どこから溢れてくるんだろう、この思いは。

空っぽの胸から吹き出したさみしさに煽られて、踊り出ていく。
ことばを綾成すこともなく。涙に変わることもなく。ふわりふわりと舞い上がっていく。
たよりなく、遣る瀬なく、当て所なくたゆたいながら。
たまに荒れた風に呑まれそうになったり、冷えた大気に潰されそうになったり。
それでも宙へとむかって上昇し続ける。この空に散っていく虹色の珠の群れみたいに。
あの日に立ち尽くしたきり動けないあたしを置き去りにして、飛んで行く。何処までも。








洗い終えた着物をたらいに移して、よっ、と気合いを籠めた掛け声をひとつ。
ひたひたに水を吸った二枚分の重みを、両腕いっぱいに抱え上げる。風呂場を出て物干しのあるベランダへ向かう。
うつむくと顔の表情まで映りそうなピカピカの金だらいは、階下からの借り物。
洗面台の横で埃を被っていた使い古しときたら、手が通せるほどの穴空きで。とても使い物にならなかった。

(坂田さーん。郵便でーす。)

はーい。
干しかけていた白地の着物を下ろした。ぱしゃりとたらいで水が鳴る。
玄関先までぱたぱたと駆ける。
帽子を被った配達員が持っていたのは書留で、薄茶の伝票に受取印を求められた。
判子はたしか机の中。二番目の引き出し。
場所を思い出すにも手間はかからなかった。何度かこうして届け物に判を押しているから。


受け取った封筒は机の真ん中に。判子はごちゃついた引き出しの一番手前に。
ベランダに戻って色褪せた桃色のサンダルをひっかけたところで、けたたましい音が背後で騒いだ。
ちりん。じりじりじり、じりりりりん。
今度は電話だ。はい。はいはいはい。今出ます。

はい、坂田です。

慣れない苗字をすまして名乗る。すると受話器の向こうの気配が固まって、ぷつりと途絶えた。
黒い受話器を見下ろして弾く。ぱちん。「間違いました」の一言くらいあったっていいのに。




ぱん、ぱん、ぱん。
裏返した着物を物干竿に通して、裾に寄っていた皺を挟んで叩く。
朝から干していた布団もぱんぱんと埃を払って、そのまま抱えて押入れへ。
ぱたぱたと駆ける。居間を抜けて寝室の襖を抜けて、開けっ放しにしておいた押入れの前で爪先立ちして、
・・・よいしょっ。
聞かれたら「ババアかよ」と呆れられること請け合いな掛け声を、またひとつ。
暗い中にぱたりと倒れ込んで、猫が喉を鳴らして喜びそうな温度に暖まった掛け布団の弾力に埋もれた。
ふぅ。
そこでちょっとだけ一休み。
暖かさに埋もれて目を閉じると、まるで日向にくるまれているみたいだ。
思わず欠伸が漏れてくる。ふあぁ。なんて気持ちのいい陽だまりだろう。
眠気にうっとりしながら目を擦る。
ふふっ、と頬を緩めた一人笑いで悦に入る。
鼻先に触れた人差し指にまで、ふんわり淡い日向の匂いが移っていた。
薄く残った誰かさんの匂いも混ざっていそうだ。ごろごろと喉を鳴らしたくなった。


たらいを抱えてぱたぱたと風呂場に戻る。籠一杯に残っている洗濯のつづきだ。
洗剤の泡で白く濁った微温湯をたらい一杯に張って、薄手のものだけをぽいぽいと放って浸す。
白いハンカチを手に取って、手の間で擦り合わせる。
ちゃぷん。ちゃぷん。浸して擦って、を繰り返しているうちに、すうっ、と換気用の小窓から風が流れ込んで首筋を撫でた。
その風で水面から生まれたのは小さなしゃぼん玉。
虹色の透明な珠が手許から風に乗って、ひゅうっ、と洗面所のほうへ飛ばされる。
見送ったあたしの前でぱちん、と消えた。



手洗いを終えて、残りの洗濯物も洗濯機に詰めて。財布だけ手にして外に出る。
切れているのは台所の電球。洗剤の買い置き。それから、玄関先を飾る花。
最後に入った花屋では、主人が店先の鉢に水を遣っていた。
いつのまにか顔見知りになっていたそのおじさんは話し好きで、手際よく動く手と同じくらいに口も動く。
先月に神社で開かれたお祭りの話。明日の天気の話。近所で起きた空き巣の話。
話題は軽やかに巡っていった。
その間に頼んだ花の余分な葉や長い枝がぱちりと切り揃えられ。白い薄紙にガサガサと包まれていく。

今年の夏はお祭りには行かれましたか。
何気なく訊かれて、はい、と頷く。

あのお祭りに毎年来るお好み焼き屋があるんです。
甘いキャベツがたっぷりで美味しいんですよ。ビールのお供にお勧めです。

ガラスケースの中央に鎮座した、真っ白な蘭の大鉢を眺めながら答える。
いいですね、じゃあ来年にでも、と眉の下がった愛嬌のある笑顔で返された。

そうですか、やっぱりお客さんはご近所にお住まいでしたか。
いえね。町内の集まりで御見かけしたことはないけれど。
ほら、たまにそこのスーパーで。いたでしょう、お登勢さんとこの若い人と。ねえ?

空の片手で何かを掴む仕草をして、ひょい、とその手を胸の前まで持ち上げてみせる。
あたしも真似して片手をひょいと上げて、ええ、そこで、と相槌を打った。
持ち上げたのはこの店の向かいに建つスーパーの袋。中には買ったばかりの洗剤が入ってる。

家は隣町なんですけどね。
でも、何時になるかはまだわからないけれど。そのうちに、こっちに越してくる予定です。

いつか。たぶん。そのうちに。
渡したお代のお釣りを貰って、花を受け取った。
どうも、と買い物袋と一緒に両手に提げて店の硝子戸をくぐる。
外まで送りに出てくれたその人が、空を見上げて目を細めた。

まったくいい天気ですねぇ。店なんか閉めちまって、何処か遠くまで出掛けたくなりますよ。









一面の青が目に映える秋晴れの空を背景にして、微風にさあっと撫でられ揺れる布の波。
その真ん中に立って、ふぅ、と一息。汗ばんだおでこも、通り抜ける風がさらりと冷やしてくれた。

出掛ける前に干しておいた白い着物。その隣には、見飽きるくらいに眺めたあの黒い上下。
白いシーツに枕カバー。白い布団カバー。ごわつき始めたバスタオル。
すべて干し終えてしまうと、端まで数歩で歩けてしまう狭いベランダには洗濯物の波が出来た。
乾いた風が抜けていくたびに、胸をすくような洗いたての洗濯物の香りがすうっと鼻を掠める。
天気もいいし風もいい。帰るまでには乾くかな。
ささやかな満足感に浸りながらくるりと回って、日向に背を向ける。
日陰でひらひらと裾を踊らせているのは、着ているあの子の動きが良すぎるせいか、スリットが裂けてきた朱色のチャイナ服。
膝小僧が擦り切れた真っ赤なカンフーパンツ。
ちょっと膝をついただけで破れそうな薄さだ。これ、乾いたら繕ったほうがいいかもしれない。
ここに裁縫道具なんて気の利いたものがあれば、の話だけれど。



ちょいと、ちゃん。いるのかい。

部屋に戻って畳に上がったところで、下の路地から声が掛かった。
引き止めたのは煙草枯れした太い響きの声。
はーい。サンダルを履き直しもせずに、裸足でぺたぺたと陽だまりに駆け出る。


おかえりなさい。遅かったですねぇ。

ベランダの柵にもたれて見下ろし、にやにやと勘繰った笑いを向ける。
あたしがここへ来た時間に、お登勢さんは入れ違いで出て行った。
行き先はお寺。月命日の墓参りだ。
あれから三時間は経っているから、その時間は全部、旦那さんとの語らいに費やされたんだろう。
と思ったら違ったみたいだ。腕組みで二階を見上げるお登勢さんは、疲れたような表情で首を竦めた。

よしとくれよ。墓前で手を合わせていられたのなんて、ものの1分さ。拝んですぐに捕まっちまったからねぇ。

捕まったって?

坊さんだよ。あそこの住職ときたら、昔っから話が長くってねえ。
今年の檀家の寄合がどうのこうのと、小一時間も喋り倒されちまったよ。

ふうん、とつぶやいて首を傾げた。
小一時間。
頭の中で繰り返して、単純な引き算を始める。

あれも熱心ないい人なんだけどねえ。度を越した熱心てのもほとほと参ったもんだよ。
・・・ってちょっとあんた。なんだい。何がそんなに可笑しいんだい。

細く引かれた眉が気味悪そうに顰められて、お登勢さんは苦い顔になる。
口許から糸のような煙を昇らせている煙草が、こくりと揺れて頷いた。

いいねえ、若い子ってえのはいつも楽しそうで。
まぁ、ちょっとしたことに笑い転げていられるなんて今のうちだからね。そうやってたっぷり笑っとくことさ。

出て行ってから三時間ちょっと。住職さんに捕まっていたのが小一時間。
どう考えても計算が合わない。
お墓回りを綺麗にして草むしりなんかしても、まだまだお釣りがくるはずだ。
柵に伏せってけらけらと笑っていたら、上げた手で、ひょい、と手招きされた。

ところでさ。あんたもお昼はまだじゃないのかい。うちで食べるかい?

お茶漬けくらいしかないけどね。
ふう、と溜め息のように漏らした煙と一緒に付け足すと、途端にくるりと踵を返す。
お登勢さんはあたしの返事も聞かずに、早々とした足取りで裏口に向かっていった。
眺めていたらもっと可笑しくなった。妙に似ていると思った。
そうだ。あいつもこんなかんじだった。
言いたいことは言うだけ言って、あたしの反応なんて待たずにぽいっと置き去りにしていく。
あの江戸っ子らしくて素気無い優しさが、なんとなくあいつを彷彿とさせる。
柵に頬杖をついて、墨色の着物の背中が角に消えるのを見送った。
嬉しさに胸をくすぐられながら思った。

来てよかった。一人で休みを過ごすよりも、ここにいるほうがずっといい。
此処は淋しさを薄めてくれる。
思い出の欠片がそこかしこでゆらゆらと、淡く色づいた陽炎のように顔を覗かせてくれる。
風にざわめく洗濯物にも。花屋の主人の世間話にも。お登勢さんの背中にも。






今頃どこをほっつき歩いてるのかねえ、あの馬鹿は。


たん、と軽い音を響かせて、お登勢さんがお茶漬けの茶碗を置く。
淡々とした枯れ声に心配そうな曇りは感じられない。
柿渋色の小さめな茶碗の上に、黒い塗り箸をぱちん、と揃えて戻した。

ちょっと出てくらぁ、ってここに顔出して、ガキども連れてふらっと消えたきりで。
どこで何をやってるんだかねえ。あれからもう十か月にもなるってえのに。
・・・そうだ、冬になっても戻らないようなら、嫌がらせに捜索願いでも出してやろうかね。

いいんじゃないですかそのくらい。それにしてもあの馬鹿。あと何カ月家賃溜め込むつもりでしょーね。

泣き落としで頼まれたって、絶対立て替えてなんかやらないけど。
さらさらさら、と大ぶりなお茶碗から喉越しの良い感触を流し込みながら小声で返す。

あれからまったく音沙汰無しかい。

お互いの間に置かれた糠漬の小鉢に箸を伸ばしながら、隣席に座るお登勢さんが尋ねてきた。

あれからって?

それだよ。そいつが送られてきた、あの時さ。

あたしの腕を通り越して指されたのは、あいつが送ってきた万事屋の鍵。
間に合わせで付けたお土産物のキーホルダーに繋がれた、銀色の鍵。
これが船便で届けられたのは。
――あれは春だった。江戸に遅い春が来て、桜の蕾が綻び始める前だった。


銀時が急に出ていった、江戸には珍しい大雪の日。
あれから三カ月も後だった。
大きな消印が中央に押された、分厚くて角の擦り切れた封筒に入っていた。

宛名に被せて押された消印は、何処のものなのかもわからなかった。
この国の言葉しか読めないあたしには何かの記号にしか見えない字が、ずらりと並んだ消印。
その下に走り書きされた差出人は銀時で。住所はここの番地宛てで。
なのに宛名は、なぜかあたしの名前になっていて。
妙な重みがあって、何か物騒な仕掛け付きじゃないかとここの全員に怪しまれたその中には、鍵が一つだけ。
一緒に入っていたっていいはずの便箋一枚、紙切れ一枚入っていなかった。
あいつから何かが届いたのはそれきりで。だからあたしたちは、誰もあいつの行方を知らない。
何処にいるのかもわからない。それどころか、生きているのかどうかすら。


・・・あるわけないじゃないですか。お登勢さんのところには?

ないね。これだけ家賃が溜まってんだ。電話一本寄越しゃしないだろうよ。

そうですねぇ。変にお金に意地汚いから、銀時は。
帰ってきた時のどさくさに紛れて踏み倒してやる、くらいのことは考えてますよ、きっと。

鮮やかな青紫色に光る茄子を一切れ、ぽいと口に放る。
さらさらさら。続けて掻き込んだお茶漬けでこくこくと喉を鳴らした。

銀時のバカ。いい年こいて本当に、なんて親不幸なやつ。
止めていかなかった電気代水道代その他諸々、誰が払ってると思ってるんだろう。
全部を全部、お登勢さんが黙って毎月立て替えているのに。
どんな放蕩息子だって、そういう厄介をかけていることくらい気づきそうなものだ。なのに手紙一通届かない。

まさか本気で踏み倒す気だろうか。
なかったことにする気だろうか。ここに残した全部を――



・・・・・・。あいつ。あたしのことまで踏み倒す気かも。

そうだねぇ。あのちゃらんぽらんならやりかねないねえ。

・・・ですよね。やりかねないですよねあいつなら。
平気でばっくれそうだもん。え、俺なんか言ったっけ、とか。
待ってろなんて俺言ってねーしぃ、とか。鼻ほじりながら抜け抜けと言いそうだもん。

ああ。そうだね。あれならそのくらいは言いかねないよ。
口だけはやたら達者だけどねえ。待たされる女の気持ちなんざ、さっぱり判りゃしないんだから。

・・・・・・・・・。そうですよねぇ。

摘んだ漬物を口に押し込みながら、萎れた声でつぶやいた。
かり。かり。数口弱く噛んでから、息の詰まり始めた喉の奥までこくりと通す。

そうですよねぇ。・・・

ちゃん。あんた、おかわりはどうだい?

・・・・・。ううん、もう。お腹がいっぱいで、

空の茶碗に箸を置いて、御馳走さまを言おうとした。その時だった。外から壁越しに音がした。

だ、だだ、だんっ、だんっっ。

早い足音がこの店の横にある階段を揺らしていた。
ここの戸口や棚をがたがたと揺らすくらいの力強さで、段を飛ばしながら駆け上がっていく。


壁越しに昇りつめた轟音は頭上でぴたりと止まった。
あたしは知らず知らずに椅子を倒して立ち上がっていた。
目も口もぽかんと見開いたまま、その足音が止まったらしい場所を――万事屋の玄関がある天井を見つめていた。
同じように天井に目を見張っていたお登勢さんが振り向いて、呆けた顔でお互いに一瞬だけ見つめ合って。
―――同じタイミングで走り出した。かちゃん、と落ちた箸が土間を打つ音がした。


だ、だだだ、だだだ、だんっっっ。
先に店を飛び出して、夢中で階段の手摺りにとびついて。一段飛ばしで駆け上がる。
中段まで昇ったところで、玄関前に立った誰かがこっちへ振り向く。驚いた様子であたしを眺めた。
はっとして足が止まった。こっちを見下ろしているその姿に、左右にぐらぐらと揺れる目線を合わせて――

あ、どーも毎度ぉ、大江戸新聞ですー。集金に伺いましたぁー。

後ろに迫っていたお登勢さんの肩が、どん、と背中にぶつかって止まる。
ややあってから、すぐ隣から、はぁーっ、と溜め息が聞こえた。全身から力が抜けたような重たい溜め息が。


・・・なんだ。誰かと思ったら、・・・・・・新聞屋かい。

はぁ?

いやいや、いいのさ。こっちの話だからね、気にしないどくれ。それよりあんた――

そこは今留守だから、後で下の店に寄っておくれよ。こっちで立て替えとくからね。
はぁ、と納得つかないような態度で返事をすると、新入りらしい若い新聞屋はバタバタと下りていった。
急ぎの用でここを飛び出していく時のあいつによく似た、忙しない響きで階段を揺らしながら。

いやだねえ。年甲斐もなく走っちまったよ。

・・・・・。あたしなんて、段飛ばしてドカドカ駆け上がっちゃいましたよ。

ははっ。そうだねえ。走り出した時の血相変えたあんたときたら。思わずつられちまったよ。
いやねぇ。バタバタと騒々しい足の運びが、慌てて帰ってきた時のあいつによく似てたからさぁ。
ねえ、あんたもそう思っただろう?

・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・どうしたんだい。ちょっと――

何も言えずに大きくかぶりを振った。なんでもないんです、の一言すら出て来ない。
喉の奥が熱くなって、きゅうっと迫ってる。
いつのまにか目に湧いていた熱さが、ぽろっと零れそうになっている。
あわてて手摺りに突っ伏したら、後から後から湧いてくる。
抑えられなくなった泣きたさが。ずっとこらえていたさみしさが。
熱いお湯で出来た洪水みたいなそのごちゃ混ぜな感情が、人前で泣く恥ずかしさを吹き飛ばして、頭の奥をつーんと痺れさせて。
かあっと火照った喉の奥からたった一言こみ上げたのは、よりによってあいつの名前で。
堰を切って溢れた涙で、手摺り越しに見つめた階下の景色がぐにゃりと溶けた。

やだ。ごめんなさい。違うんです。違う、・・・・・

竦めた肩が、ぶるっ、と震えた。涙を拒んで身体を固めて、着物の袖を掴んでこらえる。
ぎゅっと目を閉じると――瞼の裏にあの雪の日が見えた。
白で埋まったあの雪原が見えた。
「じゃーな」と軽く手を挙げて、あたしを残していなくなった。ひどく遠く離れて見えた。降りしきる雪に溶けていく銀時の白い背中が。
あの日から、目を閉じるたびに何度もあたしの前に浮かび上がって。いやになるくらいに繰り返されたあの背中が。
瞼の裏に焼きついているあいつが。あたしが目にした最後の姿が。今でも忘れられないあの言葉を繰り返す。


(俺はあっとゆー間に戻ってくっから。そしたらお前が抱えてるモン、全部連れて。俺んとこに来いや。)


弱い自分なんて、もうこれきりにする。もう泣いたりしない。
鍵が届いたあの日にそう決めて。
「お湯を沸かしてるから」なんて見え透いた嘘で万事屋に引き上げて、銀時の部屋に籠ってわんわん泣いた。
涙なんてあの日で全部涸らしてしまったつもりだった。
こんな弱いあたし、誰にも見せずにしまっておこう。そう決めたのに。

バカ。銀時のバカ。どうしてこんな時に出てくるの。――そんなにあたしを追い詰めないでよ。





かつ、かつ、と雪駄の音が階段を踏んで。お登勢さんの気配がゆるゆると近づいてきた。
肩を揺すられる。ぽん、と背中を叩かれた。
気遣いぶりが声に染み出た温かい口調で、ちゃん、と呼ばれた。
その声で頭の中が耳鳴りがしそうなくらい一杯になって、何も答えられない。
この程度で弱りきってしまう自分が嫌いだ。泣き出してしまう自分が歯痒くて、嫌いだ。
泣きやめ。泣き止まないと。唇を噛みしめて言い聞かせても、肩を揺らす嗚咽は止まらなかった。


驚いたねぇ。あんた、いつ見てもけろっとした顔して笑ってるからさ。
知らなかったよ。・・・そうかい。あんた。ずっと我慢してたんだねぇ。

さらり、さらり。骨張った細い指で梳かれた髪が、あたしの耳を撫でていた。
濡れた頬を拭いながら顔を上げると、お登勢さんと目が合う。
頭を撫でながら見つめる皺の寄った目元には、労わるような笑みが混ざっていた。

帰って。きます。よね。
何もなかったみたいな顔して。帰って、・・・・・・

ああ。帰ってくるよ。あれはそう簡単にくたばりゃしないからね。そのうちひょっこり帰ってくるさ。

それにね、安心しな。来なくたってあたしが逃がしゃしないよ。
なあに、逃げた先が宇宙だろうが関係ないさ。溜め込んだ家賃払わせるまではね。

駄目ですねあたし。・・・たった半年なのに、我慢できないんだもん。

そうでもないさ。半年も我慢出来たんだ。若い娘にしちゃあ上出来だよ。

ぽん、と叩いた背中を押される。そのまま顔を胸に押しつけられた。
墨色の着物の胸元からは、薄く残った煙草の匂いと、どこか懐かしくなるような甘いお白粉の匂い。
ほんの少しだけお線香の香りもした。

呆れた馬鹿だねえ、あいつは。
こんなに心細い思いさせちまってんのに、電話一本入れやしないんだから。

・・・どこでどうしてるんだか。
困ったような低い笑い声を耳元で受け止めて、そっとゆっくり目を瞑る。
一面の粉雪に紛れて消えていったあいつの背中が、熱い瞼にぼうっと浮かんだ。



どんな季節が過ぎていっても同じだ。目を瞑ったときのあたしの中に在るのは、いつもあの時の雪景色。

根深く降り積もったあの大雪が溶けて。風が変わって。
遅めの桜が街中を鮮やかに彩って。風が変わって。
深緑に生まれ始めた蝉の声と共に、うだるような暑さに包まれて。また風が変わって。
気がつけば次の冬はもう目の前だ。
あの時と同じような粉雪が江戸を純白で覆う日は、そう遠いことではなくなってしまった。でも。

あたしの時間はまだ、あの日の雪原で止まったまま。

感覚のなくなった耳が千切れそうに痛くて、白に埋め尽くされた胸の中が痛くて。
手足がかじかんで動けなくなってしまいそうにさむくて、心細くて。
日が暮れるまで泣きじゃくった、あの雪の日に立ちつくしている。

(ばか。銀時のばか。早く帰ってきてよ。言ったじゃない。あっというまに帰ってくるって。)

壊れてしまった玩具の人形みたいに繰り返してる。
とっくに見えなくなったあいつの背中に、今でも呼びかけ続けている。










小さな籐の行李に入った裁縫道具を借りて、お登勢さんの店を裏口から出て。
万事屋への階段へ向かう路地をとぼとぼ歩いた。小石を爪先でかつんと蹴った。


あれから「もっと食べな」とおかわりのお茶漬けを二杯も出されて、おまけにみたらし団子まで御馳走になった。
お腹は帯がはち切れそうなくらいパンパンだ。
誰かに甘えて泣いたからなのか、もやもやしていた胸の支えもなんとなくすっきりした気がする。
さあ、次は何から片付けよう。
買ってきた花を活けて。台所の床を磨いて、切れていた電球を変えて。洗濯物が乾いたら繕い物をしよう。
そうだ。今日はあいつの部屋で泊っていこうか。
ご飯は下で皆と一緒に食べればいいし、布団は干したてのフカフカだ。
そうしよう。夕飯を一人で味気なく済ませるような気分でもないし、――この顔で家まで歩くのは恥ずかしい。

鬼ごっこの最中らしい子供が数人駆けてきて、下駄を鳴らして横を追い越していく。
狭い路地をからからと、鈴を転がすような笑い声で一杯にした中の一人が、追い越しざまに怪訝そうな目をちらりと向けた。
さぞや珍しかっただろう。大人の女が大粒の涙をぼろぼろ零しながら、赤くふやけた顔を隠しもせずに歩いているんだから。


だらしない。みっともない。情けない。
何遍も考え尽くしてとっくに飽き飽きしていたはずのことを、またうじうじと考えて。お登勢さんに心配を掛けて。
けれどこれがあたしだ。いくら弱音を隠してみたって所詮この程度だ。今の情けないあたしなんて。
きっと銀時が見たらお腹を抱えて笑い転げるに違いない。
なにそれ。なにそのきったねーツラ。それでもいい年こいた女ですかお前は。
そう言って指を差す憎たらしいバカ面を想像したらちょっとムカついて、ふふっ、と思わず笑ってしまった。


ふうっ、と鼻先を何かが掠めた。
一瞬だけ見えたのは、風に浚われて離れていく光る虹色。目が自然と行き先を追った。しゃぼん玉だ。
角の向こうから飛んできている。飛んでいく。
どこかで子供が遊んでいるんだろうか。
大小の虹色の珠が、列を成して。くるくると回りながら。万事屋の屋根まで上っていった。
そこからさらに広がって、青い空へと散っていく。

いいな。羨ましい。あれは何処まで行けるんだろう。
そう思ったらやけに泣けてしまって、ようやく止まりかけていた涙がまた性懲りもなく湧き出してくるから困る。


風に乗って。あの青空へ吹き上げる気流に煽られて。
どこへ届くんだろう、あのしゃぼん玉は。

ふわりふわりと舞い上がっていく。たよりなく、遣る瀬なく、当て所なくたゆたいながら。
たまに壊れそうになったり、潰されそうになったり。それでも宙へとむかって上昇し続けるのかもしれない。
――あたしも一緒に、あいつのところまで連れていってくれたらいいのに。
袖の端で目を拭いながら角を曲がって、何気なくその出所を追っていく。
目線が辿り着いたその先は。――開けっ放しの万事屋の窓だった。

風に乗ったしゃぼん玉が、ひとつ。ふたつ。みっつ。風呂場の窓から飛んでいく。
呆然と数秒、息を呑んでそれを見つめて。心臓がとくんと跳ねた。
あたしが動けなくなっている間にも、窓からは虹色の珠が気ままに踊り出ていく。
ふわりふわりと、舞い上がっていく。ざぁーっ、と水音が聞こえる。誰もいないはずの二階から。



胸が痛くなった。息が止まりそうなくらい強く締めつけられた。
何も考えられないままに足が動いていた。
転びそうになりながらあわてて角を曲がって。
引っ掴んだ着物の裾を膝まで捲り上げて、それでも足を縺れさせながら階段を駆け上がって。
玄関に飛び込むと、――爪先がぱっくり割れてボロボロの、知らない靴があった。



・・・・・・・・・・銀時、・・・?

あー?かぁ?

洗面所の奥。
ざあざあと、風呂場のほうからシャワーの水音がする。タイルを反響させたかったるそうな返事が響いた。
膝から一気に力が抜けそうになった。
ああ。間違いない。この声だ。

お前なぁ。いくら何もねえ家だからって、出てくなら鍵くれーかけろって。

きゅっ。きゅっ。
古い水栓を捻る音。ばさばさと、布が何かと擦れる音。
廊下まで漂っているのは湯気の湿った暖かさと石鹸の香り。
ぱたぱたと、足音を響かせながらその中を駆けた。
床を踏んでいる気がしない。夢の中でも歩いているみたいに足がふわつく。

何かあったらどーすんだぁ?留守の間に危ねー野郎に潜り込まれでもしたらよー。無用心だろーが。

がちゃっ。きいっ。
軋んで開く扉の音。風呂場の扉だ。
ばさっ。ばさ、ばさっ。
洗面所の扉の上に開いた小さなガラス窓を、白っぽい人影が一瞬だけよぎった。

ちょっ。おーい。いるんだろ。聞いてんの?銀さんマジで注意してんだけど。聞いてるんですかさーん。

・・・呆れた。よくそれだけデカい顔して帰って来れるね。家賃滞納してるくせに。

・・・ちゃあん。なにそれ。それはねーだろ。まだ顔も見てねーのにデカい顔って。第一声がそれって、なにそれ。

そんなの見なくたってわかるよ。そのくらい、あんたの声だけでわかるから。

いやいやいや。いくらなんでもそれはねーだろ、銀さんせっかく帰ってきたってーのによー。
ったくよー、相変わらず色気のねー女だねぇ。ずっと会ってねー男が帰ってきて、いきなりカネの話ってお前。
なにそれ。もっと他にあんだろー?いろいろと大事なアレが。おかえりなさいの儀式が。


・・・・・・。あれっ。今の全部スルー?ガン無視?
つか、飛び込んでこねーの。熱烈なお帰りのちゅーとかねーの。ほら。ほらほらほら。

ない。そんなのない。
てゆうか払わないあんたが悪いんじゃん。宇宙の果てまで取り立てに行くって言ってたよ、お登勢さん。

あー。もーいーわ、くたばり損ないババアの話は。さっき一瞬顔見たし。
依頼の金振り込まれんのもぉ少し先だし。それまで当分肩身狭めーし、こっそり隠れて暮らすわ俺。

ガラス窓に湯気の張り付いた扉。その中に籠っている声は、謎なことばかりをぼそぼそと言った。
がちゃっ。
洗面所の戸が開いて、頭にバスタオルを被った銀時が待ち構えていたあたしの横を通り過ぎる。
ちらりとあたしを見下ろしたその表情は、馬鹿にしてるのかと思うくらいに平静なにやけ面で。
気抜けするくらいにあっさりと、目線があたしの頭上を越えていった。

・・・見たってあんた、いつ。どこで?

あーそーだわ、アレな、そこにあった電球な、台所の。替えといたから。

・・・・・。それはどーも。

いやいや、どーいたしまして。

風呂上がりの香りを振り撒きながらぺたぺたと、大きな足が居間のほうへ迷いなく向かっていく。
被ったタオルで白髪頭を擦りながら目の前を歩いているのは、十か月ぶりに帰ってきた奴の姿。
なのにどうだろう。何の感動も湧かないどころか、涙の一粒浮かばない。
帰ってきた本人は、まるで近所をぷらぷら散歩して帰ってきたかのように、何の感慨もなさそうに飄々としている。
これからダラダラと昼寝する気で満々そうな、くたびれた寝間着の甚平姿で。

くああぁ。
背中で組んだ片腕を天井へ伸ばし、呑気に大欠伸している銀時の後ろ姿を、呆れ果てながら見送った。
だんだん腹が立ってきて、穴があくほどに睨みつけた。
なんて馬鹿馬鹿しい。お登勢さんに縋ってめそめそと泣いていたあたしはなんだったの。
こんなふざけた奴のおかげで、一年近く心配のし通しだった。
寝ても醒めても不安で胸が張り裂けそうになってばかりいた、あたしの時間は一体なんだったのか。
ていうかこいつってなんでこうなの。何なのこいつって。よくもこんなしれっとした顔で帰って来て、・・・!
ぱたぱたと駆けて、ばしっと背中を殴りつけてやった。


ちょっと。

んだよいってーよ。何。あ、言っとくけどよ、土産とかなんもねーからな。

違うわよ。お土産なんて気の利いたもの、誰があんたに期待するってのよ。
そーじゃなくて、なんで一人なの。あの子はどこ!

んぁー?ああ、神楽か?
そーだわ、神楽なぁ。あいつなぁ、ちょっと寄り道してんだわ。ついでに母星帰って墓参りだとよ。
ああ平気平気。ハゲ親父も一緒だからよ、心配ねーって。しばらく親子水入らずで遊んでくんじゃねーの。

違う。神楽は心配してないわよ神楽は。あの子はあんたと同じで図太いから。
そーじゃなくて!どこよあの子は、お妙ちゃんのところのメガネっ子は!

知らね。ターミナルで別れたし。

居間に入ってソファにどかっと居座って、リモコンを持ってテレビをぱちり。
前に構えて立っているあたしの二の腕を掴むと、図々しく脇へ押し退ける。

そこ邪魔ぁ。見えねーだろォ。
・・・っておい、邪魔すんなって。気味悪りーんだよ、景気悪りーツラして横入りしてくんじゃねーよ。どけってほら。

見れねーだろォ、十か月ぶりの結野アナがぁ。
欠伸混じりで悪態をついた銀時は、眠たそうに画面を眺めながら数秒おきにチャンネルを変えていった。

あーそーそー、新八な。家に直行したんじゃねーの。あいつよー、帰りの船ん中でいきなり里心づきやがってよー。
姉上に会いてえ会いてえって、めっそめそ啜り上げやがって。ったく、煩くって眠れやしねー。
どーにかしてくれよあのシスコン。今頃メガネに滝流して姉ちゃんに飛びついて、涙の再会やってんじゃねーかぁ?

被っていたバスタオルをひらりと横に放る。
なに、まだ文句でもあんのかよ。
ソファの背もたれにだらりと腕を伸ばしてこっちを見上げた銀時は、そんなことを思っていそうな顔をしていた。
濡れて癖が弱くなった前髪から、ぽたりと小さく雫が垂れる。

・・・・・・・なんなのよ。ほんとに、あんたって、・・・・・・・・

ぁあ? ――っ、

びゅんっ。
いつのまにか掴んだものをいつのまにか投げていた。完全に頭に血が昇っていた。
あたしが行李から抜き取った裁縫用の鋏が、銀時の頭の上を、毛先をひゅうっと靡かせて通過する。
びきっ。背後の壁板を割って突き刺さった。
何か言われたら次はこれを投げてやろうと、穴空け用の先の尖った錐を掴んで構える。
なのに壁に刺さったものを確認して振り返った銀時ときたら、腹の中が煮えくり返るほどすっとぼけた目でこっちを眺めている。
まったく堪えていなかった。

おいおいィ、なにしてくれてんのちゃん。面合わせて五分もしねーうちに逆ギレですかこのヤロー。
気の短けー女だなぁおめーはよ。これじゃ玄関開けたらレンジでチンするあのご飯も、カップラーメンも喰えねーだろがあぁ。

うっさい!うるさいうるさい、うるさいぃぃ!

うるせーのはお前だって。何、さっきから何。しばらく見ねーうちによぉ、なーんか凶暴さに磨きがかかってね?
ガキの頃親に教わらなかったのかよ。人にモノを投げたらいけませんって、ワキが酸っぱくなるほど教えただろーがぁ。

今の言葉、そっくりそのまま返すから!あんたこそ何考えてんのよっ、もっと他に言うことないの!?
あるでしょ他に!まず謝んなさいよ!ずっと待たせて悪かったなとか、連絡しなくてごめんとか!

あれっ。そーだっけ。そーいやしなかったっけ。
いや悪りぃな。そーかごめんな。うん、悪かったわ、俺が悪かった、すんませんでした。

とってつけたみたいに言うな、ムカつくから!てゆうか次にバカ言ったらそのへらず口縫ってやる!

これで!
と行李の針刺しから長い針を引き抜き、びっ、とすっとぼけた半目の中心に向けて突き出した。

あんたってやつは・・・あんたってやつは!どんだけ人をがっかりさせたら気がすむのよっっ。
やっ。やっと、帰ってきたとおもったら、・・・
ひっ。人が、っ、・・・・お、登勢さんも、みんなもっ、どれだけ心配したと、思って・・・!

そこで急に胸が詰まって。唇が震えて喋れなくなった。
憤慨しているあたしの意思とはまったく無関係に、温かいものがつうっと頬を伝って落ちる。
ぽたっ。粒になって零れた涙が床を濡らした。
片足をどんとテーブルに乗せて、崩れた胡坐で居直った銀時は、ひどく面倒臭そうに横目で足元を眺めた。

なにそれ。なにを今頃泣いてんの。遅っせーんだよ。

うるさいぃ!この針刺されたいのその舌に!

あァ?冗談じゃねーよ。何で俺が無免許針治療されなきゃなんねーんだよ。つかよー、普通あれだろ、立場逆だろ。
お前じゃねーよ?俺が刺すほうだからね?男ってーのは殆どの奴が刺されるよか刺すほうが好きだからね?

もういい。出てって、今すぐ出てけ。これ以上がっかりしたらほんとに刺しちゃうからマジで出ていけセクハラ野郎!

いやいや、俺じゃねーだろ。先にがっかりさせたのはお前だろぉ。
んだよあれェ。お前はよー、どんだけ俺をがっかりさせたら気が済むんですか。

よ、とおっさんぽい掛け声で弾みをつけて立ち上がると、銀時は放り出していたバスタオルを掴んだ。
ふわり。頭上で白い影が広げられる。

喜んで損したわ。
いやお前さあ、サギじゃね?返してくんね、あの時の俺の、百年分相当のときめきを。

空気を丸く包んで宙に浮いたそれは、湿った重さと一緒に落ちてきた。あたしの頭に、柔らかく包むように。

お前が電話口で「坂田ですぅ」とか2オクターブ上がった高っけー声で言うからよー。
てっきりもうアパート引き払ってここに住んでんだと思うじゃねーかよぉぉ。

・・・え。

ぽつりとつぶやいて見上げる。すると、ぱふっ、と柔らかい感触を顔に押しつけられた。何も見えない。
目元がタオルで引っ張られて伸びるくらいに、銀時は不服そうに、やたらと乱暴にごしごしとあたしの涙を擦った。
電話って。
・・・・・じゃあ。さっきの。無言で切れた間違い電話って。

え、じゃねーよ。つーか何あれ。何やってんの。
せっかく俺が帰ってきたってのに、妖怪ババアの胸で泣いてどーすんだって。
いきなり帰って驚かしたらお前が新八以上にダラダラ滝流して泣くんじゃねーのって、すっげー楽しみにしてきたのによー。
着いたらとっくに流れてたし、滝。いや滝っつーかあれ、ナイアガラの滝?

ぼうっと火照った熱さで、首元が包まれた。
タオル越しのごつごつして大きな感触。銀時の手だ。

なにそれ。なんなのお前。俺の出番どっこにもねーじゃん。

頭の上から声が降ってきた。口の奥でぼそっとつぶやいた、笑い混じりで和らいだ声が。
・・・どこから見てたの。
手の感触がゆっくり動いて、肩まで移っていくのにも戸惑いながら。その声を追うようにしてバスタオルの中で顔を上げた。
手探りで触れながら、寝間着の衿に辿り着く。そこを掴もうとしたときに、ざあっと周囲の空気が動いて。
いつのまにか背中に回っていた腕が、身体をぐいっと引き寄せる。そのまま、ぎゅっ、と抱きしめられた。


どーせ泣くならこっちで泣けって。

いきなり抱きすくめられた反動で、肺から空気が一気に、苦しいくらいに押し出された。
あ、と鼻にかかった声が漏れる。
途端に背筋がふうっと崩れて、目の奥がかぁっと熱くなって、無性に泣きたくなって。
頭の天辺から指先まで、全部の力が抜けてしまって。持っていた行李が手からぽろっと離れた。
ばさっ。中に入った針や指抜きや細かい欠片が、ぱらぱらと散った音がした。

背中を抱く腕が。重なった胸が。ふわふわと耳元をくすぐる髪が、温かい。
身体から伝わってくる熱やあたしを包んでいる空気は、あの時よりも少し熱い。
だけど、腕の重さや感触や、頭上に感じる息遣いはあの時と同じだ。

・・・・・本当に銀時なんだ。

ああ。やっと帰ってきた。帰ってきたんだ、本当に――


タオルを避けた手が髪の中に滑り込んできた。頭をやんわり撫でられているうちに、ぱさり、と湿った柔らかさが床に落ちる。
遮るものがなくなったあたしの頭を両腕で抱いて、銀時は顔を耳の横に押しつけてくる。
さっきから香っていた石鹸の香りが、うんと近くなる。近すぎる。
顔から火が出るくらい恥ずかしい。けれど、涙で喉が塞がるくらいに泣けてしまって、咄嗟には声が出なかった。

つーかよー。あれだわ。言っていい。

・・・っ。な。・・・なに・・・?

俺、風呂上がったばっかなんだけど。
その涙なんだか鼻水なんだかわかんねーしょっぱい顔、ぎゅーぎゅー押しつけねーでくれる。

・・・・・っ、うっさいぃっ。そのくらい我慢しなさいよっっ、バカっ。

それとよー。

なによ!

すっげー会いたかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・、うん。

鼻をぐずぐず言わせながら爪先立ちになって、圧し掛かってくる重たい肩に腕を回す。
石鹸の香りが残った首筋に思いきり抱きついて、顔を埋めた。深く何度も頷いた。
こくん。こくん。頷くたびに銀時の喉からは、くくっ、と可笑しそうな笑い声が漏れた。

んじゃまあ、行っとくか。ババアんとこに挨拶に。

え。・・・あたしも行くの?

そりゃーそーだろ。大家には一応断っとかねーとだろ。近々もう一人住む奴が増えっから、って。

言われたことに驚いて、ふっと息を呑む。
あれこれと細かなことを考えてから、もう一度、大きくはっきりと頷いた。
頷くまでにそれほど時間はかからなかった。心はもうとっくに、あの雪の日で決まっていたから。

頷いた途端に手を掴まれて、指が絡まる。驚いている時間もないままに手を引かれた。銀時の足はもう玄関へ向いている。
一歩踏み出してから、ようやく思いついた。
そうだ。まだ言っていなかった言葉がある。ねえ、と呼びかけて、繋いだ手を引いてみた。


「おかえり。銀時」

「・・・・・・。おう。」


なんとなく照れ臭そうな間を空けて答えた背中は、ちょっと立ち止まっただけで振り返らなかった。

頼りなくふわついた足取りで歩きながら、視界がぼやけて歪んでいる目でじっと見つめた。
迷いなく、前へ前へと引いてくれる、大きな手を。
見つめるうちにふわふわした嬉しさに胸をくすぐられて、頬が自然に緩んでいく。先を行く背中にぴったり寄り添って歩いた。


やっと繋いだ銀時の手は、立っているだけで凍えそうだったあの大雪の日よりもずっと温かくて。
もうこのまま二度と離してくれないんじゃないかと思うくらいに力強くて。
目を閉じては泣いてばかりいた弱虫のあたしを、あっさりと簡単に引きずり出してくれた。
あの終わらない真っ白な雪原から、限りなく生まれ出る色たちで染め尽くされた温かい世界へ。
ふわりと身体ごと浚ってくれた。

うん。行こう。二人で行こう。何処までも。






「 うたかた 」

text by riliri Caramelization 2010/10/20/
for room No.101010 * Happy Birthday ××× !!!