ひゅん、と鋭く頬を掠め、視界を塞いで流れ去ったのは刀面の光る銀色だ。
瞬時に引き戻された切っ先が、風を削いで喉元へ襲いかかってくる。
咄嗟に身体を退き、縁台ほどの高さの平台に飛び乗り、
さらに後ろへ飛び退れば、びっしりと並んだ色とりどりの駄菓子――この駄菓子屋の商品がざあっ、と雪崩れて薙ぎ払われ、
狭い店中に乱れ散った。
「どうした女、抜かぬのか。その刀はただの飾りか!」
飛び退りながら、薄荷飴が詰まったガラス瓶を片手に掴む。
これを投げて男の眼前を塞ぐつもりでいた。ところが散った駄菓子の袋で足裏がずるっと滑り、その拍子に膝が
がくっと抜ける。っっ、と声にならない悲鳴が漏れた。
「〜〜〜!!っっいっっったぁああぁあぁっ、・・・・・ちょっとォォ。何が「抜かぬのか」よぉこの卑怯者ォォ!」
腰から刀を鞘ごと抜き払う。もう片手では打ったお尻をさすり、涙目で情けなく大男を睨みながら、悔し紛れにあたしは叫んだ。
ここで鞘を抜けるわけがない。真剣を自在に振り回すには、どうしたって鰻の寝床みたいなこの店は狭すぎる。
いくら睨みつけてやっても、目の前を塞いだ大男は抜いた刀を上段に構え、含みのある顔で黙っている。
国にへつらう幕府の狗がこんな場で真剣を奮えるか、やれるものならやってみろ。そう踏んで余裕をかましているんだろうけど、
まったくその通りだから腹が立つ。
さっきから表で渦巻いているのは、大勢の人の声、声、声。
店が面した往来では大人たちの悲鳴や叫びが飛び交い、店先では駄菓子を選んでいた小さな子が怖さに泣き出し、
店の奥からはパニックに陥った女の子の耳をつんざく金切り声が。
驚きのあまり呆然と立ち竦んで動かない男の子の姿も、視界の端に入ってる。でも「逃げて!」と叫ぶ余裕がない。
斬撃はあたしだけに一点集中、めったやたらな乱れ打ちでこっちの動きを封じ込め、男はじりじりと肉迫してくるのだ。
「あっっ、あんたねえ!こんなとこで刀振り回してっ、もし子供に当たったらどーする気!?」
相手の目線は遥か上から覆い被さっている。格闘家にいそうな、分厚い壁みたいな身体の大男だ。
押し一方の単調な攻めは見切るにも難しくはない。だけど、女のあたしにはやりづらい。
身体の重みを乗せた斬撃は、食い止めるたびに腕を芯から痺れさせる。一振りごとが重量級だ。
「この子たちに傷でもつけてみなさいよっっ、親が殴り込んでくるわよ親が!!今どきのPTAは警察なんかよりよっぽど怖いんだからね!
あんたたちっっ、モンスターペアレントって言葉知らないの!?」
「はっ。ねちねちと回りくどい女の言い分など、褥以外で聞く耳持たんわ!」
真上から繰り出される攻めを必死に受け流すうちに、足が後ろに滑っていく。ばん、と背中が硬い何かにぶち当たった。
壁だ、と感じて怯んだ瞬間、何か黒い流れが目の前を覆う。
ひらっと散って流れたのは、絶ち斬られたあたしの髪だ。しまった、視界を塞がれた。避ける間もなく首筋を寒気のする疾風が奔る。
身体を強張らせた時にはすでに遅く、耳のすぐ傍を、ダンッッ、と鈍い音が貫く。途端に身動きが取れなくなった。
隊服の襟を切っ先で仕留められ、店の壁に昆虫標本よろしく打ちつけられている。
「・・・女とはいえ副長附きだ、少しはからかい甲斐もあるかと思うたが」
口端をにやつかせた男が脇差しを抜く。これ見よがしにゆっくりとあたしの襟元に差し入れ、
ぴっ、と裏地のボタンを切り飛ばした。
襟がだらりと開いて胸元が覗く。そこにぴたりと冷たい刃を当てられた。
「真選組の隊士といえど、所詮、女は女に過ぎんようだな。フン、つまらん」
顔を歪めて下品に笑う大男を睨みつけ、ちっ、とあたしは行儀悪く舌打ちした。
あまりに腹が立って、ガラの悪い直属上司さまの癖をちょっとだけ真似したくなったのだ。
ああムカつく、気持ち悪さに背筋が騒ぐ。何よ、ウドの大木が偉そうに。人のことをおんなオンナと、気安く連呼しやがって。
もちろんあたしは見た目通りに正真正銘の女だ。だけど断じて、あんたの下衆な目を楽しませてやるために女をやってるんじゃない!
「つまらなくて結構!子供を盾に女をいたぶる卑怯者を面白がらせてやる気なんて、これっぽっちもないっつーのォォォ!!」
「これが卑怯だと?笑わせてくれるではないか。
なりふり構わずの卑怯な手で憂国の同士を貶めてきたお前らが、我等のどこを卑怯などと言えたものか!」
「ああ、言えねーな」
よく通る冷やかな声に口を挟まれ、男もあたしもはっとした。いつのまにか男の背後に近寄っていた人が、ゆらり、と高く、
手にした何かを振り上げた。
「仕留めもしねえで女に舌舐めずりか。お粗末すぎて卑怯者たァ呼べねえな」
「!!ぐ、はァっっっ」
ガシャアアアン、と鋭く打ちおろされた緑色の何かが、衝突した男の頭で一瞬に弾け、飛散する。
たて続けにもう二回、同じ衝撃が男を襲う。飛び出た透明な液体がシャワーのように振り撒かれた。
あたしは唖然と見上げた。眉間に皺を寄せてこっちを見下ろし、頬には血を流し、息を乱して肩を上下させている土方さんを。
右手には鞘を付けたままの刀を掴み、左手で握りしめているのは、駄菓子屋にはつきもののラムネ瓶の割れ残りだ。
うめいた男は白目を剥いてぐらりと巨体を崩れさせ、あたしの方へ倒れてくる。
土方さんは面倒そうに舌打ちすると、その脇腹をがしっと蹴った。大きな身体は横へと傾き、平台に沢山並んだ駄菓子入りガラス瓶の列へと、
どうっ、と音をたてて沈んだ。
「ぶちまけた商品の仕入れが、・・・まあ、こんなもんかね。で、割れた瓶に、迷惑料。
壁と入口の修繕費、あんたが壊した冷蔵ケースで、・・・・」
駄菓子屋のおばあちゃんの手許では、パチパチとリズミカルにそろばんの珠が鳴っている。
最後にパチッ、と一つ弾くと、目元に皺を寄せてにんまりと笑った。
計算が終わるのを腕組みして待っていた土方さんに、堂々と突き出す。
「さあどうだい、これで決まりだよ。いくら脅されたってビタ一文負ける気はないからね」
「ぁあ!?冗談もほどほどにしろよばーさん。つーか呑めるか、んな金額。せいぜいこんなもんだろーが」
「フン、そんなはした金で店が直せるもんか。犬小屋だって建てられやしないよ!」
大男を含めた攘夷浪士四人は、さっき駆けつけたパトカーで屯所に連行された。
あたしは店に残って後片付けを手伝い、土方さんは被害者からの事情聴取――というか、
店中散々に荒らされた駄菓子屋のおばあちゃんに真っ向からのガチンコ勝負を売られている。
・・・じゃなくて、喧々諤々でふっかけられた損害補償金を値切ってる。
話はさっきから一進一退を繰り返していて、なかなか示談が成立しそうにない。
交渉相手はやたらに口の回る威勢のいいおばあちゃんで、あの土方さんが防戦一方。
おばあちゃんが使い古したそろばんをパチパチ弾いてまくしたてるたびに、うんざりして顔を引きつらせていた。
「・・・ばーさん。そう欲の皮ァ突っ張らせてると、今に三途の河の渡り賃まで失くすぞ。おら、これでどうだ」
「いーや駄目だね。代々続いた店を守るためだ、欲の皮でも何でも突っ張らせるさ。
あたしゃまだまだ、ヤクザにやり込められるほど老いぼれちゃいないんだからね!」
「おい、誰がヤクザだ誰が。俺ァ警察だってさっきから言ってんだろーが」
「はァ〜〜?なんだい、今あんた、なんて言った?最近どうも耳が遠くってねえ〜!」
おばあちゃんが億劫そうに耳を寄せて聞き返す。
むっとして片眉を吊り上げた土方さんは、顔を逸らしていまいましげにつぶやいた。
「フン、耳だけ耄碌してんのかよ。さっさとくたばれクソババア」
「耄碌してんのはそっちだろ。お前がくたばれチンピラ警察」
「聞こえてんじゃねーかァァァ!!」
今にも掴みかかりそうに激怒して迫る真選組鬼の副長に対し、おばあちゃんはニヤニヤと余裕の薄笑いを浮かべて火を煽る。
これじゃ野次り合いは当分止まりそうにない。
最初は仏頂面で我慢していたのが、今や土方さんはおばあちゃんと目で火花を散らし合いながら煙草を噛み締め、
ブーツの先で地面をドスドス踏み鳴らしてる。すでに完全な臨戦態勢、
すっかり頭が煮えくり返ってるみたいだ。あーあ、まったく大人気ないんだから。
元気なお年寄りにまんまと乗せられて、あんなにムキになっちゃって。
と、割れたラムネ瓶の欠片をちりとりに集めながら、可笑しくてヘラヘラ笑っていたら、そろばんが何の脈絡もなくノールックパスで飛来。
一直線にスコーンとおでこを直撃され、天を仰いだあたしは「うぐぅっ」と呻いて転倒。そこへドカドカと地鳴りのような足音が。
傍にしゃがんだ土方さんが、拾ったそろばんの角をあたしのおでこにグリグリ捩じり込む。
い!いいい、痛いぃぃぃいいい!!!
「いたっっ、いだだだだっ、痛いぃ!!らにするんれすかああっ!
八つ当たりはやめてくらさいようぅ!おでこに穴空くじゃないれすかあっ、穴ァァ!」
「フン、好都合じゃねえか。頭蓋骨ブチ抜いて風通しが良くなりゃあ、この役立たずの馬鹿頭も少しはマシになんだろ」
はっ、と土方さんが笑う。
笑う、といっても、口端は片方だけ大きく吊り上がっているし、かあっと見開いた目は「てっめえぇ死にてーのかコルァ」と言わんばかりに凄んでくる、
見てるこっちは寒気が湧くようなドス暗い笑顔だ。おまけにこめかみには引きつった青筋まで浮かんでいる。
「おいコラ。何を呑気に見物してやがる。誰のおかげで苦労してると思ってんだ、あァ!?
お前があのデケえのにむざむざ追い込まれて、因業ババアの店荒らしやがったからだろーがァァ!!」
「荒らしたのはあたしじゃないですっ、あの大男じゃないですかああ!
それに土方さんだってジュースの冷蔵ケースとかラムネ瓶とか、色々壊したじゃない!
何で!?何で全部あたしのせ、っって、いだっ、いだだだだァァ!ギブ!土方さっ、ギブううぅ!!」
悪いのはあたしじゃない、
最近頻繁に出没するようになった攘夷浪士どもが、所構わず襲ってくるから悪いんだ!
と主張してやりたくても、横暴な上司さまは役立たずな直属部下の言い訳に耳を貸してくれない。
鬱憤晴らしに羽交い締めにされ、グリグリと小突かれ、
頭にきて「土方のバカァァ!」と叫んだあたしは、結局泣きを見るまで謝る破目に。
・・・ううぅっっ。理不尽だ。理不尽すぎる。あたし何も悪くないのに!
見廻りに歩いてるだけで鼻息の荒い攘夷浪士を集めちゃう、ゴキブリホイホイみたいな土方さんが悪いのに!!
とある人が首謀者となって勃発した、真選組の内部分裂騒ぎ。
あの事件がようやく終息してからも、あたしたちは気の抜けない毎日を送っている。
「弱り目に祟り目」って、たぶんこういう時に使う言葉なんだろう。
仲間割れで弱体化した今こそが叩き時、とでも踏んでいるのか、それまで息を潜めていた攘夷浪士たちは
にわかに活気づいてきた。見廻り中の仲間が襲撃されたり、相次ぐ爆破予告に翻弄されたり、
屯所周辺で不自然なボヤ騒ぎが起きたり。大騒ぎに発展しかねない事件から小さな愉快犯的犯行まで、数え上げればキリがない。
しかも大々的に「隊士の粛清」を報じられてしまったために、世間の風当たりも何かと強い。
何しろ「チンピラ警察24時」なんて呼ばれるくらいだ。元から江戸市民の皆さんに好かれていないとは知っていたけど、
あれ以来、事件以前にも増してあからさまな腫れ物扱いを受けるようになった。
たとえば見廻り中、やけに怯えた態度で道を譲られたり、深夜の見廻りで「このへんは痴漢の多発地域だから気をつけて下さいね」と
女性に注意を促そうとしただけで、悲鳴を上げて一目散に逃げられたり。おかげであたしたちは若干ヘコみ気味だ。
ああ、真選組ってつくづく嫌われ者なんだなあ、報われないなぁ、と、やりきれない気持ちで一杯になったりもする。
「そう気にするな。人の噂も七十五日と言うじゃねーか」と近藤さんは励ましてくれるけど、やっぱり何だか割り切れない。
――まあ、だからって、あたしたち全員が同じように落ち込んでるわけじゃない。
たとえばここにも一人いる。世間の冷たい風に吹かれようが世論の厳しい暴風雨に打たれようが、
眉ひとつ動かそうとしない鉄の心臓の持ち主が。
だいたいこのひとには、世間の風なんて曖昧なものを気にする繊細さの持ち合わせなんて欠片もないのだ。
今も逆風に屈するどころか、この悪い状況を逆手に取ってやる気でいるらしい。
事件以来、少しでも時間が空くと、必ずこうして見廻りに出るようになった。見廻り先は決まっていつも、賑わった場所ばかり選ぶ。
どうしてなのか聞いてみたら「奴等の目につくように歩かねえと餌にならねえだろ」って、至って平然と言う。
それ以上詳しくは教えてくれないけど、自分を餌にして攘夷浪士をおびき寄せ、この機に乗じて一掃しようと考えているみたいだ。
駄菓子屋の軒先に出ると、小雨がパラパラ落ちてきた。
空を見上げると、屯所の方から分厚い灰色の雲が湧いていて、この商店街へ向かって伸びてきている。
梅雨に入るのはまだ先だけど、朝から小雨が降ったり止んだり。
最近はこんなはっきりしない天気が多い。こんな天気を花曇りっていうのかな。
テレビの天気予報で聞いた言葉を思い出していると、隣に立った土方さんも、何か思い出しているような目で空を仰いでいた。
すったもんだで言い争ったあげくに、結局ハブVSマングースの戦いは
・・・じゃない、土方さんVSおばあちゃんの補償金交渉は決裂した。
というか、あたしが間に入って、一端タイブレーク、続きは屯所での第二ラウンドに持ち越し、
ということで収めてもらったのだ。・・・まあ、部下にしたり顔で「落ち着いてくださいよー」と宥められたら、
根っからの負けず嫌いが当然それを面白がるはずもなく、
「随分お偉くなりやがったもんだな、てめぇえええ」と、あたしの頭を鷲掴みにして激昂したんだけど。
「行くぞ」
「え。屯所に帰るんですか?」
尋ねてみたけれど、土方さんは通りを見据えて黙ったままだ。何か考えている最中らしい。トン、と煙草の箱を指先で叩いて、飛び出した一本をうつむいて咥えると、左右に探るような目を向けながら軒先を出ていく。
あたしの左手には貰ったばかりの傘がある。どうしようかなと思ったけど、結局挿さずに後を追った。
ついさっき、店を出る間際のことだ。あたしは「本当に申し訳ありませんでした」と駄菓子屋のおばあちゃんに頭を下げた。
するとおばあちゃんは無言で踵を返した。
奥へ入って、ピシャン、と住居に続く引き戸を閉めてしまった。さすがに言葉が出なかった。
謝っても良い顔はされないと割り切ったつもりでいても、実際に無視されたら誰だって悲しくなる。
ところがおばあちゃんはすぐに戻ってきた。
「客の忘れ物だ。うちはあっても邪魔だから、あんた、使うなら持ってきな」
と、出してくれたのは傘だ。ちょっと埃っぽくなったビニール傘。コンビニで売ってる透明のあれだ。
差し出された傘に驚いてじっと見つめていたら、なんだか無性に泣きたくなった。
ありがとうございます、を繰り返して半泣きで喜ぶあたしを、おばあちゃんは「大袈裟な子だねえ」と呆れていた。
だって本当に嬉しかったのだ。あの事件以来、この隊服を着て歩いているだけで殆ど目を合わせてもらえずにいたから。
おばあちゃんは土方さんが壊した冷蔵ケースからラムネも出してくれた。
傘を出してくれた時と同じに「温くなっちまったら売り物にならないからね」と無愛想に付け加えるのを忘れなかった。
傘一本を泣いて喜ぶあたしに同情してのことだったのかもしれない。それでもやっぱり嬉しいものは嬉しい。
店を出て歩きながら瓶に口をつけた。しゅわっと冷たく弾けた一口目は、今まで飲んだどのラムネとも違う、特別で鮮やかな味に思えた。
両手にラムネを握り締めて顔を緩ませていると、隣を歩くひとが傘をひょいと取り上げた。
足を速めて先を歩き出したから、あたしも急いで背中を追う。
「あんのごーつくババア。お前には傘だラムネだ持たせといて俺には挨拶もなしかよ」
「しょーがないじゃないですかぁ。土方さんは嫌われたけどあたしは好かれたんですよ」
「違げーだろ。憐れまれたの間違いだろ」
素っ気なく言いながら足を止めて、土方さんが傘を頭上で開く。ちらりとあたしに目を向けた。
何か言おうとしているようなその目線を受け止めた瞬間、どきっと胸が高く鳴った。
「使わねえのか。お前の傘だろ」
「え。・・・・・でも。あの。い、いいですよ、あたしっ、さっきラムネ被ったし。
とっくに頭がずぶ濡れだし。ひ、土方さんが使ってください」
慌てたあたしは、顔の前で手をブンブン振って断った。
電信柱の広告に意味なく目を逸らして、急に高鳴り出した心臓のドキドキをこらえる。
ああびっくりした。突然の相合傘イベント発生にも、もちろんびっくりした。
だけど、それよりもっとびっくりしたのは、急にこのひとと目が合ったからだ。
これだけ一緒にいても、このひとは本当にあたしと目を合わせようとしない。
一日一緒にいたとしても、片手で数えられるくらいの頻度でしかない(…その回数をいちいち指折り数えてる自分もどうかと思う)。
だから未だにこの目線を受け止めるのには慣れていなくて、あの黙っていても圧してくるような目に
まっすぐ見られるたびにどうしていいのかわからなくなって、バカ正直におろおろとうろたえてしまう。
「・・・。おい」
「はっっ、はいィ!?」
「傘挿した男の横に、ずぶ濡れになった女がついてきてみろ。その野郎がどんな目で見られると思う」
傘を差し出したひとが「そのくれー察しろ」とでも言いたげに眉をひそめる。聞いたあたしは黙り込み、ふてくされて口を尖らせた。
それでも一向に女心を察してくれない上司さまが「早くしねえか」と傘を突き出してくるから、トボトボ歩いて傘の左側に入った。
・・・・・・あー。そうですか。そういう理由ですか。世間体を第一に考えた、男の面子的な理由ですか。
まあいいけど。別にいいけど。
・・・ちょっとがっかりさせられたけど。
店を出た時には小さかった雨粒は、だんだん勢いを増している。分厚い雨雲は空一面に暗く広がっていて、
真上を見ると、雫がぱしぱしと透明な傘を打っていた。足元を見下ろせば、雨を弾く路地が鏡面のように光っている。
雨に濡れた町のちょっと埃っぽい匂いが、どこからともなく漂ってくる。土方さんの煙草の匂いに紛れて、ふうっと消えた。
にぎやかな商店街からひとつ道を逸れただけで、人通りは急に減る。すごく静かだ。雨に物音を消されているせいなんだろうか。
まっすぐな細い路地沿いには緑の垣根が続いている。垣根の足元に並ぶタンポポは雨粒に打たれ、黄色い頭をかくんと傾げてうなだれていた。
・・・あのタンポポまでヘコんでいるように見えるのも、どーせあたしの気のせいなんだろーけど。
何なんだろう、このがっかり感は。狭い傘の中で二人きりなのに。静かだし雨に濡れた景色はしっとりと綺麗だし、すごくいい雰囲気なのに。
しかもたまにぽん、と肩と肩がぶつかったりして、ぶつかるたびにむやみやたらに心臓が跳ねて、ドキドキさせられてるのに。
・・・・なのにどーして、こんなにつまんない気分なの。
ちぇっ、とあたしは頬を膨らませて砂利を蹴った。地獄耳の上司さまがそれを聞き逃すはずもなく、ポカッと頭を小突かれた。
「ぁんだお前。こっちが挿してやってんのに何の文句だ」
「・・・・・別に。何でもないです」
「嘘つけ。何でもねえんならそれらしい面してみせろ」
「してるじゃないですかあぁ。不満そうに見えるのは土方さんの気のせいですっ、別にあたしは何の不満もありませんからっっ」
「それのどこが不満がねえ奴のツラだ。そこまで膨れたツラでよく言え、・・・・・・・」
言いかけて足が急に止まる。どうしたんだろ。不思議になって、隣に立つひとの横顔を見上げた。
訝しげに目を細めた土方さんは、少し離れたところで傘も挿さずに立っている女の人をじっと見ていた。
なんとなく危うい雰囲気を感じさせる、頼りなげな姿だ。ふらり、ふらり、と今にも倒れそうな足取りで、煙るような雨の中を歩いてくる。
ぴしゃ。ぴしゃ。
踏み出すごとに、草履の足が雨水を打ってか細く鳴った。
「・・・・・・そう、・・・・・、んです。あの人は。もう、いない・・・。忘れなくちゃ、・・・いけないって、・・・・・」
土方さんとそう変わらない年頃に見えるその人の、口元だけが絶え間なく動き続けている。
くぐもった声で独り言のように、ブツブツと、小さくつぶやいていた。
「・・・でも。駄目でした。私、どうしてもあなたを許せない。頭がおかしくなりそうなくらい憎い。憎くてたまらないんです」
女の人はうつむき気味につぶやき続けている。濡れた髪が頬や襟元に乱れて張り付いている。
やつれた顔は血の気が薄くて、うっすらと青ざめていた。
この人、どこかで見た覚えがある。それもたぶん、つい最近だ。でも。どこで見たんだっけ。
そう思いながら、あ、と気付いた。そうだ。この人だ。あの時の―――
「だって。あなたが私からあの人を奪ったのよ。あなたがあの人を殺した。あの人を追い詰めた。
・・・・・・・・そうよ。・・・あなたさえいなければ、あの人は――」
つぶやきながら、女の人が一歩前に出る。
またふらりと一歩。そして、たたっ、と一直線に、土方さんめがけて駆け出した。
何かが胸元で突きだすように握りしめられていて、それが走る動きに合わせて揺れる。ちかちかと点滅しながら揺れている光。銀色の光――
それを目にした瞬間は、何も考えてなんていなかった。
光に目を奪われて息を呑んで、ラムネの瓶を投げ捨てて。あたしは思わず―――
「まったくお前らは、・・・厄介ばかり持ち込みおって」
パチ・・・、パチ・・・、と、一本指打法で慎重にパソコンのキーボードを押し、
電子カルテに怪我の症状を書き込みながら、ダブダブな白衣姿のおじいちゃん先生は言った。
ぎこちない手の動きだけじゃなく、字を追う目のほうも、導入したばかりのパソコンにまだ慣れていないらしい。
ズレた老眼鏡をくいっと持ち上げ、真剣に画面に目を凝らしている。
ここは屯所の近所で開業しているお医者さんの診察室。
結局、傘は持っていたのに二人ともずぶ濡れになってしまった。今は貸してもらったタオルで頭や隊服を拭きながら、診察を受けているところだ。
おじいちゃん先生は回転椅子をくるっと回すと、患者のあたしではなく、あたしの後ろに立ってる土方さんを戒めるようにじろっと睨んだ。
「近所のよしみで仕方なくお前らの面倒は見とるがな。わしの本業はあくまで小児科と内科だと言うとろーが。
浅い創傷だからどうにかなったが、これ以上の深手はわしには診れんぞ。次は隣町の総合病院へ連れて行け」
「うっせえなジジイ。病院に行けねー事情があるからここに来たんだろーが。でなきゃ誰が来るか、こんな藪医者。
モグリの不法治療でも何でも頼るしかねーからしょーがなく来てやったんだろーが!」
「誰がモグリだと若僧。れっきとした看板上げとるわい!」
「あるのは看板だけだろ。いつ来ても患者なんて見たことねーぞ。それとも裏で、俺等に顔見せ出来ねえ奴でも診てんのか」
「はァ?何じゃと〜〜?おい若僧、今何と言ったかのー?最近どうも耳が聞こえづらくてのー!」
耳に手を当てた先生は、とぼけた大声で聞き返した。
濡れるとほとんど隊服と同じ色合いになる黒髪をタオルでガシガシ揉みながら、面白くなさそうに眉を顰めた土方さんはふいっと顔を逸らす。
ぼそりと小声で悪態をついた。
「・・・フン、耄碌してお上に看板剥奪されたのも忘れてんじゃねーかクソジジイ」
「フン、耄碌したフリでお前んとこの看板燃やしてやろーかチンピラ警察」
「聞こえてんじゃねーかァァァ!!!」
「・・・あのぉー。お話に水を挿すようで申し訳ないんですけど。・・・先生?」
間に挟まれた怪我人のことなんてすっかり忘れ、喧々諤々で言い合う二人の顔色を伺いながら、包帯でカチカチに巻かれた左手を上げる。
・・・いやそうじゃない、説明がちょっと間違っていた。正確には、左手はさっきからずっと上がりっ放しだ。
包丁で手のひらをスパッと斬られてしまい、血が止まらなくなって、あたしは土方さんに引きずられるようにしてここに駆け込んだ。
治療してもらう間も、看護師さんに包帯をグルグル巻かれている間も、この手は止血のためにずっと上げっ放しだったのだ。
「ん?何だね、くん」
「手の先に血の気がないんですけど。てゆうか、・・・指の感覚もないんですけど」
「なに、心配せんで良い。神経に傷はついとらんからな。
今週一杯は養生して、毎日包帯替えに来るように。…ああ、後ろの奴は来んでいいぞ」
「安心しろじーさん。土下座で頼まれたって来てやらねえ」
「しかし・・・こりゃあお前さん、何でやられた?刃物でやられたには違いなかろーが。どうも刀傷には見えん。鋏か、・・・いや、包丁か」
見透かすような顔つきで眼鏡の奥から見つめられ、あたしは気まずくなって口籠った。
どう答えようか迷っていると、先生は目線を上げる。疑問の矛先を土方さんに向けた。
「意気がって格好ばかりつけとる浪士どもが、包丁を得物には使わんだろう。近所で人情沙汰でもあったのか」
「や、あの、いえ、・・・・・・そーじゃなくてぇ、これは、そのぉ」
「いや。見廻り中に襲われた」
あたしがしどろもどろになっていたところへ、土方さんが口を挟んだ。
「奴等は回りなんざお構いなしだが、ガキばかりの店先だ。こっちは刀抜くわけにいかねえ」
「・・・・フン、そうか。まあいい。わしも血生臭い話に興味はないからのう」
肩を竦めた先生はパソコンに向き合い、カルテの打ち込みを続けた。
あたしはほっとして溜め息を漏らした。ほのかに消毒薬の匂いがするタオルを頭から外し、振り返って土方さんを見上げる。目線に気付いたひとはこっちを見下ろすと、
呆れ返った目で睨んで。突然、油断しきっていたあたしの頭にガツンと拳骨を奮った。
「〜〜〜〜っっっ!!」
「顔が緩んでんぞバカパシリ。つか、少しは懲りろ少しは!」
「顔の緩さは生まれつきですっ、放っといてくださいよォォ!てゆうかっ、何で!?あたしが何したってゆーんですかあ!」
「しただろーが。してんだろーが、命令されてもいねえのに勝手な真似を。
いいか、てめえが俺を庇おうなんざ十年早ぇんだ。二度と出過ぎた真似すんじゃねえ」
「嫌ですっっ。」
「ぁんだとコラ。次は目の前で堂々命令無視か?罰則もんだぞ」
「いーですよっ罰則でも減俸でも何なりとどうぞっ。あたしは聞きませんから。上官を身を挺して護るのが、直属部下の仕事ですからっっ」
じんじん痛む頭をさすりながら涙目で訴えると、土方さんは被ったタオルの影で黙り込む。それからふっと、一瞬だけ表情を緩めて笑った。
笑っているのに、なんとなく沈んで見える表情だった。
あの女の人を見たのは今日で二度目。
最初に見たのは、屯所に遺体の引き取りに現れた時だ。
土方さんが斬った――あの事件の首謀者として粛清された、ある人の遺体。冷たくなったその身体に縋って、狂ったように泣いていた。
あの人はその時も、あたしに掴みかかった時も泣いていた。だからあたしは、あの人の泣き顔しか知らない。
今思い出してみても笑顔の想像がつかない。浮かぶのは、青ざめてやつれた泣き顔。
それから、包丁を振りかざして飛び込んできた時の、何かに憑りつかれたような顔だけだ。
「・・・あれっ。止んじゃいましたね」
「ああ」
貰った傘の出番はなかった。雨はすっかり小雨に戻っている。
空はまだ重苦しい色で覆われている。西の空だけが雲間に光を透して赤く輝いていた。
もう夕暮れが近づいてるんだ。色んなことがありすぎて、時間なんてすっかり忘れていた。
傘の先を濡れた地面にズルズル引きずりながら、診療所の石畳を歩く。
ビニール傘の白い取っ手には、血がべっとりこびりついていた。・・・大事にしようと思ってたのに。
「今頃はどこまで逃げたでしょーね、あの人。よかったんですか、見逃しちゃって」
「・・・別に見逃してやったわけじゃねえ。女二人が包丁取り合って揉み合ってんの見て、あっけにとられただけだ」
「そうですかぁ?でも追いかける気なんてなかったんでしょ。あの人が逃げても全然動いてなかったもん、足が」
「違げーだろ。あれァ、てめーが立ち塞がって邪魔したんじゃねえか」
「へー。そうでしたっけ。切られたショックなのかなぁ、全然覚えてないですよ」
空々しく返したけど、切られたときのことをろくに覚えていないのは本当だ。
あの時は頭の中が真っ白だった。気が付いたら包丁を奪い取っていて、手が血まみれになっていて。
目の前では女の人が全身をガタガタ震わせながら、抑えた口許から上擦った奇声と嗚咽を漏らしていたのだ。
門前で立ち止り、人気の無い通りを左右にさっと見渡すと、土方さんは目で合図を送ってきた。
あたしが黙って頷き返すと、屯所とは逆の方向へ歩き出す。
とくん、とくん、とくん。
左手では熱を持った傷口が速いリズムを刻んで疼いている。看護師さんが出してくれた鎮痛剤は、飲んだふりで隊服に隠した。
あれを飲めば痛みや熱は治まる。でも、飲めばたちまちに身体の感覚が鈍ってしまう。
時間が経てば経つほど痛みは増してくるだろうけど、まだ飲めない。せめて屯所に戻るまでは。
「ねえ。土方さん」
「ああ」
「あの人のこと。・・・どうするんですか」
思いきって聞いてみた。しばらく待ってみても、無表情な横顔から答えは返って来ない。
上着の懐から煙草の箱を探り出しながら、土方さんは足を速めた。
「近藤さんに、・・・皆にも、報告するんですか」
「その怪我見りゃあどのみち聞かれんだ。隠す訳にもいかねえだろ」
「・・・どうなるんですか、あの人。呼び出して事情聴取ですか?まさか、・・・逮捕されたりしないですよね」
「さあな。そいつは近藤さんが決める話だ」
「でもっ。・・・あの人は。・・・・・・」
そんなの嫌だ。そんなことになったら、あの人をもっと追い詰めてしまう。
どうにかしてあげたい。でも、どうすればいいんだろう。戸惑ったあたしは言葉に詰まって、土方さんの隊服の袖を縋るように掴んだ。ぐいぐい引いた。
すると土方さんが立ち止まる。煙草の先に近づけようとしていたライターの火がふっと消えた。
咥え煙草の口端が苦々しく下がって、はァ、と不愉快そうに溜め息を吐いた。眉根を寄せてこっちを見下ろす目は、うんざりしきって冷えている。
「聞くだけ聞いてやる。でも、何だ」
「・・・駄目ですか?何もなかったことに、・・・出来ませんか?だって、怪我はしたけど傷は浅いし、
先生もたいしたことないって、・・・・・・・だから、あの」
「だから見逃せってえのか」
「・・・・・・・はい」
「俺が知るか。そーいうこたァ近藤さんに言え」
ちっ、と苛立ち混じりに舌打ちすると、貸せ、とあたしからビニール傘を取り上げた。
「・・・。お前なぁ。わかってんのか」
「・・・へ!?」
土方さんがこっちへ大きく踏み出す。目の前に立つとすこし背中を屈めて、じいっと食い入るようにあたしを見つめてくる。
えっ。何。何で。焦ったあたしは思わずたじろぎ、じりっと一歩後ずさった。
見透かしたような視線の無遠慮さに押されて、さらにもう一歩引き下がる。と、なぜか土方さんが首元の白いスカーフに手を掛け、引き解いて外した。
え、何、と目を丸くして見ていたら、スカーフを両手に渡した腕がこっちへ伸びてくる。頭の上を通過して後ろ首に掛けられたそれが、
ぐいっと前へ引っ張られ、その勢いで身体ごと引っ張られる。頭から前のめりにぐらっと倒れ、こてん、と土方さんの胸に顔を押しつけた。
途端に煙草の香りにむせる。うぐっ、と間抜けな声が漏れた。
「・・・お前のことだ。どうせあのろくに知りもしねえ女に同情しきって、なんとかしてやりてえとか思ってんだろ」
苦笑気味な低いつぶやきが、頭の上から降ってきた。
ぽかんとして見上げると、見られたひとは急に口を引き結んでむっとした顔になった。
唐突にあたしの肩を掴み、ぱっと身体を引き離す。それから外したスカーフを手際良く回し、ぎゅっ、と首元で一巻きした。
こつん、とおでこをぶつけて、土方さんが顔を寄せてくる。大きく開いていた襟元に、スカーフの端を埋め込んでいった。
・・・忘れてた。ボタンを切られてからずーっと、胸元が開きっ放しだったんだ。
「・・・だ、だって。・・・いくら知らない人でも、あんなところ見ちゃったら、・・・ど、同情心が湧かないほうが、おかしいですよ」
「フン、やられた奴がえらい余裕じゃねえか。そこまで余裕が有り余ってんならこっちにも向けろよ、その同情心とやらを」
「・・・?土方さんに?・・・へ?・・・同情って。何を?」
「あのなぁ。これじゃあこっちは立つ瀬がねえんだよ。とち狂った仇討ち女が刃物握って現れて、
それを横入りした無鉄砲に下手に庇われて。次は何かと思やぁ、その仇討ち女を見逃せときた。んなもんをはいそうですかと頷けるか」
「・・・・・・・・・・そ。それは。そうですよねえ。・・・・・す。すいません。」
「まったくだ。つーか、謝るくれえなら怪我すんじゃねえ」
他人の心配する前に、ちったぁてめえのことも考えろ。
低めた声でそう言った顔は妙に真剣で、あたしの胸元を腹立たしそうに睨みつけている。
襟元や肌を掠める土方さんの手の温度がくすぐったい。さわさわとおでこに擦れる、硬い髪の感触がくすぐったい。
深く伏せた目や大きな手の動きにぼうっと見蕩れていると、顔が少しずつ、かぁーっと火照って熱くなってきた。
どうしよう。・・・叫びそうなくらい嬉しいんだけど。嬉しいんだけど、でも。
「・・・・・・ひ。土方さん。」
「ァあ?何だ」
あたしが真っ赤になって困っていても、土方さんはさっぱり気づかない。
まったく面白くなさそうに口端で煙草を噛み締め、「こういうもんはさっさと隠しとけ」とボヤきながらスカーフを直している。
「き。気味が悪いです。・・・・・土方さんが。・・・珍しく、優しいから」
「バーカ。違げーよ。いつまでも開いてんのが目障りなんだよ。傘がさっきから地べたでズルッッズルズルズル、耳について煩っっせーんだよ」
「えぇ〜。・・・「重そうだから持ってやるよ」くらいは言ってよー」
「無茶言うな。てめーが持ってりゃバーベルだって重そうに見えねーよ」
スカーフを巻き終えると、取り出したライターをカチカチと鳴らしながら皮肉を飛ばした。あたしはむくれて口を尖らせた。
前言撤回。いつも通りだ。至っていつも通りだ、ムカつくくらいに。
勘はやたらに鋭いくせに、複雑な乙女心は一切察知してくれない朴念仁上司さまそのものだ。
何よ。何なのさもう。このひねくれた物言いにもとっくに慣れたし、実は心配してくれてるんだって判ってるから別にいいけど。
どうして素直に「心配した」って言ってくれないんだろ、このひとは。
・・・まあ、あたしだってお礼のひとつも言えてない。素直じゃないのはどっちもどっちで、まったく人のことは言えないんだけど。
「・・・まあ、どっちにしても。手配に回すこたぁねえだろうがな」
「・・・・・・?」
「顔もろくに見てねえ、どこの誰だか覚えもねえ。身元不明の、これといった特徴もねえ女だろ。
そんな奴を江戸中掻き分けて探し回るほど、こっちは暇じゃねえってことだ」
「・・・・・・・・・・・・」
これ以上余計な人員割く余裕なんざ、どこにもねーんだよ。
独り言みたいにそう言うと、あっけにとられたあたしを置いて先を踏み出した。
落ち着かない仕草で煙草を指に挟み、煙を吐きながらちらりとこっちに目だけを向ける。すぐに煙草を咥え直すと、やたらと速足で、逃げるようにそそくさと離れていった。
「・・・・・ねえ。それって。・・・ねえっ。土方さぁん、・・・」
黒い隊服の背中は腰のポケットに手を突っ込み、みるみるうちに遠くなっていく。
呼んだのが聞こえなかったんだろうか。
それとも、聞こえないふりでばつが悪いのを誤魔化そうとしているんだろうか。
なんだかじっとしていられなくなって、あたしはぱっと駆け出した。
ぱしゃっ。ぱしゃっ。大きく蹴った水溜りから、飛沫が盛大に跳ね散った。
「土方さんっっ」
「ぁんだよ、煩せぇ――」
どんっ、と体当たりする勢いで腕に飛びつく。
飛びついたひとの背中が息を呑む。縋った途端に、今はもうすっかり慣れた、強い煙草の香りに包まれた。
不思議。
この香りを感じるたびに、誰の傍にいるよりもほっとする。なのに時々、泣きたいくらいせつなくなる。
どうしてこんなに矛盾した感情に揺らされてしまうんだろう。
「・・・・・・土方さん。だいすき。」
不意を突かれてあたしを見下ろし、土方さんは珍しくきょとんと目を見開いた。
あんまりまっすぐに見てくるから、見られるこっちはやっぱりきまりが悪い。照れ隠しにへらっと笑って、
ぎゅっ、と力任せに抱きついた。袖を握り締めた左手がずきっと響く。泣くほどの痛さじゃなかった。なのに、なぜか無性に泣きたくなって、目元が熱くなってくる。
「・・・おい。」
硬い手のひらが頬にぺちっと当てられる。軽く顎を持ち上げられて目を合わせると、訝しげに問いかけられた。
「誰が気味が悪りぃんだ、誰が」
土方さんはへの字に口端を曲げている。、なんとなく目が悔しそうというか、ちょっと拗ねてるみたいにも見える。不意を突かれたのがそんなに面白くなかったんだろうか。
つくづく負けず嫌いというか意地っ張りというか。こういうところは見た目に似合わず、本当に子供っぽいんだから。
可笑しくなって声をこらえて笑ったら、大きな手が頬をぴたぴた叩いて不満を訴えてくる。「笑ってんじゃねえ」と叱られた。
あたしは何も言わずに大きくかぶりを振って、おでこを肩に擦りつけた。本当に言いたかった言葉は喉の奥に呑み込んで隠した。
きっともう、大丈夫。
あたしを切っちゃった時のあの人は、やっと夢から醒めたみたいな顔してた。
やっと我に返って、憑き物が落ちたような顔してました。だから。きっともう、大丈夫ですよ。
――そう言いたかった。でも言えなかった。
だって、そんなの嘘だ。ちっとも大丈夫じゃないはずだ。
あの女の人は今、この瞬間も、真っ暗な失望に沈んでる。底の無い海で溺れるような苦しい思いをしながら、一人ぼっちでもがいてる。
あの人のことなんて何もしらないけれど、あたしにだってそれだけは判る。
こんなのただの気休めだ。このひとだってそう思うだろう。
わかってる。わかってるのに。
残された想いも、恨みも、絶望も。
すべて黙って請け負ってしまうこのひとが、その場凌ぎの上滑りな慰めなんて欲しがるはずがないって。
だけど。それじゃああたしは――このひとに、他に何をしてあげられるの。
「―――真選組副長、土方十四郎だな」
緊張を抑えた低い声が響いた。土方さんの背後の空気がふっと強張り、抱きついた腕がぴくりと動く。
少し離れた四つ角のあたりだ。目を向けなくても判るくらいのはっきりした気配
――気取ってくれと言わんばかりな殺気がそこから発せられている。
一人が出てきたのを皮切りに、ざざあっ、と五人が横道の暗がりから駆け出て道を塞ぐ。
いかにも不審な風体揃いの一団だ。全員が腰に物騒な長物を提げている。
「・・・やっと出てきましたね。まさかこのまま屯所まで見送ってくれるのかと思いましたよ」
やれやれ、と肩を落としたくなった。
診療所を出る前から微弱な殺気だけは感じていたから、いつどこからお出ましかとずっと待ち侘びていたのだ。
「ああ。まぁ、向こうだってそこまで暇でもねえんだろうが、・・・」
(・・・ここまで待ったらあと五分くれー待てってえんだ。ったく、堪え性のねえ奴等だな、・・・)
わらわらと出てきた奴等に嫌そうに目を細め、土方さんはブツブツとお門違いな文句を垂れている。
・・・変なところで堪え性がないのはどっちだろう。恥ずかしさになんとなく顔を赤らめながら、肩越しに背後の気配を探ってみる。
こっちの出方を待ってはくれても、退路を残してくれるほど親切じゃないらしい。左右の路地から現れたのは三人。じわり、じわり、と無音で間合いを詰めてきていた。
「それにしても、・・・・こんなに隙だらけで歩いてるのに。引っかかるのは見事に雑魚ばっかりですねぇ。
あーあ。もっと大物がかかるかと思ったのに」
「もう飽きたのかよ。雑魚の始末も仕事のうちだ、気ィ抜いてんじゃねえぞ」
「言われなくても抜きませんよ。そんなこと言って、実は土方さんが一番飽きてるんじゃないですか」
「飽きてねえ。退屈してただけだ」
「それを飽きたって言うんですよ」
獲物を射程に捉えた土方さんはふてぶてしく笑っている。
さっきの駄菓子屋では攘夷浪士を前にしても刀が抜けず、鬱憤が溜まっていたんだろう。戦端を切る瞬間が待ち遠しくてうずうずしているのか、
傘はとっくに放り出し、長い指はすでに刀の鞘にしっかり掛かっている。前を見据えた目が不気味に底光りしている
咥え煙草の横顔は、これ以上なく楽しそうな上機嫌ぶりだ。横目に見上げて、あたしは、あーあ、と呆れ混じりに肩を落とした。
こうして見るとつくづく変なひとだ。
普段は冷静に構えているし、屯所の誰より規律を重んじているけど、実はちょっとどころじゃなく変だ。
少なくとも普通じゃないと思う。
・・・まあ、その変なひとを好きで好きで仕方ないあたしだって、相当に変でおかしな女なんだろう。
女のくせに刀なんか握って、血飛沫の中だろうとどこだろうと、このひとにくっついて何処へでも飛び込んでいきたがるんだから。
土方さんが柄に手を掛けたのが、少しずつ張りつめていく気配で判る。
あたしも後ろ手に鞘を抑えて、腰に提げたものを手のひらで確かめる。すう、と深く息を吸いながら柄を握り、歩き出す。
隣のひとに合わせて歩を速めた。
カッ、カッ、カッ、とブーツの底がアスファルトを打つ音が路上に響く。
視界の天辺では雨雲が暗く蠢いている。生温く湿った微風に混ざって、どこか遠くから低い雷鳴が届いた。大粒の雨が頬をぴしゃりと撃つ。首筋をつうっと流れ落ちていく。
「さっそく退屈凌ぎだ。付き合えよ」
「・・・しょーがないですね。付き合ってあげますよ」
お望みとあれば、どこまでも。
柄の感触を指の腹で注意深く確かめながらつぶやく。
それが耳に届いたのか、隣の肩が愉快そうな笑いに揺れた。
とくん、とくん、と腕に響く。痛む左手から血が奔る音が響く。
握った刀の感触で神経が昂り始める。手足も、視覚も聴覚も、普段は眠っている名前のつけようがない感覚も、
すべての感覚が冴えて広がっていく。
とくん、とくん、とくん。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
傷口で脈が波立つ。心臓は手の痛みを麻痺させるほどに、強い鼓動を連ねながら暴れている。
カチッ、と隣で音が鳴る。土方さんが鍔口を切った音だ。その音と同時で鞘を抜き払い、先陣に飛び出た男をめがけて駆け出す。
男の手許でぎらりと刃紋が光る。寒気のするような暗い鈍色が目に焼きつく。刹那と呼ぶにも満たない、そんなほんの一瞬に、ふと思った。
あの人は今もまだ、一人で泣いているんだろうか。
この重苦しい鉛色の空の下の、どこかで。
曇 天
text* riliri Caramelization 2010/04/28/