その眼は最初っから最後まで、あたしを見てはいなかった。
視線はこっちを向いている。
親の仇打ちにでも来たかのような、物騒な色を宿した目は。たしかにこっちを睨んではいる。
けれどあたしを見てはいない。跨って見下ろしたあたしの裸を遥かに通り越して、どこか遠くに注がれていた。
敷かれた布団も畳敷きの床も通り越して、何か別のものを見下ろしているとしか思えない。
買った女の味がお気に召さない。そういう不満の匂う眼じゃない。
ずっと男の相手をしてきたから、一度二度の見覚えはある。この類の顔は、女の違いに興味がないのだ。
目の前に用意された身体が、中に吐き出せるように出来てさえいればいい。それ以上を女に求めない。
顔も身体も愛嬌の有る無しも、どうでもいいんだろう。どこ吹く風の上の空。こころここに在らずってやつだ。
『お待ちください、土方さま、先触れもお迎えする支度も、まだ何も』
『なら、やめておくか。これ以上ふざけた目に遭わされるくれえなら、さっさと帰って寝たほうがましだ』
『まあ、そんな。重ね重ねに失礼を、申し訳ございません。どうかお気を静めて、なんとかお察しくださいませんか』
『静めなきゃなんねえのはあいつのほうだ。目ェ離したすきに、剃刀でスパッといくかもしれねえぞ。
自傷騒ぎが噂になりゃあ、看板に傷もつくだろう』
『いえ、あの子のことはもう。それより土方さま。女のほうにも心構えは要るんでございますよ。お客様をお迎えするには、色々と』
『嫌なら止めだ。うちの奴等を連れて屯所に戻る。そうなりゃ付き合いもこれが最後だ、もう二度とここには来ねえ。
ついでにてめえんとこの帳簿の黒さも、台帳と金庫番ごと連れてってやる。遅くとも明日には、上に引き渡すとするか』
芝居ががって声高な駆け引きを続けながら、足音が近づいてきた。
ぎしぎしと軋む、古い廊下を突き進んでくる足音がふたつ。
やむを得ずに身体を売るのを仕事にして、ここが三つ目の店になるけれど。
どこも同じだ。楼閣の回廊はどこも古くて、飴色に光る板敷で。どこもぎしぎしと折れそうに軋んで、同じ音がする。
恐縮しきりの困り顔を貼り付けた、ここの女将を従えて。ついさっき、この男はあたしの部屋にやってきた。
腰の挿し物は気に食わない。けれど、声も掛けずに戸を引いて上がり込んできたときは、いいと思った。
造作がどう良いのかよりも、いい面構えだと思った。おもわず見惚れて期待した。それが間違いだった。
期待はずれもいいところ。
あたしのような薄っぺらい暮らししか知らない女の目なんて、まったく当てになるもんじゃない。
最初の客の顔なんてすっかり忘れてしまうほどの数の相手をこなして、男をあしらう手管は身についた。
けれど才能がない。金遣いの派手なお客を一目で見極めるには、まだまだ遠い。
肝心の男を見る目が、いまだにものになっていないんだから。
女将が部屋を退いてすぐに、男はあたしを手荒く押し倒した。そこで間近に顔を見てしまって、もう、ムッときた。
嫌なやつ。どんな客の相手をするのが嫌かって、こういう手合いがいちばんきらいだ。
幕臣の何がどう偉いのか知らないけれど、気取りやがって。なんて嫌な顔をするんだろう。
一晩春を買うことに息巻いた男の、隙だらけのにたり面じゃない。
さっきもそうだ。あの見下した態度ときたら、可愛げも何もあったものじゃなかった。
あたしに流し込んで身勝手に果てて、目を開く瞬間。
どんなに見栄っ張りな勢いづいた小僧でも、どんな威張ってふんぞり返った爺さんでも。
男はみんな、幼い子供が母親を見上げるような目になる。呆けて意地の溶けた顔になる。
子供時分はこんな顔だったのだろう、と匂わせるような。ああいう間の抜けた、愛すべきいじらしい表情を見せなかった。
低く呻いて果てた後に薄く見開かれた眼は、つんけんと気障に尖っていた。
てめえがどんな顔でいったのかなど、憶えていやしないんだろう。全身から空気を圧すような怒気を振りまき始めた。
女を抱いた後じゃない。まるでこれから親の仇でも討ってやろうかってときの顔だ。
「退け」と睨みを効かせてひとこと。
布団を奪って腰まで引っ被り、あたしを押し退けて横たわる。汗の光る背中をこっちに向けて、無言で煙草をふかしはじめた。
その横柄さが頭にきて、あたしは親切に態度の悪さを指摘してやることにした。
「ねえ。お兄さん」
男は返事をしなかった。
けれど、黙れ、とも言われていない。だから構わず続けることにした。
「あたしはあんたの親の仇じゃない。商売ものの女だよ」
煙草の煙にまぎれて、覚えのある香りが流れてくる。
組み敷かれたときも感じた。この男の胸からは、ここの看板の姐さんが気に入りの、しつこくて重たい香の匂いがする。
あの姐さんの支度部屋で焚きしめられているのと、同じ薫り。ということは、この男はあの姐さんの馴染みなのか。
「あんたが昼間に、どれだけ偉いことをしているのか知らないけどさ。
ここじゃあたしがあんたを導くの。相手がどんなお大尽さまだろうと関係ない。大事な身体使って癒してやるんだ。
ここで遊ぼうって間だけは、あんたよりあたしが偉い。お侍さまよりあたしのほうが立派なんだよ。判る?」
つとめて剣呑に言いながら、不思議になってくる。
姐さん以外にも客受けの良くて男好きのする、若い娘はうんといる。女将の様子からして、上客にしか見せない扱いだったのに。
なぜこいつは年嵩張った新入りの、しかも客の選り好みがきついあたしのところに回されてきたんだろう。
「だから。いくら金を積まれたって、そこまで見下した面をされる覚えはないんだ。今すぐ出てってくれないか」
背中を軽く蹴ってやったら、男はやっとこっちを向いた。
向けられたのは、つまらない咎で捕まった罪人でも検分するような、きつくて醒めた眼だった。
それでもこの場にあたしがいることだけは、ついに認める気になったらしい。ようやく口を開いた。
「親の仇。そんな顔だったか」
「ああ。あんた感じが悪いよ。そこのヤツで刺してやろうかと思うくらいに、嫌な顔だね」
顎で指した布団の脇に置かれているのは、この男が身につけていた腰の挿し物が二本。
それをちらりと眺めると。男はなぜか急に、楽しそうな顔になって笑った。
笑い顔の人相が、見ていて不気味になるほどに悪い。
「だったら。俺を殺るか?」
ぱっと起き上がると、脇に置いてあった挿し物の短いほうを掴んだ。
「このあたりだ。コツも何もねえ。真正面から腹に力籠めて、ぶつかってくりゃあいい」
胡坐をかくと自分の下腹近くをパン、と叩いて、あたしの手を取る。刀の柄を、両手でしっかりと握らせた。
生まれて初めて手にした刀だ。あたしは呆然と自分の手を見下ろしていた。外された鞘の中から、刃がぎらりと顔を出す。
男の手のひらで抑え込まれて持たされたものは、ただ気配の悪い、硬くて重い棒切れとしか思えない。
見下ろした刃が薄暗い部屋のわずかな光を拾い集めて、青白く輝いている。気味の悪さに背筋が冷えた。
「なに、遠慮はいらねえ。
だがなあ、しくじったら承知しねえぞ。怪我も痛みも慣れちゃいるが。最後くれえは楽に逝きてえんだ」
淡々とした顔には何も浮かばない。表情には隙がなかった。
澱みの無い早口な口調も、白々しいほど真剣だ。からかっているのかとぼけているのか、それとも本気なのか。ちっともわからない。
けれどひとつははっきりしている。ここまで妙で頭のおかしい客を相手にするのは、はじめてだ。
「躊躇うなよ。躊躇っちまえば俺だけじゃねえ、お互いに地獄の手前で足踏みだ」
「いいの。こんな女に殺されても」
「ああ。冥土に着いたら自慢するさ。なにせお前は立派な女だ」
咥えた煙草の先を揺らしながら、男は答えた。はっ、と短く、だるそうな顔で笑った。
「どこかの汚れた馬の骨じゃねえ、こんなご立派な女に殺られるんだ。
いい土産話になる。向こうじゃ羨ましがられること請け合いだ」
ご立派な、にやたらと語気を強めて誇張を入れやがった。
からかい口調が気に障る。小突いてやろうと拳を突き出す。
眉も動かさずに見切られて、拳を掴まれ肩を押された。刀が畳に転がって、その隣にあたしも転がされた。
仰向けに倒れた上に、男はのしっと跨った。
肌蹴ていたあたしの襦袢の衿を掴んで、大きく広げる。肌が露わに晒された。
「そういやお前。見ねえ顔だな」
ここじゃ新顔だからね。そう返すと、男は黙ってじっとこっちを見てくる。
なんて目線のきつい奴だろう。ここまでずけずけと、真っ向から。
女の扱いがひどく下卑た、誰にも好かれない客筋だって、こうも遠慮なしに見たりはしない。
やっぱりおかしな男だ。頭のどこかのネジが一本、抜け落ちているらしい。
こんなのを、これ以上相手にはしたくない。
黙って身体を見せてやるのも癪だ。襦袢の衿を奪い返して、前でしっかりと合わせた。
「ねえ。あんた、うちの姐さんを袖にしてここへ来たんだろう」
どうして、と訊いたら、知りてえか、と一言。
黙って頷いたら、さっきあたしに持たせた短いほうを目で指した。
「お前んとこの姐さんは、あれに悪さをしやがった」
「悪さって」
男は、こうだ、とつぶやいて、あの姐さんがしでかしたことの真似をする。
短いのを手に取り、柄を両手に握る。刃の先を首筋すれすれにかざしてみせた。
「次に来る約束をしねえと、今すぐこいつで喉切って死ぬ、だとよ」
「へえ。ロクでもないね」
「ああ。仕方ねえから刀ぶん奪って出て来たらよ。女将どころか、男衆まで総出で騒ぎ立てやがって」
過ぎたことはどうでもいいとばかりに、鞘に納めて刀を放り出す。目を伏せて思い出し笑いを浮かべていた。
やっぱりあれは、そういう女か。
匂いのきつさに辟易して、なるべく近寄らずに過ごしてきたけれど。遠巻きにしたのは正解だった。
周りの迷惑も考えずに、あんなきつい香を選んで焚くような女だ。
男に夢中になったら、人目を気遣うような気が回らなくなる。不安定で馬鹿でみじめな。ひたむきな女なんだろう。
だけどそんな女の哀れさを、一息に笑う。この男は、いったい何様のつもりでいるのか。
「ロクでもないのはあんただよ。そりゃああんたが悪い。馬鹿じゃないの」
腕を伸ばして、あたしは刀を掴んだ。
手が届いた長いほうは、さっき掴んだものよりもずっしりと腕に堪えた。
「こんなものを、色恋と仕事の見境がつかない奴の前に置くからだ。軽々しく放り出すあんたが悪いよ。
触られたくない大事なもんなら、鍵でもかけてしまっておきゃあいいじゃないか」
重くて持ちあがらなかったそれを、あたしはずりずりと引っ張り寄せた。
両手で握っても手が震えるくらい重い。ゆらゆらと揺れる先端を、なんとか持ち上げて男の首に突き付ける。
男は片眉を吊り上げて、怪訝そうに見下ろしている。何がしてえんだこいつは。そんな顔に見えた。
「あんた、頭がおかしいよ。第一、あたしには簡単に触らせたじゃないか」
「お前はいいさ。なにしろ立派な女だからな」
「いい加減にしないと追い出すよ」
「追い出してみろ。それともお前、あの強欲ババアに折檻されてえのか」
凄味を利かせてそう言って、じろりと睨む。
こっちが下手に出るしかないと決め込んで、脅しをかけてきた。馬鹿にしている。
「あの女将。どうかどうかの繰り返しで縋りつきやがって、引き下がりゃしねえ。
うちの奴等の手垢がついてねえのが一人でもいるなら、出してみやがれと脅したら。おめえが出てきた」
「出ちゃいないよ。あんたが勝手にズカズカ踏み込んできたんじゃないか」
口から煙草を奪い取って、あたしはひさしぶりの煙を悠々と味わった。
客前で吸ったと知れたら女将に叱られる。だけどこの男の前だ。どうせもう来ないだろうし、構いやしない。
「おい。名前は」
「はあ?」
「そのうちにまた寄ってやる。声をかけてやるから名前を教えろ」
「嫌だよ。厭味で頭のおかしい客に呼ばれたかない」
冗談じゃない。どうせ二度と見ない顔だと思ったから、客には見せない素の態度をずけずけと通したのに。
こんなのに居着かれるのは嫌だ。いくら羽振りが良い客だろうが、割が合わない。女将が巻き上げるお代以上に気疲れしそうだ。
刀の先を男の頬にぐいぐいと押しつけて、あたしは抗った。
「これ以上遊ぶ気がないんなら、もういいだろ。さっさと物騒なもん持って帰りやがれ」
ははっ、と気味の悪い笑みをひらめかせて、男は刀をもぎ取った。
ついでのように煙草も奪い、刀の鞘にその先を向ける。大事なはずのそれに、迷わず押しつけて火を消した。
あたしはちっ、と舌打ちした。
「気に入った」
言葉通りには取れそうにない、興味なんてなさそうな醒めた声だった。
表情も同じ。こっちを見透かしたような、気を許せない奴の顔だ。見下ろしたあたしの頬を、ピタピタと叩く。
「肝が座ってやがる。あの女を抱くよりは、面白れェ目に遭えるだろうよ」
「・・・・・最低だね」
「おい。名前は」
「教える義理はないよ」
「いいのか。こっちは客足ひとつ増やしてやろうってえのによ。
そのひねた態度だ。どうせロクな贔屓筋は持ってねえんだろう」
言われてムッとはしたけれど、当たっているだけに考え込まされた。
女将のあの態度からして、金払いはいいんだろう。それにこの見た目は、嫌いじゃない。
時々眺めるぶんには、ちょっとした興になるかもしれない。あの姐さんには気の毒をするけれど。
「・・・・次に、来るときに。土産のひとつも持ってくるなら、教えてやってもいいよ」
「ああ。」
「。」
「それァ、妓名か」
気づかずに、親に貰った名前のほうを口にしていた。言われてはっとした。
「初瀬。・・・次に来たときは、初瀬で通してよ。兄さん」
「。土産は何がいい」
初瀬だよ。念を押しても、男は聞こえていないような顔をしている。反応がない。表情がなかった。
頬にかけられた指は熱くて、あたしの肌の弾みを試すかのようにぎゅっと押してきた。
暗い目に宿った光は、最初に押し倒されたときと同じだ。物騒な色に染まっている。
あれはこの男の、そういう時の目なんだ。女にしてみれば、押し倒される前の合図みたいなものか。
とっくに押し倒されているのに。笑顔で受け入れて、男を導いてこその商売なのに。
あたしはなぜか返事を躊躇った。
応えてしまえば、始まってしまう。
ここから始まってしまうのが、毎夜この部屋で繰り返している、芝居じみた戯事以外の何かだと。
それだけははっきり判っていた。
「・・・・・花か、甘いもん」
襦袢の衿に手が掛かる。開かれた中に、男は噛み殺した笑いを洩らしながら顔を埋めた。
二度目は柄にもなく、新客の機嫌取りでもない、演技でもない、甘ったるい声が出そうになった。
どうしたわけか、あちこち触れられるごとに身体がふにゃふにゃに緩んでいく。
遊びなれた旦那たちに覚え込まされた、商売用の手練も何も。使う余裕など、あったものじゃなかった。
顔を枕に押し込んで、声を殺してこらえた。身体の制御がきかなくなってしまった。
終えた後で、男はあたしの唇に触れた。軽く撫でるようにして、触れるだけで終わった。その手がなぜか心地よかった。
次にその男が。土方が来たのは、その夜から一月と十日も経ってからだった。
裸で交わした口約束を真に受けるほどに、甘い暮らしを送ってきてはいない。
待ってなんていなかった。なのにその顔を見たら、せつなくなった。あたしは急に拗ねたくなった。
愛想の無いあの顔を見るなり、頬を膨れさせてぷいと顔を逸らしていた。
商売ものがいったい何をしているのかと、自分でも驚いた。お客に向かってこんな態度、今まで取ったことがない。
酒膳の前に座っていたあたしの膝に、あいつは小さな箱を投げて寄越した。
大きさの割にずっしりと重い。何かと思って前に立った男を見上げると、厳しい顔で上着を脱いでいた。
「土産だ」
「・・・いつの話だよ。あんた、こんなもんをどこまで買いに行ってたのさ」
いやに感情的で甘えた声が出て、また自分に驚いた。
土方はあたしの不機嫌を気にする様子もなく、入ってきた障子戸に振り向いて顎で指した。
「そこの菓子屋だ。中身は知らねえが、饅頭がどうとか言ってたな」
「じゃあ要らない。餡子は嫌いだ」
「あァ?・・・そういうこたあ先に言え。どうもお前は、注文の多い奴だな」
「そうだよ。あたしはこういう奴だからね。気に入らないなら、あの姐さんのところに行けばいい」
箱を突き返してピシャリと言ってやったら、あいつは目にしたこっちがぽかんとしてしまうくらい、屈託のない顔で笑った。
笑いながら、あたしに脱いだ上着を放る。さっき見上げた厳しい顔は、どこかへ消えてしまっていた。
隣に座った男が杯片手に、酒、と急かしてくるまで、あたしはその顔に見惚れていた。
最初からこんな顔をしてくれていたら、あんな高飛車な態度は取らなかったのに。そう思ったら、ますます拗ねたくなった。
しばらく酒を啜ったあとで、あたしの首筋に顔を寄せてきた。すうっと深く、息を吸い込む。首筋を吐息の熱が掠めた。
あたしは来るのかと思って肩を引いた。いつものように、身体が男の喜ぶ仕草を選んでいた。
いつものようにやっただけ。なのに心臓はいつもと違って、音をたてて大きく動いた。
けれどそれ以上のことは起きなかった。首筋のあたりで顔を止めた男は、すぐに姿勢を戻して口許に杯を運ぶ。
盃の中で揺れる水面を見下ろしながら、あたしをからかい始めた。
「お前。昼間ァ外でもうろついてんのか」
「寝てるに決まってんだろ。」
「お前だけ、ここいらの女と匂いが違う。化粧の匂いがしねえ。日向の匂いだ」
「あんたは煙草臭いよ」
ほんのかすかに血の匂いもする。とは、言わなかった。
酒の席には合わないことばだ。それに。生臭さを口にしたら、もうこの男は二度とここに来ない気がする。
金を払ったくせに。女を買いに来たくせに。その夜は触れもしなかった。
ぽつぽつと訊かれたことに応えて、注いだ酒を淡々と煽って、一人で布団に潜って寝てしまった。
あたしは隣に滑り込んで、だらりと伸ばされた腕を枕にして寝転んだ。
疲れきった人の顔だ。ぴくりとも動かない、顰めっ面の寝顔。ムッとしているときと同じ面なのに、いいと思った。
飽きずにじっと見ているうちに、いつのまにか眠っていた。ただ同じ布団に包まれて、朝までひっそり眠って。
他の客が起きてくる前に、あいつは帰った。出ていく頃には、また厳しい顔に戻っていた。
障子戸から顔を覗かせて、廊下を派手にぎしぎし言わせながら帰る背中を見ていた。
廊下をいそいそと進んできた女将と数言、何かを交わして。土方は階段を下っていった。
狐につままれたような顔でこっちにやってきた女将は、何なのかねえ、とこぼした。
「初めてだよ。どんな子を宛てがっても居着かなかったのが、二晩も泊っていくなんて」
ふうん、とあたしは気の無さそうな返事をした。胸のうちでは、飛び上がりたいくらいだった。
あの姐さんは店を出て行った。贔屓だった大店の旦那に請われて、貰われていくことになった。
薄化粧に格子柄の落ち着いた着物。町屋の女らしくなりを作った姐さんからは、もうあのきつい香りはしなかった。
「あの人は、あんたなんか見ちゃいないよ」
他の子たちの後ろに隠れていたのに、姐さんは目ざとくあたしを見つけた。
つんとした声でこっちに放ると、女将や男衆に頭を下げる。清々したような顔で旦那の後をついていった。
見送りを終えた連中と玄関をくぐる。
冷やかしも悪口も口々に混ぜながら。表向きはうるさいくらい賑やかだけれど、みんなどこかさみしげだ。
あーあ、羨ましい。あたしだって、ああいう気の良い旦那がついてくれたらさあ。
階段を上がりながら、ここでは古株の女がつまらなさそうに愚痴った。
わかっちゃいない。ここに閉じ込められるのと、男の用意した籠に閉じ込められるのと、どこが違う。
あの姐さんの自由は広がっちゃいない。せいぜい飼われる籠の大きさが変わっただけ。
ちんまりした家の中だけだったのが、近所を散歩する自由が出来た程度に広がっただけ。
そんなものは自由じゃない。自由じゃなくて不自由だ。
男に飼われるなんて、あたしは御免だ。残りの借金を綺麗にするまで、あと数年かからない。
それさえすっきり片付いたら、自分の足でここを出ていってやる。
小銭程度にしかならない稼ぎでいい。ちっぽけな家の窓から、毎朝お陽様を見上げて目を覚ます。
胸を張って、貧乏暮らしを笑って送る。それがあたしの夢。細々とささやかな、けれど自分の腕ひとつで描ける自由だ。
あいつはその次の夜に顔を見せた。姐さんの祝い事を報せるついでで、そんな話を聞かせた。
「借金てえのは、てめえで作ったやつか」
違うよ、とあたしは首を振った。
「前借りしたんだ。五年分。弟を学問所の先生につかせたかったから」
そう言ったら、酒を呑む手も止めて目を見張っていた。この男が驚いた顔を見たのは、それが初めてだった。
五年分の稼ぎを前借りして、あたしは自分から遊郭に踏み込んだ。
止してくれと泣いた母親も振り切って、家を出た。あたしが弟にしてやれることの中で、一番良いことを選んだつもりだった。
五年ぶんの稼ぎくらい、目を瞑って我慢していりゃあ済む。そうたかを括っていた。甘かった。
気に入らない男の相手をつとめるのは今でも嫌だし、金遣いの派手なお偉い様に愛想を使うのも上手くならない。
勢いだけで家を飛び出してきた甘さを、毎日思い知らされる。けれど不思議と、身体をお金に換えたことを後悔はしていない。
弟のため。あの子のためだ。それにあたしがめそめそと後悔したら、あの子が気に病む。
「これがどうしてあたしの弟かってくらい、出来のいい子でね。寺子屋上がりで終わるだけじゃ勿体なくて」
「嫌がったんじゃねえのか」
「は?」
「俺ならそんな金、突き返すさ。てめえのために姉貴に身体売られたんじゃ、坊主も立つ瀬がねえだろう」
「うん。別れたときは、口も訊いてくれなかったね」
十五、六の子供には、辛い思いだったと思う。
小さい頃からいっぱしの男のつもりで、あたしと親を護ろうとしてくれた。あの子の気持ちを傷つけた。
「他に仕様がないよ。学も才も、女らしい嗜みもない。大きな額を稼ぐには、これしかなかったから」
「嗜みならあるだろう。たいしたもんだぜ、てめえは」
おかげですっかり手懐けられた。
自分が土産に持ってきた菓子の箱を、目で指した。その中から干菓子をひとつ摘んで、あたしは口に落とした。
さらさらと溶ける甘さに気を良くして、あいつの口にも押し込もうとしたら、いらねえ、と手で避けられた。
「あたしさ。あの姐さんは脆い人だと思ってた。案外頑丈な人だったんだねえ。
あんたのことなんて、もう顔も忘れかけてるんじゃないの」
ふん、とあいつは鼻で笑った。黙って呑んでいるうつむいた顔は、どこか嬉しそうに見えた。
こうして顔を見るのは何度目だろう。
あたしのひもじい客筋の中で、この男は一番の上客になっていた。
次はいつ来る、と約束をしたことは一度もない。時間も夕方だったり、真夜中だったり。
いつも連絡も無しに、先触れも何も通さずに、勝手に部屋まで乗り込んでくる。
自分より先に、あたしの部屋で床に入っていたお客を足蹴にして追い出したこともあった。
さすがに呆れて叱ったら、堪えてもいないふてぶてしい面で布団に胡坐を掻いた。
白い繻子地に覆われた、分厚い羽掛けをさっと撫でる。
「お前の布団は寝心地がいい。屯所に持って帰りてえくらいだ」
「幕臣さまの稼ぎなら、布団なんていくらでも買えるじゃないか!」
パンパンと、埃が出るほど布団を叩いて言い返した。
この布団の寝心地がどうかなんて、思ったこともない。寝心地なんて気にしていたら、仕事にならない。
だいたいこれにくるまってじっとしていられるのなんて、こいつが来た時だけだ。
最初の一晩で抱いてから、土方はあたしに手をつけようとしない。触れもしなかった。
いつも陽が顔を出すまで、死んだみたいに固まって目を覚まさない。あたしは怒ったような寝顔を眺めながら隣で眠る。
何度来てもその繰り返しで、しかも妙に律儀なところがある。何もしないくせに、土産はいつも欠かさなかった。
やっぱりおかしな奴。変な男だ。女より布団が恋しいなんて。
「なんだ。目当てはあたしじゃなくて、布団か。」
「ああ。布団は土産だ何だと煩くしねえな」
そう言って懐から突き出したのは、紫色の包みだった。餡子は入ってねえ、とぼそっと断りを入れてきた。
受け取った小さな包みを、大事に両手に包んで見つめていたら。抱きついてしまいたくなった。
土産よりも欲しいと思っているものがあることに、気がついた。
あたしのほうから、したい、と言ったら。笑うだろうか。
姐さんがいなくなって、しばらくした頃。軒を叩く強い雨音しか聴こえない真夜中に、ずぶ濡れで現れた。
「店仕舞い間際で、他にはロクなもんが残ってなかった」と言い訳して押しつけてくる。
白百合の花は、小ぶりだったけれど匂いが強かった。どこから見つけてきたんだか。この遅い時間に、開けている花屋があるなんて。
女将から借りてきた花瓶に適当に差し込んでいると、あいつはいつのまにか後ろに回っていた。
濡れた制服を脱いで、あたしの派手な長羽織を引っ掛けている。覗いた腹のあたりには、斬られたらしい傷跡が斜めに残っていた。
中腰に屈んで覗き込んでくる姿は、啖呵を切るやくざ者みたいで可笑しかった。
「こんな匂いのきつい花。他の客に嫌がられるよ。もう少し大人しいのを選べばいいのに」
「そりゃあ、何てえ花だ」
「百合だよ。そんなことも知らないの」
「そのくれえは判ってる。何て種類の百合だって訊いてんじゃねえか」
「あたしに訊いて判るわけないだろ。草花に詳しくないし、学もないし」
活け花なんて女らしい嗜み、縁が無いんだから。ブツブツと文句で返した。
「学なんてもんは、俺にも無えが」
花を眺めていたあいつは、懐かしい、と表情のない声で漏らした。
「田舎の。知り合いの庭先に毎年生えてた。あれもこんなやつだった」
花を眺める目は、鋭さのない遠い目だった。
口許に柔らかく笑みが浮かんだ。初めて見る表情だ。こんな穏やかな顔も出来たのか、こいつは。
花は何度か貰った。今までは、部屋に飾っても目を向けることはなかった。
なのに、この花には余程思い入れがあるのか、珍しくじいっと、いつまでも眺めている。その様子が気になった。
仕事以外に興味の無さそうな、この男が。花に思い入れなんてするだろうか。
「しょっちゅう通ってたんだね」
「まあな。使いでよく行かされた」
「この花だって憶えちまうくらい、通ってたんだね。そこに」
「ああ。そこにムカつくガキがいてよ。これが」
「そこに女でもいたんじゃないの」
あいつはぴたりと黙ってしまった。
花から目を逸らして、あたしを見た。口許から笑みは消えていて、戸惑ったような目をしていた。
「気になるのがいたんだろ、そこに。ねえ。どんな人」
「似てるな」
「・・・・誰に?」
「見た目にゃ出ねえが、気が強え。弟ばかり気遣って、・・・・・」
しばらく口籠ってから、中腰だった身体を起こした。酒には見向きもしないで布団に横たわると、すぐに寝息をたて始めた。
冷え冷えと、体中の血が醒める。
何も口にはしていないのに、気持ちを告げてふられたような気になっていた。
あの人は、あんたのことなんか見ちゃいないよ。
あれは男を取られた悔し紛れでも、意地悪でもなく。あの姐さんなりの忠告だったんだと。その時になって気がついた。
最初の夜。あたしを押し倒したときの、あの眼は。組み敷いたあたしを遥かに通り越して、遠く離れたところを見ていた。
真白な百合の花咲く家に住む、清い女を夢見ていたんだろう。
こっちへ出てきてもう随分経った。前にそう言っていた。
会わなくなって随分経った。それでも、まだ。今でもその女を思っているのか、この男は。
最後の一輪を無造作に差してから、淡く緑色を帯びた花芯のあたりをぼんやりと見つめた。
しっとりと記憶にからみつくような、甘い香りを放つ白い花を透して。あたしは知らない顔の女を眺めた。悔しいような、悲しいような。途方に暮れた気持ちになった。
次の朝。雨雲はいなくなって、空は真っ青に澄んでいた。
あたしは帰る男の真っ黒い頭の天辺を、二階の窓から眺めていた。外まで挨拶に出た女将と、土方は何か話し込んでいる。
女将の笑顔はいつにも増して皺が多くて大袈裟で、何があったのかはしゃいで見えた。
どうして気配に気づいたのか、あいつは立ち去り際に、こっちに目線を向けた。目を合わせるのも辛くて、あたしはふらりと顔を逸らした。
夜は気配も和らぐのに、朝になると厳しい顔に戻っている。あたしの気持ちを見透かして、じろっと睨んだようにしか見えなかった。
ぺこぺことお辞儀で見送った女将は、見下ろしていたあたしに気づいて、手招きをした。
階下へ降りていったら、突然飛びつかれた。
「あれをひかすにはいくら積めばいい。そう仰ったんだ」
「なんだい、その顔は。もっと嬉しそうに出来ないのかい。あんたを落籍せるってさ。ただ、ねえ。」
「旦那になる気はないそうだ。借金の肩は持ってやるから、自由にしてやってくれって」
「あそこの旦那達には数年贔屓にしてもらってるけどね。どいつもこいつも変わり者ばかりだよ。
中でもあの人ぁ、いったい何考えてるんだか。初めてだよ、娼妓を落籍すのに、こっちの弱味をちらつかせて・・・・・・」
放っておけば長くなりそうな話を、最後までは聞かなかった。
下駄を引っかけて着物の裾を太腿まで掴み上げて、暖簾を跳ね上げて。店の玄関を飛び出し、あたしは数年振りに町を走った。
いくつか細い角を曲がる。後ろから怒鳴り声がした。店の男衆が数人、追ってきていた。
大通りに出たところで、黒い制服を見つけた。気配に勘づいて振り向いた奴に、無言で掴みかかる。
腹に力を込めて身体ごとぶつかって、押し倒してやった。
「誰がそんなことを頼んだ。誰があんたなんかに、同情されたいもんか」
路上に倒された男は、苦い顔で口端を大きく下げていた。叫んで暴れるあたしの腕を、容易いことのように抑えた。
それでもめちゃくちゃに腕を振り回して、顔に爪を喰い込ませる。長い引っ掻き傷が、あいつの顎に赤く流れた。
「お前の金なんか、いらない、もう二度と来るな、ばか!」
そこへ男衆が追いついて、今度はあたしが路上に押し倒された。
すぐに連れ戻されて、そこから二日。物置に閉じ込められた。男にふられて泣き明かすにはちょうどいい長さだ。
目をぱんぱんに腫らして、二日ぶりの風呂場でお湯を使った朝。鏡に向かった。
いつの間にか素人の娘のような気になって、うつつをぬかしていた自分を笑った。
それから一週間は、お客を相手にしながら居眠りしそうになるくらい忙しかった。
ちょっと気を抜くと鬱々としてくる自分が、情けなくて嫌だった。毎日毎晩、間を空けずに無理に客を詰め込んでもらった。
そこへあいつは押し入ってきた。男に跨っているあたしを見ても、顔色ひとつ変えずに言い放った。
「兄さん。悪りィがこっちが先客だ。明日にでも出直してくれ」
羽掛けを荒く蹴り上げる。腰に差したものにわざと手を掛けて、凄んでじろりと睨んだ。
しばらく呆然としていたお客は、上にいたあたしを大慌てで押し退けた。着物や帯を掴んで部屋から逃げだした。
客の背中を見送ったあいつは、ふん、としてやったような顔をして息を吐いた。
障子戸の前に落ちていたあたしの襦袢を拾い上げると、頭から落として被せる。
布団の上に、ぽい、と何かを放り出した。羽掛けに軽く沈んだのは、紫色の包み。前にあたしが美味しいと褒めた干菓子だ。
見上げると、苦々しく眉間を寄せてこっちを見る。すぐに目を逸らした。
「さっさと着ねえか。目の毒だ」
「遠慮しないで、好きなだけ見ればいい。あんた、あたしのお客なんだろ」
一度しか手をつけてない女に、数年分の大枚はたこうなんて。大馬鹿者だ。有難すぎて反吐が出る。
お客を勝手に追い出されたのが頭に来ていた。なのに嬉しかった。一週間ぶりに見る顔が、長い間ずっと見ていなかったように懐かしい。
悔しい。一週間かけて、やっと心の中を落ち着かせかけたのに。一瞬で掻き乱されてしまった。悔しくて、やり返したくなった。
あたしは襦袢を肩に掛けただけで、この男が一番嫌がりそうな真似をした。
ひざまずいて、腰に抱きついて。鼻にかかった声で、うんと甘えて芝居を打った。
「ねえ。何でもさせてあげる。洒落にならない額を積んでもらうんだ、あんたの好きにしていいよ」
「いいから受け取れ。どうせ俺が持っていたって、他に遣い道もねえ」
嫌がって怒るはずの男は、淡々とした口調で言った。あたしの腕を腰から外すと、差した刀を見下ろした。
要るのはこいつの研ぎ賃くれえのもんだ。皮肉っぽくつぶやいて、目の前に腰を下ろした。
あたしの手を取ると、さっき落とした干菓子の箱を押しつけてくる。
箱を持たされたあたしの手は、大きな手で包まれていた。こんなに触れたのは、最初の時以来だった。
律儀に押し付けられる土産よりも、あたしが望んでいたもの。触れられたかった。触れてみたかった。欲しかったものを、やっと貰えた。
「いらないよ」
涙と一緒に、ぽろっと言葉が零れた。そこに続くのは、口にしないと決めていた言葉だった。でも、もう我慢出来なかった。
「欲しくない。受け取ったら。もう会えなくなるじゃない」
勢いで本音をこぼしてしまって、合わせる顔がなかった。あたしは布団に伏せて泣きじゃくった。
前にいる男の気配は、ずっとそのままで。あたしが泣き止むまで、少しも動こうとしなかった。
「あんな金。持っていたって誰に渡すでもねえからなぁ。まあ、死ぬまで畳の下で腐らせるよりはましだろう」
「こんなのに使うくらいなら。いい人に、花でも贈りゃあ良かったんだ」
「ああ。まったくだ」
伏せていた布団から、身体を拾い上げられる。
あたしの肩を掴んで、そこから腕へすうっと撫でた。何も言わずに抱き寄せる。
腕の中にあたしを収めると、疲れたような、深い溜息をついた。
「もし、帰っても、弟に追い出されて。行くところがなくなったら。会いに行っても、いい?」
いいとは言わないはずだ。こんなことを訊かれたら、こいつは困るだけだ。わかっていたけれど切り出した。
しばらく黙っていたけれど、いつまでたっても返事が返ってこない。もぞもぞと身じろぎして、顔を上げようとした。
黙られるくらいなら、きっぱり断ってくれたほうがいい。そう言おうとしたら、背中に回された腕が動いた。
「お前はいい女だ。」
ぽんぽんと、子供をあやすように背中を叩く。あいつは今までに聞いたことのない、真剣な口調でつぶやいた。
「。お前は立派な女だ。立派すぎて、俺には勿体ねえ」
女の機嫌を取るような奴じゃない。本音であたしに言い聞かせているつもりなんだろう。
ばか。男って、どれもみんなばかだ。
こいつも同じ。こんな目敏そうな面しておいて、どうしてこいつは気付かないのか。
この男が、お前はいい女だ、と言ってあげたかった人は。本当に言ってあげたかった女は、あたしじゃない。
最初からあたしは身代わりだ。こいつはあたしに、大店の旦那に貰われていった姐さんに。今までに抱いてきた女に。
恋しい女を透かして見ていたんだろう。
なんて未練がましい奴。なんて女々しい男。おまえなんか。もう顔も見たくない。
心の中で罵ってみようとしても、出来なかった。
似合わない未練がましさが、愛おしい。
自分のものにはならなくても、抱きしめてくれる身体が愛おしかった。
それなら最後まで、身代わりをつとめよう。あたしがこの人に返せるのは、顔も知らない女の人になりきって、この人に伝えることくらいだ。
その時のあたしは、自然とそう思っていた。
「土方さん。ありがとう」
小さく言って笑ったら、あいつは驚いた顔になった。
「ァんだ、てめえ。そういう面で笑えるんじゃねえか。そういうもんはさっさと見せやがれ」
からかい口調でそう言って、屈託もなく笑った。
その顔に手を伸ばして、あたしは唇を塞いだ。ずっと一緒の布団で眠っていたのに、唇を重ねたのは初めてだった。
そのまま布団にもつれ合うようにして沈んで。身体を繋いで、絡まり合った。何度も深く唇を重ねた。
あいつは時々、おかしそうに笑いながらあたしの頭を撫でていた。最初のあの日と同じ。触れてくる手は無造作で強すぎて、優しくはない。
女の身体の出来がもろくてヤワいことと、男で生まれた自分との頑丈さに差があることを、時々忘れてしまうんだろう。
痛くて眉を顰めたら、困ったような目になった。あたしのおでこに掛った髪を掻き分けて、そっと撫でてくる。
一度だけ目にした戸惑いの表情。そのガキっぽさが愛おしい。おでこを這う指先のくすぐったさで、身体が溶ける。
ただ繋がれているだけなのに。たまらくせつなくなる。
身体が、心臓が、こころが。ドクンと波打って跳ねて、ひといきにうねりを巻き上げながら収縮していく。
奥へと誘われて呑み込まれたあいつの低くて弱った呻き声で、あたしは正気を失くした。
与えられる律動に身体を任せて、声を我慢するのも忘れて、自分がどんな格好でいるのかもわからなくなった。
わからなくなったまま、意識が飛んで。気が付いたらいつものように布団の中で。温かい腕枕に包まれていた。
目の前で眠るムッとした顔は、死んだようにぴくりとも動かない。あんまり幸せすぎて、泣いてしまった。
朝になると、やっぱり厳しい顔に戻っていた。あいつは黙って部屋を出ていって。それきり顔を出さなかった。
店を出る日にも、あいつはあたしに置き土産を残していった。
その朝呼ばれて女将の部屋へ行くと、目先の畳に真っ白な布包みをひとつ、差し出された。
あたしを落籍せるのに、あいつは女将相手に博打まがいな値切りを打ったらしい。
その残り、つまり値切ったぶんの金が。そこに包んであった。
値切りの顛末を散々愚痴った後で、女将は諦め顔でつぶやいた。まだ店は畳みたくはないからね、と。
もしかしたらあいつは、あたしが負った借金が水増しされていると踏んで、女将に脅しをかけたのかもしれない。
後になってから、そんなことも思った。
店を出る間際に二階へ戻って、仲良くしていた子たちに短い挨拶をして別れた。気恥ずかしいから、と見送りは断った。
部屋に入って、少ない荷物を手に提げる。磨かれて飴色に光る廊下を、ぎしぎし言わせながら進む途中で。ふと窓を見下ろした。
真下に見える玄関先には、店の男衆がいる。手桶から汲んだ水を、ぱしゃぱしゃと路上に打っていた。なんとなくその頭を眺めているうちに、あの朝を思い出した。
あいつを追いかけて走った朝。あたしはここからあの男の、真っ黒な頭の天辺を眺めた。
あの瞬間だけだった。
無愛想で目つきの悪い、なにかと殺気立っていた男が。子供のようにかわいく見えたのは。
手荷物から覗いた白い包みを見下ろしたら、なぜなのか。
片手で数えるほどしか目にしなかった、あの別人みたいに屈託のない、ガキっぽい笑顔が浮かんでくる。
可笑しくなって、声をこらえながら一人で笑った。
おかしな男。嫌なやつ。最後まで勝手なやつだった。こんな手に余る土産まで、知らないうちに押しつけていって。
ぎしぎしと軋む窓枠を引いて、大きく窓を開ける。手摺に掴まって身を乗り出す。風は乾いてひんやりと冷たい。
江戸を出て、家に戻るのに半日。
久しぶりの長旅は、期待と不安を呼んでくる。心細さを吹き消したくて、すうっと深く息を吸う。
綿飴のような薄い雲を被った、くすんだ色の空を見上げた。一粒だけ、涙が手摺にぽたりと落ちた。
ばかな男だ。あんな女好きのする顔をしているくせに。
女の欲しがるものなんて、なにひとつわかっちゃいなかった。
キスだけでいいのに
title *silverseat2009* text by riliri Caramelization 2009/03/07/
silverseat2009さま提出物。お題はまみすさん ありがとうございます!