ラ ン
ブ ル
晋助はこの家の、やたらに重くて建付けの悪い玄関の開け方を、今も知らない。
「使う機会も無さそうだが。まあいい。ひとつくれえなら、有っても邪魔にはならねえだろうさ」
そう云って作らせた合鍵は、いまだに使ったことが無い。
いつも玄関前を素通りして、庭を抜けて。
猫のように忍び寄って、あたしの部屋の古びた縁側に現れる。ことが終われば縁側から、庭へふらりと消える。
今朝も夜半から積もった粉雪を踏み、足音も立てずに庭を横切り。
閉じたままになっていた雨戸を開けると、冷え切って濡れた足で、部屋へ上がり込んだ。
姉さんがあの戦争で命を落として、すぐのこと。
この男は、灰になってしまった姉さんを乳白色の小さな酒瓶に入れ、この家の庭先に現れた。
身内も無く家に一人残されていたあたしを見つけ、土足で上がり込み、追い詰めて。そのまま犯した。
あの頃、あたしはまだ十六で。
見知らぬ男に突然嬲られることの、怖さも屈辱も。息すら出来なくなる、あの痛みも。
何も知らなかった。
畳に転がり泣きじゃくるあたしを眺めながら、晋助は起伏の無い声で云った。
「どうだ。その年で路頭に迷いたくは無えだろう。だったらこれからお前の取る道は、二つに一つだ。
俺に身体を売り続けるか。それとも、他の男に売り続けるか」
どうする。どっちがいい、と訊かれた。
どっちも嫌だ。あたしは枯れた泣き声で、そう云った。
晋助は、奇妙に歪んで底の見えない、いつものあの笑みを浮かべていた。
世の中そう、甘くは出来ちゃいねえだろう。
たしか、そんなようなことを云われた気がする。
あとは、縁側から射した夕日に赤く光るあの眼が不気味で。身体が竦んでしまったことくらいしか、憶えていない。
一度されるも、百度されるも同じこと。
あたしの意思がどうであれ、他に頼る充てもなかった。
洗ったところで既に身体が覚えてしまった男の穢れにも、汚れた自分にも嫌気がさして。
自棄になったあたしは、考えることを捨てて。晋助を選んだ。
それから。
・・・・・それから、あたしは。
褪せた記憶をそこまで辿って、気がついた。
しばらくはその日のことを思い浮かべたり、ふらりと庭先に現れるようになった晋助を見ただけで、
悪寒と悔しさに肌が粟立っていた、嫌な記憶。
なのに、どうして。なぜ今になって、あの時のことを思い出しているんだろう。
ぎゅっと目を瞑って覆われた暗闇に、焼けるような白が射す。果ててしまいそうになる。
「・・・ゃっっ、あっ、ぁんっ!」
その寸前で、晋助は中から引き抜いた。
抜けていくものとあたしの中が、水音をたてて蠢く。耐えきれずにまた悲鳴をあげた。
女を抱いていたことなんて忘れてしまったかのように、背後を振り向いて。
何を思ったのか、放り捨てられた派手な羽織を探り出す。
そこから分厚い封筒を抜き出すと、居るのをやっと思い出したかのように、こっちを向いた。
息切れと眩暈で、目の前が霞んでいる。
背中を丸めて荒い呼吸を繰り返すあたしに、晋助は封筒を差し出した。
「・・・そこに、置いて」
かすれた声で頼んだ。
晋助が、ぐちゃぐちゃになったあたしの帯に封筒を載せる。
何も云わずに、またあたしに跨った。
手にしなくても、分厚い中に何が収められているのかは知っている。
黒く固まった血と恨みと、顔も知らない誰かの無念で出来た、汚れた紙束。
あの封筒に詰まった紙が、この古くて小さな家を護っている。
さしずめこの家も、あれを糧にしてここに住んでいるあたしも、晋助も。
死んでいった人達が残した恨み辛みを、返り血のように全身に浴びている。汚れきっているに違いない。
「見ねえのか」
「いい。・・・晋助が帰ったら、開けるから」
「・・・・・すっかり信用されたもんだなぁ」
「え?」
「決まって中が札とは、限らねえだろうに。
云ったよなあ。俺ァ、ひと月ばかり江戸を出る。当分ここにゃ来ねえんだが」
「いいの。今は見たくない。・・・・・誰かいるところで見るのは、嫌なの。」
ここであの封筒に手を付けてしまえば、負けたようで鬱屈が増える。気が滅入るだろう。
もし中まで見てしまえば、もっと後が無さそうだ。
今はこうして意地を張れても、晋助が消えて一人になれば。きっと苦しい。
「。」
「・・・・なによ。早く済ませて、帰れば」
「お前。似てきたなァ・・・・・」
冷たい指先が食い込むほどに、あたしの胸をぎゅっと掴む。
くつくつと肩を揺らして笑う晋助に、誰に、とは訊かなかった。
あたしが誰に似ているのかは、尋ねる必要のないことだ。
この男は猫と同じで、嗅覚で道を辿るらしい。
あのときもそうだった、としばらく経ってから云っていた。
お前の姉さんの残した匂いを辿って、この家を探り当てたのさ。
戯言だろうと思っても、なぜかすんなり呑み込めた。本当のような気がした。むしろそのほうがぴったりくる。
匂いで探り当てた家に忍び込んで。姉さんと同じ匂いのするあたしを、失くした女の身代わりにしたのだ。
そう信じ込んでしまったほうが、あたしはすこしだけ楽になれた。
お前と姉貴は、同じ味がする。
聞くに堪えない嘲りを、晋助は時々耳元で囁く。
あたしが怒って嫌がるから、かえって愉快そうに繰り返す。人が嫌がることをするのが、好きなのだ。
けれど矛盾している。こうして下卑て子供じみた、趣味の悪い嫌がらせは度々繰り返すくせに、
あたしのことは「ごく当たり前の、普通の女」に仕立てたいらしい。
晋助はあたしに仕事もさせず、家にいろと命じた。
そのかわりだと云って、幾つも習い事を掛け持ちさせた。
細々としたことまで、身内のように何かしらと世話を焼く。それだけ姉さんが恋しいのだと解った。
一度だけここへ連れてきた、嫌な気配のする口数の少ない男にまで、
あたしのことを「忘れ形見」と、らしくもない形容で例えてみせたこともあった。
少なくてもひと月に一度、多い時には幾度も。
思いだしたようにふらりと、晋助はこの家に辿り着く。
ここには、姉さんの生きていた面影や、住んでいた頃の匂いが残っているから。
姉さんが残した、姉さんの忘れ形見がここにいるから。
きっと晋助は、未だに身体から抜けていくことがない姉さんの残り香に、ずっと囚われたままでいたいんだろう。
いつもより冷えた指と唇が、あたしの身体のあちこちを這い回る。
この身体をすっかり飼い馴らしてしまった、晋助の指先はいつも冷たい。
けれどここまで冷たく感じるのは、初めてだ。
腿の内側を撫でた指が、肌を伝ってその奥へと埋め込まれる。背筋がびくっと震えた。
その冷たさが、いつもと違う感覚を運んでくる。自然と吐息が荒くなる。言葉にもなっていない、高い声が漏れる。
いつもより耳についたんだろう。晋助は笑い声を洩らしながら、首筋を甘噛みしてくる。
絡まりついてくる足先は、細くて肉が薄くて、骨張っている。
今日は爪先が氷のように硬くて、冷たい。
「なあ。おめえ、いつまで俺を騙しておく気だ。」
「・・・・・・・・・え・・・、な・・・・ぁに・・・・・・」
「聞いたぜ。評判がいいそうじゃねえか。注文が絶えねえんだってなァ、あの仕事。」
口ほどには興味もなさそうな右の眼が、襖が半開きになった続きの間を眺める。
粗末で小さな仕事部屋。
中には、さっきまで向き合っていた描きかけの紙や、絵の具や筆が散乱している。
晋助が習わせた稽古事。そのひとつが絵で、偶然実を結んだ。
好きで続けていたそれは、いつの間にか、自分一人なら養える程度のものになっていた。
この家を保てる程度になるには、あと数年かかるかもしれない。
けれど目処はついている。僅かな自信もついてきた。
晋助の差し出す封筒を受け取らずに、ひとりで暮らせるようになる自信が。
「・・・・っっ、ぁんっ!」
触れられてしまえばどうにもならない、感じやすくなってしまった部分を。奥へ潜り込んだ指先が捉えて弄ぶ。
埋め込まれた指を振り解こうと、あたしは仰け反って抗う。けれど。
ぎゅっと乳房を掴まれ、先端を強く吸われた。舌先で弾くようにして転がされると、身体は途端に力無く萎えて、震えてしまう。
萎えた身体は、片手で容易く抑え込まれる。
冷えた指は、中で厭らしい音をたてながら蠢き続ける。あたしをもっと追い詰めようとする。
逃れようとするほどに、晋助はあたしを追い詰めたがる。
こんなときは、決まって楽しげに笑っている。拒まれていることが愉快でたまらなさそうに、笑っている。
身体を重ねてきた晋助が、あたしの脚を割って入ろうとする。
宛がわれたものが中へ沈む。漏れる悲鳴は大きく変わる。
締めつけられ、抵抗を受けながら、それでもあっというまに沈んでいく。
腰を進めて一番奥まで辿り着くと、とっくに濡れていた中を思いきり掻き乱された。
「・・・姉貴も、お前も。・・・よっぽど俺に飼われるのが、嫌ってぇことか」
「あっ、っっ、晋助っ・・・あっ、やぁんっっっ」
「なあ、お前。どう思う。。
まったく、女ってえのはよ。嘘が多すぎる。男はこうして閉じ込めたがる。てめえの爪は隠したがる。
下手に情けをかけるもんじゃ、・・・ねェよなあ・・・」
「・・・・ゃんっっ、ぁ・・・あっ、あんっ!!」
「・・・あぁ。・・・・そうだなぁ。俺ァ、・・・・・・」
お前に、色々覚え込ませすぎたらしいや。
苦しげにつぶやく声が、遠くなっていく。
あたしの中は、欲しがって呑み込もうとする。
びくびくと震えながら晋助を欲しがって、熱く潤んだ奥へと閉じ込めようとしている。
溢れ出してきた水音が、耳をいっぱいにする。
絶え間なく、激しく突き上げられて。貪るように唇を奪われる。
滑り込んできた舌を求めて、あたしは夢中で絡みつく。
こうしていると、いつも思う。
もしかしたら晋助は、あたしをこの世界の誰よりも憎んでいるんじゃないだろうか。
そのたびに悲しくなる。なのに身体は、すっかり憶えてしまった快楽に溶けていく。
そのどちらにも、あたしの日々は振り回される。こんな男を軸に回る、こんな生活はもう沢山だ。
泣こうとしても涙は出ない。泣きすぎたのかもしれない。
いつ来るのかもわからないこの男を、ここで待っている間に。泣きすぎたから、もう泉が枯れてしまったんだろう。
黙って受け取るしかない封筒の重みは、こうして日を追う毎に増していく。
あんな封筒、見たくもない。抱かれる対価にお金を貰うなんて。嫌だ。そんなお金、本当はもう欲しくない。
だけどそれ以外に、あたしと晋助の間に何があるだろう。あの封筒に詰まったもの以外の、何が。
この男が気配も無く庭先に現れるたびに、胸には重苦しさが募っていく。
云えない言葉が降り積もる。
穢れて暗い、嫌な言葉だ。そのどれもがどろりと濁っていて、焼かれそうに熱い。
積もった言葉はしだいに張り詰めて、強張った叫びに変わろうとする。
汚れてしまったあたしをさらに暗く濁して、大好きな姉さんの面影まで濁していく。
ここにいるのは姉さんじゃない。
この家にいるのは、気まぐれに訪れるだけのあなたを待ち侘びているのは。
もういなくなってしまった、姉さんじゃない。
晋助の口から漏れる苦しげな吐息に、耳をくすぐられる。
吐息と一緒に漏れた声は、呻くように切なげに誰かを呼んだ。
誰を呼んだんだろう。
腕の中で声を枯らして喘いでいる、乱れた姿を晒している女を。あたしの名前を呼んだのか。
それとも。あたしとはたった一文字違いの、もう抱くことの出来ない女の名前を呼んだのか。
「・・・・・・・・・晋助・・・・」
「・・・・ん・・・・・?」
「・・・・・・で、・・・も・・・ういちど、・・・呼んで・・よ・・・・」
ねえ。晋助。もう一度、呼んで。
細い首筋にしがみついて、切れ切れに何度も繰り返す。
けれど跨った身体はあたしの喘ぎを求めて、迸るものを打ちつけては奥深くへ吐き出そうとするだけで。
何も応えてはくれない。
だらしなく乱れきった喘ぎ声すら、上げることが出来なくなる。
晋助に吐き出された熱くて濁ったものが、一瞬であたしの奥深くへ流れ込む。
受け止めた身体は甲高くて歪んだ悲鳴を上げて、びくん、と大きく震えて跳ねる。
ぎゅっと瞑った暗い視界は、強すぎる光を浴びたかのように、白く発光して。焼け落ちる。そのまま意識が、途切れて消えた。
すこし離れたところから届くような、籠った水音が聞こえている。
腰に残っただるさと、気になるけれど掴めない違和感のようなものを感じながら。目を開けてみる。
部屋に晋助の姿は無かった。あの派手な羽織に、あたしはくるまれていた。
鼻を突くように漂ってくるのは、知らない匂いだ。嗅いだことの無い、気取って甘ったるい香水の匂い。
あたしのような、ふらりと家へ立ち寄る女が。晋助には、あと何人いるのだろう。
嗅いでいるうちに、だるさはどこかへ飛んでしまった。
すっかり頭にきて、あたしは羽織を払い避けた。
襦袢だけ羽織って、嫌な匂いの羽織を掴む。部屋を抜けて縁側まで走り寄った。
苛立ちに任せて雨戸を開けて、羽織を庭へと投げ捨てる。すると、羽織の裏から飛び出た何かが、白く広がる新雪に転がった。
綿のように、ふんわりと平たく積もった粉雪。
そこに転がって埋もれたのは、鍵だった。あたしが渡したこの家の鍵。
「・・・・持ち歩いてるなら、使えばいいのに。」
つぶやいて、悔しさに唇を噛む。それから羽織を拾いに庭へ降りた。
踏みしめる新雪は柔らかく冷たく、かき氷みたいだ。しゃくしゃくと、足裏で潰れていく。
先に羽織を拾い上げ、雪を払う。落ちた鍵を摘み上げる。
鍵を戻そうと裏地に手を入れたときに、ああ、と気がついた。
これを作れと云ったときの、晋助の言葉が頭で鳴ったからだ。
その言葉の持つひびきを確かめるように、もう一度繰り返す。唱えただけで、胸が熱くなるような嬉しさが満ちて。心が弾んだ。
雪にまみれて冷えた鍵を、てのひらに載せる。
濡れた鍵と、あたしの体温で溶けていく雪の中に、あのときの晋助のようすを思い浮かべながら。じっと見つめた。
ひとつくれえなら、有っても邪魔にはならねえだろうさ。
何気なく口にしたあれが、嘘で無いとしたなら。
たぶん晋助には、鍵なんてこれ一つきりしか無いのだ。
一度も使ったことのない、開けようとしたこともない。この鍵。あたしの家の鍵。
ぼうっとして鍵を見つめているうちに、また家の中から籠った水音が聞こえた。
凍りかけた足を引きずるようにして、庭から縁側へ上がる。
ほんわりと温まった、誰もいない部屋へ入ると。さっきは見ていなかったものが、目に付いた。
隣の部屋に散らしておいたはずの失敗作の紙のひとつが、なぜか机に置かれている。
その隅に。神経質そうな細い字で、「下手糞」と小さく書いてあった。
ぱしゃぱしゃ、とまた水音が鳴り響く。
湯気の匂いが流れてくる。風呂場の方からだ。
匂いを追いかけ、駆けるようにして脱衣所に向かう。
戸を開けると、風呂場から漏れてきた湯気の湿った温かさと匂いが、濃く漂っている。
中には晋助の着物が、すとんと脱ぎ落とされたままのかたちで床に落ちていた。
晋助、と声をかけてみる。
返事の代わりに、お湯を跳ねさせる音がした。
「起きたか」
「・・・・うん」
「来いよ。洗ってやる」
「・・・・・うん。ねえ。晋助」
口を開いて、言いかけて止めて。
それから深く息を吸って、あたしは一息に言い切った。
「出来るだけ早く帰ってきてね」
ぎこちなく張り詰めた声が、風呂場で跳ねかえって戻ってくる。
晋助の、さざめくような曇った笑い声が。扉を通して脱衣所まで届く。
あたしは襦袢をすとんと床に脱ぎ落として、笑い声を遮っている扉を開けた。
「 ランブル 」
text by riliri Caramelization 08/12/20/
酷いんだか そう酷くもないんだか よくわかんないひとを書きたかったんです。どっちにしても高杉は 悪戯好きだといいな
40,000hit ありがとうございました!!