「聞いてくらさいよう紙袋さぁん。だ〜からぁ〜〜。そのぉー、あたしのぉー、上司があぁー、 土方さんっていうんれすけどねぇえ?副長なんれすけどねぇえ?紙袋さんはぁ、知ってますぅ?土方さんれすよー、土方さん」 「・・・あぁ。まあな」 気の無い返事をつぶやきながら、その男は屯所の廊下を進んでいる。 騒ぎのどさくさに紛れて始められた宴会も終わり、それぞれの部屋へと散っていく隊士たちは 皆、すれ違った彼の後ろ姿をしげしげと見送っていた。 「紙袋さん」の呼ばれ方からも判るように、例のおつまみ袋は彼の顔に被せられたままである。 騒ぎの元になった酔っ払いを肩に担ぎ上げ、腕にはその酔っ払いが買い込んだ酒の残りが詰まった袋を提げ、 急ぎ足に廊下を突っ切る彼の姿からは、図らずもハロウィンの仮装集団に混ざっていそうな感じというか ちょっとした祭り気分や愉快な感じも滲み出てはいるのだが。指を差して笑う奴もいなければ、 からかいの声を掛ける奴もいなかった。その間抜けで愉快な紙袋男の正体が、とっくに知れ渡っているからだ。 未だ酔いの醒めていないは、紙袋を被った怪しい男の正体にはこれっぽっちの猜疑心も抱いていないらしい。 それどころか、いったい何がそこまで楽しいのか「揺れる〜、落ちる〜〜!」と土方の背中を掴んだりパシパシと叩いたり、 短い着物の裾から伸びるしなやかな素足を、彼のすぐ目の先でバタつかせながら笑い転げている。 肩の後ろで無邪気にきゃあきゃあとはしゃぐ声。耳元で鈴のように転がる軽やかな笑い声。その聴き心地は決して悪くない。 ましてや飲み過ぎで微熱を帯びた身体の抱き心地は、言うまでもなく柔らかで。肩に掛かる重みまでもが心地良かった。 だが、だからこそ面白くない。普段はつい目を惹かれて見入ってしまう、酔ったの可愛い仕草。今はそれが面白くない。 紙袋に覆われたその顔は、どこか複雑そうな、苦々しく眉を顰めた表情になっていた。 がはしゃげばはしゃぐほど歯痒いのだ。なぜか他の奴にこいつを奪られたような気分になってしまう。 彼は今、彼であって彼ではない。あくまでもとは初対面の新入り隊士「紙袋さん」なのである。 ところがはこのあやしい紙袋男になぜかすっかり気を許し、はしゃいで抱きつき、一方的に喋り続けている。 面白くない。酔っ払いのすることとはいえ、なんとなくこいつに裏切られた気分だ。 まるで可愛がっている愛犬が他所でもぱたぱたと尻尾を振り、無邪気に餌をねだっている姿を目撃してしまった飼い主の気分、 ・・・いや。今のはいささか話の例えが悪すぎる気もするが。 「そのひとがね〜?っとにぃ、怒ると鬼よりこわぁいしい、とにかく厳しいひとなんれすようぅぅ〜〜。 おかげであたしい〜、毎日叱られっ放しれえぇ。毎日ゲンコツでガツンってされるの〜〜。ねぇっ、ひどくないれすかぁあ?」 「あー。まーな。ひでーんじゃねーか」 「・・・。ちょっ、ねえっ、ほんとにそう思ってる?なーに今のぉ、ぜーんぶ棒読みじゃないれすかあああ!」 「んなこたーねーだろ。てめーの気のせいだろ」 「ぇええ〜!うっっっそだぁ、怪しい〜、なーんか怪しいぃ〜〜」 「しつけーぞ酔っ払い。いーから黙って担がれてろ」 ドカ、ドカ、ドカ、と荒く床板を踏み鳴らしながら土方は無言で歩く。 彼の首に抱きつき、隊服の肩から伝わるその歩調に身体を揺らしていた酔っ払いは、つまらなさそうに口を尖らせた。 「ちょっっ!紙袋さぁん。あたしの〜、話ぃ〜、ちゃ〜〜んと聞いてるうぅ?」 「!!ぐ、をォォっっっ」 は訊くと同時に紙袋男の顔を両手に挟み、問答無用に自分へと向ける。 ゴキン、と首の骨が外れそうな音が鳴るほどの勢いで。 「土方さんはねぇええ。見た目より全然変なひとなんれすようぅ。頑固れぇ〜〜怒りっぽくてぇ〜、口が悪くて目つきが悪くて〜、 人相も手癖も悪くて偉っっそうでぇ〜〜、ニコ中でマヨラーで性格が曲がってて何かにつけて刀抜きたがる チンピラより性質の悪い喧嘩バカの極悪警官、なんれすようぅぅ。ねぇええ?どーれすかあぁ?最悪なひとれしょ〜?」 唇を尖らせた不満一杯な顔で紙袋男の額にゴンゴンと頭突きを喰らわせながら、は延々と、ブチブチと文句を垂れる。 煙草の匂いでどこにいるのか判る、だの、最初は一緒に食事に行くと他の客の目が気になって恥ずかしくて仕方なかった、だの モテるくせに乙女心は理解してくれない、いくらモテてもあれじゃマヨと結婚するしかない、だの。 そうして土方についての不満をひとしきり並べると、必ずその都度「どうれすかぁあ、最悪れしょ〜〜?」と自信満々に 彼に確認を取ってくる。同意されて当然、「そりゃあ酷でェ奴だな」と頷かれて当然、というけろっとした顔で問いかけてくるのだ。 いや、そう自信たっぷりに問われたところで俺にどう答えろというのか。どうですかもこうですかもない。 その乙女心の判らない最悪なニコ中マヨラーのことならば、箍の外れた酔っ払いに言われるまでもなく熟知している。 それに、どれもまあ、薄々は、不本意ながら、ある程度は認めていることばかりでもある。けしてまったく自覚がないわけではない。 だがそれを、密かに惚れている女の口から聞かされたとなると。 ・・・いくら彼の心臓が人に比べて豪胆な出来をしているとはいえ、少なからずヘコんだ気分にはなるのだった。 拳骨をぐぐうっと握り締め、歯ぎしりで首の痛みを噛み殺し、怒鳴り出すのをかろうじてこらえた土方は 深く息を吸って怒りも呑みこむ。一歩踏み出し、なんとなく拗ねたような、不満げに口端を下げた表情でぽつりと言った。 「・・・だったら。さっさと見限れよ」 とはいっても例の紙袋は被ったままである。 冷徹な鬼の副長らしくもない感情剥き出しなその表情を、や他の誰かが確かめられるはずもない。 首を大きくひょこっと傾げて不思議そうに紙袋を見上げ、は問い返した。 「ふぁい?」 「よーするに、お前の上司はろくでもねえ最低野郎だってことだろ。・・・まぁ、どんな仕事だろうが 下に附く奴ってえのは、上に立つ奴を選べねえもんだからな。んな奴のこたぁさっさと見限って、次の職でも探したらどうだ」 被せられた紙袋から漏れてくる淡々とした声。 彼女を冷静に諭しているようでもあり、なんとなく自棄になっているようにも聞こえる。 どこか自嘲気味な独り言のようにも聞こえた。 そんな彼の様子を、はとろーんと呆けた目で見つめていた。しばらくじいーっと、何か言いたげな表情で見つめてから むにゃむにゃと聞き取れない寝言をつぶやいて目を閉じる。こてん、と彼の首筋に頭をもたげてきた。 「・・・ちが・・・・ぅん、れすぅ、・・・・・」 「・・・・・おい。まだ寝るんじゃねえ。せめててめーの部屋まで、・・・」 は急に眠くなったらしい。頭や首に巻きついていた腕から、徐々に、ゆっくりと力が抜けていくのが伝わってくる。 しょうがねえな、と土方は諦めの溜め息を吐いた。しかしそれも束の間、何の前触れもなく巻きついていた腕が ぶん、と大きく後ろに振り抜かれる。振った反動で勢いづいた手のひらが彼の後ろ頭をばんっっ、と強打、 鞭打ちにでもなりそうなほどに張り飛ばされる。「うぐっっ」と土方が本日二度目の呻き声を上げ、 「っっのやろォォ」とさすがにブチ切れかけて憤慨する。が、酔っ払いの奇行はそれだけに留まらなかった。 素早く彼の肩を掴み、肩上に腕立て伏せの要領で立ち上がり、紙袋を被った土方の顔にむぎゅっと胸を押しつけ、 顔を覆った弾む柔らかさに驚いた彼が思わず思考停止に陥り、全身を固まらせたところへ、 「っっとぅうううっっっっ!!!」 ウ☆トラ◎ンの登場シーンの如き気合いの入った掛け声で上司の胸を蹴り飛ばし、ぴょーんと飛び上がり、 腕を高々と上げた酔っ払いの得意げな着地ポーズが決まり。 両脚蹴りの衝撃をもろに食らった土方は軽く吹っ飛び、どどぉっっ、と背中から廊下に落ちた。 ドスッッ、ゴトゴトッ。腕に提げていた袋も床に叩きつけられ、中から飛び出た たくさんのビールやチューハイの缶が、ゴロゴロとけたたましい音を鳴らして廊下中を転がっていく。 「だめれすようぅ紙袋さんっっっ。なんてこと言うんれすかぁ!!!」 真っ赤な頬をぷうっと膨らませたは多少足元が危ういものの、だめれすようぅぅ!を声を張り上げて繰り返し、 握り拳を振りかざして怒っている。吊り上がり気味の大きな瞳で紙袋男を睨みつけ、頭をブンブン振りまくった。 「先輩として許しませんようぅ。土方さんのことぉ、悪く言わないれくらさいっっっ!土方さんに謝ってくらさいいぃ!!」 「・・・んだとコラぁああああ」 ドスの効いた声でうなった紙袋男がむくっと起き上がる。 廊下に胡坐をかいて床に着いた手を拳に固め、わなわなと怒りに震わせながら ドンッッ、と床板を打ち破りそうな剣幕で拳を叩きつけた。 「おい言ってみろ。俺が今っっ、何を言った、何をををを!!!? 変な奴だの目つきが悪りぃのチンピラより性質が悪りぃ喧嘩バカだの、全っっっっ部お前が言ったんじゃねーかああァ!」 「ちっっがーうぅ!ちがーうぅもーん!そんなこと言ってなぁあいぃい!そんなことぉー、ひとっことも言ってないれすううう! ひどーい紙袋さぁん、ひどぉーいぃ!だめれすよぉ嘘ついちゃ!酔っ払いだから騙せるとおもったら大間違いれすようぅぅ!」 ふらふらと近寄り、彼の前にぺたんと座りこみ、は張り合って床をバシバシ叩く。 酔っ払い女対紙袋男、酒の缶がばら捲かれた廊下上で、お互いに激しくメンチを切り合っての間抜けな睨みあいとなった。 それにしても不思議なものである。 紙袋を被った謎の新入り隊士にいくら怒鳴られても、実はそれが渦中の鬼上司その人だと気づけないほど酔っているだが、 それでもなぜか、自分が酔っ払いだという自覚だけはあるらしい。「やぁあああ、きもちわるうぃい、目がまわるうぅぅ」などと 目を泳がせながら首の据わらない頭をぐらぐらと振り、悔しそうに叫んだ。 「違うのぉ!土方さんはぁっ、さいてーなひとなんかじゃないんれすぅ!! さいてーじゃないもん。ほんとはやさしいひとなんれすよぉ?ただぁ、口とかぁ、態度にぃ、 出したがらないぃ、だけなのっっ。すっっごく、すっごおおくやさしいところもあるんれすようぅ!!」 顔を真っ赤にして早口に言い切り、足りなくなった酸素を一息にすうーっと吸い込む。 これだけ言ってもまだ擁護し足りなかった。ううん、いくらこの新人さんに言い返したって、あたしはやっぱり腹が立つんだ。 あのひとを悪く言われるのは嫌。あのひとを詰った相手が誰だろうと我慢できない。どうしても庇いたくなる。 そんなことをあのひとは望まないって、――こういうあたしの行動もあのひとには迷惑になるんだって、わかってるのに。 不満そうに眉を寄せて唇を噛み締めると、は足を伸ばして彼の前に放り出す。 それから急に萎れた顔になり、深くうつむいた。脚を何度もばたつかせて歯痒そうにじたばたと、床をかかとで打ち鳴らした。 「でもぉぉ。困るのぉお!そんなひとだからぁ、困るのぉっ」 ぱたっ、とかかとを鳴らし、脚を止め。 肩に掛けられていた土方の上着を両手で掴んで引き寄せ、小さく竦めた身体を包み込もうとする。 隊服に縋って隠れようとしているような仕草。 まるで自分を守ってくれるものがそれしかないとでも思っているかのような、心細げな仕草だ。 は今にも泣き出しそうに顔を曇らせる。少し掠れた悲しげな声で、ぽつり、ぽつり、と言葉を繋いだ。 「・・・だって。困るよぉ。だってぇ。一年も一緒にいたんらもん。そういうひとなんらって、もう、わかってるからぁ。 冷たくされてもぉ。きらいにぃ、なれないじゃ、ないれすかぁあ」 そう、困る。困るのだ。 本当はやさしいひとなんだって知っているから困る。 あのひとだってあたしに困ってるんだろうけど、あたしだってあのひとに困らされてばっかりだ。 あのお風呂場でのことなんて全部忘れたような顔をして、何も言ってくれないから困る。 あのひとがあたしの扱いに困って、わざとそう仕向けてるんだとわかってる。それも仕方ないと思う。 けど、わかってるから辛い。恨みごとを言いたくてもあのひとにはぶつけられない。屯所の誰にも言えないから困る。 逃げてしまいたかった。屯所からも、土方さんからも。 苦しさをどこにも吐き出せないのが――毎晩、部屋で声を殺して泣くしかないのが辛かったのだ。 お酒に頼って気を紛らわそうとしても駄目だった。どんなに飲んでも気が晴れない。 飲んだお酒が全部涙に変わってるんじゃないんだろうか。そう思うくらいに、毎晩一人で泣き続けた。 一晩泣き明かすたびに身体が重くなる。汚くて歪んだ気持ちで身体が一杯になっていくのが苦しい。 毎日自分だけが、狭くて見えない檻の中に囲われて過ごしているみたいだ。窮屈で息苦しい。 こんな自分はもう嫌だ。もうやめよう。 落ち込んでいるのを気にしてくれたみんなのためにも、自分のためにも。もう土方さんのことは諦めよう。 そう決心して、今日、副長室の文机に向かった。仕舞い込まれた写真を見て、最後の踏ん切りをつけるつもりでいた。 写真の中で微笑んでいる綺麗な人を見つめながら、自分に言い聞かせたつもりだった。 土方さんにはこのひとがいる――ミツバさんがいる。 離れていても心変わりすることなく、忘れることもなく。ずっと思い続けているひとがいる。 だから。もうやめよう。あたしは諦めなくちゃいけない。 土方さんが江戸に来て以来、ずっと会っていなくても。言葉を交わす手段が手紙のやりとりしかなくても。 あのひとの想いが時間や場所を隔てても薄れていないんだってことは、ミツバさんにも届いてるはずだ。 総悟に託してたびたび手紙を寄越すんだから、ミツバさんの思いだってきっと変わっていないはず。 あの二人の想いは、会うことがなくても変わらず通じあってるんだ。 素敵なことだ。 武州で暮らしているミツバさんは、もしかしたら一人で淋しい思いをしているのかもしれないけど。 …それでも幸せなひとだと思う。土方さんだってそうだ。すきなひとと思いが通じ合っているんだから。 すきになったひとに好かれて、大事にされて。そのひとを想って一杯になった心を、相手に託してもいいんだって許される。 それだけで幸せなこと。奇跡みたいに素敵なことだ。 すきなひとが幸せなんだもの。あたしは誰より喜んであげなくちゃいけない。…なのに、どうしても祝福してあげられない。 ――だっていやだ。泣きじゃくって拒みたいくらいいやなんだもの。 あたしだってあのひとがほしい。 土方さんの大きな手がほしい。肩を竦めて呆れたような表情で笑う、あの咥え煙草の笑顔がほしい。 他の人に渡したくない。いやだ。 あのひとが他の女の人のものになるのが、どうしてもどうしても嫌なんだもの・・・!! 「・・・っく、や、らぁ。もう、やだぁ・・・っ。ふ、・・・・・ぅ、ふぇえええっ、〜〜〜っっ」 透明な大粒の雫が真っ赤な頬を転がって、ぽたっ、と床板で跳ねた。 振り上げたかかとが床をバタバタと打ちつけて、は子供がだだをこねるようにわんわん泣いた。泣きじゃくった。 紙袋を被った新人隊士が無言で見ている。それでも泣き顔も隠さず、大声で泣き続けた。 ほんとは土方さんの前でこうしたかった。この新人さんじゃなくて、あのひとの前で。 みっともなく足をジタバタ、暴れて拗ねて泣きわめいて。あたしじゃ駄目ですか、って無理を押しつけて困らせたい。 言ってやりたい。どうしてあの人じゃないといけないの。あたしだってこんなに土方さんが好きなのに。 そんなことをしたら最後、あのひとはもう二度とあたしを傍に寄せ付けなくなるだろうけど。 いやだ。いやだいやだ、いやだ。こんな自分はいや。大嫌いだ。 どうしてこんなに自分勝手で、自分のことしか考えられなくて。我儘で傲慢なんだろう。 「・・・・・土方さん、ね?・・・あたしのことはぁ。嫌いなんれすよぅ。あたしね?きらわれ。ちゃったんれす。よぅ」 着物の袖で涙を拭い、ひっく、と掠れた嗚咽を挟みながらは思う。 そんなの当然じゃない、って。 こんな自分をあのひとが受け容れてくれるわけがない。 土方さんだけじゃない。こんなに我儘で子供っぽい、自分のことだけで頭が一杯になっているような子は、誰だって選ばない。 ああ。そっか。だからあのひとは、あたしを選んでくれないんだ。 当然だ。何年も遠く離れた場所であのひとを待っていてくれる女のひとと比べたら、あたしなんて。嫌われて当然だ。 そう思って、身体が床へ沈んでいきそうなくらいに重たくなった。 生気を失くした暗い目から、ぽたり、と涙が落ちる。 「・・・・そっかぁ。・・・そうなん、だぁ。・・・・・じゃあ。あたし。もう。土方さんの、傍には。・・・・・・いらない。のかなぁ。・・・・・・・・」 ぐらり、と視界が揺らいで霞む。目の前がなぜか急に薄暗くなった。血の気が急激に引いて、強烈な眩暈がした。 背筋をすうっと、冷えた悪寒が走っていく。唇がぶるっと震える。 『嫌われて当然だ。』 そう気づいたら急に怖くなった。見慣れた屯所の廊下が、急に不確かであやふやなものに見えてくる。 どうすればいい。あのひとに嫌われたら。もし、ここにいられなくなったら。どうすればいいの。 ――あたしには他に何もない。全部失くした。もう他に、行くところなんてないのに。 「・・・・・っく、・・・っ。・・・・・」 苦しい。 嗚咽を漏らしながらぼんやりそう気づいた。 「おい」と向かいに座る男に声を掛けられたけれど、どうしてなのか声が出ない。小さく頭を振る仕草で、大丈夫、と返した。 無意識のうちに口を抑えている。息苦しさが喉からせり上がってくる。 すうぅっ、と大きく息を吸い込んでも楽になった気がしない。こんなに吸い込んでもなぜか苦しい。 ちゃんと息が出来ていない気がする。 喉が変だ。何かが詰まっているみたい。うつむいて首を抑えて、こほっ、こほっ、と咳をした。 それでも何も変わらない。じりじりと湧いてくる焦りをこらえていると、もっと苦しくなってくる。 着物の襟元を掴んで、背中を丸めて、全身で深く息を吸い込もうとする。それでも苦しい。 苦しくて仕方ない。喉を掻きむしって穴を開けてやりたいくらいに。 頭がぼうっとして手まで震えてきた。額と背筋に冷たい汗が滲んでいる。 どうして。あたし、おかしい。何なんだろう、これは。 さっきからずっと深呼吸してるはずなのに、楽にならない。身体が痺れて震えて、息が出来ない。 床にうずくまって胸を抑えて、荒くなってきた呼吸を鎮めようとする。でも。 怖い。苦しい。息苦しさがどんどんひどくなる。止まらない。怖いよ。助けて。誰か助けて。苦しい。助けて。誰か助けて。 助けに来て。怖い。怖いよ。 土方さん。 「・・・・・別に。嫌っちゃいねえだろ」 ぼそっと、ふてくされたような声がした。 ずっ、と床を擦る音がして、人の気配が近づいてくる。 黙っていた新入り隊士が、お互いの膝がくっつくくらいに近寄ってきた。 ついさっき会ったばかりのその男に、ポン、と頭に手を置かれた。あったかくて大きな手だ。 ふっ、と身体が緩んで力が抜けた。途端に背中から冷汗が流れ出す。 ぐっと抑えてくるようなその手の重みで、なぜか安心したのだ。触られてもちっとも嫌な気がしなかった。 子供をあやすみたいに、頭のてっぺんから髪の流れに沿って撫でられる。その動きがなんともぎこちなくて硬い。 大きい手が後ろ頭を覆う。ぽん、ぽん、と叩いた。手から煙草の匂いがした。あたしがよく知っている、あの匂いと同じだ。 「・・・い。いや。だからあれだ。その。・・・嫌うほど疎ましい奴を、好んでてめえの下に附ける奴ぁいねえだろってことだ。 んなことしてみろ。どっちも気分悪りぃだろーが。毎日嫌でも顔突き合わすんだ。お互いうっとおしくて仕方ねーだろうが」 うろたえ気味な声の説明が止まると、・・・自分でも不思議になって、はぽかんとして頭を上げる。目の前の男を見つめた。 どうしてだろう。息苦しさが収まってきている。身体の震えが止まって、喉の詰まりもなくなっている。 少しずつ、少しずつ、でも、確実に身体が楽になっていく。苦しさの波が引いて、最後には嘘のように穏やかに消えていった。 目を閉じたは、喉を抑えながらすうっと深呼吸した。 大丈夫。もう苦しくない。そう言い聞かせて目を開き、喉の調子を確かめながらゆっくりと声を出してみる。 「・・・・・・本当に?」 「ああ」 「・・・ほんとに?ほんとに。ほんとれすかぁ?」 「本当だっつってんだろ。疑り深けぇ奴だな」 「・・・らって。嫌われても。仕方ないんらもん。わかってたの。あたし、土方さんは迷惑なんらって、・・・ こんなことしたら、困るんらって、わかってたのに・・・あんなこと、したんだよ。・・・なのにぃ」 どうしてだろう。あたし、おかしい。それともただ、酔ってるせいなのかな。 どうしてこんなにほっとしてるんだろう。どうしてこんなことを話してるんだろう、今日が初対面のひとに。 それも、紙袋なんか被って顔を隠してる、変なひとに。 どうしてなんだろう。不思議で仕方がない。 ぺらぺら話してしまう自分のことも、他人のことなのに「嫌っちゃいねーだろ」と言い切ってくれたこのひとのことも。 それでも問いかけたくなってしまう。目の前のこのひとに答えてほしい。 じいっと縋るような目で見つめて、顔を逸らして腕を組んでいる男のシャツの袖を掴んだ。 とくん、と、ちいさく胸が鳴った。苦しさから解放されてやっと静まりかけた胸の、ほんの片隅が。 「どーしてぇ?・・・それでも。嫌いに。・・・ならないの?」 「ならねえよ」 間も置かずに即答して、土方は急に可笑しさを覚えた。ふっ、と苦笑に眉を寄せ、肩を揺らす。 これを嫌えってのか。それぁかえって難題だ。 こんなにひたむきな、ガキみてえな純粋さを人前で曝け出して「きらいになれない」などと泣く女を、どうやって嫌えというのか。 「つーか。・・・・・・なれねーから困ってんじゃねえか。」 紙袋の中で笑いを噛み殺しながらそう付け足す。 笑いを収めてからを見ると、小首を傾げ、潤んだ大きな瞳を丸くしてきょとんとこっちを見ていた。 まだ少しだけ納得のいかないような顔をしている。 その表情に残るあどけなさが懐かしくて、微かな切なささえ覚えた。見ているだけで胸の奥をしめつけられる。 こいつのこんな気を許した表情を、あの日以来目にすることがなかったからだ。そう気づいた時にはもう手が伸びていた。 頬に流れた髪をくしゃっと掴んで、頭の横へ流しながら指先で髪を梳く。 長い髪がさらさらと、指の隙間からこぼれ落ちていくのが心地良い。 は少しくすぐったそうに身体を竦めた。けれど嬉しそうに目を細め、ふわりと眠たげな笑顔になった。 「・・・そー。なのぉ?」 「ああ。だからくよくよすんな。もう寝ろ」 「・・・・・・うん。もう寝る」 素直に何度も頷くと、は再び彼を見上げた。 言われたことがよほど嬉しかったのか、それとも髪を撫でられたのが嬉しかったのか。 赤く色づいた顔がへらあーっと緩みきっている。 えへえっ、ぇへへへえ、と、どことなく不気味な忍び笑いが口から漏れて。ぱあっ、と両腕を広げ、そのまま彼に向って―― 「っっ!!?」 突然飛び込んできた身体を受け止め、土方の頭の中がぱあっと白くなる。 ハレーションでも起きたかのように思考のすべてが飛んだ。何が起こったのかわからなかった。 は身体ごとぶつかる勢いで飛び込んできた。 背中にするりと腕を回され、ベストをきゅっと掴まれ、ぴったりと抱きつかれたのだ。 「ぇへへえぇ〜〜、・・・気持ちいい〜〜。あったかぁあいぃ。おやすみらさあい」 微熱を持った柔らかな身体をぎゅーっと押しつけられ、胸に顔をスリスリされ、 開いたシャツの襟元からは火照った吐息を吹き込まれ。 土方は一瞬で全身が固まった――まるで氷像のように。 真っ白に飛んだ頭の中に、ようやくまともな思考らしきものがぽわんと浮き上がってくる。 ・・・いや。違げーだろ。 何が「気持ちいい〜〜、あったかぁあいぃ」だ、何を嬉しがってんだお前は。 お前じゃねえ、それを言うなら俺の方だろ。むしろこっちだろ、てめえに抱きつかれて気持ちがいいのは、・・・・・・・・・・ 「って、そーじゃねえええェェェ!!!!」 廊下で何を考えてんだ俺は!!!! ――と不埒な考えが身体中にモヤモヤと充満してきて焦り出す。しかし頭を抱えて思いきり叫んだものの、続く言葉が出て来ない。 数秒後、ついにはっとして、しがみついている女にあわて、うろたえて引き剥がそうとする。 「おっ!!?ちょっ、待て、おまっっっ!バカ、違っっっ!俺ぁ、なっ、なにも、ここで寝ろとは!!!」 「紙袋。さぁん、・・・?」 「いやだから紙袋さんじゃねえ!・・・って、いやまてコラ、ここで寝るな!待て!まっっ、まだ目ェ閉じんな!」 「紙袋さんはぁ。・・・土方さんとぉ、・・・・・。煙草ぉ。おんなじ、匂い・・・・・・・・」 ふう、と蕩けた寝息が目を閉じた女の唇から流れて、彼の襟元へ滑り込む。肌をそっとくすぐってくる。 「おい、起きろ、!」と呼びかけ、背中を叩いてみたが返事がない。はすっかり気持ちよさそうな顔をして、 一人呑気に深いまどろみに落ちていく最中で。抱きつかれて取り乱している彼の声など、ちっとも聞こえていなかった。 「おいっっ、起きろ馬鹿、顔も知れねえ男の前で眠りこける奴があるか! このまま空き部屋に連れ込まれたって文句言えねえんだぞ。おい、聞け!起きろコラ!!」 の耳元に怒鳴り、むしゃくしゃした彼はあまりの歯痒さに頭を掻こうとして、しかしその手を止める。 顔を隠した紙袋まで恨めしい。ちっ、と小さく舌を打った。 そうだった。これを被っている限りは頭を掻くどころか、煙草も吸えやしねえのか。 「・・・・・・・ったく、・・・こいつは、・・・」 何だってえんだ。 怒った口調でつぶやきながらも、大事そうにの腰を抱え、ぐんなりと力の抜けた背中に腕を回す。 女の身体を支えた土方は、荒れた溜め息混じりに立ち上がり。 床に転がった缶ビールを腹立ち紛れに蹴散らしながら、ふたたび彼女の部屋を目指して歩き出した。 「やっと御到着ですか。遅かったですねえ。途中で何かあったんですか」 「・・・しっかり聞いてましたって面して言うことか、それが」 の部屋に着いた土方が目にしたもの。 それは彼が障子戸に手を掛けるのを待たずに、すうーっ、と横に滑った障子戸と、 そこからひょこっと顔を出し、薄目を開けて気味悪くほくそ笑む山崎の姿だった。 例の襖戸はどうにか身体から外れたらしい。の部屋に先回りした彼は、土方の到着を待っていたのだった。 「まぁまぁ、そう目くじら立てないでくださいよ。なんとなく聞こえちまっただけですって。 別に障子に耳張りつけてたわけじゃ…ああ、さんの布団なら先に敷いておきましたよ。昨日と同じに」 まるで連れ込み宿の部屋にカップルを案内する仲居のおばちゃんのような意味ありげな表情を浮かべ、 山崎は障子戸を大きく引いた。 灯りのついていない暗い部屋。土方も何度か入ったことはあるのだが、いつ見ても物が多い。 大きな箪笥や本棚、小さなテレビ、どこからか買い込んできた異国風の白い棚(本人は「棚じゃないですよぉ!お洒落シェルフと 呼んでください!」と言い張っていたが)その上にはどこも、女子供が好みそうなきらきらと明るい色の小物がひしめいている。 中央にはやけにきっちりとした佇まいでピンクのカバーを被った布団が敷かれていて、山崎はご丁寧にも両手でそこを指し示す。 仕草はやけにへりくだっているのだが、顔だけは可笑しさを隠しようもなくニヤけていた。 「まぁまぁどーぞ。ずずいっと中へどーぞ。起こさないよーにそお――っっと寝かせちゃってくださいよォ、昨日と同じに」 「もういい。もう黙れ。なんかムカつくから黙れ。昨日昨日としつっっけええーーーんだよてめえはあァァ!!」 ドカッッ、と強烈な蹴りで脚を払われた山崎が、ぼふっっっっ、と綿埃を上げての代りに布団へ沈む。 さらにドカドカと足蹴にされ、彼は恨めしそうな顔で土方を見上げた。 しかしその目がしっかりと笑っている。仁王立ちになった男が被っている紙袋を指差した。 「ひでーなァ、少しは感謝されたっていいと思うんだけどなァ。俺がこいつで副長の危機を救ったんじゃないですかァ。 昨日だって、さんが庭に寝転んで泣きながら酒呑んでるのを見つけたのも俺だし、副長に知らせに行ったのも 布団を敷いてあげたのも俺ですよ?あのまま庭で呑んでたんじゃ今日は風邪ひいて寝込んでましたよォ、さん」 「煩せェ、こいつのことまで俺が知るか。それに俺を救ったのはてめーじゃねえ、この袋だ」 そこ退け、と言いながら布団の前で膝を折り、の身体を下ろす。 外れかかった枕を頭を持ち上げて直し、かくん、と傾いて横を向いた寝顔を黙ってしばらく眺める。 それから顔に被った袋を外し、浮かない顔で髪をぐしゃぐしゃと掻き乱し。はァ、と気の抜けた溜め息をもらした。 「・・・・・だが。まァ。あれだ。感謝っつーか。今日は手間かけたな。色々と」 「はぁ。何のことです、手間って」 「・・・・っ。いちいち揚げ足取りやがって。わざとらしぃんだよ!」 弱いところを突かれた土方は紙袋をぐしゃっと丸めて投げつけ、ムキになって怒鳴り返す。 ふふん、と山崎は鼻先で笑った。 もちろん絶対に土方に悟られないようこっそりと、顔を真後ろまで思いっきり逸らして、だが。 「ああ〜。昼間の鯛焼きのことですかぁ? よしてくださいよォ気味が悪い。そんな殊勝な台詞、あんたには似合ってませんよ」 山崎は目を細め、にやにやと顔を崩して答えた。 しかし土方は笑われて気を悪くすることもなく、眉間を抑えて疲れたような顔になる。しみじみと言った。 「確かになァ。・・・まったくだ。ガラにもねえこたぁするもんじゃねえ」 「・・・?」 その素直さを妙に思った山崎は放っておき、さっそく彼は隊服の上着を探り、煙草を取り出した。 手慣れた動作で口に咥え、火を灯し。赤くなった先から、あっというまに煙が立ち昇る。 山崎がの枕元にしゃがみ、腰を下ろす。足元にあった掛け布団を、寒そうに手足を縮ませて丸くなった身体に被せた。 次いで土方もその横に座る。 煙をくゆらせながらの寝顔を見下ろしていたが、やがて声を落とし気味に問いかけた。 「おい。こいつ。食ってたか」 「はい?ああ、鯛焼きのことですか?」 「・・・食堂じゃ飯もろくに食ってねえって近藤さんが言ってたぞ。どうなんだ」 「さあ。どーでしょーねえ。俺も食べるところまでは見てませんから」 「はァ?んだよ、見てねーのかよ」 「いやァ、でも。さんだってそういつまでも落ち込んじゃいませんよ。もう大丈夫じゃないかと思いますけどね」 ああ、と土方は頷く。 何か確信のありそうな目でを見ている山崎の言葉に、なんとなく安堵を覚えていた。 そうなってくれればいいと思う。早く俺のことなど忘れて、他の奴に目を向けてくれればいい。 何ならここを出ていったっていい。それがこいつの願いなら。それでこいつが幸せになれるなら。 誰よりも俺が、本心からそう願っている。その気持ちに嘘はなかった。なのに。そうなってくれるなと思う自分もいた。 がどんなに苦しそうでも構わない。このまま自分にがんじがらめにしてでも、ここに繋ぎ止めておきたい。 他の奴には渡したくない。 そう本心から願う、卑怯で屑のような男も自分の中にいるのだ。 眠るの頬に残った涙の跡が、庭からの月明りに照らされて弱く光っている。 見つめるうちに拭ってやりたくなったが、手は動かなかった。俺にはあの涙に触れる資格がない。 口許で両手を握りしめ、あどけない顔で眠る女の顔を見つめて静かに伏せられていた目が、庭へと視線を移していく。 どことなく疲れ気味な表情の口許から揺らぐ煙を昇らせながら、隣棟の屋根に輪郭を掠めて浮かぶ、白々と輝く月を見上げた。 ごほっ、と低い咳を零し、軽く肩を揺らしてうつむく。 急に吸い上げた煙草の煙にむせたのか。急に思い出したその感情の、胸を焼くような切なさにむせたのか。 自分でもよく判らない。 今日、屯所に戻る途中の鯛焼き屋の前でも。昨日の夜の帰り道でも。酒に毒気を抜かれた頭の奥で思った。 顔が見たい。 他の誰でもなく、の顔が見たい。俺を見つけて「土方さん」と笑う、こいつの子供のような笑顔が見たい。 そのためなら、重ねてきた我慢を全部無駄にしてもいい気がした。ただ無性に淋しかった。 ――いや。 ふと思い返し、浮かべた思いを否定する。 違うな。そんなんじゃねえ。あれは淋しさなんてヤワなもんじゃねえ。 淋しさなんてもんは雲と同じだ。何かの拍子でふっと湧いて、ふっと消える。 場の雰囲気につられて、冷えた風に煽られて湧き立つ湿気った雲みてえなもんだ。 そう思い至って、ふっ、と軽く煙を吹き出す。隣の山崎は不思議そうに目を向けた。 土方は可笑しそうに、独り言のようにつぶやく。咥えた煙草の先がくらりと揺らいだ。 「ったく。ガラにもねえ。・・・・・・・・・・」 違うだろ。そうじゃねえ。 風に浚われて容易く消えちまうようなもんじゃねえんだ。 俺はあの時。似合いもしない淋しさと見間違えるほどに恋しかった。 ただどうしようもなく、こいつの顔が見たかった。に傍にいて欲しかっただけだ。

「 無礼講にもほどがある 〜片恋方程式。*11.5 」 text by riliri Caramelization 2010/05/16/ ----------------------------------------------------------------------------------- ※この夜のおまけ話(ザキ視点)は  → *こちら*