたしにとってはおごそかな儀式だ。誰にも知られることのないささやかな儀式。
胸元からボタンを外していく。そこを飾っていたシフォンのタイを引き抜く。足首を柔らかくしならせながらそうっと踏み出す。
見上げた夜空はアールを描いた窓枠に切り取られている。霧にくすんだ夜を照らすのは、氷の色をした大きな月。星の輝きはひとつもなかった。
カーテンのない窓辺には狭くて硬い真鍮の寝台。テーブルがひとつ。そこにぽつんと置かれたミネラルウォーターの瓶が
月光を吸って、蒼いくらやみに小さなプリズムを生み落としている。
つまさき立ちで音を静めて、ベッドの傍へ歩み寄っていく。
肩や腰を指で探って、堅苦しい装具を外しながら近づく。
かしゃり。ざらり。鋼鉄の装具の重みは剥き出しの床に大きく響いた。
膝上まであるロングブーツのジッパーを下ろす。シルクの靴下と一緒に放り投げる。
漆黒の袖から腕を抜いて、足元にぱさりと脱ぎ落としたら、
わたしを包み隠しているものはキャミソール型の薄いワンピースだけになる。
月の光を浴びたベッドを見つめる。そこに眠る人を見つめる。
毛布を被っていても目で追えるくらいの、しなやかな背筋のラインが浮かび上がっていた。
玲瓏とした光を浴びるベッドが、暗闇に慣れ始めた目にはまぶしい。横たわるまぶしい背中を見つめながら、
はぁ、と感嘆の混ざった溜め息をついた。
満足感がすりきれた身体を巡っていく。
「ただいま。神田」
神田はこちらに背を向けて眠っている。横向きで壁と向き合っているその姿勢は、
勝手な侵入者のわたしを眠りながら頑なに拒んでいるみたい。胸の下から足元までが乳白色の毛布に覆われていて、
枕に流れた長い黒髪は一つに束ねられている。そこに見慣れない三つ編みが施されていた。
・・・先を結えたあの髪紐。ちいさな花の飾りが揺れるあれは、彼のものじゃない。ひとめでわかる女物。
誰のものなのかにもすぐに思い当たった。
思いがけないものを目にしたせいで、身体はいつしか止まっていた。
綺麗に編まれた彼の髪。見覚えのある髪紐。ここにあるのは、そう遠くない何時かに始まるはずだった変化の兆し。
そして、その訪れのきっかけにとほんの一滴の水を向けたのは、――わたし自身だ。
視線を注いでいた髪紐に手を伸ばす。解けかけた結び目にほんのすこしだけ指先で触れた。
きれいな髪。
まっすぐなのにしなやかで。細いけれど強靭。まるで彼の存在そのものだ。
月光に艶々と輝くこの髪に、あの子はどんな表情で触れたのだろう。
ためらいながら、恥じらいながら、けれど殊更に丁寧に結い上げていく、あの華奢な手を思う。
そして、その手が背後で動く気配をきまり悪く感じながら、けれど好ましいものとして受け容れただろう彼の姿を思う。
それから、最後に――
そんな光景を嫌だとは思えない、自分自身の不可思議さに眉をひそめた。
矛盾している。なんなんだろう。嫉妬にうち震えるとまではいかなくても、もう少し取り乱していてもいいはずなのに。
少なくとも、ここはわたしにとって、決して笑いを浮かべて迎えられる場面じゃない。そのはずなのに。
自然と湧き上がってきた可笑しさにつられて、頬と口許がじんわりと緩んでいく。
氷のような床から足を上げて、ベッドの端で膝をつく。硬いスプリングのマットが軋んで、身体が横に傾いて。
姿勢の崩れた腰をゆらりと毛布に沈めれば、その下に横たわっている背中に当たった。
当たった瞬間、神田の背筋がほんのかすかに引き攣った、・・・ような気がした。
起きたのかもしれない。何か言われてしまうだろうか。そのまま少し待ってみた。
白い月明りに照らされた背中は動かない。寝台の上には息を詰めているようなぎこちない沈黙がおりたままだ。
しのび笑いで小さく肩を揺らして、わたしは口を開いた。
「神田って侵入者に対して無用心ね。背後を取った相手を確かめなくていいの」
「取られてねぇよ。追い出すのもめんどくせえから取らせてやったんだ」
だろ。
わたしの一声に構えていたんだろう。神田は躊躇なく切り返してきた。声に普段の剣呑さがない。眠りが深かったのかもしれない。
口調こそ厭わしげだったけれど、夢から急に引き戻された人がその直後に出すような、どこか覚束ない声をしていた。
うっすらと浮き出た背筋がたわんで、横たわった身体が浅い呼吸をする。掛けられた毛布がわずかに上下する。はぁ、と心底嫌そうな嘆き声を響かせた。
「出て行け」
「いつも同じ台詞ね。もう聞き飽きたわ、それ」
「なら来んじゃねーよ。俺だって言い飽きた」
神田は壁に向かって文句をつけた。温度の低い声はどこか諦め混じりだ。
こんな遣り取りも聞き飽きるほどに続いている。彼を本気で怒らせてしまう事態をほんのすこしの機転と微笑で
回避しながら、わたしはここへ通い続けている。任務帰りには深夜の部屋へ入り込む。当然彼は怒る。
出て行け、もう来るな、と拒まれる。それでもわたしが懲りずにここへ来るのだと、神田は予感しているんだろう。
ちっ、とあまり勢いのない舌打ちを最後に、背中に無言のバリアを張ってしまった。
「入ってきたのがわたしじゃないとは思わなかったの」
「・・・お前らは、――!」
首だけで振り返った神田にきつく睨まれた。わたしはキャミソール一枚の姿。素肌を晒した太腿を、毛布越しの彼の背に沿わせて座っている。
間近でわたしを視認した彼はぎょっとした顔つきで固まって、しばし言葉を失くしていた。
気を取り直したのか、漆黒の前髪の下で鋭角的に整った目元を深く寄せる。不服をぶつけられずに
歯痒くなっているような顔で視線を逸らした。勢いよく首を振る。ひとつに編まれた黒髪がはらりと白い背中に舞った。
なんてかわいいひとだろう。彼はこんな瞬間に吐く上手な嘘を知らない。そして、彼のどんなふてぶてしさや昂然とした態度も許せてしまうわたしには、
――とても困ったことだけれど――、そういう不慣れさが稀少であえかな宝物に見える。愛おしい美点のように思えてしまう。
驚かされて本格的に無視したくなったのか、神田の素っ気なさは刺を増してきた。
枕を掴んで壁際に寄せて、寝台をぎいっと軋ませながら姿勢を直した。毛布越しの接触が途絶えて、ほんの3インチ程度の距離が生まれる。
怒った様子の横顔を見つめて、わたしはにっこり微笑んだ。
わたしが女性のからだに――比較的に女性らしい見た目の、異性の目を惹く身体つきに生まれついた。
そのことは、神田との不要な衝突を和らげてくれる重要なファクターになってくれているらしい。
「・・・・・・・・・。お前らは、気配がうるせーんだよ」
「・・・?ねえ、お前らって?」
「勝手に開けて入ってくるのはお前か馬鹿ウサギ、どっちかだ」
ふうん。女だと意識してくれていても、わたしはラビと同列なのね。
「今日は口数が多いのね」
機嫌がいいのね。
そう付け足しながら腕を伸ばして、神田の背中に触れる寸前の位置で手をついた。
下を向くと流れ落ちててくる髪を肩へと掻き上げながら、興味深く覗き込む。
漆黒の頭を預けた枕。その上にこぼれた艶のある三つ編み。そこに集まったわたしのまなざしを気にしてなのか、神田は壁だけを睨みつけている。
目すら合わせようとしなかった。
勝手に寝台まで上がり込んだことは指摘されていない。嬉しくなって、わたしは彼の背にあつかましく体重を預ける。
ふっ、と息を呑むような気配がしたけれど、それだけに終わった。断りの言葉に悩んでいるのかもしれない。
真剣に困っていそうな気配が伝わってくる。顎をそらして天井を見つめて、毛布越しの背骨の感触に寄りかかった。
「・・・ねえ。聞いて。今朝通った街からは海が見えたの」
――予定より長引いた任務の帰途で、列車の車窓から目にしたのはブロンズグレーの海。波濤の押し寄せる嵐の海だった。
鉛色の巨壁のように立ち上がった波は、海岸線の黒い岩肌を狂ったように叩きつけていた。
同行していた仲間たちも思わず息を呑んで見つめるような車窓の景色。ガラス越しでも身体に響く暴力的な波音。獣の咆哮のような風音。
もしもこの列車があの波に打ち付けられたら、誰だってひとたまりもないだろう。視覚だけでなく身体にそう実感させる迫力があった。
生まれ育った温暖な街にはなかった光景だからなのかもしれない。その海がわたしにはとてもおそろしかった。
どこか神々しい。破壊的なのに美しい。
けれど、その神秘性と同等な禍々しさも宿した暗い海原。
(・・・こんなものを見つめたときに、人は、誰かと手を繋いでみたくなるんじゃないかしら。)
肌寒さを覚えながらそう思った。
そのときのわたしを占めていたのは、――今思えばなんのことはない、幼い少女だった頃に戻ってしまったような心細さだったんだろう。
車窓の枠に頬杖をつきながら遠ざかる海を見送った。見る間に霞んで小さくなっていく青銅の海を目で追いながら、
脳裏に浮かべていた姿があった。神田の姿だ。
――こわい、とつぶやけばそっと手を握って励ましてくれそうな、他のやさしい誰かではなくて。
わたしの弱音をとげとげしい視線で突き離す、神田の厳しい姿だった――
結末はただそれだけ。あまりに他愛のない話だけれど、わたしは見てきた景色をありのままに語った。飾らない思いをありのままに語った。
時折は同意を求めてみたり。思い出し笑いで言葉の隙間を埋めてみたり。
そうして淡々と打ち明けながら、無事に任務を終えられた解放感の余韻にゆったりと浸る。
このささやかな解放感がとても好き。
任務先では決して味わえない感覚。わたしをわたしに戻していくための時間だ。
薄く張っていた緊張の殻を脱ぎ捨てられる嬉しさが、こころを楽にしてくれる。傍から見ればとてもちいさな喜びかもしれない。それでも、
そんなことにも無上の喜びを見出すしかないわたしたちにとっては大事なものだ。
それに。…もしかしたら、神田もわたしのそんな嬉しさを肌で感じてくれているのかもしれない。
こんな話が何の実もなく長引いても、特に咎められたことはないから。
「・・・そう、それでね。次にあんな海を見るなら、神田と見たいと思ったわ」
好きになった人と一緒に海辺を歩く日を夢見る。
ささやかで幸せな明日を願って今日を生きる。
わたしにはそれが、女の子が生に縋る理由としては最良のものに思える。とても健全なことのように思えてしまう。
「いつか一緒に行かない?夏の海もいいけど春も素敵だわ。ねえ、来年の春は?ランチボックスに美味しいバゲットサンドをぎっしり詰めて、ピクニックに行くの。きっと楽しいわよ」
「誰が行くかよ、くだらねぇ。他の奴と行け」
お前とリナが言えば化学班全員が乗ってくるだろ。
うっとおしそうにそう言って、少し声を落として――神田は鬱蒼と独り言をつぶやいていた。
(約束なんて懲り懲りだ。)
おかしくなってわたしは上からその顔を覗き込んだ。硬く閉じられた目元に皺が寄っている。
そう真面目に捉えなくてもいいのに。わたし、二人きりで行きたいなんて言ってないわ。
それに、曖昧な返事でいいの。曖昧な約束だけでいいの。それで充分なの。「必ず、きっとよ」なんて真剣な目をして指切りをせがむ、
子供のような欲張りはもう通せない。
そう。もう知っているの。いつかそんな日が来る可能性は、この教団をホームと呼ぶわたしたち全員が、
揃って生き残る可能性に等しいだろうってことくらいは。
でもね。 でも。――こう思うのよ。
小さな喜びを実感させてくれるものは、たくさんあったほうがいい。
気分を切り替えさせてくれるものは、たくさんあったほうがいい。
大切なものはたくさんあったほうがいい。
誰だってそう。誰だってそのほうが人生を美しく彩れるはず。
そう思いはしても、わたしのそれはいつも無いものねだりに等しくて。
ひとりでは埋められない空虚さを。任務に赴くたびに身体に巣食っていく、影のようなうつろさを。
故郷に戻れないさみしさを、埋めて満たしてくれるものが欲しくなった。
だから、ここに戻ったその足で兄さんの元へ飛んでいくあの子を、たまにうらやましく思う。
師と呼ぶ人と居る彼の気を許しきった笑顔を、羨望のまなざしで見てしまう。
任務地ではどんなに思いつめた顔をしていても、ここへ戻ればいくぶん安らいだ表情を取り戻す、
優しすぎるあの子を見ていると、いつも思う。
――わたしにもそういう何かがあればいいのに。
たぶん、よりたくさんのものをここに求められるひとのほうが勝ちなのだろう。
生に対する執着の強さは、
生き残れる可能性の高さに自動的に変換されているのかもしれない。わたしにはないものを得ている彼らを見ていると、
何の根拠もなくそう思わされる。それがどんなかたちであれ、大切なのは生を望む強い理由なのだろうと。
使命への忠誠ではなくて。胸に秘めたひそかな信念でもなくて。
もっと、感情を揺さぶるなにか。使命感よりも信念よりも確かな、本能にこそ忠実な何か。
そんな何かが必要なの。充足感よりもやりきれなさを抱えて、心をすりきらしながらここに戻るわたしたちには。
どんなに尊い使命を果たすために選ばれたとしても、いつかは誰もがそんな疲弊の途を選ぶよりなくなってしまう、
ただの弱い人間でしかないわたしたちには。
この牢獄のような城塞をホームと呼び。
あらかじめ狭く囚われた選択肢からさらに奪われながら、
――それでもここに生きていくしかない、わたしたちには。
「・・・・・・・女は約束が好きだな」
先に沈黙を解いたのは神田だった。
耳に残る低い小声でつぶやいた。その声色にはどこか不思議そうな響きがあった。
「そうね。好きな人と約束をするのは好きよ。女の子なら誰だってそう」
「・・・・・、話はそれだけか」
「そうよ。それだけ」
わたしは気持ちを籠めて答える。
そうよ。こんな時間に部屋まで押しかけてたったそれだけの話をしたい相手を、わたしはあなた以外に持たないの。
「辛かったね」なんて気遣われたくないの。
心配の色なんて欠片も浮かべずに、「くだらない」と目だけで言い切ってくれる人がいいの。
そういう人じゃないと嫌なの。
――そうやって我儘な選択を重ねて、わたしはあなたを選び続ける。
「珍しいのね。神田からわたしに問いかけてくれるなんて」
「厭味かよ」
「そうじゃないわ。お喋りが弾んで嬉しいのよ」
背後から顔を近づけて笑いかけながら、
シーツに垂れていた漆黒の髪の先に指を伸ばした。気配を悟られないように、そうっと。
神田は壁を見つめたままだ。
見つめた暗闇に深い思いを馳せているような表情。今の会話に何を思っているんだろう。
「神田、ねえ」
「もう終わったんだろ。用がないなら出ていけ」
唐突に話を切り替えて、神田の口調は急に強まった。
これ以上譲歩してくれるつもりはないらしい。肘を突いて上半身を軽く浮かせて、頭をもたげた神田は苛立った顔をしている。
斜に構えた身体の向きはあきらかにわたしを避けている。深く伏せた視線が、さっき錠をかけたドアの方向を示していた。
「今日はいつもと違うのね、髪が」
「だから何だ。お前に関係あるのかよ」
「ねえ神田。神田はどう思った?」
うるせぇな。
むっとして唇を引き締めた神田は、ふたたびマットに身体を沈めようとした。
その動きは背後から眺めて察知していたから、わたしは手の中にあるものを迷いのない勢いで引いた。
神田の編んだ髪を留めていた、あの紐の端を。しゅる、と滑る音をたてた紐が解ける。黒髪が肩にさあっと広がる。
とたんに神田の上半身がバネのように跳ねる。起き上がった彼は信じられないものを見る目つきでわたしを振り返って、
身体の向きを変えようとした。その寸前に、わたしは彼の引き締まった背中に向けて腕を伸ばしていた。
薄く汗の滲んだ素肌に顔を寄せて、簡単には向きを変えられないように腕を回す。両腕できつく抱き締める。
背中よりも熱のある硬い腹筋に手を這わせる。「おい…!」と神田は声を荒げた。
「やめろ、・・・・・・!」
うわずった響きの抑止は無視した。今のはなんて彼らしくない、無様でかわいい声だろう。
思いがけない声が聞けた満足さに、ほんの一瞬だけ微笑んで。わたしは白い素肌に浮き上がったきれいな背筋に、ふわりと唇を落とした。
舌先で撫でて軽く吸いつけば、神田の全身がびくりと疼く。背筋や腹筋が硬直していって、素肌から伝わる熱がわずかにせり上がる感触を両腕に感じる。
振り払うという選択肢すら忘れているみたい。
動揺を隠しきれずにいる純な反応が愛おしい。わたしは彼の背にもたれかかるようにして抱き締めた。
「ねえ。今の話を聞いていて、思い浮かべなかった? いっしょに海を見たいひと」
「・・・・・、」
吐息を吹きかけながら背中に尋ねる。すると神田が息を呑んだ。
わたしはくすくすと笑って、唇に残っていた汗の感触をゆっくりと舐め取る。薄い苦みが舌先から口の中に広がった。
彼の目にはっきり映るようにと、神田の顔の前まで腕を伸ばした。手の内に握っていたものを、しゃらん、と目の前に垂らす。
「おい、」
「わたしが彼女に返しておいてあげる」
部屋、近いもの。
気軽そうな声音を装って告げる。すると神田の手が紐を追いかけて上がった。
私の手を掴もうとして長い指がぱっと広がる。手を翻して背中から離れて、わたしはするりと彼から逃げた。
わたしにこれを返す気はない。当然、彼からこれを守らなければいけない。
「返せ」
「きっとまだ起きてるわ。帰りに寄ってあげる。あなたから頼まれたって言って渡すわ。ねえ、あの子、どんな顔するかしらね」
神田は毛布を邪魔そうに払い除けて詰め寄ってきた。ぎっ、ぎっ、と激しく揺れる寝台は荒波に揉まれる古いボートのようだ。
神田とわたしが動くたびに硬いマットのスプリングは大きく揺らいで、音をたてて軋んでいる。
毛布を払ったあとの神田の動きは鋭くて、流体のようになめらかな俊敏さで一気に詰め寄られた。
その動きのせいで寝台の上は激しく波打って、わたしの膝が沈んでしまう。身体が横に倒れて、逃げる姿勢すら取れなくなった。
「余計な世話だ」
「いいじゃない、あなたの手間がひとつ省けるんだから。わたしは親切で言ってるだけよ。なのにどうしてそんなに怒るの」
「!」
腰を着いた恰好で端まで追い詰められる。後ろについた腕が固くてざらついた感触に阻まれた。背中もだ。壁に当たっていた。
背後をちらりと流し見てから、わたしは焦らすような笑顔を神田に向けた。含みを持たせた表情で目を細めて、口角をゆっくりと吊り上げて。
怒りの火が点いてしまった神田の険しい目を、手を伸ばせば届く距離からじっと見つめる。いつもは冷淡な切れ長の瞳に激しい色が灯って、
見蕩れたくなるほどに美しい生気を放っていた。
ちっ、と神田は歯痒そうに舌打ちした。こらえても膨張しつづけている怒りの熱気が、
全身からわたしに訴えてくる。
「てっめえ、・・・・・!」
「ねえ。返してほしい?」
からかうような口調で訊くと、神田の眉が激しく吊り上がった。怒りの熱気が瞬時に冷気に変わる。
「女だからって容赦なんかするか」と思っていそうな冷えきった顔の神田が、わたしの手許を狙って迫ってくる。
背後は壁で逃げ場もない。この状態で、彼の素早さからわたしが逃げおおせる可能性は低い。だから咄嗟の思いつきを実行に移した。
胸元にすうっと手を入れる。握っていたあの子の髪紐をそこへ置き去りにしようとした。――けれど、
「・・・っっ!」
肩をぐっと抑えつけられる。覆い被さってきた裸の胸がわたしを寝台に沈めた。
ぎぃぎぃと耳につく軋みを上げてマットが揺れる。
倒されたわたしの視界も身体も大きく揺れる。腰に感じる重みが熱い。
馬乗りになって長髪を振り乱した姿が影になって視界を塞いでいる。はぁっ、と肩を大きく揺らしながら息を吐いている。
硬いスプリングの上下に合わせて、わたしの身体もゆらゆらと揺れる。顔へかかっていた髪を乱暴に払った神田の、
いつになく自分を見失った目つきが鋭く刺さってくる。
ちょっとだけ肩を竦めて「困ったわね」という仕草を入れて、頬を歪めてわたしは笑った。
繕うことなく浮かんだ自然な笑みに、乾いた悲しさが紛れてくる。
――そう。あなたはあの子のことなら、こんなに切羽詰まった態度をわたしに晒すのね。
「・・・何なんだお前。何を考えてやがる」
俺に、何を。
身体の底から絞り出したような声が、彼の腰や脚を伝ってわたしに響く。
黒い真珠のような光沢の瞳が、じっと見据えて訊いてきた。
しばらく無言で見つめ合ううちに、彼の視線が何かに気付く。ふと下がった。
キャミソールの胸元。そこに差し込んだ髪紐の端を見つけたんだろう。神田はぎりっと口端を噛んだ。
眉の寄った目元はわたしの素肌を睨みつけている。ひどく不愉快そうで、でも戸惑っていた。ほんのわずかな動揺が、
視線のあやふやさにほの見えている。
神田は大きな仕草で頭を振って、わたしから顔を逸らした。黒髪が羽のように広がって彼の動きを追う。強張った肩をぱさりと覆う。
白くてしなやかな腕が筋を浮かせている。乱暴な手がシーツをばしっと叩いて、八つ当たりのようにぎゅっと掴んだ。
顔のすぐ傍で握られた神田の拳。わたしはぼんやりとその手を見つめる。怒りをぶつけられて皺のついた、白いシーツを横目に眺める。
それから動かない神田を見上げた。まっすぐな長い髪はわたしの首筋にも垂れてきている。毛先の感触が肌に当たってくすぐったかった。
ふぅ、と和らいだ溜め息が漏れる。緊張の解けた顔にすこしずつ笑みが上っていった。
「そうね。そこが困ったところなの」
――そう。わたしは矛盾してるの。自分でも自分がわからないの。
この髪紐を見た瞬間にそう感じた。
あなたから奪って心臓の近くに差し入れた、これは兆し。わたしにとっては悲嘆の始まりそのものだ。
あの子はきっといつか、わたしからあなたを奪ってしまう。
そう思った。
なのにわたしは嫉妬を覚えなかった。頭に浮かべたその光景を微笑ましいものとすら思ってる。
わたしが介入する余地などないはずのあなたの幸せに、心地良さまで覚えてしまう。
これって正気とは言えないわ。きっと心の痛覚がどこか壊死してしまっているのよ。
そんなわたしはおかしい。気がふれている。そこまで大袈裟でセンシティヴなものではないのだろうけれど、
かといって健全だとは思えない。わたしは疑っているの。あなたをこんなにもとめるわたしを。
こうして身体を投げ出してでも、恋に溺れようとしているわたしを。
あなたに触れると湧き上がってくるこの感情の渦だって、身体の奥に生まれて全身をさざめかせるこの熱だって。
すべてはただの錯覚なのかもしれない。恋とは呼べないものかもしれない。そんなことを思っているの。
けれど。――気がふれたわたしの本能は、こうも耳打ちしてくるの。
そんなおかしさを招く矛盾や混濁の沙汰こそ、恋と呼ぶのに相応しいものじゃないのかしら。
「わたしね、あなたには幸せになってほしいの。でもね。矛盾してるのよ。わたしも幸せになりたいの」
ねえ。どうしたらいいと思う?
ささいな悪戯のつもりでわたしは神田の手を取った。答えて、と言いたげなまっすぐな視線を投げかける。
返答に詰まった神田の体温の上昇を感じながら、自分へと導いていった。
腹部をマットに沈める硬質な重さは、その誘いを拒まなかった。
神田の重心がぐらりと前へ傾く。
古くて頑丈な寝台がぎいっと軋んで、わたしの背中も軋ませる。
わずかな痛みを孕んだその感覚が心地良い。目を閉じそうになるほどうっとりした。
そんな苦しそうな顔をしなくていいのに。
解ってるの。あなたが求めているのはあの子。わたしには何も求めていない。
冷たいようでいてやさしいあなたは、だからわたしがこの部屋に入ることを許してくれる。
だから、――そう。だからわたしは、あの暗い海を眺めながら決めてきたの。
今夜わたしはこの部屋に沈んでいく。
この冷やかな部屋で、あなたをわたしに拘束するの。
あなたにこれ以上の何かを求められない。
わたしが生きる理由を――狂おしいほどに「生きたい」と願う理由を望めない。
解っているの。だからこうして、わたしはわたしを生に拘束する。そしてこの部屋の罪になる。
口では何を言っても清廉な自分を貫いているあなたを穢す、小さな秘密になりたいの。
これはただそれだけのための儀式。わたしからの一方的な我儘の押しつけでしかない。だから。
あなたはただ、したいままにわたしを楽しめばいい。
あなたの身体が欲するままに。暗く蠢いていたあの海のように残酷に、好きなようにわたしを荒らしていい。
あなたが苦しむべきことなんて、この寝台の上にはなにもないから。
「・・・・・二度と来るな。俺に、構うな」
「真面目ね神田は。そういうところも好きよ」
矛盾は生まれる。
硬いスプリングに沈んだままのわたしの身体に。
キャミソールの薄い生地をぐしゃりと掴んで、ためらいを隠せずに沈黙する神田の手に。
ほんのすこしの身じろぎも大きく伝える古い寝台に。
触れ合った感触が誘発し合って熱を生む、わたしたちの肌と肌のそこかしこに。
受け容れて。ひとつになりたいの。
あなたに痛みと熱を注がれたい。欲情に引きずられて揺られてみたい。
この密室の夜を邪魔するのは、あなたの捨てきれない誠実だけ。
わたしはそれをあなたから奪いたい。けれど、皮肉ね。
その誠実は、わたしの空虚さを洗い流してくれるあなたそのものなの。