洗面所に向かい、ざぶざぶと顔を洗い終える。 腰を屈め、濡れた顔を洗面台に向き合わせた姿勢のまま、タオルを取ろうと右手を壁へ伸ばした。 ところがタオル掛けがあるはずの位置よりもうんと手前で、柔らかいものが手に触れて。 「・・・?」 あれっ、なんか近くね。 不思議に感じながら、ふわっと軽いそれを掴む。掴んだ時に、何かタオルとは違う質感の 柔らかさが指先を掠めた気がした。ごしごしと雑に顔や前髪を拭い、身体を起こし、ふと足元を眺めると。 目の前に向き合うようにして、黒のニーハイソックスを履いた女の足が立っていた。驚きながらも つーっと上まで視線を上げていけば、自分を見つめているの笑顔に視線を吸い込まれてしまう。 「あれ、どしたの。顔洗いに来たのか?」 隙を付かれたようでどきっとさせられたが、銀時は顔に動揺を出さずにへらっと笑った。 笑った瞬間、『よかったらどーよ、これから俺と一緒に風呂入んねぇ?』 なんて、が聞いたら顔をぼんっと発火させそうなセクハラを口走りそうになったことは内緒だ。 「旦那が面倒臭がってちゃんと洗わないかもしれないから監視してきてって、新八くんが」 「はっ。どこまでオカン化すんだぁ、あいつ」 「は?」 「いやいや、何でもねーわ。あぁそーだ。まだ礼も言ってなかったな。あんがとな、ケーキ」 言いながら洗濯機が置かれた洗面所の入口前に向かう。洗濯機の蓋を開け、タオルをぽいっと放り投げる。 が彼よりも先にここを出られないようにと、さりげなく入口前を自分の身体で塞いでしまう。 貰ったケーキへの感謝の言葉も持ち出して話を引き延ばせば、自然と二人きりになれる状況の出来上がりだ。 ――なりふり構わず見苦しい、って?あーはいはい、何とでも言えや。 生憎と俺ぁ、この子のことに関しては、何をどう言われようが構わねんだよ。と二人きりになれる時間なんて、 ここを逃せば当分ねーかもしれねーんだしよ。場所が雰囲気も何もねぇ自分ちの洗面所ってぇとこは癪だが、 幸いと、意味なく喋り倒すのは得意中の得意だ。ここで口から生まれた男の本領を発揮しねーで、どこで発揮しろってんだ? 普段通りのとぼけた態度で腹のあたりを掻きながら、銀時はすらすらと話題を繋いだ。 「あれよー、前に一緒に食いに行った店のやつだろ。あの六丁目の、のおすすめの」 「はい。あの時、旦那がすごく美味しいって喜んでくれたじゃないですか。だから、買うならあのお店にしようと思って」 でね、旦那がおかわりしてたいちごムースのケーキにしたんです。 そう語るは、銀時が喜んでくれていると感じているためかひどく嬉しそうだ。 銀時にも劣らぬ甘味好きのは、美味しい店を見つけるたびに銀時にその店を薦めてくれる。 たまには土方の目を盗んで「一緒に食べに行きませんか」と誘ってくれることさえある。妙に義理がたいところのある 彼女にとって、自分を助けてくれた恩人としての銀時は、やはりどこか特別な存在、ということらしい。 六丁目のケーキ屋に彼女と一緒に入ったのはあの一回きりだ。なのにはその一回で、彼の好みをしっかり憶えてくれていた。 にた――っとだらしなく顔を緩め、銀時はにぱあっと両腕を広げてみせる。 「や、あのよー。マジ嬉しいんでぎゅーとかしてもいーですか」 「あはは、いやです」 「ははは、相変わらずはっきり断ってくれんなー、は」 「でもおめでとうございます」 やはりというか当然というか、あっさり笑顔で断られる。 しかし満面の笑みで贈られる祝いの言葉は素直に嬉しい。…浮きっ放しの両手はさすがに恰好つかねえけどな。 銀時は苦笑を浮かべて戸口前にもたれかかり、腕を組む。最近開拓した甘味屋の話を楽しそうに語り始めたを、 めずらしく険の無い優しげな目つきで眺めた。とはいえその胸中ではすでに、やましい感情がもやもやと渦巻きはじめているのだが。 あー畜生。あんな奴のこたーこれっぽっちも判りたかねえし、判ってやる気も一切ねぇが、 こーやってると野郎の苦労がしのばれるぜ。この子ときたら男どもの心理ってもんをちっとも判ってねーんだもんなぁ。 片思いしてる女に誕生日ケーキなんてもんを貰った男が、その子と二人きりになったその時に、いかに 目も当てらんねーあれやこれやで頭と身体を一杯にしてあんたを眺めんのか。んなこたぁ想像するにも至らねーんだろ、はよ。 そういう無邪気な態度が男を期待させちまうってぇのも、いまいち判ってねーみてーだし。 ・・・だいたいよー、この子ってよー、いったい何だと思ってんだぁ?俺のこと。 俺ぁあんたが一度は振った男だぜ?しかも、それでもあんたを諦める気なんざねぇって男だよ? 隙あらばあの仏頂面から奪っちまおうなんて思ってんだよ?んな奴の前で、そーんなガキみてーな無防備な顔して けらけら笑っちゃってんだもんなぁ。あーあーあー、つっまんねーなぁ。このまま押し倒しちまいてーなぁ。 まあ、いくら頭ん中で息巻いてみたって、ここでうかつに手ぇ出す気なんてさらさらねーけど。 これでも一応こちとら本気だしよ。こないだふられたばっかだしよ?しばらくのところは様子見っつーか、MP回復待ちしてぇとこだしな。 ――いやはやけなげだねぇ銀さんも。 うちのガキどもや下のババアどもが見たら、腹ぁ抱えて笑い転げんじゃねーの。 「しっかしあれな。面と向かって祝われてもなー、あんま年くったって実感ねーな。まぁ、今の今まで忘れてたし」 「ふふっ、やだなー旦那ったらぁ、やめてくださいよぉ。それ、土方さんとまるっきり同じ反応で、・・・!」 と満面の笑顔で銀時の肩を叩きかけ、途中で頬を赤くしてが絶句。ぱふっ、と口を振り袖の袂で押さえた。 またか、といった白い目で自分を眺める銀時の態度にうろたえまくって、袖で無意味に顔を隠す。 狭い洗面所中に視線をうろうろさせてから「で、でもっ」と話を切り変えた。 「でもあの、屯所の人たちもそうだけど、男の人って自分の誕生日とか気にしない人多いですよねっ」 「そーかもな。つーかあれな、誕生日は記念日、ってやつ?俺の場合は特に意味ねーから」 「え?」 下半分を袖で覆った赤い顔が、ちょこんと軽く首を傾げる。 その様子を目にして、銀時はふと息を呑んだ。 ほんの一瞬だけ戸惑いを覚えたのだ。に限らず、こんな話を誰かに聞かせたことはない。 「・・・。や、誕生日ったってよー、俺のは適当な後付けだから。 俺、最初っから親いねーし。ほんとの誕生日なんていつだか判ったもんじゃねーんだわ」 最初っから親いねーし。 銀時の口からその言葉が何気なく流れ出た瞬間、はぱちりと大きな目を瞬かせた。 しかしその後はまったく表情に変化がない。 打ち明けられたほうは気まずさを避けようがない、あまり普遍的とはいえない彼の身の上を、 すとん、とありのままに受け入れ、そのまま納得したような顔をしている。 俺の生い立ちと似たような、肉親に縁の薄い境遇で育った者にしか出来ない表情だ。銀時は軽く苦笑した。 彼女の身の上についてのあれこれを、今では銀時もよく知っている。の口から 直接耳に入れたものではなく、どれも他人の口から聞いた話だ。今のところには黙っておくつもりだが。 「じゃあ旦那のお誕生日って、誰が決めたんですか?親戚の人とか?」 「親戚ねぇ。そーいうアレもいねーからなぁ、・・・」 そういうのがいりゃー、多少はてめえの出自もはっきりしたんだろーけどよ。 そんなことを思ううちに諦めを含んだ笑みが口端に浮かんできて、銀時はくすりと笑い声をこぼした。 「まぁ育ての親っつーか。俺を拾ったおっさんがな。・・・あれぁ拾われてしばらくした頃だったなぁ。 誕生日なんて知らねーっつったら、暦じーっと見て考え込んで、この日だ!っつって、嬉しそーによぉ、・・・・・・」 ふわり。 そんなことを話すうちに、微風のような何かが頭の上を掠めていった。 夢で味わったあの懐かしさが、ひどく唐突に、鮮やかによみがえってくる。 「・・・・・・・、」 「・・・?旦那?」 不思議そうにしているを呆けた顔で見つめていた銀時は、彼女の背後にある洗面台までその視線を伸ばす。 洗面台の前に取りつけられた鏡。当然そこには二人の姿しか映っていない。 だが、誰かに撫でてもらうには育ち過ぎてしまった自分の頭を、そっと撫でられたような気がした。 今のはあの手と同じ感触だった。 ・・・まぁ、そりゃあそーだ。ガキの頃の俺が誰かに頭を撫でてもらった覚えなんて、思い出そうにも他にはいない。 なんやかんやとお節介に俺の世話を焼いてくれたあの人は、あの日も同じように俺の頭を撫でていた。 あの日も同じように強引だった。 真剣な顔つきで暦を見つめ、赤く染まった数字の日付を指差し。俺に向き直って、きっぱりと。 『それじゃあ、この日にしましょう。いいえ、あなたの誕生日はこの日しかありません』 そう言われて、きょとんと先生を見上げた覚えがある。 どうやら誕生日ってのは、本人が選ぶ権利はないらしい。 楽しそうなあの人の言いっぷりからそう悟った。それと同時に思った。 「ほごしゃ」という種類の大人ってえのは、子供のことを何でも勝手に決めるもんだなぁ、と。 その日の俺は心から呆れていた。たぶん顔にも出ていただろう。だってえのに、あの人は笑って言った。 『ありがとう、銀時。私のもとに生まれてきてくれてありがとう』 ・・・そうだ。こいつだ。この言葉にやたらと引っかかりを覚えたんだ。 今思い返しても妙なせりふだ。 俺と年の変わらねぇおっさんが、血の繋がりも所縁もねぇ、赤の他人のガキに向かって言うことか? 「私のもとに生まれてきてくれて」だなんてよ。 だがそれ以前に、俺にはあの人が口にした、俺への感謝が意味するところが判らなかった。 だってそーじゃねーか。あの人は物好きにも俺を拾った。 たかれる身寄りも金もねえ小汚いガキ。人間らしい生活なんて微塵も知らねぇ餓鬼を拾った。それで先生に何の得がある? さっぱり判らなくて、あの時俺は珍しく自分からあの人に問い返した。 『・・・なんで?』 言葉数が足りなさすぎる。今思い返せば、もっと訊き方ってもんがあんだろ、と笑いたくなる問いかけだ。 だがあの人はそれだけで察したらしい。着物の袂を掴んで尋ねてきた俺に目を見張り。 嬉しそうに――本当に嬉しそうに微笑んでいた。何も言いやしなかったが、判ってたんだろう。 人間らしい生活を知らずに育った当時の俺にとって、誰かに自分の疑問をぶつけること自体が一大事なのだと。 ところがそれを尋ねた直後に、やたらと意地っ張りな吊り目のガキと、今も昔も変わらねぇあのクソ真面目顔がやってきて。 結局そのまま聞けずじまいになった。だが妙なことにその時は、今を逃したっていつでも訊けるもんだと安心していた。 知らなかった。いや、そんなこたぁ起こらねーもんだって、頭っから信じきってた。 あの人に訊きたいことを訊けなくなる日が、いつかそのうちにやってくる。 ―― 人ってのはどいつもこいつも突然目の前からいなくなるもんだと、とっくに知っていたあの頃の俺が、 たったそれだけの当たり前さに気付けなかった。 奇妙なもんだ。その時はそんな瞬間があの人の身にも訪れるなんて、夢にも思いもしなかった―― 「・・・・・、」 しばらく思い出に耽っていた銀時は、下から彼を見上げてくる目線にようやく気付いた。 目の前のは、見つめていると吸い込まれそうになる大きな瞳をきらきらと目を輝かせている。感心しきりに頷いていた。 へ、何で?若けー女がそんなに食いつくよーな話かぁ、これ。 「それで十月十日、なんですか。へえーっ」 「んぁ、ま、そーいうこと。・・・理由が気にはなったんだけどよー、結局聞かねーで終わっちまった。 でよー、誕生日を決めた時にな、そのおっさんがな。なーんかへらへら笑って妙なこと言い出しやがってよぉ。 『私のもとに生まれてきてくれてありがとう』とか何とか、訳のわかんねーこと言いやがって」 「えーっ、そんなことないですよ。それってすっごく素敵な話じゃないですか・・・!」 いったい何が彼女をそこまでさせるのか。は顔の前で握った袖を、さらにきつく、皺が寄るほど握り締める。 口から生まれた男のいいかげんな舌の滑りに、何の疑いも持っていなさそうな顔。ひたすらに純粋な感動を籠めた、澄んだまなざし。 いつ見ても目が離せなくなるの瞳が、うるうると潤んで銀時に感激を示していた。 ・・・あーやべぇ。なにこれ。なにこの子。マジ可愛いんですけどこの生き物。 普段もこのくれー熱い視線で見つめてくんねーかなぁ。なんて思いながら、そろそろと、じわじわと、 に向けて腕を伸ばしていく。そんな銀時のやましくもいじましい企みに、はまったく気付いていなかった。 「そっかぁ。そうなんだぁ。・・・素敵な人ですね。ロマンチストな方ですね、旦那を育ててくれた人って」 「そーかぁ?ロマンチストかどーか知らねーけど、暇さえありゃあ書物に埋もれてるよーなおっさんだったぜ」 感動しているらしいが何の屈託もなく笑う。ははは、と銀時もつられて笑う。 わずかの緊張とはやる期待と、ばくばくと騒ぎ出した心臓の動きに顔を奇妙に引きつらせながら。 の背中に腕を回して閉じ込めるまで、あと15センチ。 あと10センチ。 あと―― 「にしても珍しいですねぇ、銀さんが昔話なんて。僕、初めて聞いたんですけど」 「あ、新八くん」 「〜〜〜〜〜〜っっ!!!」 そこへ抜群のタイミングで邪魔が入った。にやにやと洗面所に顔を出したのは、この場に割って入る きっかけを窺っていたらしい新八だ。はそちらにささっと寄っていき、銀時はがくりと床に崩れ落ちる。 ドスドスと床に穴を空ける勢いで拳を叩きつけ、その振動で狭い洗面所はみしみしと揺れた。 「っだよォォォォっっ〜〜〜〜!!!」 畜生、あと少しだったのに!もう少しであのキュートでスウィートな身体を、むぎゅっと抱きしめられたのに! 本当はこんな床を殴るよりも問答無用で新八を殴りたい気分だ。だが、いかんせんここはの前。 んなことしてみろ、現在急上昇中なの銀さん評価折れ線グラフが、がくーっ、とだだ下がりしちまうじゃねーか!!! 「やめてください銀さん卑怯な真似は。素直に感動してる女性のスキを突こうなんて最低ですよ」 「うっせーな黙ってろっっ、つーかいいとこで入ってくんじゃねーよダメガネ!」 「?ねー旦那ぁ。何ですかぁ、女性のスキって。何ですかぁ、いいとこって」 「・・・?私もわからないアル。そのおっさんのどこがロマンチストアルか?」 新八の背後から、もぐもぐと口を動かしている神楽がぴょこんと顔を出す。 情けない涙目になった顔を上げて彼女を眺めた銀時は、次の瞬間、「げっ」と呻いた。 ふっくらしたほっぺたにくっついているのは白い生クリーム。手にしているのはケーキの皿だ。 こっっのガキ、もう喰いやがった!つーかそれは俺のケーキだっつーの!!! 「何なの!?なんなのお前ら、そんなに銀さんが憎いのお前ら!!!?」 「やめてください銀さん見苦しいです。いい年こいたおっさんが人前で泣いたって誰も同情しませんよ」 「そっか。神楽ちゃんはまだ知らないよね」 「いやだからマジで何なのお前ら!?っっだよまで!!どーしてそこまで銀さんに容赦ねーのォォォ!!?」 ばしばし床を殴って泣き叫ぶ銀時を綺麗に無視して、は呑気な笑顔で神楽に話しかけている。 銀時たちと知り合ってからかれこれ経つ。なんというか、この万事屋独特の空気に対して、彼女も耐性みたいなものがついてきたのだ。 「あのね、「十月十日」ってね、妊婦さんたちは「とつきとおか」って読むんだよ」 「とつきとおか・・・?」 神楽はフォークに刺したケーキを頬張りながら、丸っこい目をさらに丸くする。 どっかで聞いたよーな言い回しだな。何だっけ、それ。 そう思いつつ、銀時もあまりピンとこなかった。残る新八だけが、ああ、と頷く。 「それなら僕も聞いたことありますよ。昔はそう言われてたんですよね」 「そうそう、そーなの。だから旦那の育ての親さんも、それにちなんで誕生日を決めたんじゃないかなぁ」 「ああ・・・!なるほど、そういうことかもしれませんね」 「あのね、厳密には違うらしいんだけどね。今みたいに医学が発達してなかった戦前は、 赤ちゃんがお母さんのお腹に入ってる期間は「十か月と十日」だって言われてたんだよ」 いったい何を思ったのか、ぽろりと口からケーキをこぼし、愕然として神楽が叫ぶ。 「・・・銀ちゃんおっさんの腹から生まれたアルか!キモいアル!!!!」 「はぁぁぁ!!?やなこと言うんじゃねーよ!!!」 「いやいやいや、違うからね!?ていうか今の話のどこをどう聞いたらそーなるの、神楽ちゃん!!?」 「んっっだよ、ぅあ〜〜〜〜っっ、やなもん想像しちまったぁっっ」 神楽の誤解に飛びかからんばかりの剣幕でツッコみ、銀時と新八はうぷっ、とうめいて背中を丸めた。 催した吐き気に口を押さえる二人を、と神楽は不思議そうに眺めた。女子二人にとっては単なる 「子供らしい単純な発想から生まれた戯言」が、男の身に生まれた二人にとっては途方もない衝撃なのだ。 出産なんて言われたって、男の俺らには女の苦労も痛みも想像がつかない。それどころか未知の世界に恐怖すら覚えるのに、 今現在の俺とほぼ同じ年の、いい年こいたおっさんの出産シーンだと。――ぁんだそりゃ、想像を絶した不気味さじゃねーか! おい貸せっ、と銀時は神楽が持っていた皿をばっと取り上げ、ケーキを手づかみでガツガツと頬張る。 甘いものが不得意な向きにとっては胸やけしそーな光景だが、自他ともに認める糖分王にしてみれば これはほんの口直し。というか、効き目たっぷりの精神安定剤である。まあ、これが効かない新八は想像上の出産シーンに 顔を青くして、おたおたと居間へ逃げ帰っていくしかなかったのだが。 よろよろと廊下を去っていく新八。その後ろを神楽がたたたと身軽に駆けて追う。 続いて銀時も洗面所を出ようとしたが、そこへ「あのね、旦那」と声を掛けられた。 「・・・あの、今から話すことは全部、あたしが旦那の話から想像しただけのことなので。 だから、・・・ええと、話半分にっていうか。まあそういう見方もあるかなぁってくらいのかんじで聞いてほしいんです」 は彼を見上げて何かを言いたげにしていた。足を止めた銀時に彼女が並ぶと、狭い入口は神楽が通る隙間もない。 「はぁ、」と銀時は、了承したともしないともつかないどっちつかずな返事を口にした。 今から話すことは話半分に聞いてほしい。 そう言ったくせに、の目はある種の覚悟が感じられるというか、なぜか真剣だったのだ。 「前にバイトしてたお店で知り合った人に、この前赤ちゃんが生まれたんです」 「・・・?ふーん、そーなんだ」 「はい。病院にお見舞いに行ったらね、その人がね、出産したときのことを色々話してくれたんですけど。 初めて赤ちゃんを見た瞬間に、赤ちゃんへの感謝の気持ちで一杯になった、って。生まれてきてくれてありがとうって思った、って」 ふーん、と彼は気乗りしない口ぶりで返した。 そういやぁこの前見たドラマでも、ガキ産んだばっかの母ちゃんがそんなん言ってたな。まぁ、赤ん坊だらけの産院に行けば どの部屋からも聞こえてきそーな、よくある決まり文句ってやつだ。 「でね、さっき、旦那の話を聞いて思ったんです。 旦那を育てた人も、そういう・・・なんていうか、嬉しくってたまんない、って気持ちだったんじゃないかなぁって」 「はぁ?」 「だからー。きっとその人は、旦那が自分の子供になったことにすごーく感謝してたんじゃないかなあって。 そうじゃなかったら『生まれてきてくれてありがとう』なんて言葉、なかなか出てこないと思うんです」 「へ?」 すっとぼけた声で銀時はうめく。目も口もぽかんと開けている間の抜けた顔の自分を指差し、 「いやいやいや、そーいうアレとは違げーだろ?俺と年の変わんねーおっさんの台詞だぜ?」 そう念を押してみたが、は銀時の表情がおかしかったのか、首を竦めておかしそうに笑うだけだ。 彼女の確信はそれでも崩れないらしい。 「小さかった旦那には、ちょっとおかしな言葉に聞こえたのかもしれないけど。 その人は、そういう感謝の気持ちと嬉しさを籠めて、お誕生日を十月十日に決めたんじゃないかって」 「・・・・・・・・・」 「きっとものすごーく嬉しかったんですね。旦那の育ての親さんは」 「・・・・・・・・。どーだろなぁ。・・・あん時はあの人も、ただ笑ってただけで。・・・・・・・・」 戸惑って銀時は一歩下がり、とん、と壁にもたれた。無意識に手が動いて口許を覆い、ぼんやりと考え込む。 銀時の彼らしくもない態度が気になっているのか、気遣わしげに見上げてくるの視線すら忘れて、珍しく黙りこくった。 じっと目を落とした古い板張りの床に、どこか遠くを彷徨っているような深い視線を集めて。 「・・・・・だ。旦那?」 「・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・。あの。ごめんなさい」 「・・・。へ?」 ごめんって何が。 ぽかんと口を開けてを見下ろす。は銀時の様子が気になって仕方がないらしく、彼をじっと上目遣いに見上げ、 短い着物の裾を心細げに掴んでいる。黙っていればそれなりに大人の女らしく見えるようになってきただが、 こういう時のこういう仕草は相変わらずにガキっぽい。こーいう見た目と中身の落差が可愛いくってたまんねーんだけどよ。 この手の態度ひとつで骨抜きにされちまうんだから、男ってぇのはどーしよーもねえもんだ。 まぁ、俺も例に漏れずっつーか、人のこたーまったく言えねーわけだが。 「・・・よけいなお世話ですよねこんなの。大事な思い出を壊すようなことしてすみません。 さっき、今日がお誕生日になった理由がわからないままだって言ってたから。つい・・・・・」 「ん?あぁ。いやいや、いーって。そーいうんじゃねーんだ。・・・つーか、あんたに言われちまうとなぁ」 「え?」 ぽりぽりと頬を掻きつつ、銀時は苦笑をこぼす。 自分で自分が可笑しかった。どうかしてんじゃねーの、とおかしくなって漏らした、ほんのすこしだけ照れの混じった苦笑いだ。 「ったくよぉ。どーしてかねぇ。 あんたに言われちまうとなぁ。・・・ほんとにそーだったんじゃねえかって気がしちまうから、不思議だよなぁ・・・」 他の奴に言われたもんなら「んなわけねーだろ」と鼻で笑って受け流すような生温い話だ。 ところがそれがこの子の口から出てくれば、いかにも先生が言いそうなことかもしれない、・・・なんてふうにも思っちまいそうになる。 ――いや、とっくにその気になりかけてる。 「まあ、もしもあのおっさんがそーいうつもりで言ったんならよ。頷くくれーはしてやりゃあよかったなと思ってよ」 「・・・・・・・。でも、笑ってたんでしょ?」 訊かれた銀時が、ああ、と頷く。 は綺麗に揃った睫毛をすっと伏せる。すこしためらうような様子を見せてから、静かに唇を開いた。 「旦那。生まれたばかりの赤ちゃんを抱いてるその人もね、赤ちゃんを抱っこしてるだけで、すごーく幸せそうでした。 小さい旦那が毎日傍にいてくれるだけで、・・・それだけでよかったんじゃないでしょうか。育ての親さんは」 ゆっくりと瞼を上げ、銀時の胸の高さあたりを夢みるようなまなざしで見つめながら、はにっこりと笑う。 大切な誰かを思い浮かべているような、幸せそうな微笑みが花咲いていた。 その笑顔は誰を思い浮かべてのものなのか。あの男を思い浮かべてのことなのか。それとも俺のように、 今はもう会うことのない、遠い誰かを思い浮かべてのことなのか。 いつもなら意地になってでも白黒つけたくなるその微笑みの理由を、銀時は追及する気にならなかった。 この子は今、俺の目の前で笑ってる。こんなに幸せそうに笑ってくれてんだ。他に何が要るってぇんだ? ふっと口端を上げた顔に、幸せそうな女の表情につられたような、自然な笑みが湧き上がる。 「なるほどな。今の俺と同じだわ、それ」 「ふふっ、そうですよね。旦那には新八くんたちがいるから」 「まぁ、あいつらもそーかもしんねーけど」 銀時はのすぐ背後にある壁に手を突いた。 ひょいと前屈みになり、きょとんとした目で彼を見上げてくる小さな頭の横に顔を寄せる。 居間の新八たちに聞こえないよう、耳許にこっそりと。うっすらと色づいた耳を、吐息で奥まで埋めるようにしてささやいた。 「あんたの笑顔がたまに見れりゃあ、毎日上々だってぇこと」 「っっ!!」 柔らかくて甘い匂いのする耳たぶに一瞬だけ触れ、ちゅ、とひそやかな音を立てる。せめてもの置き土産だ。 声にならない叫びを上げて耳を押さえて、は全身を固まらせている。 ぱく、ぱく、と口を大きく開けたり閉じたりしながらも、あっけにとられて銀時を見上げる。 何も言わずに見つめ返すと、かあっと真っ赤に肌を染め上げ、恥ずかしそうにうつむいてしまった。 とびきり上々な反応だ。 言葉もない女に顔を近づけてふてぶてしい目をにんまり細め、ひどく満足げに銀時は笑う。 まあ、これを知れば野郎は刀振りかざして殴り込んできやがるだろーが。…んなこたぁ俺の知ったことか、ざまあみろ。 「なーなー、よー。あのケーキ、あーん、とか、してくんね?誕生日プレゼントのおまけってことで」 「し。しませんっっっ」 「私がしてやるネ、セクハラ天パ。残りのケーキ全部突っ込んでやるから口開けろ。アゴが外れるまで開けてみろ」 ぱたぱたと廊下を駆け戻ってきた神楽が、醒めきった顔で断言する。 『早く来いやモジャモジャ!』と叫び、銀時の首にわしっと飛びついてくる。 乳臭くてやわらかい子供の顔をむにむにと擦りつけられ、さらに甘ったるく感じるケーキの匂いも擦りつけられ、 甘ったるいケーキの香りに負けないくらいに甘ったるい気分が、ははっ、と笑った鼻を抜けていく。使い古された ありふれた言葉が、頭の中をめぐっていった。 ――幸せなんて案外と近くにあるもんだ。 それとまったく同じように、探し続けていた答えなんて、まるで道端に咲いてる名前も無さそうな花のように、 そのへんにぽつりと落ちてるもんらしい。 二十年の時を経て届けられた言葉。もたらされるはずのない答えは、思いがけなく、思いがけない瞬間に、 思いがけない奴の口から返ってきた。 めぐりめぐって、還ってくる。 あの日、背伸びするように見上げた懐かしい姿から。誰かに頭を撫でられるにはデカくなりすぎちまった、二十年後の俺に。 いつになく本気で惚れちまった女の唇が、幸せに満ちた笑みを浮かべて返してくれた。 なぁ先生。聞こえるか。 どーせあんたはこれを聞いても「そんなことは無いでしょう」って、おかしがって笑うんだろーけどよ。 俺の眼にはこう見えんだ。 こいつは全部が全部、あんたがくれた、二十年遅れの誕生祝いってやつなのかもな、・・・ってな。 「・・・なぁーんて、な」 ぼりぼりと首でも掻きたくなるようなむず痒い照れ臭さ。さっき口にした苺のケーキの甘酸っぱい香りのように、 やけに心を弾ませてくれるこそばゆい嬉しさ。 ガラにもなくあれこれと湧き上がってくる色鮮やかな感情たちへのごまかしに、銀時はぼそりと一言、口にする。 すると神楽が目を丸くした。 「おっさんの独り言は禁止ネ、キモいアル」 「うっせーぞクソガキ。今のは独り言じゃねーよ、話しかけてんだよ」 「誰にアルか。もっとキモいネ!」 ねーねー銀ちゃん。誰に話しかけてたアルか? 神楽は捩じくれた銀髪をくいくいと引っ張り、頭上に被さり問いかけてくる。 耳許への不意うちのキスにまだ動揺しているは、 林檎のように赤い頬が恥ずかしいのか。それとも、銀時に視線を注がれることが恥ずかしいのか、 染まった顔を着物の袖で隠し、ななめ後ろを半歩遅れてついてくる。 気だるげに緩ませた目元をさらにやわらかく緩めて、銀時は隣の女を見下ろし。それから、 肩上にべたっとしがみついている神楽を見上げて答える。 「まぁ気が向いたら、そのうちな。おめーらにも話してやるわ」 ぺたぺたとはだしの足を踏み鳴らし、新八の待つ居間へと戻っていった。 降り続いていた雨音はいつのまにか止み。身体中にまとわりついていた古傷の痛みも、いつのまにやらどこかへ飛んで、消えていた。

「 ジュビリー 」 text by riliri Caramelization 2011/10/19/ せんせと仔銀ちゃんとおたんじょうびとその他いろいろ 捏造にもほどがある話in万事屋。タイトルはくるり。