わかってる。
ほんとはわかってるんだ。あたしだけじゃないんだって。
この空がいつも青空ではいられないのと同じ。
いつでも澄みきった青のままで、のどかに輝いてはいられない。
ぼんやり鈍った灰色の雲で覆われて、雲の向こうからお陽さまがほんのすこしだけ顔を覗かせるだけの日だってある。
今、あたしの目の前を塞いでいる透明なカーテンみたいな、滝のような大粒の雨を降らせる日だってある。
あたしだってこの空と同じ。
ただ歩いているだけで足が弾んで楽しくなれるような、気分が晴れた日だってあるけれど。
見上げる空がどんなに青くてきれいでも、うつむいた顔を上げる気になれない、一日中土砂降り気分の日だってある。
わかってる。こんなどんよりした嫌な気分になっているのも、偶然にそうなっただけ。
たまたま嫌なことが重なっただけ。いつもよりほんの少し、うまくいかないことが多い一日だっただけ。
ただそれだけのことに落ち込む気なんて、全然ない。
こんなことくらい、誰にだってあること。
ごくあたりまえでありふれた、どうってことない一日。特別不幸なことなんかじゃないんだから。
そう思うのに、あたしはずっとうつむいたままだ。
It's gonna rain !
三十分前からずっと、あたしはコンビニの前につっ立っている。
これだけついていない目に遭うなんて、これは逆に「ついている」と言ってもいいんじゃないのかな。
多少無茶でもそう思いこんで自分をごまかしたくなるくらいに、今日はついてない一日だった。
朝、目が覚めたのは家を出る時間の十分前。
ギリギリ間に合った会議では、業績不振で機嫌の悪い上司の厭味の的にあげつらわれた。
社員食堂では人事部長に捕まって、「女の幸せは結婚で決まる」と定番のお得意パワハラ話を聞かされて。
単純なコピーミスで反故紙の山を作った。電話を取ったらクレーマー。
営業に顔を出したお得意先の専務には、経験もない若い女が担当なのが気に入らないのか、あからさまに無視された。
二時間も残業して、帰りの駅で突き飛ばされてブーツのヒールが折れて、駅を出たら滝のような土砂降りで。
お気に入りの子供っぽい小鳥模様の折り畳み傘を開いたら、いつのまにか傘の骨が一本折れている。
ブーツを引きずりながらやっと着いたコンビニでは、知り合いに声を掛けられた。
ちょっと苦手なその人は、同じ制服を着た女の子を連れていた。
成り行き上「こいつ、うちの新入り」と紹介されたその女の子は、好奇心たっぷりに微笑んでいた。
きっとあたしの気まずそうな顔には「だから何であたしに紹介するのよ」とでも書いてあったんだろう。
少し立ち話をしてから、買い物をして店を出たら。傘立てに置いたはずのあたしの傘は消えていた。
それなら迎えに来てもらおうと思って家に電話をしても、こんなときに限って誰も出てくれない。
何度鳴らしても呼び出し音がむなしく単調に続くだけ。
なんだか無性にさみしくなってきたところで、呼び出し音が止まった。携帯の充電が切れていた。
思い出しただけでぐったりしちゃう。笑っちゃうくらいついてない、特別に運の悪い一日。
アンラッキーの集中豪雨で、あたしの今日は目の前の夜の街にも負けないくらい、すっかり水浸しだ。
だけど、こんなの普通によくあること。
今、あたしが落ち込んでいる原因は、ひとつひとつはどれも明日になったら忘れてしまうような
ほんの些細なつまらないこと。曇った空からぽつりと落ちてきた降り始めのひとしずくのような、ほんの小さな雨粒だ。
ひとつひとつは些細なそれが、なぜかこの土砂降りのように、一日に集中してざあざあと音を立てて降ってきた。
ただそれだけのことなんだから、こんなに落ち込むことなんてない。
誰の頭の上にだって雨は降るんだし、誰にだって晴れる日は来る。こんな大雨の日が毎日ずっと続くはずがない。
うっとおしく曇った梅雨空が続いたあとには、からっと晴れた真っ青な夏空が続いている。
憂鬱でつまらない一日もあれば、次の日は憂鬱さなんて吹き飛んでしまうような楽しい一日になって、
昨日憂鬱だったことなんてすっかり忘れているかもしれない。
一晩眠って、明日になれば気分も変わる。
明日の朝になればあたしだって、新しい折り畳み傘はどんな色にしよう、どこで買おうか、なんて考えているはず。
それはよくわかっているのに、あたしはずっとうつむいたままだ。
店の前から動かないのを怪しまれたのか、レジに立った店員さんはさっきからチラチラこっちを見てる。
こんなところにいつまでも立っていないで、中で雑誌を読みながら雨が弱まるまで時間を潰せばいい。
中で待つのが嫌なら、自動ドアの横に並んでる一本三百円のビニール傘を買えばいい。
でも、どっちも嫌だ。どっちも選びたくない。
ひょこひょことヒールの折れたブーツを引きずりながら、もう一度コンビニの中を歩くのは気が重い。それに。
こういうみじめな気分には、隅々までくっきりと照らし出すような明るい店内はまぶしすぎる。
街灯や車のライト。コンビニの照明。光を跳ね返らせて鏡のように脚元を照らす、濡れたアスファルト。
ブーツの爪先はたっぷり雨を染み込ませて、色がすっかり変わってしまった。
滝のような雨はすぐ先の歩道に叩きつけられては、流れを作って低い車道へ落ちていく。
コンビニの軒を叩く雨音の勢いは、さっきよりも強くなっていた。
軒下にいても飛沫が跳ねて、髪や着物までじっとり濡れてくる。
傘なしでここから一歩踏み出したら、すごく大きな洗濯機に落ちた気分になるかもしれない。
天から降り注ぐ流水で全身をザブザブ洗ったら、このもやもやした気分も消えてなくなるといいのに。
可愛かったな、あの子。
表情が生き生きしていて、くるくる変わって。
毎日あの表情で見つめられたら、傍にいる男の人は、どんな気持ちがするだろう。
たぶんあの人と同じくらいの年。
名前を呼び捨てにしていて、仕事帰りに一緒にコンビニに寄るんだから、たぶん普段から仲が良い。
それに比べて、あたしは単なる顔見知り。少し年上だから敬語を使われるし、名前もさん付けで呼ばれてる。
顔を合わせればお互いに挨拶はするけれど、話がはずんだためしがない。
向こうはいつもどうでもよさそうに挨拶を返すだけ。言葉が途切れてしまっても動じないで、そのまま目の前に立っている。
黙って前にいられると、沈黙が苦手なあたしは焦る。表情も少しずつ硬くなる。
停滞した場の空気を緩めるには、こっちから話を切り出すしかないんだけれど
只の顔見知り同士に、共通の話題なんてそうはない。つい、どうでもいい話ばかり口走ってしまう。
今日は会社でこんなことがあって、とか、そういえばこの前、うちの犬が、とか、この前食べた新製品のお菓子が、とか。
ちょっとでも間が開こうものなら、気まずい沈黙が自分一人の肩にずーん、と
重たく圧し掛かってくるのが耐えられなくて、あたしは懸命にひたすらに喋り続ける。
そうすると、あの人は決まって可笑しそうに、妙に人懐っこそうな顔になって笑うのだ。
自分から進んで話題を振ってきたりはしない。どうでもいい話を早口で繋げていくあたしを
へえ、とか、ふーん、とか、気の抜けた相槌やちいさい欠伸を挟みながら、にやにやと眺めているだけ。
自分のことはあまり話してくれない。最後に「じゃあまた」と、軽く手を振るくらいだ。
さっきだって、お財布が潰れるくらい握り締めて機関銃のように喋りながら(次は何の話に繋げよう)と困っていたら
「じゃあ、気をつけて帰りなせェ」の素っ気ない一言で打ち切られて、背を向けられて置き去りにされた。
あたしには、あの人が何かを気に入らなくてそうしたのか、それとも、ただ早く帰りたかっただけなのかもわからない。
ああいう男の人って、ずっと苦手だった。
思ったことが表情に出ない、考えの読めない男の人。そういう人がずっと苦手だった。
たまに会うだけのあたしを暇潰しにからかっているのか、それとも迷惑がっているのかも、読ませてくれない人。
用がなければ自分からは近づかない、避けて通りたいタイプだった。
ああいう人は今でも苦手だ。きっとこれからも苦手だと思う。なのに、あの人のことが気になってしまう。
傘を失くして、大雨に帰り道を塞がれて、どうやって帰ろうかと思いながら、途方に暮れて立っていても。
あたしが真っ暗な雨の街に探しているのは、誰か心無い人が持って行ってしまった、
失くしてしまったお気に入りの傘の行方じゃない。
こんなに落ち込んでいるのは。こんなところでうなだれて、いつまでも雨の向こうに踏み出せずにいるのは、
どうしようもなくついていない一日の最後に、気になっている人の見たくない姿を見てしまったからだ。
たくさん買い物した重そうな袋を一つずつ提げて、仲良さそうに話しながら店を出て行った。
今頃はたぶん、二人で雨の中を並んで歩いている。
あの人はときどき表情を崩して、隣の女の子と同じように笑っているのかもしれない。
同じ歩調で雨の中を並んで歩く、二つの傘。
思い浮かべたら、折れたヒールも上司の厭味も、うまくいかなかった一日も、消えてしまったお気に入りの傘も、全部。
全部がどうでもよくなってしまった。
土砂降りの中を一人で、とぼとぼと足を引きずりながら帰る気力が失くなってしまった。
むせかえるような強い雨の匂い。霧のような水飛沫がたちこめる暗闇の中を
無言で雨に打たれるたくさんの傘が足早に通り過ぎていく。
こんなにたくさんの人が通りすぎていくのに、あたしの知っている顔は一人もいない。
そう思ったら、急に人恋しくなった。誰でもいいから、知ってる人に会いたくなってくる。
知らない街にいるわけじゃない。近所のコンビニの前で雨宿りしているだけなのに。
どこか知らない国で、誰も知っている人のいない世界に立っているみたい。
急にひとりぼっちになったような、心細い気持ちになっていたら。何処かから声を掛けられた。
さぁん、と気の抜けた声で名前を呼ばれた。
顔を上げなくても、誰なのかは声で判った。
交差しながら動くたくさんの傘が、勢いの強い雨を弾きながら暗い中で群れている。
それは目の前から届いた声じゃなかった。もっと遠くから聞こえる声。あたしを呼んでいた。
「こっちです、こっち。どこ見てるんでェ、さん」
ふっと傘の波が割れた間から、知っている姿が現れた。あたしは思わず目を見張った。
傘の波の向こうから声を掛けてきたのが、沖田さんだと判らなかったからじゃない。
ひょいと傘を上げて顔を出した沖田さんが手にしているのが、さっき失くしたはずのあたしの傘だったからだ。
驚いているあたしを無遠慮に眺めた当人の表情は「おや、さんじゃねえですか」と声を掛けてくるときの
澄ました顔と変わらなかった。
傘を持った腕も、足元も。明るい色の前髪も、重たそうにしっとり濡れている。
軽く頭を振ったら、毛先からひとしずく、ぽたりと露が垂れた。
真黒い制服の肩のあたりを面倒そうに見下ろして、染みかけている雨粒を無造作に払うと、
眉ひとつ動かさずに傘を差し出して言った。
「迎えに来ましたぜ」
「何か買い忘れですか沖田さん。じゃなくて、傘泥棒さん」
「人聞きが悪りぃや。こいつはちょっと借りてっただけでさァ」
手にした傘をちらっと見上げた沖田さんは、不自然に大きな瞬きをした。わざとらしさを見せつけているみたいだ。
大きくて綺麗な瞳をじっと凝らすような、挑むような目。たまに薄く微笑む口端が、あたしの反応を煽っては楽しんでいる。
挨拶以上に喋らずに、あたしにだけ話すように仕向ける、いつもの澄ました表情と同じ。
会うたびに見ているこの表情。この人は、こういう意地悪が好きなのだ。
からかわれていることに気がついたら、あたしの顔からは自然と表情が消えていった。
じわじわと湧いてくる嫌な気分が、湿った夜道の匂いと混ざって胸を一杯にしながら迫ってくる。
さっきは驚きだけで頭が一杯になっていたけれど。頭が驚きから醒めてきたら、今度は急にムカついてきた。
「誰か手癖の悪い奴に傘を、やられちまいましてね。
で、よく見たら傘立てに、どっかで見たよーなおかしな柄の傘があったんで。ちょいと屯所まで拝借しようと」
「・・・・そうなんですか。それは良かったです、あたしの傘が警察の方のお役に立てて」
「あんたがさっき、ブーツが壊れたとか言ってたし、困ってるだろうと思って急いで引き返して来たんでさァ。
俺ァ、今日は午後から非番だったんですがねェ。こいつの礼ってことで、ついでに家まで送ってあげやしょう」
「・・・・そうですか。困ってる市民を助けるのが警察のお仕事ですもんね。御苦労さまです」
「やれやれ。やけに棘があるなァ、今日のあんたは」
「そんな。気のせいでしょう」
会社で使う「業務用」の笑顔を向けて、ダメ押しでもう一度にっこりしてみせる。
しばらくあたしを眺めた沖田さんは、気のせいですかねェ、と小さく肩を竦めた。
「沖田さんって、意外と優しいところもあるんですね。さっきの人も屯所まで送ってあげたんでしょう、盗んだ傘で」
口調は穏やかに、笑顔で。けれど、盗んだ、にうんと力を込めて発音した。
知り合いだから、と勝手に傘を持って行かれたおかげで、雨の軒先に三十分もつっ立っていた人の気も知らないで
女の子と二人で帰るようなふてぶてしい男が相手なら、このくらいあからさまな厭味が丁度いい。
ただでさえ悔しいのに。ぬけぬけと、澄ました顔で笑われるのは、泣きたくなるくらい癪に障る。
「はい。あれもしつこい奴でね。あのきれいな女の人ァ誰だ誰だって煩せえんで、買い物袋ごと屯所に放り込んできやした。
そーいやァさん。俺もさっきはかなり意外でしたぜ」
「・・・・・コンビニで足引きずってる女が、そんなに珍しかったんですか」
「ええ。あんたァさっき、俺と話しながら、あいつの顔色ばっかり気にしてたじゃねえですか。」
沖田さんは、こらえきれない、といった様子で横を向く。
え、と目を丸くして固まったあたしをよそに、ふっ、と小さく吹き出して口端を可笑しそうに歪めた。
「いつもペラペラと噛まずに喋りまくる人が、言葉つっかえさせながら目ェ白黒させてましたからねェ。
そこまで俺の女連れが気になるのかと、可笑しくなっちまった」
口許に握った手の甲を当ててクスクスと、その時のあたしの姿を思いだしたかのように笑っている。
ぶすっと頬を膨らませ気味にうつむいて、あたしは問いかけた。
「そんなに可笑しいですか」
「はァ?」
「・・・あたしが沖田さんのことを気にしたら、そんなに可笑しいですか」
「ほら。やっぱり怒ってるじゃねえですか」
「別に。ただ、失礼だなあと思っただけです。女にそういう恥のかかせ方をするなんて、良くないですよ。
・・・・・・・その、あたしがどうこうじゃなくて、一般論として、ですけど」
「はァ。そーいうもんですかねェ」
「そうですよ。・・・一般論としては」
言いながら情けなくなった。言うに事を欠いて、一般論、なんて。
なんて見え見えの言い訳。しかも恥ずかしい。だって、どうせばれているのに決まってる。
沖田さんはもう判っている。あたしの気持ちに気づいてる。
傘を返しに、なんてたぶん口実。普段は年上ぶって煩いほどよく喋る女が、おろおろするのを眺めて楽しみたいんだろう。
きっとこのひとは、傘を返しついでに、あたしをからかうために戻ってきたのだ。
自分でもよくわからない。この人に会うたびに、あたしは自分がわからなくなる。
苦手なタイプのはずなのに。こんなひねくれた、意地の悪い人なのに。どうしてこんなに、気になるんだろう。
自分の気持ちをからかわれて笑われたのは、顔でも抓ってやりたいくらい悔しい。
なのに。この人がここへ来た理由がどうであっても、ここへ戻ってきてくれたことを、あたしはどこかで喜んでいる。
嬉しかった。からかわれたことが悔しくて、苦しくて。それでも嬉しい。
この何を考えているのかわからない、苦手なはずの人に翻弄されるのは、
無理矢理に手を突っ込まれて自分の心の中をこじ開けられたみたいに、ひりひりと胸が痛む。なのに。なぜか嬉しい。
人のことは言えない。ひねくれてる、なんて思ったけれど。この人だけじゃない。すっかり毒されてしまっているみたいだ。
押し黙ったあたしは、いつのまにか深々と溜息をついていた。
「どうしたんです。いやに口数が少ねーなあ。」
「・・・別に。ただ、今はちょっと、喋る気になれないだけです。静かで気味が悪いなら、歌でも歌いましょうか」
「いやァ。」
歌は勘弁してくだせェ。
眉をひそめて笑いながら、顔を逸らしてつぶやいた。まるで独り言でも言うように。
「このほうがいいや。いつもあれじゃあ、口説く隙もありゃしねーし」
すこし長めの間を空けてから、沖田さんはゆっくりこっちへ振り返った。
その表情はいつもと同じ。揺れることなく澄ましたままだ。
あたしは驚いてしまって、ずっと彼から目が逸らせずにいた。思わず開いた口を半開きにして、ただ見つめ返した。
すると目を細めた沖田さんに、にんまりと、大きく口端を吊り上げて笑われた。
「・・・まァ、これも一般論ってやつですけどねェ」
これ見よがしに、してやった、とニヤつかせた表情のまま。行きやしょう、と傘を差し出してくる。
ぼんやりと踏み出して傘の下に入ると、はい、とこっちに傘の柄を押しつける。
まだ何も言えずにあっけにとられているあたしに、まるでそっちが持つのが当然、とでもいうような顔で持たせた。
「え。・・・・あたしが持つんですか」
「ええ。俺ァ他に持つもんがありますから」
唐突に、腕を取られた。脇へ差し入れられた濡れた腕が、壊れたブーツでぐらつく身体を支えた。
ひやっと冷たい腕の感触が、胸まで伝わってくる。びくっ、と背筋を震わせたあたしを、沖田さんは平然と見下ろしている。
その澄ました顔は、まるで支えて当然、と言わんばかりの表情をしていた。
行きやしょう、ともう一度、淡々と繰り返す。持たせたくせに、自分でも傘の柄を持った。あたしの手のすぐ上のあたりを。
それから、降りしきる雨中に傘を押し出すようにして歩き出した。
後は何も言わなかった。ただ黙って、腕を抱えて。たまにあたしがつまづきそうになるのを庇いながら、歩くだけ。
身体を支えている沖田さんの腕が、時々胸のあたりにぶつかる感触が気になる。あたしは余計に混乱した。
さっきのあれは、いつもの意地悪なのか、それとも。・・・本音なんだろうか。
勿論本音であってほしい。でも。どっちなんだろう。
どっちなのかわからない。こんなに振り回されて、ドキドキさせられているんだから、勿論、本音じゃなければ嫌だ。
ああ、でも、あれがいつものからかいと同じなら、沖田さんの目も忘れて、がっかりして泣いてしまいそうだ。
でも、逆に本音だったら。もしあれが、この人の本音だったとしたら。
あたしは黙って歩いた。沖田さんは呑気に鼻歌を歌っていた。
バシャバシャと、煩いくらいに頭上で傘を打っている。滝のような大雨は止む気配もない。
しかも二人で女物の、小さな造りの折り畳み傘に入っている。
お互いに傘からはみ出した肩はずぶ濡れで、頭がやっと濡れずに済む程度。あまり役には立たなかった。
たまに面倒そうに濡れた肩を眺めたり、前髪から垂れてくる雫を嫌そうに、子犬のような仕草で頭を振って払っている。
どう見ても、この大雨を面倒と思っているようにしか見えない。
なのに、わざわざ雨の中を戻って来てくれたのか、と思って。ああ、そうか、と気づいた。
気づいたら、なんだか可笑しくなった。
この雨だもの。誰だって外へは出たがらないはず。
一度帰ったのに、傘一本のためにまた雨の中に出てくるなんて、相当な物好きか、かなり変わった人だけだろう。
それに、あの傘立てには、他にも何本か傘が入れてあった。
誰も使うことなく置きっ放しにされているような、濡れていない、変色しかけたビニール傘だってあった。
なのに、わざわざこの傘を選んで持って行くなんて。
一般論どころか、この人。案外、傘を口実に本気で口説きに来たのかもしれない。
「雨の中を往復するの、面倒だったんじゃないですか」
「何でェ。もしかして、カマでもかけてるつもりですかィ」
「勘繰らないでください。一般論として、梅雨が好きな人はそう多くないですから。ただ言ってみただけです」
「別に。俺ァ雨が嫌いじゃねェし。梅雨のおかげで出動も減って、昼寝も出来ていいこと尽くめだ」
およそ警察の人らしくもないことを、悪びれもしないで気楽そうに告白してくる。
あのいつも怖い顔をした副長さんが聞いたら、もっと怖い顔になりそう。どこにもやる気の見えない口調だ。
「裏から見てもおかしな柄でさァ」と、傘を見上げて。何か思い出したようにくすりと笑った。
「それにねェ。今夜は格別気分がいいんです」
「・・・・楽しいことでもあったんですか」
「ああ。ありやしたねェ、ついさっき。」
「・・・・そうなんですか。良かったですね」
返事をしても、沖田さんは何も言わなかった。ただ黙って前を見ていた。
暗闇と雨に取り巻かれた中を、ひとつの傘の下で。たまに脚がぶつかり合う、狭い中で。
あたしたちは目の前に降り注ぐ雨のカーテンを眺めながら、黙って歩いた。
濡れた路面が信号の緑色を映して光る、横断歩道を渡って。たくさんの傘が交差していく夜道を、まっすぐに進んだ。
強い雨音が二人の間を埋めているみたいだ。あれほど気になっていた沈黙が、もう平気になっていた。
同じ傘の下で、腕を支えて。上手く歩けないあたしに歩幅を合わせて、並んで歩いてくれる。
それだけで、もやもやしていたものが消えてなくなっていく。
土砂降りの下で、ずっとうつむき加減になっていた重たい気分が、少しずつ晴れていく。
「あたしも。」
「えェ?」
訊き返して立ち止まると、沖田さんが身体を屈めてこっちに顔を近づけてきた。雨の音が煩くて聞こえなかったらしい。
だから爪先立ちになって、あたしも顔を近づける。
背伸びをしたらぐらついて、一瞬だけ唇が、沖田さんの頬に触れそうになった。
肌から漂ってくる、雨の匂いが混じった体温にどきっとして。身体がもっとぐらついた。
けれど、声に出さないように気をつけながら繰り返した。
「あたしも。ひとつだけありました。雨のおかげで、楽しいこと。・・・・たった今、ですけど」
こんなに近づいたのも。苦手なはずの人に、どきどきしながら本音を話すのも、初めてかもしれない。
そう思いながら踵を下ろして、黙って見上げると。意外そうに明るい色の瞳を丸くしている。
お互いに黙って見つめ合っているうちに、あたしの手は自然と彼に向って伸びていた。
艶々と濡れた前髪。男の人なのに柔らかいなあ、と思いながら、毛先から垂れてくるしずくを払う。
何度か梳いているうちに、沖田さんはどこかくすぐったそうに表情を崩して、小刻みに肩を揺らしながら笑い始めた。
手にした傘まで持つ人につられたように、可笑しそうに揺れていた。
雨で冷えた長い指が。沖田さんの手が、不意に傘の柄を持つあたしの手に重ねられた。
あ、と思って手を見下ろして、顔を上げた時には、彼の顔がすぐ目の前にある。
覗き込んできた目が笑っている。
さあ、ここから先はどうします、と綺麗な瞳が睫毛を瞬かせて、愉快そうに問いかけてきた。
「へえ。そいつァ良かった。ところでその足、歩くと痛むんじゃねェんですか」
「足は痛くないけど。こうしてると逮捕された気分になるのが、痛いです」
「可愛くねえなあ。戻ってきてくれて嬉しい、って素直に言いなせェ」
「・・・そうですね。犯罪者って、必ず犯行現場に戻ってくる、って言いますもんね。待ってて正解だったかも。」
負けずに覗き込んで皮肉っぽく笑ったら、可愛くねえなあ、と、途端に笑顔が引っ込んだ。
同じ台詞をもう一度、つまらなさそうに繰り返すと。唇を軽く噛んで土砂降りの向こうへ顔を逸らす。
輪郭だけが車道からのライトで光るその横顔は、いつになく子供染みて、隙だらけで。
なんだかいつもよりも可愛いかもしれない。見上げて可笑しくなりながら、頭の中では別な空想を思い描いてみる。
きっと明日からのあたしの毎日は、澄みきった青が広がる、快晴だ。
「 It's gonna rain ! 」
text by riliri Caramelization 2009/06/13/
背が伸びてちょっと大人になった数年後の総悟…のつもり。落語口調は同じでも S成分は控えめです(当社比)