これは 夢か――
そう気づくまでにそれほど時間はかからなかった。
そこは見覚えのある古びた家屋の中だ。気づいたときには、彼は一人で廊下に佇んでいた。
肌を覆う空気の質感は歪んで重たい。
その重たさに遮られているせいなのか、わずかな物音すら聞こえてこなかった。
何も聴こえなかった。
突っ立っていた廊下に踏み出してみても。
目線を上げた先にある、陽に焼けて色褪せた障子戸が開いても。
そこから飛び出してきた小さな子供が体当たりで足に組みついてきても、陥った状況に変化はなかった。そいつの声すら聴こえない。
嬉しげに目を輝かせたそのチビは、懸命に何かを喋りかけてくる。
いくら理屈の合わない夢の中といえ、これはどう見ても見ず知らずのガキだ。
だというのに、ガキはどういうわけか俺に懐いていた。
俺が此処にいることに何の疑念も覚えていないらしい。それが証拠に、急に飛びつかれたこっちの戸惑いには気付きもしない。
誰だ、こいつは。
見たところは身体の割にしっかりした面構えだが、
それだけにこうしてはしゃいでいてもどこか勝気そうというか、生意気そうな面だ。
小さな手がぐしゃりと隊服をひっ掴み、俺の脚を踏み台にしてがむしゃらに喰らいついてくる。
人の身体をガキの玩具とでも思っているのか、腹から胸へとよじ登るのに夢中だ。あわよくば肩まで登るつもりらしい。
興奮気味なその様は、遊びに夢中な小犬のそれによく似ている。
なぜか止めさせる気にもなれず、早くも首へと纏わりついてきた身軽な身体を呆然と眺めた。
柔らかな手のひらは子供特有の体温の高さで熱を放つ。
触れられると心地良いような、それでいてその心地良さが落ち着かないような、不思議な気分にさせられた。
そうしているうちに、ガキが出てきた部屋の障子戸が動いた。
ゆったりした足取りで女が出てくる。俺の姿を認めるなり笑顔を見せた。
一息に綻んだ花のような、咲き零れるような笑顔だ。大きな瞳がにっこりと細められ、ガキと俺とを満ち足りた表情で見守っている。
あれは見ず知らずではない。よく知った女だ。
だが、俺の知っているあれとは一点だけ違っている。着物姿の帯から下が、ふっくらした丸みを帯びて張っていた。
どうなってんだ。孕んだ女の身体じゃねえか。
目にした瞬間に息を呑む。これまでに経験したどんな驚きにも例えようがないほど、愕然として問いかけた。
『、お前、その腹は―――』
ところがその問いかけが女には届かない。声を伴っていなかった。
伝えられない歯痒さに苛立って何度繰り返しても同じだ。
腹の底から張り上げたつもりでも、威勢に反して声が出ない。言葉は虚しく空回り、頭をぐるぐるとむやみやたらに渦巻いていく。
女がこっちへ近寄ってくる。
目の前で立ち止まると、和らいだ微笑を浮かべたままに唇を開いた。
「 ――――― 」
女の口から何かが聴こえたはずだった。
しかしその声は耳に届かなかった。
バサ、バサバサッッ。
女の言葉を掻き消して耳を横殴りにした音。ささくれ立ってごわついた音に、
たちまちに遠のいていこうとする夢から一気に意識を引き剥がされる。
眩しげな表情で目を見開いた。
眼前で、黒い塊がこっちを見ている。翼を空に広げている。
力強く空気を薙いで煽ぎ乱している、漆黒の翼。
その翼が一際大きな羽音を掻き鳴らす。金属音めいた甲高い咆哮が上がる。羽ばたいた翼から一片の羽毛が空に舞う。
風を受けた黒の欠片は、ひらり、ひらりと旋回しながら落ちてきた。
血にまみれた手で腹を抱え、地面に倒れ伏している彼の元に。その傍らには、すっかり刃毀れした血染めの刀が投げ出されている。
ここは。どこだ―――。
ぼんやり浮かんだ疑問も長くは保たなかった。
何も思い出せなかった。ここがどこなのかも。何故ここにいるのかも。ここで何をしていたのかも、何も。
浮かんでくる疑問のすべてが、霧が散るかのように一瞬で消え去る。曇った脳裏に溶けていく。
目覚めた土方が視線を向けているのは、瓦礫の山。潰れた廃車とその部品で出来た山だ。
破れたタイヤや銀色に光るホイール。泥に汚れたシート。黒く煤けたエンジンなどの駆動部分。
風雨にさらされて朽ちかけた錆色の破片たち。すべてが一緒くたに潰されて積み上げられていた。
見上げたその山の天辺から、一羽の鴉が彼を見下ろしている。
天井のひしゃげた赤い車のボンネットに留まった、片目の潰れた大きな鴉だ。
空き地中に撒き散らされた血の匂いを嗅ぎつけて飛んできたのか、
屑山の中腹には目を光らせた鴉たちが点々と留まっており、頭上の空でも、数羽が円を描いて旋回していた。
廃車の屑山の手前で倒れた彼の周囲には、血肉をぶちまけ、既に息絶えた人間どもの屍が点々と倒れ伏している。
そんな死臭漂う中にあって唯一息をしていた異端分子――土方を、鴉たちは
あくまで死にかけの弱った獲物として捉えているらしい。闇色の目を光らせて、じっと彼の動向を見定めていた。
その目を眺めているうちに、泥のように混濁した意識の底から、ある残像が浮かび上がってきた。さっき目にした男の横顔だ。
伏せられていた瞼がぴくりと動き、脚に弱い痙攣が走る。泥と血で汚れたブーツの足先がびくっと震えた。
脳髄までこびりつきそうな濃い血の匂いが、鼻先を突いてくるのを感じ取る。つられて呼び醒まされた意識が鋭く命じた。
立て。あれを追え。
弾かれたように飛び起きる。しかしすぐに、うっ、と呻き、腹を抑えて荒れた地面に転がった。
襲ってきたのは内臓を直に刺激する鋭い痛みと、ひどく唐突な息苦しさだ。
ゲホッ、と激しく咳込み、腹を抱き、全身を竦ませて苦しげな呼吸に喘ぐ。
「っっ!・・・・ってぇ・・・!」
足元にあった血まみれの長刀を蹴り飛ばしてもがきながら、残響のように繰り返す痛みに耐えた。
ここに倒れて意識を失う以前の――夢に落ちる前の記憶が次々と甦ってくる。
一人で向かった廃工場地区で、廃車が積まれた空き地に誘いこまれたこと。
そこに、どうにも虫の好かねえ笑い方をする野郎が待っていたこと。雑兵どもをけしかけられ、そいつにはまんまと逃げられたこと。
廃車の山の影以外に身を隠しようのない空き地での、一人対十数人の斬り合いに持ち込まれたこと。
自分一人だけに集中する斬撃の嵐。向かってきた全員を無我夢中で斬り捨て、地の利の悪さに悪戦苦闘しながら修羅場を乗り切り、
ついにこの場で立っているのが自分だけだとその目で認め。認めた途端に意識がぶつりと切れて――妙な夢を見たこと。
離れた空き地の片隅には、一台の車が停められていた。
派手に黒光りするその中に、写真でしか見たことのない男の面を拝んだ。
そうだ。あれは車が走り出す直前だ。車中の男はこちらにうつろな視線を注いでいた。
あと少しだった。あとほんの少しで届く距離だった。だというのに、走り出したその車を止められなかった―――
「っっ、――っの、・・・野郎・・・・・!!」
畜生。畜生。畜生。
血が昇りきった頭の中が今にも焼き切れそうだ。激しい罵倒を込め、怒りに任せてガツガツと地面を蹴り飛ばす。
足を振り上げるたびに激痛が腹で暴れ回る。その痛みまで癪に障って仕様がない。しばらく歯を食い縛り、痛みに逆らって耐えていたが、
身体は正直に弱音を吐いた。再び息が詰まり、呼吸困難に襲われる。またも咳に喘ぎながらうずくまる破目になった。
背中を揺らして大きく息をしながら、顔を歪めて辺りを見回す。額辺りから垂れた血のおかげで視界が不鮮明だ。
邪魔な霞みのおかげで目は利かないが、周囲に生きた奴の姿はなかった。気配や殺気も感じない。
どこか遠くから工場の稼働音が漂ってくるだけで、こちらへ寄ってくる足音や物音はない。
周囲の状況を確かめ終えると、腹の中でまだ微弱に疼いている痛みの震源を探ろうとした。
ところが腕がわなわなと震える。手にも指先にも力が入らない。
試しに隊服の懐にある煙草を抜き取ろうとしたが――隊服すら思うように掴めなかった。
刀を奮いすぎたせいか。ちょっと力を籠めただけで指が痙攣を起こす始末だ。
やっとの思いで顔の前に持っていった血まみれの手はぶるぶると、滑稽なまでに揺れていた。
その様子を歯痒そうに見つめ、
しかし、どれだけ眺めたって使い物にはならねえ、と舌打ちして諦める。残念ながら煙草もお預けだ。
筋肉や関節のあちこちに強張った痛みを感じながら、砂利だらけの地面に寝転がり、どうにか手足を広げ伸ばした。
荒れた湿地は血が撒き散らされて生臭い。背中から染み込む湿った冷たさにも辟易する。仮の安息地とはいえ薄気味の悪い寝床だ。
フン、と眉を顰めて悔しげに笑った。真上に映ったのは暗雲が垂れ込めた灰色の空。今にも地上へ迫ってきそうな重苦しい空だ。
横を向けば、屑山の鴉たちと目が合った。未だ彼に狙いをつけているのか、車上から微動だにしていない。
どうする。あの野郎が他の雑魚どもを増援に寄越さないとも限らねぇ。
となると、こっちも早えぇとこ誰か呼ぶしかねえんだが。
さっきは諦めかけた上着の懐に、再び震える手を伸ばす。
笑えることに、薄っぺらい携帯一つまともに扱える気がしない。
どうしたもんか、と眉間に皺を寄せて目を閉じ、鉛のように重たい溜め息を吐き出した時だ。
バサッッ、と羽音が空気を殴った。彼を凝視していたあの大きな鴉だ。広げた翼をはためかせて車上から飛び立つ。すると
それを追うようにして別の一羽が飛び立ち、数羽がその後に続き。やがてすべての鴉が暗雲をめざして羽ばたいていった。
遠ざかっていく黒点の群れが、翳った雲に溶けていく。見送っていると、足音がした。こちらへまっしぐらに走ってくる。
聞き覚えのあるその音の方向に、土方は眉を潜めて目を向けた。
視界の隅に入っていた、寂れた廃工場の建物。その影から飛び出してきたのは、長い髪を振り乱した黒い隊服姿の女だ。
空き地の惨状に驚いたのか、その足がびくっとして止まる。一歩後ずさり、怯えた仕草で隊服の胸元を握り締めた。
「―――、・・・ひ・・・、じかた、さん、・・・・・・・・・・?」
起伏を失くしたか細い声に彼は呼ばれた。現れた女――は、倒れた土方に呆然と目を留めている。
人一倍豊かなはずの表情はすっかり消え、頬がひどく青ざめていた。
目は驚きに大きく見開かれ、恐怖のあまりに瞳が凍りついている。
たどたどしい足取りで彼の傍まで近寄ると、人形のような硬い動きでがくりと崩れ落ちた。
その見慣れない生気の無さに戸惑い、曇った目で見上げていると、が色を失った唇を開いた。
「・・・何で。どう。して。・・・・・・?」
「何だ。念は入れといたはずだがな。よくあそこから出て来れたな、お前」
彼女の問いかけに被せるように、早口につぶやいた疑問。
それ以上を問われたくないがための誘導だ。しかしは
まだ呆然自失から抜け出せていないのか、彼の意図には気付かなかった。硬い表情で昔馴染みの名前を口にした。
そういうことか、と納得して、土方はようやく安堵の息を吐いた。
詳しいことは判らないが、どこかにあの男がいたようだ。余計な世話まで焼いてくれたらしい。
「悪い」
「・・・・・・・・・・え?」
「野郎の出方次第では連れて帰れるかと思ったが。逃げられた」
思い出した悔しさに空を睨みつけながら答えると、氷のようだったの目に微かな変化が現れた。
硬化した瞳がほんの少しだけ和らぎ、不思議そうな色を帯びてくる。その顔から表情が失われていることに変わりはなかったが。
「どうして。・・・・・・土方さんが。謝るの・・・?」
「・・・・・・・・・・」
「どうして・・・?だって。あたしが行くはずだったのに。
土方さんに、こんな、・・・助けてなんて。・・・・頼んでない。」
「・・・・・・まあ。確かに頼まれた覚えはねえな、俺も」
それもそうだ。土方は心底可笑しそうに表情を崩して笑う。
手をわずかに浮かせて、自分の胸元を指差した。
「おい、それより煙草。出してくれ」
「・・・・・・え、・・・」
「客が多すぎて腕がいかれちまった。このざまだ」
震えている指先を目線で示した。するとは何かを言おうと口を開く。
しかしそれを言葉にするのを躊躇ったらしく、青ざめた唇をきゅっと引き結んだ。
「・・・・・・こんなときまで煙草ですか」
「こういう時だからだろ」
やっとで低く浮かせた手を、女の膝にばたりと落とす。
肘から上にまったく力が入らず、肩は到底上がりそうもない。情けないことにこれが限界だった。
「吸わねー奴に言ったって判らねえだろうがな、こいつは大仕事の後が一番旨めえんだ」
「・・・そうは見えませんよ」
「あぁ?」
「いつも眉間に皺寄せて吸ってるじゃない。・・・見てるほうはどれだけ不味いのかと思いますよ」
「っせーよ。つーか、人の面のこたぁ放っとけってんだ」
「煙草」ともう一度急かすと、は言われた通りに彼の懐から箱を取り出す。
細い手がぎこちなく一本を抜き、彼の口に咥えさせた。ライターを両手に包んで、はい、と口先に近付ける。
ああ、と頷き返したものの、なんとなく躊躇いを覚えた。待ち侘びた極上の一本だ。今すぐ吸いたいには吸いたいが、
こういった水商売の女めいた真似はさせたくない。の方が嫌がることは無さそうだが、彼にとっては彼女にさせたくないことの一つだった。
しかし、今日に限ってはそんな拘りにも目を瞑っておくしかなさそうだ。自分の懐に手を突っ込むことすら容易にいかないのだから。
「。お前、一人か」
問いかけにの手が止まる。
微かな震えを起こした手が頬を掠めた。
いつもは温かいはずのその手が、やけに冷たくなっている。
はこくん、と頭を垂れて頷く。さっき走ってきた方向に振り返った。
「車は工場の前です」
そう言うと彼を見下ろし、沈んだ声で気遣わしげに尋ねた。
「大丈夫ですか。そこまで歩けますか」
「ああ。しばらく休めばどうにか動けんだろ。車まで肩貸せ」
「はい」
「誰かに断って来たのか」
「・・・さっき。車から。・・・近藤さんに。これから七番隊を寄越すそうです」
「・・・・・そうか。」
眉間を寄せて土方が黙り込む。の方も、それ以上の説明を挟むことはなかった。
気まずい沈黙がたっぷりと流れた後で、空を睨んでいた土方が口を切った。
「まあいい。奴らに任せて先に戻るか」
「・・・・・・・。はい。」
「――ああ、いや。屯所の前に医者だ。隣町の総合病院、あそこに寄れ」
「・・・?」
「腹をやられた。まあ、刺されたわけでもねえしな。寝てるぶんには響かねえ。あばらの数本程度だろ」
淡々と、事実を一つずつ冷静に確認しているかのような口調で答えた。しかし頭の中では既に別のことを考え始めている。
もうすぐ七番隊がここへ来る。連中がこの現場を目にすれば、瞬く間に屯所内で噂が広まる。となれば、今まで通りに押し隠すのは無理だろう。
どうする。問題はここにやって来る連中の興味を、どうやってこいつから逸らすかだ。
再び彼は押し黙り、考え込んだ。頭の中で慎重に、これからやるべきことの手順と策を組み立てていく。
しばらく経ってから、いつまで経っても煙草に火が灯らないことに気が付く。不満げな目をに向けた。
「おい。早く点けろ」
口に含んだ煙草を揺らして催促する。ところがは、大きくかぶりを振って拒んできた。
深くうつむいた顔の表情は、さっきまでよりも一層硬い。どう見ても怒っている。
青ざめた頬を強張らせて、きっ、と彼を睨みつけるように凝視していた。
「・・・やだ」
「ぁあ?・・・・お前なぁ。こっちは怪我人だぞ。少しは労わろうって気はねーのか」
「ありません」
冷えた声できっぱりと言い切られた。
土方は面倒そうに眼を逸らし、肩を竦める。
は余程頭にきているのか、血の気のない唇をきゅっと噛みしめて目を逸らさない。
険のあるきつい口調で言い返してきた。
「勝手に無茶なことして怪我までするような人を、どうして労わらなくちゃいけないの」
「ああそーかよ。んなこたぁどーでもいいから早く点けろ」
「いやです。そんな人に吸わせる煙草なんてありません」
「煙草ならここにあんだろがここに。ほら、いーから点けろ」
「いやです」
「お前な。いい加減に」
「やだ。いやです」
点けろ。 いや。 点けろって。 いやです。
無意味に押し問答は続いた。いくら言ってもは頑なな態度を通し、拒み続けて折れようとしない。
しびれを切らした彼は渋々で手を伸ばす。ライターを奪い取ろうとした。
するとは高々と、頭上までライターを振り上げる。
かっとした土方は片眉を吊り上げ、声を荒げた。
「いい加減にしろ!おら貸せ、さっさと寄越せ」
「・・・・バカ」
「ぁあ!?んだとコラ。何つった今」
いきり立ってスカートの裾を掴んで引っ張り、怒鳴りかけた時だ。
は急に唇を噛み、黙り込んだ。血の気が戻らない真っ白な頬を、ぽろり、と大きな透明の雫が転がる。
「・・・・・・土方さんの。バカあぁ」
苛立って反抗的だった声が、萎れて小さくなっていく。最後には悲しげな涙声に変わっていた。
ライターを振り上げた手が、隊服のミニスカートにへなへなと、力無く降りていく。
青ざめた顔は眉が下がり、強張っていた表情が一気にぐしゃりと歪み。
大きな目がじわじわと潤んで、今にも泣き出しそうに変わっていく。
顔色を変えた土方にライターを投げつけると、震える唇を開いた。
「もう。やだ。・・・・土方さんなんか、もう。・・・知らない」
消えそうにか細い声。喉の奥から苦しそうに絞り出した、悲鳴のような声だ。
唇を切れそうなほど噛みしめ、ぷいっと横を向く。
身体を震わせて声も無く泣き始めた。
土方の口許から煙草が転がる。の横顔を呆然と見つめた。見慣れない彼女の無表情は、顔を強張らせるほど怒っているからだと思っていたのだ。
驚いてしまってなかなか掛ける言葉が出てこない。
迷っている間にも、の目からは涙が際限なく溢れ出し、頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちていく。
小さくこらえた嗚咽が、細い喉から痛々しい響きで漏れてくる。
困った彼は「おい」とぎこちなく呼びかけた。
「どうした。らしくねーな」
腕を伸ばし、ぽん、と軽くの膝を叩く。
スカートの裾を掴んで震えている彼女の手を包み、握りしめて宥めようとした。
「こんなもん見慣れてんだろ。泣くほどのことか、これが」
「・・・って。こわ、かった。ひ。土方さんが。し、んじゃ、たら、・・・どう、しよ・・・ってぇ。
・・・すごく。すごく、怖かった、・・・だも・・・・っ」
嗚咽が止まらなくなり、の話がぷつりと途切れる。
ぎゅっと目を閉じ、うなだれた横顔を両手で覆って、堰を切ったかのように啜り泣き始めた。
「ここ、に。来る、途中だって、っっ、ず、っと、・・・嫌な、こと、・・・か、かんが、えて・・・っ。
な、何か、あった・・・ら。ど、っ・・・・・どう、しよ・・・、
し。しんぱ・・・い、でぇ。・・・頭が。どうにか。な・・・・ちゃ、・・・そう、で」
一言漏らすたびにその時の心細さと不安を思い出すのか、顔を覆ったの手は、絶えず零れてくる涙を拭っている。
か細い嗚咽で声を途切れさせながら、それでも話し続けた。
「ここに、・・・つ、着い、たら、・・・・・・・っ。し。死体の、中、に、・・・倒れ・・・て、・・・から、・・・・っ。」
心臓、止まるかと思った。
思い詰めた沈痛な声でそう言うと、土方が怪我を負った腹の辺りにばっと突っ伏す。
激痛に襲われた土方は悶絶し手脚を振り上げ、ぐっっ、と低い呻き声に喉を詰まらせた。ところがその悲鳴がの耳には届かなかった。
その時には既に彼にひしっと縋りつき、ふええぇぇん、と大声で、子供のように泣きじゃくっていたのだ。
「っっおおおおオイィィ!って、いてーっておいこらてめっっ、あああ、ぁにしやがんだあァ!?これ以上折れたらどーすんだああァ!!?」
「っ、ふえぇぇえええ・・・!バカああぁ!ひ、土方の、バカああぁあ!」
「いやだから痛てーから退け、っておい何つった今」
「バカって言ったんですうぅぅ。何よおぉ!バカにバカって言って何が悪いんですかあぁ!土方のバカあぁ、バカバカバカ、バカあぁぁ!!」
「何回言った。今何回バカっつった?っざっっけんなコラ、人がやり返せねーからってここぞとばかりに普段の仕返しか?ケンカ売ってんのか、ァあ!?」
「・・・・・・っ。やだぁ。もぅ。やだよぉ。・・・おかしいよぉ、こんな、の、っ」
「はあぁ!?何がおかしいだぁあ!?言ってみろ、てめーの頭以上におかしいもんがあんなら言ってみろ!!」
「おかしいよ、こんなの。どうして?どうして土方さんが行くの。・・・・・どうして?」
はぁ?と眉間を狭めて土方は問い返した。が勢いよく起き上がり、涙に濡れた顔を辛そうに歪める。
「あたしを閉じ込めておけばそれで済んだのに。一人でここに来たら袋叩きにされるに決まってるじゃない。
なのに。どうして。・・・おかしいよ。こんなの、死にに来たのと同じじゃない。
自分からわざわざ命を捨てに来たのと。・・・同じじゃない・・・!」
――どうして。
涙で掠れた声が震える唇から絞り出された。声も微かな震えを帯びている。
どうして一人でここに来たの。どうしてあんなことをしたの。
彼を見下ろすの目もそう問いかけている。
その真剣で追い詰められた表情に気勢を削がれ、土方は黙り込む。眉間を曇らせて彼女を見つめた。
死にに来たのと同じ。
自分からわざわざ命を捨てに来たも同然。
責められるのも不思議はない。こいつに泣きつかれるのも無理はないことだ。
今日の俺がしでかしたのは、頭の中身を疑われて当然の愚行だ。
そういう自覚はあったが、その愚行に走った理由を問われても返しようがない。
自分でも自分が判らないのだ。少し落ち着いて冷静に考えさえすれば、もっと上手いやり方が見つかることは判っていた。
だというのに、俺は頭を冷やして上策を練ろうなどとは微塵も考えなかった。
即座にこいつを屯所に押し込めて、真選組副長としての立場まで一端頭から追い出して、分別だの理性だのはまとめて屯所にかなぐり捨てて、
私情に任せて突っ走った。組織をまとめる立場にあるまじき、身勝手な単独行動に走ったのだ。
自分でも皆目判らない。どうして俺はここへ来た。てめえの命まで危うく晒して、どうしてこんな馬鹿げた真似に走ったのか。
―――だが。おそらくはこうだ。
答えなんて初めから無いのだ。
少なくともこいつを納得させて、安心させてやれるような分別のある答えが、今の俺の中にはどこにもない。
ここへ来た目的からして、分別があるとは言い難い。ましてや真選組副長としての立場とは、まったくもって関係がなかった。これはただの私闘。
賢しい狐の挑発を見逃し、危うくてめえの女を持っていかれそうになった間抜けな野郎が、かっときて奪い返しに来ただけの話にすぎないのだから。
「どーして。・・・どうしてこんなことするの。どうして一人で来たんですか」
「・・・・・。いや、そりゃあ。・・・あれだ」
「何ですか、あれって」
「・・・いや。だから。どうしてもこうしてもねーだろ。これぁだから、その、・・・あれじゃねーか」
「・・・?だから何ですか、あれって」
「あ。あれったらあれだろーが。あれに決まってんだろーが。
・・・・・つまり。・・・俺が。お前に、・・・・・・」
「あたしに?」
惚れてるからに決まってんじゃねーか。
あからさまな不自然さでぎこちなく目を逸らし、土方は苦々しい顔になる。胸の内で不満たっぷりにつぶやいた。
一連の馬鹿げた行動の動力源が何なのかは自分でも不明だ。ただし――誰にも言わずに一人でここに向かった、その目的だけははっきりしていた。
理屈も何も、どーしてもこーしてもあるか。単に張り合ってやりたくなっただけだ。
お前をかっさらおうとした奴がどうしようもなく頭にきて、ガキ臭くむきになってお礼参りに出向いたまでのこと。
ただそれだけに決まっている。
…つーか、それ以外に何の理由があるってんだ。
他に少しは格好のつきそうな理由を見繕えるものなら、ぜひともそいつを教えて貰いてえ。
「おい」
「・・・?」
こっち来い、と顎で呼ぶと、は素直に近づいてきた。見開かれた目はひどく不思議そうに彼を見つめている。
間近で見るとほんのり赤い。長い睫毛に縁取られた瞼の縁には、涙が透明な粒になって溜まっていた。
黙って見ていると、へなへなとの眉が下がっていく。大きな瞳が心配そうに曇り始めた。
「んな顔すんな」
「・・・悪かったですねぇ、こんな顔で。他にどんな顔しろって言うんですか」
「・・・・・・・・。そうだな」
黙って頬に手を伸ばすと、触れた瞬間、が今にも泣き出しそうに表情を崩した。
濡れて光っている跡にそっと触れる。伝い落ちてくる涙の雫を、指の腹で留めて拭き取った。
血の気の差さない白い肌はしっとりと冷たい。
の肌とは思えない冷たさだ。
違う女に触れているような違和感に胸をしめつけられたが、平然さを装って言い聞かせた。
「湿っぽい面ぁやめておけ。似合わねえぞ」
冷たい頬に手のひらを当てて覆い、ゆっくり撫でていると、赤黒く固まった指先の汚れがの目元にうっすらと移ってしまった。躊躇った彼は手を離そうとしたが、細い手が彼に触れて引き止める。
両手で包み込み、縋りつくようにぎゅっと握った。
切なげに見開かれた目から、はらはらと透明な雫が滴り落ちていく。
一向に泣き止む気配のない女をどうにも出来ず、土方は諦めの苦笑を浮かべた。
「言われた傍から泣く奴があるか」
「・・・いて。ない、ですぅ、っっ」
「嘘つけ。そんだけグズグズ言いながらよくもまあ」
「っっ。ちが、・・っ。な、いて、っ、ないっっ、・・・・!」
ひっく、ひっく、と嗚咽を漏らし始めた半開きの唇に、手を伸ばす。
いまだに細かな震えの治まらない硬い指先を宛がう。は途端に恥ずかしそうに表情を変え、目を伏せた。
触れた指先から、ふんわりしたの柔らかさが染みていく。
嗚咽の止まらない唇を飽きるまで撫で尽くすと、そこから頬へと指を這わせた。濡れた頬を手のひらでさすって、温かな首筋に触れて。
そうしているうちに、ただ撫でているだけでは物足りない気分になっていく。
触れれば触れるほどに肌に馴染んでいくの感触。
いくら触れてもまだ指先が求める。もっと欲しい。この感触を、もっと―――。
たまらなくなって腕を伸ばした。の頭の後ろを広げた手で抑えると、そのまま自分へ引き寄せる。
あ、と不意を突かれた声を上げ、が腕の中へ飛び込んでくる。
重みに押し潰された途端に腹には嫌な痛みが走ったが、それでも構わず抱き寄せた。
「――ん、・・・・っ、」
震える両手で女の顔を包んだ。戸惑って何か言いかけた唇を強引に奪う。
温かく柔らかな隙間を割って、熱い口内へと舌を這わせる。
濡れた中を舌先で探り、歯列をなぞって押してやると、びくん、と震えたの身体が緩んでいく。
しなだれかかってきた女の背中を抱き締める。身体の底から湧き始めた恍惚に、思考がゆっくり溶けていった。
砂埃と血の味に汚れ、乾ききっていた喉の奥が彼女を求めている。
最初は荒かった口吻けを弱めて、深く丁寧に絡めていくと、疲れきった身体は水を得たかのように甘く潤い出した。
もっと欲しい。もっと深く。もっと。
彼がのめり込み、奥へ割り入っていくごとに、の唇からは、ふ、ぁ、と苦しげな吐息が小刻みに漏れてくる。
どんな表情をしているのか確かめてみたくなって、さらに奥へと舌を這わせながら薄目を開けてみた。
涙目をぎゅっと閉じ、切なげな表情で眉を顰めている。呑み込まれまいと必死になっているらしい。
せめてもの抵抗なのか、力の抜けきった手がシャツの衿にくったりとしがみついてくる。その必死な仕草がいじらしくて可愛い。
いつのまにか泣き止んでいるのが可笑しい。くくっ、と、湧いた笑いを噛み殺しながら、背中を抱いた手を腰まで伸ばそうとした。すると、
「・・・っ!ゃ、だっ、だめぇっっ」
スカートに触れた手の感触に驚いたのか、が突然跳ね起きる。
一方的に振り切られ、お預けを食らった土方は呆然と彼女を見上げた。
女の背中を抱いていた腕はそのままの格好で宙に浮いている。
は慌てた様子でスカートの裾の乱れを撫でつけてから、
恥ずかしそうな上目遣いで彼を見つめ。おずおずと小声で言い訳を始めた。
「だってぇ。・・・わかってるもん。土方さんって、何か隠したいときは、いつも、
・・・その。こ、こうやって、・・・・っ、や、あの、だ、だからっ・・・・・ご、誤魔化すじゃないっ」
あっけにとられて見ていた土方の顔に、じわじわと不満の雷雲が湧き始める。やるかたなさにぎりっと歯を噛みしめた。
やがて完全にふてくされた表情になり、頭の後ろに腕を組み、ちっ、と顔を背けて舌打ちした。
「フン、余計な知恵ばっかつけやがって」
「なによぅぅ。あたしだってもうわかってるんだからね、そのくらい。もう騙されたりしないんだからっ」
「・・・・・・・・」
は彼をじいっと覗き込んでくる。弱りきった土方はあちこちに視線を彷徨わせたり、意味無く顔を背けたりした。
それでもの大きな瞳は、視線の先をいちいち真剣に覗き込んで追及してくる。
終いにはどうしようもなくなった彼は、ふてくされた態度でふいっと顔を逸らした。
まだ指の震えが治まらない手でガシガシと頭を掻き乱しながら、ひどくぶっきらぼうに言い返す。
「命捨てようなんざ、一度だって思ったこたぁねーよ。
どっちかっつーと逆だ。捨てに来てんじゃねえ。・・・俺ぁ、ここに命を拾いに来てんだ」
それを聞いたが丸く目を見張る。彼の言った意味がまるで理解出来ないらしい。
逆に土方にからかわれていると感じたのか、少し怒ったような目で彼をじとっと見つめた。
「まあ、そこまでお前に判れとは言わねえが。・・・別に、自棄になって捨て身で乗り込んだわけじゃねえ。安心しろ」
それを聞いて、恨めしげだったの表情がわずかに緩んだ。
「本当に・・・?」
「ああ」
「本当に、本当?」
「本当ったら本当だ。ったく。しつけえ奴だな」
地面に落ちたライターを腕を伸ばして拾い上げ、きまり悪さを誤魔化しながら言った。
「・・・今日のこたぁ、奴らに乗せられて俺の気が違ったとでも思っておけ。
今は俺も、てめえの頭が何を考えていやがるんだか、さっぱり判っちゃいねえんだ」
言い終えてから目線を戻す。は胸に支えていたものが無くなったような、ほっとした表情になっていた。
よかった。
身体中に広がった安堵を噛みしめるように、呆けた声でぽつりとつぶやく。溢れた涙が頬を伝っていった。
彼女を見上げた土方は表情を和らげ、なんとなく湧いてきた笑いを噛み殺した。
俺も人のことは言えないが、こいつも相当にひでぇ成りだ。
振り乱した髪はそのままで、顔にはまだ血の気が戻っていない。
普段の生き生きと笑う彼女とは別人のようなその姿は、ひどくやつれて見える。病み上がりの女のような痛々しさだ。
こんなは見たことがない。どれも初めて目にする姿だ。
緊張と不安で表情を失くした、これまでに見たことのない硬い顔をしたり。
普段なら気にも留めないような、些細なことに表情を暗くしたり。
それだけ情緒不安定なのだ。――いや、それだけ不安な思いをさせてしまったのだろう。
「・・・・そうだな。気違いついでに白状するか」
の頬に乱れかかっていた髪を手に取った。その流れに指を入れて撫でつける。
最初は不安げに曇っていた女の顔が、次第に和らぎ緩んでいく。くすぐったそうに肩を竦めて、はにかんだ笑顔を浮かべた。
この表情を眺めるたびに思い知らされる。
自分へ向けられたの信頼の深さを。その絶対さを。
それを嬉しく思わなかったことはない。他の誰よりこいつに頼りにされているのだ。そう思えば気分は悪くない。
だが、その嬉しさと同時にいつも感じることがあった。
自分に向けられた、この絶対的な、盲信的なまでの信頼の深さ。それが彼には、裏を返せばの闇の深さでもあり、内面の脆さでもあるように見えてくるのだ。
そう気づいて斜めに見てみると、が誰にでもふりまく危なっかしいくらいな人懐っこさや、どちらかといえば甘えたがりで、やけにさみしがりな性分も、
それと同じ類の脆さに見えてくる。
どれも不安の裏返し。が抱えた不安定さの深度を指し示す針のようなもの。
そう気づいたのはいつのことだったのか。
今となっては思い出せないが、その頃はまだ、それがさしたる問題とは思っていなかったはずだ。
笑顔の裏で抱えた弱さも、多少頼りない性格も、すべて知った上で欲しいと思った女だ。
そういう女にどんな傷痕があろうと、の今しか知らない俺にとって、それはこいつのほんの一部でしかない。
惚れた女を形作っている、ほんの一部。こいつが今でもひきずっている暗い影のうちの、ほんの一部分に過ぎない。
この弱さも不安定さもひっくるめて、すべてがだ。
全部ひっくるめて向き合っていけばいい。
そう思っていた。ただそれだけのことだと思っていた。
だが――ここから先は違う。
今日の騒ぎで身に染みた。拾った猫を可愛がるように、後生大事に閉じ込めておける時間も、終わりが間近に迫っている。
ここから先はこいつ次第だ。俺の手だけではどうやったって庇いきれねえようになるはずだ。
そうとなれば自然、すべての成り行きをこいつの選択に委ねるしかなくなる日が来る。
が自ら選んで切り拓くより他に道はなく、また、そうでなければ何も変わらない時がやってくる。
こうして俺が一人、躍起になって足掻くだけでは何の意味も為さない時が。
「土方さん、・・・どうしたの?大丈夫?」
「・・・。ああ。いや。何でもねえ」
「お腹以外もどこか痛いの?」
「違げーよ。やられたのは腹だけだ」
そう返すと、はほっとしたような溜め息をついた。
彼女を縛っていた身体の強張りが消えていくのが、指先や手のひらからも伝わってくる。
髪の流れを整え終えた頃には、その表情はすっかり落ち着きを取り戻していた。
乱暴な手つきで頭を撫でる大きな手を、いつしか安心感で満ちた目で見つめるようになっている。
土方は眉根を寄せ、口許を引き結んだ気難しげな表情で彼女を見つめ返した。
普段は彼に満足を覚えさせるこの表情。その笑顔が今は言いようのない不安を煽る。
無言でに手を伸ばした。
泣き腫らした目を丸くしている女の頭を両腕で抱え、ぐいっと引っ張る。
顔からばたっと彼の胸に倒れ込み、じたばたと足掻くに「くるしいぃ」と文句をいわれたが、そこは放っておく。構わず続けることにした。
「これから話すこたぁ、全部勝手な絵空事だ。お前の気が乗らねえようなら聞き流せ。すぐに忘れろ」
「・・・?絵空事って?」
「夢の話だ」
「夢?・・・土方さんの?」
「ああ。ただの夢だ」
神妙な面持ちになった土方は、じっと空を睨みつけていた。
すうっと深く息を吸い、目を閉じる。
数秒の沈黙を置いてから口を開いた。
「ガキは二人だ」
「・・・え?」
ぼそっと言われた言葉に戸惑い、はぴたりと動きを止めた。
「ガキは二人。男がいい。女は駄目だ。お前みてーなガキがもう一人増えてみろ、面倒臭くて敵わねぇ」
「・・・・・・。え、・・・」
「え、じゃねえ。何度も言わせんな。いいからしばらく黙ってろ」
コン、と抱いた頭を軽く小突くと、は顔を半分上げて彼を見上げた。
そわそわと落ち着き無く目を瞬かせながら、彼の様子を窺っている。血の気を失くしていた白い頬は、ほんのりと赤く染まり始めていた。
その表情のすべてに、の期待が籠められていた。
思わず口が止まり、手が疼いた。ひたむきに、一心に見つめてくるのに、どこか不安そうにも映るその表情が
可愛いくてどきっとする。つい見蕩れそうになった。
しかし今は、それなりに真面目な話の最中だ。こんな時にこの近さから見られているのはやりづらい。
それに、こうして抱き寄せて見つめ合っているのも、すこぶる具合が悪かった。…どうしても他のことがしたくなる。
落ちつきを失くした手つきでの髪を弄っていた土方は、
歯痒そうに彼女の頭を鷲掴みにする。隊服の胸元にぐいっと押しつけ、視線を避けた。
「住まいは屯所の離れでいい。
四人住むには狭めえし、台風のたびに雨漏りしちまうボロ屋だが・・・最初はまあ、勘弁しろ。
そうだな。ガキがでかくなって手狭になったら、近所に家でも建てるか」
「・・・・・・・・・・」
「――てえことを。だな。・・・その。日頃考えてたんだが。さっき、そいつがそっくりそのまま夢に出てきやがった」
「・・・・・・・・・・・」
「要するにだ。・・・俺ぁ、多分。あの夢をただの夢で終わらせたくねーがために、ここまでのこのこと来たんだろうよ」
彼が淡々と話し終えると、はぱっと顔を上げた。
その表情は目も口もぽかんとまん丸に開けた、呆れるほどに気抜けした顔だ。
土方は眉を曇らせて目を伏せ、はあぁー、とげんなりした溜め息混じりに嘆いた。
「おい」
「・・・・・・・・」
「どうだ。何か聞きてえことの一つくれーはあんだろ。言ってみろ」
「・・・・・・・・」
「・・・ったく。てめえときたら、手応えも何もあったもんじゃねえな。
寺子屋通いのませガキだって、同じ年頃の坊主に告られりゃあもう少しはましな反応すんじゃねーか」
「・・・んな。紛らわしい、言い方。・・・・・・・やめてください」
途切れ途切れなつぶやきが、目を丸くした女の口から拙い響きでこぼれてくる。
土方のシャツの衿を掴んでいた細い指に力が籠る。血の気がなかった頬はぼうっと紅潮して、大きな瞳が輝きに潤んでいる。
憧れていたなにかを目の当たりにして、陶然と見蕩れているかのような表情だ。
「・・・だって。それじゃあ。まるで。・・・・・・プロポーズみたいに。・・・聞こえ、・・・・・」
信じられない。
じわじわと潤んで輝きを増していく瞳には、はっきりとそう書いてあった。
可笑しくなった土方は、口端を吊り上げてふっと笑った。ここで急に抱き締めて驚かせたら、こいつはどんな顔をするだろう。
その表情を見てみたい。驚かされて悲鳴を上げて、唇を尖らせて拗ねるこいつをからかってみたい。
そうは思ったが、腹の底にこみあげる嬉しさはこらえ、あえて厳しい顔を装う。
釘を刺すようにぴしりと言い放った。
「言っとくが。俺と一緒になったってひとつもいいこたぁねーぞ」
そう言い切ると、の肩がぴくりと揺れて固まった。途端に不安げな色がその目を覆い始める。
多少の覚悟を促すつもりが、は想像以上に今の状況を思い詰めているらしい。
薬を利かせすぎたか。思い直して、ぽん、との頭を叩いた。
頭に乗せた手に力を籠めると、は逆らうことなく自然と引き寄せられていく。さっきと同じように彼の胸に顔を伏せた。
「むしろ気苦労だらけだ。少なくともこの先、気が休まることはねえはずだ。それでもいいか」
言いながら瞼を閉じる。寝ているうちに乾いたのか、返り血で濡れていた肌がところどころ引きつって硬い。
いつのまに回復したのか、指の震えは止まっている。
さっきは気味が悪かった背中に染みる冷たさも、鼻を突く血の匂いも、こうして温かな女の身体を抱き締めていれば気にならなかった。
暗さに馴染んできた視界の闇に、ある景色が白く発光して浮かび始める。
それは客用に空けてある屯所の離れからの眺め。ついさっき夢に見たばかりの、あの場所だ。
閉じた瞼の裏には、そのどこにでもありそうな平凡な風景が、まるで今もその中にいるかのようにありありと浮かんだ。
その眺めの始まりはいつも同じだ。
彼は陽の当たる縁側で寝転び、頬杖をつき、いつになくのんびりした気分でうたた寝をしている。
その前で、庭に降り立ったが洗濯物を干している。たまに振り返ってこちらに目を合わせると、何が可笑しいのか、楽しげにくすくすと笑っていた。
空は抜けるような青さで屋根上に広がり、庭では目にまばゆい新緑が風に揺れている。物干では白い布が風にさわさわとはためいている。
彼女の足元をぐるぐると周って、子供二人が笑い声を響かせながら戯れている。一人はまだよたよたと、足取りが覚束ない。
もう一人は少し年嵩らしい、背の高い子供。
そっちはなぜかさっき見た夢で見たチビとそっくり同じ、生意気で利発そうな顔立ちをしていた。
今でこそ見慣れている幻。夢の中でしかお目にかかれない光景だ。
どれもと過ごすうちに自然と考え始めていたこと。恋人らしいことなどろくにしてやった覚えもないのに、
それでも隣で楽しそうに笑っているの姿。彼女を見ているうちに、いつのまにか頭の片隅にぽつりと生まれて、
いつのまにか目に焼きつくまでに広がっていった想像だ。
しかし、最初に何かのはずみでふっと思い浮かべた時には、それこそ自分に唖然とした。
日々巻き起る荒んだ事件で一杯なはずの頭に、ここまで呑気で腑抜けた絵空事が浮かぶ日が来るとは、と。
それにしたって、どうも妙だ。
あんな夢を見たばかりだからなのか。それとも、血の匂いを浴びた神経がまだ昂っているせいなのか。
今日は今までになく、頭に浮かぶひとつずつがやけに鮮明に映る。まるで自分の目ですべて確かめ、手にしてきたかのような
錯覚を抱いてしまう。
あれは見たこともなければ触れたこともない幻だ。すべてが俺の願望から生まれた絵空事。だというのに、
それが判っていてもなお、そのひとつひとつがなぜか胸に迫って懐かしい。
楽しかった子供のころの思い出を急に思い出したような、温かな手触りが胸の内をくすぐって乱してくる。
いや。あれは夢だ。
あの屯所の離れの様子も。
そこで笑っていたも。あのチビにしたって、単に夢で見ただけの幻だ。
なのに、今もおぼろげに瞼の裏に浮かんでいるその姿が、によく似た屈託の無さで聞こえない何かを話しかけ、笑いかけてくる。
その笑顔が妙に愛おしい。手を伸ばして頭を撫で、抱きしめてやりたいような気さえするのだ。
疲れきって固まりかけた瞼をゆっくりと開ける。
そこに映ったのは暗い雲に覆われた空と、高々と挙げた自分の腕。いつのまにか手を空へ向けて伸ばしていた。
翳った空に向けて振り上げた手は、何も掴めてはいなかった。空き地を渡っていく乾いた風すら掴めない。
その虚しい感触が心の奥に、水粒のような冷たさをぽつりと落とす。いやに淋しい気分になり、
しばらくの間、突き出した拳を物憂げな目つきで見つめていた。
そうだ。俺ぁ、あれが欲しい。
幾度となく夢に見てきた、あの景色が欲しい。
あの景色の中にいるお前が欲しい。ついでを言うならあのガキもだ。
振り向けばいつでもお前とあのガキがいて、当たり前のように笑っている。
そんな日々をこの手の中に、当たり前のように収めて歩ける未来が欲しい。
だから覚悟を決めてくれ。
俺に引っ張られてついてくるだけの、泣いてばかりいるようなお前じゃ、ここから先には進めねえんだ。
一年先の未来どころか、明日の無事すら誓えねえ身だ。
この先どこまで生かしてもらえるものかも判らねぇ。
過分な欲をかけばきりが無いが、
それでもどうにかこの先も悪運に恵まれ続け、生かし続けて貰えるとしたなら。
一生分の贅沢を賭けて願う。俺はお前を連れて歩きてえんだ。
自分には縁のないものと遠目にしていた、人並みでありふれた景色の中を。
馬鹿馬鹿しいまでに賑やかに、騒々しく過ぎていく厄介な毎日の中を。
笑っちまうほど幸せで、色鮮やかな日々の喧騒の中を。
「・・・・・ひどいぃぃ。」
ぽつり、とが情けなさそうな泣き声を漏らした。
「ぁんだと。これのどこが酷でぇってんだ」
「だってぇ。こういう時は。もっと。・・・だから。あの。ほらあぁ。もっとあるでしょっ、他に。
例えば、あの、・・・い、一生大事にする、とかぁ、もっと単刀直入に、
・・・・きだ、とかぁ。その、あ、・・・。や、だからぁ。あ。あ、あああぁ」
「あァ?」
「〜〜〜〜っっ!!」
抑えていた彼の手を跳ね除けて起き上がると、は深くうつむいた。スカートの裾を皺になるほどにきつく握り、しどろもどろに口籠る。
真っ赤に染まって焦れているその困った顔が可笑しくて、わざと冷静な口ぶりで聞き返した。
「聞こえねーぞ。もっとはっきり言わねーか」
彼の問いかけを真に受けたは、っっ、と喉を詰まらせて固まった。
しまいには耳や首筋まで赤く染めて目を伏せ、恥ずかしそうに萎れて黙り込む。
気付かないふりを装って怪訝そうに目を細め、真正面からじいっと眺めてくる彼の目線が
耐えきれなくなったのか、突然拳を振り上げ、
「だ・・・、だぁあかあぁらああぁぁ!」
逆ギレしてポカポカと土方を殴り出す。甲高く裏返った声で叫んだ。
「いっっ、色々あるでしょっ!?女の子がうっとりするよーな、もっと雰囲気のある台詞があぁ!」
「ざっけんな。んなすかした台詞誰が言うか。つーかおい、返事はどうした」
「〜〜〜〜〜〜っっ!」
振り下ろされた腕をぱしっと掴む。すべて見透かしたような意地の悪い顔で笑ってみせると、もようやく気付いたらしい。
丸くなっていた目が一層大きく見開かれ、ぱくぱくと唇が空回り。
やがて唇が尖り出し、不満げに頬を膨らませた子供っぽい表情へと変わっていく。
笑う土方を、拗ねた目つきで睨みつけた。
「ちっともうっとり出来ないよぉ、こんなのっ。・・・こんなの、ただの脅しじゃない・・・!」
「ああ。そうだ」
湧き上がる可笑しさに肩を揺らしながら、掴んだ腕をぐいっと引き寄せる。
急に引かれて戸惑ったは、赤らんだ顔をぎこちなく固らせた。見開かれたその大きな瞳が、土方をじっと見つめている。
口端に薄く笑みを残した表情で見つめ返しながら、彼は言い聞かせるように繰り返した。
「そうだ。これぁ脅しだ。」
確かな未来など誓えない。
それどころか、明日の無事すらろくに誓えねえ。それでもこれだけは誓って言える。
俺にここまでいかれた真似をさせる女は、後にも先にもお前だけだ。
だから行くな。どこにも行くな。
もうこれ以上、変わっちまった野郎の影を引きずるな。
俺を選べ。もうどこにも行くな。
ガキの時分に刻まれた懐かしい面影に囚われるくらいなら、このまま俺に囚われてくれ。
お前以外にいやしねえんだ。
夢に見たガキの身体から匂った、縁側の陽だまりみてえな温かさ。
あれをもう一度俺に味わせてくれる女は。
どこが脅しだ。情けねぇ。
浮かぶのは自分でも失笑したくなるような、切羽詰まった懇願ばかりだ。
喉の際まで危うく出かかった言葉を押し込め、黙ってを引き寄せる。
腹を刺して疼くしつこい痛みに苦労しながら、細い背中に両腕を回した。
どこか遠くから流れてくる工場の稼働音が、地面を通して冷えた背中から伝わってくる。
そのゆったりと刻まれる鈍い低音に重なって、忙しなく巡る甲高いパトカーのサイレンの響きが近づいていた。
「――だから諦めろ。俺ぁあの野郎と刺し違えたって、お前を譲る気なんざねえ」
抱き留めた女の耳にすら届かないような、低めた掠れ声でつぶやく。
それが聞こえたからなのか、腕の中に収まっているの頭が小さく傾いで頷いた。
閉じ込めた柔らかな温もりは、夢で逢った小さな手のひらが残した、淡く儚げな感触とよく似ていた。