――走って、走って走って、下駄の鼻緒が切れて転んでも歯を食い縛って、また走る。
置屋を飛び出す直前に聞いた道案内だけを頼みに、その家を目指してひた走った。
かぶき町の大通りを駆け抜けて、繁華街の端に建つ煙草屋の角から折れて右へ。
角を二つ直進するとぶち当たる、こぢんまりした飲み屋や小料理屋が鰻長屋のように
立ち並ぶ狭い通り。「スナックお登勢」の看板が上がった、二階建て――




「・・・っ。ここだ。・・・・スナック、お登勢・・・・っ」

夕暮れ時の往来を走りに走って、ぜぇぜぇと息せき切って辿りついた家の前。
飾りっ気なしな看板の文字は、ここへ着くまでひっきりなしにぶつぶつと諳んじてきたそれと同じだ。
見上げた看板の上――正面に玄関口がある建物の二階は、やけにがたがたと物音が煩い。
そこに聞き覚えがある気抜けした声が混ざっていたから、店の横にある階段を
駆け上がった。普段なら丁寧に端折って持ち上げている一張羅の曳き着の裾を、
古びた床板でずるずる摺って、ばたばたと昇る。いくら裾を絡げ持ちたくても、
両手が荷物で塞がっているんだから仕様がない。右手には転んだ時に脱いだ下駄。左腕には
見た目よりもずしりと重い、島田髷のかつらが収まっている。

――呆れたもんだ。なにをやっているんだろう。どうして来てしまったんだろう、あたしは。
こうしている間にも今夜のお座敷に上がる刻限は近づいていく。なのに、こんなところで、何を。
「行くなら明日になさいよ」と止めてくれたおかあさんや姐さんたちを振り切って、
往来の人目を弁えるのも忘れて、すっ転ぶほど慌てて走って。商売道具の芸妓の正装をぼろぼろにして、
二町先の花街から飛んできた。・・・少なくとも売り出し中のひよっ子芸者がやることじゃない。
気がふれたとしか思えない醜態だ。
でも。・・・それでも、一刻も早く確かめずにはいられなかったから――

足袋の裏が擦りきれかけた足で、最後の一段を踏みしめる。はぁはぁと喘ぐ息遣いを抑えながら走れば、
玄関口は目の前だ。自分でもわけがわからないまま、震える手で格子戸をがんがんと打つ。
しばらく待つと、がらり、と扉が開かれて――。



「――はいはい、何だい、悪いけど新聞屋なら用はないよ。
新聞なんざ碌に読みそうにないからねぇ、ここの住人は――」

戸口を開けてくれた黒装束のお姐さんが、あたしを見つめて度胆を抜かれた顔で立ちんぼする。
渋くていなせな墨染めの着物姿。目元の皺が、置屋のおかあさんとそう変わらない年代を刻んでいる。
…この人が話に聞いた「お登勢さん」だろうか。

「あ、あの――」
「…こりゃあ驚いたね。どこか余所とお間違いじゃないかい、お嬢さん。
うちも一応は酒を出す店だけどさ。あんたみたいな綺麗どころを呼べるほどの宴席は無くてね」

そう言って口から紫煙を繰り出した人の目線が、あたしの頭の天辺から足先までを
つらつらと巡る。口調は穏やかなものだったけれど、目つきは明らかに不可解そうだ。
そりゃあそうだろう。この界隈なら二町先のお茶屋街にしか顔を出さないはずの芸妓姿が、
なぜか自分の家に訪ねてきたんだから。しかもただの芸者じゃない。髷も脱げてひっつめ髪、
額から汗水垂らしてぜぇはぁ言ってる、見る影もなく着崩れた芸者だもの。

「――あのっ、・・・・・・初めまして。突然に押しかけてしまってすみません。
菱屋という置屋で看板を上げております、芸妓の小菊と申します。あの、今日は――」

・・・さぁ困った。この人に何をどこから話せばいいものか。それを考えて黙りこくれば、互いが
自然とお見合いになる。――すると、黒装束に隠された廊下の向こうで、
どたどたと床を踏む音が鳴って。

「おいババア、これもこれも要らねーんだろ。後でまとめて外に出しちまうからよー、
こっちの部屋に――」

なんて面倒臭そうに言いながら、見覚えのある白髪頭がふらりと顔を出した。腕には古そうな
布団の束を抱えてて、玄関先のあたしを見つけて動きが止まる。
お登勢さんとあたしをすっとぼけた半目できょろきょろと見比べながら寄ってきて、

「誰。誰だよ、この色気垂れ流しなねーちゃん。ババアの知り合いか?」
「・・・・っ。あんたねえ・・・寝惚けたこと言ってんじゃないわよ、こっのうすら馬鹿!!」

あんまりな言い草にかっときて、だんっと三和土を踏み鳴らす。
相変わらずに締まりのないふやけ顔が、緩んだ口をぽかんと開けた。
誰だこいつ。こんな女、さっぱり覚えがねーんだけど。そんな顔して自分を指して、

「俺?いやいや何かの間違いだろぉ。俺ぁ江戸には来たばっかだからよー、知り合いなんて」
「いるわよここに!あたしがその知り合いよっっ」
「・・・いやはや、まったく驚きっ放しだよ。
いたんだねぇこんな子が、あんたみたいな胡散臭いぐーたら者にさぁ」
「うっせーな、つーか知らねーよこんな女ぁ。
いたら誰がこんなボロ屋に転がり込むかってーの」
「〜〜〜っっ。・・・・・・ざっけんな。ざっけんなバカ天パ!」
「ぶほっっっ!」

ぶん、と放ったかつらが狙い通りに顔に命中。下駄もついでにぶつけてやって、
三和土を蹴って廊下に上がる。どんっ、とあいつの胸を突いて、

「〜〜っってえなおいぃ、なに、誰あんた!?自慢じゃねーけど俺ぁあんたみてーな女には縁が、っっ!」

両腕で思いきり押して尻餅をつかせる。ごろんと廊下に転がった身体に飛びついて顔を埋めたら、
かあっと熱くなった目の中がゆらりと潤んだ。ぶるぶると肩が震え出して止まらない。
ってええ、と抱きついた身体が頭を押さえながら起き上って、

「〜〜っっだよこの女あぁ、何者!?すげー痛てぇんだけど、後ろ頭ガンガンしてんだけどっっ」
「うっさいっっ、あんたこそなによっ、どこもかしこもぴんぴんしてんじゃないのよっ。こっちはあんたが
腕の一つ二つ失くしてんじゃないかって心配で飛んで来たってのに・・・!」

声の震えを噛みしめる。古びた匂いがする着物の胸ぐらを引っ掴む。そこをべしべしと、
滅茶苦茶に殴った。毛先が跳ね返った白髪頭も、手当たり次第に引っ張ってやる。
十円禿げが出来そうなくらい、根元から容赦なくぐいぐい引っ張ったら、

「ってえええなやめろって姉ちゃんっ、んだよおめーあれか、カツラ会社の回し者か!?
俺の毛根死滅させる気!?・・・っておいババアてめっ笑ってねーでケーサツ呼べよケーサツ!!」

いてえいてえと繰り返す馬鹿面が憎たらしくってたまらない。涙が滲んだ目で睨もうとしても、
ぐしゃりと表情が歪んだ顔がちっとも言うことを聞いてくれない。鼻の奥がつんと痺れる。
奥歯が欠けそうなくらいきつく歯噛みしてみたけれど、それでも目の奥からは勝手にしずくが溢れ出す。
ぽろぽろと、ひたひたと、止め処なく。


――居た。本当に居た。

(かぶき町の顔役さんがね、どこからか拾ってきたんだってさ。得体の知れない銀髪の、若い男を。)

さっき置屋で姐さんから噂話を聞いたときは、驚きで心臓が潰れそうになった。話を聞くうちに
そわそわと落ち着かなくなる一方で、誰か似たような男との人違いじゃないかと疑いもしたけど。
・・・でもそうじゃなかった。無事だった。生きてた。生きてたんだ。
  新聞で目にしていた終戦間際のむごたらしい戦場は、どこも血を撒き散らした地獄絵図のようだった。
あの戦禍の中を、無事に生き延びてくれたんだ。
抱きついた身体があったかい。着物越しに心臓が脈打ってる。
よかった。身体のどこも失くしてない。元気に布団なんか運んじゃって、相変わらずに口が悪くて。
よかった。よかった。生きてたんだ。

(こんなに心配させられてるんだもの。
もし次に会ったら、急所を蹴り上げる程度じゃ済ませてやるもんか。)

音沙汰無しだったこの二年、毎日のようにそんなことを思わせてきた奴が――



「・・・なのに何よぉ、知らねぇって!・・・・・・ざっけんな。
っ・・・たし、が。どれだけ心配したと思ってんのよっ、銀時・・・・・!」
「――― へっ。・・・俺?」

面食らった銀時が黙りこくって、急に周りがしんとした。
肌寒くて薄暗い家の中に、あたしの嗚咽ばかりが高く響く。
辺りにゆらゆらとたゆたっている煙草の香りが目にしみる。おかげで涙が止まらない。
転んでひねった足首が痛い。足袋が擦り切れた足裏が痛い。ああ悔しい。
それもこれもどれも全部、たった二年会わなかっただけで人を赤の他人扱いするこの馬鹿のせいだ。
小汚い着物に顔を押し付けて泣いていたら、廊下に転がったあたしたちの上に
ふっ、と苦笑が落ちてきて。

「どうやら人違いってこたぁなさそうだねぇ。本当に覚えがないのかい、銀時」
「・・・・・・・・・・」

しがみついていた身体をぐいと引き剥がされる。
眉を寄せてじとーっとこっちを見つめる間抜け面が、おぉ、と思い出したように口を開いて。

「・・・んだよ。誰かと思やぁかよ。っだよ驚かせんなよ。
つーかお前、何これ。なにこの格好。風俗街の呼び込み嬢でも飛び込んできたかと思ったぜ」
「・・・・・・・なによあんたっ。遅いのよ今頃っ。い。一体今まで、どこで何して・・・っ」

ぐずぐずと言いかけてはみたけれど、唇が震えて二の句が次げない。
もしも無事にあいつらに会えたら、――その時は鼓膜が破れるほどぶつけてやろう。
そう決めて溜めこんでいた罵声も文句も出やしない。これ以上泣き顔を見せるのが気恥ずかしいわ
悔しいわで、広い胸にどさりと伏せて、無理やり床に転がしてやった。

伏せた途端に堰を切って溢れ出たのは、情けなく裏返ったガキっぽい泣き声だった。









W h a t a w o n d e r f u l w o r l d !

白群

―びゃくぐん―











「…あー思い出した。思い出したわ。
そーいやぁお前、芸者になるっつって江戸に出たんだよなぁ…」


すっかり忘れてたわ。
たった三年前のことを、遥か遠い昔の思い出でも語るように銀時は言った。
窓から外へ向けられたかったるそうな目は、近所の銭湯の煙突から昇る白煙に
気のない視線を向けている。二人で窓辺に座って硝子越しに眺める歳の瀬の夕暮れは、
どこも寒々とした灰色にくすんでいた。窓枠にだらしなく寄りかかった奴の顔が、
吐息で硝子が曇る近さから外の景色を物色している。痩せて削げた横顔の輪郭が痛々しかった。

「・・・前に顔合わせてから二年、ねぇ。たった二年かぁ。なーんかよー、浦島太郎みてーな気分だわ。
俺ぁよー、お前とはもう何十年も会ってねーよーな気ぃしてんだけど」
「何をボケてんのよ。何十年も経ってたらお互い立派なジジババじゃないの」
「だーよなー。そのはずなんだけどよー」

ははっ、とせせら笑った気楽そうな口調が、今はかえってやるせないものに響いてくる。
お登勢さんに貰った湿布を肌に当てる。路上で妙な転びかたをしたせいで、足首は軽く
腫れかけていた。かすかに疼いて熱を持ったくるぶしあたりを、包帯でくるくると巻き止める。
脱いだ足袋は底が破れてすっかり駄目になっていた。軽く畳んで、淹れてもらった番茶の湯呑に手を伸ばす。
少し冷めたお茶を口に含む。温くなった香ばしさが乾いた喉に心地よかった。ふう、と
短い溜め息を吐き出してから、ようやく落ち着いて周りを眺めた。眺めながら、首筋から
忍び込んでくる肌寒さに気づく。
薄暗い部屋の中はがらんとしている。冬場だっていうのに暖房もない。
天井を見上げると、照明には電球すら付いていない。

――ここが銀時の新しい住処と決まったのは、ほんの三日ほど前らしい。
家具と呼べそうなものはまだ何もない。あるものといえば壁際に積まれた布団が一組、それきりだ。
人の気配も暖かさもない、殺風景な部屋。 誰もいない。何もない部屋。
この部屋ひとつを見ただけで、これまで銀時がどうしてきたのかを何となく肌で感じてしまう。
冷えきった暗がりに視線を一巡りさせながら、あたしはそれとなく口を開いた。

「江戸に出てきたのはあんただけ?他の奴らはどうしてるのよ」
「どうって。・・・まだおめーんとこに顔出してねーのかよ、あいつ」
「・・・?誰よあいつって。どいつのことよ」
「・・・・・・」

銀時があたしを眺めて、何か意外そうな目つきになる。そのまましばらく眺めてから、
ふーん、と肩を竦めて鼻を鳴らした。こっちの反応を少し気にしているような様子で、
お登勢さんが淹れてくれた番茶の湯呑を引っ掴む。ぐいと傾けて、ずずーっ、と啜った。
・・・・・・今のはなんだか妙な間だった。なんだか妙に引っかかる。

「なによ。勿体つけないで言いなさいよ、気味が悪い」
「んー。まぁあれだわ。・・・・・・あー、他の奴らがどーしてっか、だっけ」

一息に番茶を飲み干すと、あたしの目を避けるようにして外へ顔を逸らす。
白煙を昇らせる高い煙突よりもうんと向こう――暗色の雲に覆われた夕空に視線を投げて、

「俺も途中で抜けたからなぁ。他の奴らがどーなってんだか、知らねーんだわ。
けどよー、お上の布告まで出てっからなぁ。今頃はどいつも戦意喪失して散り散りになってんじゃねーの」
「ねえ、ヅラはどうしたの。あいつが一番本気だったじゃない」
「ヅラの奴ぁ最後まで、天人どもと合い討ち覚悟で挑む覚悟がどーこー言って
やがったな。・・・あいつも諦めが悪りーからなぁ。今頃どこでどーしてんだか」
「・・・辰馬は。辰馬はどうなったの」

まさか死んだりしてないわよね、あれに限って。
おそるおそる口にしてから、あたしはごくりと息を呑んだ。
すると外に目を向けていた銀時が、視線をひょいと斜めに上げる。
近所の家々の屋根の上でまだらに広がる灰色の雲。そこから半分顔を出している
まぶしい夕陽を指して、ぼそりと、

「行っちまったわ」
「!!」

あまりに素っ気ない一言に、湯呑を落っことしそうになる。
すうっ、と全身から血の気が引いていった。
・・・・・嘘。嘘でしょ。そんな、辰馬が・・・・・・・・・・・・・、

「お前が江戸に戻ってすぐじゃねーの。あんまよく覚えてねーけど」
「・・・辰馬・・・・・・あいつ、殺したって死にそうになかったのに・・・」
「適当に聞き流したからよく覚えてねんだーけどよー。宇宙でデカい仕事がどうこう言って出てったわ」
「・・・ちょっと待ちなさいよ。どっちよ、生きてるの!?死んだの!?」
「はぁ?死んでねーって。死んだなんて言ったかぁ、俺」
「そう聞こえたのよ!あぁもうっ縁起でもない言い方するんじゃないわよ、心臓に悪い!」

窓枠に立てかけた膝をべしっとぶってやったら、銀時が外を眺めたまま、ははっ、と笑う。
あたしはふっと息を呑んだ。それは今までに聞いたことがない、やけに乾いた笑い声だった。
――今までに見たこともない、やけに乾いた表情だった。

「まぁ今どーしてっかまでは知らねーけどな。どっちにしろよー、あれぁそう簡単におっ死ぬ
タマじゃねーからなぁ。あー、あれもな。もう一人のあれ。あいつも生きてんじゃねーの、多分」
「・・・・。そう」
「なー、俺にばっか話させてっけどおめーはどーなんだよ、芸者のタマゴ」
「もう卵じゃないわよ。見習い期間もとっくに終わって、今は駆け出しの芸者なの」
「へぇ。とっくに一本立ちってわけか。どーりで面ぁ合わせてもわかんねーはずだ」
「何よそれ。皮肉?」
「いやいや違げーって。見違えたって言ってんだよ。まさかあの山奥の田舎娘がこーなるとはよー」

――すっかり江戸の女になっちまったなぁ、お前。
独り言めいた口調でつぶやいて、口元が綻ぶ。笑っているのにどことなく
うつろなその顔を見るうちに、こっちの表情も自然と曇った。
衿口についっと指を差し入れる。そこに忍ばせておいたお客様用の千社札を出す。
いわゆる「芸者の名刺」を、銀時は初めて見たんだろう。へー、と物珍しげに覗き込んで、

「――小菊ぅ?はっっっ、馬鹿言ってんじゃねーよお前ぇぇ」

腹を抱えてくくっと笑って、渡した千社札をぴらぴら振った。
「っだよこれぇ、詐欺だろぉこの名前。久々に会った奴に体当たりぶちかますじゃじゃ馬のどこに、
小菊なんて可憐さがあんだぁ?」なんて、おかあさんが三日三晩考えてくれたあたしの妓名に
いちゃもんをつけてくる。小菊っつーより化け菊だろ、とむかつく目つきでにやつきながら
からかってくる馬鹿面を、あたしは半分睨むようにして見返した。

「ねえ」
「あぁ?」
「あんたはどうだったのよ。ヅラ達と別れてから今まで、どこでどうしてたの」
「さぁな。覚えてねーや」
「・・・話すのが面倒だから誤魔化そうったってそうはいかないわよ」
「そんなんじゃねーって。話そうにもほとんど何も覚えてねーんだって、マジで」
「・・・・・・ちょっとどういうこと。あんたもしかして、大怪我負って瀕死だったとか・・・?」
「いやいや、そーいうアレでもねーんだけどー」

軽い調子で答えた口が、ふっと止まる。
指に摘まんだ千社札を目の先でひらひらと振りながら、

「・・・戦場からフラフラ歩いて幾つも山ぁ越えて、気ぃついたら腹減りすぎて動けなくなっててよー。
通りかかったバーさんに食い物恵んでもらって、なりゆきでそこんちに居着くことになりました、みてーな?」
「・・・・・・何よそれ。迷い犬じゃあるまいし」

眉間を抑えて首を振る。はーっ、と深々した溜め息が喉から勝手にこみ上げた。
・・・まったくもう。まったくこいつときたら、・・・・・・気が抜けるったらありゃあしない。
久々に会った奴が――ようやく終わった泥沼の戦争から戻ってきた奴が、妙に意味深な
表情ばかり見せてくるのだ。そんな顔を見せられたら、こっちは何かよほど深い事情でも
あるのかと思うに決まっている。ああ、何かひどく損した気分だ。まだ生々しいはずの戦中の記憶を
出来るだけ抉ることがないようにと、気を使って慎重に切り出してみたっていうのに――

「っとにあんたときたら変わらないわね。あいかわらずふざけてるっていうか腑抜けてるっていうか・・・」
ー、お前よー、そのナリで来たってえことはこれから仕事かぁ?」
「そーよ、あと一時間でお座敷よ。時間もないのに腑抜け馬鹿の面拝みに飛んできたのよっ」
「お座敷ってお前、その足で帰れんのかよ。どーすんだぁ、車でも呼ぶかぁ?」
「あら、いいわよ車なんて。使える足ならあるじゃない、ここに」
「はぁ?」
「置屋まで背負ってくのよ。あんたが、あたしを」

窓枠にもたれた脚をぽんぽんと叩いて、客前で見せるような気取った顔でにっこり微笑む。
冗談じゃねーよ何で俺だよ、面倒臭せーよ車呼べよ。
ぶちぶちとぶーたれながら早速逃げようとする銀時の後ろ首を、はしっと掴んで捕まえた。
何が冗談じゃない、よ。それを言いたいのはこっちのほうだ。ここ二年間のあたしの心労を思えば、
置屋まで女一人背負って歩く労力程度。安すぎておまけが付くってものじゃないの。

「いやいやいや無理、無理無理。俺田舎者だし、ここいらの道もまだわかんねーしぃ」
「大丈夫よ、あたしが案内してあげるから。そうだ、ついでにこの辺の地理も教えてあげる。
あんたあたしのお座敷が終わるまで置屋で待ってなさいよ、色々案内してあげるからさ」
「いやいやいや、いーわそーいうの、今日外寒みーし、風邪ひきそーだからこの次でいーわ」
「あはは、やーねぇ笑わせるわねえ、真冬の山ん中でも腹出して寝てた奴がさぁ」

「何も聞きたくねえ!」とばかりに塞がれた耳を引っ張って、あーだこーだと言い続ける。
その甲斐あって、五分後にはこのものぐさな薄情者がどうにか折れた。
「じゃあ送ってやっから一杯奢れよ」というしみったれた条件付きだけど、それでも渋々に頷いた。
そうと決まれば一分でも早く置屋へ戻りたくて、
あたしは銀時の身支度を急かして、すぐに外へ出ることにした。















「んぁ〜〜・・・・っだよ畜生、さっみー・・・・」

寒い寒いと煩いくらい愚痴ってくる奴の腰の横あたりを蹴りながら、茜色を浴びた外へ出る。
銀時が扉をがらがらと閉める。扉を抜けて外の冷気を浴びた途端に、夕陽のまぶしさに包まれた。
地平の彼方に陽が沈み、空が夜の色へ落ちる間際の夕暮れの赤。まるで太陽が命を終える前の
最後の輝きを放っているような、強烈な熱の色。光の強さで目が眩みそうな、強烈な赤だ。


「・・・・・。あれだけはどこで見たって同じだな」

感心したような呆れたような、どっちつかずな口調で銀時がつぶやく。
背負ってくれた奴の肩に顔を寄せる。着物の上から羽織っている古い半纏からは、
昔にどこかで嗅いだような懐かしい匂いが漂っていた。
頑丈な肩の線に顎を預けて、うん、とあたしも頷いた。二人で黙って夕空を見上げた。

――同じ田舎者同士だからなのかもしれない。
今の銀時が感じていそうなことが、あたしにはその短い言葉だけでなんとなく判った。
同じなのは夕陽の色だけ。それ以外は、江戸と田舎ではあらゆることがまるで違う。
景色が違う。空の色が違う。水の味も、空気の匂いも、人の多さも、道行く人たちの顔つきも。
けれど夕陽のまぶしさだけは同じ。
今はもうなくなってしまったあたしの村。あの村の小高い丘の上にあった、
古くてみすぼらしいあたしの家。あそこから眺めていた夕暮れのあの色と同じ、燃えるような赤だ。
目の奥を焼けつかせて残像を残す強い光。あれはきっとどこで見たって、どの街で見たって
そう変わらないはずで。

――だから。 だから、銀時は思い出したんだろう。
思い出した夕暮れも、こんな色をしていたんだろう。
こいつが育った村で見つめてきた夕暮れも。 戦場で見つめてきた夕暮れも――



「・・・陽が暮れると寒いわねー」
「んー。だな」

様子を窺いながら声を掛けると、銀時は空から目を逸らした。
よっ、と弾みをつけて背中のあたしを抱え直す。階段に向かって歩き始めた。

「ねえ。うちの古い火鉢、譲ってあげようか。雪が降ったら暖房なしじゃきついわよ」
「んー。だな」
「それとさ、住むって決まったんなら電球くらいつけなさいよ。あれじゃ夜中は真っ暗じゃないの」
「あー、電球な。…ババアに借りた金で買っとくか」
「あんたまだ仕事も決まってないんでしょ、これからどーすんのよ。
もし働き口がなかったら言いなさいよ。うちのお客さんの伝手で何か紹介してあげるから」
「へいへいへい。・・・ったく次から次へと、相変わらず口うるせー女だなぁ。
お前は俺の母ちゃんかっつーの」
「あら、あたしだって誰彼かまわずこんな世話焼きしないわよ。
あんたがいい加減でだらしないから仕方なく世話焼いてるんじゃない」
「・・・・・・あのよー。
「はいはい。何よ」
「お前よー。・・・あの時。なんで俺と寝たんだよ」

たん、たん、たん。
階段を下る音を刻みながら、銀時は急に切り出してきた。――あたしが忘れたふりをしていたことを。

たん、たん、たん、たん、たん。

揺れが大きくなった背中を声もなく見つめるうちに、心臓がとくん、と音を弾ませる。
銀時が一段下に踏み出すごとに、ぐらぐらと横に身体が揺れる。少しためらったけれど、
背負ってくれた奴の首へ腕を回して掴まった。古い階段がぎしぎしと鳴る。
あたしのぎこちなさに気づいているのかいないのか、銀時は黙って下っていく。
人の行き来が増した夕暮れの通りに出ると、夕陽に背を向けて置屋のほうへ歩き出した。
あたしもしばらくそのまま黙っていた。黙って答えを探していた。自分を背負った奴の、
髪の先がでたらめに跳ねた影を見下ろす。それから、ゆらゆらと大きく揺れながらあたしを運ぶ背中を
じっと見つめる。固くなった身体の気配を悟られないよう、静かにすうっと、深めに息を吸い込んだ。


「――なんだ。まだ覚えてたの」
「そりゃあ覚えてんだろ。・・・あれが忘れられっかよ」

お前、初めてだったしな。
なんてことをどことなく言い辛そうに、けれどすっとぼけた表情を崩さずに言う横顔が可笑しい。
思わずぷっと吹き出してしまった。

「へーぇ。覚えてたんだ。あんたのことだからもうすっかり忘れたのかと思ってたわよ」

あたしの顔も忘れてたくらいだしね。
耳元に厭味ったらしく吹き込むと、銀時がこっちを流し見た。
表情は相変わらずとぼけているのに、視線は少し落ち着きがない。ばつが悪そうに目を逸らすと、

「・・・夏だったよな。山の天辺の野営地。
あん時は俺も追い詰められてたっていうか、余裕なくてよー。
お前が何考えて俺に許したんだか、さっぱり判んねーままで。・・・まぁ、今でも判ってねーんだけど」

あの後ぁ、ろくに話せねーまんまで別れちまったからなぁ。
そんなことをぼそぼそと言い終えると、銀時は黙って道を行く足を速めた。
ぺらぺらと良く舌が回るこいつの、珍しい歯切れの悪さにまた吹き出す。
くくく、と笑い声が漏れる口を押えながら、肩を小刻みに震わせていたら、

「・・・でよー。今頃聞くのもあれだけど教えてくんね。なぁ、何だったのあれ」
「ふふっ、馬鹿じゃないの。あんたそんなことで悩んでたの」
「っだよ悪り−かよ。あぁそーだよ俺ぁ女心なんてわかんねーから悩みましたよ悩んで悪りーかコノヤロー」
「だから馬鹿だって言ってんのよ。あのねぇ、あれのどこに悩む必要があんのよ」

からかい半分に言い返すと、不貞腐れた横顔がぷいと背く。声を出さずにこっそり笑った。

――馬鹿だ。本当に馬鹿。
あんなに人の気配に聡いこいつが、どうしてこんな単純なことがわからないんだろう。
女が――それも、初めての女が。男に許す理由なんて、そうそう沢山あるもんじゃないのに。



「――そんなの決まってるじゃない。
あの時あんたが、今にもぶっ倒れそうな景気の悪い面してたからよ」
「・・・・・・・・・・・・・・。マジでそれだけ?」
「そーよ、それだけ。あたしは恩義に厚いのよ。あたしをあいつらに引き合わせて世話してくれたのも、
家族を埋葬してくれたのも、父さんたちの位牌を持ってきてくれたのも、全部あんただった。
だからあんたが死にかけた顔してご飯も食べなくなってた時、今こそその恩を返そうと思ったの」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

銀時は腑に落ちないような顔をして、地面を見つめて黙りこくっていた。
足取りが少しずつ遅くなってくる。
もっと早く、とけしかけるつもりで、どん、と腰の横を蹴って、

「あれのおかげであんたも少しは息吹き返してたじゃないの。ほらほら、あたしに感謝なさい」
「・・・・・・・・・・・・。んだよ。そんな理由?拍子抜けしたわ。マジでそれだけかよ」

それだけよ、と笑い混じりに念を押す。
あーあー何だよ、とぶつぶつぼやいている白髪頭を、こん、と後ろから小突いてやった。

「他に何があるってのよ。もしかして他に何か期待してたの、あんた」
「いやしてねーよ。してねーって」

してねーから。全然、なーんもしてねーから。
むきになった口ぶりでしつこく繰り返した銀時が、一体何を思ったのか、首元に回っていた
あたしの右手をがしりと掴む。ぎゅう、と握りしめられた手を、すっと口元まで運ばれて――

さん。あん時ぁどーも、ゴチでした」
「―――っ、」

丸まったあたしの指先に、銀時は唇を落としてきた。かすかな吐息が肌を掠める。
妙に恭しい仕草で持ち上げられた指の先に、柔らかい熱を灯して離れていく。
突然のことに驚いてしまって、肩がびくんと竦み上がった。
何か曰くありげに細めた目が、白い前髪の隙間からこっちをちらりと流し見てきて。

「・・・なんつーかよー。お前には助けられてばっかだよなぁ、俺」

くくっ、と喉の奥で銀時は笑った。口元が緩んで腑抜けた笑顔に、さっき家の中で見たような
乾いた翳りは感じられなかった。出会った時と同じ表情。二年前の夏に目にしたのと同じ笑顔だ。
見ているうちになぜか胸の中を掻き乱されて、なんだか落ち着かない気分になる。自分でも
知らないうちに頬を火照らせてしまったあたしは、大きな手の内からするりと自分の手を引き抜いた。

・・・・・・何を言ってんだか。何が「助けられた」よ。
銀時には助けられた覚えこそあれ、助けた覚えなんて一度もないのに。


「・・・・・・。そ。そんなことないわよ。・・・なによその顔、薄気味悪いったらありゃしない。
違うわよ。違うから。あれは別に、あんたを助けようなんて、そんな殊勝なこと思って
やったわけじゃないから」
「・・・あっそ。そーかよ。まぁ、そんならそれでいーんだけどよー」

とぼけきった口調でそう言うと、銀時はこっちに振り返った。
おかしな含みを持たせた顔であたしを眺めて、にやりと笑うから憎たらしい。

「・・・何よ。前向きなさいよ、前を。
後ろばっか見てるとそのうち電柱かやくざ者にぶち当たるわよ」
「へいへい。で、この先はどっちに行きゃーいーんだよ、小菊姐さん」
「右よ、右っ。右行って橋渡ってまっすぐよ!ほら急いで、もっとしゃきしゃき歩けないのあんたっ」
「〜〜ってえなこの。おめー相変わらず凶暴だよなぁ、ケツばっか蹴んじゃねーよ」
「男がケツ蹴られたくらいでガタガタ言うんじゃないわよ。股間が無事なだけで有難いと思いなさい」

あたしは痛めていないほうの足でがんがんと銀時の腰を蹴って急かす。銀時は銀時で、
蹴ってくるあたしの足をばしばしと叩き返して反撃してくる。子供のじゃれ合いみたいな
馬鹿げた真似を繰り返すうちに、いつの間にか花街へ続く道へと差し掛かっていた。
夕暮れ時の混雑が増した大通り。人の波が押し寄せてくる様子に、銀時は最初、戸惑った顔をしていた。
周囲を行く人に肩をぶつけたり、たまに足を止めてみたり。夕暮れ時のこの界隈の混雑ぶりに
辟易しているらしい。けれどそのうちに身体が慣れ始めたのか、
たいした不自由もなさそうに右へ左へ、人波に逆らうことのない動きで
すいすいと道を掻き分けていくようになった。きょろきょろと辺りを眺めながら
歩く様子を、あたしはそれとなく後ろから窺っていた。しばらく眺めているうちに、
すっとぼけた半目が何を追っているのかが判ってきた。周りの建物でもなければ、
色を濃く変え始めた街の夕景色でもない。人だ。銀時は、通りを行く人ばかりを目で追っていた。
駅の方向から溢れてくる、家路に着く人たちの群れを。これから夜の店へ出る、
艶やかな格好の女性たちを。飲み屋の軒先で声を張り上げる呼び込みの男たちを。
道沿いの公園から飛び出てきて、はしゃいだ様子で駆け抜けていく子供たちを。
自分の傍をすり抜けていく人たちの一人一人を、銀時はどこか懐かしげな目をして見送っていた。
やがて花街へ通じる太鼓橋に出ると、人足の多さが一旦収まる。
橋の真ん中でなぜか立ち止まった銀時が、真下を流れる川を見下ろす。黒く濁った川面には、
道沿いに輝く街灯のまぶしさが点々と映って揺れていた。ぼんやりした視線を足元の川に
注いでいた銀時が、ゆらゆらと人波が蠢く大通りの様子を返り見る。感心したようにぽつりと言った。

「・・・・・広れーよなぁ江戸ってのは。毎日が祭りみてーだよな。
毎日どっから湧いてくんだぁ、この人の多さはよー」
「そーね。どこもゴミゴミしてるでしょ、田舎と違って」
「まぁな。けど、いんじゃね。・・・嫌いじゃねーわ俺、この街。こーいう景色」

そう言うと、銀時はまた懐かしげな目つきになる。
ほんのわずかな、こそばゆそうな笑みが、緩んだ口端にふっと上った。

「なーんかよー。こーやって汚ねー街ん中歩いてっと、やっと人ん中に帰ってきたって気になるっつーか」

――よーやく人に戻れた、って気ぃするし。

ついでのように付け足してから歩き出した奴を、あたしは黙って眺めることしか出来なかった。
今のは一見、何気なく、あまり意味もなく出てきた一言のように聞こえた。
けれどその何気ない一言に、何か途方もない、あたしには到底測りきれない重みが
隠されているように思えたのだ。
――もしかしたら、それはただの考えすぎで。こっちの勝手な思い込みなのかもしれない。
言った本人にしてみれば、たいした意味もない、何気ない一言だったのかもしれない。けれど、
聞いたあたしの胸にずしりと迫ってくる何かが、たしかにそこにはあったから。

――今はまだわからない。
銀時がどんな気持ちでそう言ったのか。今、何を思っているのか。戦場で何を
見てきたのか。どんなことがあったのか。
・・・・・・今はまだわからない。やっと再会できたばかりの、今は。
他の奴のことはぺらぺらと軽い調子で語ったこいつは、自分のことはほとんど、何も――
尋ねられた以外のことは、一言も喋ろうとしなかった。だから。だから、今は――



「――ねえ、言い忘れてたけどさ」
「んー?ぁんだよ」
「おかえり。銀時」
「・・・・・・」


――今、あたしがこいつに、何かねぎらいの言葉を掛けるとしたら、
きっと、このくらいのさりげなさが丁度いい。そう思いながら、こっちに振り向いた
白髪頭に顔を寄せて笑いかけた。今更なそのひとことが気恥ずかしかったのかもしれない。
んー、とどうでもよさそうにつぶやいた銀時は上を向いた。あたしもつられて、
同じように視線を上げる。見上げた宙に、二つの吐息が白く霞みながら昇って消える。
かぁ―、かぁ――と、太くて茫洋とした響きの啼き声が耳に届く。

陽が暮れたばかりでまだ闇も浅い雪曇りの空を、白い冬鳥の群れが渡っていった。




「 What a wonderful world !  *白群 」
text by riliri Caramelization 2012/11/04/
for roomNo.20121010 ×××


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