「手紙を書くよ。」
柔らかな仕草で目線を上げて、空を仰いで不二は言った。
細めた鳶色の瞳に映るのは、春の星々をお砂糖の粒みたいにちりばめた夜空で、彼の隣をうつむいて歩くわたしじゃない。
彼の着ている制服の色も、彼の背後に広がった川面も、草露の匂うぬるい風が渡る河原も、どれも底を失くしたような暗さに没して見える。
黒い絵の具を溶かずにべったりと塗りたくったようなその暗さは、今のわたしのこころを映しているんだ。
熱い瞼の奥を痺れさせている涙の予兆をこらえながら、わたしはそんなことを思った。
そう思い込むことで、胸の中を冷たくさせるこのかなしさを紛らわそうとしているのかもしれなかった。
「ううん。いらない。語学学校にも通うんでしょ。きっと忙しいよ。手紙どころじゃなくなるよ」
「お世話になる家は大きな美術館が集中するエリアにあるんだ。の好きそうなポストカードも、そこのショップで見つけられると思うよ」
「いいよ。・・・約束しても忘れちゃうよ」
「忘れないよ」
羽が夜風に靡くような軽やかさで不二は言った。まるで明日の朝、予習したノートを写させて貰う約束をしたのと同じ質量に聞こえる。
不二は口先だけの約束をしないから、きっと手紙をくれるだろう。どんなにあっさりした約束でも、してくれた約束は必ず守ってくれる人だから。
けれど約束はいらない。欲しくない。きっと今、わたしが泣いて頼めば、不二は手紙に限らず約束を守ってくれるだろう。
それが溜め息がでるほどつまらない我侭でも。週一回の手紙でも。毎日のメールでも。数カ月後の夏休みの再会でも。
けれど今はどんな約束も欲しくない。こうして一緒に歩いているだけで、一カ月後の自分の姿が解ってしまうからこわかった。
最初の手紙を受け取ったら、わたしは次の手紙を待ち侘びる。
次の手紙が届けば、その次に手紙が着く日を待ち侘びる。手紙が届くたびに胸を弾ませて有頂天になったり、
思ったように届かないことを悲しんだりするだろう。
ポストカードに走り書きされた不二の文字に、わたしの存在を示す何かを夢中になって探すだろう。
そういう狭苦しくてせつない日々は、不二に会えないわたしをどんなふうに変えていくんだろうか。
鬱屈に蝕んでいくんだろうか。不二や友達に心配をさせないように無理に笑顔をつくることで、空っぽになったこころをすり減らすんだろうか。
考えるだけでこわかった。
「。明日も部活?」
「うん」
「そう。・・・帰りが遅くなった時は気をつけて。この道は暗いから避けたほうがいいよ」
「うん。・・・・・・・・・。そうする」
不二の足はたまに止まる。目を留めた星の輝きに視線を吸い込まれたかのように立ち止まる。
最後の帰り道に愚図ってわざとゆっくり歩く、わたしの足に合わせてくれているんだと思う。
それでも歩幅をちいさく保って歩いた。
何か言って。こっちを見て。
(どこにも行かないで。)
言えない渇望に喉が詰まりそうだった。嫌がらせのようにのろのろと歩いた。彼の横顔を見つめる視線に思いを込めながら。
あまり長く不二を見ていると目尻に涙が浮かんできそうになるから、ちょっとずつ、ほんの一瞬ずつ。
瞬きを挟む余裕もないほどの短さで。
「さっきからずっと見てるね。空」
黙っているのが辛くなって、ほんの間に合わせにしか聞こえない問いかけをした。
遠くの陸橋を奔る電車の音にさえ消されそうなちいさな声だったのに、不二はこっちに視線を向けてくれて、ふわりと笑った。
細めた瞳と似た明るさの髪の毛が、すずやかに夜風に流れていた。
「うん。同じ日の、同じ時間の夜空でも、向こうの空はこれとは星座の位置も違って見えるんだなと思って」
「星は。・・・ここよりもはっきり見えるのかな」
「さあ。どうかな。僕が住むのは市街の中心だし、こことそう変わらないかもしれない」
「そっか。でも。ここじゃ見れない星も、向こうでは。・・・見れるのかもね」
「うん。逆にここでは見えても、向こうでは見えない星もあるんだろうけど」
明日からの不二が見上げる空は、緯度も経度も違う空になる。明日、彼はわたしの知らない街に行く。
飛行機に乗って一日以上の旅をして、東京よりも少し狭い、旧い歴史の詰まった街に住む。
大きな空港に降りた彼はすべてを見通すようなまなざしで周囲をゆっくりと見渡して、少しの間目を閉じて。この街よりもすこし肌寒い、
肌のひりつくような乾いた空気を身体いっぱいに吸い込むんだろう。
それから大きな荷物を手に広いロビーを慣れた足取りで歩いて、チケットを買って。市街地へ出るバスに乗って。それから――
夜空に目を戻した彼の横顔越しに、わたしも空を見上げた。
輪郭のかすんだ白い光がぽつぽつと浮かぶ春の空。知っている星座を暗闇に数えていくうちに、
気持ちがじわじわと沈んでいく。周りの景色と同化した黒さに沈んでいく。噛んだ唇が弱く震えて、それ以上は駄目だった。
結局、十秒も眺めていられなかった。うつむいて街灯に照らされた道を睨んで、
立ち止まりそうになる足を少しでも前に動かそうとだけ考えた。
長い長い飛行機の旅を越えて着いた街で彼が見上げる夜空。自分で歩いて直に触れて知る知らない街。そこに居る人たち。そこに流れる空気。
それがどんなに素敵な夜空だったとしても、どんなに素敵な街だったとしても。想像したくなんてない。
一緒に思い浮かべてしまうから。わたしが知らない夜空の下に、わたしの知らない人たちと佇む、わたしの知らない彼の姿を。
「不二」
「うん」
「わたしね。ずっと不二のことがまぶしかった」
斜め前を歩いていた足が止まる。わたしもその影を踏んで立ち止まった。
不二が振り返る。瞬きをしてわたしを見下ろす表情には、半分影が落ちていた。
「わたし、人を見る目はあると思うんだ。ずっと前からわかってたよ。不二はいつか、あそこに見える星みたいな人になるんだって」
いつか見たファンタジー映画に出てきた妖精役の女の人のおごそかな口調を真似ながら、腕をすうっと振り上げる。
見て、とぴんと張った人差し指の先で星の光をまっすぐに指した。春の大三角形の一角。一等星のまばゆいスピカ。
小学生のお芝居みたいなことをしたわたしに呆れたのか、不二は、ふっ、と吹き出して笑う。ほんのすこしだけ照れているような
可笑しそうな表情になって、ちいさく肩を揺らしていた。
「・・・すごいな。なんだか預言者の託宣みたいだ」
「そうだよ。予言だから覚えておいて。不二はいつかわたしの手が届かないような、すごく遠いところに立つすごい人になるんだよ。
みんなが憧れて見上げる、星みたいなまぶしい人になるの」
「そんな風に思ってもらえるのは嬉しいけど。僕を買い被りすぎだよ、は」
「ううん。そんなことない」
そんなことないよ。だから最後まで言わせて。
わたしがあなたにしてあげられることなんて、もうこれくらいしか残っていないから。
「わたしは不二みたいに器用じゃないし、上手く出来ないこともたくさんあって。
・・・これでも頑張ったんだけど、不二にはなかなか追いつけなかった」
一緒に歩いていても、いつも少し遅れてしまう。いつかは不二に置いていかれて、並んで歩けなくなる。
それは。わかっていたの。わかっていた。なのに、わたしは彼を好きになった。
好きになって、好きな人と好きなだけ一緒にいられることのしあわせと、溶けるような嬉しさをおぼえて。
いつまでも一緒にいたい、なんて願うようになってしまった。
好きになればなっただけ、後でかなしい思いをするとわかっていたのに。
「人の倍以上努力しても、不二みたいには輝けそうもないしね。
でもね。わたしだってわたしなりには頑張れるんだよ。不二がいなくても一人で歩けるよ。どんな暗い道でも大丈夫なの」
だから手紙はいらない。安心して行っていいよ。
わたしのことなんか気にしないで、向こうでも頑張って。何があってもあきらめないで。そしてどうか、いつか不二だけの夢を掴んで。
もっともっと輝く人になって。
遠くから見ているだけでもわたしの目がくらんでしまうような、まぶしくて強くて素敵な人に。
「遠い場所に離れてしまっても、わたしにはずっと不二のことがみえる。だってお星さまだもの。
不二がこれまでみたいに頑張り続けてくれるなら、どこにいても必ずわたしのところまで光は届くよ。きっとみえるよ。どんなに遠くても」
言いたかったことをやっと言い終えて、わたしは口をつぐんで。
不二の表情に暗さが落ちてどことなく悲しげに変わっていくのを、静かにじっと目で追った。
「だからね。・・・・・・、だから、・・・」
言いかけて、涙は突然襲ってきた。
ふわりと目尻に湧いて、ぽろぽろと肌を転がり落ちた。喉がきゅうっと狭くなっていって、胸の奥まで震わせるせつなさがこみ上げる。
心臓が、どこから来たのかわからない寒々しさに縮んでいく。目に映るもののすべてが涙に溶けていた。それでも目を閉じなかった。
熱くなった瞼の重たさに耐えられなくてうつむきそうになっても、必死でこらえて彼を見つめ続けた。
ほんの一瞬でも不二を見逃したくない。これが最後になるかもしれないから。
そう思ったら、瞬きする気にはなれなかった。
ごめんね。ごめんなさい。
わたしは言えない。追いかけたいとは言えないの。
待っていたいとも、あなたに言えない。こんなことしか言えない。
あなたを追いかけてはいけなくても、あなたを無駄に引き止めるような子にだけはなりたくないから。
だけどどうか、この気持ちだけは連れて行って。
あなたはあなたの夢を見続けて。
その手を伸ばした光の先にあるものを、いつまでもいつまでも追いかけ続けて。
「・・・・・っ。わたし、・・・わたし。不二のことが。すきだよ。離れていても。ずっと。すき、・・・だから」
「うん。僕も。好きだよ。・・・ずっと、が好きだ」
「だけど。ごめんね。・・・・・・・・ごめんね。もう、・・・・っ」
「うん。・・・いいんだ。謝らないで。ねえ。僕を見て」
涙に濡れた頬を長い指の先が拭ってくれても、風で流れた髪を梳いてくれても。わたしは顔を上げられなかった。
肩に提げていたカバンも、意地になって縋っていた最後の我慢も捨てて、
何もかも投げ出して不二の胸に飛びついて、ただしゃくり上げるだけ。
受け止めてくれた彼の手に髪を撫でられる。髪から伝わってくるかすかな温かさをいとおしむ。
夜風が制服から運んでくる匂いに包まれる。わたしの名前を繰り返し呼んでくれる、せつなげな声で耳を埋める。
それだけで何もいらないと思える時間は、生温い夜の風に飛ばされるようにして過ぎていった。
「星は。知らないだけだよ」
その声に耳を奪われて。噛んでいた唇をわずかに開いた。
耳だけじゃない。わたしの身体中に染み透って、心臓の一番近くに残るような声。ひそやかだけれど、確かで強い声だった。
額をつけた制服の胸から、細くて長い首筋へ。ゆるやかな微笑をたたえた口許へ。嗚咽をこらえながら顔を上げていって、彼の表情を確かめる。
生温い風に煽がれる長めの前髪が揺れていた。はっきりとした視線をわたしに向ける彼の目元を、覆ったり隠したりしていた。
「・・・・なにを、・・・・・・・?」
「きっと知らないんだ。その星の想像もつかないような遠い場所では、自分がどんなに輝いて見えるのかを」
ぼうっとかすんだ目で不二の瞳を見上げた。
優しげに細めた鳶色の瞳がわたしを見つめている。困ったように首を傾げて笑っている。
・・・ああ、明日からはもう、この表情を見ることも出来ないんだ。
「周りの星たちの姿は見えても、星に自分自身の姿は見えない。知らないだけなんだ。自分の光が夜空をどんなに綺麗に照らしているのかをね」
わたしは身体中の、ありったけの力を使って涙をこらえようとした。唇をきゅっと噛んで。制服の胸を握り締めて。
けれど彼の顔はみるみるうちに熱い水滴に濁って、あっというまに見えなくなった。
ごめんね。ごめんなさい。ありがとう。
行ってらっしゃい。頑張ってね。
頑張りすぎて怪我しないように気をつけてね。
そんなありきたりで一番大切なことすら言えないわたしなのに。そんなわたしでも、好きだと言ってくれた人。
あなたは誰よりもすきな人。もしも許してもらえるなら、遠く離れてしまうこれからも、わたしの星で居続けてほしいの。ねえ。だから。どうか。どうか――
「・・・・・・、弱すぎて届かない光だって。みえない光だって。あるよ、・・・」
「見えるよ。僕には見える。遠くても、離れていても、見失ったりしない。どの空の下に居てもが見えるよ」
君を見つけるよ。
籠った声でそう言ってくれた、不二の気持ちは嬉しくて。けれど、どうしても心からは信じられなくて。
額が触れ合う近さで見つめ合っても、ありがとうとは言えなかった。彼だけをまっすぐに見つめた目からは涙がこぼれるばかりで、
どれだけ頑張っても唇の震えは止まらなかった。素直な嬉しさを笑顔に変えて伝えることもできなかった。
それでもわたしは目を閉じた。わたしたちの制服が擦れる音と、背中を捕らえた男の子の硬い腕と、不二の体温が身体を包んだ。
受け入れた唇の優しくて冷たい感触がわたしをそっと開いた。柔らかく静めた呼吸と、かすかに苦い涙の味が重なって喉に流れ込んでいく。
何も言えずにわたしは泣いた。
わたしの弱さを何も訊かずに許してくれる、優しくて強い人に縋って泣いた。
ありがとうも。さよならも。待っていてもいいですか、とも。手紙が欲しい、とも、
――行かないで、とも言えずに泣いた。ただ泣くことしかできなかった。
そう。だからきっとこれは、罰。
自分の弱さを隠すための強さすら持てなかった、わたしに下されたささやかな罰だ。
明日の夜も。あさっての夜も。その次の夜も、一週間後も、一カ月後も。
わたしはこの道を歩くたびに泣くだろう。草露の薫る夜の空気を深く吸い込んで、目を閉じて。
瞼の裏に灼きついた星の刻印を――わたしには手のとどかない光の中で微笑む彼の姿を、天高く見上げて。
何度も。何度も泣くだろう。