「銀ちゃん。苺とうさぎだったら、どっちがいい?」
「んあァ?」
咲耶姫前奏曲
神楽ちゃんとあたしは、二人並んでソファの前に立っている。
あたしたちが見下ろした先には、ソファ一杯に足を伸ばしてだらあーっと寝転んだ銀ちゃんがいる。
眠そうに薄目を開けて頬づえついて、ジャンプをペラペラ捲ってる。
「どっちがいいネダメ人間。
真っ赤なプリチー苺がいいアルか?モコモコのラブリーうさぎがいいアルか」
「あのよー。ちゃん、神楽ちゃん。おかしくね?その二択。つか、そこでうさぎはねーだろォ」
「じゃあ、苺でいいの?」
「苺だろ。苺に決まってんだろ。いらねーよウサギはァ。つかダメだろウサギはァ。
召し上がれー、ってウサちゃん皿に置かれてもよー。どーしろってーの。食いづれーだろ小動物はァ。
あーんなつぶらな瞳で見つめられちまったらよー。さすがに気が咎めるっつーか、食えたもんじゃねーよ?」
イヤ、そりゃあよー、金欠でどーしよーもなくなったら食うかもしんねーけど。
何気に酷いセリフをブツブツ言いながら、銀ちゃんはだるそうに鼻をほじってる。
平日の真昼間からここまで堂々とダメ人間ライフを謳歌している人なんて、江戸中探してもあんただけだ、とか
いたいけな小動物をフツーに飼うという選択肢はないの、人としてどーなのソレ、とか。
言いたいことは他にも色々あるんだけど。
普段だったら真っ先に浮かんでくる文句は、この際全部後回しにしよう。
にやあっと顔を見合せて笑ったあたしと神楽ちゃんは、背中に隠していたものを顔の前に持ち出した。
「あーダメダメ。先に言っとくけどよー、あーんなちっせーモン飼えねーからな。
どーせ神楽か定春にアレだよ、ほら、何てったっけあの、クッキーの缶とかに入ってるプチプチ?
アレみてーにプチッと踏み潰されて昇天だからね?それによー、
ウチじゃもォネズミ一匹飼う余裕ねーんだぞ?デケー大喰らいとちっこい大喰らい飼って家計がカツカ・・・・」
不気味な顔でニヤニヤしているあたしたちの気配に、やっと気が付いたみたいだ。
ジャンプから目線を上げた銀ちゃんの片眉がピクッと不安げに動く。笑った頬がちょっと引きつってる。
神楽ちゃんの右手には、さっき買ってきた苺のヘアピンと苺のヘアゴム。
左手には、フワフワモコモコの白いうさちゃんボンボンがついたヘアゴムが。
そしてあたしの手には神楽ちゃん専用、万事屋には一本しかないピンクのヘアブラシが握られている。
「・・・・・ちょっ。お嬢さんたちィ?何。何してんの。何がしたいの君たちは」
「まあまあまあまあ。お客さんはそのまま寝ててくださいねー。コレでうーんと可愛くしてさしあげますからあ」
「動くなモジャモジャ。大人しくするネ。それともヘアピン眼球に刺されたいアルか」
「イヤそれせめて鼻の穴にしといてくんね?・・・・ってオイィィ!」
きゃーっ!とはしゃいで襲いかかったあたしたちに押し潰されて、銀ちゃんは苦しそうに呻いていた。
「っとによー。わっかんねーよなァ、女ってえのは」
それから五分後。
神楽ちゃんとあたしに両側からぴったり挟まれた銀ちゃんは、狭そうに身体を縮めてソファに座っている。
持たされた手鏡に映る自分の頭を、不服そうに半目で覗きこんでいた。
ふわふわで柔らかい天パの前髪は、右側を赤い苺のついたヘアピンで留められている。
頭の天辺には苺のヘアゴム。結んだところから、ちょこん、と先の丸いツノが立っていた。
銀ちゃんて、こういう可愛いものが無駄に似合う。
前にも花柄のひらひらエプロン姿を見たことがあるけれど、ほとんど違和感なかったもん。
身体はよく見るとゴツいのに、どうしてだろう。存在自体がユルいから?それともふわふわ天パ効果?
「何コレ。お前ら俺をどーしたいの。俺のこれからをどーゆー方向に持っていきたいの。
パー子やってんじゃねーんだからよー。ヤローにこんなモン飾ってなァーにがそんなに楽しいの」
「でも似合うよ?ちょっと気味悪いけど可愛いよ、銀ちゃん」
「あァ?んなモンあったりめーだろォ。
銀さんはー、何だって似合うんだよカッコいいから。なんならこのままキャバクラ行くか?の奢りで」
いっそ小気味良いくらいに堂々と、手鏡で神楽ちゃんを小突きながら銀ちゃんが言い切る。
ああ。その天まで届くピノキオの鼻、一回ガッツリ折ってあげたい。
しかも「ちょっと気味悪い」ってところだけ、都合よく聞いてないみたいだし。
でも、いいかもしれないな。毎日頭に苺ちゃん付きで出掛けてくれたらいいのにな。
ただでさえ怪しい見た目なんだもん。いつもこの苺ちゃんをつけてたら、女の人はブキミがって近寄ってこないはず。
見た目は怪しいし目は死んでるし人前で平気で鼻ほじるし、どこから見てもフツーの人には見えないけど。
黙っていれば、銀ちゃん見た目だけは見蕩れちゃうほどカッコいい。・・・ホントに見た目だけだけど。
あたしの膝に鏡をぽいっと放り出すと、銀ちゃんは恨めしそうな顔であたしに向き直った。
「つーかよー。オメーがつけろよ、こーゆーモンはァ」
「ダメヨ銀ちゃん。はこーゆーの嫌いネ。
はカッコイイシンプル派ヨ。可愛いめアクセつけてるとこ、見たことないアル」
「んァ。そーだっけ。って神楽ァ。てめ、重みーんだよ首折れんだろォ」
背中に飛びついてきた神楽ちゃんに首を思いきりホールドされて、銀ちゃんはもっと不服そうな顔になった。
あたしが結った神楽ちゃんのポニーテールの天辺では、モコモコの白うさぎボンボンが揺れている。
「うーん、別に嫌いじゃないんだけど。ぜんぜん似合わないんだもん、可愛い系って」
「いやァお前、いくら何でもぜんぜんってこたァねーだろ。
こーゆーのはァ、女なら誰にでも似合うように出来てるもんなんじゃねーの」
「・・・・銀ちゃん。
世の中にはね、その「誰にでも」の中に入れない女だっているんだよ」
「そんなに似合わないアルか。どこまで男前になるアルか」
「イヤイヤ、そりゃあお前、思い込みだろォ。いっぺん見せてみろって。
付けてみりゃあ案外似合うってこともあるかもしれねーだろ」
外した苺ヘアピンを手のひらに乗せると、銀ちゃんは、ほらよ、と差し出してきた。
「えっ。やだよー、いいよォ。ダメなの、ホントにこういうのって似合わないんだってば。
自慢じゃないけど、笑っちゃうくらい似合わないからね?」
あたしがピンを手で避けて笑いながら遠慮すると、二人は揃って顔を見合わせる。
人間もペットも、一緒に住んでるうちに血が繋がってなくてもよく似てくるって言うけど。
こうやってニタアーっと顔を崩して笑ってると、まるで親子か年の離れた兄妹みたいにそっくりだ。
「んだよなに勿体ぶってんだよォ。コレ一本程度、いーじゃねーかよつけて見せてくれたってよー。
つかオメー、そーんなに俺らに見られたくないわけ?そこまで言われるとよー。銀さんかえってS心が疼くんだけどォー」
「そーネ。何でもダメって言われるとかえって見たくなるものヨ。悦子も言ってたアル」
「悦子って誰、ってゆーか、あの。・・・二人とも顔が怖いんですけど」
「悦子は家政婦ヨ。奥様の浮気現場をドアの隙間からじーっと見てたアル!」
「イヤ浮気現場なら面白いかもしれないけど。
あたしのは別にそこまで面白くは・・・・ってちょっ、え、なっ、ゃあああああ」
うひひひ、とキモい声で笑うそっくりな笑顔の二人が、四本の腕を高く上げてあたしに襲いかかってきた。
押し潰されたあたしは銀ちゃんとソファの間で暴れた。悲鳴を上げてバタバタともがいた。
銀ちゃんの身体は骨太だし重たいし、しかも神楽ちゃんがいる。夜兎の力の強さに敵うわけない。
それにこうやってじゃれるのはいつものこととはいえ、あたしの上に乗ってるのは銀ちゃんだ。
近所に住むようになってからずっと、友達のフリしてもう何年もこっそり片思いしてる人。
こんなに密着されちゃったら、ドキドキしないほうがおかしいと思う。
胸が騒いで、騒ぎすぎてどうしようと思うくらい煩い。これ、聞こえてないのかな。
頬が赤くなってきたのが、自分でもわかる。ああでも銀ちゃんはフツーにじゃれてくる。
気づいてないのか。・・・・うん、気付くわけないか。どう見てもあたし、女だと思われてないもんね。
うん、きっとそうだよね、良かった。・・・いや良くないけど。それはそれでちょっと、複雑なんですけど!
あっという間に四本の腕に抑え込まれて、しっかり苺のピンをおでこに留められてしまった。
押し潰されてムッとしているあたしを、二人が揃って同時に見下ろす。横を向いて頬を膨らませて、同時にプッと吹き出した。
・・・・・・・うっっわあ。何、この二人。
おかしいでしょアンタたち。双子でも兄妹でもないのにどーしてそこまでシンクロしちゃうの。
しかもすっっっっ、ごくムカつくんですけどその顔。似てるだけに二倍ムカツクうううう!!
「神楽ァ。お前よー、ちょっとバアさんとこ行ってよー、アレ探して来いや。
こないだ使っだろアレ。まだフィルム残ってんじゃねーの、あの使い捨てカメラ」
「はァ!?ちょっとォォォ!」
「あいあいさー!了解であります、軍曹殿ォ!」
「あいあいさーって、ちょっ、神楽ちゃあんんん!!?」
背負われていた銀ちゃんの背中を軽く蹴ると、神楽ちゃんはひらりと床に着地した。
「ゆっくり探せよー。出来れば一晩帰って来るなー」
「嫌ヨ。すぐ戻るネ!」
四時から渡鬼再放送ヨ、と言いながら、パタパタと廊下を駆けていった赤いチャイナ服の背中が
玄関扉の向こうに消える。軽い足音が階段を下っていく。
玄関から目を移すと、銀ちゃんの顔はすぐ目の前にあった。
こっちをじっと見下ろしている。目を細めている緩んだ笑顔は余裕たっぷりで、バリバリ引っ掻いてやりたくなるくらい憎たらしい。
すぐ目の前。すっっごく近い。鼻と鼻の先がくっつくまで、あと5センチくらいしか距離がない。
瞬きで睫毛が揺れるのも、銀ちゃんの息遣いもはっきりわかる。
あたしは指をうんと伸ばして広げて、おでこを白く光る銀色の前髪ごとがちっと掴んだ。
思いっきり押しても銀ちゃんの顔は動かないけれど、だんだんしかめっ面になってきた。
「さーーーん!?マジ痛ェんだけど。爪がこめかみに食い込みそーなんだけどォ」
「銀ちゃんどいてよ!重いィ!」
「んだよォ、自分は襲っといて俺はナシかよ。いーじゃねーかよこのくれー」
ちぇっ、と舌打ちして銀ちゃんは起き上がる。
あたしの爪がよっぽど痛かったのか、落ちていた鏡を拾い上げておでこの爪痕を見ていた。
いってーよバーカ、とつぶやく口先が拗ねた子供みたいに尖ってる。
何よその顔。口を尖らせたいのはこっちだっつーの。
人をさんざんドキドキさせておいて、舌打ちですか。
人の気も知らないでガキみたいに襲うなコノヤロー、いやバカヤロー。
むくれながら起き上がったあたしは、乱れた着物の衿を引っ張って直した。
「つかよー、アレだな、スゲーなオメー。マジで似合わねーなァそれ」
「・・・・・・・・見ないでよ」
「あ?」
・・・えっ。あれっ。
・・・・・・・・・・・・・あたし、今何て言った?
やだ。どうして言っちゃったんだろう。
驚いて銀ちゃんを見上げたら、銀ちゃんもなぜか立ち上がりかけた半端なポーズで固まっていた。
銀ちゃんも驚いてるんだ。いや、銀ちゃんよりもあたしのほうが絶対驚いてるけど。
でも、ああ、どうしよう。
うまい言い訳が、何も思いつかない。焦ったあたしは、意味無くおでこに留められたピンに手を伸ばした。
「見ないでよ。・・・・似合わないのは判ってるけど。それで銀ちゃんに笑われると、傷つくよ」
ピンを指先で弄っているうちに、勝手に言葉が溢れてくる。
あたしが喋っているんじゃなくて、あたしの口が勝手に喋ってる。
ぎゅっとヘアピンを握って髪から外す。
どうしよう。
銀ちゃんの顔、もう見れない。
「嫌だよ。・・・銀ちゃんだから、見られたくないの。
他の人なら笑われたって気にしないよ。でも、銀ちゃんには笑われるのは、・・・・」
そこでやっと口が止まった。
バレちゃったかな。
・・・・・・大丈夫、だよね?
かなり際どい言い方も混ざってたけど。決定的なことは言ってないよね。
少しだけほっとしたら、すぐに後悔が始まった。
胸がざわざわと騒ぎ出した。
そこに待っていたのは、今すぐ走って逃げ出したくなるくらいに気まずい沈黙。
銀ちゃんは何も言ってくれない。
すこし間を空けた隣にもう一度座りなおしてから、ずっと、ひたすらに床を困った顔で睨んでる。
あたしはずっとうつむいたままで、頭が空っぽで言葉が出ない。
座りなおしたら着物の衣擦れの音がして、それだけで身体が竦むくらい気になった。
いつでもどこでも、誰がどうなったって知らねーよって顔をしているけれど、銀ちゃんは人の気持ちに意外と目敏い。
だから黙ってしまわれるとかえって怖かった。
身体の具合まで悪くなりそうな、心臓に悪いドキドキがしばらく続いて。やっと銀ちゃんの口だけが動いた。
「・・・悪りぃ」
やっと。とうとう。
ついに返ってきてしまった、銀ちゃんの返事。
短い返事が頭に響くまで、ちょっと時間がかかった。短い言葉の意味を、しばらく考えさせられた。
「それって。・・・・どっちなの?
・・・銀ちゃんてさ。あたしの気持ち、判ってた?」
「・・・・・んー。判ってるっつーか。・・・・・まァ。」
すごく言いにくそうな口調だった。座り直しながら、銀ちゃんは横目にちらっとあたしを見る。
長い腕を背もたれの上辺に伸ばして、背中を深く埋めた。
あたしの身体のすぐ横に。目の先に届いた銀ちゃんの大きい手は、トントンと居心地悪そうに背もたれを指先で弾いている。
近所に住んでるから、ほとんど毎日顔を合わせてるし。友達やってた時間だって、結構長い。
だから銀ちゃんの指の動きがちょっとたどたどしくなっているだけで、あたしは返ってくる答えがなんとなく想像できてしまう。
「いいよ。・・・いい返事なんて期待してないから。はっきり言って」
ソファの上に脚を上げて揃えて、きちんと正座した。
普段はここまでしないってくらいに姿勢を正して、銀ちゃんをまっすぐに見た。
げ、と呻いた銀ちゃんがソファの上で身体一つ分後ずさる。目が泳いでる。思いきりたじろいでいた。
フラれたからって友達をやめる気はないし。
銀ちゃんさえ良かったら、今までどおりに近所の友達として付き合っていきたいと思ってる。
こうして遊びに来るのも、銀ちゃんと二人でいるのも。たぶんこれが最後じゃないと思う。
だけどせめてこんな時くらいは、きちんと銀ちゃんに向き合っておきたかった。
だって。銀ちゃんはあたしが初めて、本気で好きになった人だから。
いい加減で自信屋で、口が悪くてだらしなくて。意地汚くって、子供みたいに意地っ張り、なのに結構さみしがり。
口では「俺関係ねーし」って、真っ先に見放すようなことを言うくせに、
ほんとは困ってる人を見捨てておけない、おひとよし。
今までに会った誰よりも、優しい人。
何年片思いしていても、他にどんな男の人に会っても、他に素敵な人なんて一杯いるのに、どうしても大好きで。
いくらせつない思いをしても、諦めきれなかった人だから。
「・・・さ。ささ坂田銀時さんんん!」
「なっっ、なにこの重てー空気!?ァに緊張してんだよテメーはァ!
こっちまで伝染るじゃねーかよ、やーめろって!」
「う、うん。でも。
・・・こういうのは今日だけにするから。聞いてくれる?・・・じゃなくて、・・・聞いてください!」
「う。あァー、・・・はい」と強張った返事をした銀ちゃんは、強張った顔で下を向いてあたしの真正面に正坐する。
銀ちゃんの正坐してる姿なんて、初めて見た。
肩まで小さくなってるのがなんだか可笑しい。天辺にちょこんと結ばれた苺のヘアゴムが可笑しくって、可愛い。
でも。見ているのがつらい。このまま眺めていたら、泣いちゃいそうだし。
軽く深呼吸をして、それからもう一度、ゆっくり静かに息をついて。
胸の震えを抑え込みながら、あたしはやっとの思いで硬い声を出した。
「今のは、・・・・・・・笑ったことに対して「悪い」ですか。
それとも、 ・・・・・・・・あたしに対しての「悪い」なの?」
「そりゃーお前。両方だろ」
斜め下の床あたりを居辛そうに眺めながら。銀ちゃんはボソッと答えた。
「嫌いじゃねえよ。お前はいい奴だし、なんだかんだで付き合い長げェし、あいつらも懐いてるし。
好きは好きなんだけどよ。女としては見れねーっつーか。
お前も神楽も、俺にとっちゃあんま変わんねーし。身内と同じっつーか、妹みてーなもん?」
「・・・・・うん。」
深く頷いて、一言だけ返した。
はっきり言ってくれてありがとう、とか、言わせちゃってごめんね、とか。言いたいことはあるのに、それ以上は言えなかった。
フラれたんだって認めるのがやっとだった。
ダメだなあ。思っていたよりもずっと真剣に、正直に応えてもらったのに。
銀ちゃんに初めて会った頃よりも、ずっと大人になってるはずなのに。
どうしてこんなに余裕がないんだろう。
痛くなんてならないはずの胸が、きゅうっと締めつけられて痛い。
帯が苦しい。涙をこらえるだけで一杯になってる。
「・・・・・・って。ずーーーっと思ってたんだよなァ。さっきまでは」
「・・・え」
顔を上げた瞬間に、目の前を何かが塞いだ。
顔の前が暗い。
そして唇が、あったかい。
銀ちゃんの顔が、唇があたしにくっついてる。
そう判った時には。・・・・・・キスが、終わっていた。
「お前さあ。・・・・・スゲー顔するよなァ」
感心しているような声で低くつぶやいた銀ちゃんは、いつも通りにだるそうなニヤけた顔だった。
でも、正坐の脚を崩して胡坐をかくと窓のほうを向いて、頭を掻き始めて。
こっちをぜんぜん見ようとしない。
あたしは銀ちゃんしか目に入っていないのに。驚きすぎて、目が逸らせなくなっているのに。
「ピン挿したときによー。今にも泣き出しそうな、今まで見たことねー顔すっから。
黒目が蕩けそうなウルウル顔で見られたら、なに、その。急によー。グラッと。・・・・これダメだろ、ヤベェよ、って。な?」
頭を盛大にボリボリと掻き回す手が、頭の天辺からうなじのほうへと移っていく。
さっき結んだ苺のヘアゴムがユラユラ揺れている。
横顔がわずかに固まって。
それから少しだけ、こっちに向いた。
ゆっくりこっちを向いた銀ちゃんは、やっとあたしを見た。ばつが悪そうに口を尖らせてる。
「あれっ、こいつこんなに可愛かったっけ、コレを他の野郎に渡すの勿体なくね?てゆーかコレ俺のじゃね?
とかよー。ガラにもねーこと思っちまったじゃねーかよこのヤロー」
「・・・・・・銀ちゃんは。意地悪だよ」
「んだよ、オメーがそういうツラすっから、苛めたくなんだろォ?」
「銀ちゃん。言ってることがもうジャイアンだよ」
「あーそーだよ俺ァジャイアンだよ認めるよ。けどよー。オメー、誰が銀さんをジャイアンにしたと思ってんの。
っったくよー。もーちょっと焦らして泣かせてからのほうが俺的にはそそるっつーか、萌えるのによー。
ァんでこんな時に言い出すかねーこの子は。ウチにはガキどももいるんだからよー、勘弁しろって。
場所と時間を考えろっての」
トン、と不服そうな銀ちゃんの、伸びてきた手に軽く肩を突かれた。
ほんの軽い力だったのに、あたしの身体は重力で操られているみたいにあっけなくソファに沈んだ。
「つか、もォいいだろ、もう説明終了な。急がねーと神楽帰ってきちまうし」
「・・・銀ちゃん。あたしのこと、好きになってくれたの?」
「や、まだよー。そこまで訊かれると、あんまはっきり言える自信ねーんだけどォ。」
手をあたしの顔の両側に挟むように置いた銀ちゃんは、下にいるあたしにはお構いなしだった。
さっと四つ這いになって、上にのしっと跨ってきて。さっきと同じ、余裕たっぷりの緩んだ笑顔になっている。
こんなに平然と押し倒されたら、心臓が壊れそうなくらいドキドキしているあたしのほうがバカみたいに思えてくる。
普段の銀ちゃんからは女の人の気配はあんまりしないし、モテねーって開き直って威張ってる。
なのにあたしや神楽ちゃんに向けるちょっとした仕草は、妙に手慣れていて素早かったりする。
この人、実は陰で遊んでそうだなあって、ずっと思ってたけど。
・・・・・まさかここまで手が早いなんて思ってなかった。
「まあ、こーゆーコトは今すぐしてえなー。他の野郎には奪られたくねーし、チューしたり触ったりアレしたりしてーなァ。
つか帰したくねーなァ、と思ってるわけだから。多分そーなんじゃねーの」
「・・・・その返事、正直すぎて嬉しくない」
「あっそ。んじゃ、やめとくか」
「え、やだ。・・・やめないで」
焦ったあたしは、つい正直に言ってしまった。
言ってから、あっ、と思わずつぶやいて。どうしたらいいのかわからなくて、困って銀ちゃんを見上げる。
銀ちゃんは、表情も変えずに黙ってあたしを見てる。
あたしの動揺はきっと顔に出てる。
なのに銀ちゃんは澄ました顔をして、どう出るのかを楽しんでいるみたいに、ただこっちを見てる。
ああ、やっぱり意地悪だ。
降ってくる視線を避けたいけれど、避けられない。えいっ、とあたしは思い切って起き上がって、銀ちゃんに腕を伸ばした。
首に腕を回して、目を閉じて夢中でぎゅっとしがみつく。
すると銀ちゃんの腕があたしの背中に回されて、力の籠った指先ですーっと腰まで撫でていった。またあっけなくソファに押し倒された。
「ん。俺も。」
帯がガサッと鳴った。
銀ちゃんの手が結び目に掛ったのがわかった。
ふう、と耳たぶに熱い息を吹きかけられた。
顎にかけられた骨張った指が、自然に顔を上向かせていく。
あたしの身体は熱っぽくて、だけど銀ちゃんの手はあたしよりもずっと熱く感じる。
目を開いたら、銀ちゃんの顔はすぐ前にあった。
こっちをじっと見ていた目が、苦笑いするみたいにぎこちなく笑う。
わざと焦らしているみたいに。
焦れったくなるくらいにゆっくりと近づいてくる。
「・・・・・ここで止めんの、もう、無理」
ちゅっ、と音をたてて唇を重ねると、すぐに中へ割って入ってきた。銀ちゃんの舌、ざらっとして熱い。
息を吸おうとすると鼻にかかった変な声が出て、恥ずかしい。
あたしの唇やその中を食べてるみたいに動いてる銀ちゃんの唇と、あたしの唇の隙間から変な声が洩れていく。
胸が重なると、銀ちゃんの心臓の鼓動が伝わってきた。
あたしと同じくらい早く、大きく鳴り響いてくる。
腰のあたりで動いている手が、ガサガサと帯を解こうとしている音が身体の下から響いてくる。
どうしよう。好きな人とするキスって、こんなに気持ちいいんだ。
銀ちゃんがさっき、ヤバいって言ってたけど。あたしのほうがうんとヤバい。
どうしよう。この先あたしは、どうなっちゃうんだろう。これだけでもう、のぼせちゃいそうなのに。
カシャッ、と軽い音がした。
銀ちゃんの唇が。それから身体が、あたしから勢いよく離れる。
見上げると、使い捨てカメラを持った真っ白で華奢な手が、レンズをこっちに向けていた。
ソファの背もたれの向こうからスッと立ち上がって出てきたのは、神楽ちゃんだ。
ひょこっと顔を出して首を傾げると、ニヤっと目を細めて笑った。
きゃー!とはしゃいで叫びながら、あたしたちに飛びついてくる。
コアラかお猿の親子みたいに背中に抱きつかれた銀ちゃんは
「家政婦も悦子も呼んでねー!」と神楽ちゃんの頭を鷲掴みにした。
グリグリと小突き合いながら二人で叫んで、どつきあってる。あたしは真っ赤になって身体を固めたまま、二人を下から見上げていた。
口じゃ怒っているのに、銀ちゃんの表情は珍しく戸惑っているというか、複雑そうに見えた。
見ようによっては照れ臭そうにも見えるんだけど。・・・それはあたしがそう思いたがってるから、なのかな。
「神楽ちゃーん?今から万事屋は大人の時間に入るからな?子供はお外で遊んできなさい!」
「嫌ネ!」
渡鬼の再放送よりこっちのほうが百倍面白いネ。
そう言って大きく笑った神楽ちゃんが、ソファに飛び降りて座った。もう一度顔の前にカメラを構える。
頭の天辺で、うさぎのボンボンが楽しそうに跳ねる。ポニーテールの毛先が、ひらっと軽やかに揺れた。
右腕を大きく伸ばした銀ちゃんは、笑う神楽ちゃんの頭を乱暴に抱きよせた。髪をグシャグシャに掻き回してる。
それから寝転がったままのあたしをだるそうな半目で見ると、左腕を伸ばして。
ん、と手を差し出した。
こんなことされるの、初めてだ。
ためらいながら手を掴むと、グイっと引かれて起こされた。
「続きはぁ、またそのうちな」
ちょっと素っ気ない態度も、だるそうなカンジもいつもと全然変わらないけれど。
腕は優しく腰を抱いて、大事そうにあたしを引き寄せる。
銀ちゃんは何か思い出したような顔をして、神楽ちゃんの手からカメラを取り上げた。
手の中のカメラを眺める目がうっすらと、嬉しそうに笑っている。
「うん。・・・そのうち、ね」
ああ、あたし。
この人を好きになってよかったなあ。
嬉しそうな銀ちゃんの表情を見ていたら、あたしまで嬉しくなってきた。
はっきりした理由なんて自分でも判らないし、このあったかい気持ちがどんなものなのかは、
銀ちゃんにだってうまく説明出来そうにないけれど。
心から思える。好きになったのがこの人で良かった。銀ちゃんに会えて良かったって、心からそう思える。
だからこれはきっと、すごく大切な気持ちなんだろう。
知りたいな。銀ちゃんのことを、もっと知りたい。
知る度にもっと、銀ちゃんを好きになっちゃうかもしれない。
どうしよう。
好きすぎて困っちゃうくらいに、好きになっちゃいそうなのに。
・・・・・なんてことは、今から調子に乗せると後が大変そうだから、銀ちゃんには黙っておこうっと。
銀ちゃんの肩にそっと頭を載せる。
肩越しに横顔を見上げると、目が合った。
こんな人だっけ、と思うくらいに、見たことのない優しい目をした銀ちゃんが、あたしに向けてカメラを構える。
カシャッ、と軽いシャッター音が響いた。
「 咲耶姫前奏曲 ―さくらプレリュード― 」
text by riliri Caramelization 2009/04/03/
過去clapにいる二人です