「返してください。」


あたしは本気だったのに。

なのにあなたは応えてくれなかった。「何を」と問うことすらしなかった。

夜露に濡れて冷えた頭は、あたしの膝に預けられている。
闇のように重たい色をした髪からは、煙草とお酒と、色鮮やかに咲く南国の花のような、妖しい香りがした。

これから行く。たったそれだけを言って寄越した。
早口で沈んだ口調の電話を、あなたは一方的に終わらせた。あれからゆうに、三時間は経っている。
それから電話で間を繋ぐこともなく。
酔って据わった目をしたあなたは、ついさっきあたしの許を訪れた。


一時間待たされるのはいつものこと。平気で過ごした。
二時間経っても、急な仕事に追われているのだろうと辛抱した。
けれど三十分前。
鳴った電話に示されたのはあなたの名前で。
なのにそこから流れてきたのは、小鳥がさえずるように軽やかな笑い声だった。

ただ黙って、こちらから切ってしまえばいいと思った。
電話の向こうから押しつけられた悪意に引きずられて、嫉妬に思いを濁らせることはない。
そう思うのに、つい言ってしまった。
「あなたも土方さんにとっては、こうして罵られている私と同じに過ぎません」と。
よりいっそう感情を害したその人の、張り詰めた声は。唐突に途切れた。
あなたが電話を奪って切ったのだと、音に紛れた気配で判った。


「お願いです。もうここへは来ないでください。
 今までのことはもう忘れます。あなたに会う前のあたしに、戻りたいんです」

突き離した声を装った。
そうでもしなければ、悲しすぎて心が千切れてしまいそうだった。
伏せられて重たげなあなたの睫毛が、震えるように小さく揺れた。口許がわずかにひるんでいた。

あたしの声は届いている。聞こえているのだ。眠ったふりをしているだけだ。

膝枕して見下ろした、あなたの横顔。
表情も柔らかさも、生活感も削がれた辛辣そうな横顔は、じっと目を閉じたままに沈黙を保っている。
最初からそう。あなたは知らないふりを続けている。あたしの言葉も思いも、受け付けようとはしてくれなかった。

目を閉じ、耳を背けて、心は遠いどこかへ置き去りにしたままでいるひと。
何度身体を重ねても、許されるすべてに身を尽くして受け容れても。あなたは遠い。心に届くことがない。


こうして無防備に頭を預けられても。
濡れた髪に触れて、冷えた頬を撫でて。煙草の香りと疲れの匂う、抜け殻のような身体を愛おしむ自由を授けられても。
あたしには遠かった。どうしても、あなたの思いを掴むことができなかった。


「返してください。あなたを待つために費やしてきた、あたしの時間を。
 ここにはもう、来ないでください。これからのあたしを、どうか自由にしてください。」

返してください。

あなたに会う以前の、誰かを思うことに無邪気でいられたあたしを。

あなたに囚われている時間が、あたしには幸せすぎた。
あなたを思う時間も。あなたを迎える時間も。
あなたを感じる。最初のうちは、ただそれだけにうつつを過ごして。
気づいてしまってからは、気づかないふりをするのに夢中になった。
あなたが今もその手で大切そうに抱いている、擦りぬけていってしまったひとの面影に。
大きな手で引き寄せられて、煙草の香る胸に埋もれて眠るのが。自分だけではないことに。

どうか返してください。あなたを好きになってしまったあたしを。

あなたの隣に誰かがいないことだけを祈って、身体を半分引き剥がされてしまったような思いで過ごした夜を。
不意を突くようにしか鳴らない電話を、待つともなく待ち続けて。待つのに疲れてしまった、あたしの時間を。

どうか返して。返してください。全部あなたに奪われた。




ゆるやかに動いた黒い隊服の肩が、畳を擦って乾いた音をたてる。
寝相を直して身じろぎしたあなたは、夜気に晒されていた寒気を今も感じているのか。
胸前で組んでいた腕を縮めるようにして、隊服の背中を丸めた。
冷えきったあなたの頬をずっと、さするように撫でていた。あたしの手は、ふつりと止まった。


そこだけが身体の凍えから解かれたかのように、口許が鮮やかに笑った。
あなたは静かに訊き返した。

「さすがにお前も、愛想がつきたか」

「・・・・はい」

いいえ。そうじゃない。違うんです。

声を詰まらせて、あたしは頷く。
心の奥では「違うんです」と否定しながら。けれど身体は、深くうなだれるように頷いていた。

そうじゃない。
嫌いになれるのならどんなにいいかと思うのに。
そうじゃないんです。

ただ、これ以上を続けるのが怖い。
これ以上にあなたを知ってしまうのが怖い。
さっき鳴らされた電話のような、知らずにいるのなら傷つかずに済むことまで知ってしまうのが怖い。
あたしもあなたを囲む女のうちの、幾人かの中に置かれるひとりにすぎないのだと思い知るのが、怖かった。

愚かなあたしは、知るのが怖い。
語らない背中に隠されたあなたの仕打ちを、知るのが怖い。
あなたは知るほどに遠くなる。あなたが遠くなっていくのが、怖くなってしまった。
要らない存在として突き離される前に。こちらから溝を引いてしまいたかった。
これ以上傷つけられる前に、あなたを突き離してしまいたかったのに。

冷たく濡れた前髪から覗く、伏せられた目の奥に宿った憂いのような色を。見過ごすことが、出来なくて。
闇の向こう側に溶けそうなあなたを、抱きしめたくなった。
愚かさに溺れて、帰したくなくなってしまった。

冷気の差し込む扉から駈け出して。両手を伸ばして、抱き締めていた。
引いたはずの溝を自分から越えていた。
戸惑いを隠しきれない表情であたしを見て、あなたは拒むように半歩退がった。
そんなあなたに無理を押して縋って。引き寄せて、迎え入れてしまっていた。



わかった。
胸の深くから溜息をこぼすような声で、あなたは言った。

「好きにしろ」

「・・・・いいんですか」

「ああ。不義理は尽くした。見限られて文句の言える立場じゃねえさ」

望んだはずの答えなのに。
聞いただけで身体が崩れてしまいそうになる。

不安を紛らわしたくて、あたしは湿った髪の流れを指先でなぞる。
芯の通って張った感触を確かめながら、ゆっくりと撫でつける。
まるであなたの心変わりを待つかのように。冷えた黒髪に縋りついている。


どうしてこんなに息が詰まるの。
傷つけられてきた痛みが一遍に押し寄せて、波をうねらせるように重なり合って迫ってくる。

どうしてこんなに重苦しいのかは、知っている。その先に待っている虚しさを、知っている。
こうしてあなたを突き離して、思いの果てに一人で辿りついたとしても。
そこには何もない。始まりもなければ終わりもない。闇に落ちるでもなく、光からも見放されて。
虚しい答えを朽ちた瓦礫のように積み上げた場所で、どこにも行けないあたしのこころは朽ちていく。

今もまだ心に棲むひとを。
遠くに行ってしまったひとを今も忘れられずにいる、どこにも行けないあなたを追いかけて。
愚かなあたしは、あなた以外のどこにも行けないあたしを作ってしまった。
せめて、皮肉な結果をあなたの所為には出来ないことに、気付かずにいられたらよかったのに。
見も知らないあたしに、電話で感情をぶつけるしかなかったあのひとのように。
溢れる思いの向うままに、素直に振る舞えたかもしれないのに。


「どうした。」

「・・・・・・・・・・・・」

いいえ、と唇を噛んで、胸を這い上がってくる湿った声を遮った。
あなたの横顔から眼を逸らす。嗚咽を殺しながら、ゆるゆると首を振った。

膝の上で薄く見開かれた眼は、暗い虚空を視ていた。
あなたの横顔には何も浮かばなかった。
今も、それ以前もずっと。あたしの何を目にしても、あなたは堪えることがない。揺らぐことがない。
最後に賭けたあたしの意地を前にしても、心のかけらさえ授けてくれることはないのでしょう?

ずるい。あなたはずるい。

いつだってそうだった。あたしばかりが泣きそうで、愚図っている。
いつだって、あたしばかりが待っていて。あたしばかりが好きで、ずるい。




「なあ、お前。本当のところはどうなんだ。」

あたしの沈黙をからかうような、可笑しそうな口調であなたは訊いた。
膝に預けられた頭から着物を通して、太腿にかすかな振動を響かせる。押し込めた苦笑いが伝わってくる。

固く組まれていたあなたの腕が解けて、こちらへ向けて上がってきた。
何かを探して掴もうとしているかのように、大きな手が一杯に広げられる。
小指の生え際から手首へと深く長い傷痕の残った、厚い手のひら。
硬く長い指はいつ触れても、爪や肌がところどころにひび割れている。
測ったように目の前で止まった。その手に、あたしは呼ばれている。
こっちを見ろ。あなたの手が、そう言っているのが判った。

「違うだろう。これァ、男に愛想をつかした女のすることじゃねェ」

突然に、奪うように。あたしの手を自分の髪ごと鷲掴みにする。
きつく掴んできた手の冷たさに、息を呑んだ。

「愛想をつかした女の手ってえのは、こうじゃねえ。もっと強張って硬てえ。他人行儀で冷めたもんだ」

確信深そうにあなたは言った。
一方的に言い切られてしまうことも、冷えた重みに手を覆われることも。あたしは拒めなかった。
指先だけがかすかに逆らって、怯えたような揺れを起こした。

「お前の手は違う。こいつは未練の残った女の手だ。」

言いたいことを吐き出すと、あたしの指の隙間に自分の指を送り込んできた。
動きを奪われた手のひらに、しるしを刻むように爪先を立てる。
暗く狭まってゆく視界が、下からわずかずつ滲んでいく。這い上ってきた涙に閉ざされ、潤んでいく。
あたしは逆らえない言い訳のような、言葉に成り損なった浅い吐息を漏らした。

「・・・・・・違う。・・・・違います」

「そうか。だったらこれは、誰のための涙だ」

あなたはあたしの手を、縋りついていた黒髪から引き剥がした。

導いていった手を、あたしの目元に押し当てる。
下瞼に溜まっていた涙が割れて潰れる。手のひらを伝って流れ落ちていった。
鋭すぎる双眸は、その場凌ぎの嘘など容易く貫いてしまう。まっすぐに見上げるだけで、あたしを捉えてしまう。
こぼれおちた重い雫が、あなたの頬を打って散った。

「これは誰のための手だ。誰のための涙だ。
 こいつも、この手も。その泣きっ面も。俺のためにあるんじゃねえのかよ」

手のひらを伝って、手首へと流れていったあたしの涙に。
冷たい唇が淡く触れた。雫を舌先が掬い取った。

。言ってみろ。本当のところは、お前。俺にどうしてほしいと思ってる」

逸らされることのない目が、あたしを問い詰めていた。
皮膚が厚く固まってしまった指先が、首筋に触れてくる。
首筋から顎の下に、柔らかく這わせながら昇ってくる。
滑らせるように耳を撫でて、うなじに挿した柘植の簪を抜き取って。
崩れ落ちて流れた髪を、ぐしゃっと握った。


どうかはっきり教えてください。

許されたのだと、思っていいの。
心の欠片を授けられたのだと、思っていいの。

まっすぐにあなたを望んでみろと、この手が。その目が。あなたの声は言っているのですか。



髪を握った大きな手を、両手で包み込んで引き寄せる。
凍えたあなたの手に。愛しい手に頬を寄せて、あたしは果ての無い望みを願う。
祈るような思いで、頭を垂れた。

「・・・・・他の、女のひとの、傍で。笑わないで。」



愚かしい願いを聞き届けて、あなたの眉間がわずかに曇る。
握っていた髪を離すと、あたしの肩に落ちたそれを撫で始める。
視線が撫でているあたりを彷徨っていた。

「そいつァどうにも。・・・・難問だな」

「・・・・・はい。呆れましたか」

「いいや。そうじゃねえ。まあ、驚かされはしたが」

戯れにあたしの髪を引きながら、あなたはぎこちなく表情を崩した。
笑っているとも、困っているともつかない顔で、感慨深げに口を開いた。


「存外に欲の深けぇ奴だったかと、思ってよ」

簪の針先を指に挟んで、シャツの袖で表情を隠して。
あなたは沈黙に耽り始める。

保留にされてしまった答えを、あたしは息をひそめて待ち続ける。
乱れた前髪に指を入れる。梳きながら、やっと乾き始めた黒髪の感触を確かめる。
あなたを愛おしむ自由が、まだこの手には残されている。あなたの言葉が、それを教えてくれたから。


すこしは堪えてくれたのですか。
あなたはあたしに心を授けてみようという気に、なってくれたのでしょうか。
ほんのひとかけらでもいい。少しずつでいいの。
凍えたひとときを膝に預けてくれるような、ほんのわずかな時間でいいのです。
それがどれだけ小さな片鱗であっても、あたしは胸をさざめかせるような甘い喜びで満たされる。

それとも堪えてはくれませんか。
朽ちてゆくだけの、虚しい思いに。一人で沈めというのですか。



あなたに溺れ続けろというのなら。それがあなたの望みなら。
あたしはあなたを待ち続けます。
どこにも行けずに、砂塵の積もる瓦礫に埋もれながら。報われることのない夢を見続ける。
そのまま砂に還ることすら厭いはしないでしょう。

けれど、もしあなたがあたしに、ほんの少しでも。温かな情けを与えてくれるのであれば。

いっそ何も言わずに立ち上がって、振り返ることもせずに。
あたしの心から出て行ってほしかった。






黙ってフラれてくれれば

よかったのに



title * do me ! *
text by riliri Caramelization 2009/04/29/
「do me !」さま提出物 ありがとうございました!BGMは林檎さま「ギャンブル」平成風俗ver.