「・・・んだよ、毎回毎回。きっちり時間通りに来んじゃねーよ。」


五時限目の屋上では、バタバタと大きく布を扇ぐ音が喚いていた。
荒れた風が、給水塔の天辺に誰かが悪戯で縛りつけたままの
体育祭で使った白い旗を薙いでいる音。

ドアから顔だけを覗かせたあたしを見つけるなり、土方十四郎は嫌そうに文句をつけてきた。
口端を片方わずかに上げるだけの、すこし歪んだ笑い方で煙草を咥えている。
先から生まれる白い煙が、風に呑まれて。空に消えていく。

この生意気なガキは、きっと考えもしないんだろう。
いくら見た目が大人になっても。学校では「先生」と呼ばれる立場になっていても。
好きな男に嫌そうにされれば、女はその日、一日ヘコみっぱなしなのだということを。


外へ踏み出すと、ヒールが小さく鳴った。
スカートの裾が躍る。横殴りの風が肌や髪を洗っていく。
グロスを塗り忘れた唇が、ひりひりと乾く。
風に圧されたあたしの喉からは、返す言葉が出てこない。仕方がなくて、ただ笑った。










受け持ちの授業が無い時間を見繕っては、こうして屋上に出るのが日課になっている。

こんなふうに空が高くて晴れた日には、たいてい先客がいる。
授業を抜け出して昼寝している生徒の寝顔。昼寝組は、大抵が一匹狼のマイペースタイプだ。
気持よさそうだなあと思いながら、起こさずに眺めていたことも何度かあった。
給水塔下の壁や、屋上を囲む欄干にもたれてドアの方をチラ見しながら喫煙する男子生徒たちの群れもいる。
もう顔馴染みになってしまった喫煙組は、いつもだいたい同じメンバー。
その中に、目つきに妙な迫力のある風紀委員が混ざっていた。見つけたときは意外に思った。


「ァーにやってんだ土方オメー。
 こーゆーモンはよー、俺の目が届かねーとこでこっそり吸ってろォー?はい没収ー」

屋上へ出るドアを開けただけでは直接目につかない、背後の死角になっている場所。
陽射しの通らない給水塔の下から顔を出した土方が、奪われた煙草を横目に眺める。
ふてぶてしいことに、不服そうに顔を逸らした。顰めっ面になっている。

「ァんだよそれ」
「似てない?坂田先生のマネ。職員室じゃ爆笑だったのに」
「ぜんっぜん似てねェ。つか勝手に取んな。返せ」

この突き出された生意気な手のひらに吸い差しの先を押し付けて、灰皿代わりにしてやろうかと想像する。
熱と痛みに跳び上がったあとで、どんな顔をするんだろう。
この大人以上に落ち着き払ったヤツも、さすがに驚いた顔をするかもしれない。
たぶん、教師の前ではしない顔だろう。
クラスの子達の前では見せても、教師のあたしには見せてくれない。素の表情なんだろう。


「ガキがなにを偉そうに。学校では吸うなって言ってるでしょ」
「いいだろ一本くれえ。俺ァ他の奴等と違って、他じゃ吸えねーからここで吸ってんだ。」
「吸えばいいじゃない、堂々と。いっそ松平先生の前で吸っちゃえば?スッキリするんじゃないの」
「んな爽快感誰も求めてねーんだよ。つかマズいだろ。
 副委員長が公然と吸ってちゃ、うちのヤツらの手前の示しってもんがつかねんだよ」

見つかって学校にどう処分されるかよりも先に、委員会への影響を考えてるらしい。
理屈としては大間違いだけれど。こういう言い方がこいつらしいと思った。
ときどき高校生のくせに、高校生らしくもない大人めいた台詞をボソッと漏らす。
今も、まるで同僚の先生と話しているような気分にさせられた。

こんなときはどこか遠くを見ているような目になって、年に似合わない大人びた表情が出てくる。
いつも自分より周りを見ている、土方らしいと思う。
見た目よりもずっと面倒見がいいし、周りを大事にしているんだろう。
でも。喫煙で停学になってしまったときの自分の始末は、考えていないんだろうか。
それとも絶対にバレない自信があるのか。ふてぶてしいこの態度からして、後者なのかも。

男の子の理屈って、わからない。
まっすぐな律儀さと独特な仁義が混ざり合って、奇妙な接着剤になっている。
その接着剤でぴったりくっつけられた、測りようがなく頑固な理屈が
身体の奥でガチッと組み固められているみたい。
ほんとうのところはどうなっているのか、わからないけれど。それがわからないから、あたしは焦がれるんだろうか。

「・・・ま、それはいいけど。どこが『一本くらい』なのよ?ここにバラバラ落ちてるこれは、何よ。
 そんなに吸いたいんならねえ、最低限の証拠隠滅くらいきっちりしたらどうなのよ」
「俺じゃねーよ。どっかのバカが始末しねえで帰りやがった」

短くなった吸い殻が点々と散った床に、膝を揃えてしゃがむ。
手を吸い殻に伸ばそうとすると、靴のヒールが不安定に身体の重心を揺らした。
バランスを崩して、床に手を付きそうになる。前のめりになる。
あ、と声が出た瞬間に、肩を抑えられた。

手は突いてしまったけれど、床とキスをするのは免れた。
呆れた顔で溜息をついて、土方があたしの手首のあたりに手を掛ける。
なんの躊躇もなく、ごく自然に。大きな手に強く掴まれた。

「なァにやってんだよ。段差も何もねえのに」
「ごめん、・・・ちょっと、靴が。まだ買ったばっかりで」

こうしていても、感触に戸惑っているのは、床から引っ張り上げられたあたしだけだ。

こんな靴、履いてくるんじゃなかった。
こんな感触、知りたくなかったのに。

迂闊に触れてしまうのは嫌だった。触れずに終わりたかった。
触れないままで。声も掛けずに遠くから眺めるだけの、卒業する三月を迎えたかった。
湧いた後悔が、手首に残った体温と感触を責める。全部なかったことにしてしまいたがっている。

吸い殻が、カサカサと乾いた微音と一緒に風で転がっていく。黒い灰屑が床を渦巻いて流れながら、飛ばされていく。
あたしはもう一度、吸い殻に手を伸ばそうとした。伸ばしかけて、手で遮られる。

「ああ。いいから触んな。後でやっとくから」
「そう?悪いね」

そう返したら、意外そうな表情をされた。
よろしく、くらいのつもりで軽く返したのに。なぜか目を見張っている。

「・・・高杉の言った通りだな」
「高杉?そういえば。まだ来ないね」

同じ三年の眼帯小僧。いつもこの時間に顔を合わせる、喫煙組の常連の一人だ。
背後を振り返って、ドアのほうの気配を確かめる。
誰か来る気配も、近づいてくる足音もない。
ただバタバタと、風が給水塔の旗を揺らす音だけが吹き荒れている。

「河上も来ないじゃない。いつもあたしの後から階段上ってくるのに」

土方は無言で、床に落ちた吸い殻を目線で指し示してみせた。
うつむいて足元に留められていた目が、ためらいがちにこっちを向く。
何か言おうとして迷っているような気配を見せながら、少しだけ間を開けた。

「さっき帰った」
「帰ったって。教室?保健室?」

いや、とつぶやいて小さく首を振る。

「河上はスタジオ。高杉は。・・・女の家じゃねえか」
「ふーん。そう。」


愛想のない低い声。投げるような、ぶっきらぼうな呼び方だ。
こうして呼ばれるたびに、息が詰まる。
その声を受け止めた耳までくすぐったくなる。身体の中で、何かが溶けて疼く。
心の揺らぎをごまかしたかった。さっきまでよりも、うんと口調を強めて返した。

じゃないでしょ先生でしょ、先生。はい復唱」
先生。やっぱお前。教師向きじゃねえよな。」

じろっと睨んだら、否定するように手先を振る。
指先が煙草を挟んだままのかたちで固まっているのを、あたしの目はぼんやりと確認していた。

「俺じゃねーよ。高杉だ。
 は教師ってガラじゃねえ、・・・と、さっき高杉が言ってました。終わり。」
「ふーん。」
「はっ、んだよそりゃ。そこは一応否定しとけってェの」

皮肉っぽく笑う肩が、小刻みに揺れていた。
制服の腰のポケットに手を突っ込んで、給水塔の壁にもたれる。
並んで壁に背を預けてみる。塗装の剥げかけた淡い灰色の壁は、思いのほかひんやりしていた。

「で?あんたもあたしが教師向きじゃないと思ってるんだ」

訊かれてすこし考えたんだろうか。頭が僅かに傾いた。鴉の羽色の髪がざわざわと、風に靡いている。
まあな、とひとこと、風音に消えそうな小ささでつぶやいた。

「生徒が授業サボッて、屋上で昼寝してよーがヤニ吸ってよーがチクらねーし。
 女の家に行ったって聞いても、顔色も変えねえで黙認じゃあな。んな教師らしくもねえ教師、ウチの担任とお前だけだろ」
「えー、そう?いやでも無理無理。あたしなんてまだまだだよ。どう頑張っても坂田先生には敵わないって」
「・・・アレに対抗意識燃やしてどーすんだ。つーか褒めてねえ」

おかしなものを観察するような目つきで、こっちに視線を流してくる。
なにかを探られているらしい。そう感じて、身体をわずかに引いた。

「さっきの反応もなあ。んだよありゃあ。こっちが気抜けしちまうだろーが。『ふーん』で終わりって。
 それでいいわけねえだろ?たまには教師らしいとこ見せとけよ。じゃねえと俺らにナメられんだろ」
「うーん。まあ、そうかもね。」
「だいたいよォ。お前、こんなんでこの先教師やってけんのか。んなとこ校長にでも見つかってみろよ」
「停学だね」
「良いとこ減給。悪けりゃクビだろ」
「そうだねー・・・。いや、それ困る。困るよね。今見つかるのはマズいんだけど。
 ボーナス払いでパソコン買い換えちゃったんだよね。減給もクビも来年度にしてほしい」
「・・・・。お前なあ。っとにわかってんのかよ。俺は」
「イヤイヤ、屋上でコソコソ煙草吸ってるヤツに言われてもねー。  聞く気しないって。それにさあ、――――――」

逃げたい。ここにいたい。逃げたい。
でも。隣にいたい。

来なければよかった。土方一人だってわかってたら、来なかったのに。

胸の中で唱えながら、口が勝手に動くのに任せて、思いついた適当な言葉を繋いでいく。
目を合わせたくなくて上を見上げると、雀の群れが飛んでいる。
上空の突風に吹き荒らされて、黒っぽい点々が空色の中に散っていく。

あれの一羽になりたい。飛んでここからいなくなりたい。
漠然と思ってから。そんなことは思っても、ちっとも動きたがらない自分の足を見下ろした。

「・・・っとによー。わっかんねーヤツ・・・・・・」

笑い混じりに言われた声は、どこか冷たい。
下がった声の温度にびくっとして、隣の生徒に目を戻す。
土方の眼があたしをきつく見据えてから、きっぱりと無視した。目の前をすうっと素通りして、遠くを見上げる。
苛立たしげな声で、早口にもう一度繰り返した。

「何考えてんだか。全然わかんねェよ、お前」

はぐらかした理由を、説明なんて出来なかった。
すぐ隣から風に煽られてくる苛立ちから、目を逸らして。笑って受け流すしかない。
でも悲しくなる。好きな男に二度も「わかんねェ」を繰り返されると、やっぱり落ちる。
見えないなにかに圧し掛かられたみたいだ。憂鬱な重みに襲われる。頭から否定されたような気分になる。

今の自分の顔なんて見えていない。けれど、なんとなくわかる。きっと投げやりな笑顔になっている。
でもこれでいい。今の土方にはわからないほうがいい。そのほうが、あたしには都合がいい。


あたしのこんな想いは、学校の居心地を悪くさせるだけ。数年前の自分を思い返してみればわかる。
通っていた学校の先生は皆、その空間の一部のように見えていた。
「学校」という一過性で安全な場所をかたちづけている、小さなパーツの一部。
教室に置かれた椅子。机や黒板。学校の中の先生たちは皆、そういう目印のようなものに似て見えていた。
そんな教師に好きだなんて言われたら、きっと引く。気味悪がられて当然だと思う。

そう思いながら、結局あたしはこうして屋上への階段を上がる。
上るたびに、いつも胸の中がふわふわと落ち着かない動きで弾む。
足が勝手に、おいでおいでと手招きする落ち着かなさに引っ張られていくような気がした。
その浮ついた心もとなさが怖くて。
土方の前に出ると、わざとふざけたことばかり口にするようになった。


怖かった。ううん。今だって怖い。顔を見るたびに。話すたびに好きになっていくような気がして。

時々とりとめなく考える。もしも今あたしが高校生だったら。まだ制服を着ていたら。
怖かっただろうか。近づきすぎないように気をつけただろうか。
躊躇わずに知りたがった、あの頃のあたしのほうが。かえって上手く振舞えたんじゃないだろうか。

わからない。
わかっているのは、最初は屋上で見かける問題児の一人にすぎなかった、この愛想の悪い三年生が。
あたしの小さな世界の中では誰よりも特別になって。めぐっていく毎日の、中心に居座ってしまったことだけ。



「・・・高杉が。もうひとつ言い捨ててったんだけどよ」

散っていた吸い殻が足元から、ぱらぱらと風で流されていく。
その残りを靴底でにじり潰して。土方の足が、動かなくなる。
あたしはずっと、なんとなくその足を眺めていた。言いかけの言葉は途切れたままで、なかなか始まろうとしなかった。


「・・・・・あいつの勘では、だからな。
 あいつの勘では。お前が俺を好きなんだとよ」

抑揚のない硬い声が。
早口で一気に、突風みたいに。耳を吹き抜けた。

一瞬、何も考えられなくなって。頭の中が真っ白なまま、呆然と顔を上げた。


「マジか」

ポケットに手を突っ込んだまま、隣に立っているヤツが。訝しげな、問いつめるような眼であたしを見ている。

ここは壁に日差しを遮られていて。日陰になって、暗いのに。
鋭い視線が眩しい。あたしは確かめられている。眩しくて、怖くて。身体が竦んでうまく見返せない。

呼吸がざわざわと喘いでる。心臓がぎゅっと縮みあがる。だめだ。もう。ごまかせない。


「・・・うん。マジです」

最後まで言い終わるか、終わらないかのところで。
身体はドアへ向けて勝手に弾かれていて、足は床を蹴っていた。
考える以前に、身体が逃げることを選んでた。けれど床を蹴ったヒールが頼りなく軋んで、バランスを失って。
身体がぐらっと横に傾く。給水塔の壁に肩をぶつけて、あたしは短い悲鳴と一緒に床へ崩れ落ちた。


床に着いた手のひらがひりひりして痛い。はあっ、と嫌気がさして溜息をついた。

ここまで派手な転び方するなんて。小学校以来かもしれない。しかもこんな時に。泣きたくなる。
こんな靴、買わなきゃよかった。なんて不自由な靴。
なんて不自由な身体。ここで走ってももう、遅すぎる。飛んで逃げられる雀だったらよかったのに。




立ち上がろうとしたら、低くひそめた声に呼ばれた。
指先が肩をかすめて、手首を掴まれる。
ぐいっと身体を引き上げられて、回された腕に背中を受け止められる。驚いて隣を見上げた。

強張った表情だ。口がぎゅっと引き結ばれている。
目が何か焦っているような気配で、ドアのほうを窺っていた。

どうして。どうして言ってしまったんだろう。
言ってしまえば、気まずくなるのはわかっていたのに。
赤くなった頬の熱さがわずらわしい。胸の音がうるさい。背中に回された腕で、心臓を掴まれているみたいな気分だ。


「・・・・・ごめん。驚いた、・・・よね」
「驚くに決まってんだろ」
「・・・うん。そうだよね。・・・教師がこんなんじゃ、驚く以上にキモいよね。
 やっぱ引く、・・・よね。ごめんね。あたし。もう来ないから」
「引いてねェ」
「え?」
「来るぞ」

え、と訊き返そうとした唇が、ばっと覆われる。
土方の手が、あたしの言葉と呼吸を抑え込んだ。
唇に触れた手のひらが熱い。びくっと身体が震えて、息まで止まりそうになる。
と、バタン、とドアが騒がしい音をたてて開いた。身体がもう一度、大きく震えた。

「っれーーー・・・・・。えェーーー。いないんだけど誰も。」
「はァ!?マジィ!ウッソ、いないの高杉センパイ!!」
「つか誰もいねーし、ほらァ見てみ、いないじゃん」
「んだよォ。この時間ならここにいるって言ってたのにぃーー!」



ドアが閉まる音は、しなかった。半開きのままになっているらしい。
ひどく残念そうな女の子たちの声が、パタパタと軽い上履きの音と一緒に階段を下って。遠くなっていった。

その音が遠くなるにつれて、最高潮に弾んでいた心臓の音が静まっていく。でも。
身体に残ったざわめきは、静まってくれない。



「驚くに決まってんじゃねーか」

怒ったような口調で言いながら、土方が頬を指先でぎゅっと掴む。
いたっ、と漏らしたら、掴んでいた力が緩んで。肩に置かれていた腕からも、ふうっと強張りが抜けた。
そんなふうには見えなかったけれど。土方も、あたしと同じくらい緊張してたんだろうか。

「こっちは。・・・とっくに諦めかけてたんだからよ」
「・・・・・え・・・」
「教師が。高校生のガキなんて相手にするわけねえって・・・普通は思うだろーが。
 なのに、高杉の奴が」

眉間に皺を寄せて、うつむいてブツブツと喋り続けている。
まるで独り言みたいな、すごく歯痒そうな口調だ。

「ぜってー間違いねえとか何とかぬかしやがって。お前はお前でヘラヘラと、・・・・・」

あたしのことを言いかけて、ふと止めた。
それからどこかこわごわとした、奇異なものでも見るような視線を向けて。
目が合った瞬間、うっ、と慌てた顔で呻いた。左右にフラフラと視線が揺れる。

「っっ。わ、悪りィかよ!」

びくっと肩が揺れるほどの大きな声。勢いよく怒鳴られて、あたしは固まってしまった。

「っっ、んだよ、ァに驚いて・・・・・・・・っ、
 仕方ねーだろ!?・・・どーせガキだよ。意外すぎて、うろたえてんだよ!」

しどろもどろに口籠りながらも「ガン見してんじゃねえ」と手で視界を遮ってくる。
それでも目が逸らせない。
ムッとした顔で照れくさそうに頭を掻いている。目の前のヤツしか、視界に入っていない。

「おい。何とか言え。・・・つーか。まさか。からかってんじゃねェだろうな?」
「・・・ううん。・・・からかってなんて。ない、けど。
 そうじゃなくて。ただ。びっくりして。・・・・・」

火照った頬に、風で冷えた手を当ててうつむく。
言われたのはそういう意味の言葉だと、頭ではわかっているのに。
びっくりしすぎて、何の実感も湧かない。

「先生だよ、あたし。・・・・・引かないの?」
「そう言うテメーは、ガキでもアリなのかよ。ガキに迫られても引かねえのか」
「アリもナシも・・・・、引くなんて、それは無いけど、でも・・・・・・・」
「・・・お前が引いてねーなら。俺は、・・・アレだろ。・・・そーいうことだろ。問題ねえだろォが」

引かれたりしなかった。だって。土方もそう言った。
諦めかけてたって。相手にされるわけないと思ってた、って。

土方が。・・・あたしを。・・・・・・・あたしを?


思考がやっとそこまで辿りついて、はっとする。急に我に返った。あたしはわずかに息を呑んだ。

「でも。ごめん。ちょっと引いた」
「はァ!!?」
「だって。」

頬に当てていた指先に、ぎゅっと力が籠る。言おうとしたら、自然に力が入ってしまった。
さっき騒いでいた心臓の高鳴りが、またじわじわと蘇ってきた。

「だって。引くでしょ。・・・あたしが嫌われて。それで全部終わりだと思ってたんだもの。
 マズいよ。引いてくれないと。・・・こんなの・・・駄目だよ」

心臓の高鳴りと一緒に胸を騒がせるのは、今までとはすこし違う怖さだ。
知られたら終わりだと思っていた。そこから先があるなんて、想像もしなかった。
バレてしまったその先が、二人とも同じ思いだったなんて。そんなこと考えてもみなかったから。

「駄目だよ。少しは引いてよ。煙草以上のマズさじゃない」
「・・・・・いや、だから。んなもん別に。・・・俺らが黙ってりゃいいだけじゃねえか。
 別にマズかねえだろ。俺だって見つかるよーな真似は避け」
「そういう問題じゃないよ。ここだって、誰が見てるかわからないんだよ。
 それに。もうすぐ受験じゃない。推薦通りそうなんでしょ。なのに。・・・あたし。そういう邪魔はしたくない」
「受験って、・・・お前なあ。んだよ、んな時になって教師ヅラか?つか、おい。聞けって」
「でも」
「いいから。こっち見ろ、。」

諭すように言われて、引きつり気味な顔を上げた。
こっち見ろ、と言ったくせに。涙目になっているのを見た途端、土方の表情がぎこちなくひるんだのがわかった。
それでも目を逸らそうとしない。あたしを軽く引き寄せた。

「たった半年だろ。どうせあっという間だ。それに俺の受験なんて、どうとでもなるんだよ」

肩から頭に伸びた手に、コン、と小突かれる。

「俺じゃねえだろ、バレたらマズいのはお前だろーが。わかってんのかよ。ぜってークビだぞ」
「・・・・・・・でも。」

これじゃどっちが教師だかわからない。
けれど、今のあたしに教師らしい余裕なんて。
もう、どこにも残っていない。目が潤んでくるのを抑えるだけで。声の震えを喉に閉じ込めるだけで、必死なのに。

「馬鹿か。テメーの損得も少しは考えとけ」
「無理。そんなの考えられない」

何度も大きくかぶりを振った。振るたびに、風で髪が踊って。目の前を暗く塞ぐ。
煽られる髪に。浮かんできた涙に。視界を遮られる。
すぐ隣にいる姿が、涙にぼんやりとブレていく。輪郭がかすんで見えなくなった。

「いま、嬉しすぎて。あんたのことしか考えられない。
 ・・・嬉しいけど、色々考えちゃって。・・・・・・怖い。」

情けない教師の泣き言に、土方はすこし目を見張って。
困ったような目をして表情を崩すと、おかしそうに笑った。

「お前。やっぱ向いてねーよなァ・・・・・」

大きな手が、ゆっくりと頬に近づいてくる。涙に滲んで、指先の動きが揺れて見える。
熱い手のひらが、頬をそっと包む。指先が耳元を滑る。輪郭を確かめながら、滑っていく。

それだけで気持ちよくて。泣けてくるくらい嬉しくて。身体から力が抜ける。瞼がすうっと降りていく。
土方の腕があたしを押した。そのまま身体を押されて、給水塔の壁に押し付けられて。

気がついたら。あたしたちは、どちらからともなく抱きしめ合っていた。



「これで俺よか年上とか、・・・ねーだろソレ・・・・・」

困っているのか呆れているのか、よくわからないもどかしげな口調で。
小さく低く、つぶやいた。
それから、はあーっ、と長くて苦しげな溜息を漏らして。
背中に回した腕に、ちょっと乱暴なくらいの力を籠めて抱き締める。
身体を持ち上げられてしまって、踵がほんのすこし宙に浮いた。
不安定さに、ヒールがクラクラと揺れている。

。まだ怖いか?」
「・・・・・少し。」
「そうか」

素っ気なくそう言うと身体を離して、真正面から無遠慮に見つめてくる。
目を逸らさずに、じっと見つめ続けられる。
ぼんやり見上げているうちに、途中で、涙で髪が目元に張り付いたままになっていることに気付いた。
慌ててそれを直し始めると、くくっ、と押し殺したような声で笑われた。

目を細めたその顔は、今まで目にしたことのない表情だった。
どこか嬉しげで、硬さが抜けている。和らいだ表情になっている。

「俺は。もう何も怖かねぇけどな。」

まっすぐに、あたしの目を見て。
自信の籠った口ぶりで静かに言うと、ふいに黙ってしまった。



今までたった一人の声しか拾おうとしていなかった耳に、急に色んな音が飛び込んでくる。
バタバタと煩い。給水塔に結ばれた旗が風に躍らされて、喚いている音。
開けっ放しのドアの向こうから階段を上ってくる、音楽室からの合唱の声。

荒れた風が、給水塔の壁との隙間をすり抜けていく。
ここって屋上だったんだ。背中の冷たさに、ふっとそう思って。
そのときやっと、自分がどこにいるのかすら忘れかけていたことに気付いた。

忘れかけていた。さっきからずっと、潤んだ視界はたった一人で一杯になっていたから。



制服の黒が迫ってくる。潤んだ視界が覆われる。
身体を溶かされそうな体温を孕んだ、制服の胸に覆われる。

目の前を塞いであたしを抱いている。この生意気で自信過剰な、大人びた表情で笑うヤツで。
あたしの視界も、思いも。他に何を混ぜる余地もなく、一杯になってしまった。


「目。」
「え」
「・・・・目ェ。閉じろって」


硬さの残る声と一緒に近づいてきた唇が、ぎこちない触れかたで届く。
薄く残った煙草の匂いに襲われる。閉じた瞼がぴくりと震えて、じんわりと熱を帯びてくる。

これから始まることは、そう怖いことばかりじゃないのかもしれない。
何も怖くないと言い切ったあの静かな声を、信じてみよう。そう思った。






「 一瞬の先に 」 * title * 不変感情。 さま * text * riliri *Caramelization * 2009/02/25/
High school High life! さま提出物。ありがとうございました!