――街中が真っ暗になってから着いたそこは、深海の底でまばゆく輝く竜宮城みたいだった。 数階建てのまっしろな御殿の壁中に描かれた、金銀の波模様や水泡。魚や貝の飾り細工。 正面はすべてガラス張りで、建物の下から上まで、真ん中に吹き抜けが通った回廊造り。 外からも見える建物内の豪華な様子が、きらきらと夜の歓楽街を照らしている。 玄関口に停まる高級車やタクシーが、次々と人を降ろしては走り去っていく。どの人も趣味良く着飾った 裕福そうな人たちばかり。一階のロビーも二階のレストランも、そんな人たちの姿で溢れかえっていた。 こうして外から目にしただけでも、あたしみたいな貧乏育ちの娘には縁のない場だってことはよくわかる。 おかげですっかり気後れしてしまって、隣のひとの影に隠れるようにして尋ねた。 「・・・ちょっ。・・・・・土方さぁん。ちょっと訊いてもいいですか」 「何だ」 「・・・何ですか、ここ」 「何ですかってお前、んなもん見りゃわかんだろ」 土方さんは眩しそうに眉根を寄せて、やや細めた目でその建物を見上げる。 新しい煙草に火を点け終えると、無表情に言い張った。 「風呂屋だ」 「そんなわけないでしょ!?」
蜜 月 *2
その建物はどう見たって、街の銭湯的な、「風呂屋」なんて気安く呼ばれるようなものじゃなかった。 自然に囲まれた山奥の温泉宿と比べるのも何だけど、テレビで見たあのお宿の数倍は大きい。 どれだけ控えめに見積もっても、あの十倍は立派そうな旅籠だ。建っているのはこの歓楽街でも 中心に当たる一等地だし、相当の大店なんだろうな。 背伸びして見上げた最上階には、重厚感たっぷりな大看板が掲げられてる。 「温泉旅籠 湯処夢籠」 ・・・ライトが当たってきらきらしてるよ。めまいがするくらいまぶしい金色で書いてあるよ・・・! 「わぁぁ・・・、何これ、すっごい旅籠ですねぇ。お金持ち以外はお断りってかんじですねぇ」 「そうでもねえぞ。俺でも出入り出来る程度だ」 そう言いながら、土方さんは細い煙をゆっくりと吐いた。吐き終えた途端にぼそりと一言、 「行くぞ」と言い置いて歩き出す。その足が向かう先は目の前の旅籠だ。 「はぁ!?入るんですか、ここに!?」 「入るに決まってんだろ。何のためにここまで来たと思ってんだ」 「なっ、何の冗談ですかそれっっ!入れないですよこんな豪華なところ、こんな汚い格好してるし!」 「心配すんな、さっきの電話で話はついた。多少汚れてようが追ん出されやしねぇよ」 「追い出されますよ明らかな威力業務妨害ですよ!こーいうところは基本的に刺青入ってそーな危ない人は門前払い なんですよ?見た目ヤクザで煙草臭くて血まみれな土方さんなんて絶対入れるわけな、〜〜っ!ぃっったぁああいぃ!!」 ぶんっと奮った拳であたしの頭をドカッと殴ると、人並み外れて図太いひとは 平然と自動ドアを抜けていった。 「土方さん!?や、やだ待って、こんなところで一人にしないでぇぇ!!」 「尻込みしてねえでお前も来い。俺達がこのナリで表に突っ立ってたんじゃ、却ってここの商売に障りが出る」 肩越しに振り向いてあたしを睨むと、土方さんは何の躊躇もなくまぶしいロビーを突っ切っていく。 ロビーにはフロントを囲むようにしてソファが設置されていて、そこで談笑していたお客さんたちが 真選組の制服姿に騒然としているけど、…びっくりするのも無理はない。目つきが悪くて咥え煙草で、 しかも顔や頭に血糊をべっとり貼りつかせたヤクザまがいなおまわりさんが、場違いにもこんな所に乱入してきたんだもん。 ガラス越しの信じられない光景に、うわぁぁ、とあたしは目を覆った。 ・・・・・・・入っちゃった。本当に入っちゃったよ土方さんてば。ああっ、もう見ていられない。 声掛けられたフロントのお姉さんが凍りついちゃってるよ・・・!! 全面ガラス張りの玄関口に縋りついて、慣れた様子でフロント前に立った背中を はらはらしながら目で追っていたら――、 がしっっ。 大きくって柔らかい身体に、後ろからいきなり抱きつかれた。「ひゃあっっ!?」と背中を跳ね上がらせて振り向くと。 「・・・・・・・・・・・・・・・よかったぁ・・・」 「・・・、は?」 「・・・あたしたち、あれからずっと心配してたんだよ。・・・でも、もう大丈夫だね。元気そうでよかった。よかったぁ・・・!」 「へ?あ、ぁあ、あの?・・・・・・っ、えぇ?」 「よかった。よかったぁ・・・!」と、頭の後ろにくっついたあったかい唇に涙声で繰り返された。 すんなりと長い腕に、ぎゅう、と強く抱きしめられる。真っ赤な服の袖からはふんわりと、 縁側で日向ぼっこしてるときみたいな懐かしくっていい匂いがしたんだけど、 ・・・・・・・いや待って。ちょっと待って。そんなことはこの際脇に置いといて―― ――だ、誰? 誰なの、この人! 「・・・あぁ、ごめんごめん、苦しかった?あたし、部活で鍛えてるから力強くってさ・・・」 ぱっと離れたその人――どこかの学校指定らしい赤ジャージ姿の女の子は、涙ぐんだ目を細めてにっこり笑う。 着ているジャージの袖口で目元をごしごしと拭く動きが勢い良くて無造作というか、仕草が元気で男の子っぽい。 抱きつかれた時の感覚だと、土方さんと同じくらいの身長はあるんじゃないかな。腕も脚も無駄なく鍛えられてて、 すっきりした少年ぽい身体つきしてる。でも、ショートカットの前髪から覗く生き生きした瞳は女の子っぽくて愛らしい。 だけど、…こんな印象的な子なのに、あたしにはちっとも見覚えがない。誰かと間違えられてるのかな―― 「急にごめんよ、姉さん。どこか痛めなかったかい?」 「えっ、…あぁ、そんな、全然大丈夫です。あたし結構頑丈だから。 ・・・・・・・・ええと、それはいいんですけど。それよりも、あの〜・・・」 「・・・ちょっと、何だいその顔。何をそんなにびっくりしてるのさ」 あれっ、とつぶやいたその子が、首を傾げながら顔を寄せてくる。 澄んだ瞳の目力に押されてたじたじになっていると、彼女は何かに気付いた様子できょとんと目を丸くした。 やがて、ぷっ、と可笑しそうに吹き出して、あたしの肩をぱしぱし叩いて。 「ひょっとして姉さん、あたしのこと忘れちまったのかい?」 「・・・へ?」 「ははっ、やだなぁもう。なーんだそうか、そういうことか。 まあ覚えてなくたって仕方ないけどさぁ。それにしたって薄情すぎやしないかい、姉さん、・・・・・た、ら・・・・・・・、」 っっ、と大きく息を飲んだその子は、しまった、って顔して口を押えて周りを見回す。 「どうしよう、話しかけるなって言われたのに〜〜!ば、バレたら怒られちまうよ・・・!」なんて、 うろたえ気味に頭を抱えてるところへ、 「――お嬢さん!」 自動ドアのほうから、困っているような男の人の声が飛んできた。 竜宮城風な建物からいそいそと数人が走り出てくる。全員がこの旅籠の制服らしい青い絣地の着物姿だ。 「ちぇっ。もう見つかっちまったよ・・・」 女の子は肩を竦めて、あたしの後ろへささっと隠れる。――隠れる、っていってもこの子のほうが うんと背が大きいから、しっかりはみ出して見えてるんだけど。 「困りますお嬢さん、そのような格好で表へ出られては・・・!」 「仕方ないだろ今帰ったばかりなんだから。それにこの格好のどこがいけないってのさ、これだって学校の制服だよ?」 「いいえいけません。これまで何度も申し上げましたが、少しはご自身のお立場というものを」 「はいはい、わかったよこれからは気を付けるって。ほら、堅苦しいこと言ってないでこのお姉さんを ご案内してよ。いつも社長に言われてるじゃないか、旅籠では何を置いてもお客様へのもてなしが第一なんだろ?」 笑って受け流す女の子の言葉に、全員がはっとした顔になる。 この中で一番古株そうな物腰が柔らかいおじさんが、深々と頭を下げてきて。 「お見苦しいところをお目にかけまして、まことに申し訳ございません。 わたくしは当旅籠の番頭にございます。土方さまのお連れ様でいらっしゃいますね?」 「は、はい、・・・〜〜じゃなくて、いえ!ぁ、あのっ、お連れ様なんて、そんな!」 そんなそんなそんなそんなっっ、そんなのありえませんから!!! ぶんぶんと手と頭を振って否定した。違う違う違う!だってあたし、こんな立派な旅籠で 「お連れ様」なんて呼ばれるよーな立派なお方じゃないし!単に土方さんのオマケっていうか、要はただのパシリだし…! するとおじさんは、ああ、と納得がいったように頷いた。あたしを眺めて何を思ったのか、柔和そうな目尻をさらに下げると。 「これは失礼いたしました。もしやとは思っておりましたが、やはり奥様でしたか」 「はぁ!!!??」 然様でございましたか、とおじさんは揉み手しながらこくこく頷く。 「真選組の制服、ということは・・・職場結婚でいらっしゃるのですね。いやいやこれは御目出度い!」なんて、 にこやかに頷きながらこくこくこくこく。さらに「お子様のご予定は?」なんて開いた口が塞がらないよーなことまで 尋ねられたけど、こっちはすでに頭が真っ白、とても質問になんて答えられない。 とんでもない誤解から出たおじさんのひとことが頭の中でぐわんぐわぁんと鳴り響いてて、何も考えられなくなってる。 竜宮城風な旅籠のまぶしいくらい明るいガラス窓には、目も口もぽか―――んと開ききった、 目も当てられない間抜けな顔が映ってる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・あれっ。 誰かと思ったらあたしじゃん、あれ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って、そうじゃなくて、 「〜〜〜お!?ぉぉおおっ奥さっっっ!!!??」 「いやぁ全く存じ上げませんでした。しばらくお見えにならない間に土方さまが御結婚なされていたとは・・・」 「ごけっっ!!?〜〜〜〜〜ちっっっ、ちち違いますぉおおくさまって、なんてそんなっ、ぇえええええ!!?」 すりすりっと揉み手してる手にひしっと縋って、わなわなと震える口で叫びまくった。 そんな、そんなそんなそんな!!!奥様だなんてとんでもないよ!とんでもない誤解だよ!!! ところがおじさんは、見た目よりずっと心臓の強い人らしい。 不審な小娘なんかの態度には全く動じなくて、笑顔にも全く崩れがなくて―― 「ささ、どうぞこちらへ。湯殿の用意はすでに整っておりますよ、奥様」 「違うぅぅ、違います完全に誤解ですぅぅぅ!!って、ふぇええ!?な、なんで、ゆゆっゆどのって???」 「知らないのかい姉さん。湯殿ってのはお風呂のことだよ」 「っっそれは知ってる!そうじゃなくて!〜〜〜〜っま、待ってくださいあのっひ、土方さんはっ」 「当社の社長と御面談中です。その間のお世話を仰せ付かっておりますので、どうぞこちらへ」 「えぇぇ!?いえいえいえ!駄目ですそんなっ、入れません!こんな立派な旅籠にこんな汚い恰好じゃ申し訳ないしっっ」 「いえいえいえ!お召し物の汚れなどお気になさらずに!どうぞ我が家と思って遠慮なくおくつろぎください。 ――おぉい誰か、土方さまの奥様を湯殿へご案内しておくれ」 「はぁーーーい!」 物腰が柔らかくていかにも温和そうなのに、おじさんは押しが強かった。あたしがおろおろしてる間にさりげなく 建物の中まで誘導して、気付いた時にはもうフロントの前で、「いらっしゃいませ土方さま!」と声を揃える 緋色地の絣の着物姿のお姉さん二人に挟まれていた。「どうぞこちらへ」ときらきらしたまぶしい ロビーから、これまたまぶしい金色のエレベーターへ止める間もなく案内されて、 「土方さま、本日はご利用まことにありがとうございます。これからご案内いたしますのは七階の湯殿で…」 「違うぅぅ!違うんですあたし「土方さま」じゃないんです!!聞いてくださいっっ、ぁああたしは、そんな、お、奥様とかじゃ!」 「まぁまぁ姉さんいいじゃないか、細かいことはさ。それよりもほら、大捕物で疲れてるんだろ? とりあえずさ、上でお湯に浸かってのんびりしてきなよ」 あわあわと口籠るあたしの背中を押しながら、赤ジャージの女の子はやけにうれしそうにいそいそと、 エレベーター前までついてきた。 「仕方ありませんねぇ…これきりにしてくださいよお嬢さん」 そう言ってフロントに戻った番頭さんは少し困った顔をしていたけど、他の従業員さんたちは 「お嬢さん」と呼ばれてたこの子がすることを全面的に容認しているみたいだ。皆が「おかえりなさい」と親しげに 声を掛けてくるし、女の子も笑顔でそれに応えていた。ところがフロントの奥の扉から黒のスーツ姿の集団が現れると、 女の子の様子はがらりと変わった。なぜか急に、ひどく焦り始めたのだ。「うわ、もう来ちまったっっ」と 大きな身体を小さく竦めながら呻いて、フロントの方をやけに気にしながらあたしをエレベーターに押し込んで、 「〜〜じゃ、じゃあね姉さん!また後でっっ」 「え?あ、あのっ、ちょっと・・・!」 早口に言い残すと、一目散に逃げてしまった。ロビーの人の波をすいすい縫って遠くなったその姿を 呆然と目で追っていると、今度は彼女と入れ違いにロビーへ出てきた黒スーツ集団が目に入って―― 「――・・・・・・・わぁ・・・、」 その中心に立つ人に、あたしは一目で視線を奪われた。 目元に大きめのサングラスを掛け、形の良い唇に煙草を咥えた女の人だ。遠目にも美人なその人は、 周囲の人たちと同じように全身を黒で固めているのに、群を抜いて雰囲気が華やかだった。 引き締まった顎のラインに沿った長さの髪。胸元と脚のラインが強調される大胆なスーツ。 着こなしが難しそうなその服を自然に着こなしている身体は、モデルみたいにスタイルが良い。 何より仕草が洗練されていて、とても普通の人には見えなかった。 かっこよくて仕事も出来そうな、非の打ち所の無い大人の女性。 ・・・表現するなら、そんなかんじかなぁ。あたしなんて、百年かけてもあんな風にはなれそうにないよ。 周囲の黒スーツさんたちと話しながらエレベーター前を横切っていく姿に、目を丸くしてぽーっと目見惚れていたら、 ――その人は扉が閉まる寸前に、視線に気付いたかのように顔を上げた。 サングラスの奥の目がこっちを眺めて、ほんの一瞬、きれいな唇を緩めて艶やかに微笑んでくれた、・・・ような気がした。 「・・・今の女の人、すっごく綺麗な方ですね。あの方もここの従業員さんなんですか?」 「はい、然様にございます」 「そうなんですかぁ。素敵な方ですねぇ、ファッションショーのモデルさんみたい・・・!」 呆けた顔で感心するあたしが面白かったらしい。お姉さん二人はくすくすと、楽しそうに笑っていた。 チン、と明るい音色が鳴る。 扉を閉じたエレベーターは、徐々に上へと昇っていって―― 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっっっ。あれっ。 〜〜〜えええっ、ちょっっっ!!?待っってぇぇぇぇっ!!」 そこでようやくはっとして、全面が金色のまぶしい扉にばばっと飛びつく。 そうだ、それどころじゃなかったんだ!お風呂に案内されてる場合じゃないよ、戻って誤解を解かないと!! 「誤解です誤解、降ろしてぇぇ!色々っていうか諸々っていうか何から何まで誤解なんですけど!!?」 「奥様、これからご案内いたします湯殿は社長のプライベートバスにございます。 本日は土方さまの貸切となっておりますので、お気遣いなくごゆるりとお楽しみ下さいませ」 「いやだから違うぅ!違うんです聞いてくださいっ、あたしはそんな、そうじゃなくてぇぇぇ!!」 「湯殿はお使い頂く部屋と繋がっております。湯浴みを終えられましたら、専用のパウダールームから・・・・・・」 ――それからもお姉さんたちの説明は続いたんだけど、どれもさっぱり耳に入らなかった。 気付けば七階に着いてお姉さんたちと長い廊下をすたすた進んで、「湯処」と大きく書かれた朱色の暖簾を潜って、 ・・・・・・・・・何でこんなことになったんだろう。あたしは広い広い脱衣所に、ぽつんと一人取り残されていて。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・何これ。もう、ぜんぜん訳が分からない。 「・・・どうしよう。奥さんだなんて、違うのに。・・・全然違うのにぃぃぃ・・・・・・!」 笑顔を絶やさない二人は「それでは失礼いたします、土方さま」と声を揃えると、 深々とお辞儀して出ていった。入口を飾る朱色の大暖簾を見つめて、呆然と立ち尽くす。 ・・・初めての場所に取り残されてしまった。誰かに頼りたくても土方さんはいないし さっきの女の子もいないしで、あたしはここでたった一人きり。 どうしよう。フロントまで戻ろうにももう戻れない。だって、こんな格好だもん。ここの従業員さんが 一緒ならともかく、今の血まみれなあたしが一人で館内をうろついたらどうなることか。 そんな状況、想像しただけでかなしくなるよ。もしここから一歩外に出ようものなら、 会う人すべてにさっきのコンビニのお兄さんみたいに絶叫されるか、はたまた、煙草屋のおばさんみたいに その場で腰を抜かして仰天されるか―― 「・・・・・・・・・・・・はあぁぁぁ。誤解は後で解くしかないよね・・・」 整然と並ぶ脱衣籠の棚の前をぐるぐる歩きながら考えた末に、肩を落として諦めた。 鏡の前にあったスツールにへなへなと座る。周りをぐるりと見回した。 壁一面を鏡に使った洗面台は、数人が同時に使えるゆったりした造り。その横の棚にはふかふかした分厚いタオルに バスタオル、ドライヤーにブランドもののコスメに…と、お風呂上りに使いそうなありとあらゆるものが揃っていた。 お風呂場特有の湿ったような香りもするけれど、その中には部屋のあちこちに飾られたお花の甘い香りも紛れてる。 こうして座って辺りをきょろきょろ見回してるだけで、贅沢気分に浸れてしまう場所だ。 すごいなぁ。脱衣所なのに、何ならここに住めそうなくらい快適だよ。さすが社長さんの専用お風呂だよね。 「・・・ん?あれっ。そういえば・・・・・」 真っ白な高級タオルの肌触りを指でつんつんして確かめながら、首を傾げる。 そういえば番頭さんが言っていた。土方さんがここの社長さんと「面談」してるって。 ていうことは土方さんて、――こんなところの社長さんと知り合いなんだ。 しかも電話一つで専用のお風呂まで貸してくれるくらいだ。かなり親しい間柄なんだろうなぁ、その社長さんとは。 一体どこで知り合ったんだろ、なんて思いながら椅子から腰を上げる。 とりあえずこの中をひととおり見物するつもりで、さっきから気になっていた部屋の奥へ向かってみると。 「・・・?この音って・・・?」 白く曇って水滴が流れてる大きな硝子戸のほうから、かすかな音が漏れてくる。 とぽぽぽぽ・・・、なんてかんじの、耳に心地良くて柔らかい水音。気になって扉を開けてみたら―― * * * 「ふぁああああぁぁ〜〜・・・・・・・・。なにこれぇ・・・、頭蕩けそう、気持ちいぃ〜〜〜〜〜〜〜・・・」 すっかりご満悦なあたしは浴槽の壁に背中を預けて、手足を伸ばして伸びをした。 透明なお湯の中からぴんと逸らした爪先を跳ね上げる。ぱしゃん、と温かな飛沫が宙に飛ぶ。 波紋が広がった薄暗い水面は、ゆらゆらと躍るように揺れていた。 ぱぱっと隊服を脱いでお風呂場に飛び込んでから、もう何分経ったんだろう。ふにゃふにゃとふやけきった 口からは、もはや感嘆の声と賞賛の声、あとはあくびによく似た呑気な溜め息くらいしか漏れてこない。 ――とぽぽぽぽぽぽぽぽ・・・・・・・。 浴槽の縁に立つ女神さまの彫像が抱えてる壺からは、ゆるやかに流れ込むお湯とその水音が。 いいなぁ、こういう水の音って和むなぁ。聞いてるだけでなんともいえないゆったりした気分にさせてくれる。 お湯に癒されてすっかり緩んだ顔でにまにま笑う。そうだ、お風呂から上がるまでは絶対に鏡を見ないでおこう。 きっと目も当てられないくらいだらしない顔してるはずだから、今のあたし。 「――それにしても贅沢だよね・・・こーーーんなに広くて素敵なお風呂を独り占めなんて・・・」 生まれて初めてだよ、こんなお風呂。 ・・・生まれて初めてだよ。こんなに贅沢な誕生日プレゼントなんて。 道行く人の白い目線を浴びて半泣きになってた時に比べると、まるで天国に来たみたいだなぁ。 照明を落としてわざと暗くしてある湯殿の中をぽーっと頬を染めて見渡して、 ふぁああ、と幸せな溜め息をついて目を閉じる。――すると、閉じた瞼に土方さんの姿が浮かんできた。 ここへ入るまではすごく抵抗あったから、なんだか色々言い返しちゃったけど・・・全部土方さんのおかげなんだよね。 後で会ったら、何を置いてもまず最初にお礼を言おうっと。 「ぅうー・・・・・ん。手足もぽかぽかになったし、そろそろ上がろ・・・・・・・」 悠々と伸ばした足先でお湯を跳ね上げ、広い浴槽の端までぱちゃぱちゃと飛ばす。 プライベートバスっていうからもっと小さなお風呂を想像したけど、これなら十人は余裕で入れそう。 半透明のパーテーションで区切ったシャワールームが数か所あるし、奥にはサウナもあるしで 広い上に設備がとっても充実してるから、普通に大浴場としても通用しそうなかんじだ。 ――それにこのお風呂、なんといっても窓から見える景色がすごい。 窓は壁一面、天井から床までの大きさだから、薄暗く照明を落としたこのお風呂場にいると まるでお風呂に浸かりながら外の夜景に溶け込んでいるような錯覚が起きてしまう。 夜景をそのまま水面に映し取って光がゆらゆら揺れてる浴槽にいると、星空に浮かんでくつろいでる ような、ロマンチックで開放的な気分になれる。 ・・・綺麗だなぁ。こんなに贅沢なお風呂をたった一人で使うなんて、なんだかもったいないみたい。 「・・・土方さんも一緒に入ったらいいのに・・・」 なんて、ほわほわと立ち昇る湯気の香りを吸い込みながらぼんやりつぶやいたんだけど、 ――あれっ。 ・・・いやいやいや、ちょっと待って。もし実際にそうなったら、・・・とてつもなく恥ずかしいことになるんじゃ・・・・・・・・・・・・・、 「・・・・・・〜〜〜〜っっ!」 あわててざばぁああっっと、浴槽中にお湯を振り撒きながら立ち上がる。 ――立ち上がった瞬間にはもう全身が熱くて熱くて、もしかしたらごぉっと炎が噴き出すんじゃないかって くらいに火照っていた。あたふたと浴槽から飛び出して、気分を落ち着けるためにも一刻も早くここを出て、 涼しい脱衣所で頭も身体も冷まそうと思ったんだけど―― ばたばたとお風呂場の入口へ突進したあたしの足は、途中でぴたりと動かなくなった。 動揺した拍子についうっかりと、想像上の場面に負けないくらい恥ずかしい過去の記憶を ぱあっと脳裏に蘇らせてしまったからだ。 ――そう、忘れようにも忘れられないあの失敗を。 一年近く前に屯所の脱衣所で、お風呂上りの一糸纏わぬ姿であのひとに抱きついてしまったときのことを。 「〜〜ふぎゃあああぁぁあああ!っっゃやややだっ、なしっ、今のなしいぃぃ!!」 ぼちゃぁああんんっ。 身の毛もよだつ恥ずかしさにとうとう耐えきれなくなったあたしは、奇声を上げてお湯に飛び込む。 夜景の光を受けてきらきら瞬くロマンチックな浴槽の中で、ぶくぶくと泡を吹き出し続けた。
「 蜜月 *2 」 text by riliri Caramelization 2013/03/05/ ----------------------------------------------------------------------------------- 3話目以降は裏扱です 大人の方だけでお願いします。 next