自慢じゃないけど朝には強い。
毎朝、置屋の誰より早起きしているし、
目覚まし時計に頼らなくても自然と目が覚める体質だ。
だから朝寝坊なんてものには縁がない、・・・はずだった。
「・・・・・・・・っっっ!!」
その朝。唐突にぱちっと目を覚まし、がばっと飛び起きてから数秒後。
陽射しのまぶしい東向きの窓を見つめ、がっくりと肩を落としながら溜め息を吐く。
起き上がったばかりの布団に、大の字でごろんと転がった。
早起きどころか大寝坊だ。朝陽がもう、障子戸の天辺を透かすほどに燦々と輝いている。
W h a t a w o n d e r f u l w o r l d !
紫苑
―しおん―
顔を洗って身支度を終えて、すぐに台所に駆け込んだら銀時がいた。
あたしがこいつらと暮らすようになった以前には、ここの炊事は銀時が主にこなしていたらしい。
半年前は朝寝坊の常習犯で、台所にも滅多に寄りつこうとしなかったけれど。
釜戸の上には汁物の大鍋がある。白い湯気を昇らせながらくつくつと煮立っていた。
流しの前に立つ銀時が、水桶に入った何かを洗っている。
ふあぁああ、と大口を開けて天井を仰ぎ、猫背気味の大きな背中を欠伸に強張らせると
まだ眠気がさめないのか、首をかくかく横に振って動かした。
それに合わせてふやけた癖っ毛もふらふら揺れるのが可笑しい。
くすくす笑いながら近付いた。
「おはよう」
「・・・・おー」
声を掛けて横に並んだ。寝惚けた涙目でちろりとこっちを見ると、
手許の桶で水に浸かっている里芋や人参をざぶざぶと洗い始めた。
「さぁん。ゆうべはあたしが朝飯作るとか言ってなかったっけ」
「んー。そのつもりだったんだけど、久々に長距離バス乗って疲れたみたいでさぁ。ごめんごめん」
「・・・・・ふーん」
「ねえ、何これ、煮物にするの?」
「・・・さっき麓の村のばーさんが来て。鶏潰したから食えっつって置いてったんだよ。
半分は芋と煮とくから、お前、もう半分は焼いて晩飯にでも出せよ」
「へえ。よかったね、今日は御馳走じゃん」
「んァ。まーな」
気のない声で答えながら、銀時が煮立って泡立ち始めた汁物の鍋に向かう。
これやっといて、と桶を目線で指された。
たっぷり張られた水にちゃぷんと手を入れる。茶色く濁った井戸水は、指先がきいんと痺れるほど冷たい。
底に沈んでいた赤みの濃い人参を掬い上げ、泥をたわしで擦り落としていると、
銀時が「ああ」と思いついたようにつぶやく。隅に置かれた小ぶりなお盆に目を向けた。
「お前さ、あいつんとこにアレ持ってけよ。アレ、あいつ用の朝飯だから」
「誰よ。あいつって」
「あいつったらあいつだろ。一人いんだろォ、放っとくと俺以上に起きてこねー奴が」
ああ、と気づいて口を開きかけたら、何かをぽんと押し込まれる。
小さめに作られた握り飯は、むぐ、と噛んだら口の中で柔らかく崩れた。
お米のふっくらした炊き加減もいいし、塩味もちょっと強めで朝ご飯には丁度いい。
「銀時。すごく美味しい」
「そりゃそーだろ。当然だろ。腕上がったもん、俺。
何出したってろくに食おうとしねーからな。あの面倒くせー坊ちゃんは」
「へえ。おかずが気に食わなかったんじゃないの。好き嫌い激しいよね、あいつ」
「昔っから食い物には我儘なんだよ。…あの食わず嫌いには先生も手ぇ焼いてたからな。
味が不味いと一口食って見向きもしねーし、見た目がまずけりゃ手ぇつけようともしねーし」
「そーなの?でも、昨日は普通に食べてたじゃない」
「昨日はな。けど普段はろくに食わねーの」
「・・・?じゃあ、何で昨日は食べてたのよ」
「そりゃー。・・・・お前が作ったからじゃねーの」
どことなく機嫌を損ねたような声でそう言うと、銀時は何か言いたげな目でこっちを見る。
目が合った瞬間に、お互いの表情が硬くなる。あたしは咄嗟に笑顔を繕って
「仕方ないわねー、持っていけばいいんでしょ」とお盆を手に取った。
銀時が何か言いかけても耳を貸さずに、急いで台所を出た。
「晋助。おはよう。起きてる?」
思ったとおりだ。声を掛けて数秒待ったけれど返事がない。
お盆を廊下に置いて戻ろうとしたら、襖戸の向こうでごそごそと衣擦れの音がする。
「か」
「そーよ、おはよう。ご飯持って来たからここに置いてくわよ」
「入れよ」
・・・野郎が寝てる部屋に入りたくないからそう言ってんのよ。
と言い返したいけど、言えばどうせこいつは「俺ぁ男に手ぇつける趣味はねえぜ」とか何とか、
ムカつく皮肉で笑い飛ばすに決まってる。嫌々ながらも襖を引いた。
「あんた、毎朝銀時に部屋まで運ばせてんの?いい御身分ねえ」
「俺は頼んじゃいねーよ。・・・あの馬鹿も懲りねえからな。毎朝部屋に押し込んでいきやがる」
「あれでもあんたを心配してんのよ。ほら、起きて起きて」
いつまで寝てんのよ、と急かしても、晋助は煙を吐きながら笑うだけだ。
開けた戸の向こうには、霞のようなうっすらした白煙と
深く吸い込んだら喉に引っかかりそうな独特の匂いが漂っている。
じんわりと蒸し熱い部屋の中は、障子戸を閉め切ったままで薄暗い。それでも起きたばかりの
奴にとっては、障子越しの眩しさが目に染みるらしい。光を避けてうつぶせになり、
布団の上で煙管をくゆらせている。見るからにだるそうなこの姿も、久々に見るとなんとなく懐かしい。
普段から気だるげで醒めた奴だけど、朝の晋助はさらに気だるげで寄りつきがたい。
ご飯もあまり進まないし、ほとんど誰とも口をきかない。ガツガツと朝飯を掻き込み、賑やかに
ふざけ合う奴らから一人離れて、窓辺で外を眺めている姿をよく見掛けた。
部屋に入って襖を閉め、枕元へ向かう間、晋助は何がそんなに面白いのか
あたしを興味深そうに目で追っていた。前髪の影になったあの視線は、以前からなんとなく苦手だ。
見ている奴の気配が静かすぎて、どこを見られているのかわからない。どこか得体が知れないのだ。
「はい、どうぞ」
枕元に置かれた火鉢の前で腰を下ろす。置いたお盆を手先で押して、晋助の目の前に出した。
平皿にはきちんと同じ大きさに揃えられた、小ぶりな胡麻塩の握り飯が三つ。塩漬けの山菜と
しっとりと柔らかそうな、焼き色の薄い卵焼きも添えてある。お椀には里芋に青菜入りの味噌汁。
一見質素な椀物にしか見えない。ところが、これが実はぱっと見以上に凝っている。
ここへ運ぶ最中にお椀の中を覗き込んで、あたしは目が点になった。
浮いている里芋はどれも角面を綺麗に剥き取ってあるし、ほのかに生姜で香りづけまでしてある。
あの何かと「面倒くせー」で済ませる銀時が、ここまで手の込んだことをするなんて。
「全部とまではいかなくても、少しは食べなさいよ」
「・・・・何だ。お前が作ったんじゃねえのか」
眉を片方上げて、晋助はつまらなさそうに握り飯の皿を眺めた。
「ああ、うん。そのつもりだったんだけど、寝坊しちゃってさ。作ったのは」
「銀時だろ」
「へえ。よくわかるわねぇ、見た目だけで」
「他の奴らはやたらでかく握るし、お前の握り飯はもっと雑だ。
まあ、お前の場合、雑なのは握り飯の出来だけじゃねえようだがなぁ」
「・・・悪かったわね雑で。仕方ないじゃない雑でも。江戸の料亭の御馳走みたいには
いかないわよ。山奥育ちの女はね、田舎風の大雑把な料理しか知らないの」
ムッとしながらお盆を押した。晋助の寝ている布団の端に押しつける。
言い返した声はなんとなくつんけんした口調になったから、晋助は可笑しそうに口端で笑った。
いつも置屋で気後れしていたことだから、なんだかグサッときたのだ。
だって、知らないものは作れない。豪華で洒落た御馳走なんて食べたことがないんだし。
お坊ちゃま育ちで美味しいものを食べ慣れてる晋助と違って、貧しい家の質素で雑な、
とことん大雑把な料理しか知らずに育ったんだから。
「それもそうだな。なら、今度食わせてやろうか」
「は?」
「江戸には馴染みの料亭がいくつかある。菱屋からもそう遠くねえぜ。
お前はやるこたぁ雑だが、勘は鈍くねえからな。舌で覚えさせたほうが早そうだ」
「・・・・・いいわよ。行かない」
「何だ。俺の奢りじゃ不満か」
「そうじゃないわよ。芸者見習いの小娘が行く場所じゃないでしょ、そんな敷居の高そうな店。
そんな洒落た所に連れてって貰ったって、あんたに恥かかせちゃうだけよ」
別に見たわけじゃないけれど、置屋のお姐さんたちの話には聞いている。
江戸に出た時の晋助が使うのは、金に糸目をつけない、遊び慣れた常連ばかりが出入りする店。
いわゆる「一見さんお断り」を謳った店らしい。江戸に出て半年の田舎娘には分不相応な場所だ。
まあ、あたしもあと半年で半玉だ。上手くいけばあと何年か後には、その分不相応な場所に
毎日のように出入りして、一人前の芸妓としてお客さんのお相手をしていることになるけど。
一人前の芸妓、か。
思い浮かべてもなんだかぴんとこない。もう少しお稽古を積んで踊りや小唄が上達したら
それらしい気分になれるんだろうか。そんなことを思いながら天井を見上げていたら、
くくっ、と噛み殺した笑いが聞こえた。晋助が煙管を持った手を揺らし、枕に突っ伏して笑っている。
・・・・・つくづくここには失礼な奴しかいない。
「ちょっとぉ。何がおかしいのよ。人が気を使って断ってんのに」
「・・・いやぁ。そいつは悪かったな。女にこうもはっきり断られんのぁ久しぶりだからなぁ」
「へえ。一応女扱いはしてくれんのね、どうもありがとう」
「ああ。まあ、一応な」
何よ、こっちは皮肉のつもりで言ったのに。
ちっとも堪えていないのか、晋助の口端はにやにやと笑っている。
咥えていた煙管を火鉢に置くと、指だけ動かして鷹揚に手招きした。近う寄れ、と言いたいみたいだ。
渋々であたしは前に出た。同じ金持ちの生まれでも、
辰馬とこいつはこういうところがまるで違う。こいつは人を顎で使うことに慣れている。
人を従わせるのがどういうことなのかが、骨の髄まで染みついているんだろう。
こうして促されるとつい従ってしまうから小憎らしい。
枕元まで寄っていくと、もう一度手招きされた。背中を屈めて顔を寄せる。
晋助は目の前まで迫ったあたしに目を細めて、何か試すような目つきで眺めてから口を開いた。
「雑は雑だが。これでも容れ物だけは女に違いねえさ」
そう言いながら手が動いた。あたしの首元に伸びてくる。
何なの、と眺めていたら、着物の衿の合わせ目にその手が触れて、人差し指を引っ掛けた。
え、と驚いて息を呑むと、襦袢の中まで指が深く差し込まれる。くい、と強引に引かれて
衿が開く。図々しくて冷たい――肌に触れたらびくっと震えるくらい冷たい指が、胸の間に差し込まれた。
「!!?っっっ!」
口だけがぱくぱくと、あわあわと動いた。
驚きすぎて声が出ない。喉の奥ではあらん限りの大声で
「ちょっ、馬鹿っ、何すんのよぉぉ!」と怒鳴っているんだけれど、こういう時に限って声にならない。
かろうじて出たのは「ひぇえ」という素っ頓狂な叫び声だ。叫びながら、冷たい手をぱしっと撥ねつけた。
「しっっ。晋助!!!ちょっ、・・・・なっ、なにす、」
「へえ。もう江戸で喰われちまったかと思ったが。お前、まだか」
「!?なっっっ、」
慌てて後ずさりながら、胸元を必死で抑える。
し。信じられない。朝っぱらからそんな楽しげなくつろいだ顔で、何てことを言うのかこの男は。
そうも恥ずかしげもなく言われると、逆にこっちが恥ずかしいじゃない!ああ。顔が勝手に火照ってきた。
「そっ、そういう店には他の人を誘いなさいよ!江戸にはあんたのお誘いなら、他のお座敷蹴ってでも
駆けつけるお姐さんが何人もいるんでしょ、知ってるわよ、置屋で色々聞いてんだから!」
そうよ。何であたしなんか誘うのよ。まったく、金持ちの気まぐれはよしてほしい。
場慣れしたお姐さんをいくらでも誘えばいい。その方が晋助だって恥をかかずに済むんだし。
「そういう女は喰い飽きてんだよ。こいつと同じでな」
そう言って銀時の作った朝食に手を伸ばす。
お盆ごとこっちへ押し返してきた。
「お前が食えよ。俺ぁ、野郎の作った飯には飽きた」
「晋助!あんたねえ、少しは作る方の気持ちってもんを」
「あいつの気持ちならお前が汲んでやりゃあいいんじゃねえか。こんなもん、俺は何も有難かねえのさ。
ほら、これ持って出てけ。俺の口には合わねぇが、田舎娘の口には充分だろ。…だがまあ」
お前を喰わせてくれるなら、こいつも食ってやってもいいぜ。
低めた声でそう言うと、煙管を手に取る。咥えながら、ちらりと目線を上げてこっちを見た。
ふらりと揺れた煙の向こうで、細めた目が機嫌良く笑っている。
さあどうする、とでも言いたげな顔だ。あたしの膝を指でとんとんと突いて催促までしてきた。
…とことん失礼な奴だ。朝御飯と同程度の軽さで女の身体を計るなんて。
「その手には乗らないわよ。ほら、もう諦めて食べなさい!
そーやって茶化してあたしを怯ませて、食べずに済まそうって魂胆なんでしょ!」
握り飯をわしっと掴んで晋助の前に突き出し、ぴたりと視線を留めた奴の手から煙管をむしり取る。
口に握り飯を押し込もうとしたら嫌そうに横を向いて無視されたから、
次は味噌汁のお椀と箸を突き出してやった。
「ほら、ほらほらほら!せっかく熱々だったのに、冷めちゃったじゃない!」
「…相変わらず口煩せぇなぁ、お前」
いまいましそうに煙管を奪い返し、晋助は組んだ腕にばたっと顔を伏せる。
長い前髪の隙間から片目だけ出して、じろっとこっちを睨んだ。
すっかり興醒めしたらしい。ふん、ざまあみろ。
「押しが強えぇのは悪かねえが、こう口煩せえと考えもんだぜ。
頼まれでもしねえ限りは、人のこたぁ見ねえふりで放っておけよ」
「無理言わないでよ。あたしはあんたと違って、見ちゃったら放っておけない性質なのよ」
「お前、置屋の姐さんたちにもそうやって世話やいてんのか?言われねえか?余計なお節介だって」
そう言いながら腕を伸ばす。火鉢の縁で煙管をカン、と打って灰を払った。
煙管を手許の箱に戻し、組んだ腕の中に顔を埋める。目だけがあたしを見上げて覗いていた。
「お節介が嫌なら三食きちんと食べたらどうよ。ていうか…ここにいる限り、あんたがどんだけ
余計なお世話を嫌ったって無駄よ。ヅラといい辰馬といい、ここはお節介者揃いじゃないの」
「いらねえよ。食うと鈍る」
「鈍るって。何が?」
「頭が、だろ。」
それァ頭に毒だ。
枕に顔を伏せたままでぽつりと言った。
袖が肘上まで捲くれた片腕がゆっくりと上がる。
自分のこめかみのあたりに人差し指の先を向け、とん、とん、と二度突いてみせた。
自分で自分に銃口を突きつけているような仕草だ。
「馬鹿が作った飯で生かされてたら、終いには食ってるこっちまで馬鹿になっちまう」
「安心しなさい。もう手遅れよ。あたしが見たところ、ここには馬鹿しかいないからね」
「はっ。・・・まあな。違げぇねえ」
たいして可笑しくもなさそうに鼻先で笑い、肘を突いて上半身を起こすと
お盆へ手を伸ばす。あたしはその手を胡乱げな目つきで眺めた。
怪しい。この我儘坊ちゃんの素直な素振りほど信用ならないものはない。大人しげな態度で
誰かの意に従う素振りを見せた時ほど要注意。人を小馬鹿にした憎たらしい悪戯を仕掛けてくるのだ。
まあ、あたしが何故ここまでこいつの性格の悪さを断言できるかといえば、
半年前まで散々、こいつの悪戯の餌食にされてきたからに他ならないんだけど。
目を皿のようにして見張っていると、お盆を引き寄せた晋助が顎で襖戸を指した。
「そう見られてたんじゃ食う気がしねえ。お前、しばらく向こう向いてろよ」
「嫌よ。食べ終わるまで見てるわよ。あたしの目を盗んでこそっと捨てる気でしょ?
よく言うわねぇ、見られてると食べる気がしないなんてさぁ。あんたがそんな繊細なタマですか」
「なら半分食えよ。俺は半分でも多いくれーだし、どうせお前も飯はまだなんだろ」
「・・・。う。そりゃあ。まだだけどさぁ。でも、それはほら、銀時があんたに作ったんだし」
「構わねえさ。誰が食おうがあいつにはわかりゃしねえし、食い残すよりはましだろう。
それに、作る奴の気持ちを汲んでやれって言ったのはお前だぜ」
「・・・・・・・・・・・・」
ごくり、と湧いた唾を飲み込んだ。実はさっきからお腹がすいてたまらなかったのだ。
卵焼きからは甘そうないい匂いがするし、味噌汁の湯気から広がる生姜の香りも食欲をそそる。
こほん、と控え目な咳払いを打って、晋助にちろりと目を向ける。
「・・・そぉ?そこまで言われちゃ仕方ないよねぇ。じゃあ、ご相伴に預かろうかな」
「はっ。ご相伴とは奮ったもんだ」
「うるさいわねぇ!ほら、あんたが先に食べなさいよ、じゃないとあたしが食べ辛いのよっ」
さっき手にした握り飯を手に取り、もう一度口に突っ込もうとしたら
晋助は顔の前でそれを受け止めて引っ張る。
あたしは顔にこそ出さなかったけれど、よかった、ようやく食べる気になったのか、と心の中で一息ついた。
晋助が自分から口にしたと話してやれば、銀時だって少しは安心するだろう。そうも思った。
・・・ところがそう上手くはいかなかった。握り飯を止めた手が、急に力を強めてきた。
「そう急かすんじゃねえよ。こいつは後でゆっくり食やぁいいだろう」
「えっ、ちょっ。晋、っっっ」
振り解こうとしても離れない。あたしの手まで一緒に掴んで引っ張ろうとする。
その後は二の句が告げなかった。
身体を起こした晋助が急に迫ってきて、腕を引かれて、目の前は線の細い首筋で暗く翳って。
翳った途端に背中を抱かれた。ぽかんと口を開いている間に、視界が大きく回転していく。
「っっ!!」
どさり。
一瞬で倒された。背中が掛け布団に埋もれている。別の身体に圧されて沈んでいるからだ。
何がどうなっているのか、晋助があたしを組み敷いている。横を向けば握り飯が畳に転がっている。
頭を抱いた腕は髪をまさぐっていて、背中を抱いた腕は腰へとその手を伸ばしていて――
呆然として声も出せずにいると、がさっ、と帯が大きく鳴った。晋助の指だ。背中で解け目を探っている。
「・・・・・・・・・晋助。あんた。な、・・・っ、!!」
潜り込んできた冷たさに悲鳴を上げた。冷たい手が頭から首筋へと滑り降りてきて、
指先がつうっと胸の間に向かって線をなぞる。冷えた感触が残ったその跡に、晋助は躊躇わず顔を近づけた。
吐息を漏らした唇が肌に吸いつき、生温かい舌先を鳴らして軽く噛む。
驚いた身体が固まる。声も出ない。強張った背筋が大きく震えて、やっと我に返った。
「し、っっ」
「へえ。もっと張った、硬てぇ身体かと思ったが。意外と柔らけぇんだなぁ、お前」
「!や!やめなさ、やだっ、ばかあっ、やめてよっ、晋助!ちょっっ」
「心配すんな。痕は誰にも見えねえように付けてやる」
「!?そんなこと訊いてな、っっ!」
「そうか。だったら何が訊きてえんだ?
今のうちに訊いておけよ。こいつが全部解けた頃には、痛くて声も出ねえようになるぜ」
声をひそめた囁きが、吹き込まれた吐息と一緒に耳を抜けていった。
がさり、がさり、と身体の下で帯が鳴る。晋助の指が下で蠢いている。
帯が緩む感触がわずかに胸元を解放する。下半身はびくりとも動かない。動けないのだ。
乗っているのはそう大きくもない身体。銀時や辰馬に比べたら子供っぽいくらいに華奢な身体。
細身な晋助の身体なのに、両脚で脇から挟まれ、跨いだ腰に押し潰されたら身動きがとれない。
いったいこれは何の悪戯だろう。
他の奴らが朝飯にありついている広間は、廊下のすぐ先なのに。
いつ誰が入ってきたっておかしくないのに。
こんなところで朝から女に手を出そうだなんて、こ。こいつは・・・・・!!
「やっ、やめてよ!馬鹿!!いつまでふざけてる気よっ、さっさと退いて!」
「・・・・・へえ。」
何か不意を突かれたような声が胸元に触れる。衿を広げようとしていた手の動きが止まる。
背中に回された腕も止まる。帯が布団と擦れる音もぴたりと止んだ。
「し、・・・晋助?」
呼びかけても晋助はあたしの胸元に顔を埋めたままだ。
わけがわからない。急に何がどうしたのか。
「・・・・退いてよ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ねえ。ちょっと。な。・・・何よ。どうせいつもの悪ふざけなんでしょ。気が済んだなら、離してよ」
恐る恐る、胸元に押しつけられた頭を小突いてみる。それでも晋助の反応はない。
それなら、と上に乗った身体を押し退けようとしたら、動くな、と言わんばかりに肩から抱きかかえられる。
見た目以上に力のある両腕にがっちりと囲われ、ひんやりした頬を胸元にぴたりとつけられた。
仕方なく逃げ出すのを諦めると、途端に晋助の腕から力が抜ける。
力を抜いた全身が重みをかけてくる。あたしはますます混乱した。
・・・何なの。襲う気は失せたけれど、女に逃げられるのは嫌ってことなんだろうか。
試しに肩をちょっとだけ動かしたら、それもやっぱり抑え込まれた。
自分も動きたくない、あたしにも身動きさせたくない、しばらくこのままでいたい…っていうことなんだろうか。
それはなんとなくわかるけど、・・・やっぱりわけがわからない。
「もう、・・・・・・何よ。何なのよ。・・・・・・・」
困り果ててお腹の底から溜め息をついた。
何よ。何なの。こいつときたら、いったい何を考えてるんだか。
これが他の奴なら、もうとっくに鳩尾に一発入れて、股間を蹴り上げて出ていくところだけど
…その点こいつは扱いづらい。
この自尊心たっぷりで底意地の悪いお坊ちゃんにそんなことをしたら、後が怖い気がする。
もうなるようになれ、とすっかり諦め気分で顔を横に倒す。
眩しい陽射しを透かしている障子戸を眺め、光と窓枠の影を落とした、古びた畳を眺め。
そこに転がった握り飯と、灰を畳に散らした火鉢の足元と、凝った彫り細工の入った
晋助の煙管を、なんだかもう何がどうなってもいいような、ちょっと捨て鉢な目で眺めた。
それから自分の身体を見下ろす。動かない晋助の頭と、それが乗ってる自分の胸元を。
衿が広げられたせいで着物の肩がずり落ちている。
我ながらなんて大胆な。これじゃ芸者じゃなくて遊女だ。
…ああ、頭痛してきた。もしもこんな姿を置屋のお母さんに見られでもしたら。
「いいねあんたたち、芸妓は芸以外を売り物にしないの。身持ちの良さも肝心なのよ」が口癖なのに。
「こいつァ驚いた。いつからだ」
「・・・え、・・・・・?」
晋助の頭が少しだけ動いて、髪が首筋に擦れる。
あたしは胸に伏せられたその頭を見下ろした。
「・・・何が「驚いた」よ。驚かされたのはこっちじゃない」
言いながら、首筋を覆った晋助の髪を手で抑え、指を入れて掻き分けようとした。
こいつの頭が動くと前髪が胸元を擦る。毛先がちくちくと肌に刺さるのがくすぐったいし、
そのくすぐったさでなんだか妙な気分にさせられてしまうのが気になって仕方がない。
すると晋助がぼそっと、抑揚の無い声で言った。
「お前。あの馬鹿の匂いがするな」
それを聞いて手が止まった。掴んでいた細い前髪が、ぱらりと指の間から零れた。
反応を伺うような間をわずかに置いてから、胸元に当たっていた吐息が止まる。
晋助が口を閉じた気配が伝わってくると、あたしたちを取り巻いた空気が強張っていく。
すこしずつ、氷が張り詰めていくかのように。蒸し暑いはずの部屋の中が強張っていった。
力が抜けていた晋助の腕がごそっと動く。強く首を抱かれた。
骨張った身体がゆっくり身じろぎして、肌を曝け出した首筋に顔を埋めていく。
逃がさない、という意思がその動きから伝わってくる。
そう重たい身体じゃないのに、骨の重みがずしりと伝わって。背中が布団に沈んでいく気がした。
「・・・いや。俺の気のせいか。」
場の雰囲気を取り成すような、少し和らげた口調で晋助は言った。
冷たい指先が衿を横へ押しやる。左の胸にそっと触れた。触れられたところの肌がさっと粟立つ。
思わず身体を竦めると、晋助は吐息を弱く震わせて笑う。胸の奥がとくん、と跳ねてざわついた。
「…いいのか?逃げられねえんならせめて叫べよ。銀時かヅラあたりが飛んでくるぜ」
着物越しに左胸を包んだ手は止まらない。晋助の指に少しずつ力が籠って、あたしに埋もれていく。
寒気とも違う。嫌悪感とも違う。
この指が伝えてくる冷えた何かが、胸をざわつかせる。少しだけ怖い。
けれどあたしは黙っていた。胸を覆った手の動きと感触に戸惑いながら、
叫びもしないでじっと見ていた。
またさっきと同じことを訊かれたら、どう答えていいかわからなかったから。
それに・・・どうしてだろう。こんなことをされても、頭から拒む気になれないのは。
少なくとも、この手を力ずくで振り解いたら駄目だ。そんな気がした。
「――ねえ。晋助。」
「・・・どうした。今頃叫ぶ気になったか」
「・・・・・・・違うわよ。・・・もういい。何でもない」
すぐ目の先で、乱れた晋助の前髪が額にぐしゃりと張り付いている。
なんとなくそこに手櫛を入れた。最初は少し躊躇ったけれど、もつれた毛先を梳いて解かしてみる。
細くて張りのない髪に指を深く潜らせると、冷えた額に指が触れた。
その生え際が――晋助の肌がうっすらと、冷たい寝汗に濡れていることに、その時初めて気がついた。
「。」
「な――っ、」
呼ばれて目を上げた瞬間に、晋助が覆い被さってきた。
手首を掴んで動きを止められ、開きかけた口が塞がれる。背筋を硬くして仰け反ったあたしを、
圧し掛かった肩が押し潰した。
「!っ、・・・・ふ、く、っっ、」
いや、と口の中で叫ぼうとすると、入り込んだ晋助の舌が奥へ割り込む。
舌を絡め取られ、口内を深くこじ開けられた。強引な動きに叫び声を押しとどめられる。
冷えて骨張った手はあたしの手首を布団に縫い付け、冷たい唇はあたしを抑えつけながら貪る。
ふと力を緩めて離れかけたかと思うと、違う角度から舌を差し込んでくる。
唇を離すたびにあたしの苦しそうな声が漏れるのが楽しいのか、晋助の喉の奥で笑い声が鳴った。
その悪ふざけはしばらく続いた。
こんなのはキスじゃない。ただの悪ふざけだ。
何度も自分に言い聞かせた。そうでも思っていないと涙が勝手にせり上がってくる。
泣くのは嫌だ。ここで泣くのは悔しい。あたしは全身で抵抗し続けた。
どんなに押し返しても手応えがない。額や背筋に汗が浮かんで、息が荒くなってくる。
呼吸出来ないのが苦しくて、抵抗していた腕から力が抜けていった。
最後にはすっかり脱力してしまって、根負けした腕が布団にぱたりと落ちた。
するとそれを待っていたかのように舌が止まる。唇がすっと離れて、あっけなくあたしを解放した。
「これが最後だ。今なら間に合うぜ。呼べよ、あいつを」
顔を起こして晋助は言った。罪悪感なんてどこにも感じていないらしい。
息を切らしながら睨みつけても、口端で薄く笑うだけだ。
前髪で出来た影の中で半分伏せられた、晋助の目。暗い青味のある目がこっちを見ている。
静かだけれど独特な凄味もある目。見つめているとなぜか、この視線に縛られているような気がしてくる。
この目はたまに、ひどく退屈している奴の目にも見える。
ふざけていても笑っていても。いつも漂わせている厭味な表情もすっかり消して、
ヅラや銀時と真剣に話し合っていても。黙って煙管をくゆらしながら、誰かの話に耳を傾けていても。
いつもこの目の奥では何かが燻っている。晋助が表に出さない何かが燻っているように見えるのだ。
どうしちゃったんだろう。晋助はあたしをどうしたいんだろう。
こいつも昨日の銀時と同じなんだろうか。
護りたいものを護りきれなくて、戦に倦んで、口数まですっかり擦り減らして。
子供みたいに甘えてしがみついて、あたしの膝枕で落ち込みを紛わせようとした
銀時のように、女の肌に甘えたくなっただけなんだろうか。
それとも。遊び慣れた道楽者の気まぐれで――慰めにあたしを抱こうとしているだけなんだろうか。
「・・・あいつは。」
「え?」
「あいつは毒だ。関わった奴らを端から全部、どうしようもねえ馬鹿に仕立て上げちまう」
晋助の手が肌を滑る。肌蹴た胸元を遊ぶように撫でて、着物がずり落ちた肩まで辿り着いた。
二の腕まで下がりかけた衿を掴まれる。あたしは息を呑んで身体を固くした。
ところが晋助は予想と逆の行動に出た。肩に落ちた衿を首元まで引き上げたのだ。
驚いて見つめているうちに布団に手を突き、上半身を起こして離れていく。
あたしの頬に冷たい手のひらが当たる。ぴたり、と弱く打ってつまらなさそうに言った。
「そうか。お前まであいつの毒に染まっちまったか」
「・・・・・・・あんたねぇ。何を誤解してんのよ」
「そうだな。俺にも。・・・俺にもあいつが毒だ。ヅラも、辰馬も、奴らはみんな
あいつに毒されちまってるんだ。・・・だが、毒に染まれば鈍る。鈍るんだよ。薄れちまう」
それは何かの呪を唱えているような声音で。あたしに向けているんじゃない。完全に独り言だった。
頭に染みついていることを無感情に諳んじている。自分に言い聞かせているような口調だ。
言いながら、気だるげな目があたしをじっと見る。可笑しそうに口許を歪めた。
「なぁ。判るか、。あいつはな。まだ認めてもいねえのさ。あの人がいねえことを。
とっくに諦めがついたようなツラではいるが、腹ん中じゃあ違う。ひとつも認めちゃいねえんだ。」
太陽が雲の間から抜け出したのか、障子戸からの光が光彩を強める。すごく眩しい。
晋助はその眩しさに自然と導かれたかのように、障子戸の方へとゆっくり向いた。
上に跨った姿が光に霞む。強烈な夏の日差しに視界を白く奪われて、きゅっと目を閉じた。
「俺も。ヅラも。他の奴らも。
あの頃、あの人を中心にした輪の中にいた全員がとうに認めてる。
あの人はもういねえ。戻って来ねえ。だがあいつだけは駄目だ。馬鹿だけに飲み込みが悪りぃのさ」
あの人って――。誰のことだろう。
考えながらぼんやりと、細めた目で晋助を仰ぎ見る。
衿元が深く着崩れた浴衣を纏った身体は、あたしの身体を跨いだまま。
あたしを下に敷いたままだ。
だけど、そんなことすら忘れているような遠い目をしている。何かの思いに深く沈んで
耽っているような顔をしている。障子の白を透した目のくらむ眩しさを、線の細い身体一杯に浴びている。
その横顔に、強い夏の日差しがもたらす濃い陰影が浮かび上がった。
「・・・・・・ねえ。晋助。」
「――あぁ」
「・・・・・・だから、――」
だからあんたは、淋しいの?
その人がもういないから。今の銀時を見ているのが歯痒いから。
今の銀時が――ううん。ヅラも、辰馬も、他のみんなも。そんな自分からは遠い存在に見えるから。
だから。だからあんたはそんな顔をするの。
ここであんたを取り巻いてるすべてが、ひどく遠いようなことを言うの。
わからない。
あたしがこいつらと離れていた半年間に、どれだけのことがあったのか。
毎月のように送ってくれたヅラの手紙だけじゃ計れない。手紙だけじゃ計れない何かを、
銀時が黙って抱えこんでいたように。たぶん、晋助も抱えてるんだ。
言葉を交わしても。顔を見ても。ただそれだけじゃわからないことを。
心臓の音まで重ねても計り知れない、何かを。
「・・・・・・ううん。いい。なんでもない」
眩しさを避けるふりをして晋助から目を逸らす。
頬に触れていた手が首筋へと降りていったけれど、「やめて」とは口にしなかった。
あたしの肌触りを指で覚えようとしているようなその感触を
気にするよりも、どこか上の空な晋助の態度のほうが心配で。気になっていた。
そう。遠いんだ。晋助が遠い。
それがたぶんあたしが、さっきの晋助を振り切れなかった理由だ。
手を伸ばせばすぐ届くのに。人の身体の温かさや重みは感じるのに。
輪郭が半分光に溶けた晋助の姿が、途方もなく遠い。やけに遠く見える。
どうしてなんだろう。現実感が奇妙に揺らいでいる。
強い光に目を焼かれたせいだろうか。なぜか出処の解らない不安にかられている。
「何かあったの」とは訊けなかった。それ以上は踏み込めなかった。
晋助は障子戸を見つめている。目を焼く眩しい白を透かしてしまいそうな、強い眼差しで見ている。
その身体が纏う、ひんやりとした寄りつきがたさ。
無言で人を拒むような、その領域に。あの空気の中に踏み込むのは――
「。」
「・・・・・。何よ」
「お前、俺と、――」
静かにそう言って、晋助が光から振り向く。
暗い青味のある眼が影に沈んだ。
「 What a wonderful world ! *紫苑 」
text by riliri Caramelization 2010/05/29/
「ランブル」の人と同じ人。…かもしれない人です。
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