それは市中見廻りの途上でのこと。
休憩ついでにちょっと立ち寄り、飲み物を買って出たコンビニの前だった。
「お。。じゃねーの」
「あれっ。珍しいですね−、こんなところで会うなんて。お買い物ですか?」
真選組隊士のの足を止め、振り返らせたのは偶然会った知り合いだ。
彼女とは何かと縁もゆかりもあって今やすっかり顔馴染みの、万事屋銀ちゃんこと坂田銀時。
本日の特売品とおぼしきトイレットペーパーとティッシュの箱をわっさわさと提げ、買い物客で混み合う商店街の中心ともいえる
スーパー大江戸マートから出てきたところだ。よぉ、と片手を上げた彼の背後には勇ましい行進曲のBGMと
タイムセールで賑わう店内の熱気が流れていた。
「なに、見廻りだぁ?そーいうこたぁ野郎どもにやらせとけって。か弱い女のがやるこたーねーだろ?」
この辺も最近物騒だからよー。
なんていかにも「俺心配してんだぜ」的な台詞をそれらしい口調で発しつつも、屈託なくにこにこと笑うミニスカートの隊服姿をめがけてすっ飛んできた男の表情は
バカ正直な緩みよう。「ちょっといい加減だけど面白くて頼もしいお兄さん」としてに
慕われている立場を生かし、彼女にあれこれと構い続けてきたのが彼である。
ここでこうして会えた偶然も、銀時にとってはむしろ必然。いや、誰が何と言おうと必然へとねじ曲げてやるくらいの
意気込みはある。偶然だろうがたまたまだろうが出会いは出会い。つまりはだ、こうしてひょっこり会っちまうのも、
俺とこの子がそれだけ縁があるって証拠じゃねーの。
そんな気分でそわそわと、落ち着かない態度で腹のあたりを掻きながら、通りの先をひょいと指すのだった。
「それよか折角会ったんだし、どーよ、どっかそのへんの甘味屋でも」
「いやちょっと、やめてください銀さん。甘味屋に入るお金なんてもう残ってませんからね。それともあんた、堂々と女性にたかる気ですか」
やめてくださいよ恥ずかしい、と銀時の肘を突いて横やりを入れたのは、両腕にスーパーの袋を提げた万事屋の地味メガネくん新八。
なぜなのか彼までもが、そわそわとはらはらと落ち着かない様子をしていた。とはいえ、の笑顔に鼻の下を伸ばしている銀時と彼とでは明らかに落ち着かなさの種類が異なってみえる。
新八はとある一点を気にしてちらちらと視線を送り、頬や目元はピクピクと引きつり強張っていく一方だ。
気になるのだ。恐ろしくて仕方がなかったのだ、の斜め後ろに立つ男が。ぞわぁーっと全身に鳥肌が立つほど感じるのだ、ただならない殺気を。
いつになくテンション高めな銀時に凄まじい人相でメンチを切り、
買ったばかりの缶コーヒーをメキメキと握り潰さんばかりにしている、黒い隊服姿の男のことが――
『ちっ。気にくわねえ。
ぁんだその呑気な面は。警戒心の欠片もねーのが丸分かりじゃねえか。
まだ判らねえのかこいつは。てめえがなついた銀髪バカ侍が裏ではどれだけ危ねえ男か、そろそろ気付きやがれってえんだ。
それにつけても気にくわねえ。そもそもこいつには危機察知力ってもんがねえんだ。
本人は一人前に気を張り巡らせているつもりのようだが、横で気を揉んでいる俺からすれば、
この手の男どもに対するこいつの防御はコンビニ弁当にぴったりへばりついたラップフィルム並みのぺらぺらさときてやがる。ざっけんな。
そんな極薄ぺらぺらに何が防げる。レンジでチンすりゃあ膨らみきって一発でプチっと破れるのがオチじゃねえか。
だいたいなぁ、極うすぴったりフィットがもてはやされんのぁ薬局に並ぶアレだけだ。
そんな頼りねえもんで奴への防御が足りるか、足りねえだろ。いいや足らなさすぎるだろ。
話にもならねえ。いいか、そのバカ侍の半径10メートル内に入ろうってえならなぁ、
せめて360度全方位型のATフィールドくらいは展開しろ!』
…と、四百字詰め原稿用紙にしておよそ一枚分の長すぎる文句で頭をモヤモヤさせている男がここにいる。
が聞いたら「ちょっとぉ、どーしてあたしが使徒と戦わなきゃならないんですかぁ」などといまいちピントのズレた
憤慨をしそうなあれこれを、青筋立てたこめかみがブチ切れそうなくらいにひしひしと思っている男が。
の直属上司でもあるこの男――真選組副長土方十四郎は缶コーヒーを三秒で飲み干し、ぐしゃっと片手で握り潰す。
銀時の頭の横すれすれな軌道で投げつけたそれを、ガコンッ、とゴミ箱に叩きつけてストライクインさせた。
「あれっ。いたの土方くん。悪い悪い、今気づいたわ」
「・・・・・(ざーとらしいんだよこのバカ侍が)」
「んだよその顔。何、なんか文句あんの。俺が用があるのはだけで、てめーにはなーんも用がねーんだけど」
「・・・・・(そうやって女の尻追っかける暇があんなら、ケチな仕事のひとつでも探しに行きやがれこの貧乏人が)」
「ほらほら行けよ邪魔だって、いつまでもぼさーっと突っ立ってねーで市民のために働きやがれ税金泥棒」
ぶきみさ漂う半笑いを浮かべつつ、銀時は着物の袖でごしっと顔を拭う。
その頬や目元には、土方が投げた缶から飛び散った水滴がぽつぽつと黒い水玉をつくっていた。これ見よがしに
顔の汚れを拭ってみせる銀時に対して、ところが土方はそんな彼のすべてを無視。てめえなんざ俺には見えてもいねえ。
そんな落ち着き払った態度で懐から煙草を取り出し、箱をトンと突いた。出てきた一本を悠然と咥え、ライターをカチカチと打ち始める。
すると彼の目の前に素早く手が伸びてきて、ぱしっと煙草をかっ攫い、ぽいっと背後に投げ捨てて、
「あっ悪りー、ぶつかったか?蝿が飛んでたからよー、ヤニ臭せー蝿が」
なんてことをすっとぼけて言うのだから始末が悪い。噛みつくような視線を上げ、土方が目の前の男を無言で睨みつける。特売品のトイレットペーパーやティッシュを
足元にどさどさ放り落とし、銀時はからかうようなうすら笑いで迎え撃つ。二人が互いにじりじりと距離を詰めていくと、
目先上にバチバチと火花が散り、突風が巻き起こり、がらがらぴしゃーんと雷鳴が轟き、
足下に光る魔方陣が現れ、それぞれの背後には巨大な召喚獣がお出ましに、
・・・なんて対戦型ファンタジックRPGみたいなことにはならなかったが、これはこれで険悪なバトル開始の予感がひしひしと感じられる。
実に物騒な光景だ。
これはヤバいと感じたのか、ひいっ、と呻いた新八は「ぼぼっ僕、先に行ってますっ」と焦った断りを入れ、
大江戸マートの袋を翻らせながらぴゅーっと逃げた。
無理もないことである。男のくせに意気地がないと思われるかもしれないが、この場合、彼の判断こそが正しい。
性格や立場の違いはあるものの、どこかよく似たこの二人。一旦キレたらただでは済まない
こんな奴らの睨み合いに割って入ろうなどという奴がいたならば、それは余程の強者か、命知らずか身の程知らず。
もしくは人類とは共通の言語も認識も持たず意思の疎通も図れない、UMAか何かに決まっている。ところがここに一人、
極度の命知らずがいた。隊服からハンカチを取り出し、すまなさそうに銀時に差し出した女。そう、だ。
「すみません旦那。これ、使ってください」
「へ。や、いーって別に俺は、このくれー。のハンカチが汚れちまうしよ」
「いいですよーそんなの。気にしないで・・・あっ、ここにも飛んじゃってる」
がすっと近寄ってきて、銀時の二の腕が白いハンカチでぽんぽんと押えられる。
柔らかい手の感触が、ハンカチ越しにかすかに伝わってくる。鼻先まで近づいている彼女の髪から、ふんわりと甘い匂いが漂ってくる。
すっかり気勢を挫かれた銀時はぼうっとした目つきでを見つめた。頭を掻きながら、しどろもどろに言葉を濁す。
「いや、・・・あのよー。」
「はい?」
「次の休みとか暇?もし暇なら俺と」
「!」
そうはさせるか、とばかりに飛んだ鋭い声に銀時は遮られた。がぴたりと動きを止める。
「・・・、はい?なんですかぁ?」
わざとゆっくりと間を持たせつつ、は土方に振り向いた。口先をつんと尖らせた、あからさまにむっとした顔で。
「なんですか何かご用ですか。すいませんけどあたし、副長さまのおかげで忙しいんです。
ちょっと待ってくださ、・・・って、ちょっっ、」
わしっ。頭を天辺からがっちり握られ、はそのまま後退させられた。
買い物中の奥様方が行き交う商店街の昼下がりとあって、道行く人々や店先からの人目は多い。
そんな通りで上司に頭を鷲掴みされ、ずるずるずる、・・・
眉を寄せ、無残に地面を引きずられる足元を憮然と見下ろす。
非難がましい目線を上げて、部下の頭を掴んでもなお銀髪侍との睨み合いをやめようとしない上司をじとーっと恨めしげに眺めた。
「ちょっとぉ土方さーん」
「・・・・・」
「これはないでしょこれはぁ。何度も言ってるじゃないですか、全力で掴むのはやめてくださいって」
すこしは加減してくださいよ、頭蓋骨にヒビ入ったらどーしてくれるんですか。
と口を尖らせるを土方は一瞬だけチラ見した。
『ぅっせーな少し黙ってろ。つーかお前の頭が手のひらサイズなのが悪りーんだ、咄嗟に手が出ちまうじゃねーか』
と心の中では返すのだが、それもすべては心の声。一言も口にはしなかった。
「いいですか土方さん」
と前置きしてから、は勿体ぶった顔つきで彼を見つめた。
「あたしはいいですよあたしは。我慢しますよ慣れてますから。
土方さんの口の悪さも横暴さも、時々わけわかんないことで怒りだすのもいつものことだし。
いきなり頭掴まれるのだって、嫌だけどまあ我慢できます。もう全部慣れっこですから」
これも副長附き隊士としての役目のうちだって、諦めてるし。
と小さな溜め息をつくと、の口調は急に勢いづいた。
「でもね、我慢できないこともあるんですよ。あたしはいいですよあたしは、何されたって平気ですよ。
けどね、こんな理不尽な癇癪を向ける相手があたし以外だったら話は別です」
そう、あたしはいい。屯所一頼りになるけど屯所一横暴なお方に
我が物顔でこき使われる専用雑用係としては、このひとの理不尽な不機嫌なんて日常茶飯事、慣れたものだ。
人目は恥ずかしいしズキズキ頭痛がしてきたけど、そのくらいのことは余裕で我慢できる。だけど、――そうはいってもあたしにだって我慢ならないこともある。
それに、正直言えば、人目の多い往来でこんな扱いをされてちょっと面白くなかったりもするし。
「てことで土方さん、旦那に謝ってください。今のは土方さんが全面的に悪いですよ、先にコーヒーかけちゃったんだから」
「・・・!」
なぜ俺が。かっと見開いた目が盛大に主張している「冗談じゃねえ」を読み取って、は当然のようにけろりと言ってのけた。
「そんな顔したってだめです。謝ってください。せめてごめんなさいくらいはしましょーよ、ねっ」
さらに袖をくいくいと引かれる。黙ってたってだめですよっ、と大きな目で土方を覗き込むの表情ときたら、
友達とケンカした子供を母親がたしなめる時のそれだ。
・・・謝れだと。俺が、この野郎に?
何を言ってやがる、といった顔で土方は舌を打った。部下を怒鳴りつけたそうにぎりっと歯を食い縛っているのだが、
そんな不服そうな顔をしていてもひたすらに無言。頑迷なまでに無言で我慢である。なぜそうなのかと問われれば、そういう男だからだとお答えするより他にない。
どんなにめらめらと怒りの炎が湧き上がろうと、それはあくまで心の内でのボヤ騒ぎ。彼はどこまでも無言を通すのだ。いや、通さざるをえなかった。
は判っていないのだ。筋金入りの意地っ張り、加えて無類のかっこつけでもある土方にとって、この場で銀時に頭を下げろ、などと彼女に
言われてしまったことが、はたして如何ほどの屈辱か。ここで銀時にほんの一言「悪かった」と詫びを入れる。
たったそれだけのことが、彼にとっていかにやりたくない芸当なのかということを。
ふざけんな、といまいましさを噛み締める。ここで俺にどうしろというのか。
まず謝る相手が最悪だ。相手が他の奴でさえあれば、まだしも詫びる気持ちは沸いて出る。それが、――こともあろうか
銀髪バカ侍だと。やってられるか。いや、より最低最悪なのは、よりによってのこの組み合わせか。
片や日頃からそのふざけた存在の一切合切が気に喰わず、事あるごとに敵視してきた胡散臭い野郎。
片や、普段は素っ気なくあしらってはいるものの、心の内では特別な感情を向けてしまっている女。
どちらも俺の個人的ランキングにおける最上位者だ。すなわち「死んでも謝りたくない天敵野郎」と
「死んでも謝りたくない天敵野郎に一瞬なりとも頭を下げる無様な自分、を死んでも見られたくない女」、
この二つのランキングにおける最上位者が見事に揃い踏みしやがったのだ。
・・・それにつけてもの奴だ。
始終俺の後ろに附いているお前が、どうしてそこまで気づかない。ちったあ空気を読みやがれ。ここはどう見たってすべてお前が原因だろうが。
俺は面白くねえんだ。ムカつく野郎と楽しそうにしているお前を見るとむしゃくしゃする。
なんとも言えない落ち着かない気分がこみ上げてくるのがもどかしい。
あまりに馬鹿馬鹿しすぎて認めたかねえ事実だが、とどのつまりが嫉妬してんだ。そう、つまりはこういうこった。
『俺以外の男に気安く笑いかけてんじゃねえ、特にそいつは絶対に駄目だ!』
・・・勘弁しろ。
シュミレーションだけでぞわーっと怖気が立っちまったじゃねえか。
いったいどの面下げてこれを口走れってんだ?何のざまだ。格好がつかねえにも程がある。ところが呆れたことにこれが本音だ。我ながら何とガキじみた戯言か。
言えるわけがねえだろう。黙りこくってここを回避する以外にどうしろってんだ。
それに、もしも俺がここで頭を下げでもしたらどうなるものか。不本意極まりねえことだが、俺ぁなぜか万事屋の腹が読めるように出来ている。
おかげで俺の弱味を握った野郎が何をしでかすかはまったく想像に難くない。
おそらくはこうだ。奴の身内どころか屯所中にまで、些細な事実を百倍に膨らませた与太話を面白可笑しく言いふらす。
手始めとしてこのくれえは企むだろうに決まっている。そうなれば俺の犯した失態は自由勝手に一人歩きして、後の笑い草となり果てるだろう。
…まあ、膨らみきった独占欲を白状しまいと必死にこらえる今の俺の姿、というだけでも、万事屋をこの先半年は喜ばせる
笑い草としては充分すぎるに違いねえが。
「・・・ちっ、」
短い舌打ちでどうにもならないもどかしさを吐き捨て、苦々しく顔をしかめる。
・・・ああ畜生。思い悩むにももう飽きた。つーか面倒くせえ。やめだ、やめ。
こうして頭ん中で悔しがって地団駄踏んだところで何が変わる。何も変わりやしねえだろ。単なる時間の無駄でしかねえ。
中断している見廻りも先を急ぎてえところだし、そろそろ一服してえ頃合いでもある。
ぐだぐだと策を巡らすのもこれで仕舞いとするか。そう、ここは手っ取り早く――
(ここで野郎に頭を下げるくれえなら、いっそばっさり斬っちまうとするかこん畜生!)
――なんて思い悩んでいたのも一転、ころりとキレて物騒な決意を固めた途端、いまひとつ冴えなかった表情が俄然生き生きしてくる。
瞳孔全開の殺気走った目がぎらりと輝き、「いつ刀を抜いてやろうか」とうずうずしながら目論みはじめ、ふっ、と低く不吉な笑い声をこぼした口は
歪んだ半笑いへと変わっていった。
そんな土方の変貌っぷりを「おいおいぃ」と腹の底から不快そうに遮ったのは銀時だ。場の空気がどんなに険悪だろうがおかまいなし、
決して黙ったままではいないところが口から生まれた男たる所以のひとつだろう。
「え、土方くんさあ。何やってんの。そんなに俺に喧嘩売りてーの?」
「俺ぁ別に売った覚えはねえ。だが売られたもんは買ってやる。おい、てめえもさっさと腰のもんを抜け」
「いやいやいや、そっちじゃねーよ。俺が言ってんのはよォ、てめえのそれだ、それ」
「はぁ?何が言いてえんだこの野郎。勿体つけずにはっきり言いやがれ」
「・・・。ってこたぁ、それは無意識か?」
はーっ、と銀時は長い長い溜息をついた。呆れ果てたような遠い目をしている。
アフリカの大草原で発見した、理解不能な行動ばかりする珍妙な動物に呆れ果てているかのような目で土方を睨んでいる。
はといえば苦笑しているのだが、その頬は妙に赤かった。
土方に「何言ってんだこいつ」と小馬鹿にしたような顔をされ、銀時は毛先の跳ねた銀髪の頭を、わしゃわしゃとイライラと掻きまくる。
散々掻きまくった後で、急に意を決して向き直った。
「だーからー。それは無意識にやってんのかって聞いてんの」
「しつけえ奴だな。わけの判らねえ御託並べてねえでさっさと抜けってんだ」
「だぁああかぁあらああああ、わけの判らねえのはてめーだろーが!」
さらに一歩迫って怒鳴り倒す。びしっと向いた指先は、隊服の胸元をずばっと撃ち抜いていた。
「んだよそれ。何を抱きしめちゃってんの。
てめーがをどうとでも出来るってとこを俺に見せつけてんのかって聞いてんだよ!」
何言ってんだこの野郎。
と、眉をひそめた土方が自分を見下ろし、
「――!!!」
見下ろした先にあった光景に目を点にした。
・・・まったく気づいていなかった。
そこにあるのは、いったい俺は何を、と愕然としたくなる光景だ。
万事屋の言葉どおり、もろに抱きしめているのだ。いつのまにか右腕はの肩口にぐるりと巻きつき、
左腕は腰へと回っていた。万事屋との接近などこれ以上一歩たりとも許さない。そういわんばかりに胸元に押しとどめ、
の身体の動きを奪ってしまっているではないか。
頼りないくらいに柔らかくて温かい感触が腕の中にある。
困ったような苦笑いでこっちを見上げるの身体が、腕の中に。
「あのー。そろそろ放してくれませんかぁ、土方さん」
「――っ!」
絶句して見下ろしたわずか十センチ先の距離から、不思議そうに首を傾げたに呼ばれる。土方の額を嫌な汗がつーっと汗が走った。
それでも彼は人並外れて頑強な精神力をフル稼働し、なんとか動揺を抑え込もうとする。
ところが抑え込んだはずの動揺はこれでもかこれでもかと容赦なく彼の表情筋を刺激して、驚きと焦りに固まった顔を
ひくひくと引きつらせようとするのだ。またもや額を、つーっと薄気味の悪い汗が走った。
・・・馬鹿か。馬鹿なのか?いいやどう見ても馬鹿だろ。馬鹿以外の何物でもねーだろ。
何だこれは。何をやってんだ俺は!?
本音が行動から全部だだ漏れになってんじゃねーか!!!
「え。なにそれ。なにその反応。え、まさかとは思うけどよー。マジで無意識にやってんのそれ」
「!・・・、っっっ違っ、こっっ、これはだな!?」
「いやいやいやいや、今のはどー見たってたった今気付きましたって反応じゃん。え。なにそれ、バカ?バカなの!?」
「ぁああ!?」
泣く子に火が点く凄まじい剣幕で怒鳴りかけたが、土方ははっとして我に返った。
まずい。こいつのペースに乗せられるな。ここでうかつに取り乱せば、俺はたちまちこの野郎の不愉快なニヤつき具合の餌食にされる。
動揺をごくりと呑んで意を固めた彼は、黒の隊服を纏った背筋にはだーっと滝の汗を流ししつつも、
痙攣する表情筋の維持のみに全神経を集中させる。本人の意志に反してぴくぴくと暴れたがる表情筋との戦いに必死で勝利、
数秒後にはどうにかいつもの無表情を被りきった。額に汗して必死に立て直しを図ろうとするぎこちない彼の姿には、
淡麗氷結系なクールさが売りな男のクールさが無残に崩れた時のおかしさと残念さがふんだんに漂っている。
冷淡そうで澄ましきった端正な顔立ちには面白いくらい似合わない、なんともいじましくて間の抜けた姿だ。
まあ、見る人によってはこのいじましさが好ましく思えたりするのかもしれない。
「出来る男」がペースを乱したときにみせる可愛さにきゅんとくる、という女性特有のギャップ萌え現象によって、
意外に好感度を上げることだってあるかもしれない。「ふーん、冷たくてとっつきにくい人だと思ってたけどそうでもないのかな」などと
親近感を持たれる場合も然りだ。見る人が見ればそんなふうに思えるくらいの、男の可愛げがうっすらと感じられる動揺ぶりだった。
だったのだが、・・・彼にとって非常に残念なことに、ここにいるのはそうは思ってくれない女だった。
「・・・あのー。ずーっと思ってたんですけど」
「あぁ?」
「もしかして土方さんて、あたしが旦那と仲良くするのが面白くないんですか?」
上目遣いで挑発的に笑いながら、は土方を見上げてきた。
意地の悪そうな猫にも似た視線を受け止め、土方は息を呑んで黙り込む。
「あれっ。なんでそんな顔するんですかぁ。もしかして図星ですかぁ?」
そう指摘されたのは、眉の片方が激しく吊り上がった、言葉もないほどむっとしたような顔だ。
「ええぇ〜。もしかして、今の本気にしたんですか?やーだなぁ冗談ですよー、そこまで怒らないでくださいよぉ」
「・・・・・・・・」
「そーいえば土方さんて、あたしが旦那の話をするとやたらと機嫌悪くなりますよねー。かぶき町には近づくなとか旦那に会っても無視しろだとか、わけのわかんない無茶ばっか言うし」
はここぞとばかりにぺらぺらとまくし立てた。珍しく言葉を失い、凍りついている土方の態度を至近距離から眺められるのは面白かったし、
いつも余裕たっぷりの我が物扱いで自分を振り回してくれる上司のことを、ちょっとだけからかってみたかったのだ。
ああ、ついつい顔が笑っちゃう。土方さんたら面白い。写メでも撮ってやりたいくらいだ。腕をつんつん突いてもつねっても、何の反応もなく文句も出ない土方さんなんて。
これが普段の副長さまだったら、今頃あたしはがつんと無言の鉄拳制裁をお見舞いされていたところだ。
「知ってます?そーいうのも、独占欲って言うんですよ−?」
さあこれでどうだざまあみろ!
と鼻高々な気分で土方を覗き込んだは「独占欲」の三文字を思いきり強調、日頃の鬱憤も詰め込んだ満面の笑みをぴしゃりと押しつける。
それでも石像のごとく固まった男は押し黙ったままだ。銀時は片眉を微妙な角度にぴくりと上げて、固まった男を探るような目で眺めはじめる。
もしばらくはにやにやと彼を見上げていたのだが、――その沈黙が一分も続いたころには、だんだん気詰まりになってきた。
「ひ。土方さん?」
「・・・・・・・・」
囲われた腕の中で居心地が悪そうに身体を縮み上がらせ、ぱくぱくと口を空回らせる。見るからに弱りきった表情だ。
「・・・な。何で黙ってるんですかぁ、・・・・・・・・・・」
悪気なんてなかった。ほんの出来心なのだ。頭を掴まれた仕返しのつもりだったのだ。なのに、なのに――
そんなに短く荒い溜息をこぼし、土方はふいっと顔を逸らした。
通りの向こうに視線を遠ざけた表情は冷淡なものだったが、頑なに引き結んだ口端は力が籠もって
下がり気味。見方を変えれば拗ねて黙っているようにも見える。
らしくもないとことにこれが今の限界だった。
体面の悪さなど二の次だ、これ以上構っていられるか。何の気なしに図星を指された悔しさだとか、お前にそれを言われたらどうしようもねえだろうがとか、
そこまで判っておきながらどうしてお前は野郎と並んで当て擦るのかとか、とにかくそんな歯痒い本音の渦で頭の奥まで一杯だというのに。
「じ、冗談っ、冗談ですよ?今のは冗談ですからね!?」
不意に土方の腕に重みが掛かる。柔らかい重みが寄り掛かってきた。ほんのり頬を赤らめたが、ぎゅうっと力一杯にしがみついてくる。
おろおろと叫んだ声は耳にきいんと刺さるくらい甲高い。わけがわからなくなって土方にしがみついている彼女の身体同様、
うろたえまくって落ち着きがなかった。
「何でそんな反応!?違うでしょ、ここはバカかお前はって受け流すとこでしょ!?
そ。そんな真に受けた顔されると、・・・あ、あたし、・・・え、や、ああああのっ」
「・・・・・・・」
そんな二人に目を剥いていた銀時の顔色が、みるみるうちに青くなる。
顔やら手足やらがぞわぞわと湧き立った鳥肌に浸食されていく。しまいには、うぷっ、と吐く寸前の顔で口を抑え、
「ちょ、待った」と上げた手で遮る仕草をしてみせた。
「いやちょっ、土方くん?マジ無理、無理だって。つーか気色悪りーもん見せんじゃねーよ」
「ぁあァ!?っっっだとコルぁああ!!!」
唐突にブチ切れ怒鳴るとほぼ同時、腰まで回った土方の手許で刀の鍔口がパチンと切られる。
驚いたは彼の手に飛びつき、一旦キレると手のつけられない厄介な上司をあたふたと止めにかかった。
「やめてくださいこんな往来でっっ。商店街のみなさんが見てますよっ」
「ぅるっっせえ!何だてめえまで被害者ぶりやがって。いかにもあたしも迷惑してるんだって面してんじゃねぇ!
こーなってんのぁ誰のせいだと思ってんだ!」
「はぁ!?ちょっとおぉぉ、どこがあたしのせいだっていうんですか!」
「ぁあ!?どこが、だぁ?笑わせんな、全部だ全部!どこも何も全部が全部てめーのせいだろーが!」
「え、何これ。痴話喧嘩?痴話喧嘩なの?俺に見せつけてんの?自慢か?また自慢してんのかこのヤロー!」
「知るか!つーか邪魔すんな、てめーにゃもう金輪際用はねえ、どこへなりと消え失せろ!」
「勝手な言いがかりつけないでくださいっ。あたしが何したっていうんですかぁあ!」
「しただろーが!!」
轟いたのはビリビリと地鳴りするほどの一喝だ。をぴたりと絶句させ、商店街を行く買い物客の足も止め、一斉に振り向かせてしまう。
眉間も険しく怒り心頭な土方の指先が「あーあーもォやってらんねー」と醒めた半目顔で鼻をほじり出した銀時を、びしぃっ、と一直線に貫いた。
「こいつの前で呑気なバカ面晒してんじゃねえ!バカ侍のバカ面のバカの皮の裏に何が隠れてっか判ってんのかお前は、
ちったぁそのへん読みやがれ!そもそも俺からすればお前の防御はコンビニ弁当にへばりついたラップフィルム並みの
ぺらぺらさだざっけんな!その極薄ぺらぺらで何が防げる!?防げるか!レンジでチンすりゃ膨らみきって一発でおじゃんだろーが!
だいたい極うすぴったりフィットがもてはやされんのぁ薬局に並ぶアレだけであってだなぁそんな頼りねえぺらぺらで奴への防御が足りるか
足りねえだろいーや足らなさすぎるだろ!!いいかっっ、そのバカ侍の半径10メートル内に入んならなぁ、
せめて360度全方位型のATフィールドを展開しろ!!!」
字数にしておよそ原稿用紙一枚弱。女子の前で口にするには最低だろう例えまで怒濤の早口で飛び出し、
しかも銀時が真っ先にそこに食いつき「極うすぴったりフィットだぁ?わかってねーなぁ土方くん、アレに大事なのはうすさより着用時の快適さだろ。
女の子にも優しいなめらかな使用感と安全性が大事に決まってんだろォ?」などと「いやそこは別に膨らませなくてもいいだろ」的な部分だけをご丁寧にも膨らませるものだから、
そこを境に二人の罵り合いは完全に方向性を見失った。青少年のご視聴にはまったくもって相応しくない、卑猥さと最低さだけがとめどなく暴走。顔を真っ赤にしたは予想通りに「誰が使徒と戦うんですかぁぁ」と
ピントのブレたボケを披露して。
こうして土方は言いたいことをさんざん我慢した挙げ句、結局我慢できずに洗いざらいぶちまける破目になったのだった。
「よっぽどお互いが気になるんですね。土方さんと万事屋の旦那って」
「!――っ、」
気分直しに、と買い直したコーヒーを土方はあやうく吹き出しかけ、ゲホゲホと咳き込んで背筋を丸めた。
珍しく黙りこくったかと思えばいきなりこれだ。何を言い出すのかこいつは。気色悪りぃったらありゃしねえ。
両腕にトイレットペーパーとティッシュをわっさわさと提げた銀髪男の背中が商店街の雑踏に紛れていくのを見送ると、
は彼を見上げて意味深に目を細めた。
「だって、会うたびに何かと喧嘩になるじゃないですか。喧嘩になるのは相手を気にしてる証拠ですよ。
それに、気にならない人のことなんて目もくれないタイプでしょ?土方さんも旦那も」
・・・痛てぇところをつきやがる。
得意げなに眉を顰めはしたが、土方は無言でコーヒーの残りを飲み干した。
こいつの言い分も一理ある。あの銀髪バカ侍が俺をどう見ているかなんざ知りたくもねえし、奴の存在そのものも認めちゃいねえ。
だが、それでも俺はあの野郎のある種の凄さだけは認めている。
そう、認めているから悔しいのだ。認めているから腹が立つ。認めているから目について仕方ねえ。認めているからこそ無視でき――、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
いや、違う。
だからといってこいつの言い分を呑んだわけじゃねえぞ。
こいつが煩せえから仕方なく耳を貸してやっているだけであって、決して言い分に頷いてやったわけじゃねえ。
誰があんなふざけた野郎を認めるか。認めちゃいねえぞ断固として。
「でもわかりますよ。いますよねー、何言われても、何してるの見ても気になっちゃう人って」
「・・・そんなんじゃねえ」
彼の表情を確かめようと下から覗き込んでくるに渋々の体で答えつつ、コンビニ前に並ぶゴミ箱へ空き缶を放る。
へぇえ、とにんまりと口端を上げてにやついた女の目は、猫のような三日月だ。
何だその企みすましたような面は、生意気な。
そう思ってかちんとくるのだが、その反面、にこういった顔をされるのは嫌いではなかった。
すっかり俺を遣り込めた気でいるあたりの単純さが、これはこれで可愛げがある。
「そーですかあ?まあ、そういうことにしてあげてもいいですけど」
「おい、何が「いいですけど」だ。上から物言ってんじゃねーぞバカパシリ」
一発小突いてやろうと隣の女に伸ばした拳は、すかっと大きく空振りに終わった。
隊服の短いスカートの裾を翻らせ、ひらりと逃げたはひどく子供っぽくて自慢げな笑みを浮かべている。
時間が経ってすっかりぬるくなった炭酸飲料のペットボトルをくるくると開きながら、
「近藤さんや総悟には黙っててあげますよー」などと嬉しそうに目を細めて生意気を言った。
判らねえ奴だ。何がそうまで嬉しいのか、こいつは。
土方は苦笑しながら「もう行くぞ」と言いかけて口を開き、しかしそこでふと思い留まる。
別のことを口にしてみたくなったのだ。なんとなく引っかかりを覚えたことを、何の気なしに。
「いるのか」
「はい?何がですか」
「お前にもいるのかって聞いてんだ。何かにつけて気になっちまう奴が」
ぷはっ、と飲みかけの炭酸にむせてが吹き出す。
身体を折り曲げてけほけほと咳き込み、口を両手で抑えようとした。
ところが持っていたペットボトルがつるっと滑り、
「っ、ひゃああぁ!」
逆さまになったそれをあわてて受け止めたために、
隊服の胸から下には透明な発泡水がしゅわーっと流れた。
「つめ、冷たっっ!」
「おい。何がしてえんだお前は。この季節に水浴びか?」
どう考えてもまだ早ぇえだろ。
あわてた女の手からペットボトルが転がり落ちる。土方は腰を屈め、中身の残っていないそれを拾い上げてに返そうとした。
手渡そうとした矢先に、奇妙さに気づいて手を止める。
「・・・どうしてそういうこと、・・・言うんですかぁ。もう、・・・」
は珍しいほど憮然とした顔つきで彼を見上げていた。吐息のように小さくつぶやいた何かが、閉じかけた唇の中でふにゃふにゃと消え入る。
しばらく何か言いたげな目をして黙っていたが、途中で諦めたのか、ふてくされた様子でハンカチを出した。
濡れた隊服を拭いはじめても、怪訝そうにしている土方にちらちらと、咎めるような視線を向けてくる。
隊服の腕や胸元を撫でるうちに頬がぷーっと膨らんでいき、最終的に土方はぷいっとそっぽを向かれてしまった。
うつむき気味の横顔が注がれる視線から逃げていく。口許を隠すようにして抑えたハンカチは、細い指にぎゅっと握り締められていた。
「そんなこと言われたら。・・・もっと気になっちゃうじゃないですか」
抑えた口許から漏らされた小さな声は、雑踏の物音に紛れてしまいそうなくぐもった響きだ。
言い終えると頬が淡く色づきはじめる。恥ずかしそうに深く睫毛を伏せた横顔は、たちまちに薄桃色に染まっていった。
半開きだった口を閉ざし、土方はどことなく面食らったように表情を変えた。
・・・またこれだ。珍しく黙ったかと思えば、突拍子もなく言い出しやがる。
「・・・おい、」
「は、・・・はい、っ」
「いつまで持たせておくつもりだ」
底にわずかな泡を残したボトルを、つっけんどんな仕草で彼女のおでこに押しつける。
の視線はおずおずと、上目遣いに上がっていった。持て、と目で言い聞かせると、戸惑いながらボトルに触れてくる。
彼の手の端に細い指の先がかすかに重なり、くすぐったさに首を竦めたくなるような温かみと柔らかさを残していった。
・・・やりにくいったらありゃしねえ。
胸の内では困り果てながらも土方は口を開いた。
努めて淡々と。うっかりボロを出さないようにと、うんと素っ気ない態度を繕って。
「そいつはこっちの台詞だ」
「・・・え?」
「何かにつけて気になって仕方がねえのは、お互いさまだ」
愛想のかけらもなくぴしりと言うと、持たせたペットボトルがぽろっと落ちる。
彼はすぐさまに背を向けた。懐に籠めた煙草を探りながら、商店街を進み始める。
「・・・!ひ、土方さんっっ」
「あぁ?」
「今のって。今のって、あの、だから、あ、あの、・・・っ」
表情の薄い咥え煙草の横顔は、背後にちらりと視線を流した。
すぐに目と目がぶつかった。他の何物も目に入っていないかのような表情で、は彼だけを見つめていた。
頬をぽうっと火照らせている。ペットボトルを胸に抱き締め、
全身をぎこちなく竦ませている。土方は足を止め、その姿を上から下まで、感情の乗らない醒めた目つきで確かめた。
何事もなかったかのように平然と視線を通りの先へと戻してから、はっ、と肩を揺らして笑い飛ばす。
馬鹿にしきったその態度にかぁーっと一気に血を上らせたは、真っ赤になった顔から火を噴く勢いで食ってかかった。
「何で笑うんですかぁぁ!!」
「笑ってねえ」
「笑った!笑ったじゃないですかぁ、バカかこいつはって顔してたし!」
「そう言うお前は何をおたついてんだ。つーか行くぞ、さっさと来い」
「〜〜〜もう知らないっ。見廻りなら一人で行けばいいじゃないですか一人で!」
「んだとコラ。パシリが一丁前に職務放棄しようってのか」
こみ上げる笑いに喉奥をくすぐられる。目元がつい細くなる。煙草を咥えた口端まで歪んできて、危うく派手に吹き出しそうになってしまった。
とはいえにそんな姿は見せられない。両手で覆い囲った先にライターで火を点けると、彼はわざと先を急いだ。
見慣れた商店街の賑わってごちゃついた景色が、軽快に両横を流れ過ぎていく。
通りを埋めた買い物客の声や店々からの呼び声、物音や音楽、掻き入れ時の商店街に満ちた活気は、身も蓋もない無節操さでがやがやと重なりあっている。
普段なら耳を貸すことなく聞き流しているその騒々しさが、なぜか今は柔らかく響いた。
雑踏を埋めた音に混ざって、聞き慣れた足音がぱたぱたと近づいてくる。女の軽い足音だ。
「ち、違うぅ!違いますよ誤解しないでくださいっ、今のは別にっっっ」
今更すぎる言い訳やら泣きの混じった弁解やらを引き連れて、ぱたぱたとあわてた足取りで追いかけてくる。
腹の底まで溜め込んだ白煙を長々と吐き出しながら、土方はいかにも厄介そうにつぶやいた。
「それにしてもだ。つくづく素直さってもんに欠けるな、お前も」
「・・・!土方さんにだけは言われたくないですっっ」
まったくだ。お互いどうも進歩がねえ。面と向かっては素直になりきれねえのは俺もこいつも同じのようだ。
何かにつけてぶつかりあってばかり。こんな時でもその癖が抜けず、つい喧嘩腰になったり、妙に遠回しになっちまったり。
そのくせ内心ではとうに諸手を上げて認めてしまっているのだ。
頬を赤らめてうつむくに感じた嬉しさを。さっきから心臓を浮つかせている微かな昂揚感を。
いよいよ無視できねえほどに育っちまった、こいつの存在の大きさを。
そうだ。認めているから悔しいのだ。認めているから腹が立つ。
認めているから目について、認めているからこそ無視できねえ。
こいつに対する俺の感情も、あの気に喰わねえ野郎に対するそれとよく似た道理で動いてやがる。
何かしらと、何かにつけて、俺がこいつに腹を立てたくなるのは――
「・・・認めてやるのも癪だがな。」
わずかに肩を竦め、低めた声でつぶやくと、飲み下した本音が喉の奥までほろりと落ちる。
落ちると同時で湧いてきたのは、毒気の抜けた苦笑いと、照れくささが入り交じった温かみのある感情で。
それを腹の中に飼い慣らしていくまったく慣れない気分を味わうのは、なぜだか妙に心地が良かった。
「今、何か言いませんでしたか」
「言ってねえ」
「ぼそぼそ喋ってたじゃないですかぁ」
「言ってねえ。お前の気のせいだろ」
「言った。絶対言いましたよぉ。・・・なんなんですかぁ、もぉっ」
いつもそうやってはぐらかすから、余計に気になっちゃうじゃないですか。
ふてくされた口調でつぶやきながら、がようやく隣に追いついてきた。互いの腕が触れ合うほどの近さに並んだ女の顔を、口許から昇る薄い煙越しに見下ろす。
赤みの残った膨れっ面を眺めて思った。こいつにこういった顔をされるのは悪かねえな、と。
視線を前に戻した土方は、肩を竦めてうつむき気味にふっと笑う。愛想知らずの無表情が、その一瞬だけ満足げに綻んで崩れた。
そう、俺がこいつに何かと腹を立てたくなるのも。こいつの前ではろくに本音も包み隠せず、他愛もない喧嘩を性懲りもなく
繰り返してしまうのも。すべては俺がこいつを認めているからこそ。すべては俺が、に惚れたと認めているからこそのこと。
こいつが無性に気になるからこそああだこうだとぶつかりあって、今日も喧嘩は続くのだ。