氷。 余程のことがない限りは自分からは送って来ないはずのひとが寄越した、珍しいメール。 そこに書かれていたのは、たったこれだけ。 『 氷 』 バイト帰りの夜道で開いた携帯のまぶしい画面には、この一文字がぽつんと浮き上がっていた。 これじゃ「買い物を頼んで来た」っていうよりは、まるで暗号通信の遣り取りでもしているみたい。 そう思いながらくすくすと笑って、メール画面を閉じる。 今曲がったばかりの角から戻って、屯所の方向に足を向ける。あのひとの携帯の番号を選んで掛け直した。
甘 い 雫
「それじゃ副長。さんも来たことだし、俺は部屋に戻りますね。 さん、後は頼むね。・・・・・あ、そーだ。もし熱が上がってきたら、遠慮なく起こしてよ」 俺が呼びに行くからさ、と、畳から立ち上がった山崎くんは、暗い障子の向こうを親指で差してみせる。 近藤さんや土方さんがかかりつけにしているお医者さんは、屯所のすぐ近所にある小さな診療所。 先生は声がやたらに甲高くて大きくて、身体は子供みたいに小さくて、いつ会っても元気な白髭のお爺さんだ。 前に土方さんが過労で高熱を出した時にも、山崎くんが真夜中に一走りして、先生を負ぶって屯所まで連れてきてくれた。 「この不養生者めが」と、耳元からよく響く声でくどくどと叱られ、反論も出来ずに布団を頭まで被って黙りこくってる 土方さんを障子の陰からこっそり眺めて、あたしと山崎君はお腹を抱えて笑い転げた。 「遅くまでごめんね。ありがとう」 「いやいや、こっちこそ。さんが来てくれなかったら俺が一晩ついてるとこだったんだから。 弱ってても人遣いが荒いっていうかさー、けっこう我儘だからなあ、この病人―――っとォ、」 顔めがけて飛んできた体温計を、山崎くんは首を逸らしてぱっと避ける。 同時に手が動いて、障子に刺さる寸前で器用にそれを受け止めた。 病人らしくない素早さで枕元にあった体温計を掴んだ土方さんが、山崎くんに向けてそれを放ったのだ。 はい、とあたしに体温計を手渡した山崎くんは、布団に潜った土方さんを横目に見ながらおかしそうに笑いを噛み殺している。 「さっきからずっとこの調子なんだよねぇ。来てくれてほんと、助かったよ。 実は俺もさっきから眠くってさぁ。人遣いの荒い上司のおかげで、昨日も一晩張り込みだったし・・・」 ふあぁ、と伸びをして大きな欠伸を漏らし、眠そうに目を擦りながら、おやすみー、と山崎くんは部屋を出て行った。 あたしは閉まったばかりの障子戸の前に、箪笥から出したタオルを敷く。 その上に小さな桶を置いた。しっとり濡れた木桶の中では、洗面所から汲んできた冷たい水がたぷたぷと波打っている。 浸したタオルを絞っていると、おい、と呼ばれた。 振り返って、膝で立って畳を擦りながら枕元へと動く。 顎まで布団を被って寝ているひとは、天井を睨みつけながらこっちに手を差し出していた。 「・・・・・・薬」 渇いてかすれた声が、苦しそうに喉から絞り出される。 掛け布団を胸まで下げた土方さんは、寝間着の袖が捲れた腕を、額の上にだらりと放り出した。 少し着崩れた黒い寝間着の襟元からは、骨張った首筋や喉が覗いている。喉元が、荒い呼吸に合わせて深く揺れていた。 半開きになった口からは、たまに、ひゅう、と、喘息を患っている人のような音が漏れてくる。 さっき山崎くんが投げらつけれた体温計は、38度を指している。 高熱、と呼ぶには微妙な体温かもしれない。けれど、熱なんて滅多に出さない土方さんにとっては その微妙な温度が結構身体に堪えるらしい。出てくる文句がぽつぽつと短くて、喋るたびに眉が歪んでいるから、 もしかしたら喉も痛いのかも。たぶん声が出しづらいんだろう。 言葉の全部が口の中で籠っていて、語尾が弱くて。口調からはいつもの迫力がすっかり抜けている。 「出せ。薬」 「駄目。薬は後で」 ぴしゃりと言い返すと、びくり、と片眉がひきつった。なんだか恨めしそうな眼をしてこっちを見てくる。 枕元に座っているあたしは、あの拗ねた子供みたいな目と視線が合うたびについ笑いそうになる。 笑いをこらえてうつむくたびに、このひとの機嫌の悪さは増していく。きっと今だって、内心では 怒鳴り出したいくらいなんだろう。こめかみのあたりが腹立たしそうに疼いている。 ほんとに可愛くないんだから。どこまでも意地っ張りというか、根っからの負けず嫌いというか。 風邪で弱ってるときくらい、大人しく人の言うことを訊いてくれたっていいと思うんだけど。 「風邪薬は後で飲むの。夕飯食べてないんでしょ？これをお腹に入れてくれたら出してあげる」 はい、とあたしはスプーンを差し出した。 スプーンの上で揺れている透明なフルーツゼリーは、薬や氷と一緒に駅前の大きなドラッグストアーで買って来た。 ご飯やお粥は食べる気はしなくても、このくらいなら食べてくれるかも。そう思って買ってみたんだけれど。 口に近付けたスプーンは手の甲で払われた。うっとおしそうに拒むその仕草にも、いつもの素早さはない。 山崎くんに体温計を投げつけた動きとは違っている。格段に遅い。 動きが鈍いというか、どんよりしている。あたしでも余裕で止められるくらいに遅かった。 腕を上げているだけでもしんどいのか、スプーンを振り払うとすぐに、土方さんの手は枕元にばたりと崩れ落ちた。 力の抜け切っていそうなだらけた指先だけは、あたしに向けて突きつけられているけれど。 「いらねえ。薬出せ」 「でもぉ」 「飯なら喰った。・・・・・・・・・・・・・・昼に」 ふうん、と不服混じりにつぶやきながら、あたしはスプーンを引っ込める。 枕元に置かれたお盆に戻して、今度は冷水で絞ったタオルを手に取る。 長細く畳んだそれを土方さんの額に乗せようとすると、スプーンと同じように拒まれた。 「これじゃねえ。薬だ。薬出せ」 「冷やしたほうが楽になるってば。あんまり反抗ばっかしてると、先生呼んじゃいますよ」 「っせえなぁ・・・・・・・こんなもんで楽になるか。うっとおしいだけじゃねえか、ジジイもこいつも」 額を隠した腕の下から覗いた目が、恨めしそうにこっちを見据えて睨んでる。 嫌がられた濡れタオルを両手で握り締めて、あたしも負けずに恨めしそうな顔で睨んでやった。 いつもこうだ。どんなに高い熱が出ていても、土方さんはこれを必ず嫌がる。 こうやって濡れた何かで冷やされるのが大嫌いなのだ、このひとは。 頭に乗せる濡れタオルとか、冷えピタとか氷枕とか。何度宛がっても全部嫌がって、全部「いらねえ」って払い除ける。 じゃあ、メールで頼まれて買ってきたあの氷。あれは一体何に使うのかというと。 あれは冷やすためじゃなくて、食べるための氷。外側から冷やされるのは嫌うくせに、内側からは冷やすものは好きというか。 これだけが土方さんの風邪の時の必需品で、他の何がなくても、これだけは欲しいらしい。今も買ってきた氷の固まりが、 あたしの手元に置かれたガラスのお皿の上で溶けかかっている。 「喰った、じゃないでしょ。昼ごはんも少ししか食べてないって、さっき山崎くんが言ってたもん。 ほらぁ、一口くらい食べてみてよー。これだって冷たいんだから、口の中が冷えて美味しいよ」 「知るか。・・・・んなもんまで。・・・・・・・・・頼んじゃ、いねえ」 はあ、と、苦しそうに胸の奥から息を吐いて、土方さんが布団の高さ擦れ擦れのところまで腕を上げる。 上向きになった手のひらが、正座したあたしの膝にぱたりと落ちた。揃えた両脚の隙間に出来た、窪みあたりに。 「いいから出せ。薬。それと。氷」 「じゃあ、せめてお水はいっぱい飲んでね。 お水飲まないと胃に悪いから。いっぱい飲んでたくさん汗かかないと、熱も下がらないし」 「っせぇ・・・んだよ。てめえは。医者でもねえのが、知ったかぶった口叩きやがって。 ・・・・・・・口煩せぇのは、・・・藪医者の。・・・・・・クソジジイだけで、沢山だ」 土方さんの手が、あたしの太腿をぱん、と叩く。着物の裾を鷲掴みにして、ぐいっと引いた。 苛立った色を帯びた目が、じいっとこっちを見上げてる。寄越せ、と無言の催促を繰り返していた。 仕方なく薬を手に取って、パチン、と薄い銀色のホイルを押して破る。中から出した薬を、膝に置かれたままの手に乗せようとした。 すると、だらりと広がっていた手のひらは、あたしの手を薬ごとぎゅっと握ってきた。そのまま自分の口まで運んだ。 半分開いていた口に、握ったあたしの手を押しつける。触れた途端に、唇が親指をぱくりと呑み込んだ。 指先に土方さんの舌先がざらりと当たる。その冷たさに驚いて、肩が飛び上がりそうになった。 「！つめたっっ」 「・・・・・・・・・。生温りぃ・・・・・」 あたしの指に歯を立てて咥えた土方さんが、不味そうに顔を顰める。何も言わずに手首を掴んで引き寄せた。 湿った口の中が動いて、指を軽く甘噛みされる。氷で冷えた舌先が、爪先を絡め取るように舐めた。 「っっ！」 その感触で震えた手がふにゃっと緩んで、握っていた薬が口の中に落ちる。ごくり、と喉が動いて、水も無しに錠剤を飲み下した。 何も言えないあたしは、息をつくたびに大きく上下する喉の動きに、目が釘付けになっていた。なぜかどきっとしたのだ。 口に含まれ、土方さんの喉の奥に呑み込まれていったのが、薬じゃなくて、このひとに噛み千切られて溶けた 自分の指のような気がした。 咥えた指をゆっくり口の中から引き出すと、土方さんは何も言えずにいるあたしの顔を、 じろりと無遠慮な目で見上げてくる。だるそうに深い溜息をついた。 「・・・・・・・氷」 天井から届く明かりがまぶしいのか、光を遮るように腕を額に乗せる。きつく眉間を寄せて目を閉じた。 氷、と、もう一度、かすれた声で繰り返して、もう片腕はまたあたしの膝の上に手を投げ出す。 置かれた手の甲がだるそうな仕草でポンポンと膝を打って、さっさと寄越せ、と急かしてくる。 「・・・・・・・・お、お水は？」 「いらねえ。氷。」 「氷は駄目。もう何個食べたと思ってるんですかぁ。喉とお腹だけ冷やしたって、熱は下がらないんだからね」 「氷」 「でもぉ」 氷、氷、氷。 何度訊いても耳を貸してくれない。わずかに動くだけの口から出てくる言葉は、ただひたすらに、氷、の一点張り。 「うるせぇ」も「寄越せ」も、言い訳も文句も、いつも言葉の端々に潜ませてくる、ちょっとした皮肉も出てこない。 弱っているところを人に見られるのが心底嫌いな、土方さんのことだ。 口では絶対に言わないだろうけど、これは本当に具合が悪いんだ。 あたしは呆れ半分、感心半分の苦笑いで、恨めしそうに口端を大きく下げた、大きな子供みたいなひとを見下ろした。 しばらくの間、言い返すのをやめてただ黙って見ていると、しびれを切らした土方さんは あたしの着物の裾を掴んで、ぐいっ、と引っ張った。 「氷！」 声を荒げて命令するけど、肝心のその声はかすれているし通りが悪い。 いつもの気迫が声に籠っていないのは自分でも判っているのか、睨んでくる目は不服で一杯だ。 開き気味な瞳孔の奥が、こんなときでも怒りでジリジリと燻ってるところが、まあ、いかにも土方さんらしいというか何というか。 どうしようかなあ。 氷なんて、別に身体に悪いものでもないだろうし。病人が食べたいって言うなら、好きに食べさせてあげていいのかもしれないけど。 でも、ただでさえ押しが強いこのひとのことだ。一個許したら最後、一袋全部食べるって言い出しかねない。 それとも、欲しがるぶんだけ気が済むまで食べさせて、早く眠ってもらったほうがいいのかな。 ちょっと困りながら、不満タラタラでこっちを睨んでるひとと向き合っているうちに。あたしは首を傾げたくなってきた。 見ているうちに気付いたのだ。今の土方さんて、どこかで見る何かに似ているなあ、と。 「・・・・・・あれっ。何だろ。何だっけ」 「あぁ？」 「いえ、何でもないんですけどぉ。ちょっと待ってください。もう少しで思い出せそ・・・・・・・・・。あ」 そうか。そう、あれだ。あれに似ているんだ。 スーパーとかでたまに見掛ける子供。お母さんに欲しいお菓子を買って貰えなくて、駄々をこねて焦れてる子供。 拗ねてお母さんの足元で床に寝転がって、「買ってくんなきゃヤダああああ！」って、ジタバタ暴れている子供みたいなんだ。 眺めたこっちがつい可笑しくなって吹き出しちゃうような、あの甘えた姿。ちょっと憎たらしくて、でも、あんまり迫力のない表情も どことなく似てる気がする。 「ふふっ」 「・・・・・ぁんだ」 「え？別にいぃぃ〜。何でもないですよぉ〜〜」 「何でもねえってツラか、それが。鏡見てみろ。目も当てられねえくれー緩んでんぞ」 「えぇ―――っっ、やだなぁもうっ、緩んでても可愛いだなんてぇ！本当のことをそんなにはっきり言わないでくださいよぉ〜〜！ そんなこと、言われなくてもよ―――くわかってますからぁぁあ」 「ああ、緩んでるな。緩みきってるな、てめえの頭のバカネジが。つーか出てけ。うぜぇから出てけ。 身体クネクネさせて照れてんじゃねえ」 「やだなあもォ、照れてなんてないですってばぁ。ただちょっと、今日の土方さんは子供みたいで面白いなあって」 にやにやした含み笑いを浮かべて口許を抑えたあたしは、こめかみをビクビクさせてる土方さんを眺めながら、 ちょっとした、・・・ううん、正直言えば、天狗張りの鼻高々な優越感に浸っていた。だって、こんな楽しい機会は滅多にない。 何が起きても涼しい顔で、あわてるあたしを馬鹿にした顔で眺めてるこのひとよりも、ずっとずっと優位に立ててるみたいじゃない。 「・・・・・・・・いいかおい。そうやって笑ってられんのも今のうちだぞ。よく言うだろうが。 人の災難を笑った奴にはなぁ、面白がったなりの報いが必ず返っ・・・・・・・コラ。どこを見てんだどこを。 ぁんだその呆けたバカ面は。どこ見て笑ってやがる。聞いてんのか、おいっ」 怒った土方さんが着物を引っ張る。握った裾に皺が出来て、帯から下がちょっと着崩れそうになるくらいの、強い力で。 でも、その脅しにも、機嫌の悪さが滲み出た声にも、あたしを頭の上からガツンと抑え込もうとするいつもの気迫は籠っていない。 構わずあたしは笑っていた。熱で苦しそうにしてるこのひとには悪いけど。思わず顔がニヤついちゃうくらい、 すっっっごく気分がいいんだもん。 こうやって着物を引っ張られているだけで、このひとのお母さんになったみたいな気分になっちゃう。 さっきから何となく思ってたんだけど。 もしかして、あたし。今。このひとに、甘えられてるんじゃないのかなあ。 だってよく似てるもん。すごく似てるもん。 さっき思い出した、スーパーでお母さんに駄々をこねてる子供の姿を見ている時に感じる、あの感じに。 こうして眺めてるだけで胸の中がきゅんとして、思わず頭を撫でてあげたくなるくらいときめくんだもん。 母性本能をビシバシくすぐられるこの感じが、すっごく良く似てるから間違いないと思うんだけど。 どうしよう。見れば見るほど似てる気がする。 これって勘違いじゃないよね。あたしまで熱が出ておかしくなってるんじゃ、・・・・ないよね。 この、可愛げなんてそっくりそのままお母さんのお腹の中に置きざりにしてきたよーな、一年中険しい顔ばっかりしてるひとが。 局内の（約一名を除いて）ほぼ全員に畏れられてる、鬼の副長土方さんが。 駄々をこねてお母さんに甘える、腕白な子供とか。飼い主の手に拗ねて噛みついてくる、 甘ったれでやんちゃな子犬みたいに見えるんですけど・・・・・・・・・・ 「・・・・・・・・・・・か」 「あァ？」 「か。・・・かっ。・・・・・・・・・・・っっ！」 「・・・・・？ァんだ、おい。何だ。何の発作だそれは。何で肩がウズウズしてんだ、お前」 「かっっっ。可愛いいいいいぃぃぃぃ！！！！！」 「はァ！？・・・・っておい。何を・・・！んぐっっっ！！」 抑えきれない妄想で頭の中を一杯に膨らませたあたしは、がばっと土方さんに飛びついた。 頭を二の腕の中に囲って、ぎゅーっ、と力の限りに抱きしめる。 「ゃぁあぁ―――んんんっ。どうしようぅぅ。今日の土方さんっっ、可愛いぃぃ〜〜〜！」 布団の上からばたっと倒れ込み、まるでペット命の愛犬家が家族同然に大事にしている犬を可愛がる時のように 硬めの真っ黒い毛並・・・じゃない、硬めの黒い髪に顔をスリスリして押しつけながら、はしゃいで思いっきりじゃれつく。 抑えた頭を揉みくちゃにして、普段やったら即座に斬りかかられるのは間違いなしなペット扱いの悪ふざけで 「よちよちっ、いいこでしゅねえ〜！」と、赤ちゃん言葉を連発していたら、胸元からモゴモゴとくぐもった、なんだか切羽詰まった うめき声が。何だろう、と上半身を少し浮かせて見てみると、あたしの身体に顔を押し潰されて喘いでいる土方さんが 息も絶え絶えに何かを訴えている。「ふぐ！ふぐうゥゥ！！」と聞こえたけれど、よく聞いてみると全然違った。 「死ぬ！死ぬうゥゥ！！」だ。 「！や、やだっっ、ごめんねっ、大丈夫！？」 慌てて身体を離した途端に、大きく息を吸った土方さんは身体を折り曲げ、ゲホゲホと盛大に咳込み出した。 全然力の籠っていない手であたしの顔を掴んで押し退けると、腕を大きく振り回す。「どけ」と言いたいけど声が出ないらしい。 従って素直に起き上がり、全体重をかけて乗っていた身体を退ける。「ご、ごめんね？喉苦しくない？氷、食べる？氷？」と 殴られるんじゃないかとヒヤヒヤしながら氷の載ったお皿を差し出し、笑顔を引きつらせながらご機嫌伺いに励んでみたんだけど。 ・・・・・・・・・・・今さらすぎる。何を言っても無駄だった。 ゴロンと布団の端まで転がってあたしから目一杯離れた土方さんに、頑として背を向けられて拒否された。 口も聞きたくねえ、出てけ、と強張った背中が放つ無言の圧迫感がひしひしとプレッシャーをかけてくる。すっかりお冠状態だ。 「帰れ」 ようやく咳が収まった土方さんの第一声。というか、まるっきり命令だ。否応なしの強い口調だった。 顔も見たくないほど怒っているのか、声も背中もすっかり硬く強張っている。 やだ、帰らない、とつい出そうになった言葉を喉の奥でぐっと引き止めた。ここで下手に逆らうのはマズい気がする。 この流れのまま突き進んじゃうと、もっとヘソを曲げられて、本気のケンカにまで発展しちゃうかもしれない。 少し口籠って考えてから、土方さんの方へ身体を乗り出して布団の端を掴む。背を向けている耳元に、 おずおずと小声で切り出した。 「ご。ごめんね。あのぅ。何かね、土方さんがね。いつもと態度とかちょっと違うのが、意外っていうか、・・・・・・・・ あの。だから。・・・甘えられてるみたいで、・・・・・・・嬉しくって。・・・・・・ふざけすぎちゃって、つい」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・まだ怒ってる？・・・・・え、や、あの、そ、それはそうだよね、もちろん怒ってるよね？ もうあんなことしないから。帰れとか言わないで、ね？今日は朝までここにいさせてよ。今のはあたしが悪かったから。謝るから」 「何度も言わせんな。帰れ」 「でも。だめだよ、前に熱出した時だって、夜中が一番苦しそうだったし。またあんな風になったら・・・・・・」 心配だもん。 そっぽを向いている耳元に向かって、ぽつりとつぶやく。 土方さんの身体が、布団の中でごそっ、と身じろぎした。強張り気味な肩を竦めると、衣擦れの音が静かな部屋に大きく響いた。 十二時を過ぎたからもうみんな眠ってるんだろう。あたしが来た時にはまだ聞こえていた物音も、誰かの声もすっかり止んでいる。 「・・・・・・・・帰れ。夜中に枕元で騒がれたんじゃ、気に障って仕方ねえ」 「そんなこと言わないで。もう騒がないから。一晩黙って大人しくしてるから」 はい、と、寝ているひとの肩越しに手を差し出して、氷のお皿を顔の前に出す。 「溶けないうちに食べてね。他に欲しいものとか、ない？お布団は足りてる？寒くない？ あ、そうだ。あのね、厨房にね、山崎くんが作ったお粥があるんだって。もしお腹に入りそうだったら言ってね。 タオルもいっぱいあるから、汗掻いたら言って。あ、着替えもあるよ。もし着替えるのだるかったら手伝うから」 「・・・・・・よくもまあ。言えたもんだな」 「え？」 「言った舌の根も乾かねえうちから、ベラベラと。何が黙って大人しく、だ。・・・ったく。言った傍から始めやがって」 「だってぇ。・・・・・・・・・・・・・土方さん、怒ってるし。帰れとか言うし」 「怒ってねえ。呆れきってんだ」 「・・・・・・・・・・・もっと悪いじゃない」 「いいから帰れ。余計な世話ぁ焼くな。こんなもん、ただの風邪じゃねえか。薬飲んで一晩寝りゃあ治んだろうが。 それをお前に後ろでビイビイ騒ぎ立てられたんじゃ、眠気もどっかにすっ飛んじまうじゃねーか。 ・・・つーか。・・・・・・・・・・・・・・あれだ。お前がいたんじゃ、・・・・・・・・・」 ボソボソと語尾を低めて途切れさせた土方さんが、何か言いたくなさそうな気配で黙り込む。 そのままじっと黙っているから、こっちはどうしたらいいのか、わけがわからなくなってくる。 困り果てて訊き返した。 「あたしがいたんじゃ、何？あたしがいたら何がだめなの？ねえ。何で？・・・あたし。そんなに嫌がられるくらいうるさかった？」 「・・・・・・・別に誰も。・・・・・・・・そこまで言ってねえ」 いちいち混ぜ返してくるんじゃねえ。 口の中で歯切れ悪くつぶやきながら、土方さんはお皿に手を掛ける。 なんだか面倒そうな荒い仕草で、ぐいっと自分の目の前まで引っ張った。 「だから。今のはあれだ。あれじゃねーか。お前がそうやって考えなしに構ってくっから。 ・・・・・・・・・・・・・・・・その度に騒がされたんじゃ、熱が。下がる気がしねえだろーが」 「だってぇ。・・・座ってる以外にすることがないんだもん。ほとんど山崎くんが先に用意してくれてたから」 お皿の氷に伸びていく長い指を後ろから眺めながら、ちょっと拗ねたくなって口を尖らせる。 あたしがこの部屋に入った時には、すでに山崎くんが土方さんを着替えさせて体温も測って、看病に必要なものを 準備万端に整えた後で。あたしが唯一土方さんのためにしたことといえば、ここへ来るときに薬を買って来たことくらいのものだ。 ・・・・あーあ。時々自信がなくなるんだけど。 女のあたしよりもマメで器用で、この気難しいところがある頑固なひとを、さりげなく面倒を見るのが すごく上手な山崎くんのほうが、実質的には「土方さんの彼女」に一番近いんじゃないか、って。 「・・・・ねえ。土方さん」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「土方さん。ねえ、もう寝ちゃたの？」 後ろから顔を覗き込んで、肩につかまってグラグラと揺らしてみた。 「ったくよォ。・・・毎度毎度、こっちのこたあ聞いちゃいねえ・・・・・」 とか何とか、顔を顰めてブツブツとぼやいてる土方さんの口許からは、ボリボリと氷を噛み砕く音も聞こえてくる。 「こんだけ揺らされて誰が寝れんだ。つか、頼む。頼むから離れろ。俺を寝させろ」 「ねえ、何かしてほしいこととか、ない？」 「ねえな」 「答えるの早すぎ。今のって、全然考えないで反射的に答えただけじゃん！」 ムスッとして口を引き結んだ顔をお皿の端で何度も突いていたら、その手を土方さんが振り払い、お皿をあたしから取り上げた。 少し黙った後、ちっ、と舌打ちが聞こえた。 「・・・・・・・しくじった」 「はぁ？」 「・・・・・薬くれえ、山崎に買いに走らせりゃあ済んだってえのに。・・・・・・・・・・・」 あたしを呼んだことをそこまで真剣に後悔しているのか、一層背中を強張らせた土方さんは 投げやりな溜息を深々と吐き出した。 「」 「はい？」 「お前。俺にやれって言われりゃあ。・・・・・・何でもやれんのか」 「え」 「さっきのあれだ。してほしいこたァねえかって。言っただろ」 「・・・！うんっ」 よかった。また「帰れ」って言われたらどうしようかと思った。 ほっとして胸を撫で下ろしながら、布団を被った肩に飛びついた。 「あたしに出来ることなら何でもするよ。何でも言って？」 すると。土方さんの手が上がって、指先があたしを手招きするようにひらひらと動いた。 何だろう、と身体を乗り出して顔を覗き込もうとしたら――― 「っっ！」 着物の袖を掴まれた。と思ったら、柔術の技みたいにぐいっと引っ張られて、背中と頭の後ろを伸びてきた腕に抑えられる。 頭を抱え込まれた途端に、視界がぐるん、と半回転した。瞬きする間すらなく布団に転がされる。 気づいた時には、あたしは丸く見開いた目で呆然と天井を見上げていた。 身体が二つの感触の間に挟まれている。敷かれた布団が背中を包む柔らかい感触と、腰の上に跨っている熱い身体の重みに。 「ちょっ。ゃ、だ、・・・っ、ひ。土方さ・・・・・っ」 どさっと倒れて覆い被さってきた身体が、ぐったりと脱力する。骨張った硬い胸の重さが預けられて、あたしの胸を押し潰す。 首筋に当たっている口許から、荒い息遣いが漏れてくる。 鎖骨の少し上に、唇が吸いついた。ちゅっ、とかすかな音をたてて肌を甘噛みしてから、噛んだところをきつく吸う。 はあ、と唇からすごくだるそうな吐息がこぼれて、あたしの首筋をくすぐった。 「――――あっ」 口から飛び出した声が甲高く跳ねる。びくん、と背筋を震えが走り抜けた。 熱い。火照った吐息が肌の奥まで、深く侵食するように染みていく。 後ろ頭とうなじを持ち上げている手のひらも、腰を抱いている腕も。 いつも高めな土方さんの体温が、今日はいつもよりもっと熱い。 肌が直に触れた部分が、どこも灼けつきそうになるくらいに。 触られたところに残った熱さが身体に染み透ってきて、あたしまで熱を出してしまいそうになるくらいに。熱い。 「・・・・・・・――――せろ」 「・・・・・え・・・・・・・・っ？」 かすれた声で何かを言われたけれど、小さすぎて聴こえなかった。 聞き返すと、土方さんはあたしの耳元まで顔を寄せてくる。唇が耳に触れて、からかうように耳たぶを噛んで。 伸びてきた舌が、あたしの耳に入ってくる他の音をすべて塞いでしまった。 抱かせろ。 土方さんが熱い吐息を吹き込む。一緒に吹き込んだ言葉は、耳の奥まであたしを埋め尽くした。 低くて気だるそうな声と、思いもしなかった言葉のせいで、頬が一瞬で火照り出す。頭の中までかあっと火照り始めた。 「・・・・・・・で。でも・・・・・ゃ、だって。・・・・・だめ。だめだよ、今は」 「嫌か」 「・・・・・・・・・・・・い。嫌、とか、・・・だ・・・だって、そういうことじゃ、なくてぇ。土方さん、熱が」 「嫌なら出てけ。帰りゃいいじゃねえか」 「・・・・・・・っ」 しどろもどろになって困っているうちに、土方さんは膝を立て、抱き締めたあたしの身体ごと横へ転がった。 一瞬で上下の位置が逆になる。土方さんの身体の上に覆い被さって、脚を開いて跨るような格好になっていた。 頭の後ろやうなじが、広げた指の硬さとその熱さで覆われている。 髪をぐしゃぐしゃに掻き乱しながら、緊張して固まってきた首筋をほぐしてくれる。その感触が気持ちよくて、 瞼がとろんと重くなっていく。背筋がへなっと崩れそうになって、身体からは自然と力が抜けていった。 腰を手で抑えつけられて、着物が半分ずれて上がった下腹に、熱くなっている部分を強く圧しつけられる。 たまにびくん、と動くそこを擦りつけられているうちに、あたしの身体まで勝手に疼きはじめた。 腰を緩慢に、わざとゆっくり上下させるその動きに乗せられて、身体が圧しつけられた熱さに流されたがって。 すっかり逆らえなくなった。 心の中ではまだ迷っているのに。 身体はもうこのひとの熱に溶け始めている。逆らえなくなってしまっている。 土方さんがちょっと大きく動くだけで身震いが起こって、そのたびに太腿までびくっと震える。あ、と鼻にかかった声が漏れてしまう。 赤らめた顔を上げると、こっちを見下ろしていた土方さんと目が合う。 見られてたんだ、と思ったら、恥ずかしくて。どういう顔をしていいのかもわからなくて、今すぐ消えてしまいたくなった。 土方さんは何も言ってくれない。ただ黙って、熱のせいで少し潤んだ目をじれったそうに細めて、じっとこっちを見ているだけ。 あたしは仕方なく口を開いた。やっとの思いで喉から絞り出したのは、消えそうでくぐもった小さな声だ。 「・・・・・・・ここに、・・・居ても。・・・・・いい・・・・・・・・・？」 「あぁ？」 「いっ。言うとおりにしたら。帰らなく、て。・・・・いぃ、・・・・・・・の？」 思いきり赤らめた頬や、泣きそうになった目を気にして視線を逸らしながら、蚊が鳴くようなか細い声で聞いてみた。 その答えが意外だったのか、土方さんがこっちを覗き込んでくる。 あたしの顎に指を掛けて、頬をぎゅっと掴んだ。顔を引き寄せようとするから、大きくかぶりを振って拒んだ。 この近さで表情を確かめられているのだって恥ずかしいのに。もっと近寄られたら、恥ずかしすぎて死にたくなる。 追い返されなかったことにはほっとしていたけれど、少し拗ねたくなっていたし、ムッとしてもいた。 あたしの頬を掴んでいる土方さんの手。 この、よく見ると傷だらけの硬い手を、皮膚だけ摘んできゅっと抓ってやりたくなってくる。 このひとはいまだにわかってない。 いつも、何でもお見通しですって顔をしてあたしを眺めているくせに。なのに、わかってないんだ、土方さんて。 他のことになら目敏く勘を働かせるくせに。 こういう答えづらいことを求められた時には、決まってあたしに顔から火が出るような思いをさせる。 どうして気づかないんだろう。こんなに長い間、一緒にいるのに。 偶然拾われてからずっと、誰よりもあたしに近いところにいてくれたこのひとは あたしの弱いところだって、誰よりもよく知っているはず。 それなのにまだ、気づいてくれない。 何だって一目で見抜いてしまう鋭い目を持っているくせに、こんなときには妙な鈍感さであたしを困らせる。 どうして気づかないんだろう。 これだけ長い間一緒にいたら、どんな男のひとだって、この都合の良さに少しくらいは勘づきそうなものなのに。 なのに、それでもまだわかってない。気づいてないんだ。 このひとが望むことなら、あたしはどんなに恥ずかしいことだって拒めない。 どんなに恥ずかしくても逆らえなくなる。 「そんなこと出来ない」と逃げ出しそうになるようなことを怯えながら受け容れたあとには、あの大きな手が あたしを包んでくれる。おでこに唇がそっと落ちてきて、いつになく優しい仕草で、労わるように頭を撫でてくれる。 あの頭の中まで蕩けそうになるご褒美を貰う一瞬に感じる嬉しさを、身体がすっかり覚え込んでしまっているから。 だから拒めない。何だって許してしまう。このひとが欲しがれば、何を求められたって、土方さんの言うとおりになるのに。
「 甘い雫 （前編） 」text by riliri Caramelization 2010/01/03/ ----------------------------------------------------------------------------------- *後編は大人限定です* next