「・・・・・・・・・ぉ。おーーーい。ー。ちゃーーーん。き。聞いてる?聞こえてる?」
つん、つん、つん、つんつん、つん。
後ろから呼びかけてくるキョドりまくった情けない声は聞こえないふりでさっくり無視して、目の前の水溜まりに落ちた大きな布を、つんつん、つん。
指先でつつきまくってから、頭が地面につきそうなくらいうなだれた。
澄んだ空色と朝の光をきらきら反射させてる小さな水面に映ってるのは、浮かない顔で水面を覗き込んでるあたしと、その真後ろにべったりくっついて気まずそうに顔を引きつらせてる銀ちゃんの姿。
そんなあたしたちから少し離れたところを、バットグやローブ、スポーツバッグなんかを抱えたユニフォーム姿の男の子たちが元気いっぱいに駆けていく。
その反対方向からやって来たのは、瞳が青くて顔立ちが綺麗な白い猫。
細くてうねったこの道のあちこちに出来た水溜まりを器用にすいすい避けながら、顎を逸らした優美なキャットウォークで通り過ぎていった。
白猫に続いてやって来たのは、ラップっぽい曲を口ずさんでるバイク便のお兄さん。
こっちへ近づく前に「すんませーん後ろ通りまーす」ってクラクションを軽く鳴らして、赤や黄色の枯葉がいっぱい浮いた大きな水溜まりからぱしゃああっと飛沫を跳ね上げていく。
うーん、なんだか意外かも。
この光景、とても昨日の夜に見た場所と同じ所とは思えないよ。
続々と通り過ぎていく人たちや、昨日銀ちゃんに押しつけられて痛い思いをした塀の上からひょこんと頭を出してる楓の木なんかをきょろきょろ眺めながらあたしは目を丸くした。
朝と夜じゃまるで違う顔を持ってるこの場所は、昨日の夜にも銀ちゃんに連れられて入ったあの狭い路地。
そう、記憶も生々しいあの場所だ。
今思い出しても頭が破裂しそうになることばかり起こった問題の場所だから、当分近づかないつもりでいたけど――ほんの十数分前、日曜日の朝のささやかな贅沢「二度寝」からうとうと目覚めたところでそうも言っていられないことに気づいて、あたしはがばっと飛び起きた。
探しに来たのは、昨日の夜からここへ放置したままになってた物だ。
突然ぶち切れた銀ちゃんが勝手に解いて勝手にぽいっと放り捨ててしまった、あたしのふわふわ水色ストール。
それであわてて着物を着替えて、寝惚けてむにゃむにゃ言いながら抱きついてそのまま布団に押し倒して着物の裾から手を入れてくる油断も隙もない変態を往復ビンタで強制的に起こして、まぶしい朝の陽射しを浴びても瞼と瞼が腫れぼったくくっついたままのお寝坊さんを無理やり引っ張って来てみたんだけど・・・・・・、
・・・・・・駄目だった。もう完全に手遅れだ。
ぬくぬくあったかい銀ちゃんとぬくぬくあったかいおふとんに包まれてぐっすりすやすや熟睡してた間に、かぶき町には雨が降っていたみたいで。
あわてて玄関から出てみれば、雲一つない秋晴れの空には虹が七色の弧を描いてて。
昨日も通った商店街は道がどこも水溜まりだらけで――
「・・・・・・あーあー・・・もう捨てるしかないよねこれじゃあ・・・」
がっかりしながら視線を落とした水溜まりには、急いで探しに来た忘れ物が。
さわやかなアイスブルーの長ーいニットは、泥混じりの灰色、っていう変わり果てた色合いになって持ち主の救助を待っていた。
ああ、なんてかわいそうなあたしのストール。
憐れなニットを水溜まりから摘まみ上げてみれば、へなりと萎れきった端からぱしゃぱしゃと泥水の雨だれが。
あちこち擦り切れちゃってるし、これじゃあ雑巾以外の使い道がなさそう。
残念に思いながら立ち上がって、ぐっしょり濡れて重くなったストールをぶらぶら揺らして水気を切る。
わざと大きく揺らして水飛沫を飛ばせば銀ちゃんもあわてて後ろへ飛び退いて、そしたらまるで最後のおまけみたいに、布と布の間に挟まってた真っ赤な落葉がぽとりと空色の水面に落ちた。
「〜〜っっあのぉ〜〜、ー?ちゃーん?」
「なに」
「ももももしかしてひょっとしてぇ・・・・・・・・・・・・お。怒ってる?」
「怒ってないよ。怒ってないけど、もちろん弁償してくれるよね」
銀ちゃんが解いて捨てたんだから。
ぼそりと皮肉っぽく付け足したら、がさごそ、がさごそ。
銀ちゃんがあたふたと懐を探ってお財布を出す。
千円札が3枚だけ、っていういい年こいたおっさんにしては少なめな全財産とあたしを何度も見比べながら、
「ぃ、一応参考に聞いとくけどぉー、いくらで買ったのこれ。
まさかブランドもんだったりすんの!?」
「うん。去年のバーゲンでたしか1万8千円」
「いちま!?はっっっっっっっっっっ!?」
「うそ。もっと安かったよ、6千円」
「あぁ!?〜〜っだよ驚かせんなよ6千え・・・っって安くねーじゃん高けーじゃん!!」
「デパートのバーゲンだもん、6千円でも安いほうだよ」
万事屋から持ってきた大江戸マートの袋にストールを押し込みながら答えたら、後ろにいるでっかい図体がじりじりっと後退しようとしてる気配が。
もう、ほんとに往生際が悪いんだから。
ほっぺたをぷうっと膨らませながら、銀ちゃんの首元を覆った赤いマフラーの端っこを掴む。
「ちょっと、なんで逃げよーとしてんの」すかさず引っ張って睨んだら、肩を竦めて退散しようとしてた猫背気味な背中が途端にぎくっと固まった。
「ごはん食べたら行こうね、駅の向こうのデパート」
「〜〜ぃ、いやあれだわ今日はちょっと」
「ふーん、この前みたいに3日連続でパチンコ行くお金は出せてもあたしのストール代は出せないんだ。
あーそういえば下着も破れちゃったよねあれ気に入ってたのに」
「うそうそうそうそ冗談だって!!うんうんデパートな飯食ったらな!!!」
任せとけって、マフラーもぱんつもいくらでも買ってやるって!
焦りすぎて裏返ってる甲高い声でそう叫んだ顔ときたら、おでこにもこめかみにもだらだら汗が流れまくりだ。
ああ、銀ちゃんたら本気でおびえてる。
かぁっと見開いた目許がおもしろいくらいに痙攣してるあの表情、この前銀ちゃんがお金もないのに長谷川さんと3日連続でパチンコ屋に通い詰めて大損した時に「次にこんなことしたら今度こそ別れるからね!」って大剣幕で宣言したら(その時たまたま銀ちゃんと一緒にいただけで別に叱ったつもりはない長谷川さんまでなぜか一緒に青ざめて)土下座しそーな勢いで謝ってあたふた言い訳し始めた、あのときと同じ顔だから間違いないよ。
後ろからそろーーーっと、おそるおそる、腫れものに触るみたいに、銀ちゃんが肩に腕を乗せてくる。
わざと表情も目線も醒めきった仏頂面を作って振り向いてみれば、こっちをこわごわと覗き込んでた汗だくの表情は、ひくっっ、って激しく引きつった。
無表情で黙りこくってるあたしの冷たい視線の圧力に怯えてるみたい。そういえば、肩口を掴んでる手つきも心なしか硬い気がするし。
「なにこの手。重いんだけど」
「〜〜〜〜や、ほらっああああぁあれな、あれだわあれっ、こーいう時はほらあれがあれであれになってあのあれ」
「あればっかで意味わかんないんだけど。銀ちゃん何が言いたいの」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・こ」
ぎこちなく一言漏らしただけで、銀ちゃんは深くうつむいた。
天辺で寝癖がふわふわしてる白っぽい頭をがしがしがしがし引っ掻き回しながら、
「こ。ここここ、今度こそ別れてやるとか、思ってる。ぱんつ一枚買ってくんねー金欠のマダオとは付き合ってらんねーとか思ってる!?」
「ああ、それもいいかもね」
「えっっっ」
「そーだね、この際きっぱり別れようかな。今なら告白してくれそうな人もいるし。
ぱんつ一枚買ってくれない金欠のマダオじゃなさそうだし」
「・・・・・・」
「銀ちゃんなんで涙目になってんの」
意地悪っぽくにやにや笑って見上げたら、銀ちゃんがぷいっとそっぽを向く。
眉がへなぁっと情けなく下がってじわじわ潤んできた目許を腕でごしごしごしごし擦って、かと思えば拗ねたよーな涙目でこっちを睨んで、
「うっせーな泣いてねーよ、泣いてねーけどちゃんっっ金入ったらぱんつ100枚買ってやっからお願い考え直してええぇぇぇぇ!!!」
「大声でぱんつぱんつ叫ぶな、恥ずかしい」
素っ気なく言って、ぺちっ。
肩を掴んだ手を払ったら、今にも泣きそうなくらいダメージを受けてた彼氏はもっとショックを受けたみたいだ。
よろよろよろ、よろっ。
大袈裟でわざとらしい悲壮感を全身から漂わせながら後ろへよたよた下がっていって、側に立ってた電柱の影まで回り込む。
絶望しちゃって立ち直れません打ちひしがれてますもう死にそうです、ってかんじの青ざめた顔を電柱の影から半分出して、わなわなわなわな震えながら、
「〜〜〜〜〜〜・・・ぉ、おおおお。おこってる?やっぱ昨日のあれ、怒ってんの?」
「またそれ?もう、怒ってないっていってるでしょ」
「〜〜ぃいいいやいや怒るよなそりゃあ怒るよなつーかあれなの、ぁ、呆れてる?呆れられてんの俺?
〜〜だ、だだ、だだっっだよなー!道端で無理やりアレをアレして最後にアレまでやっちまうとかやりたい放題だったもんななのにぱんつ一枚買うのも渋る貧乏人だもんなそりゃー呆れるよなっっ呆れて物も言いたくねー今度こそ別れてやる、みてーな!?捨てられる?とうとう捨てられちまうの俺!!?
昨日破ったピンクに白レースの新品ぱんつみてーに台所の生ゴミと一緒にポイされちまうの!?」
「だから怒ってないってば!てゆーかこんなとこで人のパンツの色を言いふらすなっっ」
どーしてくれるのご近所に丸聞こえじゃんどのご家庭でも朝食食べてるようなこの時間帯に!
あたふた周囲を見回しながらちょっときつめに叱ったら、まるで夏場のセミみたいに電柱にひしっとしがみついた彼氏はがくんとうなだれて動かなくなった。
・・・・・・あああああああああ、めんどくさい。
普段は見てるこっちが引いちゃうくらい図太くてあつかましいくせに、一度弱気になった銀ちゃんてとことんヘコみまくるんだよね。
電柱と一体化して置き物みたいにまんじりともせずに落ち込んでる(でも一分間に一回くらい、すごく構ってほしそーにちらちら視線を送ってくるのがうざい)彼氏をじとーっと呆れきった目で眺めながら、あたしは仕方なく踏み出した。
「いつまでそこにいる気。帰ろーよ」
「・・・」
「神楽ちゃんそろそろ起きる頃だよ。早く帰らないと炊飯器の炊きたてごはん全部食べられちゃうよ、いーの」
横からくいくい腕を引っ張りながら、銀ちゃんの顔を覗き込む。
だけどすぐにぷいっとそっぽを向かれて、電柱に顔を埋めて拒否された。
ああもうほんとにめんどくさい。なんなのこのマダオ、次に拒否られたら股間蹴って置き去りにしようかな。
銀ちゃーん、ってあたしの倍の太さはある硬い腕を引っ張ったら、ちろ、って視線だけを上げた顔が恨めしそうにこっちの様子を窺って、すぐにぷいっと顔を背ける。
何度か同じことをしてみれば、何度も同じ反応が続く。うーん・・・これって何かに似てるような。
そうそうあれだ、思い出した。
子供の頃に飼ってた犬だ。あの子を散歩に連れていったときも似たようなことがあったよね。
今のあたしってヘコんだ彼氏を宥める彼女っていうより、お散歩の途中で機嫌を損ねて動かなくなった犬を宥めすかしてる飼い主みたい。
「銀ちゃーん」
「・・・」
「ねぇ、まだ信じてくれないの」
「・・・・・・んだよ。まだって、何が」
さっきまでとは反対の左の腕に抱きついてぐいぐい引っ張って尋ねたら、やっぱり顔を逸らされた。
しばらく経って返ってきたのは、明らかに不貞腐れてるかんじの、ごにょごにょもごもごした暗ーーい声だ。
「昨日も言ったでしょ。
あたしは銀ちゃんがいいの。金欠のマダオでも困らされても呆れても、他の人じゃなくて銀ちゃんがいいの」
「・・・・・・いやそれおかしーだろ。誰がどう見ても俺よりあの男だろ。
お前だって言ってただろぉ、告ってくれそーな奴もいるし、って」
「あんなの冗談に決まってるでしょ、・・・ってねぇ、聞いてる」
笑い混じりに話しかけても、銀ちゃんはこっちを見てくれない。ねぇ、って袖を引いても反応がない。
ゆうべの銀ちゃんと同じ態度だ。いくら話しかけても、素っ気なく顔を逸らしたまま。
少し先のお家の高い塀のほうまで背けた目許は、陽射しが当たってきらきらまぶしい前髪に隠れてよく見えない。
そんな銀ちゃんを見ていたら、なぜか昨日の桂さんの言葉が浮かんできた。
『――そなたの前ではどうか知らんが、俺が見てきたあいつは存外に臆病なところがあってな』
『その臆病さゆえか、大切に思う者への執着も強い。だから殿、こんな時は用心することだ――』
そう言われたときは不思議だったし、ちっとも意味がわからなかった。
臆病になってる銀ちゃんなんて、あたしは知らない。
そんなふうに感じたことがない。一度だって見たことがなかった。でも。
――昨日の夜、この場所で見た銀ちゃんが、もしかしたらそうだったのかもしれない。
誰か他の人みたいな表情で笑う銀ちゃん。
ちっとも気にしてないような態度の裏で、あの人とあたしの仲を疑ってた銀ちゃん。
そうじゃない、違う、って何度言っても、ちっとも信じてくれなくて、あたしが自分のものだってことを今すぐ確かめさせろって、じゃないと気が済まないって。
そう言って全部、自分がしたいようにしちゃったくせに――
――なにそれ。意味わかんないよ。
あんなことまでさせたくせに、銀ちゃんはまだ確かめられた気がしてないんだ。まだ信じてくれてなくて、まだ臆病なままなんだ。
だからまた、こうやって確かめようとしてる。
あたしが誰のものなのかを。あたしの気持ちが、本当は誰のほうへ向いてるのかを――
「・・・・・・なにそれ。ばっかじゃないの・・・」
絞り出すようにそうつぶやいて、はーっ、って溜め息を吐き出した。
昨日と似たようなもどかしい気持ちが胸の中にどんどん膨らんできて、息が詰まりそうになってたから。
すぅ、って小さく深呼吸して、銀ちゃんの腕に縋りついてた手を伸ばす。
ふわふわした癖っ毛に半分隠れた耳たぶを、ぐいっっ、て悔しまぎれにうんと強く引っ張る。
いてっ、って呻いた銀ちゃんが姿勢を前屈みに崩したところへ思いきり背伸びして近づいて、
――ちゅ。
顎を逸らして上を向けば、陽を浴びて白銀に光る髪にあたしの唇は一瞬だけ触れた。
っっ、って喉の奥で息を詰めたような音を漏らしてぱちりと瞬きした横顔が、表情をかちんと固まらせてる――
「銀ちゃんの、ばかっっ。昨日のこともう忘れちゃったの。あれで、ゎ、わかるでしょ。
わかってよ、わかってくれないと、こ、ころす・・・!」
「・・・・・・」
「ゎ。わかってよ。わかるでしょ。
昨日あたしに、あんなにいっぱい、恥ずかしいこと、言わせて・・・ぁ、あんなに、いっぱい、はずかしいこと、させたんだからっ。
あんなことまでさせたんだから、信じてよっ。
あ、あたしはもう、ずっと前から・・・なにされても、何があっても、銀ちゃんのこと信じるって、とっくに決めてるんだからねっっ」
絶対言いたくなかったことをしどろもどろに言い切ってから、高く上げた踵を下ろす。
夢中で引っ張ってた熱い耳とふわふわした髪の感触からあわててぱっと離れると、銀ちゃんはのろのろと姿勢を戻して口をぱくぱくさせながらあたしを見つめた。
何があってもどうでもよさそうで大抵のことには反応しないあの半目が、ぽかんと大きく開ききってる。
まるで幽霊とか怪物とか怪獣とかUMAとか、何か得体のしれない未確認生物でも見つけて愕然としてるみたいに――
「・・・〜〜っ。っほ、ほら、行こ!早く帰らないとごはんなくなっちゃうよ!」
べしっっ。
気恥ずかしさをごまかしたくて銀ちゃんの腕を意味なく叩いて、あたしはその場から逃げ出した。
紛れもない言い逃げ、っていうか、やり逃げだ。
だけど自分からキスなんて数えるほどしかしたことがないし、死んでも言いたくないって思ってた本音まで口走っちゃったから、今は銀ちゃんの反応を見るどころか、目を合わせるのだって死ぬほど恥ずかしくなっちゃう気がする。
・・・・・・て。ていうか、なに、あれ。なに、今の。自分で自分にびっくりしたよ。どうしてあんな大胆なことしちゃったんだろう。
唇が銀ちゃんに触れるまでのあのすごく長いようで短かった時間、あたしの身体は、胸の中を満たした甘くて不思議な気持ちの言いなりになって動いてた。
ああ、まだどきどきしてる。心臓がばくばく弾んでるよ。
狭い道のあちこちに出来た水溜まりをなんとか避けながら、ストールを入れたスーパーの袋をばさばさ鳴らして必死で走る。
自分でもどれだけ赤くなってるか判るほど火照ってる顔を両手で覆って、ぱたぱた、ぱたぱた。
誰もいなくなった細い小路を数十メートルくらい、ほとんど全力で突進した。
おひさまに照らされた朝の空気は夜よりも温まってはいるけれど、それでもやっぱり肌寒い。
こんなに走ったのはいつ以来だろう、って思うくらい思いきり走ってるのに、秋の澄んだ冷たさを直に感じてる手や首元や、足袋の先がじぃんと冷えた。
そのうちに後ろから追ってくる気配がないことに気付いて、スピードを落として立ち止まる。
はぁ、はぁ、って息を切らしながら、おそるおそる振り返ってみたら――
振り返った瞬間、心臓がとくんと跳ね上がった。
うねった道の奥に佇んでる白っぽい頭や猫背気味な姿が、こっちをじっと見つめてるような気がしたから。
「・・・っ」
視線を感じたらどきどきが止まらなくなって、草履を半歩くらい退いて後ずさる。
最初は立ち止まってるように見えた。けれどよく見てみれば、ちょっとずつ、ゆっくりこっちへ近づいてるみたいだ。
どうしていいかわからなくて、あたしはあたふたと踵を返した。
ぎこちなく踏み出してみたけれど、追ってくるのは歩幅が大きい銀ちゃんだ。
どか、どかどか、どかどかどか。
小路の出口がやっと見えてきたところで、黒いブーツの重たい足音に追いつかれて。
追いつかれたのと同時で手首を掴まれて、行くな、って言いたげな力強い手つきに引き止められた。
・・・こんな時ってどうしたらいいんだろう。どんな顔して目を合わせればいいの。
かーっ、って耳まで熱くなる。
困りきって視線をふらふら泳がせてからうつむけば、足許に出来た水溜まりの中では肌という肌を赤らめて唇を噛んでる女の子の顔がゆらゆら揺れ動いてた。
「――・・・あー。いや、あれ。あれな、あれ」
「・・・・・・」
「その。ゎ、るかった、っつーか・・・・・・・・・・・・腹減ったし、帰ろーぜ」
「・・・・・・っ。それってもしかして、ぁ、謝ったつもり」
頭の中がしゅわーっと湯気を上げて沸騰してるような気恥ずかしさをこらえながら、ちらりと隣を盗み見る。
そんなあたしの遠慮気味な視線に気づいてるのか、気付いてないのか。
銀ちゃんはいつものすっとぼけた半目で、淡い七色がうっすらと浮かぶ空の向こうまで視線をうんと逸らしてた。
「あー。あと、ほら、あれな」
「・・・な。なに」
「だからあれ。あれだわ。あれ。・・・・・・信じてねーとか、そんなんじゃねーからな」
やる気のかけらも感じられない眠そうな顔に、けろりとしたふてぶてしい態度。
口調はやけにぎくしゃくしてたけど、見た目はついさっきまでのうじうじと拗ねてた人とは思えない。
すっかりいつもの銀ちゃんだ。
ただし目許や耳たぶの端っこは、思いきり赤面した名残りみたいにほんのり赤く染まってる。
おかしくてぷっと吹き出したら、銀ちゃんはやっとこっちを向いた。
かと思えばきまり悪そうに眉を顰めて、握りっ放しにしてたあたしの手首をぱっと放す。
なぜか首元を覆ったマフラーをするするするする解き出して、
「・・・もうあいつに返事した」
「え」
「月曜に会ってくれって、あれ。お前会うつもりなんだろ、あの男と」
「・・・・・・う。うん。えっと、返事はまだしてないけど、そうしたいなぁって、思ってて・・・今までの事、謝りたいし」
肩を竦めてうつむいておずおずとそう答えたら、ふーん、ってあまり興味も無さそうな声が降ってくる。
それからしばらく銀ちゃんは黙ってたけど、赤いマフラーを解き終えると肩から外しながら口を開いた。
「いーんじゃねーの。会ってくれば」
「・・・えっ」
「けどよーお前に謝られたって、あの男、ちっとも嬉しかねーと思うぜ。
そーいう時はよー、笑って礼でも言ってやりゃあいいんだよ。好きになってくれてありがとう、ってよ」
そのほうが喜ぶんじゃねーの、男はみんな単純だから。
そんなことを言いながら、ちょっと面白くなさそうな、まだ少し拗ねてるような表情で近づいてくる。
目の前に立った銀ちゃんは、驚いて目を丸くしてるあたしの首の後ろまで腕を回した。
肩にふわりと掛けてくれたのは、解いたばかりのマフラーだ。
目の前で動く逞しい腕にきょとんと目を見張っているうちに、ぐるぐる無造作に巻きつけられる。
朝の肌寒さで冷えきってたあたしの唇が、赤いニット地から漂う銀ちゃんの匂いと、ふんわりとやわらかいあったかさに包まれていく。
思いもしなかった銀ちゃんの言葉と、首元を覆ったあったかさ。その両方にほっとして、あたしは顔中をほころばせた。
「いいの、会っても。ほんとに?」
「んー。あの男なら大丈夫だろ。二人で会っても危ねーこたぁねーだろーし」
「う、うんっ。そうなの、いい人なの。よかったぁ、銀ちゃんわかってくれて」
「あー。まぁ、そらぁ・・・・・・昨日スーパーで聞いた話で判ってたっつーか。
あれが心底人のいい奴だってこたぁ、お前の話で証明されたよーなもんだわ」
何か思い出してるみたいに視線を伏せながらそう言うと、巻き終えたマフラーの端っこを両手に掴んで、
「まぁ、いくら良い奴だろうがはぜっってー譲ってやんねーけど」
なんてつぶやかれてどきっとしたら、銀ちゃんは顔を寄せてきた。
「それによー。あいつがどうこうする前にこうなったってことは、運命の糸ってやつも俺に味方してんだろーし」
「・・・っ」
笑いながら言い切ると、左右それぞれの手に持ったマフラーの端を交差させる。
赤いニットが解けないように耳元で軽く結んでしまうと、
――ちゅっ。
さっきあたしがしたのと同じように頭の横に唇で触れてくるから、また心臓が高鳴った。
屈めた身体をちょっとだけ起こしてから、銀ちゃんはあたしを包んだ自分のマフラーをじっと眺める。
その顔は満足そうに目を細めていて、すっかりいつものふてぶてしい表情に戻ってた。
マフラーから離れた手にほっぺたを丸く撫でられて、くすぐったさに肩を竦める。
だけど、冷たい空気から肌を護ってくれる高めな体温が気持ちいい。
恥ずかしいのにもっと撫でてほしいような、とても口には出せないような気持ちになって、あたしは頭の中までぽーっと火照ってくるのを感じながらうっすら笑ってる銀ちゃんを見つめた。
「・・・しっかしよー。俺も人のこたぁ言えねーけど、あいつも大概バカだよなぁ」
「え?」
「気になって仕方ねーのに手も足も出せなくて気付けば数年見守り続けてましたー、ってか。はは、お互いどんだけだっつーの」
「・・・?銀ちゃんそれ何の話」
「んー。まぁ、野郎同士のひみつの話、じゃねーの」
「ひみつ?」
秘密って何の秘密だろう。それに、銀ちゃんとあの人って昨日が初対面だよね。
なのに銀ちゃんたら、なぜかあの人のことを前から知っていて、よく見ていたような口ぶりだった。
どういう意味、って尋ねても、にやつくだけで教えてくれない。
何か含みのあるかんじであたしを眺めて可笑しそうに目尻を下げると、銀ちゃんはくいって手を引いた。
帰ろーぜ。
あくび混じりの気抜けした声が、当たり前のようにそう言った。
うん、って返して、いつもそうしてるのと同じように隣に並んで歩き出す。
まだ眠そうな横顔も、陽射しを浴びてちらちら光って風に揺られる銀色も、見慣れたいつもの銀ちゃんだ。
だけど・・・今までは見たこともなかった銀ちゃんの一面を、たった一晩で幾つも知ったばかりだから、なのかな。
あたしにはそんな見慣れたはずの姿がいつもとは違うようにも見えて、しっかり繋いだ熱い手に指を深く絡められたら、なぜか胸の奥がきゅんとして――たまにちらりと視線を隣に送っては、よく知ってるはずの匂いがするマフラーの影で冷えきったほっぺたを赤らめた。