おおかみさんとちいさなこいびと *5

「・・・・・・、」 息を弾ませながら呼びかけて、腕の中で気を失っている身体を抱きしめる。 ぐったりと動かない背中に口吻けを落とした。濡れた背中を包んでいる、かすかな甘みのある汗の味が舌に広がる。 腕に感じるの重みは何度こうしても愛おしくて、何度感じても身体に慣れないくすぐったさだ。 無防備に預けられた柔らかさにも、途方もない満足感を得ていた。 を起こさないように布団に横たえ、恍惚とした表情で眠る女の濡れた睫毛を撫でる。 彼女が起きている時にはけして見せない、壊れ物に触れるような優しい手つきだった。 「とぉしろ・・・・」 身体を動かされたことに気付いたらしい。 うっすらと目を開けたは彼を見つめて、うわごとのような眠たげな声でつぶやいた。 「あのね。ね。あした、ね。・・・しろ、に、いいもの、・・・・・あげる、・・・・・・・」 だいすきなとーしろーに初めて抱かれて疲れきってしまった少女は、言い終えるのを待たずにすうっと瞼を閉じる。 もぞもぞと身体を寄せてきて、土方の腕にぎゅっと縋って。唇をあどけなく半開きにした表情で、幸せそうに眠りについた。 「バカぁぁああ、バカバカバカっっ。土方さんなんかもう知らないっっ」 その翌日。 がおかしな宇宙風邪を患ってから、三度目の朝がやってきた。 日課の朝稽古から部屋に戻った土方は、涙目でびいびいわめく女に朝から手を焼かされていた。 寝間着姿のは衿はずり落ちて髪はぐしゃぐしゃ、どこから見ても寝起き直後の乱れた姿だ。 「みっともねえから着替えろ」と指摘されてもいっこうに着替えようともせず、土方が部屋のどこで 何をしていても背後にべったりくっつき回り、頭や背中をしつこくポカスカ叩いてくる。 どんなに宥めすかしても諭しても、何を言っても聞く耳持たずだ。最初のうちは土方も頭にきて が向かってくるたびに「しつけえ!」と叱り飛ばしていたのだが。…目元一杯に涙を溜めた女が 「ぅううううう」とあまりに情けない脹れっ面で威嚇してくるのに辟易して、それも途中でやめてしまった。 「だって土方さんっ、子供になってたあたしに、・・・・・し、ししし、したんでしょ!?したんですよね!?」 「あぁ?したって何をだ。人に訊く時ぁもっとはっきり物言いやがれ」 「そっっ、そんなこと女の子の口からは言えませんんん!ああもうっ、変なとこでとぼけないでよっっ、 しっ、・・・しし、したんですよね、あたしが変な病気に罹ってる間にあたしの代りに出てきた、違うあたしと!」 「うっせえな朝から怒鳴るな。何もしてねえって言ってんだろ」 「した!したでしょ、絶対したぁぁ!じゃあこれは何、これはっっ」 と、両目からだーっと涙を流しているが自分の首筋を指してくる。 そこにはぽつぽつと赤いしるしが散っているのだが、にはこんな痕が残るような真似をした覚えが どこにもない。彼女はさっぱり覚えていないのだ。 自分がおかしな宇宙風邪に罹っていたことも、二日の間、子供に戻って過ごしていたことも。 ついさっき、稽古を終えた土方が部屋に戻った頃のことだ。 はいつものように目を覚ました。 枕を抱きしめてぼーっと彼を眺めて、「あれぇ、もぉご飯の時間れすかぁ・・・?おはようございますぅう」と、 いつもの彼女らしい呑気な笑顔を向けてきた。一見して元気そうな様子だし、本人も身体の具合は悪くないという。 だが、自分が幼い少女に戻っていたことは微塵も覚えていなかった。にしてみれば、たった一晩眠ったはずが なぜか二日も時間が過ぎていて、その間に自分だけが時間に置き去りにされていたという、なんだか納得いかない 事態になっているらしい。今のにとっては、自分が子供に戻っていたことも木登りで屯所を騒がせたことも、 土方を二日に渡って振り回したことも、すべてが身に覚えの無い話である。もちろん昨夜の秘め事も、全く記憶にないらしい。 「ひどいぃ。ひどいですよォォォ!それってう、うわ、・・・ぅううわわわうわ、うわ、き、っっ!」 「はぁ?浮気だぁ?」 言うに事欠いて浮気だと、この野郎。 土方は眉を吊り上げてを眺め、はーっ、と呆れきった顔で煙を吐いた。 「よくも言えたもんだなてめえ。人がより戻せってぇのにすっぱり断りやがった奴が、浮気だなんだと言えた筋合いか」 「〜〜〜〜!!」 は振り上げた手をぴたりと止め、困りきった様子で腕を下ろした。 それまでは土方の後ろ頭をポカスカと、いまいち力の入っていない手つきで殴っていたのだが、 ぴたりと動きを止めて口籠る。その気になれば他にいくらでも女を作れるはずの土方を散々待たせ、 中途半端な関係を続けさせていることを、はいつも気にしている。それを言われると弱いのだ。 そこは土方も心得ているので、普段であれば滅多に口にはしないのだが。 「フン、くっだらねえ。中身がガキでもありゃあお前だろうが」 「違うぅぅ!違うのっっ。それあたしじゃないもんっ、別人だもん!それってつまりう、うううわわ、ぅぅ・・・!」 「何が浮気だ。俺がてめえのいねえ隙見計らって他の女に手ぇ出したみてーな言い方すんじゃねえ、人聞きの悪りぃ」 「だってそれあたしじゃないもん!何があったのかちっとも覚えてないし!」 口を尖らせて言い返しながら、はずるずると大きなスーツケースを引っ張ってくる。 それには彼女の長期用お泊り道具が詰まっていて、明後日くらいまではここに泊るつもりで持ってきたのだ。 開閉ボタンを乱暴に押し、ぱかっと勢いよくそれを開けると、傍に落ちていた着物やら化粧ポーチやらを ぎゅうぎゅうと雑に詰め込み始めた。その様子を醒めた半目で眺めながら、土方は灰皿を持って立ち上がる。 の態度など気にもしていなさそうな顔つきだ。俺は知らねえ、勝手にしろ、といった平静な様子で文机に向かう。 ・・・少しは引き止めてくれるかと思ったのに。 その背中を今にも泣きそうな目で追うと、はスーツケースの中身をぐしゃぐしゃと引っ掻き回した。 「〜〜いいですよもうっ。あたし別に土方さんの彼女じゃないし、土方さんが誰と何してたってちっとも気にならないし! ここには当分来ませんからっっ。バイト先に来ても家に来ても、電話してきても出ませんからっっ」 全部嘘だ。そんなことぜんぜん思っていない。単にさみしさの裏返しで、意地を張りたくなっているだけ。 あたしって本当に可愛くない。――素直に「土方さんを他の子にとられたみたいでさみしい」って言えばいいのに。 立ち上がって部屋の隅まで走って、そこに落ちていた携帯を拾う。 スーツケースを広げた文机の前まで戻ると、その前に敷いた座布団にどかっと腰を下ろした土方がこう言った。 「ああそーかよ。俺ぁ構わねえから好きにしろ。てめえともそろそろ潮時だな。 いつまで経っても戻ってこねえ女のこたぁ見放して、次に乗り換えるかと思ってたところだ」 「――え、」 土方は細い煙を昇らせている灰皿を書類だらけの文机に置き、白いシャツを纏った背中越しに素っ気なく告げる。 途端には顔色を変え、拾ってきた携帯をぽとりと落として黙りこんでしまった。 余程にショックだったのか、ついさっきまでは土方に殴りかかっていた両腕をだらんと下げ、 生気を失くした顔が硬い声で尋ねてきた。 「・・・つ。次って、・・・・・・・・・・他の、ひとが。出来たって、こと、・・・・・?」 「ああそうだ。残念だったな。俺ぁもう他の女から先約が入ってんだ」 は言葉もなく、膝から畳に崩れ落ちた。 元から潤んでいた目がじわじわと涙を滲ませていく。きゅっと唇を噛みしめていた。 「・・・そ。そう、なん、ですかぁ。・・・そっか。なんだ、そういう、こと、・・・・・」 涙が出そうになっているのか、一言漏らすたびに唇を噛みしめながらぽつぽつと話す。 ・・・何だあの面、今にも泣きそうじゃねえか。 まったく他愛のねえ奴だ。あれだけですっかり真に受けやがった。 彼女の様子を横目に見物していた土方は、何食わぬ顔で灰皿に置いた煙草を咥える。 ふう、と煙を吐いて、ふと顔を逸らした。普段は表情に乏しいその口端には、こらえていた笑いを 我慢しきれずにこぼしてしまったような、ひどくおかしそうな笑みが浮かんでいた。 彼は手許にあったから手配書の束から一枚を指に挟み、ぴしゃりとの鼻先にぶつけた。 それはいたって普通な手配書だ。特に変わった点はない。は頬に伝っていた涙をあわてて拭きながら、 わけがわからず土方を見つめた。 「そっちじゃねえ。その裏だ」 そう言われて裏を捲ると、そこには―― 『とうしろ だいすき おおきくなったらおよめさんになってあげる まっててね』 手配書の裏に綴られた、やたらに大きな字の落書き。 子供っぽくたどたどしい筆遣いではあったが、そこに書かれている字は確かにの筆跡だ。 ところどころに鏡文字が混じっていたり、点が足りなかったり棒が多かったり。 左下には下手な絵が添えられていて、二人の顔が書いてある。 一人は墨で塗りつぶした黒い頭で、口端に棒のような何かが刺さっている。もう一人は大きく口を開けて笑っていて髪が長い。 「たった二日の短けぇ付き合いだったが、いい女だったぜ。 やたらに積極的で、頭も回るし察しもいい。素直で可愛げもあったしな。どこぞの馬鹿女とはえれぇ違いだ」 「・・・・・っ、」 「まあ、ガキだけあって恋文はえらく下手だが。・・・見ろよ。こいつぁ誰の字だ?」 今はもういない五歳の少女が土方の留守中に落書きして、手配書の束に忍ばせておいた拙い恋文。 その裏側――人相の悪い攘夷浪士の写真の貼られた手配書の面を、土方はぴん、と爪先で弾く。 手配書を両手に握り締め、目を丸くしていたはおずおずと顔を上げた。 土方と目を合わせると顔色がみるみるうちに染まっていって、かーっと真っ赤に茹で上がる。 ふっと愉快そうに目を細めた土方は、の頬に煙草を挟んだ手の甲で触れる。 嗅ぎ慣れた煙の匂いが、ふわりと彼女を包んで広がった。 真っ赤な頬を手の甲でとんと突くと、土方は見透かしたような笑顔で彼女を覗き込んで。 「おい。これでも浮気だ何だとぬかす気か」 「・・・う。浮気ですっ」 裏返った声でそう嘘ぶいた横顔は、さっきまでとは打って変わって恥ずかしそうだ。 脹れっ面なことに変わりはないが、急にしおらしくなったというか、ひどくいたたまれなさそうな様子をしている。 真っ赤な頬が髪の影に隠れるほど深くうつむき、両手でもじもじと浴衣の帯の端を弄っていた。 あの様子だ。こっちの女もまんざらでもねえらしい。 すっかり満足した土方は文机に振り返り、まだ充分に長さのある吸いかけを灰皿に押しつけ、ぎゅっと捻った。 朝飯までにはまだ時間がある。近藤さんや総悟もそろそろ起き出して、こいつの具合を見に来るだろう。 それまでこいつをからかってやる。あの拗ねた面が治らないようなら、機嫌のひとつもとってやってもいい。 そう思い、背後をちらりと振り返る。 すると、は数年ぶりに再会した大事な友達「クマのくーちゃん」を抱きしめてこっちを見ていた。 「・・・アパートに帰るのは、やめてもいい、・・・けど、っ。 土方さんとはとうぶん一緒に寝てあげないっ。今日からあたし、くーちゃんと一緒に寝るからっ」 「・・・・・・」 茶色いクマの影から顔を半分だけ覗かせて、頬をぷうっと膨らませたが潤ませた目で睨んでくる。 そのどことなく子供じみたいつもの表情に、あの幼い少女の面影をほんのわずかに垣間見て。 思わず目を見張った土方は、なんとなくどきりとさせられたのだった。

「 おおかみさんとちいさなこいびと 」 end  text by riliri Caramelization 2011/05/23/ -----------------------------------------------------------------------------------