行きたい店があるなら、そこに行こうか。

先輩がそう言ってくれたから、かぶき町のお店を選んで誘った。この辺りが、銀ちゃんの夜遊びの縄張りだと知っていたから。
こそこそ隠れて、会わないつもりで出掛けたんじゃない。その逆だ。 会うつもりでいた。知りたかった。男の人といるあたしに、銀ちゃんがどんな顔を向けるのか。 だから、あたしは驚かなかった。 男の人と腕を組んでいるあたしに目を丸くした、銀ちゃんの顔を見ても。



「あれーっ。なんだぁ、おいおいィ。ついに彼氏が出来たのかあ?」

終電も近いし、どのお店も閉店時間を回り始めていた。店から流れ出す音楽も、看板の灯りも消えはじめた深夜の通り。 左右にふらつく千鳥足で、長谷川さんが寄ってくる。肩を組んでる銀ちゃんの身体も一緒に引っ張ってきた。

「おーっ、こりゃあ良さそうな人じゃないのォ。どこかの誰かとは正反対だしなァ。 いやーめでたいねえ。やっと目が覚めたってことだろ、ちゃんも」

おじさんもさあ、ずっと心配してたわけよ。
あんたみたいな若い子がさあ、いつまでもこんなダメなおっさん追いかけてちゃいけないよ。
そう言って、銀ちゃんを指して笑う長谷川さん。 含み笑いがいやに嬉しそうな長谷川さんに頬をつつかれても、銀ちゃんは黙ったままだった。 お店から出てきたあたしに気づいて、偶然に目が合った。あのときとは顔色まで違って見える。
あの時、あたしは思った。人が一気に酔いから醒める過程って、初めて見た。こんなふうになるんだ。 ほろ酔い加減で気分が良さそうだった顔から、すーっと赤味が引いていく。血の気が醒めるその音まで聞こえてきそうだった。




あたしを呼んだ銀ちゃんは、すぐに口籠った。後が続かなかったみたいだ。
また何か言おうとして、急に我に返ったような顔になって。隣の先輩に目を移す。 胡散臭い酔っ払い二人組に引き気味な先輩に向って、どーも、とちょっとだけ頭を下げた。 ふわふわした白髪頭のてっぺんをぼりぼりと掻きながら、あたしのほうに寄って来る。
どっちなんだろう。いつもだらけている眉間がいつになく狭まって、眉が八の字に曲がっているのは。 あたしに怒っているからなんだろうか。それとも。先輩に怒っているんだろうか。

「――って、えーと。誰?どちらさん?」
「会社の先輩なの」
「・・・・・あー。先輩ね。あっそォ」

へえ、と、細めた目でしげしげと眺める。
銀ちゃんの不躾な視線が、先輩だけに注がれている。その間、あたしは息を詰めて銀ちゃんだけを見ていた。
何でもいい。何かひとこと言ってほしくて、祈るような気持になって着物の衿を掴む。 喉から手が出るほど何か言ってほしくても、自分からは言えない。 あたしはずるいし、臆病だから。自分から訊いてみて、どうでもいいって顔をされるのが怖いから。 銀ちゃんから口を開いてくれるのを待っていた。


「やっと目が覚めた」と長谷川さんに笑われてしまうくらいに長い間、あたしは「銀ちゃんが好き」と言い張って、 しつこく隣に張り付いてきた。でも。その長い間に、拒まれたことこそ一度もないけれど、銀ちゃんがあたしに本音を見せてくれたことはない。 銀ちゃんはあたしの前に立つと、雲みたいにするりと逃げる。 いつもふわふわと浮いていて、とらえどころがなくて。問いかけるあたしに手応えを掴ませてくれない。 何をしても子供扱いで、一度も女扱いなんてしてもらえなかった。例えばあたしが好きだと言えば「あー、はいはい」と生返事が返ってくる。 思い切って抱きつけば「あー、はいはい」と、苦笑いでやんわりと腕を外される。 これじゃ本気で首をホールドしてじゃれている、神楽ちゃんの扱いと変わらない。 思春期前の女の子と同じ子供扱いが、あたしはずっと不満で、悔しかった。相手にされない八つ当たりで、半分拗ねながら文句を言った時だ。 あの時、たった一回だけ。何を訊いても気のない返事ばかりしている銀ちゃんが、珍しく真顔になった。

『いやいやいや、ダメだって。ダメだからね俺は。つーか何で俺なの。やめとこーよ、こんなおっさん。 今からでも遅くねーから、他の男にしとけって。あ、ただしよー、手近の野郎でテキトーに妥協すんなよ? お前を大事にしてくれる男が現れるまで辛抱強く待っとけ、って言ってんだよ?』

本人はあたしを真面目に説得しているつもり、だったらしい。
一年中緩みきってる顔が思わず真顔になってしまうくらい真剣だったつもり、らしい。 それでもそこはさすが銀ちゃんのお説教というか、はっきり言って最初から最後までしまらなかった。

『だいたいよー、若い女の子ってのはよー、恋愛にもっと夢を持たねーといけねーよ夢を。 合コンでキープしといたそのへんの男で妥協してたらよー、いざって時に幸運の女神は微笑んでくれねーんだよ。 腰据えて理想の王子様を辛抱強く待つくれーの根性がねーと。いざいい男に会ったって、相手にされねーで 素通りされちまうかもしれねーだろーが。 つまりあれだよほら、あの、千葉と書いて東京と読ませるあの国の。 名前出すとヤクザよりヤヴァい、あのネズミの国のお姫さんもアニメの中で歌ってんだろォ? 歌ってんじゃん。私はずっと待ってるの〜、いつか全身白タイツの王子様が〜、私を迎えに来るのォ〜〜、 とか何とかよォ。あれだよあれ。』

白馬に乗った王子様と全身白タイツの王子様の違いなんて、銀ちゃんにはどうでもよかったらしい。 隣で聞いていた新八くんは銀ちゃん以上にどうでもよかったらしくて、そこにはツッコミすらしなかった。 『さんならともかくあんたが姫じゃ、王子も速攻「チェンジで!!」って叫びますよ』と低い歌声のほうを気持ち悪がっていた。 再放送のドラマに夢中な神楽ちゃんは、銀ちゃんの話なんて聞いてすらいない。 そんな二人に挟まれて座っていたあたしだけが、あの時の銀ちゃんを意外に思っていたんだろう。 読んでいたジャンプを枕にして銀ちゃんが昼寝を始めてしまうと、自然と話題は他の話に移っていって、 あたしだけがソファによだれを垂らして眠っている銀ちゃんを気にして、そわそわしていた。

「他の男にしとけ」と、面と向かって言われたのはショックだった。 でも驚いた。すごく意外だった。 歌といえばCMソングを口ずさむだけの銀ちゃんが、女の子の可愛い夢がたくさん詰まった、 砂糖菓子みたいに甘い歌を知っていたのも意外だったけれど。それよりもっと意外だったのは、 あのしまらないお説教が、あたしに銀ちゃんの本音を教えてくれたことだった。

銀ちゃんはあたしに、他の男の人を探せと言った。自分のことはやめておけって言った。なのに、手近な男じゃ駄目だと牽制もする。 あたしはその言葉に、今までに感じていたのとは違う銀ちゃんの匂いを感じてしまった。 もしかしたら、銀ちゃんはあたしを二つの見方で眺めているのかもしれない。 あたしを恋愛対象外にしておきたい保護者としての目と、あたしを他のひとに渡したくない男のひととしての目。 そんな矛盾に、銀ちゃんは気づいているんだろうか。

今はまだ相手にもしてもらえないけれど。あたしにだって、少しは望みがあるのかもしれない。 どうしても銀ちゃんを諦めたくなかったあたしは、自分とひとつ賭けをすることに決めた。 今まで断り続けていた先輩のお誘いに、乗ってみることにしたのだ。


ねえ。銀ちゃんはどう思うの。あたしが他の男の人と歩いていても、平気なの。
ごくん、と目を見張りながら息を呑む。自分の喉で鳴った小さな音なのに、不自然に響いて聞こえた。 銀ちゃんは何も言わなかった。それはほんの数秒程度の、ごく短い時間だったのかもしれない。 けれど心臓をひどく高鳴らせたあたしには、周りの景色がまるでぐにゃりと水に流れた絵の具のように歪んだ、 コマ送りのスローモーションで出来た時間のように長く感じた。


「良かったじゃねーか。身近なところに掘り出し物の王子がいてよー」

ふーん、とあまり興味もなさそうな様子でつぶやいて、銀ちゃんは近くのビルの屋上あたりを見上げた。 着物の懐に片腕を突っ込んで、ボリボリと頭の後ろを掻いている。 オレンジの電飾看板が光るビルの天辺に逸らしたままの、気まずそうな横顔。その顔を見ていたら、目の前が突然、真っ暗になった。

鮮やかに輝く夜の街から、一瞬、全部の灯りが消えた。
本当に消えたんじゃない。色とりどりに光る看板の電飾は消え始めたけれど、どの店もまだ窓から淡い色の灯りが漏れている。 けれど、あたしの目は一瞬、きらきらと映るたくさんの明りが、すべて消えたような錯覚を起こしていた。 まるで真っ暗な中に、たった一人で落とされたみたいに。 あまりに真っ暗で、隣の先輩の気配まで忘れそうになった。


銀ちゃんはただ目を逸らしただけ。
あたしだって、目を逸らされただけ。

その程度のことなのに、受けたダメージはその程度じゃない。 あたしじゃ駄目だとはっきり言われたみたいで。手酷く突き放されたみたいで、泣きたくなる。


「それじゃ、僕たちはこれで。」

先輩がよそよそしく切り出したとき、肩に何かを感じた。見下ろすと手が置かれている。 ふざけて組んでいた腕が解けて、いつのまにか肩に伸ばされている。

「行こうか。さん」

すこし強引にあたしを押して、先輩は歩き出す。
すれ違うときに銀ちゃんと目が合った。あたしは口を開いたら泣きそうで何も言えなかったし、銀ちゃんもあっけにとられていた。 向っているのは、さっきまで行こうとしていた方向とは逆。駅に戻るには逆の方向だ。
このまままっすぐ歩いていけば、この界隈のもうひとつのメインストリートに出ることになる。 そこは、電飾の看板のピンク色がやけに目につく通り。 腕をねっとり絡めたカップルや、何か人目を気にして憚っていそうな気配の男のひとと女のひとが、並ぶ建物の中にすいすいと消えていく街。 朝まで灯りが消えることがない、もうひとつの大人の街だ。


やだ。飲みすぎたんじゃないですか、先輩。駅はそっちじゃないですよ。
普段の軽口と同じように言おうとして、先輩を見上げる。
顔を見て、言うのをやめた。とても言えるような雰囲気じゃない。 普段は穏やかな先輩の顔が、今までに見たことのない、切羽詰まった表情になっている。ぎらついた目が怖かった。

「先輩。もう終電なくなっちゃいますよ。ねえ、駅に戻りましょう」

頬を引きつらせながら笑いかけたら、ぐいぐいと押していた手が肩を抱いた。 肩をがっちり掴む指の感触が、あたしはなんだか怖くなってきた。 先輩の足はどんどん速くなる。押されるたびに、お酒で覚束なくなった足元が横へふらつく。


違うんです。そうじゃなくて。
あたし、そういうつもりで来たんじゃないんです。
言い訳にもならない拒絶の言葉を、頭の中でめまぐるしく繰り返しながら思う。
なんて空々しいんだろう。そういうつもり、ってどういうつもりだろう。
だって、そういうつもりでなかったら、あたしは何をするつもりだったんだろう。
わざわざかぶき町を選んで、何も知らない先輩を連れて来て。 灯りの消えかけた夜の街で、自分から腕なんか組んで。


まだ後ろにいるのかな。
もう他のお店に向かっているんだろうか、銀ちゃんは。
振り向いて確かめたくても、わからない。肩に回した手に引き止められて動けなかった。
それとも。まだあの店の前に立って、あたしと先輩がピンクの看板通りに向うところを眺めているんだろうか。

全部が全部、自業自得。だけど。見られたくなかった、こんな姿。
酔っ払って、男の人に押されっ放しで。あの通りにふらふらと連れ込まれそうになっている。
きっと誤解された。誰にでもついていく、だらしない子だと思われたはず。 その軽蔑がこもった顔を思い浮かべたら、涙がじわっと滲んでくる。


ああ。バカみたい。泣きたくなったってだめだ。
これは罰だ。きっとバチが当たったんだ。
振り向いてくれないあのひとの気持ちを、試してみたいなんて思ったから。



「悪いねぇ。お兄さん」

気の抜けたその声に驚いて、あたしは顔を上げた。けれど、何も見えなかった。 目線の先に、先輩じゃない誰かの手が割って入ってきたからだ。 その手を唖然と見つめている間に、あたしは肩を押されて先輩から引き離された。

「いやいやほんっとにすんません、いやもうマジで、っとに悪りィんだけど。連れて帰らせてもらうわ、そいつ」

白い着物の背中を呆然と見上げる。
目の前にふらりと立ち塞がった、猫背気味な背中。銀ちゃんの背中があたしを先輩から隠して、庇ってくれている。
「連れて帰る」と言い切ったその背中を、息を詰めて見上げているうちに、 あたしの手は、自然と銀ちゃんの背中へ向かって伸びていた。もう少しで触れる、というところで「ちゃん」と小声で呼ばれた。
我に返って隣を見ると。空気の悪さに苦笑している、長谷川さんが立っていた。

「・・・・いや、連れて帰るって。何なんですかあんた。さんとはどういう」
「いやいやいや、まァまァまァ。どーいうもこーいうも、俺ァただの知り合いですけどねェ」
「だったらあんたには関係ないでしょう。どうぞお引き取りください。これは僕と彼女のことであって、あんたが口を挟むような話じゃない」
「はいはい、いやもォ仰る通り。俺もねえ、同じ男として気持ちはわかりますよ気持ちは。 でもねえ、嫌がる女を力ずくでお持ち帰りしちまう王子っつーのはねェ。同じ男としてどーかと思うよ、お兄さん」

下手に出ているのか、それともはるか頭上で構えているのか、よくわからない口ぶりで先輩を宥めながら 、後ろで立ち竦んだあたしに合図する。背中に回した手の先をひょい、と振った。 行け、と言われているのはわかった。でも、足が竦んで動かない。 すると銀ちゃんは何を思ったのか突然上を見上げ、空に向かって大声で怒鳴り始めた。

「いやいやそれはヤバいって、無理矢理ラブホ連れ込んでやっちまったらさー、強姦でしょお兄さ―――ん!! お兄さんはエリートみてーだから知らないかもしんねーけどォ、 女の噂話包囲網ってーのはヤクの密売ルート以上に恐ろしいよ!? ここで下手にに手ェ出したらよー、明日の朝にはお兄さん、もォ上司に辞表書かされてるからね!? あーあァ、いーのかねェ一回のエッチで人生棒に振っちゃって! 会社での立場もこの先のキャリアアップもよー、一晩で台無しだよ? 明日っからこのグラサンオヤジみてーな冴えねーマダ男人生が待ってんだよ、お兄さ―――ん!?あんたそれでいーのォ!!?」

街中に響きそうな大声で、道行くカップルたちが振り返る。 わざとらしいくらいにうるさかった銀ちゃんの声を、不審者が騒いでいるとでも思ったんだろう。 通り沿いの建物からは、ホテルの従業員らしいおばさんやおじさんまで顔を出した。 急に増えた人目を気にして先輩の顔が強張り出すと、銀ちゃんはすかさず長谷川さんの背中をぱん、と張り飛ばして押しつける。 ほろ酔い状態で顔が赤いおじさんをいきなり押しつけられた先輩があっけにとられているうちに、

「つーことで、あんたには代わりにこのおっさんを預けとくから。 そこのラブホで脱がせるも裸踊りさせるも、好きなよーに一晩遊んじゃっていーから。んじゃ、よろしくー」

ええっ、そりゃねーよ、と呻いた長谷川さんにニヤニヤ笑いながら手を振ると、あたしの腕を掴んで引いた。 勝手に歩き出した足が向っているのは、ピンクの看板通りじゃない。 あたしの家に向かう方向でもない。
万事屋へ向かう方向だ、と気づいた時には、銀ちゃんはあたしを地面に引きずる勢いで走り始めていた。 驚いて見上げると、銀ちゃんの横顔が目を剥いている。なぜかさっきの先輩以上に切羽詰まっているというか、歯を食いしばり気味に焦っている。

「ぎ、銀ちゃん!?」
「銀ちゃんじゃねーよ遅っせーよ!バっっっカお前っ、走れって、早く!」

えっ、どうして、とあたしが訊き返した時、鋭く飛んできた何かが銀ちゃんの後頭部を直撃した。 うおっ、と呻いた銀ちゃんが前のめりに、頭から地面にスライディング。倒れてそのまま動かない。 銀ちゃん、と呼びかけても返事がない。何が起きたのかもわからないし、どうしたらいいのかもわからない。 一瞬でいろんなことが起こりすぎて、頭がパニックに陥りそうだ。
おろおろと下を見ると、倒れた銀ちゃんの近くには、どこかで見たような黒いカーボン製のブリーフケースが落ちている。 見たことがあるはずだ。あれは先輩のブリーフケースだもの。それに気づいた衝撃ではっとして、背後を振り返る。 怒った先輩が見たこともない怖い顔で、止めようとする長谷川さんを振り払いながらこっちへと近づいていた。
あの先輩が、銀ちゃんに向ってこれを投げつけたんだ。
あのいつも穏やかな、優しいはずの先輩が。

男のひとって、見た目じゃほんとにわからない。
先輩の豹変ぶりに絶句しながらふらふらと、倒れた銀ちゃんの傍にへたり込む。 すると、気絶したはずの銀ちゃんは突然、ガバッと起き上がった。

「やっべーよ。マジ怒ってんじゃねーかよあの野郎。逃げるぞ!!」
「にっ、逃げ……!?で、でもっ、なにも逃げなくても、落ち着いて冷静に話し合うとか、もっと平和に」
「イヤそれありえねーから!ラブホ直前で女に逃げられた酔っ払い相手に、話し合いとかねーからァァ!!」

でも、と言い返そうとした瞬間、足が、次いで身体全体が浮いた。身体が地面から離れた。 うそ。あたしの身体、片腕に抱えられて担がれてる。 驚きすぎて声も出なくて、軽々とあたしを担いで走る人に目を見開いて訴えた。

だから走れっつったじゃねーかよォ。
後ろ頭を痛そうに抑えた銀ちゃんが、呻きながら言った。





「あーあァ。何なのお前。何やってんだよ。っとによー。困った姉ちゃんだよなァ・・・・・」

ゼェゼェと息を切らした銀ちゃんがあたしを担ぎ込んだのは、飲み屋が立ち並ぶ通りから離れた場所。 昼間に営業している商店街の、お店とお店の間に通っている細い路地だった。 どのお店もしんとしていて、中も暗い。夜は無人になっているみたいだ。 どこからも灯りが射さないから、路地の奥で息をひそめているだけで見つかる心配はなかった。 怒り心頭な先輩がまっしぐらに大通りを駆け抜けていくのを見送って、あたしはやっと安心して溜息をついた。 背中にあたしを隠した銀ちゃんに、泣きそうになりながら頭を下げる。

「・・・・銀ちゃあぁぁん。ごめんなさぁぁい・・・!!」
「ごめんじゃねーよ。ごめんで済めば警察も風俗もいらねーんだよ。男の怖さもろくに知らねーくせに、思わせぶりに刺激してんじゃねーよ。 お前が腕なんか組んでやるから、お持ち帰りされそーになんだろォ?」

こっちを指して早口にまくしたてる顔は『根性で王子様を待て』と言い含めたときにも劣らない、見慣れない真剣な表情だ。 だけどその後に続いたお説教はといえば。・・・銀ちゃんらしいというべきか、やっぱりどこかしまらなかった。

「連れ込まれてからじゃ間に合わねーんだからな。その気になって連れ込んでみりゃあ、ごめんなさいってよー。 んなもん、あの野郎じゃなくたってやってらんねーよ。パンツ下げた情けねー姿で女にごめんなさいされてみろって。 下がったパンツだって立場ねーよ。どーしろってんだよ引っこみつかねーよ?つーかパンツはまだいいよ、パンツはよ。 一度フルスロットルにされてんのに財布もプライドもズタボロじゃ、パンツの中身が逆噴射だっつーっの」

明日会ったら謝っとけよ、先輩に。
珍しく厳しい口調で叱られて、あたしは「うん」と萎れて頷き返した。

「ああ、それとよー。あのおっさんにもな、そのうちなんか奢ってやって」

そう付け足した顔は可笑しそうだった。飲み仲間のあわてた姿を思い出したのかもしれない。 けれどあたしは、先輩や長谷川さんの姿を思い出したら申し訳なくて、何も言えなくなった。ただ何度も、深く頷き返した。

頷いているうちに、かちっ、と歯が噛み合って鳴った。 それを合図に、カチカチと歯が震え始める。そのうち手まで勝手に震え出した。どっちの震えも小刻みになって、早くなっていく。 逃げている間は夢中で、たぶん震える余裕もなかったんだと思う。 余裕が戻った今頃になって、さっき先輩に感じていた怖さが身体に戻ってきた。

震えをどうしたらいいのかわからなくて、あたしは黙って手を見下ろしていた。 その時、、と呼ばれた。思わず顔を上げた。今までに聴いた覚えがない柔らかさで、銀ちゃんがあたしを呼んだからだ。

「お前さァ。覚えてるか。辛抱強く待ってりゃあ、理想の王子に出会うはずだっつった、あれ」
「・・・?うん。覚えてるよ。そういう暗記は得意なの」

目を細めて苦笑いしている銀ちゃんをじっと見つめていたら、不思議なことが起きた。震えがなぜか少しずつ引いていく。 銀ちゃんの声で怖さを忘れかけていたのかもしれない。

「覚えてるよ、銀ちゃんの言ったことなら。どうでもいいことも、全部」

笑って返したつもりだった。でも、まだ笑うには少し無理があったみたいで、笑顔がどうしても引きつってしまう。 あたしがまっすぐに目を見ると、銀ちゃんはするりと視線を逸らす。そこはいつもの銀ちゃんだ。 でも、何かおかしい。どうしてだろう。いつもと何かが違っている気がするけれど。 どこが違うのか、わからない。

何が違うのかが気になって、あたしは普段以上の熱心さで銀ちゃんをまじまじと見つめた。 すると、ぽん、と頭を叩かれて「あのさ。今はやめといてくれる、それ」と断られた。 うん、ごめんね、と頷くと、もう一度頭に手を置かれた。その二回目の「ぽん」で、ああ、と気づいた。

距離が近いんだ。いつも銀ちゃんといるときは、距離が測ったみたいにぴったりと一定に置かれていた。 今は手を伸ばせば触れられる。万事屋には通い詰めているけど、あたしがスキを見て抱きついた時以外に、 こんなに近づいていられることなんてなかった。
そうだ。何よりもおかしいのは、銀ちゃんの手。
銀ちゃんがあたしに、自分から触るなんて―――


慣れない距離感に戸惑って、置かれた手の大きさに戸惑って。 そういえば、触るどころか銀ちゃんに抱き上げられたんだ、と改めて驚く。 やめといてくれる、と断られたのと同じ目で、また銀ちゃんを見上げたら。見えなくなった。 路地奥で最初から暗かった視界が、目を瞑ったのと同じくらい真っ暗になる。 同時に、顔に何かがぶつかって、背中がふわっと温かくなった。

身体が包まれている。足が浮きそうになった。 誰かのひきしまった腕が、あたしの腰のあたりを持ち上げてしまうくらいに強く抱いている。 この温かさが銀ちゃんなんだと判るまでに、何秒経っていたんだろう。 初めて知る暗闇の中は、あたしじゃない誰かの匂いがした。なのによく知っている気がした。なぜか懐かしかったから。


「悪りーんだけどさあ。あれなァ。やっぱダメだわ。間違ってたわ俺。 どんだけ待ったってよー、来ねーヤツの前には一生来ねーんだわ、白馬に乗った王子様は」

そこまで言うと、長くて深い深呼吸をした。 顔をくっつけた銀ちゃんの胸の動きまでわかって、心臓の鼓動まで聞こえそうで。急に恥ずかしくなってくる。 あたしはどきどきしながら、銀ちゃんの着物の衿をそっと掴んだ。

「・・・・・・うん」
「考えてみりゃーよー。出会いがどこにもねーんだよなァ。 休みのたびに俺ん家に入り浸ってるお前が、この先王子に見染められるチャンスなんてあると思うか?」
「・・・ない、かも」
「そォそォ。王子だって嫁探しに忙しいんだよ。そうそう簡単に誰の前にでも現れちゃくれねーよ。だからよー。もう王子のことは諦めてくんね?」

銀ちゃんの顔が近づいてきて、身体がびくっと震えた。心臓が破れるのかと思うくらい強く鳴る。 戸惑いながら目を閉じると、おでこに指が触れた。あたしの前髪をその指が掻き分けて、温かい何かが掠めていった。

「今までずっと見てきたけどなァ。俺以上にお前を大事にしそうな男なんて、この先もぜってー現れそうにねーし」

小声で囁くと、腰を抱いていた腕が離れていく。なんだかばつの悪そうな笑いを浮かべた銀ちゃんは、 腰のあたりをボリボリと掻きながら「行くか」とだけ言って、あたしに背を向けた。

今のって。どういう意味なの。もっとはっきり言って欲しい。
期待が破裂しそうな風船みたいに膨らんでいくのが、怖くて。でも、今の言葉の先にある答えを、早く知りたくて。 路地の出口に向かう銀ちゃんの背中を追いかける。胸が一杯で、言葉が出ない。泣きそうになるくらい嬉しいのに、涙も出ない。 追いかけても、足が地面をしっかり踏んでいる気がしない。ひらりと揺れた着物の袖を掴んで、引き止めた。

「ねえ。銀ちゃん。どこに行くの」

あたしは手探りするような覚束ない声で、問いかけた。 返事の代わりに銀ちゃんが、黙って手を差し出してくる。狭い路地中で隣に並んで、指を絡ませて、しっかり繋いで。 受け容れてもらえた実感が、初めて手から伝って身体に広がった。銀ちゃんは、あたしを選んでくれたんだ。

嘘みたい。先輩の手に怯えて泣きたくなったのは、ついさっきのことなのに。今のあたしは銀ちゃんと手を繋いでる。 肩を掴んだ先輩の手は、鳥肌が立ちそうなくらい怖かったのに。 どんなに強く引っ張られても、どこへ連れて行かれるのかわからなくても。銀ちゃんの手なら、あたしは何をされても怖くない。

ねえ。銀ちゃん。あたしはやっぱり、銀ちゃんがいい。
他のひとじゃ嫌なの。白馬を駆るかっこいい王子様なんて、一生現れてくれなくていいよ。
握った手に空いていた手も添えて、両手で包んだ。目を閉じて、もう一度。心の中でつぶやいて、願いをかける。

「なに、。この時間にどっか行きたいとこでもあんの」
「ううん。・・・・・でも、銀ちゃんとなら。どこだっていいよ。 あのね。もし、銀ちゃんが行きたいなら、・・・・・・・ピンクの看板の、お店っていうか・・・・あの。・・・でも。」

あたし、一度も入ったこと、ないんだけど。
うつむいて着物の衿元を弄りながら、小声で打ち明けた。目を開けて見上げると、はっ、と銀ちゃんは短く笑った。

「・・・あーあァ。っとによー。困った姉ちゃんだよなァ」

あたしの目線にためらいながら、銀ちゃんが中腰に屈んで近づいてくる。目を閉じた瞬間に、暖かい感触が軽く唇に触れた。
それからすぐに、もう一度。今度はゆっくりと、長かった。確かめるように触れていた。

「どこにも行かねーよ。連れて帰るんだよ」

大喰らいのガキとデカい犬が寝てる、きったねー城に。
顔を離してつぶやいた銀ちゃんは、押し殺したような息遣いで静けさを濁した。
少しかすれた、苦笑いが混ざっていた。
あたしを覗き込む表情は、いつものように眠たげで、気だるそうな笑顔。
なのに目だけがいつもと違う。
まっすぐにじっとあたしを捉えて、離さなかった。


嬉しくなって腕を伸ばして、ぎゅっとしがみつく。
ぽん、ぽん、とゆっくり背中を叩いてから、銀ちゃんの腕はあたしの肩をしっかり包み込んだ。

「ぁんだよこれ。ぎゅーしたら潰れんだろ、んなちっせー肩ァ・・・」

と、困ったようにぼそぼそと漏らしていた。
あたしも広い背中にぎこちなく腕を回しながら、思った。
おとぎ話のお姫様なら、こんなときには王子様に何て言うんだろう。
しばらく思い巡らせてみたけれど、わからなかった。 小さい頃に読んだおとぎ話のほとんどは、どのお話も決まって同じ一行で物語の幕が閉じられていたから。

『こうして二人は いつまでも幸せに暮らしました』

そうじゃなくて。
今のあたしが知りたいのは、気の遠くなりそうに長い先の大ハッピーエンドじゃなくて、 その最後の一行に辿り着く、ずっとずっと手前の幸せ。 ほんの一瞬のちいさくてきらきら弾むような幸せ。
この腕の中にいられる嬉しさを、銀ちゃんにどう伝えたらいいのかを知りたいんだけど。



手を引かれながら裏路地を抜ける。
ほんのり赤い外灯の光や、閉店した店内から窓を透して零れる灯りを浴びて、銀ちゃんの背中がくっきりと見えた。 どうしてさっきまでとは違うひとのように眩しく見えるんだろうと思いながら、つい目を奪われて。
ねえ、銀ちゃん、と呼びかける。

「他の男に大事にしてもらえ」なんて、もう言わないで。 銀ちゃんがあたしを大事にしてよ。
代わりに、あたしが銀ちゃんを大事にしてあげるから。




さあ、取り引きを始めようか

*title : * さかたん09 *
*text by riliri Caramelization 2009/10/10/
さかたん様提出物 ありがとうございました!