「――おぉい団長。入るぜ」
こつこつとドアを叩く音がして、自動ドアが音もなく横へ流れる。いつも神威の傍にいる背の高い人が、遠慮なく部屋へ入ってきた。
部屋の隅に置かれた粗末な鏡の前で着付けをしていたわたしにちらりと視線を投げると、床に投げ出された神威の服を
大股に跨いで避けながら歩いていく。
いつも少しくたびれているような印象がある顔には、眉間に深い皺が寄っていた。
腕を枕にした格好で寝台に籠っていた神威は、のんびりと寝返りを打ちながらその浮かない顔つきを眺めていた。
「遅いよ。チケット用意出来た?」
「ああ出来たぜ。あの国での新しい戸籍も、家の手配もな」
「へぇー、家まで用意してたんだ。何から何までいたれりつくせりだね。さすが阿伏兎、有能な部下を持てて嬉しいよ」
「そりゃあどうも。お誉めに預かり光栄だよ」
「また言ってやがる」とでも言いたそうな失笑で神威の笑顔を受け流した人は、無精髭の生えた顎を撫で回しながらわたしのほうへ向き直った。
「さて、荷造りは済んだかい。吉原の姐さん」
軽く頷き返すと、常に殺伐とした気配を匂わせている醒めた表情がふっと緩んだ。
船内での殆どの時間を神威の部屋で過ごすわたしにとって、この人は数少ない顔見知りの一人。この船に連れて来られた頃は、
声を掛けられることなど滅多に無かった。会話が増えたのは神威の子を身籠ってから。彼はこの子の親になる
神威以上に、わたしのお腹の子に興味を持っているらしい。
「腹がデカい女なんて抱く気しないなぁ。・・・うん、判った。お前、もうこの船降りていいよ」
神威がそんなことを言い出して江戸へ戻ることが決まってからは、さらに接する機会が増えた。
旅券もなければ正式な戸籍もないわたしの面倒な渡航手続きを整えてくれたのもこの人だ。
それに、はっきりと訊いたわけではないけれど――これからはこの人が、江戸での新しい生活の後見人になるのだろう。
「とっくに出来てるよ。こいつ、買い物に連れて行っても何も欲しがらないからなぁ。荷物も着替えくらいしかないんだよね」
「あんたにゃ訊いてねーよ。つーかあんたも急いでくれよ。じきに母船と定時連絡の時間だ」
皮肉が利いた目つきに真上から眺め下ろされた神威は、仕方なさそうに毛布の中から這い出てくる。
それが下着すら身に着けていない姿だったから、あの人の表情は一気にげんなりしていた。
「・・・やれやれ。団長が仕事そっちのけで一日中女とお楽しみたぁ、上が知ったら何と言うやら」
「野暮だね阿伏兎は。男と女が二人きりで名残りを惜しんでるところにズカズカ入り込んでくるしさ」
「へいへい、そいつは悪うござんしたね。名残惜しかろうが何だろうが、とっとと服着て管制室まで走ってくれ」
「めんどくさいなぁ、アホ提督の顔なんて年に一度見れば十分だよ。ねえ、俺の代わりに適当に相手してきてよ」
「勘弁してくれ。俺だって御免だよ、あのブタ面のご機嫌取りなんてよ」
ちぇ、と神威は苦笑いで舌を打って、胡座でベッドに座り直す。あの人は一旦神威の服が落ちていたところまで戻ると、
彼が脱ぎ散らかした服や下着を「早く着てくれ」と投げてやっていた。「ああ、姐さんにはこれだ」と思い出したようにつぶやき、
わたしにも何かを放って寄越す。足元へ置いた鞄の上にぱさりと着地したそれは、薄く透明な袋だった。
中には数冊の冊子と、これから乗る長距離船のチケットと――江戸の入国管理局の印がしっかりと押された、真新しい旅券が入っている。
赤い表紙のそれには、本来のわたしの名前とは似ても似つかない、何の親近感も湧かない偽名が綴られていた。その名をじっと見つめるうちに、
これまでにあったことがつらつらと脳裏に浮かんでくる。何とも言えない気分になった。
これが新しい名前。新しいわたしの名前。
廓で身を売っていた遊女でもない。天人の手で遠い宇宙へ浚われ、物のように扱われてきた娼婦でもない。
まだ誰のものでもない女の名前。これがわたしの、これからになる。
――そう。わたしはこれから自由になる。
体を売り物にしていた過去なんて誰も知らないところで。縛られることも蔑まれることもない場所で。
たったひとりで、新しい自分を始める。それがわたしの、これからだ。
――あの人が近づいていったベッドの上。
大きな背中に半分隠された神威の姿を、複雑な思いでじっと眺めた。
・・・なんて皮肉だろう。わたしの自由を奪うだけの存在だった神威は、わたしに自由を与えてくれる存在になってしまった。
わたしをあの街から浚って切り離した神威が、今までは知りたくても知れなかった、ずっと憧れていた普通の生活へ導いてくれる。
わたしが知らない自由の中へ放り出す役を担ってくれる。たとえそれが、彼にしてみれば使えなくなった玩具を捨てる程度の意味しか持たない
ことであっても、わたしを変えようとしているのが神威だという事実に変わりはなくて。
春を売ることでしか生きていけない遊女を普通の女として生まれ変わらせてくれるのは、結局は神威に他ならないのだ。
それが――運命、とでも呼べてしまいそうな事の成り行きへと導いてくれたのがこの神威だったことが、とても不思議だった。
これからわたしは生まれ変わる。名など無いに等しい遊女としてではなく、普通の女としての生を得る。体に宿ったいのちのために、
人間らしい生を得て暮らしていく。
それは、街全体が地下牢のようなあの場所で息苦しさに喘ぎながら生きてきたわたしには、想像もつかなかった幸運で。
有り得るはずのなかった奇跡、そのもので。一生手が届くことなどないだろうと諦めていた、まぶしい憧れの生活そのもので。
なのに――どうして。
どうして笑えないんだろう。
これで自由になれるのに、どうして沈んでしまうんだろう。あの街に居た頃、
届かないと知りつつ夢見ていた奇跡。それを掴もうとしているのに、心を弾ませてくれる嬉しさがない。
体のどこにも湧いてこない――
重苦しい沈思に耽りながら神威の姿に見入っているうちに、彼は半分着替えを終えていた。ひらりと身軽に寝台から跳ね降り、
靴を履くと、暗い色をした丈の長いチャイナ服に透けるように白い腕を通しながら歩いてくる。
わたしは息を詰めて身構えて、近づいてくる姿をその場で待った。
「じゃあね。搭乗手続きは阿伏兎がしてくれるから、お前は時間まで好きに過ごしていいよ」
「・・・・・・・。うん」
「まぁ元気でね。女一人じゃどうにもならないだろうけど、地球に着くまでせいぜい用心するんだね」
「・・・うん」
服を頭からばさりと被り、袖を捲りながらさっさと横を通り過ぎていった。解けたままになっていた髪を纏め上げながらドアへ向かう。
彼の姿を目で追っているわたしとは、視線すら合わせようとしない。神威とはこれが最後になるだろうから、最後だから何か言いたいのに、
声を掛けることすらためらわれるような空気をその身から発していた。離れていく背中をただ見送ることしか出来ない自分が歯痒くなる。
その一方では、そんな風に思う自分が自分でもよく判らなかった。胸には何か重苦しいものが閊えていて、声を振り絞る邪魔をしている。
――行ってしまう。もう会えないかもしれないのに。
今この時が、神威の姿を目にする最後になるかもしれないのに。
「・・・ねえ、神威、――・・・っ」
ほんの一瞬でいい。もう一度だけ、こっちを向いて。
それだけを願って勇気を振り絞った。声をかける口実になれば、尋ねることは何だってよかった。
緊張で鈍った口を懸命に動かす。ふっと頭に浮かんだことを、そのまま張りつめた声に変えて――
「――・・・・・・わたしは、何人目?」
神威の足が不自然に止まった。
頭の後ろで珊瑚色の髪を纏めようとしていた手が、ゆっくりと肩へ垂れていく。
「――。 何が?」
「・・・ゎ。わたしで、何人目なの。今まで何人に子供が出来たの。どの人もここから追い出したの・・・?」
少し間を置いてから神威は振り返った。
こちらを眺めた顔は眉間をきつくひそめている。なのに、目が合うとそんな曇った表情はすっと消えてしまった。仮面のような紛い物の
笑顔がすんなりと瞬時に現れて、いつものようににっこりと微笑む。
それでも、綺麗な三日月形に細められた目には、――わずかだけれど、消しきれなかった苛立ちの色が残っていた。
「最後まで馬鹿な女だなぁ。そんなこと知ってどうするのさ」
呆れたように神威は笑った。
乾ききった声で、くだらないと蔑んでいるような様子で。彼だけを見つめて身体を硬直させているわたしを、思いきり突き飛ばすかのように嘲笑う。
お前なんかにもう用はない。どこへでも消えろよ。冷えた目がそう言わんばかりにせせら笑っている、とても残酷な笑みだった。
纏めかけていた髪をもう一度手にして、くすくすと笑いながら廊下へ踏み出す。自動ドアが音もなく流れる。
暗色の服に包まれた細身な背中は、一瞬で扉の向こうに消えた。
「――あんたが乗る船は乗り継ぎ無しの地球直行便だ。それでも着くまで半月はかかるらしいがね」
ダクトや電気系統の配線が剥き出しになった鋼色の通路は、本来なら艦内整備のために使われるだけのものらしい。
水が腐った匂い。排気や煙の匂い。古くなった機械油の匂い。それらが長い時間を経て染み込んだような、濁った異臭が漂っていた。
切れかかってぱちぱちと鳴る蛍光灯が数メートルおきに灯るだけの暗く寒々しい中を、あの人と並んで歩いた。その間、
彼はいろいろと説明してくれた。
身重のわたしを疲れさせないために、いま停泊しているターミナルの搭乗口内部へ直接入れるように取り計らってくれたこと。
これから乗る船が民間の船舶会社の定期便で、ごく普通の人たちが利用する安全な船であること。江戸へ着いてからのこと。
この人を通して、子供と二人で暮らすのに十分なお金が定期的に送られてくること。用意してくれた江戸の家が、
吉原からそう遠くない場所にあること――
「天井が落ちて以来、あの街も様変わりしたらしいぜ。落ち着いたら様子でも見に行ったらどうだ」
そう勧められたけれど、素直には頷けなかった。
勿論、行ってみたい気持ちはある。あの暴動の中でもご無事だったという日輪さまの姿を、
深手を負っても奮戦したという月詠さまの姿を、同じ遊郭で共に辛苦を舐めてきた仲間たちの無事を、せめて一目でも確かめたかった。
けれど――神威の手に落ち身籠ったわたしを、仲間たちはどんな目で見るだろう。共に空の無い闇の街に閉じ込められていた、
同じ身の上を持つ彼女たちだ。
わたしを責めることはしないだろうし、むしろ同情を持って接してくれるのかもしれない。それでも皆に会うのがひどく後ろめたい気がした。
その後ろめたさがどこから生まれているのか――薄々は気づいていることを認めたくなくて、
わたしは殊更にあの人の話に集中するよう努めながら歩いた。要点だけを掻い摘んだ事務的な説明を終えたころに、大きな扉が見えてきた。
「あれが出口だ。旅客用のロビーに直結させてある。あそこを出たら案内役の指示に従って船に乗ってくれ」
鉛色の扉の左右には、この人たちの種族が使う番傘で武装した二人の見張りが立っている。
わたしの鞄を抱えて向かってくる人に気付くと、二人は無言で目礼してきた。一人が紙片のようなものを取り出し、
扉の電子錠にそれを差し込む。ピー、と甲高い音が鳴って、箱のような形状の鍵の表面はちかちかと赤く明滅していた。
「ここは非常用の出口なんでね、セキュリティが切れるまで時間がかかる。開くまで少し待ってくれ。・・・ああ、そうだ、あんたに訊いておこうと思ってたんだ」
目に刺さるきつい光を灯しながら、カチカチと錠の内部が鳴り始める。その様子を気だるそうな表情で眺めながら、あの人は口を開いた。
「地球人はガキを産むまで一年近くかかるんだろう。産まれたら寄らせてもらいてえんだが、どうだい。俺みてーな奴が行っても構わないかね」
「別に。構わないわ。わざわざ来てくれるのに追い返す理由もないし。・・・でも、物好きな人ね」
そう返すと、はは、とよく通る声であの人は笑った。眉を下げ気味にした、笑みに似せた表情を作ってみせる。けれど重たげな瞼から覗く目は笑ってはいなかった。
「いやぁそうなんだ、困ったことにな。しかも団長の子供なんて世にも希少なもんが見れるとなれば、宇宙の果てまでも飛んで行くさ」
ああ、ここを出る時は段差がある。足元に気をつけろよ。
さりげない気遣いの言葉と共に、運んでもらった大きな鞄を渡される。
礼を言ってそれを受け取ろうとしたけれど、――ふと手を止めた。
「・・・わたしが最初?」
「あぁ?」
「わたしが最初なの?…神威の子供を産むのは」
『世にも希少なもの』
――今、この人はそう言った。あれは、わたしの中にいる神威の子を指しての言葉だった。
そこに微かな違和感を覚えて、目の前の顔をじっと見つめる。差し出された鞄を受け取ろうとしないわたしを妙だと思ったのか、
あの人もこちらを見つめ返していた。
「ああ、そうだ。だから楽しみでな。産まれたらすぐに報せてくれよ」
「・・・・・・・・」
返事もしないわたしを探るような目で眺めると、彼は鞄を手渡してきた。
中身のほとんどが衣類だけの軽い鞄が、とん、と軽い揺れを伴って腕の中に納まる。
「じゃあ一年後にな。さん」
当然のように名前を口にされて、驚きを浮かべた目であの人を見上げた。わたしの様子など気に留めることもなく、
彼はすぐに背を向けた。艦内の中枢部へと、薄暗い通路を戻っていく。表情にも滲んでいるどことなくくたびれた印象は、背中にも同様に滲んでいる。
周囲の暗い鋼色に溶けて遠ざかっていくその姿を、しばらく呆然と目で追った。やがて自分でも理解がつかない衝動に押されて、
ふらり、と脚が一歩前に出て。
周囲がすべて金属で覆われているせいか、それとも、他に誰もいないせいなのか。足音はやけに甲高く響いた。
「――待って、」
精一杯に声を張り上げた。この船に連れて来られてからというもの、こんなに大きな声を上げたことはない。
あの人も意外だったんだろう。すぐさま立ち止まり、ゆっくりと怪訝そうに振り返った。
「どうして知ってるの。わたしの名前」
「・・・?お前さんも妙なことを言うなぁ。そりゃあ名前くらい知ってるさ。たまに団長の話に出てくるぜ、あんたの名前は」
「神威が・・・わたしの、名前を・・・?あなたに話すの?・・・・・・・わたしのことを?」
大きくて邪魔な鞄を通路に投げ出し、急いであの人の許へ向かう。
意外さに目を見開いたままで「本当に?」と詰め寄った。するとあの人は怪訝そうにしながらも、ああ、話すぜ、と深く頷いて認めた。
「一晩中付き合わせた次の朝は、あんたがなかなか目ぇ覚まさねぇとか。
買い物に連れ歩いたら宇宙港の景色を珍しがってたとか、最近は船内なら一人で出歩くようになったとか、
・・・まぁ話すったってその程度なんだが」
艶のない長髪の頭をぼりぼりと掻き、斜め上を見上げ、その時の状況ひとつひとつを思い出しているような様子で語ってくれた。
「――おいおいあんた、どうしたんだ。驚いて声も出ないって顔だな」
「・・・わたし。神威に呼ばれたことなんて一度もない。だから。・・・・・・・・だから、・・・、」
そう答えたけれど、すぐに言葉に詰まってしまう。黙り込んで深くうなだれると、天井からの弱い光を浴びて鈍く光る通路が目に映る。
どうした、と呆れたように尋ねられて、わからない、と口の奥で微かにつぶやく。小さくかぶりを振ると、頭上では短い溜め息と
ぼりぼりと頭を掻いているような擦れた音が鳴った。
判らない。自分でも自分が判らなかった。
わたしはなにを知ろうとしてるんだろう。神威の世界から追放されるわたしが、
この人を通して今まで知らなかった神威の一面を知る。それが何になるっていうんだろう。
自由は――ずっと憧れてきた広い世界は、あの扉のすぐ向こうにある。わたしが飛び込むべきはあちら側。
知るべきはあちら側。神威が立っているこの世界じゃない。
――わたしが生きていくのはあちら側。この牢獄のような船にも似た、血生臭く薄暗い世界じゃない。
「・・・・・。まだ搭乗時間まで間があるな」
長い沈黙に耐えかねたかのような溜め息を落とすと、あの人はぼそりと切り出してきた。
黙って立ち尽くす女をすっかりもてあましていたのかもしれない。時間を取らせてしまったことに気付いて、
顔を上げて謝った。
「・・・引き止めてごめんなさい。もういいの、行ってください」
「さっきあんたがあの人に尋ねた話の種明かしだ。知りたいか?」
「え・・・」
吐息のように漏れ出た声の驚きがおかしかったのか、あの人はふっと、控えめに笑った。
ピー、と背後で大きな音が鳴る。振り返ると、扉の電子錠が放っていた強い光の明滅が止んでいた。
「――ああ、開いたな。あれは数分で勝手に閉まるようになってるんでね、手短に話すが」
「・・・・・・」
「あんたもお察しの通り、団長がこの船に持ち込んだ女はあんただけじゃない。
何人だったかは覚えてねえが、二、三人、なんて数じゃないことは確かだよ。勿論、中には孕まされた女もいた」
そこでふつりと言葉が切れる。
じっと見上げてくるわたしの真意を探っているような、隙の無い目つきで眺められた。暫しの沈黙のあと、
あの人は何気なく切り出した。
「全員死んだよ。あの人が殺した」
「――・・・・・・、」
( 殺した。 )
何の反応も出来ず、ただ表情を強張らせてあの人を見上げた。淡々と漏らされた事実を耳が拒絶しようとしたのだろう。
一瞬、何を言われたのか判らなかったくらいだ。
やがてその短い言葉は耳を抜けて身体へと落ちていって、心臓をすうっと冷やしていく。
くらり、と床が揺れたような錯覚が起きる。平然と告げた人から視線を逸らせないまま、わたしはごくりと息を呑んだ。
着物の袖口を握り締めて、脚に力を籠めて動揺をこらえた。けれど、急に心許なくなった足元で床は微妙に揺れ動き続けていた。
「いや、孕んだからっていきなり殺す訳じゃねえ。あの人も最初は承知するんだ。女の好きにさせるのさ。
このままここにいたいなら居てもいい、俺はガキの一人や二人、出来たところでどうでもいいから、ってな。実際どうでもよさそうな面してんだ、これが。
だから女どもも安心しちまうんだろうなぁ。あんたと同じで身寄りもない女ばかりだし、ガキを抱えて一人で生きていく不安もあったんだろうよ。
どいつもそのまま船に居着くほうを選んで、あの人もそれを受け入れていた。
・・・とまぁ、傍目には上手く折り合いがついたように見えるのさ。あくまで最初のうちだけだがな」
「・・・・・・・・一人も。一人も助からなかった・・・?」
「ああ。全員、あの人の手に掛かって死んじまった。どんな理由かは知らねえが、女の腹がデカくなってくるともう駄目らしい。
長く保った女でも四、五ヶ月程度。どの女もガキを産み落とす前に、あの部屋で殺られた」
―― 産み落とす前に。あの部屋で。殺られた。 ――
乾いた口調で淡々と、平然と教えられた事実に寒気が走る。いつしかわたしは青ざめていた。全身から血の気が引いていく。
きつく唇を噛みしめてあの人の話に聞き入りながら、殺された女の人たちの不運を漠然と思った。その場を想像しておそろしくなった。
――そして、その人たちを手に掛けた時の神威の姿も想像した。むしろ自然と受け入れてしまうほどに、それはわたしが知る神威の姿と合致していた。
おそらく彼に抱かれた女しか知り得ない、あの表情が浮かんでくる。
女を激しく憎んでいるような、根深く恨んでいるようなあのまなざし。闇のような底の無い暗さが蠢いているあの瞳――
「――長々と語っちまったがな。まぁ、何が言いてぇかっていうと・・・・・・つまりだ。
身籠った途端に追い出される女は、実はお前さんが初めてでね。
ガキが出来たからあの国に帰すって聞いた時には、俺もどんな風の吹き回しかと面食らったもんさ」
あの人はわたしの目をじっと見つめた。口端には微かな笑みが浮かんでいたけれど、
――その目に笑みはなかった。神威のそれにどこか似た、果てしない闇のような暗さが浮かんでいる。
あれは獣の目。獲物を静かに追い詰めてゆくときの、獣の目だ。
「俺が思うに、あんたは団長にとって何かしら特別らしいんだ。だからこそ腹が膨らむ前にこの船から追い出される。
――なぁ。判るかい。あの人はあんたを逃がしたのさ」
こんなこたぁ、俺が知る限りでは一度もなかったんだがね。
何か含みのありそうな声色で付け足した人を、わたしはじっと見つめ返した。
「・・・酷い人。あなたも神威と同じね」
「はぁ?そりゃあ聞き捨てならねぇなぁ。こう見えても俺はあの人と違ってフェミニストだぜ。女は丁重に扱ってるつもりなんだが」
「そうね。そうだと思う。・・・あなたには色々と面倒を見てもらったし、感謝もしてる。でも。・・・・・・同じよ」
逸らされることがないわたしの視線をきつく感じたのだろう。心外だ、とでも言わんばかりにあの人は苦笑いを浮かべていた。
「知りたいんでしょう。わたしをそそのかして神威の許に戻らせたらどうなるか。一度は逃がそうとした女を、神威が殺すのかどうか」
――同じ。あなたも同じ。神威と同じ、残酷なひと。
わたしとお腹の子供なんてあなたにとってたいした意味を持たない。幾ら殺されても構わない、幾らでも替えが効くもの。
だからこそあなたはわたしに話した。
あなたにとって面白くなりそうな事の運びに、興味本位に賭けてみた。そうでしょう――?
黙ってわたしに目を見張っていた人は気まずそうに頭を掻くと、すっと表情を変えてわたしを眺めた。
血や争いを好む種族の本性を剥き出しにした目が――得体の知れない不気味さを滲ませた目が笑う。ひどく愉快そうに、にたりと細められていた。
「いいねぇ。実に賢明な回答だ。気に入ったよ、姐さん」
「・・・いろいろとありがとう。さよなら」
「ああ。国に着いたら連絡してくれ」
もっと神威のことを尋ねてみたい。そんな思いは胸の内で膨れ上がっていたけれど、わたしは彼に背を向けた。
扉の前へ戻ると、見張りの一人に枯れた声で尋ねられた。
「――もういいのか」
「・・・・・・・ええ。開けてください」
無言で左右に引かれた鋼鉄の扉が、ぎぃ、と錆びついた音を響かせて開いてゆく。
光の強さに目がくらみ、手を挙げて眩しさを遮る。眼前に広がってゆく宇宙港のロビーは白く輝いていた。
鞄を提げて扉を抜ける。どこを見ても清潔で美しく、神威の船とは対照的な明るさだ。
すぅ、と深く息を吸った。ここには佇んでいるだけでも感じられる穏やかさが漂っていて、それがわたしをほっとさせてくれる。
けれど胸の内側では、その安堵に冷えた風を流し込むような不安定な感情が渦巻いていた。ちらちらと浮かぶ神威の姿が、脚の動きを鈍らせる。
「――さま、お待ちしておりました。お乗り頂く船までご案内しますので、こちらへどうぞ」
まだ馴染めない偽名で背後から呼ばれた。
戸惑いを押し隠しながら振り向くと、このターミナルで働く人たちと同じ制服を着た年配の女性が微笑んでいた。
わたしがここへ現れることをこの人は知っていて、あらかじめこの場で待機していたのだろう。
よろしければお荷物をお預かりします。
丁寧な態度で鞄を引き取ると、やわらかなベージュの絨毯が敷かれた広いロビーを歩き出した。
その背中を追って進んでいくうちに、すれ違う人が増えてくる。神威の種族ではない人の群れを眺めるのは久しぶりだ。
観光に来ている人たちなのか、どの顔も殺気や血臭には無縁そうな、幸せそうで穏やかな表情をしている。急な環境の変化に戸惑いながら歩いていくと、左手に大きな窓が現れた。
広い壁面を天井まですべて使った、水族館の巨大な水槽のような窓。その向こうには、にぎやかに灯りが灯る大きな街を遥かに見下ろす夜景が広がっている。
ターミナルから飛び立ってゆく大小の宇宙船たちが放つ強い照明灯の光に混ざって、目にやわらかいほのかな白光が街全体に降りしきっている。
天から舞い下りてくる白い雪。それが街を包むようにして降り積もるさまを一望出来る、美しい夜景。
あの日神威と見たそれとは違う景色。違う雪の色。違う星の景色。蒼い雪が放っていた蛍光色のまぶしさは、ここにはない。
決してあの光景に似てはいなかった。なのに――
「――さま?どうなさいましたか?」
まだ耳慣れない偽名を呼ばれた。振り返ってみると、急に立ち止まったわたしのために、さっきの女性は背後まで引き返してくれていた。
ガラスに手をつき、窓に貼りつくようにして夜景を眺めているわたしを不思議に思ってのことだろう。
「・・・・・雪が」
「はい?」
「・・・・・・・・・。この星の雪は、白いんですね」
闇夜に舞い落ちてくる白い粒の螺旋をぼんやりと見上げ、上の空で口にした。案内係の女性はにっこりと笑った。
「はい。この星の気候は冬の期間の短さが特徴的で、こんな大雪は珍しいのですが――」
心地良く耳に響く落ち着いた声で、彼女はわかりやすく説明してくれた。わたしがこの星の気候に興味を持っていると勘違いしたらしかった。
その人の声をこのロビーに流れる音楽のように聞き流しながら、わたしは、あの日と同じように隣を見た。
――あの珊瑚色の髪が、傍に居ないことはわかっているのに。
「――よう、おかえり姐さん。案外と早いご帰還で嬉しいよ」
ひさしぶりに会ったわたしを相も変わらず薄暗い船の艦内へ迎えると、あの人は皮肉の利いた表情で笑ってみせた。
その目が相も変わらず笑っていないことに奇妙な安堵を覚えながら、「どれ、部屋までお運びしますか」とわざと恭しい態度で手を出した人に
荷物を預けた。
この船を降りた日から三ヶ月以上が経っている。一度江戸へ戻り、新しい暮らしの支度をざっと済ませると、
わたしはまた空へ昇って宇宙を旅した。行きは乗り換えなしの直通便だった。けれど帰りは乗り継ぎの繰り返しで、
この星に停泊した神威の船が出航する一時間前に飛び乗るという相当に無謀な旅程になった。
慣れない一人旅に不自由しながらこの船に近づいていく間にも、体に宿った儚げないのちはすこしずつ重みを増している。
帯の上からでもふっくりと膨らみ始めたことが判るわたしのお腹を、あの人は無精髭の顎に手を当てた顔でじっと覗き込んだ。
「驚いたな。しばらく見ねぇうちにここまで育つのかよ」
感慨深そうに首を捻る。子を成した母親というものが、戦場で生きてきたこの人の目には珍しいらしい。
「で、体の調子はどうだい。この星はいつ来ても冷えきってやがるからなぁ。腹の中のガキに響かねぇよう、出来れば他の星系であんたを拾いたかったんだが」
「平気よ。あなたたちの血を引いた子だもの」
「はは、それもそうか」
よく通る大きな笑い声を響かせながら先を歩いてゆく人が、急に声を落として言った。
「あれからどの星に寄っても女を拾って来なくなってな」
「・・・そう」
「まぁ、こっちは死体の片付けの手間がなくて大助かりなんだが」
「じゃあ今日はあなたにとって、久しぶりに片付けの手間が復活するかもしれない日なのね」
「ははは、あんたも言うようになったなぁ。まぁお察しの通り、そういうことさ。だが――」
そうならねえことを祈ってるよ。
冗談なのか本気なのか、十字を切る真似をしながらあの人が立ち止まったのは、三ヶ月ぶりに目にする部屋の前だった。
自動ドアがすっと流れ、神威の後ろ姿が大きな背中越しに現れる。わたしと居た時よりも長くなった珊瑚色の髪は、緩く編み込んで背中に
垂らされている。焔の色をした龍のたてがみのように。
「・・・誰?」
窓辺に寄せた寝台の上に座った背中が、振り向きもせずに問いかけてくる。
声がどことなく上の空だ。外の景色に何か思いを馳せながら、ぼんやりと見上げているようだった。神威、とわたしは声を掛けた。
ひどくゆっくりと背中が動いて、珊瑚色が肩へ流れた。
「――――――、」
(――――。)
声は聞こえなかった。けれどこちらへ振り返った神威の唇は、確かにわたしの名を呼ぶかたちに動いていた。
わたしは軽く息を詰め、ほうっと弱い溜め息をついた。おもわず押さえた胸元で、とくとくと心臓が弾み始める。
体の内には抑えようもない深い歓喜が広がっていった。
こちらを見つめる神威は、これまでに見たことのない表情をしている。
驚きに軽く目を見開いて固まった――まるで、亡霊にでも会ったような顔。
「・・・そんなに熱心に、何を見てたの」
「――何しに来たのさ。阿伏兎に何か吹き込まれたの?」
部屋の隅に鞄を置いてそそくさと逃げた大きな背中をきつい視線で追いながら、神威は奇妙に引き攣れた笑みを浮かべていた。
造りきれていない、半端な笑みだ。もっとも、そんな彼らしくもない笑顔はものの数秒で消えてしまったけれど。
「・・・名前を。子供の名前を付けて貰おうと思って」
「だったら阿伏兎を通せよ。・・・誰もお前に戻って来いなんて言ってないよ」
「そうね。・・・でも、戻っては駄目だとは言われてないし。あの人に頼んだら船に乗せて貰えたの」
「・・・・・・・」
神威は何か言いたげに薄く口を開けてこちらを見上げた。元々ここへ押しかけるのに神威に許しを乞うつもりは無かったから、
わたしは勝手に寝台へと近寄った。これまで一度も彼に刃向ったことがない女の、強気な言動や振る舞いが意外だったのかもしれない。
まだ驚きから解放されていないその表情は、彼にしては珍しいほどに感情が露わで。こうして上から見下ろすと、丸く見開いた青い瞳が
無垢な子供のようにも見える。自然と唇に微笑が上った。
「・・・駄目だった?」
「――呆れた女だなぁ。いかれてるよ。お前を子供ごと殺すかもしれない奴に、名前を付けろだなんて」
強い眼光を灯した目にきつく睨まれた。やがて腕を伸ばして袖を引き、わたしを隣に座らせる。
ごわついた毛布に下ろした手の先に、力強いけれどどこか幼さを感じる丸みを残した指が触れてくる。
何かに焦れているかのような動きで肌を這ってきた指は、わたしの指を奪って絡みついてきた。
こころが躍るような嬉しさを噛みしめながらその手を見つめ、黙って隣の横顔を見つめる。こちらを見ようとしない目には、
強い苛立ちの色が浮かび始める。以前に神威と居た時には味わったことのない、
あたたかな感情が胸を熱くする。ただ欲と眠りを貪るだけだったこの寝台で、こんなふうに二人並んで座ることなどこれまではなかった。
船の小さな窓から望む外の景色を、わたしは神威と同じように見上げた。
あの日見たのと同じ夜景。同じ星の雪景色。
天からふわふわと舞い落ちてくる、気が遠くなるような数の蒼いイルミネーション。闇夜をきらきらと照らしながら、地上へと
降り注いでいく蒼く光る雪。
神威の船を降り、宇宙港で白い雪が降り注ぐ夜景を目にしたとき。わたしはこの蒼く発光する雪を眺めたかった。
神威の隣で眺めたかった。
あのときわたしの眼前には、この星で見た蒼く光る雪と一緒に神威の姿も浮かんでいた。居ないと知りつつ隣を振り向いてしまった。
その場に神威が居ないことが物足らなくさみしく思えて、泣きたくなってしまった。隣で一緒に雪を見上げていてほしい。そう願ってしまった。
――あれは、ただおそろしいだけだったはずの神威を、わたしがどうしようもなく求めていると気づかされた瞬間だった。
神威にどうしても会いたい。あの蒼く輝く不思議な景色を、またあの人の隣で眺めたい。そんな愚かな渇望に囚われてしまっている自分に困って、
地球へ着くまでずっと途方に暮れていたけれど―――
「――本当にどうしようもないね、お前は」
「うん。・・・そうかもね」
隣から流れてきた冷えた声に、小さな溜め息を混ぜて相槌を打った。無言で寄せられた顔に唇を塞がれ、繰り返し何度か啄まれる。
神威がしなやかに身を押しつけてきて、そのまま寝台へ沈められる。固く冷えたマットに閉じ込めるようにして組み敷かれて、
互いの衣服が擦れ合う音がざわざわと鳴った。
「・・・・・ん、・・・ぅ、っ・・・・・」
着物の袷を暴かれて、帯を緩めることもなく肌を露わにされてまさぐられる。
男の体のごつごつとした固さを、乱暴な動きで押しつけられる。胸を鷲掴みされる痛みに顔を歪めていると、神威は顔を上げてわたしを眺め下ろしてきた。
「お前が期待するようなことにはならないよ。俺はいつかお前を殺す。腹の子ごと殺すよ」
「・・・ええ。いぃ・・・の・・・・・・それでも、い・・・・っ」
はぁ、はぁ、と淫らに息を乱して、尖った先にきつく齧りつかれる痛みと、その苦痛と紙一重の快楽に溺れる。
――ここに居るわたしは新しいわたし。あなたが生まれ変わらせてくれたわたしは、すべてあなたのものになる。
神威に感じていたおそろしさも怯えも、もうわたしは捨ててしまった。
こころを縛る屈服の枷が力を失った今、わたしは本当の意味で自由になる。本当の意味で神威のものになれる。
この星へ辿り着くまでの間に決めてきたの。こんなふうにしか女と交われないあなたを受け止め、
壊されてゆくだけの存在で終わってもいいと。
あなたの腕の中で息絶えられるのなら、それでもいいと。
「・・・・・・でも。そう、かんたん、には。・・・死なない。・・・殺させたり、しな、・・・ぃ・・・」
体の火照りに蕩けた顔を向けてそう言い返せば、神威の表情がすっと消えた。
低い室温に晒されて冷えてきた下腹部。胎内で脈打つぬくもりに触れて、あやすようにやさしく撫でる。
すると神威にその手を掴まれて、そんなことは許さないとばかりに捩じ上げられた。
乱暴に暴かれた胸を唇が這い、着物を押し広げられた下肢をぐいと開かされる。突然に侵入してきた三つの指がずぶりと奥を抉った。
「〜〜あっ、あぁっ。・・・・・・い・・・っ、そ、んな、ゃあ、・・・かむ、ぃ・・・っ」
「駄目だよ。お前は俺に逆らったんだ。それがどんなことなのか、たっぷり体に教えてやるよ」
濡れた音を部屋中に響かせる乱暴な愛撫に喘ぎはじめたわたしを、彼は真上から眺めていた。ははっ、と奇妙に引き攣れた声で笑う。
・・・これだからあの国の連中は面白いんだ。
ぞくりと肌が震えるような、どこにも熱の感じられない声が、愉快そうに舌舐めずりをした神威の唇からこぼれる。
獲物を追い詰めた暗い獣の目が、瞬きも打たずにわたしだけを見ていた。
「いいよ。またここで飼ってやる。――死ぬまで俺を楽しませてくれよ」
その弱い体でどこまで耐えられるか、見物だなぁ。
首を傾げるようにして覗き込んできた神威が、恍惚とした表情で嬉しげに微笑む。
これまで以上に性急に、手荒く抱こうとしている仕草を体の芯で必死に受け止めながら、
唇を重ねてきた男の体を抱きしめる。背中へ流れる珊瑚色の髪をぎゅっと掴む。ぐちゅぐちゅと舌を絡ませ合う、
呼吸すらままならない口づけに意識が遠のくほど乱される。
( 苦しい思いをさせて、ごめんね。 )
心の中で詫びるうちに、声すら出ないほどの衝撃と鈍い痛みで体が弓反りにしなる。
尖った犬歯の先を、首筋につぷりと突き立てられる。子宮を底から押し上げるように激しくぶつける神威の動きが、わたしの中の熱を溢れさせる。
忘れかけていた苦しさとおそろしいほどの痺れを、体の奥底に蘇らせた。噛みしめた悲鳴が、
必死に息を詰めていた喉を軋ませる。甘い声音で耳の中に囁かれた残酷な言葉にぶるりと身が震えて、
けれど、どうしようもなく恋しかったこの声にこころが震える。
ああ、なんて見え透いた欺瞞だろう。
この声に名を呼ばれたいがために、わたしはいのちをひとつ道連れにしようとしている。