「・・・ったくよおおォ。どーなってんだコノヤロ〜〜〜・・・・」

その朝。
見た目なんとなく怪しげな万事屋店主・坂田銀時さんは、陽射しも晴れやかな初秋の街を歩いていた。
フラフラとよろめきながら往くのは、歩き慣れた彼の庭、かぶき町の大通り。からりと爽やかな朝の風が頬を撫で、 曇りない青空を拝める格好の散歩日和だ。道行く人達は誰もが気分良さそうに見えるのだが、そんな中で彼だけがげっそりとして疲れきっている。 いつもの飄々として気だるそうな雰囲気はどこへやら、連載開始以来、ありとあらゆる人々から口を揃えて「死んだ魚のような」と こき下ろされ続けてきたやる気の無い目も、今日に限っては必死である。妙に血走ってすらいた。 目元にはうっすらと青黒いクマまで浮かび、やつれ気味な様子でヨロヨロ歩く。今にも倒れそうな足取りだ。


やれやれ。何だってえんだ。昨日ときたらそりゃあもう、散々な一日だった。
事の起こりはなんのこたぁない、ただの虫歯の治療だ。
悪化した虫歯が腫れ上がって、我慢しきれず歯医者に出掛けた。まあ、痛みはかなり酷くはあったのだが、それにしたってたかだか虫歯の治療である。 夕方には家に戻れると疑わなかった。
ところがなぜか「治療が早い」と評判のその歯科医院で、 ショッカー本部もびっくりの生体手術を施され、股間に死にかけのバーさんを装着され。ただでさえ追い先短そうなそのバーさんの 息も絶え絶えの苦悶する姿を見るに見兼ねて某外科病院に駆け込み、手術後にそこの入院病棟で仕方なく一泊。 しかも相部屋になったのが、あの万年仏頂面の税金泥棒だ。虫の好かないニコチン中毒野郎と同室にブチ込まれ、 隣のベッドから漂ってくるうっとおしいヤニ臭さに腹が立ち、さらに胸クソ悪いことには どうやら向こうも似たようなことを思ったようで、手術直後だというのに 「甘ったりー匂いプンプンさせやがって、眠れねーだろーがァァ!!」と瞳孔全開で因縁つけてきやがる。
向こうから売られたケンカとなれば、誰が買わずにおくものか。備え付けの点滴パックだ、木刀だ刀だ、マヨだ枕だ掛け布団だ、 果てには病室備え付けの椅子やテレビ、税金泥棒が隠し持っていたジャスタウェイ…と、片っ端から投げまくり、 ぶつけ合い、取っ組み合い、暴れまくり。物騒な枕投げに興じた結果が、お互い睨みあって一睡も出来ずの完全徹夜明けだ。 おかげで備え付けのテレビも窓ガラスも粉々に壊れ、病室は一晩にして廃墟と化した。当然、病院の会計で「弁償しろ」と 言われたが、そんなこたぁ銀さんの知ったこっちゃない。 あいつが悪い。喧嘩なんてもんは兄弟ゲンカから組同士の縄張りを賭けたドンパチまで、その一切が引き際こそが肝心だというのに、 あの多串くんときたらどんだけボコボコにしてやってもしつこく食い下がり、いさぎよく負けを認めようとしねえ。 とはいえこのまま引き分けにしておくのはムカつくので、病室の弁償請求は後ろで会計を待っていた税金泥棒に押しつけて、さっさとトンズラしてやった。


――とまあ、そんなこんなで結局別の歯医者で虫歯の治療を済ませ、見慣れた我が家にやっとの思いで辿り着き。 万事屋店主・坂田銀時さんは、玄関先でブーツをぽいっと脱ぎ捨て、どかっと腰を下ろした。

「おーい。新八ぃー。神楽ぁー。定春ぅー。帰ったぞー」

と、いつにもましてかったるそうでぞんざいな、皺枯れ声で呼んでみる。
ばたり、と仰向けで床に倒れて数秒。返事を待ってはみたのだが、声もなければ気配もしない。

どこ行きやがったガキどもめ。社長のお帰りだってーのにいねーのかよ。
こんな朝っぱらから何処行ったんだかよォ。この時間にいねーってことは、定春の散歩で公園でも行ったか? そういや神楽の靴もねえし、新八の下駄もねえな。
・・・・・・・・・・お。ぁんだ。隅っこでちょこんと揃えてあるあの草履。
あれっ。どっかで見たよな、あの草履。
――あれっ。てーことはぁ。もしかして。

ごほん、ごほん、あーあーあー。
ぎこちない咳払いで喉の調子を整えつつ跳ね起き、キョロキョロと奥の様子を伺った。

「おーい。―。ちゃ―――ん。・・・おーいぃ。いねーのォ。銀さんだよー。帰ってきたよー」

と、さっきまでとは打って変わって優しげな、猫撫で声で呼んでみる。
疲れていたはずの表情は俄然として生き生きと輝き始め、廊下の奥を覗き込んでいる捩じれた天パの白髪頭も心なしかフワフワと、ウキウキと揺れた。 これまた彼にしては珍しい姿ではあるが、無理もない。 疲れきってぐったりしている時に、予想外なものを見つけたのだ。最近付き合い始めたばかりの可愛い彼女、の草履を。疲れなんて一瞬で吹っ飛ぶ嬉しさだ。 その嬉しさと、弾む期待と若干怪しげな下心と――とにかく色んなときめきに胸を膨らませた彼は、ご馳走おあずけ状態の犬のように尻尾を振り振り、可愛い花模様の草履の持ち主の登場を待ってみた。しかし返事はない。 へなへなっと尻尾が萎えて、ふたたびがっくりしてばたっと倒れた。残念なことに彼を待っていたのは、可愛い彼女の可愛い草履だけだったようである。

「・・・ぁんだよォォ。ぁんでいねーんだよおォォ。つか、何で草履だけ?」

あーあーあァ。草履も履かねーでどこ行っちゃったんだよあの子はよ。
つか、なんでがうちにいんの?つかなんで草履だけ?いやいやいや、いくら陽気がいいからって裸足で散歩はダメだろォ。 お魚くわえたドラ猫追っかけてく陽気な主婦Sさんじゃねーんだからよー。 …と胸のうちでボヤきつつ、もうちょっと待ったら出てくんじゃねーの!?という僅かな望みに縋ってじっと待ってみたのだが。 やっぱり彼女は出て来ない。家の中からは声どころか物音すらしないのだった。

「ったくよー。なんで誰もいねーんだよ。つーかなんでこんな時に虫歯だよォ」

毛先の跳ねまで萎れ気味な頭をポリポリと掻きながら、肩を落として廊下を進んだ。 そう、こんなはずじゃなかった。昨日の朝に虫歯の疼きがピークに達しさえしなければ、 ――昨日の夜は、の家で「はじめてのお泊り」を楽しむはずだった。 決して辛気臭いツラのチンピラ警官なんぞと殺気立ったヤニ臭いお泊り会を楽しむつもりなんてなかったのだ。

「何も昨日じゃなくたっていーだろーによー。 俺の虫歯も少しは空気読めっつーんだよ。ちぇっ。こんなはずじゃなかったのによー・・・」

ぼやきながら足が止まる。廊下の途中に置かれた花瓶には、見覚えのない花が数輪飾ってあった。 たぶんが持ってきたのだろう。家に花を飾ろうなどと思いつく奴はこの家にはいない。
本当にときたら、見た目だけでなくこういうところも可愛い。あらゆる点で女の子らしいのだ。 草履も履かずにどこかへ行ったと知ってもなんとなく納得してしまうくらいに天然気味ではあるが、性格はよく気が利くのに控え目で、しかも今どき珍しいほどに素直で純真。 よくぞここまで悪い奴に騙されることもなくすくすく育ったもんだと呆れるくらいで、男に対してはさっぱり免疫がない。 そんな子に「銀ちゃんが好き」と頬を真っ赤に染めて告白されたのだ。

最初は真に受けもしなかった。
俺みてーなヤクザもんを一時的に追いかけ回したくなるのは、世間知らずのお嬢ちゃんがよくかかる麻疹みてーなもんだ。そう思っていた。 周りの野次馬どもに「珍しくモテたからって浮かれてんじゃねーよ、どーせすぐに捨てられんだから」などとやっかみ半分に囃し立てられるたびに、 口では「何とでも言えよ負け犬どもが。そんなに俺がうらやましーんですかぁ、あァ!?」と憎たらしいバカ面で返しつつも、 内心ではまあその通りだなと思っていた。今までに見てきたどんな女よりも可愛い、と思っていても、自分でも感心するくらいに手を出さなかった。 ここまで無垢な娘に軽々しく手を出したら、さすがに自分が許せない気がしたのだ。 とはいえ、よりによって俺に惚れてしまうくらいだ。 に男を見る目がないことは立証済みだし、ただでさえ人を疑わない、騙されやすい娘でもある。大丈夫なのか。こいつをこのまま放っておいていいもんだろーか。 俺が目を離した途端、たちまちろくでもないバカ男に捕まり、あっというまに餌食にされるのがオチじゃねーか。
と、何も知らずに隣でにこにこと笑う無邪気な娘の将来が心配になり。 まったく要らないお節介だとは知りつつも、彼は心の中で密かに決意した。

これは人助けだ。いや、俺に課せられたお役目だ。
チャランポランな自分には勿体ないくらいのいい子に告白してもらい、いい気分にさせてもらった、要はその恩返しみてーなもの。 年甲斐も無くどぎまぎさせられた一途な告白も、 「銀ちゃん」と満面の笑顔で呼ばれるたびに感じる、あの首の後ろがこそばゆくなるよーな嬉しさも、 どれも金では買えそーにねえもんばかり。 とっくに二十歳を越したおっさんには過ぎたいい思いばかりを、無垢なは惜しげもなく次々と差し出してくれたのだ。 俺はそのお礼代りに、依頼を受けたつもりで身を入れてを護ってやればいい。 そう、期限はこの子の麻疹が終わるまで。俺に入れ上げた熱が醒めて、 俺とは真逆の、この子に相応しい真面目で誠実な男が、この子の前に現れるまで。 この子が本当の恋に目覚めるまで。それまでは兄貴にでもなったつもりで護ってやるか。この子がいつでも笑っていられるように。

そんな自分でも「いやいやいや、それよー、なーんかちょっと見え透いてね?」と疑いたくなるよーな、 いまいち説得力のない口実を一応の糧として、彼にとっては実に宙ぶらりんな、もどかしい日々の幕が切られた。
男に免疫がないだけに彼の気持ちなど一切読めないに、毎回のように無邪気に飛びつかれる。 あどけなさの残る可愛らしい声で「銀ちゃん、好き」を連呼される。 そのたびに「あー、はいはい」と気の無いふりで受け流すのだが、飛びついてくるのひたむきさと柔らかさに 内心ではいつもドキっとさせられてしまうのだ。

ヤバい。ヤバくね。マジヤバいだろコレ。
このまんまじゃ俺、うっかり真に受けちまいそーなんですけど。
うっかり手ェ出しちゃいそーなんですけど!
・・・と、珍しく切羽詰まった顔に冷汗をたらーっと流して焦り始めても後の祭りだ。 ついには彼女が万事屋へ遊びに来る日を――笑顔で玄関を開け、「銀ちゃーん」と声を弾ませて入ってくる日を、 他の事とは変えがたい楽しみとして待つようにまでなってしまっていた。こうなってしまえば明らかに手遅れである。 だいたい、元々を嫌いではないのだ。見た目は最初から好みだと思っていたし、性格だって知れば知るほどに可愛いく思えてくる。 しかも、恋を知り、急成長を遂げた彼女の、恥じらいのこもったあの熱いまなざしときたら。 あの目を見ているだけで、兄貴代りの看板なんざドカッと蹴倒して返上してやりたくなるのに。 隣にいるだけで頭を撫でたくなるのに。にっこり笑いかけてくるあの唇がどんな柔らかさなのか、触って確かめてみたくなるのに・・・!

――とまあこんなかんじで、珍しく彼は悩んだ。
愛だ恋だに対して、ここまで真剣な自分がかつてあっただろーかと驚くくらい悩んだ。あまりに珍しすぎて見慣れない、 つーか俺キモくね、なんかキャラ違ってね!?と自分で自分に若干引くくらいの真摯さで悩んだ。 そんな自分を取り巻く奴ら――新八や神楽、お登勢やキャサリン、果てはメイドロボのたままでもが、 彼に「ぁにやってんだこのバカは」とでも言いたげな、激しく不審そうな目を向けていることにすら気づかないほどに悩んだ。
どうすればいい。面倒見のいい兄貴にもなれそうにない。かといって今さらケダモノにもなれない。 はとっくに俺を信用しきっている。ここで今さら襲い掛かるわけにいくものか。 もしも嫌がられてほっぺたなんかビンタされて「銀ちゃんのバカああ!」などど泣かれて、この子が俺の前に二度と姿を見せてくれなくなってみろ。 …想像しただけでヘコんでくる。ずーん、と激しく鬱な落ち込みが頭の上に10トンくらい乗ってくる感じだ。 ダメだ。無理だわそれ。そんなことになった日には俺、絶対立ち直れそーにねーし。

・・・・・。おい待て。今何て言った、俺。
立ち直れねーって。何言ってんだ俺。つーかこれ、・・・・・・、
まさか。冗談じゃねーぞ。まさかお前、好き好き言われていつの間にかその気になってねーか!?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
いやいやいやいや!!!違う違う、そーじゃないって!!!!
違うからねこれは。恋だ何だと面倒臭せーもんじゃないからね!?
これはあれだよ、そーいうんじゃねーんだって。俺がここまでやりきれないのは、この子の純真さが伝染っちまっただけだからね? 好きだの愛だの恋だのじゃなく、この子のまっすぐさに当てられちまったせいだからね!?
万事屋の柱にガンガンと頭を打ち付けて額からダラダラ血を流す、という荒っぽくも間抜けな方法で強制的に頭を冷やし、 新八と神楽に「何やってんだこのマダオは」とでも言いたげな白い目で蔑まれながらも、 銀時は自分にそう言い聞かせて我慢した。だがその時にはすでに、自分でも無視できないほどに、やるせない気持ちは育ってしまっていた。 身に染みてわかってしまった。これがただの麻疹などではないことを。この世間知らずで純真なお嬢ちゃんを、女として好きになってしまったのだということを。

ばっかじゃねーの。だーめだって。何考えてんだ俺。やめとけって。
ここで本気になったところで、俺に何が残る。いくらを好きになったって、虚しさ以外は残らねーんだ。
いつかは麻疹が全快してしまうが、他の男の手を取って俺から離れていく。 そんな後ろ姿を指を咥えて見送るのがせいぜいだ。俺にはその程度の情けねー末路しか用意されてねーんだ。
そう思って、自分にきつく言い聞かせて。それでも思いは止まらなかった。 の麻疹が全快してしまうその日を思うたびに、銀時は浮かない顔になってしまう。
だが。ところがだ。 誰一人として予想だに出来なかった奇跡が起きた。
それから一年経っても、二年経っても、の気が変わることはなかった。彼女の気持ちはお嬢ちゃんの麻疹などではなかったのである。 これで浮かれるなと言われても無理というもの。いや、これで浮かれない男など、男としてどうかしている。 痩せ我慢もあっさり辞めてと付き合い始めて以来、世界の色まで変わって見えるんだから恐ろしい。不思議なもんだ。 彼女の手を取って歩き出てみたそこは、まさにこの世の春だった。


自分には勿体ないくらいの彼女。まだろくにキスもしていないというのに「を嫁に貰うべきか、それとも俺がお婿に貰われるべきか」の完全フライング妄想を 一心不乱に考えてしまうくらいに好きになってしまった彼女だ。 唯一の難点といえば、自分には勿体ないくらいの女の子だからこそ、大事にしすぎて手が出しづらいことくらいか。 おかげで泊る約束を取りつけるまでにもかなりの気遣いや痩せ我慢を重ね、ついにここまで伸び伸びで来てしまった。


ー。・・・・・・って。やっぱいねーし。」

もしかしたら、と一縷の期待を賭けて向かった事務所兼居間には、やはり誰もいなかった。壁に掛けられたカレンダーを眠たげな半目でチラ見する。 依頼された仕事は明日だ。さしあたって今日やることは特にない。 余程の大口でも舞い込まねー限り、新八にやらせりゃいーだろう。
とにかく疲れた。とにかく眠い。 眠さのあまり目を瞑り、頭をグラグラ揺らしながら寝室の押し入れを開け、ズルズルと引き下ろした布団に倒れ込み。 腕に抱えた枕に顔を埋めながら、ひとつだけやり残したことがあることに気付く。
に会えないのなら、せめて定春にモフモフしておきたかった、と。

どこ行ったんだよ定春。んな時に限って散歩かよ大飯喰らい。
あーぁ。あーあァ。モフモフしてえなー、モフモフ…と、不服そうな独り言を枕相手に漏らす。いや、そりゃー 、ちゃんにモフモフ出来んなら、図体のでけーケモノなんて用はねえ。そりゃー勿論だろ。 可愛い彼女の恥ずかしそうな顔を眺めながら、思いきりぎゅーするに越したことはねーんだけどよー。つーか勿論、が許してくれんなら、ぎゅー以上のこともやぶさかじゃねーんだけど。
ちぇっ。あーあー。んだよ草履だけってよ。
いねえと判ったら余計に会いたくなっちまったじゃねーかよ。余計顔が見たくなっちまったじゃねーかよ。 どーしてくれんだよ、銀さんすげー淋しいじゃねーかよォ。あーあァ、上手くいかねーもんだよなぁぁ。つか、なんで草履だけ?なんでいねーの、ちゃん。

唯一の心残りを恨めしげにブツブツと唱えながら、なんとなく虚しい気分で彼は眠りに落ちていった。それほどまでにモフモフしたかった――いや、それほどまでにに会いたかったのである。 そして、そんな心残りが疲れて朦朧とした頭の中をほぼ占めていたためか、寝付いて間もなく夢を見た。
体力も気力も限界な時。
そういう時に見る夢は、得てして奇妙な夢が多いものだ。この時の銀時が見た夢もそういった夢である。



夢の中の彼は定春に抱きついていた。
なぜかフワフワと空に漂う雲の上にいた。隣に添い寝している定春とともに、ごろごろと快適な惰眠を貪っているのだ。 どこまでも続く青空をゆっくりと進む雲は寝心地も抜群で、いつも御主人様に遠慮なく噛みついてくるペットはやけに大人しい。 そーか、これは夢だろ。こいつがこんなに大人しいわけねーし。巨大な頭に抱きついてフカフカした毛並を撫でながらそう思う。夢の中の飼い犬はグルグルと気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
夢の中だからなのか、さっきまではボロボロでだるかった身体も今は不思議なほど解れて軽い。 目を閉じているだけで安らぐようないい気分だ。 ところがそれでも何かさみしい。どこか物足りない。 ここで抱き締めているのが定春でなく、だったなら。さっき草履を見てしまったせいなのか、どうしても不満に思ってしまう。 どうしても無いものねだりをしたくなる。

やれやれ。俺もえらく変わっちまったもんだ。隣に女がいない淋しさを、夢の中まで持ち込むなんて。 だが一度覚えてしまったものを――身体が経験してしまったものは特に、その体験ごと忘れるのは難しい。 俺はと居るときの心地良さを覚えてしまった。誰もが一人で過ごす夢の中にまで、あの子を必要とするくらいに。 キスしたのも抱き締めたのも、たった一度だけ。酔った勢いもあって我慢できずに抱き締めた。 その時に覚えてしまった抱き心地の良さが、あれずっと以来忘れられなかった。会わない日だって鮮明に思い出すし、 会っている日なら尚更だ。 無邪気に間近まで近寄られて、腕にぴたっと寄り添われてしまえば、あのときに手にしたの感触が ――ふんわりした唇の肌触りや、小さくて温かな身体の柔らかさや、どこかで嗅いだ花のような髪の香り――そういった甘い残像が さらに鮮明さを増してくるから困ってしまう。見上げるに「どうしたの銀ちゃん」と不思議そうに尋ねられるたびにドキッとした。

あーあァ。なんで定春なんだよ。これがだったらいいのによー。
なんとなく名前を口にしたくなり、「」と小さくつぶやいてみる。すると腕の中に感じる感触ががらりと変わった。 抱きしめていた巨大な飼い犬は急にしゅるしゅると萎み、うんと小さくなってしまった。何だこれ、と不思議がりながらもぞもぞと抱き直すと、華奢な感触が腕の中にすっぽり収まった。 温かさといい重みといい、あの小さな身体にそっくりだ。どーなってんだ。抱き心地がやけにリアルじゃねーか。 最初に抱きしめた時には「こんなもん、思っきりぎゅーしたら潰しちまうじゃねーか」と半分本気で焦ってしまった、あの柔らかな身体と。



( ―――ちゃん、・・・・・・銀ちゃん、・・・・・・ )


不思議がって首を捻っていた、その時だ。腕の中にいる何かが彼を呼んだ。
ためらいに満ちた小さな声にはっとした彼は、掠れた寝呆け声で呼びかけに応えた。

「・・・・・・・・・。、・・・・・・?」
「ぎっ。・・・銀ちゃん?も、もう、目、覚めた、の・・・?」

ぱちっ、と勢いよく開けた視界いっぱいに映ったのは、彼の布団からはみ出すサイズの巨大な飼い犬、…ではなかった。 腕の中に抱かれてこっちを見上げているのは、迂闊に抱きしめたら壊れるんじゃないかと心配になるくらい華奢で小さな身体の女。 おずおずと目線を上げた上目遣いで、恥ずかしそうに顔を赤らめてこっちをみつめる彼女。 まぎれもなく彼女だ。夢に墜ちる瞬間まで会いたいと願い続けていた、その人だ。
・・・・いやだけど。何でが、俺の布団に!?
何で俺、いつのまに、どーしてをぎゅーしてんの!!?

「・・・っ。ご。ごめんね。驚いた、・・・よね?」
「・・・・・・あ。あー、いや、そりゃまあ、その、・・・って、え、?」
「う、・・・うん」
「え、何で。何でいるの、がウチに。つか何、何コレ。何で俺の布団に、えっ、なにコレ、何のドッキリ!?」
「ち、ちがうの。銀ちゃんが、帰ってきたのは、聞こえてたんだけど。・・・・ あ、あたし、さっきまで、お風呂、使わせて、貰っ、てて。銀ちゃんが、きた、とき、ま、まだ、身体、洗っ・・・、 は、はずかしくって、へ、返事、出来なくって・・・!!」
「風呂ォ?え。何で。が風呂って。何でうちの風、おっ、!!!」
「・・・銀ちゃん?どうしたの?」
「う、う、うんっ、いいいやいやまあそのほらあれだわ?出来ればあんま、その、う、・・・動かねーでくれる?」

・・・その。胸。擦れっからぁ。
珍しく恥入った感のある声でつぶやいた彼に、は一瞬、わけがわからない、という目を向けた。 しかしそのうちに頬が赤さを増していき、表情がカチンと固まり、目が丸々と、最大限に大きく見開かれ。

「ごっっっ。ごめ、・・・・な、・・・・さ・・・・」

最初っから小さかった声はどんどん萎んで、最後の語尾はへなへなと消えてしまった。 ところが銀時のほうは、そんな様子を至近距離で一部始終見つめているのに、なんだかまだ実感が湧かない。
これは本当に現実なのか。ひょっとしてまだ夢見てんじゃねーの、俺。
心臓をバクバクさせるやましい刺激に全身をムズムズさせながら、腕の中の女の子を見下ろしてみる。 間違いない。やっぱりだ。表情だけで「このまま消えていまいたい」と思っているのが丸分かりな、泣きそうな顔で赤面している。

「き。昨日ね。銀ちゃんが、いない、なら、神楽ちゃんは、さ、さみしいだろうなあって、思って、っ」
「あ、あぁ、」
「それで、あの、来たの、一緒に、ご飯食べて、DVDが、ええと、見て、ゲームで、負けて、そ、そうじゃなくて、 あの、それで、あの、もう遅いから、と、泊っていけって、空いてる、お布団なら、あるから、って・・・や、やだ、 ち、ちがうの、銀ちゃんの、お布団じゃ、なくて!おっ、押し入れ、で、一緒、に!!」
「そ、そっか、あれな、神楽の、寝床で、一緒に、な。そっ、そォ、泊ったんだ、ああ、ぁんだよ、そォいう、こと、・・・・・・・」

んだよ神楽の奴、俺より先にと同じ布団で寝やがったのかよ!
という若干ブレたツッコミがまず最初に、心の中を吹き荒れる。・・・いや、んなこたーこの際どーでもいい。 聞きてーのはんなことじゃねーだろ、何よりもまず、どーしてが銀さんの布団の中に入ってきたのかが知りたいんだって。 どーいうつもりでここにいるのか知りてーのに。その先の核心を突きてーのに。俺、んなときに限ってツッコめねえし!

はは、は、は・・・、と、わざとらしさ満点に力無く笑いながら、銀時は心の中で肩を落とした。 これはツッコミキング新八に弟子入りするべきだろーか、と一瞬だけ、かなりの本気度で悩んだ。 だがやはり言い出しづらい。雰囲気的にツッコミづらいのだ。 の今にもプチッと千切れて失神しそーな緊張っぷりが、なぜかこっちにまで伝染しちまった。 いつもの憎まれ口を叩く気にもなれなければ、持って生まれた滑りの良い百枚舌を奮う余裕もない。 いや、この八方塞がりなドン詰まりの空気を、口を使わずに打破する方法は判っている。手っ取り早く俺が布団を出るか、 紳士的にの身体を放してやるかのどちらかだ。そのどちらかだということは判っている、判ってるんだが、
・・・んなもん知るかァァ!!
こーんな美味しい状態に持ち込めるチャンス、そうそうねーって!! いや、無理、無理無理無理。これ離すの無理。つか、ちょっとやそっとでを離す気になれるわけねーじゃん!

そんな彼の半ばひらき直ってブチ切れた、まじまじと迫ってくる血走った視線に耐えられなかったのか、はずっとうつむきっ放しだ。 たまにちらちらと目線を上げ、何か少し申し訳なさそうな表情で銀時を見つめたり、 思い切って決意を固めたように口を開き、しかし、何も言えずにあわあわと口籠る、・・・という、困惑しきりな仕草を数回ずつ繰り返した。

「・・・銀ちゃん」
「お、おぉ?」
「・・・・・・・・。嘘なの」
「へ?」
「違うの。神楽ちゃんのためじゃないの。 ここに来たのは、神楽ちゃんのためじゃなくてね。本当は、あたし・・・、」

語り始めたの口がぴたりと止まる。何か言い澱んでいるらしい。 銀時の腕の中に収まった小さな肩がわずかに強張る。やがて躊躇いがちに視線を上げると、潤んだ瞳がまっすぐに銀時を見つめた。

「昨日、銀ちゃん電話くれたでしょ。今日は行けなくなった、悪い、って。」
「・・・まぁ。そりゃあその。てめーから言い出しといてドタキャンだしよ。一応な」
「うん。あのね。あのときあたし、別にいいよ、なんて平気なふりして言ったけど。 ・・・本当はね。すごくがっかりしたの。だって、お昼から夕御飯の準備してたんだよ。 銀ちゃんの好きなものばっかり、いっぱい作って」

小さな手がそうっと近づいてきて、彼の着物の襟に添えられた。縋るようにそれを握ったの目は泣き出しそうだったが、 口元は柔らかく微笑んでいた。戸惑って言葉のない銀時を見上げ、小さくかぶりを振る。
違うよ。そうじゃないの。来てくれなかったことを責めてるんじゃないの。
そんな風に言いたげな、いじらしい笑顔だ。 じっと彼女を見つめ、銀時が眉を曇らせる。責められていない。だからこそ堪えた。 病院の公衆電話からげっそりしながら話していたあの時に、受話器越しのの声音を気にかけてやる余裕はなかったのだ。

「だから、今日は行けない、って言われたら、涙出るくらいさみしくなっちゃって。 ・・・準備してた料理だって、量が多すぎて一人じゃ食べきれなかったの。だからね、ここに来たの」

言いにくかったことを口に出して気分が落ちついたせいなのか、の緊張はいくらか和らいできたらしい。 ゆっくりと睫毛を伏せると、ふふっ、と何か思い出したように笑った。

「ここに居たら神楽ちゃんだっているし、家で一人で過ごすよりずっといいと思ったの。 ここに居るだけで、銀ちゃんと居るような気分になれるんじゃないかって。それだけでさみしくなくなるかなって思ったの」

でもね。小声でつぶやいて、ちらりと目を上げる。 自分から目を離そうとしない銀時の表情を見つめて、はにかんだように再び睫毛を伏せた。

「思ったのとまるで違うの。ここはね、どこに行っても銀ちゃんの気配がするの。なのに、 玄関開けても「おう、入れや」って返してくれる声がないの。神楽ちゃんがごはん全部食べちゃっても「俺の分は!」って怒る人がいないの。 そういうことに気付くたびに、ああ、銀ちゃんいないんだなあっておもって。・・・もっとさみしくなって。・・・よく眠れなかったよ」

目元に涙がじわりと浮かび、声を詰まらせる。着物に縋る手にもきゅっと力が籠められた。

「・・・・なんだか変なかんじ。今まで、こんなことしたこと、・・・なかったよね」
「・・・・・・・あ。あぁ、・・・・」
「なのに。変なの。・・・こんなこと思うの、あたしだけなのかなあ。こうしてるとすごく懐かしいの。涙出そうなくらいほっとしちゃうの」

ねえ、銀ちゃん。
震える涙声が彼を呼ぶ。腕の中の彼女は銀時の胸に頭を寄せた。 さらさらした黒髪の小さな頭がゆっくりと動いて、開いた衿元に軽くもたれかかってくる。甘えるように、ぎこちなく。

「覚えてる?一度だけこうやって、ぎゅーって抱っこしてくれたでしょ。恥ずかしくて言えなかったけど、 あたしね。ずっとね、あの時みたいに、・・・こうやって銀ちゃんに、ぎゅってされたかったんだ」

ああ。言っちゃった。どうしよう。
おろおろとつぶやき、が目線を泳がせる。あわてふためいたあげくに銀時を見上げたが、見上げた男には何の反応もなく、 ぽかんと口を開けているだけだった。
反応しようにも出来なかったのだ。それは銀時にしてみればまったく思いがけない、意外すぎる告白。 心臓を直に、ずんっと矢で射抜かれたくらいの衝撃はあったのだから。 口から生まれた男にしては珍しく、彼は声もなく固まった。するとは、彼が喋る気にもなれないほど呆れているのだと勘違いしたらしい。 へなへなと泣きそうに眉が下がり、最初から薄桃色に色づいていた頬が、みるみるうちに、尋常でない赤さに染まっていく。

「・・・ああ、どうしちゃったのかなぁ、あたし。どうしても昨日がよかったの。どうしても銀ちゃんに会いたかったの。 今だって自分にびっくりしてるの。ほんとうに、どうしちゃったんだろ。どうして自分からここに入って、こんなことして・・・・」
「・・・、」

呼ばれてもは銀時を見ようとしなかった。こうしているのがいたたまれない。面と向かって銀ちゃんを見つめる勇気がない。 銀ちゃんが何も言ってくれない。それはきっと、あたしに呆れ返っているからに違いない。ううん、それどころか、―― 今ので嫌われてしまったのかも。今にも溢れそうな涙と不安で真っ赤な顔を曇らせながら、もぞもぞと身じろぎを始める。 逃れたい。いてもたってもいられないこの恥ずかしさから。閉じ込めているこの腕から、一秒でも早く。
ところがそうはいかなかった。伸びてきた手に両の頬を掬われ、広い手のひらで顔を包まれ、 くい、と持ち上げられる。

「―――!」

目を閉じたり拒んだりする間も与えられず、は受け入れさせられた。 素早く触れた感触が唇を強く奪った。驚きに怯んだ彼女の呼吸を遮断して、一旦止まりかけた心臓を、どきん、と高く跳ね返らせて。 荒々しさには免疫のないが思わず背筋を仰け反らせて固まってしまうような、ひどく昂ったキスで塞いでしまった。
目を閉じることすら忘れていた。姿勢を変えて自分に圧しかかってきた銀時の、 苦しげに閉じた目元を、はただ呆然と見つめていた。何も考えられないままに、呆然と。
すると、ぱっ、と唐突に顔が離れた。顔を抑えられ、逃れようもなく強制的に合わせられた視線の先。 そこから見下ろしている銀時の顔は、なぜか悔しげで拗ねていた。

「んだよもォ、んだよそれよォ。あーあっっ、すっっげー損した気分だわ」
「ぎっ。銀ちゃん・・・?」
も俺と似たよーなこと考えてんじゃんかよォ。ぁんだったんだよ今までの俺の似合わねー悩みっぷりはァ! ったくよー、遠慮しすぎて損したわ。もっと早くこーしてりゃよかったぁっっ」

背中と布団の間に腕を差し入れ、華奢で柔らかな身体を思いきりよく、ぎゅっ、と抱く。 ふっ、とが息を呑んだ。驚いている彼女の気配が重なった胸から伝わってきて、心臓の鼓動がどくどくと高まっていく。 ――たったこれだけのことで。そんな見慣れない自分に照れ臭さを感じながら、銀時は一息に白状した。

「つまりよー。おかしーのはだけじゃねーってこと。つーか俺のほうがお前のこと何倍も好きだしっ、お前の何倍もおかしいのっ」
「・・・・・そう、なの?」
「んー。俺なんて今もお前の夢見てたし。こーやってよー、が苦しがるくれー、ぎゅーっ、する夢」

いやまあ実際は、思うがままでがむしゃらなハグをする前に、残念にも目が醒めてしまったのだが。 そこは敢えて口にはするまい。喉から手が出るほどそうしたかったのは確かなんだから、嘘でも誇張でもねーはずだ。
現金なもんだ。の本心を知った途端に舌の滑りが良くなっている。

。昨日さ。俺がんち泊って。・・・どーしよーとしてたのか。わかるよな」
「・・・・・・・・・・。うん」

囁きかけるような声で尋ねると、は、こくん、と頷いた。 少しだけ身体を起こし、銀時は彼女をじっと見つめる。 雑に伸ばしただけの白いシーツの上には、ゆらりと広がった艶やかな黒髪が流れ。 頬を染めて横たわるは、黙って彼を見つめ返してくる。 今までに目にしたどんな表情よりも恥ずかしそうで、なのにどこか扇情的に乱れていて。 見ているだけで触れずにはいられなくなるような、せつなげで熱を帯びた瞳を揺らめかせていて――。
驚くほど素直に、何の躊躇いもない気持ちで欲しいと思った。愛しいと思った。 こうして見つめているだけで湧いてくる嬉しさに目を細めて、銀時は尋ねた。

「夢のつづき。・・・していい?」

訊きながら、さまざまな、鮮やかな思いが頭をよぎっていく。 もどかしい思いで彼女を見守ってきた数年間。思いを打ち明け抱き寄せた瞬間。そこから始まった幸せでくすぐったい日々。
そしてここが、待ち望み続けていた瞬間。
思い続けてきたこの子のすべてを、ようやく抱きしめられる瞬間だ。

気づけば彼女の肩に触れていた。返事を受け取るよりも先に、思わず手を伸ばしていた。 そんな銀時に目を奪われて息を詰め、はびくんと唇を震わせて。そして。


「う、――」

―― うん。 ――
唇からこぼれる寸前だった、消え入りそうな声の返事。だがそこに予想外な邪魔が入り、結局、その返事は銀時の耳に届かなかった。

それはあまりに突然だった。が唇を開いた瞬間には、二人は訳も判らず宙に浮き上がっていた。 スローモーションで景色が変わっていく。 目の前で浮き上がった掛け布団、枕、敷布団、目の前で浮き上がったの目を点にした顔、 それから最後に、眼前に迫ってくる見慣れた古畳。
畳に頭突き状態で激突して意識が途切れる寸前に、この唐突な浮遊感の原因を彼は悟った。今そこに気づいても明らかに手遅れだということにも。 「うそ、マジで」と自分の運の無さを呆然と嘆き、出払っていたお邪魔な奴等のことをすっかり忘れ呆けていた自分の迂闊さも嘆いた。 普通の人間には土台無理なことだ。ガタイのいい男に小柄な女、さらにはそんな二人が籠っていた布団が一組。 これだけの重量を腕力だけで軽々と持ち上げ、いともたやすく放り投げることが出来る奴。 こんな荒技をやってのける奴はといえば、・・・そーだ。いるじゃねーかうちに、こんなデタラメな反則技を使える宇宙産の小娘が。

どどおぉぉっっっ。
古い畳を衝突音が殴りつけ、万事屋全体を――いや、階下のお登勢の店までもを小刻みな余韻に揺らす。 そこへ罵り声が重なった。
「さいてーネ、不潔ネエロオヤジ!!」と、凄まじい剣幕の少女の声で。

「こんなすがすがしい朝に何をしてるネ何を!!!」

怒鳴りながら布団ごと二人を放り投げる荒技を見せたのは、紅いチャイナ服の背中がゴオッと真紅に炎上しそうな殺気を メラメラと昇らせている怪力少女。愛犬定春の散歩から帰ったばかりの神楽である。 空中に浮いたを見事にキャッチ、小柄とはいえ大人の女を軽々とその腕で抱きかかえ、 これでもかこれでもかと銀時の背中を蹴る、蹴る、蹴りまくる。滅茶苦茶に繰り出した蹴りが外れて 直に一発打ち込まれてしまった古畳は、怖るべきことにその下の床板ごとブチ抜かれていた。
一方その横には、同じく散歩から帰ったばかりの新八の姿が。
世界最小人型破壊兵器と化した少女を横目に眺め、 ひたすらに無言な彼がどうしているかというと、…何とも言えない苦笑いを浮かべていた。
一目見ただけで、それまでのなりゆきがなんとなく察せられるこの状況。見ていて歯痒くなるような恋をついに実らせたこの二人が、 ここでどうなろうとしていたのか。その心情を――特に銀時の心情を思うと、男としてはちょっと同情すべき点もある。 あるものの、爽やかな秋空の下の散歩から帰ってきた途端に、青少年には刺激の強すぎる赤面ものな場面を見せつけられたのだ。

・・・うーん。やっぱり、あまり同情する気にはなれないや。
そう思い直し、困ったような苦笑いを浮かべたままで神楽の容赦ない制裁ぶりを見守った。

「虫歯が化膿して脳まで腐ったアルか!?何が夢のつづきネ、お前の粗末な汚物なんか見たらが悪夢でうなされてしまうアル! 死ねっっっ、お前なんかこのまま死ねばいーネ、地獄に堕ちろダメ天パ!!」

鼻息も荒く息巻き、高速の蹴りを連発していた足がぴたりと止まった。唖然として固まりっ放しだったもそこでようやく我に返り、 抱えられた神楽の腕の中でじたばたともがき始める。心配そうに涙声で叫んだ。

「ぎっっ、銀ちゃん!大丈夫!?ねえ、銀ちゃん・・・!!」
「平気ヨ。銀ちゃんの再生力はプラナリア並みネ、この程度じゃ死なないネ」
「そうですよ、大丈夫ですよさん。 ほら、寝息も聞こえますから。なんだかいい夢見てるみたいですよ」

こっちこっち、と銀時の様子を伺っている新八に呼び寄せられる。泣きそうに眉を曇らせたが神楽の腕から下ろされ、 ぺたんと横に座り込むのを待って、新八は笑いながら指差した。

「ね?幸せそうな顔してるじゃないですか」

地獄どころか、天国でも彷徨ってそうな寝顔ですよ。
そう例えられた銀時の表情は、はっきり言えばにやけ顔。目だけはかろうじて瞑っているものの、他のパーツのネジはすっかり緩みきっている。 畳に激突で失神させられたのだから、それも仕方ないと言えば仕方ないのだが。普段と比べてもだらしなさ三割増し、 今にも口端からヨダレがたれそうな、間違っても恰好がいいとはいえない寝顔である。

「何アルかこの顔。デレッデレのユルッユルネ。ちょーキモいアル!!」
「まあいいじゃない神楽ちゃん。寝顔がキモいくらい許してあげなよ」

そう宥めて、新八がくすりと笑う。
だって仕方ないよ。無理もないよね、どれだけ顔が緩んだって。 だって今日の銀さんは、夢の中にいたってつい顔が緩んじゃうくらいに幸せなんだから。 誰よりも大切にしてきたさんに――こんなに嬉しそうなさんに、寝顔を見守られているんだから。 男なら、そりゃあ顔くらい緩みもするよ。
ねえ銀さん。そうでしょう?
両腕で自分を抱きしめた「寒っっ」のポーズで不快さを訴える神楽を宥めながら、新八はをちらりと眺める。 物好きで一途な「銀さんの彼女」は、力無く畳に落ちていた大きな手にそっと触れ、涙ぐんだ目で銀時を見つめていた。 誰から見ても格好のつかない寝顔の銀時を、うっとりとひたむきに見つめていた。 まるで、ずっと恋焦がれていた宝物にやっと触れることが叶ったひとが見せるような、幸せそうな表情で。



「・・・銀さんは寝てるし、依頼はひとつも入ってないし。今日は一日開店休業かなぁ」

とつぶやきながら、新八はからりと晴れやかな秋空を眩しげに見上げた。 広い窓を飾るその澄んだ青が、飾り気のないこの部屋にある唯一の彩りだった。窓から差し込む暖かな陽射しが、 開きっ放しの押入れからずり下ろされただけの、だらっと敷かれた布団を照らしている。そこに眠るのはだらしなく緩んだ寝顔の男で、 その男を囲んで三人の輪が出来ていた。一人は、ぱちり、と大きな目を瞬かせて不思議そうに。一人はどことなく苦笑気味に。 そしてもう一人はぽうっと頬を染めて、畳から布団へと移されても目が醒めることなく混沌と眠り続ける銀時を、それぞれにじっと見つめていた。 それはほんの数分に満たない時間だったけれど、何かと騒々しい万事屋にしては珍しく、とても静かな時間だった。 秋色の陽射しに包まれた、ほんわりとした暖かさに満ちた時間だった。

それから程なく新八が立ち上がり。神楽もぴょこん、と勢いよく立ち上がる。

「暇だから掃除でもしようか、神楽ちゃん」
「お前は好きなだけ掃除したらいーネ。私はとデートするアル!」
「えーっっ。いいなあ。僕も仲間に入れてよ」
「嫌ネ。アホな男どもは仲間に入れてやらないアル。お洒落カフェでガールズトークネ、二人でめいっぱい弾けるネ!」

賑やかに言い合いながら出て行く二人の背中を見送ると、一人残されたはくるりと振り返る。 眠る銀時の足元で丸まっていた掛け布団。それを眺め、彼女の唇が柔らかく微笑む。 その端を手に取り、ゆっくりと引っ張り上げて丁寧に掛け直してから、枕に埋もれた横向きの寝顔に優しげな眼差しを向けた。

「・・・おやすみなさい、銀ちゃん」

毛先があちこちに飛び跳ねている白銀の頭をそっと撫で、嬉しそうに顔をほころばせる。 耳元に顔を寄せ、背後の二人には聞こえないように、うんと小さくつぶやいた。

「でも。なるべく早く起きてね。それで。あのね。・・・・起きたらまた、ぎゅーってしてくれる・・・?」

恥じらったその声で彼の口許がわずかに笑ったように見えたのは、はたして単なる偶然の賜物だったのか、何なのか。 それは大切な彼女に見守られながら束の間の夢に漂う、幸せな男だけが知っている。




た ま ゆ ら の ゆ め
* ( Have a sweet dream , and Happy Birthday !! ) *



title *さかたん2010  text *riliri Caramelization 2010/10/07/
さかたん2010さま提出物。ありがとうございました !!