あれこそは自分にとって大切なものだった。と失くしてから気づく、などと言うが。
そいつはえらく気の長い、たいした悠長な話だ。俺ではどうしたってそうはいかない。
そんなことは失くす前から。いや、手に入れる前から判っていた。
いつか俺はこれを失くす。埋まらないもどかしさに苛立つのかもしれない、と。
だがその陳腐な予想にしたって、俺があいつの手を取り、腕の中まで引き寄せるために作り出した口実だ。
これは最初から「別れが前提」として始めるままごと遊び。どうせこれまでの女と同じで、長続きなどするまい。
だとしたら失くした後に喰らうやりきれない喪失感まで込みで、楽しめるだけ楽しめばいいだけの話だ。
一人の女に溺れる気など無い。しかし、あいつをものにしてみたい。
ふたつの本音から生じる矛盾を見ないふりで投げ捨てるための、見え透いた口実だった。
『土方さん、って仰るんですね。副長さんは』
あれは初対面から何度目だったのか。
は何の屈託も畏れもなく、自然と俺の名を呼んだ。呼ばれた耳触りの良さに引き寄せられ、
それから目が離せなくなった。
いや、目の前に現れた瞬間から気になっていた。あいつの周りにはいつも、懐かしく思わせるような匂いがあった。
陶磁のように滑らかな肌に。
目尻をふわりと下げた笑顔に。黙って微笑んでいるのに、何か言いたげにも見える表情に。
あれはよくない。やめるべきだ。一度触れたら、手放し難くなりはしないか。
そう思い、顔は合わせても目線を外し、避けていると気付かれない程度で遠巻きにしていたが。
道で偶然会って挨拶をして、ただ擦れ違った時。あいつの横を過ぎる時だ。
妙なことに、こうするのが当然だという気がした。いつのまにか俺から、あの細い手を取っていた。
柔らかな指が半信半疑でそっと握り返してきた瞬間に、我に返った。
直後にああ、やっちまった、と舌打ちしたのも、あれを手に入れたいのに、手に入れることを恐れている自分を、
「手が勝手に出たんだから仕方ねえ。こっちから手出したんだ、いまさら後には引けねえだろう」と納得させるために打ったようなものだった。
大切にするべきだと判ってはいたが。俺には結局最後まで、あれを手に入れた実感すら湧かなかった。
『土方さんは余所見ばかりしているから。』
そう言ってさみしそうに笑うあいつにとっての「余所見」が、
「仕事」を指すのか、それとも「他の女」を指すのか。それすら訊かずに季節が二つ終わった。
二つ目と三つ目の季節の境に「引っ越します」と言われた。引っ越し先をあいつは告げなかった。
告げないまま、連絡先もすべて絶っていなくなった。
以来ずっとこのざまだ。
仕事を離れた瞬間から、眠気に吸いこまれる瞬間まで。何を見ていてもあの顔ばかり思い浮かべる、宙に浮いたまんまの日々。
身体も心も空中分解されたままだ。いくら散らばる残骸を寄せ集め、押し固めてみても元に戻った気がしない。
情けねえ。この情けなさにもとっくに飽きた。ところが、飽きたというのに捨てられない。
恋を患う、とはよく言ったもんだ。宿病主がもう飽きたうんざりだ畜生とわめいてみても、病は身体からは引き剥がせない。
試しに他の女の手も何度か握ってはみたが。てめえはいつからそこまでの女々しさを飼っていたのか、と
自分でも見慣れないほどの落胆を目にしては、その都度笑い出したくなるだけの成果に終わった。
きりのない根競べに負けるのは。住所不明の女を江戸中探し回って、元に戻りたい、と言い出すのは、
てっきり俺のほうだと思っていた。ところがあいつのほうから顔を出した。
屯所近くの見廻り中だ。ついさっきすれ違った、やけにうつむいた女の横顔が、あいつだと気づくまでに数秒かかった。
「!」
近場から呼び止めるには十分すぎる声を張り上げたが。
慌てた足取りで駆け込む女の背中が、細い裏小路へ消えていく。
わけもわからずに追いかけた。肩を捕まえて振り向かせると、あいつはばつが悪いのか、
ぎこちない顔つきで口をぎゅっと結んでいた。
「何も逃げるこたあねえだろう。」
問い質すと、うろたえたように目を逸らす。
言いにくそうに口をつぐんでから、これを、と紙を差し出した。葉書だった。
小路の出口に、たまに寄る団子屋があった。
並べられた縁台を指して「喰うか」と訊くと、は頷いただけでそっちへ踏み出す。
相変わらず返事がねえな、とこいつの黙り癖を思い出した。
笑ってばかりの言葉足らずだ。一緒にいる間は、なぜか不自由も苛立ちも感じなかったが。
渡された葉書は俺宛てにされた宛書も、「引っ越しました」と手書きで書かれた住所の色も。薄れて変色し始めている。
昨日今日で書いたものには見えない。しかもメールでも済みそうなものが、わざわざ葉書ときている。
赤い毛氈の敷かれた縁台に腰掛け、怪訝に思いながら薄れかけた文字を睨んでいると、は笑った。
目尻の下がった瞳まで、おかしそうに笑っていた。
「こっちに用があったから。来てみました」
言ったのはそれだけ。運ばれてきた団子を少しだけ齧った。食べてすぐに串を皿に戻したが、こっちは見ない。
茶の入った湯呑を手に、通り沿いに流れる川を黙って眺めている。
俺と話す気もねえらしい。やっぱりわからねえ奴だ。
しかし、だったらこれは。この葉書は何だ。屯所に顔を出したこともねえ奴が、どうしてここまで来た。
もう一度口説き直せ、と暗に求めているのか。
それともなんとなく俺を思い出して、なんとなく顔を見に来ただけなのか。
訊いてみなければ始まらない。ここで確かめなければ、こいつと別れた後でひどく燻りそうだ。
「元気か」
「はい」
「いきなり消える奴があるか」
「引っ越し先を訊かれなかったから。もういいのかと思って。」
「俺が訊きゃあ良かったのか」
自分でも言葉の端に剣があると思ったが、あいつは何も言わなかった。
ただその頃を思い浮かべたような顔で、ふふっ、と笑った。
熱い湯呑を口許につけて、ふうっ、と息を吹きかける。衿元から覗く首筋が相変わらずに細い。
気のせいなのか、少し痩せたような気もした。
「あのときは。教える気になれなかったから。・・・訊かれなくて、良かった」
「俺は」
「はい?」
「当然教えられるもんだと思ってたが」
言いたいことは他にもある。訊きたいこともあるが、そこで言葉が途切れた。
半ばふてくされていたのだ。それにこれ以上、今頃になって何を言っても仕方がない気もしていた。
も何も言わなかった。目の前を流れる浅い河を。柳のような水草の流れる水面の一点をじっと見つめている。
同じあたりを黙って眺めた。視界の端に入ってくる、隣の女の湯呑を持った手が気になる。
陶器の肌を手持ち無沙汰に撫でている、の手。あの手に触れた柔らかい記憶が、手のひらで勝手に甦ってくる。
意識を逸らそうとしても、目は勝手にあの手が膝へと下りていく気配を追っていた。
「ごめんなさい。さっきのは、嘘。
あの時は、土方さんに引っ越し先を訊かれるのを待ってました」
は相変わらずこっちを見ようとしない。つぶやいた唇は、いったい何がおかしいのかうっすらと笑っていた。
何がおかしい。言い分はそれだけか、と葉書をつき返したくなった。
こうも平然と言われると、この言葉足らずまで鼻につく。なのにどうだ。
俺はが現れた瞬間から、こいつのことしか見ちゃいねえ。癪なことに、こいつから目が離せない。
腹は立っても目が逸らせずにいるのだ。
こいつの家へ通っていた間には、何の意識もしなかった。見ているという意識もなく、目で追っていたの仕草が、懐かしい。
頬にかかった髪を掻き上げる、細い指先が。何気ないあの仕草のひとつひとつが、もどかしいまでに懐かしい。
会わなくなってからも何度となく思い描いていた、あの手に。触れたい。だが。触れられない。
無理矢理逸らした視線の先に、さっきから握っている湯呑がある。その中に見覚えがある男の不平面が映っていた。
咥え煙草がやけに短い。急に現れた女に気を取られて、口にしていることすら忘れかけていた。
「わからなかったんです。あなたはあたしに何も求めてくれないから。
あたしにはあなたがどうしたいのか、どうしようとしているのか、ちっともわからない。
だから一緒にいても、一緒にいたらいけないみたいで。わからなくて、不安になるんです。」
「お前には何も。はなから俺ァ、求めちゃいねえよ」
そんなつもりはなかったが、つい声が荒れた。握った湯呑をただ縁台に戻すつもりが、妙に力が入った。
縁台に派手にぶつかり、脇に置いた刀や団子の皿まで小刻みに揺れる。
はすこし怯えたような目で揺れる縁台を見つめた。それから、同じ目を黙って俺に向けた。
「どこに行こうがお前の自由だ。お前が自分で決めたもんを、手前勝手に引き止める気もねえ。
だが、だからって、いきなり消えろなんて思ったこたァ、一度だってねえ。
・・・誰にだってあるだろう。そこにいてくれりゃあいいってだけのもんが」
しどろもどろに言いながら、それが俺にとってのこいつか、と改めて驚いた。
それは道理だ。こいつを不安にするはずだ。
手に入れた実感が湧くどころか。を本当の意味で手に入れる気すら、俺にはなかったのかもしれない。
これではまるで十四五のガキだ。ここにあるのは、穢したくねえ女に向ける憧憬じゃねえか。
「そんなこと。・・・もっと早く言ってくれなくちゃ、わかりません。今頃言われたって・・・」
「仕方ねえだろ」
「仕方ねえって。そんな言い方って」
「仕方ねえだろう。今やっと気づいたもんを、あんときお前にどう説明できる。
てめえもてめえだ。今頃蒸し返しやがって。どうして今頃、・・・・・・・」
吐き出しかけて口が止まる。今頃は俺だ。
ここでこいつを責めるくらいなら、どうしてあのときてめえからケリをつけておかなかったのか。
いや。どうなのか。そもそもケリをつける気が俺にあったのか。
これからだって、何度でも。何百回でも、こいつの顔を思い浮かべていたかった。
いつまでたっても「治らねえ」と愚痴りながら、目にするすべてにの面影を引きずっていたかった。
こんな俺のどこに、こいつを忘れる気などあったのか。
いまさらな実感に捉われ、口籠っている間に、あいつは立ち上がっていた。
見ると、少しも中身の減っていない湯呑の横には団子代の小銭が置かれている。
なのに、ごちそうさま、美味しかった、と俺に頭を下げてきた。
「・・・いや。悪かった」
「いいえ。いいんです。それじゃあ。お仕事、頑張ってください」
「・・・もう行くのか」
「はい。用は済みましたから」
最後に、さよなら、ときっぱり言った。どこにも迷いのない声だった。
晴れやかな表情でにっこりと笑うと、すぐに踵を返して歩き始める。
遠ざかっていく姿は、もう二度と振り向きそうにない背中に見えた。
あれァもう、戻る気のねえ奴の顔だった。思い浮かべたらなぜかずきっと眉間が疼く。うつむいてぎゅっと抑えた。
何をやっているのか。あれだけ毎日思い浮かべていた女を追いかけもしねえ。かといって立ち去りも出来ねえ。
無様なもんだ。あいつの残り香の横に未練がましく居座ったまま、置き去りにされた俺は所在なく煙草をふかしている。
それとも、いくら未練を残していたからといって、いざ会ってしまえばこんなものか。
結局、あいつが何の用足しでここまで来たかも訊かなかった。今何をしているのかも。もう他に男がいるのかも。
いや、今頃追いかけて何が変わる。追いかけるには時間が経ちすぎた。どっちにしたって手遅れだ。
あいつの中での俺は、もう待つ気にもなれない、終わっちまってる男で。
そんな野郎が何を言う。それこそ野暮ってもんだろう。
思い直して、渡された葉書に目を向けた。
書かれた住所を眺めるうちにふと気づく。引っ越し先は、ここから町三つしか離れていない。
驚いて顔を上げると、目が合った。とっくに行ったはずのはまだ俺の前にいて、こっちを見ていた。
「そんな葉書なんか押しつけに来て。ごめんなさい。」
いつもよりも少し高めな、上擦った声だった。俺も初めて聞く声だ。言いながらひるんだ様子で足を引く。
それでもわずかに青ざめた真剣な顔を、俺から逸らそうとはしなかった。
帯のあたりを抑えていた手が、着物の袖をぎゅっと握りしめた。
「要らなかったら捨てていいの。忘れてください。・・・ただ、ずっと顔が見たくて。どうしても見たくて。
今頃こんなことをしたら、だめだってわかってたけど。他に何も、会いに来る口実がなかったの」
それだけ言ってまた歩き出した。俺は呼び止めなかった。あいつも振り向かなかった。
小さくなる背中を目で追いながら、肺の奥から深く、やたらに長ったらしく煙を吐いた。
口にしていた煙草の短さが気になる。換えようと、懐から箱を取り出した。
トン、と指で打って、出てきたやつを掴みかけて。出すのをやめた。
札を一枚、皿の横に叩きつけてから縁台を立つ。すぐに後を追った。
追いかける口実に、走りながら気がついた。鷲掴みした煙草の中身が、もう吸いようがなく潰れていることにも。
口実ならいくらでもある。たった今、俺から離れていった、お前の背中にだってあるじゃねえか。
お前の「用」は俺のはずだ。俺にしたって、欲しかったのは色の褪せた葉書じゃねえ。
なんて馬鹿らしい回り道か。お前も俺も今までずっと、同じ場所で足踏みを繰り返してばかりいたようなもんだ。
どうして踏み出せなかったのか。
どうして俺は「会いたかった」のひとことを、あいつに会いに行く口実に出来なかったのか。
の姿は、同じ通りのすぐ先に見つかった。
歩幅の小さい女の足だ。すぐに追いついたし、急にそそくさと足を速めた気配で背後の俺に感づいているのは判ったが、
あいつはなかなか立ち止まらなかった。
お互い意地になっているかのように無言で歩いた。角を何度も曲がってから、はやっと足を止めた。急ぎすぎたせいか、息が荒い。丸めた肩を小さく揺らしている。
隣に並ぶと、向こうから口を開いた。
「どうしたんですか。」
「煙草が切れた。歩きついでだ、駅まで送ってやる」
「ここに握ってるのは何ですか。」
息切れして苦しそうな声で言われ、握り潰した箱を指される。
一瞬返事に詰まったが、他に返しようもなく憮然とつぶやいた。
「煙草だな。」
ひでえもんだ。何の口実にもなってねえ。
言いながら自分でも笑いたくて、たまらなくなる。
こらえながら口許を覆ってうつむくと、あいつはこっちを見上げていた。
何か言いたげな目が、透き通った涙に潤んでいる。唇は開きかけてわずかに緩んだが、それ以上は動かない。
相変わらずな言葉足らず。どうせ俺が切り出さなければ無言のままだ。と、柄にもない台詞を口走る覚悟を
決めたところに。細いあの手が遠慮がちに差し出された。
何も言えずにその手を取った。華奢な指が折れそうなくらい、ぎゅっと握りしめる。
息が上がっているせいか、の手は熱かった。繰り返し思い出していたこいつの体温よりも、うんと熱い。
このままここで引き寄せたい。抱きしめたくてたまらなくなった。
だが、ここはまずい。
屯所の近所だ。場が悪い。見知った人目がそこにもここにも、有象無象に取り巻いている。
短くなりすぎた煙草を換える気にもなれず、黙ってきつく噛みしめる。握った手を引いて先を歩き出した。
そうだ、煙草は違う。お前と同じだ。他に隣を歩く口実が見当たらねえだけだ。
あれからずっと自分の中で切らしていたもんが満ちていくのを、お前の隣で味わいたかっただけだ。
恋わずらい
text by riliri Caramelization 2009/08/19/
未練たらたらも似合うかなあと。