「ああああああああぁぁぁ〜〜〜〜!!!!!」
鼓膜に突き刺さるほど甲高く悲嘆に満ちた叫び声が、副長室に響き渡る。
各部署から提出された書類の束が山と積まれ、その山とほぼ同じ高さで灰皿に吸い殻が積まれた文机の前。
そこで報告書に目を通していたこの部屋の主は、薄い唇の端に煙草を挿した胡乱げな顔つきで振り返った。
半分開けた襖戸の端にいつのまにか縋りついていたのは、大きな目の縁一杯に涙を溜めた直属の部下。
資料庫へ使いに出していた屯所唯一の女隊士、だ。
運んできた捜査資料のファイルをお構いなしで放り出し、ずるずると畳に崩れ落ちた彼女が、いつここへ戻ってきたものかはわからない。
ただし、突拍子もない金切り声の理由なら心当たりがないこともなかった。涙に潤んだ女の瞳に恨みがましく睨まれている理由も、だ。
願 わ く ば 花 の 下 で 君 と #7
お お か み さ ん と 二 匹 の こ ね こ
「ずるいいいい〜〜〜!ずるいずるいずるいいぃぃぃっ、土方さんの裏切り者ぉぉぉぉっ」
「あぁ?誰が裏切り者だ、人聞きの悪りぃ」
「言い逃れしよーったってそうはいきませんよ!?何なんですかぁそれ、頭なんかなでなでしちゃって!」
わなわなと震える指先が、彼の膝上をびしっと指す。
胡坐を組んだ脚の上でうずくまる、小さく温かな白黒のかたまり。
ふんわりした毛並みに這わせていた指先で、起きろ、と合図するように軽く叩く。
のうのうと惰眠を貪っていたそれは、間もなくうっすらと瞼を開けた。青緑色のビー玉のような瞳がわずかに覗き、にぁー、と眠そうな鳴き声を上げればが途端にはっとして、
「あぁっ、起きた!うずらちゃん起きた!」
嬉しそうに表情を輝かせた女が、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
数秒前まで泣き喚いていた奴が、もう笑いやがった。
そこいらのガキ以上の単純さだな、などと土方が心中でつぶやいていると、
「わぁ、こっち見た!おはよううずらちゃんっ」
「屯所の鬼」の脚に寝そべる怖いもの知らずの様子を覗き込もうと、彼女は何のためらいもなく隊服の背中に抱きついてきた。
膝上で身じろぐ塊よりも弾力を帯びたやわらかさを衣服越しに感じてしまい、土方が思わず息を呑む。
首筋や肩には頬や髪を擦りつけられ、甘い匂いがひどく近い。それでも彼は平静を装い、何食わぬ様子で振り返った。
ここで距離の近さを指摘しようものなら、先に待つ事態は目に見えているからだ。
そう、おそらくは慌てたこいつが顔を赤らめ「ぎゃぁああああああああ!!」と屯所中を突き抜ける悲鳴を上げて全力で俺を突き飛ばすか、それとも俺の顔に平手打ちを食らわせてふっ飛ばすか、もしくは後頭部に回し蹴りをキメてふっ飛ばすか・・・
いずれにせよ、俺にしてみれば極めて理不尽、かつ面白くも何ともねぇ事態になるこたぁ確実だ。
そんな予想を立ててしまって浮かない顔になりながら、肩越しに女を流し見る。
彼の視線などそっちのけでがぽーっと見蕩れているのは、この界隈を縄張りとしている気の強い仔猫だ。
屯所の敷地内をうろつき出した産まれたての頃は薄汚れた毛玉のようだったこの野良も、いつの間にか住み家が決まったらしい。
近頃は小綺麗で毛艶も良く、上質そうな絹地で作った鈴付きの首輪も付けていた。
「・・・あああぁぁもぉぉぉかぁああわいいぃぃぃ〜〜、寝起きのうずらちゃん超かわいいぃぃぃぃっっ」
はわわわゎぁぁぁぁ、と素っ頓狂で甘ったるい声を漏らした女の手が、縋りついた土方の肩をきゅうっと掴む。
訝しげに後ろを見遣ってみれば、顔全体をふにゃふにゃとだらしなく緩ませたはうっとりと溜め息をついていた。
視線の先にいる寝起きの仔猫は白い前足でしきりに目許を擦っており、そんな仕草の愛らしさやまだ眠たげな表情が、猫好きの彼女にとってはたまらない光景なのだろう。
下げた目尻が今にもとろりと溶け出しそうな女の顔は、やけに幸せそうだった。
「・・・まるでマタタビ喰らった猫だな。ったく、たかが猫一匹でだらしねぇ面晒しやがって」
「悪かったですねだらしない顔で、ていうか今はあたしの顔なんてどーでもいいんですっ。
それよりうずらちゃんですようずらちゃんっ、見てくださいよぉお目々ごしごししてるあの手!ふわっふわでちっちゃくて可愛いぃぃぃっ」
「手じゃねぇ、あれぁ前足だ。四足歩行の獣に手はねぇ」
ふぅ、と紫煙を吐きながら醒めきった口調で指摘すると、ぺしりと頭を叩かれた。
痛てぇな、と眉間を顰めて振り返れば、言い間違いを馬鹿にされて拗ねているらしい。
不服そうに唇を尖らせた子供っぽい顔が、精一杯に睨みつけてくる。
本人は真剣に怒っているつもりだろうが、泣いたばかりの目に睨まれたところでこれっぽっちも迫力がない。
おかげで怒る気も失せてしまい、煙草を咥えた口端は湧いた苦笑に緩んでいった。
「ところで、「うずら」ってぇのは何だ。こいつの名前か?」
「そうですよー。飼い主さんにも名前付けてもらってるでしょうけど、あたしはうずらちゃんって呼んでるんですー。
毛色と模様が似てるでしょ」
「・・・・・・」
ころりころりと寝返りを打って細い尻尾ごと身体を丸め、もう一度脚の間に収まろうとしている仔猫を土方は訝しげに見下ろした。
ふんわりした毛並みはまだらな白黒模様で、言われてみればうずらの卵に似ていなくもない。
だが――猫だというのに、名前がうずら。
根本的な間抜けさに、この名付け親は全く気付いていなさそうだ。
下手に指摘しようものならまた拗ねられそうなので、敢えて黙っておくことにするが。
「みぃーーーっ」
「うわぁぁぁ〜〜・・・!いいなぁ、あたしもうずらちゃんに触りたーい・・・」
か細い喉からあくびのような声を漏らした仔猫が、鈴の音をちりちりと転がしながらしなやかに背筋を仰け反らせる。
滅多に見れない寝起きの姿を前にして、もいよいよ触りたくて仕方なくなってきたらしい。
縋りついた男の影からおそるおそる手を伸ばし、緊張に息を詰めながら猫に触れようと試みる。
すると仔猫はくるりと首を巡らせて振り向き、ぴしりと尻尾を逆立たせた。
さらにはに向けて、ふーーーっっ、と鋭い威嚇の唸り声を上げる。
鮮やかな青緑色の瞳をかぁっと剥いたその顔は「気安く触るな」と彼女を叱りつけているかのようで、土方への気を許しきった態度とは正反対の手厳しさだ。
仔猫の態度がショックだったのかかちんと凍りついていたが、うぅぅぅぅ〜〜、と絶望したような顔で涙ぐんで、
「どーしてぇぇぇ!?どーしてあたしとは仲良くしてくれないのぉぉぉ!?」
「んなもん決まってんだろうが。お前がこいつを見かけるたびに全力で追いかけ回すからだ」
「だめだようずらちゃんっ、土方さんに懐いちゃだめ!こんな煙草くさくて最悪な部屋にいたらいつか病気になっちゃうよ!??」
「あぁそうかよ、悪かったな煙草臭くて最悪な部屋でしょっちゅう寝起きさせて。
まぁともかくだ、これからはこいつを無闇に追いかけ回すのはやめておけ・・・っておいコラ、人の話聞いてんのか」
へなへなと土方の肩に崩れ落ちたが、しくしくと悲しげに啜り泣き始める。
――またこれか。ったく、こいつは一体いつになったら毛玉の懐柔を諦める気だ?
すりすりと額を擦りつけてくる女の頭を仕方なく撫でてやり、もう一方の手では「撫でろ」と前足でぺしぺしと彼の膝を叩いて要求してくる猫の腹を適当に掻いてやりながら、土方は厄介そうに眉間を狭めた。
そもそもは猫好きのくせに、猫の生態に疎すぎるのだ。
猫とは元来気分屋で何を考えているか解らないところがあり、こちらの都合などお構いなしの自由気ままな生き物である。
同じ愛玩動物である犬よりも強い警戒心を持っており、ましてやこいつは元野良だ。
人への警戒はいまだ根深く、触れさせていい奴と触れさせたくない奴をきっちり区別している節がある。
ということは、だ――毛玉が産まれたばかりの頃からむやみやたらと追い回し、嫌がる野良猫をひっ捕まえては無理やりに撫で回していたが、毛玉の中の「絶対に触れさせたくない要注意人物リスト」のトップに挙げられていたとしても何ら不思議はないのだが。
・・・いや、それどころか「天敵」と見做されている可能性もなきにしもあらず、か。
現に俺は毛玉が自らに近づいていくところなど見たことがねぇし、大人しく頭を撫でさせてやっている場面なんざいくら考えても想像がつかねぇ。
「ねぇ、いつから?いつからこんな関係になったんですかぁ?」
「・・・?何だ、こんな関係って」
「だーかーらー!いつからこんな!あたしに隠れて!この子とこんっっっなにらぶらぶでいちゃいちゃな甘ぁぁーーーい関係になってたんですかぁぁ!?」
「はっ、何だそりゃあ。旦那の浮気にブチ切れた嫁みてぇなことぬかしやがって」
まるで俺が執務中に女連れ込んだみてぇに聞こえんだろうが。
ぼそりと文句を述べつつも、土方は愉しげな笑みをこぼした。
惚れた女の口から出たものだけに、「他の女との仲に妬いているようなこの言いぶりも悪くない」などと戯けたことまで考えてしまう。
と同時に、そんな考えを浮かべる自分にちょっとした驚きも感じていた。
に出会う以前なら、女の嫉妬なんてものはただ鬱陶しいとしか思えなかった。
ところが今の俺ときたら、鬱陶しかった女の悋気に却って気を良くしている始末だ――
たった一人の女によって変わり始めている自分に少々こそばゆい思いをさせられつつ、仔猫の小さな耳の付け根をくすぐってやる。
気に入りの撫で方をされるのが嬉しかったらしい。
猫はわずかに首を竦めてちらりと土方を見上げたものの、その後は満足そうに瞳を細め、ごろごろと心地よさげに喉を鳴らし始めた。
耳から喉へと指先を滑らせ顎の下あたりも撫でてみれば、彼の膝頭に顎を乗せて瞼を瞑り、やわらかな身をくたりと預けてくる。
口許が緩んだ気持ちよさそうな表情は、今にもすうすうと寝息を立てて眠ってしまいそうに見えた。
「・・・・・・ずるいぃぃぃぃ・・・」
やけに恨めしげな、けれどひどく羨ましそうな女の声が耳を掠める。
彼と仔猫の仲睦まじさを、はぐすぐすと啜り泣きながらもしっかり見つめていたらしい。
紫煙をくゆらせながら振り向いてみれば、瞼が赤い女の顔は破裂寸前の風船のような膨れっ面。
吊り上がり気味な目尻にはまたもや透明な雫が盛り上がっており、あまり力の籠っていない手がぽかぽかと土方の肩を叩く。
この程度の反抗であれば可愛いものだ、と最初のうちは土方も目を瞑ってやっていたのだが――
「ずーーるーーいーーーー!土方さんずーるーいーーー!」
頭の後ろで甲高く喚かれ、髪をぐいぐいと引っ張られてしまえば、怒りに火が点くまでの導火線がやけに短い鬼の副長はこめかみにびしりと青筋を浮かべる。
ぎろり、と眼光鋭くへ振り向き、
「っっっの野郎人が黙ってりゃあすぐ調子に乗りやがって・・・!ハゲたらどうしてくれんだ、あぁ!?」
「裏切り者の土方さんなんてハゲちゃえばいいんですよぉぉぉ!
ずるいずるいっ、ず〜〜る〜〜い〜〜〜!あたしを差し置いてうずらちゃんを手懐けちゃうなんて〜〜〜!」
「別に手懐けた覚えなんざねぇ、毛玉がいつも勝手に寄ってきて勝手に俺を寝床にしやがるだけだ」
「そんなこと言いながらずっとなでなでしてるじゃないですかぁぁ!なにそれ、自慢?ラブラブ度を見せびらかしてるの???
ずるいずるいずるいいいいっっ、あたしもなでなでしたいぃぃ!」
「うるせぇ、黙れ。つーかお前がこいつとラブラブとやらになれねぇ理由はそれだ、それ」
そうやってぎゃあぎゃあとこいつの前で騒ぎやがるから、お前は毛玉に警戒されんだ。
溜め息混じりに毒づけば、ぶんぶんと被りを振りつつ泣きじゃくる女に顔を擦りつけられている肩のあたりがじわぁっと微妙に湿り出す。
若干うんざりした目つきになった彼が自分の脚を見下ろせば、騒々しくて手間が掛かる背後の女とは対照的に、膝上に居座るちんまりとした塊はすっかり大人しくなっていた。
どうやら本格的に眠る態勢に入ったらしい。
柔い毛並みを彼の脚に擦りつけては、もぞもぞとしきりに身じろぎしている。
うるさく泣き喚いている女のことなどどうでもいいとばかりに、すっかりくつろいでいる様子だった。
「・・・・・・ったく、しょうがねぇな」
両者の対比の可笑しさに、土方は困ったような苦笑を浮かべた。
口端に差した吸いさしを、灰皿でぐしゃりと押し潰す。
文机へ向けていた身体を捻ると、空いた左腕をの腰へ。隊服のスカートに覆われたくびれのあたりを指を広げてぐっと掴めば、
「ふぇ!?」
唐突に脇腹に食い込んできた指先の硬さに驚いたのか、の背筋が跳ね上がる。
それまでぐすぐすと泣いていた女は自分を捕まえた大きな手を見下ろし、それから、あっけにとられた表情で土方の目を見つめてきた。
たった今まで泣いていたことすら忘れてしまっていそうな顔だ。
赤い目尻には水晶のような涙の粒が光っており、目も口もぽかんと開けっ放しな顔をほろりと転がり落ちていった。
「毛玉を撫でてぇんだろ。だったら喋るな」
「・・・へ?ぇえ?」
「しばらく黙ってろって言ってんだ。お前の声で毛玉が逃げる」
「な、なにそれっおかしくないですかぁ、あたしは喋っちゃだめなのに土方さんはいいんですかぁ」
「いいから来い。こいつの気に入りの撫で方、知りたくねぇのか」
「そっ、それはしりたい、けど、っゎ、わゎ、ちょ、〜〜〜っ!」
あわてふためき暴れる身体を片腕のみで抑え込み、ぐい、と一息に引き寄せる。
そういえば――こういった時のの扱いに四苦八苦していた付き合い始めは、腕の中に引き込むだけでも相当に手古摺らされたものだ。
恥ずかしがってもがく女に顔だの腹だのを殴られ蹴られ、ちょっと気を抜いた隙にばりっと爪で引っ掛かれることも珍しくはなかった。
あまりに生傷が絶えなかったせいで、屯所の風呂では一時期、湯に浸かる隊士達の視線が俺の背中にやたらと集中していたくらいだ。
今となっては猫の扱いと同等、もしくはそれ以上の心得があるため、湯船で野郎どもに取り囲まれ背中の引っ掻き傷を茶化されることも、にやにやと下世話そのものな面で笑うそいつらを片っ端から殴って湯船の底に沈めてやる機会も激減したが。
衣服を通したものではない、もっと直接的な温もりを脚に感じて視線を落とせば、互いの腿がぴったりと隙間なく密着している。
ただでさえ短めなスカートは、引き寄せた際にさらに捲れ上がってしまったらしい。
乱れた裾から太腿が顕れ、陽に当たれば透き通りそうな素肌の白さが目にまぶしい。・・・いや、正直なところを言えば、目に悪い。
どことなく気まずそうな顔つきになった土方は、眼下に広がる艶めかしい光景からそれとない様子で視線を逸らす。
とはいえそれでも、身体中の感覚が隣の女に集中してしまうのは避けようもなかった。
引っ張った時に体勢を崩し横座りになってしまったが、彼の身体の左側にくったりとしなだれかかっているせいだ。
丸みを帯びた細い腰や、しなやかに伸びる素足の重み。
膝上を占領した猫の存在もつい忘れそうになってしまうほど心地良い感触が、何ともいえない柔らかさを伴って土方に委ねられている。
「〜〜〜っっひ、土方さんっ」
「何だ」
「い、いいんですかぁ、その、ぉ、お仕事、は・・・?」
「あぁ、一旦休憩だ」
「っっっそそっそれと、あのっっ・・・な、なんでこんなに、みっっ、みみみ密着する必要が!???」
「うるせぇ、喋るなって言ってんだろ。ほら、触ってみろ」
折れそうに細い手首を掴み、いつのまにか赤面して恥ずかしそうにうつむいていた女の手を引く。
かすかな寝息を立て始めた仔猫の背中まで導くつもりで、彼の半分ほどの幅しかない手の甲を包み込むようにして握ってみた。
すると、びくり、とその手が腕ごと震え上がった。
の横顔に視線を移せば、困っているような上目遣いが土方をじとりと睨んでくる。
それでも彼は何事も無かったような態度を装い、潤んだ瞳を見つめ返した。
何だ、とわざと尋ねてみれば、男と女の間で交わされるちょっとした駆け引きに免疫がなく、仕掛けてくる男の思惑も未だによく解っていなさそうなは、どうしていいかわからなかったのだろう。
拗ねたように唇を噛んで視線を外し、ふいっと顔を逸らすのだ。
「・・・これじゃあ触れないじゃないですかぁ・・・」
「いや触れんだろ。今なら毛玉も逃げねぇぞ」
「・・・・・・。そういうことじゃ、なくて・・・」
独り言のようにそう漏らし、ぷーっ、と頬を丸く膨らませて、
「・・・・・・ずるいぃぃぃ。土方さん、ずるいぃぃぃ・・・」
「あぁ?何がだ」
「〜〜〜・・・っ」
素知らぬふりで尋ね返せば、は口を噤んでしまった。
ちらちらと膝元に視線を向ける仕草からも握られた手を気にしている様子が見て取れたが、気になるから放してくれ、とは恥ずかしくて言い出せずにいるらしい。
長い髪の隙間から透けて見える首筋が、じわじわと赤みを帯びていく。
男の悪戯心を程良くくすぐる、初心でつたない反応だ。
そんなの態度に気を良くした土方は、目許を覆う黒髪の影で満足そうに瞳を細めた。
悪戯ついでに至極ゆっくりと、閨で彼女を抱くときのようなつもりで互いの指を絡ませていく。
するとは、今度は肩まで跳ねさせて震え上がった。
土方に捕らわれていないほうの手で唇を多い、恥ずかしくてたまらなさそうにぎゅっと瞼を瞑っている。
これも実にらしい、初心で素直な反応だ。
この程度の他愛のない悪戯だけでも心底困りきっているくせに、それでも「黙っていろ」という上司の命令はいじらしく守るつもりらしい。
うぅ〜、と情けない泣き声を漏らして身を縮ませる姿に微笑みつつ、土方はに顔を寄せる。
眠った猫を刺激しないよう、耳元で低く囁いた。
「いいか、こいつに気に入られてぇなら強く触るな。そっと撫でろ」
「〜〜〜〜〜っっ!」
吐息の熱と煙草の香りに耳朶をふわりと撫でられて、が声にならない悲鳴を上げる。
ぱっ、と握られた手を振りほどき、土方の表情を窺ってきた。
熱を帯びた女の瞳は蕩けかかっているものの、毛玉によく似た吊り上がり気味な目は明らかに彼を咎めている。
それでも土方は表情を崩さず、腕の中で身じろぐ細い腰をそれとなく引き寄せながら口を開いた。
「お前がこいつに警戒される原因は、いつも正面切って撫でようとするからだ」
自然と喉から這い昇ってきたのは、仕事の手順でも教えるような淡々とした口調だ。
(・・・警戒される原因だと?何だ、そりゃあ。)
猫を口実に使って女に構いてぇだけの奴が、もっともらしいこと言いやがって。
などと思って吹き出しそうになりつつも、土方は腰を抱いていた左手を女の肩まで滑らせていった。
「最初のうちは後ろへ回って、このあたりから撫でてみろ」
「――ん、っっ」
手を置いた肩から薄い背中にかけて、殊更にゆっくり撫で下ろす。
胸の高さあたりから、引き締まった腰のくびれまで。
体温の高い男の手がどんな仕草で身体を辿ったかを教えるように、背筋に沿って強めに指先を滑らせてやれば、これまでよりもずっと大袈裟に、の腰が跳ね上がる。
同時に伸びてきた華奢な手が土方の隊服にしがみつき、ぽふっ、と胸元に顔まで埋めてきた。
ほんのちょっと手に触れられただけでも、びくりと震えてしまうような身体だ。
分厚い隊服の上からでも素肌を直に撫でられたのと同じくらいに感じてしまい、手足まで奔る甘いざわめきに声を上げそうになったらしい。
縋りついてきた女のちいさな頭を見下ろしながら、土方はふっと吐息のような声音で笑う。
の内側はまだ余韻と痺れで埋め尽くされていて、ろくに力が入らないのか。
シャツに縋りついた手も、畳に投げ出された素足も、ぶるぶると力なく震え続けている――
「。おい。聞いてんのか。話はまだ終わってねぇぞ」
「・・・・・・ふぇ・・・ぇ・・・?」
「背中を撫でて、それでも毛玉が逃げねぇようなら――次は、ここだ」
「ひゃぁ、っ・・・!」
胸元に凭れてくぐもった小声を漏らしている女の、真っ赤な耳へ唇を寄せる。
ふるふると震える輪郭にそっと唇を滑らせていけば、か細く叫んだの背筋が弓なりに反った。
かと思えば土方の隊服に押しつけられていた柔らかな唇が、きゅっ、ときつく噛みしめられる。
耳から全身に伝わっていく男の抑えた息遣いや、ほんのわずかに触れられただけでも感じてしまう唇の熱の生々しさ。
そんな微弱な感覚にも反応してしまう自分を知られたくないのか、背筋や腰を震わせながら必死に声をこらえているようだ。
のこんな可愛らしい姿を見たいがために、いかにも毛玉はここが弱いようなことを言ったが――実際にここが弱いのは、毛玉ではなくのほうだ。
仔猫が撫でられて喜ぶ位置は、もっと下の耳の付け根あたりか。
甘い香りを漂わせる耳たぶを何度も柔らかく啄みながら、土方はほんの一瞬、膝上の猫を流し見る。
目を閉じころんと背を丸めた毛玉は、すうすうと健やかな呼吸を繰り返していた。
ちいさな耳はへなりと垂れ下がっていて、間近で騒ぐ人間どもの声は遮断されているのだろう。
熟睡している今ならば、も毛玉に触れられるはず。
まさに千載一隅の、次はいつ来るともしれない絶好の機会なのだが――
猫の扱いを教えてやるなどと言っておきながら、一体何をやっているのか。
我ながら性質が悪いと自嘲しながら、ちゅ、ちゅ、とかすかな音を立てて赤らんだ耳たぶに唇を落とす。
腕の中で身じろぐ女の涙ぐんだ表情を、熱を孕んだ伏し気味な目つきでじっと見つめた。
――毛玉が撫でられて喜ぶのは、まずは背中。それに慣れたら、耳の付け根あたり。それにも慣れたら、次に撫でてやるのは――
「――耳を触るのに慣れてきたら、このあたりも撫でてやれ」
「っっ、ん・・・!」
耳から下へと唇を滑らせ、桜色に染まったなめらかな首筋にもやわらかく吸いつく。
伸ばした舌先で肌をそっとくすぐるように撫でてやれば、はぶるりと震え上がって天井を仰いだ。
やだ、と覆った口の中でつぶやき、腰を引いて逃げようとする。
しかし彼女の首筋に顔を埋めた男は、こんな時の彼女の扱いを誰よりも知り尽くしている土方だ。
猫のようにしなやかな女の腰がするりと抜け出していってしまわないよう、細いくびれを抱きしめる。
まるでここに触れてくれと言わんばかりに、目の前で無防備に晒されている絹地のような質感の首筋。
舐めればかすかな甘さを感じる肌をやんわりと啄んでは唇を滑らせ、強めに啄んではまた肌をなぞる。
そのたびにはだだを捏ねる子供のようにもがいていたが、ただこうして触れてやるだけで震えを起こすほどに感じやすいそこへ、しつこく口づけを繰り返した。
いつしかやわらかな女の両腕が土方の頭に縋りつき、かすかに震える細い指が黒髪をぎゅっと握りしめて、
「――っゃ、っっ。・・・ひ、ひ、じか・・・さぁっ・・・」
びくっ、と一際大きく仰け反ったが、かぶりを振りつつ彼を呼ぶ。
ぶるぶると太腿を震わせながらも腰を上げ、膝も立てようとしている彼女は、どうやら自分を追い詰める男の唇から逃れたがっているらしい。
だというのにその両腕は、相も変わらず彼の頭にひしっと縋りついたまま。
これではどちらなのか判断がつかない。こいつは本当に俺から離れたがっているのか。
それとも本当のところは、そう嫌がっているわけでもないのか。
幾つか推論を浮かべてみるが、とはいえ女の複雑で繊細な心情など、男の自分に理解できるはずもない。
せいぜい理解出来るのは、腕の中にいる女の身体が強い羞恥心と甘い感覚に板挟みにされて困惑しており、自ら男の首筋に胸の膨らみを押しつけていることにも気付けていなさそうなこと。
それと――そんな女のちぐはぐで矛盾していて男には理解が及ばない様子が、なぜか自分の目にはいつまでも眺めていたいほど愛らしいものに映ってしまうことくらいだ――
いつの間にか腹の奥に溜まっていた熱が、さらに膨張していくのを感じる。
溜め息とともにこみ上げてきたもどかしい感覚を押し戻すように、土方はぐっと息を詰めた。
じっとしてろ、と言い聞かせるように、火照った素肌を何度も優しく啄んでやると、女の様子を上目遣いに窺いながら、がもっと弱りそうなところへと狙いを移した。
――がこれだけ身じろいでいても眠りから覚める気配すらない仔猫が、撫でられると特に悦ぶところ。
皮膚が薄くて感じやすい顎の下だ。
「ん・・・んっ・・・・・・ん――・・・っ!」
猫のそこを指先で撫でてやった時と同じ要領で、なめらかな肌の味を確かめるように舌先でつぅっとなぞり上げる。
尖らせた先端をゆっくりと往復させて甘い素肌を濡らしていけば、震えが止まらない女の指に髪をくしゃりと掴まれた。
噛みしめた唇の隙間から漏れ出る声は仔猫のそれとよく似ているが、響きは仔猫のそれには無い甘さや艶やかさを含んでいる。
やがて髪に絡みついていた女の指から力が抜け、きつく噛みしめていた唇も半開きへと変わっていく。
せつなげでか細い女の声は副長室に響き渡り、はぁ、はぁ、と悩ましげな吐息もしきりに漏らすようになった。
こうしてやった時の仔猫が心地よさそうに喉を鳴らしたのと同じように、こちらの猫もこの撫で方にはひどく弱い。
恥ずかしそうに深く伏せた睫毛の影では、まるで蜂蜜で出来ているかのようにとろりと蕩けた大きな瞳が土方をぼうっと見つめている――
「っ・・・は、ぁ・・・っ、ぁ・・・ゃ・・・ん、も・・・っ」
「どうだ、覚えたか。今教えたあたりを念入りに撫でてやると、毛玉は特に反応がいい。お前と同じだ」
「ぉ、な、じ・・・?って、ぁ、ぁ・・・んっ」
がどんな表情をしているのかを時折見遣っては愉しみながら、土方は震える素肌に強く吸いつく。
と同時に華奢な肩を押してやり、あっ、と叫んで抵抗しようとした身体を抑え込みつつどさりと畳へ倒れ込んだ。
突然に半転した視界と、背中に当たる畳の感触。
その両方に彼女が目を丸くしている隙に、着ていた上着から腕を引き抜く。
脱いだ黒服を背後へ放ってもはまだ驚きから覚めやらない様子で固まっており、そんな彼女の様子を眺めた土方は、くく、と喉奥でおかしそうに笑った。
華奢な上半身の首元までを覆い隠す隊服の衿へと手を伸ばし、そこを留めた釦をぱしりと爪弾く。
たちまちに黒布がはらりと肌蹴け、そこから目の前に現れたのは、硬く分厚い布の内側に窮屈そうに押し込められていた真っ白な膨らみ。
それと、その膨らみを丸く包み込んでいる清楚な下着だ。
しっとりと汗ばんだ谷間の甘い匂いに誘われるようにして、土方は下着の縁を飾るレースと素肌の境目に唇を寄せる。
温かくやわらかな弾力に唇が埋もれていく感触を愉しみながら、ちゅ、と軽く啄めば、それまでは呆然としていた彼女も、胸を晒されてしまったことにようやく気付いたらしい。
はぁ、はぁ、と呼吸を乱して喘ぎつつも、はろくに力の籠らない手で彼の髪を引っ張ってきた。
「――っま、まって、待ってくださっ、ぇっ、なっ、ちょっっ、っっ!?」
「声出すなっつってんだろ。休憩は延長だ、お前も付き合え」
「は?き、きゅうけい、ぇん、ちょ・・・?って・・・・・・・・・・・・〜〜〜〜っっ!!!?」
土方が発した「休憩延長」という言葉に含まれる意味。
それをどうにか感じ取り、自分を組み敷いた男がこれから自分をどうしたがっているかに気付くまで、男心に疎いは数秒ほど時間を要したようだ。
ぱちぱちと瞬きしながら不思議そうな顔をしていた女が、頭の天辺からしゅわーーーーっと、湯気でも噴き出しそうなほどに赤面する。
これまでも幾度となく見てきたそんな様子を飽きることもなく眺めつつ、土方は鎖骨のくぼみへと口づけた。
舌先を押しつけてきつめに吸いつき、綺麗に浮き上がった細い骨に沿って同じような口づけを繰り返していけば、そこに鬱血の跡を刻まれたのが解ったのだろう。
あっ、とが短く叫び、肌蹴た白い胸元へあわてて視線を向けてきた。
しかし――鎖骨に沿って散らされた薄赤い印や、ふんわりと盛り上がった胸の谷間、刺繍やレースがあしらわれた下着まで露わにされている自分の姿を、直視するのが恥ずかしいらしい。
すぐさまそこから目を逸らし、真っ赤に頬を染め上げた恥じらいの表情がおずおずと土方を見上げてくる。
「・・・・・・・・・ずるいぃぃ・・・」
「あぁ?」
「・・・・・・・・・ずるいですよぉ、こんなの・・・・・・ひ。土方さん、ずるぃ・・・」
小声でしどろもどろに答える女に目許だけを細めた薄い笑みで応えてやりながら、土方はの頭と背中に腕を回す。
髪の乱れた後ろ頭をゆっくりと、愛おしむような手つきで撫でながら、まだ何か言いたげにしているに唇を重ねていった。
どこもかしこもやわらかな女の身体の中でも格別にやわらかいそこが、土方が触れた途端にふるりと震える。
長い髪を梳いてやりながら口内へと割り入れば、熱く蠢く男の舌に侵入された唇は、んっ…、と鼻にかかった甘い声を漏らした。
「ん、ふ、んん・・・・・・っ、・・・まっ、まってぇ・・・ぁ、ふぁ・・・っひじか、さぁ」
「・・・は、ここまで来て待ったも無ぇだろ」
ぎゅう、と逆らうようにシャツの背を掴まれたが、ちいさな舌を搦め取り、敏感な奥の粘膜をちろちろと撫でる。
すると女の手はびくんと揺れてシャツから滑り落ちていき、左右に捩っていた背筋からはくたりと力が抜けていく。
薄目を開けて確かめてみれば、はもう逆らう気力も失くしているようだ。
くちゅ、くちゅ、とひそやかな水音を奏でながら、絶え間なく嬲られている舌や粘膜の感覚。
身体の内側を男の好きなように乱され、そこから広がる生々しくも甘い感覚に溺れかけていそうなは、とろりと瞼を伏せている。
目尻に透明な雫を湛えたその表情は、頭の芯まで痺れさせてしまうその感覚にすっかり身を委ねて蕩けきっているようにも見えた。
――重ね合わせた唇から切れ切れに漏れ出る、苦しそうな息遣い。釦を外され、乱された衣服。
ストラップが外れてずり落ちかけた下着から今にもこぼれそうな胸の膨らみや、捲れたスカートから覗く太腿の眩しいまでの白さ。
すっかり剥き出しにされてしまっている華奢な肩は、小さく喘ぎ続けている口内の感じやすいところを土方の舌先が掠めるだけで、びくびくと力なく震え上がる。
こんなを眺めるたびに、思わず溜め息をつきたくなるような深い満足感を覚えずにはいられなかった。
――普段は明るく賑やかな女の、せつなげに眉を曇らせた煽情的な表情。
のすべてが俺のものになった今、唯一俺だけがこんな表情を見せるを知っていて、普段のこいつからは想像もつかないほど艶やかな姿を引き出せるのだ――
「――・・・」
「・・・ん、ぁ・・・・・・だめ・・・っ」
身体の内で燻る熱が一気に高まっていくのを感じ、土方は重い溜め息混じりにを呼ぶ。
ほんの小さくかぶりを振り、震え混じりの弱々しい声音で啼いた女の背を抱きしめ、ゆっくりと腕に力を籠めていく。
腕の中に閉じ込めたとびきりのやわらかさをもっと深くまで味わおうと、搦め合わせた舌の動きを激しいものへと変えかけたのだが――
「みぃぃーーー!みぃーーーーーーっっ!」
彼の背後から唐突に響いた、か細いくせにやたらと鋭い唸り声。
その声でふと我に返ってしまい、土方は渋々ながらも動きを止めざるを得なかった。
さっきまで座っていた座布団の上。そこに放った隊服の上着が、もぞもぞとごそごそと揺れている。
不満そうな啼き声を張り上げつつも硬くて重い黒布の下から這い出てきたのは、白黒まだらのちんまりとした毛の塊。
に気を取られた彼がすっかりその存在を忘れていた、もう一匹の猫だ。
「みぃーーーっ!」
「・・・ちっ。水差しやがって・・・」
思わず舌打ちまでしてしまった土方は、畳に手を突き上半身を起こす。
まだ自分に縋って震えている女の額や頬に宥めるような口づけを落とすと、どことなくきまりが悪そうな仏頂面で振り返った。
尻尾をぴんと逆立てた白黒の仔猫は、軽やかな鈴の音と威嚇の唸り声をひっきりなしに響かせている。
寝床として使っていた人間がいきなり腰を上げたため、毬のように丸くなっていた毛玉は座布団にころりと落ちたらしい。
そこへ更に重たい隊服を被せられてしまい、ふてぶてしくて気も強いこいつは甚く御立腹なようだ。
仔猫はずっと土方を睨みつけていて、猛然と唸り声を上げている。
自分よりも遥かに巨大な相手を威嚇しようというその意気込みは、この辺りを仕切るボス猫にも劣らないものではありそうだ。
もっとも――小さな四肢を目一杯に踏ん張らせて人間に喧嘩を売ってくるちび猫の姿には、子供らしい愛嬌や可笑しさこそ感じても、ボス猫クラスの凄みや迫力はこれっぽっちも見当たらないが。
「みぃぃーーーーっ、みぁぁんっ、みぃーーーっ、みぃぃーーーーーー!」
「・・・ったく、煩せぇ奴だな。あぁ、わかったわかった、てめえの言い分はもう判った、判ったから黙れ」
「・・・・・・ずるいぃぃ。結局ひじかたさんの独り占めじゃないですかぁ、ずるいいいぃ・・・」
「――あぁ?」
怪訝そうに眉をひそめ、土方は真下の女へと視線を戻す。
すると、情けない涙目の女と全身の毛を逆立てた猫がほとんど同時に口を開いて、
「触り方教えるなんてうそじゃないですかぁぁぁ。ほんとは、そんな気最初からなかったんでしょ・・・?
これからもうずらちゃんを独り占めする気なんでしょ?」
「みぃぃぃぃぃっ、みぁああーーーっ、みゃぅぅうんっ、んみゃっ、みぃぃーーー!」
「・・・・・・・・・・・・はぁ?」
腹の底から絞り出した声で低く唸った土方は、かぁっと目を剥きを睨んだ。
・・・はぁ?何だと?こいつ今、何て言いやがった。何だそりゃ。独り占めだと?俺が?毛玉を?
「おい。念のため確認させろ」
「はい?」
「俺が独り占めしたがってんのが、毛玉だと・・・?お前、本気でそう思ってんのか」
「もちろん本気で思ってますよー!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
一体何の冗談だ?と尋ねてみたくなってきたが――真下に組み敷いた女の表情は真剣そのもの。
とても冗談を言っているようには見えないのだ。
それまでの困惑気味で感情剥き出しな表情から醒めきった真顔に戻った土方は、同じく真顔で自分を見返してくる女をまじまじと見つめる。
はぁ、と溜め息を漏らして深々とうなだれ、濡羽色の髪をがしがしと掻き毟りながら暫し考え込むような間を空ける。やがて眉をきつく顰め、苦々しげに口を開いた。
「お前なぁ・・・何だそりゃあ、どーいうこった。一体どこをどう見りゃあ、俺が毛玉を独占したがってるように見えるってぇんだ」
「だってうずらちゃん可愛いもん、土方さんもうずらちゃんの可愛さにめろめろだったじゃないですかぁ、ずっとなでなでしてたじゃないですかぁー!」
「・・・・・・・・・・・・」
「〜〜そ、それにっ、あたしがうずらちゃんに触ろうとするたびに・・・ぁ、あんなこと・・・っ。
っじ、じゃなくてとにかくっ、あたしの手がうずらちゃんに届かないように何回も邪魔したじゃないですかぁ!
ね、そうなんでしょ?ほんとはうずらちゃんが可愛いくてたまらないから、誰にも触らせてやるかとか思ってるんでしょ???」
「んにゃぅうっ、みゃうううっ、ふーーーーーーーっっ、んみゃぅううっ、みいぃぃぃーーーーーーっっ!!!」
「・・・・・・・・・・・・」
頼りないほどに軽い何かの感触が、むっとした顔で黙りこくった土方の膝裏をかりかりとしきりに引っ掻いている。
ちょうどその辺りから響いているのは、まだ怒りが収まらないらしい仔猫の声だ。
いつの間にか毛玉は、彼の脚までよじ登っていたらしい。
そのまま登山でもするように人の身体の稜線をよちよちと這い上り、あっという間に肩まで到達した仔猫は、まるで爪研ぎでもするようにシャツの後ろ襟をかりかりと引っ掻き、みゃーみゃーと騒々しく抗議までしてきた。
だが抗議を受ける側の土方にしてみれば、今は猫になど構ってやっている場合ではない。
惚れた女にとんでもない勘違いをされているのだ。
しかもその勘違いで、当の女は機嫌を損ねかけている。
こんな時に猫の機嫌なんざ知ったこっちゃねぇ、と心中で唸った土方は面白くなさそうに口端をぐっと引き結ぶ。
――そう、可愛かった。確かに可愛かった。
どうしようもなく可愛いと思った。可愛くてたまらなかった。それは事実だ。
あまり認めたくはねぇが、百歩譲って「めろめろだった」と認めてもいい。
認めてしまうには体裁のつかない話ではあるが、とはいえ紛れもない事実なのだし、そこまではいい。何ら間違ってはいないのだが、
・・・・・・なぜだ。なぜそうなる。
こんな明るいうちから、しかもいつ誰が来るかも解らねぇ場だってのに見境もなくその気になった男に押し倒され、服まで剥ぎ取られかけた奴がなぜそう思った!?
んなもんはちょっと考えりゃあ誰でも、いや、猫でも解りそうなもんだろうが。
俺が常日頃からどうしようもなく可愛いと思い、「他の誰にも触れさせてたまるか」と滑稽なまでの独占欲を密かに滾らせているのが、俺をただの寝床として認識しているだけのちんまりした毛の塊であるはずがない。
俺が毛玉を独占したがっていると勘違いして拗ねている、もう一匹のほうに決まってんだろうが・・・!
「・・・・・・・・・・・・〜〜〜〜〜〜っっ」
どっと襲ってきた脱力感と強烈なまでの虚しさに、土方はがくりとうなだれる。
そのまま女の胸に顔を埋もれさせるようにして崩れ落ちた彼は、上下からみーみーと啼きわめく二匹の猫に「うるせぇ、黙れ」と疲れきったような悪態を吐いた。
・・・・・・まったくこいつは。またこれだ。何だってぇんだ、冗談じゃねぇぞ。
毎回毎回人をさんざん手古摺らせやがって、一体どこをどう通ったらこんな捩じれた勘違いに辿り着きやがんだ・・・!?
そんな文句と罵倒で頭を一杯にした土方は、それでも怒鳴ってやりたくてたまらない気分をどうにかこうにかこらえきる。
こめかみがびきびきと音を鳴らす勢いで顔中を強張らせている鬼の副長の只ならない気配に怯えたのか、は胸元に顔を伏せた男の様子を怖がりつつもちらちらと窺っていたのだが、
「・・・えっ。ちょっ。あのー・・・土方さぁん・・・?・・・うそっ、寝ちゃった?寝ちゃったんですかぁ!?
もうっっ、人を枕にしないでくださいよぉぉぉっ」
「・・・・・・〜〜〜〜〜っ」
あわてて叫ぶと土方の髪を掴んで引っ張り、じたばたと脚まで暴れさせる。
思わず上げそうになった反論の声を拳を握りしめてこらえつつ、土方は口を真一文字に引き結んだ険しい顔つきで無言を通していたのだが、
「みゃああああぁぁんっっっ、ふみいぃぃぃっ、んにぁーーーーっっ!」
ちりちりと鈴の音を転がしながらよちよちと頭まで這い昇ってきた毛玉にも、爪を立てられ頭頂部を齧られ、みゃーみゃーと口煩く責め立てられる。
しかしどちらが何を言っているのか、彼には殆ど判らなかった。
どちらの猫にも耳の傍からぎゃあぎゃあとステレオ状態で喚かれているため、どちらの言い分も耳に突き刺さる甲高い騒音にしか聞こえない。
「ほらぁうずらちゃんも怒ってますよっ、土方さんが無視するからっっ」
「・・・・・・」
「ちょっと土方さん、聞いてる?聞こえてるんですかぁ?えぇー、また無視?無視ですかぁ?もうっ、都合が悪くなるとすぐそーやって黙っちゃうんだからぁぁ」
「にゃううううぅぅっっ、みぃぃぃぃっ」
「・・・・・・。フン、知るか」
「はぁぁ!?知るかって、何ですかぁその言い草っっ」
「お前じゃねぇ、毛玉に言ってんだ。・・・たった一匹飼っただけでも手に負えねぇんだ、他人の飼い猫なんざ知ったことか・・・!」
「っっなぁぁーーーぅっっっ、みいぃぃぃぃーーーーーーーーーーっっっ!」
それからも自分の格好のあられもなさなど忘れた様子でわめく女にべしべしと頭や肩を引っ叩かれ、頭の天辺に縋りついて叫びまくっている仔猫には、ぐしゃぐしゃと髪を引っ掻き回され。
それでも土方は頑なに、無視を決め込もうとしたのだが――怒りに火が点くまでの導火線がやけに短い鬼の副長は、堪忍袋の緒が切れるのもやけに早くて唐突だった。
二匹の猫にみゃーみゃーと喚かれ始めてから、ほんの数十秒後。
がばっっっ、とまるでバネのような動きで起き上がった彼は、頭上の仔猫をわしっと掴む。
上半身を起こしつつ腕を振り上げ、ぶんっっっ、と毛玉を外へ投げ出した。
いきなり遠投されてしまった猫は「みゃあああぁっっ」と不満そうに叫んでいたが、空中で体勢を立て直しくるりと見事な宙返りも決め、しゅたっ、と庭の奥に配された灯籠の天辺に着地する。
すると猫が着地した瞬間には早くも縁側とを仕切る障子戸の前に到達していた顰めっ面の男は、すぱぁあんっっっ、と障子戸が壊れそうな勢いで戸口を閉め切り、仔猫の再進入を断ち切った。
それはどれもこれもが、が目を丸くして見ている間の、あっという間の早業で――
「ふみぃぃぃーーー!にゃぅっ、にゃううぅぅんっ、んなぁああああああぁぁぁぅぅぅっっ」
「えっ、えぇっ・・・?ちょ、ぁ、あのぉ、ひ。土方、さぁん・・・?うずらちゃんすっごく怒ってますけど。
怒り狂ってめっっちゃくちゃ叫んでますけど。障子ばりばり引っ掻いてますけど・・・?」
「んなもんはいい、放っておけ。今は毛玉よりお前だ」
「は?あたし?あたしですかぁ?」
「あぁ。他人の飼い猫の躾けより、てめえの飼い猫の躾けを優先するべきだろ」
「・・・?なんのことですかぁそれ、土方さん猫なんて飼ってな・・・って、〜〜〜っっっ!?」
不思議そうに首を傾げながらは土方に問いかけたのだが、土方が彼女へと振り向いた瞬間、声を詰まらせ絶句する。
声も出ないほどに驚かされたのは、自分を見据えた男の顔だ。
これまでよりもうんと身近な恋人という関係になってからも必要以上のことはあまり語ってくれず、にとっては未だによくわからないところがあるこの男は、彼女に対して唐突にキレる時、必ずといっていいほどあんな顔をするのだ。
だからあの不機嫌そうで据わりきった目つきや、怒鳴りたいのをこらえて歯痒そうに噛みしめているような口許を目にしてしまえば、身体はほとんど条件反射で「逃げろ」と彼女を促してくる。
だが――沖田と並ぶほどに俊敏で優秀なはずのの身体能力は、鬼と怖れられる上司兼恋人の只ならない気配にひどく怯えきっているらしい。
がばっと跳ね起き畳に手を突いたものの、その手がずるっと横へ滑り、べしゃっ、と顔から畳に突っ伏してしまう。
その間にも不穏な形相の男はすでにどかどかと凄まじい勢いで畳を踏み鳴らし、一直線に彼女へ迫ってくるというのに――
ひぃぃぃぃっっ、と呻いたは顔中を青ざめさせて震え上がり、
「〜〜ぇっ、えぇっ?っな、どーして、なんで、っちょ、まっ、まって、何があったのかしらないけど、ぉ、落ち着いてくださ、ひじか、〜〜っっ!!?」
あっというまに戻ってきて目の前に立ち塞がった不穏な表情の男から、畳に腰を突いたままじりじりと後ずさって距離を取る。
だが焦っている彼女がその場から逃げ出すよりも、ままならない状況にすっかり痺れを切らした土方がふたたび彼女に圧し掛かり、ぐいと掴み上げた両手首を畳に縫い止めるほうが早かった。
まだ何かあわあわと口籠っている女の頬を手に包んで迫った土方は、「文句なら後にしろ」と素気なく断ってから唇を塞ぐ。
「〜〜〜〜っっ!」と絶句しつつも、は真っ赤な顔をぶんぶん振って彼を拒もうとするのだが――
「・・・ゃ、ぁ、んふ、っ・・・だ、だめ、っ、まだ、おしごと・・・っ」
そんなことを恥ずかしそうにつぶやくくせに、瞳がとろりと蕩けきった悩ましい目つきを向けてくるのだから、止めてやろうにも我慢が効かない。
も暫くはじたばたと手足を暴れさせて抵抗していたが――じきにその手も彼の背にぎゅっと縋りつき、自分を貪ろうとする男に甘えているような可愛らしい啼き声を漏らし始めた。
か細く啼いてはせつなげに逸らされる首筋にそっと口づけた土方は、布地を避けて露わにした胸へと唇を滑らせていき、新雪のようなまぶしい素肌に薄く笑みながら口づける。
と同時に、固く心に誓ったのだった。
――この先何があろうとも、このやたらと手が掛かる面倒な猫以外を飼おうなどと思うものか、と。