「わ、・・・ワンダフル、エクセレント!アンビリーバボー!!」
と、思いつく限りの最上級感嘆詞を並べ立てる。・・・実際にはたった三つしか思いつかなかったが。
両手を胸の前で握り締め、私は思うままに、しみじみと感涙に浸った。
自分がここにいることを神様に感謝したくなった。本当に夢のようだ。
凶悪犯を収容する刑務所ばりに厳重なセキュリティの、ものすごい高さの頑丈そうな門。
そこを開けてもらって中へ一歩入った瞬間から、そこは別世界へと続く道だった。
たしか「枯山水」とか言うはずの、水紋を模った白い砂利道に沿って、流線を描く石畳が続く。
どこもかしこも綺麗に掃き清められた純和風の庭園を左右に眺めながら歩くこと数分、そこで私の目はやっと最初の建物を発見した。
長い長い石畳の終着点となる玄関は、墨色の木材で統一された格子戸の扉。余分な装飾はひとつもなく、
どこにも無駄がなく隙がなく、どこに目を向けても慎ましい美しさに溢れている。これぞ侘び寂びの極地、というヤツじゃないだろーか。
ぽかーん、と口が開きっ放しのまま、茶室らしい小さな離れ付きの小造りな平屋の建物の前に立った。
お茶やお華の家元とか、芸術家なんかが住んでいそうだ。
家屋全体を包んでいる深い色の緑の木立がまた、しっとりとした静寂を演出するのに一役買っている。
ありとあらゆる時代劇をこよなく愛する私にとって、この純和風な佇まいのお屋敷や静けさに包まれた独特の風情はまさに「宝」。
先月行った、実際は某県に所在するのに東京と名乗っている例のアミューズメントパークよりもずっとずっと
素晴らしくて、家中つぶさにお宅拝見したくなるような興味深い世界に映るのだ。
すごい。感激だ。なんて素敵なお家なんだ。
姑息な幼馴染みにまんまと騙され海風吹きすさぶ某県まで連行された、あの時の百倍ドキドキする。
先週観た時代劇のDVDでお逢いした、火付盗賊改方のお奉行様。
あのうっとりするほど渋くて笑顔が素敵な御方が今にもそこの襖戸を開けて、「よう来たな、さあこちらに参れ」と
私を夢の時代劇ワールドへ誘ってくれそうじゃないか・・・!!!
「只今お傍に参りますっっお頭さまあああ!!」
「いつまで浸ってるつもり、。置いていくよ」
と、お手伝いさんの女性に通された庭園沿いの廊下を歩きながら振り返ってほざいたのは、私の前を歩く奴だ。
光に透けそうなくらいに淡い栗色の髪が、すぐ目の前で揺れている。
こっちを見つめている細めた目は、たまに「下手をするとなまじの
女性よりも美しいのでは」と思ってしまうような、涼やかな色気のある眼差しを投げかけてくる。
「フン、放っとけ。人が楽しんでるところを邪魔するのはお前の専売特許だな」
「そうだね。の楽しみを奪うのが、僕のささやかな楽しみだからね」
「うるさい。ていうかたまには黙ってろ周助。
お前のおかげで一気に夢から引き戻されたじゃないか」
後ろから覗き込んで髪を引っ張り、不満たらしくケチをつけてやっても、お面のような胡散くさい笑みに崩れはない。
これが私の幼馴染み。生まれた時から中三の今まで、何が楽しいのか飽きもせずに私を振り回してばかりいる奴。
事あるごとに思春期の繊細な少女(←私のことだ)を窮地に陥れては、一人澄ましきった笑みを浮かべて楽しそうにしている最悪な奴。
いや疫病神。死ぬほど認めたくはないがそれが不二周助で、そういう奴こそが何の因果か、私の十数年来の幼馴染みだ。
「いくら友達の家だからって浮かれ過ぎだよ。妹尾に会う前にすこし頭でも冷やしたら。
――ああ、丁度良く庭に池があるよ。あそこでどうかな」
「いーや私はいいぞ、遠慮しておく。お前が行ったらどうだ?私には気兼ねせずに一生あそこで鯉や金魚と戯れていれば――、」
ん?待てよ。池がある、ということは。
はっっ。
まさか、いやでも、もしかして。ここになら何処かにあるんじゃないだろうか、アレが。
格式高い場所や高級料亭にはおいそれと入れない、庶民育ちなただの女子中学生の私には、
生で見ることは叶わないだろーなって諦めていたアレが。
――なんてことを思いついてきょろきょろと周囲を見回し興奮を高まらせていたら、庭からある音が耳に届いた。
まるで天使のもたらす福音のような清々しい調べが。
かぽーーーーーん。
「うわァァ!あった!すごいっ、すごいぞ見ろ周助っっ、あっちの小さい池を!あったァァ!『かぽーん』いうやつあったぞぉぉぉ!!」
「・・・。ここまで何しに来たの。友達を見舞いに来たの、それとも友達の家族にバカを披露しにきたの」
「ああ、あれか。それを言うなら正しくは『ししおどし』だぞ、」
「おおっ、ししおどし!あれはししおどしって言うのか!そんな風流そーな名前があるのか『かぽーん』には!!」
「・・・・・・騒がしいぞお前達。静かにしないか」
呆れ気味な、しかし中学生とは思えないほど落ちついた響きの声が頭上で響く。
妹尾家へ見舞いに訪れた四人の一番後ろから、眉間を曇らせた手塚君は私たちをたしなめた。
何かと脱線が多い私たちを諌めてまとめる立場にあるのは、テニス部を引退した今でも変わらないみたいだ。
同級生に混じっても引率の教師と見間違えられるほどの貫禄を醸し出してしまう、あの眉間の皺も健在だ。
「友人の家とはいえ、あまり騒々しくてはまずいんじゃないのか。妹尾の風邪にも影響するかもしれないからな」
「ご、ごめん手塚君。そうだよな、軽率だった。・・・あまりに嬉しくてつい興奮してしまったんだ」
「いや。判ればそれでいい」
「ところで手塚」
「何だ、乾。」
どこか事務的なまでに平坦な口調で手塚君に尋ね、眼鏡の縁をくいと押し上げる長身の男。
私たちの先頭を歩いていた乾は、ふいにこっちへ振り返った。
いつ眺めても感情の読めない顔をしている・・・というか、たとえ振り返った瞬間、
私が制服や下着をぱぱあっと脱ぎ捨て素っ裸になったとしても、こいつの表情が変わることはないだろう。
せいぜい良くて、眉を一ミリ動かす程度で平然と「どうした、冬だというのにそんなに暑いのか」そのくらいは
尋ねてくるかもしれないが。困ったことに乾はそういう奴だし、そんな自分を多少なりとも矯正しようなんて
考えは微塵も起こそうとしない、極めつけにマイペースな奇人変人さんなのだ。
周囲にいる私たちは事あるごとにこの変人ぶりに悩まされ振り回され、困らされている。
まあ、さしあたって私が何に最も困っているかといえば、この変人がよりによって私の親友だという事実に、なのだが。
「俺やは妹尾の親しい友人だ。見舞いに来るのに何ら不自然はない。
そしてが妹尾の見舞いに行くなら、そこに不二がついて来ないはずがない。が来て妹尾が喜ぶのを
邪魔したいに決まっているからな」
「嫌だな、僕が風邪で弱ってる妹尾さんの邪魔をしたいだなんて。それは誤解だよ乾」
「・・・そーなのか?じゃあお前はここに何しに来たんだ、周助」
「勿論お見舞いだよ。彼女と僕には色々と因縁めいたものもあるからね。
あと一週間くらい学校を休んでくれるように、多少のダメージはお見舞いしておきたい、かな」
「・・・・周助。それも見舞いは見舞いだが意味が違うぞ。完全に見舞い違いだぞ」
「まあ、不二の陰謀はともかくとしてだ。手塚、お前には不二のような理由もなく、妹尾と特に親しいわけでもない。
一体ここに何しに来たんだ?」
しーん。
皆が手塚君の答えを待って、足を止めて彼を見つめる。木目がツヤツヤした廊下に沈黙が下りた。
目的地の雛子の部屋まであと何分かかるのかと心配になるくらいに、果てしなく長い廊下に。
「・・・・・。頼まれた。」
「誰に?」
「・・・・・・・・・・・。」
床の一点を見つめて手塚君が固まる。急にどうしたんだろう、完全に黙りこくってしまった。
と思ったらカバンから何かを取り出し、私たちに差し出してみせた。オレンジとピンクの星の模様の封筒だ。
「緑川からの見舞いの手紙だ。これを妹尾に届けたい、しかし自分は塾の特別講習があるから替わりに俺が行け、と」
「見舞い代わりの手紙か。緑川も意外と古風だな、メール一つで済みそうなものだが」
「俺もそう反論した。だがかえって逆上された。「メールでは友人を心配する思いは半分しか伝わらない」と、10分以上豪語された」
「そ、そうだったのか。は、ははは、美月も水臭いなっ、それなら私に預けてくれればいいのにな?なあっ、そう思わないか周助っっ」
はは、ははは。
引きつった顔で口端を吊り上げ、乾いた笑いで場をごまかす。
しかし健気な私の精一杯な気遣いなど誰も気にしちゃいなかった。手塚君はその時の状況を思い出したのか苦い顔で黙り込み、
そんな手塚君を眺めた周助は目尻を下げてにこりと微笑み、乾は知らん顔で雛子の部屋へ向かう先頭を歩いてる。
・・・少しはフォローしてくれたっていいじゃないか乾の奴っ、お前、私の親友だろ?!
いやわかってる、わかってるぞ。どーせこの話の種明かしが済んだ途端に興味が尽きたんだろ、そういう奴だよなお前はっ。
それにしても、またか美月。また手塚君に無理に押し付けたのか。どーしてくれるんだこの微妙な空気を。
友人の仕業だけに私まで気まずいじゃないか。さすがに最近は慣れてきたが、美月にも困ったものだ。
この一点の非の打ちどころもない優等生の――前テニス部長兼前生徒会長でもある手塚くんへの、
見ているこっちが目を剥くようなぞんざいな扱い。当の美月に悪気がないのは知っているにしろ、
目撃するたびになぜか私が申し訳ない気持ちになり、毎回冷汗が出てしまうのだ。
ていうかこんな話、テニス部の後輩たちが聞いたら全員卒倒するぞ。
自分の用事に、しかも誰に頼んでもいいような使い走りみたいな用事に、誰あろうこの手塚君を使うなんて。
まったく畏れ多いというか怖ろしい話だというか。
「・・・しかしこれは。一体どうなってるんだこの家は。外観からは想像もつかない広さだな。
いつになったら着くんだ雛子の部屋に。この先どれだけ歩けばいいんだ?」
整然とした庭を彩る緑の濃淡を見比べながら溜め息をついたら、一瞬足を止めた周助が横に並んだ。首を傾げて私の顔を覗き込む。
滅多に瞳が見えない細い目は少しだけ訝しげだ。常に笑っているように見える周助の
こういう些細な変化に気付いてしまうのは、幼馴染みの私ならではなのかもしれないが、・・・そのおかげで得をしたことは一度もない。
「どうしたの。もしかして、疲れてる?」
「ああ。お前たち変人のおかげで要らない気を使って、それが空振りに終わったせいだろーな」
「・・・」
「うん?何かな、手塚君」
「まさかとは思うが、その「変人」の中には俺も含まれているのか」
「・・・・・・」
「なぜ黙る」
「っっ、いやー!なんだかそのっ、つ、疲れたなぁっっ。まだ雛子の顔も見ていないのに、早くもぐったりするくらい疲れたぞ?!」
部屋まであと何分かかるんだ、と聞こうとした時に、ちょうど乾が立ち止った。
「着いたぞ。ここだ」
と、ある部屋の白い襖戸を指す。
乾は私に隠れて何度も――小学校時代から数えて数十回は、この部屋に遊びに来ているらしい。
初耳な話だ、どーして私も誘ってくれないんだ、と私が拗ねたら「は妹尾に誘われなかったのか?一度もか?」と、心底不思議そうに尋ねられてしまった。
あまりにショックで思わず泣きそうになった。
・・・ああそうさ、わかってるさ。
雛子もいつも言っていることだが、常識的なデリカシーを非常識なお前に求める私が悪いんだよなっっ。
「これは保護者へのお知らせ。これは古典と英語の課題のプリントだ。
月曜提出なんだけど、先生に訊いたら、風邪が治ってからでいいと言っていたぞ」
ぱら。ぱら。ぱら。
二十畳近くありそうな広い和室。その中央に敷かれたこんもりと膨らむ純白の布団から起き上がり、
雛子は渡したプリントを見つめている。枕元にちょこんと腰かけた身体は、モコモコと分厚い羽根布団
に埋もれてしまうくらいに小さい。小学生サイズの手の先が、着ている浴衣の袖からすこしだけ出ている。
口に手を当てて、こほん、と控え目な咳を漏らすたびに、顎の線で切り揃えられた黒髪が揺れた。
いつもは真っ白で陶器みたいな質感の頬は、ほんのり赤くなっていた。目も赤いしなんだか潤んでいるし、ちょっと動くにも気だるそうだ。
そうか、まだ熱があるんだな。
私たちが部屋に入ったときにはまだ布団に臥せっていて、見舞い客の多さに目を丸くしていた。
来るのは乾だけだと思っていたらしい。私を見つけた時には、あの黒曜石のような輝きを放つ瞳が、
まさかここまで開くのかと驚くくらいにめいっぱい大きく見開かれてた。しかし羨ましい。
あんなマンガに出てくるひとのよーな大袈裟な表情をしても、美少女はやはり美少女。
どんな滑稽な表情になったって、その美しさが損なわれることはないのだ。いや、さすが雛子だなあと感心してしまう。
しかしそんな一方では鼻高々で「当然だな」とも思うのだ。私自身は箸にも棒にもひっかからない、心底つまらない平凡顔だが、
私の親友は周囲360度どこから見たって完璧な、掛け値なしの美少女だ。
どーだまいったか!と世界中のみなさんに言い切れる自信がある。
…と、この前周助に自慢げに断言したら「悲しい自信だね」と静かに嘲笑された。
「これはおとといからの授業のノート。英語と現国と古典と、・・・これは数学でその下が歴史。
理系は乾に見せてもらってくれ」
ぱら、ぱら、と授業内容をまとめたルーズリーフを、揃えられた小さなてのひらに積み重ねていく。
輝く黒い瞳をぱっちりと見開いて、雛子はそれを一枚一枚、真剣に見つめていた。あまりに真剣な様子だから、
見ていてこっちが気恥かしくなる。ちょっとだけ苦笑いになった。
自分で見るぶんには何も思わないけれど、雛子に見てもらうにはちょっと恥ずかしい。あまり要領のよくないまとめ方になっているかもしれないし、
字だって堂々見せられるほど上手くないのだ私は。それに雛子の成績は常に学年上位で、幼い頃から薬学の研究をしてしまうくらいに頭がいいんだし。
「まあ、私のノートなんて雛子には必要ないかもしれないけどさ、無いよりはあったほうがいいかなと思って。
それと来週のテスト日程が出ていたから、この後ろにまとめておいた」
「まあ、そんな。必要ないだなんて・・・」
微かに眉をひそめ、弱ったような目をして雛子が微笑む。その時、元から赤かった目の潤み具合がじんわりと増した気がしたのは、
私の気のせいなんだろうか。
「が私のために一所懸命まとめてくれたノートですもの。何より素敵なお見舞いですわ」
「そうか?それならよかった。これで雛子が早く風邪を治してくれるともっといいんだけどな」
「ええ、すぐに治します。おとなしく病人をしているのにはもう飽き飽きです」
肩に掛けたすべすべした緋色の羽織を抑え、くるりと奥の襖戸へ振り返ると、雛子は、じとり、と辛辣な視線を投げた。
「ちょっと起きるだけで家の者に小言を言われますのよ。
けれど寝ているだけってほんとうにつまらなくて。早く学校に行きたいですわ・・・」
「私も雛子がいないとつまらないよ。乾と二人で弁当を食べてもなんだか物足りないしなっ」
「ほう。そーか、俺と二人では不足か」
「二人って。三人の間違いじゃない、。僕もその場にいるんだから」
「いーや二人だ。私はな、あらゆる場合においてお前のことはカウントしないことにしているんだ。・・・あ、」
そこで唐突に思い出した。そーだ、もう一つ、雛子に渡したいものがあるんだった。カバンを開けて底を探る。
「それと。・・・あの。これなんだけど」
「・・・?」
「今日、家庭科の調理実習があってさ。課題が特に決まってなかったんだ。お菓子なら何でも自由に作っていいってことで、それで」
取り出した透明のタッパー。中には実習で作ったフルーツゼリーが入ってる。
オレンジやグレープフルーツ、苺やキウイが入ったカラフルなゼリーだ。
蓋を外してみせると、雛子は何か言いたげな視線を向けてきた。
そんな潤んだ目で見られるとなんだか出しづらいな。気後れして肩を竦めながら差し出した。
「これなら食欲がなくても食べられると思って、作ってみたんだけど」
「・・・・・・わたくしのために。これを選んで作ってくださったの?」
「いや、ええと。そうなんだけどそうじゃないって言うか、・・・お菓子作りは料理より苦手でさ」
「そうだね。それはが得意な唯一のお菓子だから」
「そうなのか?その割に調理中の手つきは危なっかしかったが」
「乾お前どこから見てたんだ。てゆうか周助うるさい。・・・でも、そうなんだ。だから雛子のためにっていうか、
これしか出来ないからこれを作ったってだけなんだけど・・・。後で食べてくれる?」
どうかな、と目で尋ねると、こくん、と雛子が小さな頭を傾げる。
ほんのりと微笑んでいた唇の端が上がって、にっこりと、満面の笑みで応えてくれた。
普段は乾並みに表情の変化がない雛子にしては、珍しいくらいに自然な笑顔だ。
よかった。ノートやプリントはともかく、調理実習のゼリーなんてあげたら迷惑かなと思ったんだけど。
「そうか、よかった!これさ、ビタミンがたくさん摂れるようにフルーツを一杯入れてあるんだ。味はいまいちかもしれないけど・・・」
「いいえ。美味しいに決まっていますわ。それにのそのお気持ちだけで、わたくしは元気になれますのよ。ありがとう、とっても嬉しいですわ」
「うん。私もよかった、雛子に喜んでもらえて」
「ねえ。少しだけこっちに近寄ってくださる?」
「?うん」
布団の端に膝を乗せて前屈みに近付く。雛子もこっちへ身体を寄せて、ちょこん、と私の肩にちいさな手が乗った。
近付いてきた熱のある顔が、頬に一瞬くっついた。雛子がたまにしてくれるお礼のキスだ。にっこりと、目を細めて私たちは笑い合った。
ところが――すっかりいい気分になっていたので忘れていたが、この心温まる素敵な余韻をブチ壊したがる奴がここにはいた。
そう、言うまでもなく周助だ。セーラー服の衿を後ろから、ぐい―――っと情け容赦なく引っ張られた。
「はい、そこまで。さあ離れて」
「なんでだよ。別にいいじゃないか。外国では挨拶なんだぞ、これくらい」
「だめだよ離れて。いくら女の子同士でも、三秒以上のキスは挨拶に数えないって決まりがあるんだ。知らないの?」
「なんだそれは。そんな三秒ルールがどこにある」
問い質すと、周助は「そんなことも知らないの」とでも言いたげに、わざとらしい仕草で肩を竦めてみせた。
首をちょっとだけ傾げて、微笑んでいた口を開く。
「僕が決めたんだよ。だからは従うべきだ」
「い・や・だ!!!なんで私がお前のわけがわからないわがままに付き合わなくちゃいけないんだ?!」
「そのとおりですわ。それにこれはとわたくしの友情の証なんですの。部外者が余計な口を挟まないでくださいませ、不二さん」
「関係あるよ妹尾さん。僕が面白くないからね」
「それはただのお前のわがままだ!」
だいたい周助はおかしいんだ。どーしてそう私たちの邪魔ばかりするんだ?!なんて説教してやっても暖簾に腕押し、糠に釘。
周助ときたら私を自分のほうに引き寄せて、後ろから首を羽交い締めにしてニコニコと微笑むばかりだ。
こうしてこいつにひっつかれていると、なんだか自分がアレになった気がしてくる。小さい子がどこへ行くにも片時も手離そうとしない、
ボロボロに使い古したクマとかうさぎのぬいぐるみになったような気になるのだ。
・・・・・・なんとなく振り向いたら周助はまだ笑っていた。
ああ、なんて胡散くさい笑顔だ。
本当に、まったくわからない。
こいつの考えることが。こいつの私に対するみょーな執着心が。いや、こいつの存在自体がわからない。なんて理不尽な奴なんだ。
物心がついて以来、一日たりとも頭から離れることのない積年の疑問が浮かぶ。・・・一体何を考えて生きてるんだ?こいつは。
挑発的に薄目を開けて、雛子に何か意味深な視線を送ってるこいつは。
おかげで不愉快そうに唇を噛みしめていた雛子はさらに激怒してしまい、
ついには「不二さん、どうぞあなただけ先にお帰りください、ええ今すぐに」
なんて単刀直入に拒否られたけれど、それでも周助はちっとも態度を変えようとしない。
怒った雛子に枕を投げつけられても「今のは僕に投げたの?そう、残念だったね当たらなくて」なんて平然としている。
そこから後はいつものお決まりパターンだ。病人相手とは思えない手加減のなさで周助は雛子に冷やかな毒舌を奮い、
対する雛子は、熱があるとは思えない気迫の籠った態度で敢然と周助に立ち向かった。だめだ、こうなってしまったらもう
怖ろしすぎて、二人の間には入れない。
失敗した。周助なんか連れてくるんじゃなかった。見舞いのつもりがこんなに病人を興奮させていーんだろーか。
いや、いいはずがない。こんなことになるくらいなら、いっそお見舞いになんて来るんじゃなかった。
今頃な後悔にがっくりと肩を落とした私の背後では、ぼそぼそっと低い小声の会話が交わされていた。こんなかんじに。
「やれやれ、また始まってしまったな。しかし毎回同じ事でケンカを繰り返して、よく飽きないなお前たちは。いや、まったく感心するよ」
「乾」
「何だ、手塚」
「お前は今、また始まった、と言ったな」
「ああ。言ったな」
「ということは。この騒ぎは日常茶飯事なのか?」
「ああ。俺は毎日のように見せつけられているな、目の前で。それがどうかしたのか」
「そうか。いや、今のは気にしないでくれ(・・・・・・よく耐えられるな。)」
「おーい。周助っ。なんだよ、まだ怒ってるのかお前?しつこいぞ」
雛子の部屋を後にして、私たち四人は妹尾家の玄関に立っていた。
周助は部屋を出てからずっと無言を続けている。そのつんとした顔を見ていたら、ちょっとふざけてやりたくなった。
腰を下ろして靴を履いている栗色の頭を、コツンと小突く。ピン、とデコピンの要領で弾く。
小突いたり弾いたりするたびに、さらっ、と柔らかい髪が揺れた。ちょっとだけ私を見上げて、ほんの微かに眉を曇らせて睨んできたけれど、
それでもひねくれ者の幼馴染みは何も言わない。なんだよ周助のバカ。そんなに悔しいなら何か言ってみろ、このこのこのっ。
と、無言でデコピン×五回。それでも何の反応もなく、立ち上がった周助はすっと私の横を通り過ぎていった。
こっちは無視だ。まるで透明人間の扱いだ。なんだよ人がせっかく機嫌を取ってやろーとしてるのに。
「いいじゃないかキスくらい。頬にちょっとだけだぞ、あんなの挨拶と同じじゃないか」
「わかってない。僕はそれが面白くないんだ」
「ああ、確かに外国でなら挨拶かもしれないが。日本では一般的とは言えないな」
「挨拶だよ挨拶。頬にキスなんてただの挨拶じゃないか。あのくらいなら、私は誰にだって出来るぞ」
「誰にでもか?そうか。意外と大胆な部分があるなは。今の発言、早速ノートに書き加えておこ」
「書くなああぁ!」
だーーーっと全力疾走、すでに動いていたペンを、ばばっ、と引っ掴んで取り上げる。
ああっっ、こいつときたらまったく抜け目がないというか油断ならないというか!
「違う。違うぞ書くな乾。勝手に話を広げるな、友達だけだ友達だけ!」
「そうなのか。では相手は俺でもいいということか」
「いや、お前は微妙だ」
「・・・・・」
「だけど、・・・うーん、そうだなっ、手塚君なら何の問題もないぞ!」
「・・・。それは暗に俺には何か問題があると言っているのか?」
「ふーん。そうなんだ。手塚ならいいんだ。ふふっ、よかったね手塚」
ぽん、と周助が手塚君の肩を叩いた。意地悪そうな猫みたいな笑顔で、横目に手塚君を眺めている。
眺められた手塚君はなぜか急に、さぁーっと青ざめ始めた。身体の具合でも悪いんだろうか。
「・・・・・・っ。」
「うん?何かな、手塚君」
「ゆ。友人としてお前の好意は有難く受け取っておく。だがそういった際どい発言は、――控えてくれ。心臓に悪い」
眼鏡の向こうの目でじいっと私を見つめ、なんだか苦しげな声で言い聞かせると、手塚君はスタスタと、風が巻き起こる速さで行ってしまった。
その後を乾が追って、玄関前には私と周助だけが残った。どうしたんだ手塚君、いったい何があったんだ?
常に落ちついている手塚君にしては珍しく、何かこう、追い詰められて切羽詰まっているような気がしたのだが。
「そう。友達ならいいんだ」
「ん?」
「じゃあいいんだね。僕がキスしても」
「へ?」
なぜか手首を掴まれた。そしてなぜか、ぐいっと後ろに引っ張られた。
「へ?」
とすん、と自然に玄関先に腰が落ちる。すかさず周助は私の隣に居座った。
「な。なんだ、どうしたんだ周助」
ぐい。
なぜか二の腕を掴まれた。そしてなぜか引っ張られた。
ぐい、ぐいっ。
へ、と間抜けに口を横開きにして見つめると、なぜか周助のもう片方の手が、床に着いた私の手に重なった。
冷たい手のひらにぎゅっと握られる。思わずその手を見下ろしていると、目の前が急に暗くなった。
「し。・・・周助・・・・・・?」
びっくりして指の先がびくっと揺れた。なんだこれ。どーいうことになってるんだ。
ほんのちょっと顔を上向きにしただけなのに。どうして目の前に周助の顔があるんだ。
ゆっくり瞬きした睫毛の先が頬に触れるくらいに。
――息遣いがはっきりわかるくらいに、すごく、近くに――
「しゅっっ。周助?お前。何を――、・・・・・・・」
いや待て。こいつはさっきなんて言った。たしかこんなことを言わなかったか?
そうだ、言ったぞ。私の気のせいでも空耳でもなければ、
「いいんだね。僕がキスしても」とか、わけのわからないことを――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、言った!!
「。どうして避けるの」
「えぇ?!いっ、いやっ、でも!」
「逃げる気?」
「な?!!なんだと!」
「言ったよね。友達ならキスくらい出来るって。じゃあ問題ないよ。だって僕達は、生まれた時からの友達みたいなものなんだから」
「そっ。・・・・・・・。それは。そうかもしれない、けど、さ・・・・っ」
「が言ったんだよ。頬にちょっとだけなんだから挨拶と同じだって。そうだよね?」
とくん。
心臓が小さく鳴った。
とくん。とくん。とくん。
音の刻みが早くなった。音もすこしずつ大きくなってる。
な。なんだ。なんだこれ。どんどん早くなってくる。
だめだ、離れないと。じりっと下がると、周助はじりっと詰め寄った。また目の前が暗くなって、耳たぶの縁に何か温かいものが触れた。
手をぎゅっと握られた。
「え。ええええ、や、ちょっと待て、しゅう、み、耳っ、くすぐった・・・っ!」
「身体が固くなってるよ、。・・・緊張してるの?」
「はぁああ!?そんなわけないだろう?!なななんで、おっ、お前に緊張なんか!」
「そう。じゃあ力を抜いて。ほら――」
なんて声を出すんだお前は、しかも人の耳元で!
今の妖しい囁き声のおかげで全身の力がぐにゃりと抜けた。抜けすぎて腰が砕けたじゃないか!
しかも何だその手つき。やらしく撫でるな私の手を!腕まですーっ、とか撫で上げるな!!
かあーっ、と顔が一気に火を噴いた。頭の中が真っ白になりそうだ。
「〜〜〜〜っっ!!」
「。」
呼ばれたら、背筋をぞくりとくすぐったさが走った。
びくっ、と全身を竦めた瞬間、頬に柔らかい感触が当たった。温かさが緩やかに動いた。
密かに何かを囁くみたいに。吐息で肌に語りかけるみたいに。
――それはすごく長いようでいて、でも、きっちり三秒間だった。
「・・・ふふっ。ねえ。目が。涙目になってるよ」
「・・・・・・・・・・・っっ。」
「ねえ。。どうだった?」
・・・・・・・・何が「どうだった?」だ。
何をそんなに嬉しそうにクスクス笑ってるんだお前は。
腰が砕けて頭の中までふにゃふにゃで心臓バクバクで死にそうになってる私に、お前は何をどう言えと?!
てゆうかいつまで握ってる気だその手は、さっさと放せ!
ばっっ。図々しい手を振り払って立ち上がり、唇を噛みしめて周助を睨みつける。周助はこっちを見上げてきょとんとしていた。
「だっ、だめだああぁ!だめだだめだっっ、こんなのはだめだっ!二度とこんなことするなよお前っ、
いいかわかったなっ、こーゆー人が嫌がることはなあ、絶対無理強いしちゃだめなんだからな?!!」
「・・・・・。何それ。全然納得いかないんだけど」
その言葉、そっくりそのまま返してやる。いや熨斗つけて顔に突き返してやる。私のほうだ納得がいかないのは!
だってお前はたしかに友達といえば友達だけど。「生まれた時から友達」そう言われればそんな気にもなるけど。
周助は幼馴染みで、そういう意味では誰より特別で、いくら酷い目に遭わされても、誰か他の奴とは替えがきかない特別なやつで。
でも、その、だからこそ、特別だからこそ、こういうことは・・・・・
ううん。違うな。違うんだ、とにかく私が困る。他の誰かならここまで困ったりしない。お前だから困るんだ。
雛子にキスしてもらうのとお前にされるのとは違う。全然違う。同じことなのに全然違うんだ。
「いいじゃないこのくらい。ちゃんと三秒以内だよ。挨拶の範囲内だ」
「だっ。だから何だ、何なんだそのデタラメな三秒ルールはぁああぁあ!!」
「言ったよね。友達なら出来るって。」
「いいい。言った。けど。だって。だってさ。・・・・・・・・・おっ。お前が。」
とにかくダメだ絶対ダメだ。だって身体がすごい勢いで危険信号を発してるんだ。
これ以上は危険だって、心臓がバクバク暴れながら私に言ってるんだ。
またあんなことになったら今度こそ風船みたいに、ぱぁん、って破裂するぞ、って。
・・・おかしいぞ。どうしてこんなにドキドキしてるんだ。胸の中が正体不明なもやもやした気持ちで一杯で、
すでに目が涙目になっちゃうくらいに泣きたくなってるんだ?それも周助ごときのせいで!!
「お。おおお。お前がぁあああぁあ!」
「お前がって。・・・僕が何だっていうの。何で駄目なの」
「おっ。・・・・・・・・・・お前がっっ、」
「僕が?」
「お前が!周助だからだ!!!」
かぽ―――ん。
裏返った私の叫び声が、玄関先に漂っていた重厚な静寂を台無しにしてから数秒後。
この広大な庭の奥で見つけた例のアレが、実に間抜けなタイミングで鳴り渡った。
「・・・・・・そんな理不尽な理由、ありえないよね。」
はっきりと見開いた冷やかな目で私を睨みつけながら、周助は寒気のするような声でつぶやいた。
じりっ。じりっ。じりっ。
胡散くさい笑顔をするりと被り直して、無言でこっちに詰め寄ってくる。ガチガチに顔を引きつらせ、私はごくりと息を詰めた。
さっきまでとは違う理由で心臓が破裂しそーだ。怖い、怖すぎてもう声も出ない。
ガクガクブルブル。ああ、馬鹿馬鹿しいくらい正直に膝が笑ってしまってるじゃないか。
気づくと石畳の途中で立ち止まっている乾と手塚君が、こっちをじーっと眺めている。何か言葉を交わしているようだ、
私には遠くて聞こえないのだが――
そんなところで訳知り顔でコクコク頷き合って、いったい何を話しているんだ君たちは。
頼む、頼むから戻ってきてくれ、今すぐ戻って私を助けろ乾、手塚君!!!!
* * *
「なるほど。他の奴はよくても不二は駄目、か。裏を返せば不二だけが特別だということだな、にとっては」
「ああ。そうかもしれん」
「いや勉強になった。これも人間観察の一環としては実に興味深い。
――言った奴は判っていないようだが。ほとんど告白だからな、あれは」
「ああ。だが」
「?だが、どうした手塚」
「・・・俺の目には、言われた奴もまったく判っていないように見えるんだが・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」