瞼の裏を真白く透かすまぶしさは、昨日の目覚めに感じたそれよりも光彩がはっきりと強まっていた。 夢と現の狭間から意識を戻した土方は、眉を顰めつつ短く唸る。 身体を覆った布団を掻き寄せるような仕草で隣を探り、やがてゆっくりと薄目を開けた。 幾度か瞬きを繰り返し、枕に沿わせて横へ伸ばした我が腕を見遣る。そこで眠っているはずの女の姿は消えていた。 「――・・・、」 掠れた声で呼びかけてみたが返事はない。瞼を伏せた気怠げな視線を枕上の畳まで伸ばしてみると、 昨晩の彼がそこへ放り投げたままにして一夜を越した、女物の浴衣や帯も消えている。 女の行方を寝床の中から探しつつ、欠伸を噛みしめ寝返りを打てば、 ほの暗い天井が真上に映る。早朝の陽射しに色を塗り替えられた室内は、 宵闇の名残を部屋の隅へと追いやって白々と染まりつつあった。 そこで、ざざ、と何かが崩れたような、土砂のように流れ滑落する音が外より届き、 土方は外の気配に耳を澄ます。くっきりした白に発光する障子戸を眺め、ああ、と気付いた。 ――積もったか。道理で夜半過ぎから音がねえと思った。 起き上がりながら吸い込んだ冷気は昨晩よりもしっとりと湿り気を帯びていて、外より漂ってくる静けさには 微かな人の気配が紛れている。畳に一晩脱ぎ散らしていたせいでひんやりと冷たい黒地の浴衣をざっと羽織り、 手早く腰帯を締める。書類が山積みされた机上から煙草とライターを掴み取って部屋を出れば、 長い縁側に面した屯所の庭は一面が白銀に輝いていた。
願 わ く ば 花 の 下 で 君 と #2 淡 雪 に 眠 る
寝癖が残った頭を掻きつつ、はりつめた朝の冷気が漂う縁側に座した。 眠たげに細めた目つきで眺めた庭先は、昨夜から降り積もった雪が昇ったばかりの陽光に照らされている。 とん、と長い指で突いた箱から飛び出た一本を咥えながら、白に染まった景色を眺める。 きらきらとまぶしい新雪の絨毯には、ところどころに足跡が落ちていた。 ひとつは小さく浅い跡。毎朝この庭へ舞い降りては賑やかにさえずっている、小鳥たちの足跡だろう。 そしてもうひとつは、小鳥たちのそれに比べて大きく深い足跡。とはいえ、縁先に揃えて置かれた 男物の下駄よりは二回りほど小さいだろうか。ゆるやかな曲線を描いて庭の奥へと向かうその足跡に沿って、 片手に握れるほどの大きさをした雪の塊がぽつぽつと転がっている。大きさもかたちも不揃いな卵型の雪塊には、 椿の若葉らしい濃緑が二つと、小さな赤い実二つがそれぞれにぽつぽつと貼られていた。 ――あの赤けぇ粒。あれは、玄関口の片隅で実を結んでいた南天か。 どうやらあの南天が目で、葉が耳のつもりらしいが・・・随分とあいつらしい。世辞にも器用とは言い難い出来だ。 まぁ、幾分甘めに見てやれば、雪うざぎに見えねえこともねぇんだが。 なまじ整っているせいかきつい印象が目につく面立ちがふっと歪み、口許を緩めて失笑する。 笑みを浮かべた唇の動きにつれて、白い煙を昇らせ始めた煙草が軽く揺れた。 「――朝っぱらから雪遊びか。ガキくせぇこった」 純白を纏った樹木が繁る庭の奥へ、やや張り上げた声を向ける。 大きな銀杏の幹の下。しゃがみ込んでこちらへ背を向けている白地の浴衣姿は、 何やらせっせと手元で何かを拵えていた。ほっそりした両手で足元の雪を掴み上げては、 しゃがんだ彼女の頭ほどの高さがある大きな雪の塊に、でこぼこと不格好に固めつけていく。 縁へ出てきた男の気配には気づいていたのだろう。特に驚いたふうもなく、はくるりと振り返る。 彼が目を合わせると少々戸惑った顔を見せたが、やがてふわりと、はにかんだような笑みを浮かべて。 「おはようございまぁす。今日も早起きですねぇ、土方さん」 「そうでもねえぞ。昨日は寝付きが遅かったからな」 わざととぼけて淡々と返せば、ぅうっ、とあわてて肩を竦ませた女の頬に朱が昇る。 昨晩の褥での出来事でも思い出したのだろう。長い髪で顔が覆われるくらい深くうつむくと、 小声で何かをつぶやきながらおろおろと雪の塊を撫で回していた。 「・・・・・こ。これから道場、ですか?」 「一服したらな。――で、お前はそこで何やってんだ」 「ぉ、お出迎えの準備ですっ。ちょうど雪が積もったから、殺風景な屯所をちょっと飾ってみようかなぁって。 ・・・昨日話しましたよね?今日はほら、み、美代ちゃんたちが遊びに来る日だからっ」 「ガキの出迎え用にしちゃあ妙なもん作ってんな。念のために訊いとくが、何だそりゃあ」 「何って、雪だるまですけど。これのどこが雪だるま以外に見えるっていうんですかぁ」 「ああ、見えねえこたぁねえぞ。多少見方に苦労はするがな」 「・・・・・・・・」 皮肉を混ぜた返答が気に食わなかったらしい。は紅い唇をつんと尖らせ、 ぷい、と彼に背を向けた。 「・・・これでも一所懸命作ったのにぃ・・・」 赤らめた頬がぷうっと膨れ、拗ねた女が小さくつぶやく。ぺたぺたと、手にした雪を塊に貼り付けていく。 腰上で稚児結びにした桜色の薄地の帯が、彼女が腕を動かすたびにふわふわと揺れる。 背を丸めて真剣に没頭しているその様は、遊びに夢中になっている幼女のようで可愛らしかった。 何気なく視線を逸らした土方は、ふぅ、と澄ました様子で煙を吐く。 時折、気づかれない程度の短さで白い浴衣姿に視線を戻した。はこちらを気にしているのか、 たまに肩越しに振り返り、何か言いたげな視線を送ってくる。そのくせして、彼と目が合えばふいっと逸らして 膨れた頬をさらに丸々と膨れさせるのだ。そんな子供じみた女の仕草が可笑しくて、けれど可愛い。 いつのまに気分が緩んでいたのか、煙草を咥えた口端には、和んだ笑みが昇っていた。 淡い石灰色の雲の切れ間には、快晴の青が覗いている。雪を被った軒沿いに広がる冬空を見上げ、 土方は溜め息とも感嘆ともつかない気分で煙を吐いた。 ――妙な朝だ。雪以外にさほど変わったことがあるわけでもないが、時間の流れが不思議と緩い。 降り積もった新雪の層が、街中の物音を吸収しているせいだろうか。音の遠さに現実感が薄れ、 まるで鄙びた寒村にでも居るようだ。雪に隔てられた静謐の只中にこうして居座っていると、 身体を流れる五感の冴えを鮮明に意識出来る。きりりと澄んだ朝の冷気が肌に沁みる。どこか遠くで群れている、 鳥のさえずりが耳に届く。静かな朝の心地良さが、遠目に眺める女の姿が、ひどく鮮やかに目に映る。 ――たったそれだけのことが、起き抜けの身体に残った前日の疲れをじわりじわりと癒していく。 合間にゆっくりと煙をくゆらし、いつになくしみじみと味わえば、日々の多忙も半ば忘れたような ゆったりした心地がしてくるのだから不思議だった。 苦笑を浮かべた彼は脚を組み変え、さっきまでよりもくつろいだ姿勢で冷えた床に座り直す。 ふと自分の口許に視線を落とせば、煙草は指先ほどに短くなっている。床に投げていた箱を拾って二本目を出した。 この調子では、朝の鍛錬は短縮することになりそうだ。だが、――たまにはこうしてのんびりと、他愛のない時を 過ごすのもいいだろう。 煙の上手さを味わい、初々しく拗ねる女の様子をそれとなく見遣り。たまにこちらを気にする様子を見せる のぎこちない表情を、素知らぬふりで楽しんでいたのだが――。 「――ん?」 ふとあることに気づき、前に乗り出し怪訝そうに唸る。 眉を吊り上げ、鋭く切れ上がった目をじっと凝らした。注目したのは雪に埋もれた女の足だ。 よく見ればは何も履いておらず、直に雪を踏む素足は火傷したかのように皮膚が赤い。 「――おい、何だその足。下駄くれえ履いとけ」 手にした煙草の先での足元を指し、土方は声を張り上げる。 するとはまだ拗ねているのか、ますます口を尖らせた。寝起きの気配を残した舌足らずな口調で、 「平気ですっ。あたし痛覚鈍いほうだからそんなに冷たくないし」 「だからって裸足で出る奴があるか。ったく、凍傷になったらどーすんだ」 「大丈夫ですっ、もうすぐ終わりますからっ」 「嘘つけ、どう見たってまだ半分てとこじゃねえか」 「終わりますっ。あたしだって本気になれば雪だるまのひとつやふたつ、ちょちょいのちょいですよっっ」 「ああそーかよ。判ったから拗ねてねえで一旦こっち戻れ。せめて下駄ぁ履いとけ」 「〜〜もぅいーですってばぁ!あたしに構わず朝の鍛錬してきてくださいよっ。 厭味ばっか言ってないで行けばいーじゃないですかぁ道場に。一人で楽しく木刀振り回してればいーじゃないですかぁっっ」 ぱしぱし、ぱしっ。 不格好な雪塊を滅多やたらに叩き回しながら、がきいきいとやかましく喚く。 細い肩をいからせ気味にした女の背中を、土方はやや面倒そうな、もてあましたような顔でじとりと睨んだ。 ・・・わからねぇ。下駄を履け、と言っただけでどうしてここまで膨れられなければならないのか。 まぁ、どうせ俺の言い方が気に障っただとか、そんなところが理由だろうが、 ――万事がこれだから女ってえのは厄介だ。あぁ面倒くせぇ。本当にこいつの言い分通り、さっさと道場へ行っちまうか。 そうも思うのだが、どうも縁側から腰が上がらない。あの足の腫れが気になって仕方がないのだ。 これが身体の造りどころか皮膚までがごつごつと固い野郎であれば、声すら掛けずに放ってもおく。 だが、女の繊細な肌質にこの冷たさは響くだろう。あの不格好な人型もどきに不格好な頭が着く頃には、 足裏どころか脛のあたりまで真っ赤に腫れ上がるのがオチじゃねえか。つーかあいつ、凍傷の怖さをナメてやがるな。 ・・・これだから雪に慣れねぇ江戸者は。 「。おい。・・・・・・っだコラ、無視しようってのか。聞け、おい」 返事どころか振り向きもしない女の意固地さに、ちっ、と鋭い舌打ちが鳴る。土方は勢いよく腰を上げた。 ――昨晩触れた素肌の柔さ、滑らかさ。このまま放っておけば、の身体のほんの一部からでも あの絹のようにしっとりした手触りが損なわれることになる。あれをすっかり独占した気でいる男の 手前勝手な言い分だとは判っているが、それは嫌だ。どうしてこのまま見過ごす気になれるものか。 縁の端まで移動し腰を落とし、屋根から軒下へ滑り落ちた新雪の層へ手を伸ばす。 きつく握って固めに仕上げた雪玉を、こちらへ背を向けている女めがけてぶんと放った。 狙い通りに直線で空を切った雪玉は、の肩口でぱぁんと弾ける。飛び散った白い欠片が首筋にでも触れたのか、 ひゃあ、と甲高く叫んで飛び跳ねて、 「っや、つ、つめたぁっ。〜〜〜なっっ、なにするんですかぁっ」 「てめーが無視しやがるからだろーが。おい、いーからこっち戻れ、下駄履け!」 「いいですってばっっ」 「――っっ!」 手早く雪を丸めたが、びゅん、と狙いを定めて雪玉を放る。 土方の頭に命中したそれは黒髪を弾くようにして飛び散って、髪と同じ色をした浴衣の肩にばらばらと零れて。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・、」 防ぐ間もなく雪まみれになった身体を無言で見下ろし、冷えきった表情をゆっくりと上げる。 この野郎、と凄味の効いた声でつぶやき、じろりとを睨みつけた。 ところが、普段ならそれだけで震え上がるはずの女は、雪だるまをからかわれた腹いせのつもりか、 次々と雪の塊を投げつけてくる。呆れた土方は眉間を寄せた目元を伏せ、短い溜め息を吐いた。 ――やれやれだ。まさかこの年で雪遊びなんぞする羽目になるたぁ、誰が思うか。 ひゅん、ひゅん、と絶え間なく飛んでくる雪玉を適当にかわしながら、縁の下から雪を多めに掴み取る。 眉間こそ険しいが妙に醒めた目つきをした彼は、視線をやや遠くへと伸ばす。 分厚い雪雲の合間に澄みきった青がうっすらと覗く、朝の冬空。そこに向けて、ぶんっ、と身体全体を使った 大きな投擲を繰り出した。空に飛び出していった雪玉は方向こそに向けて投げられていたが、 高さがまるで合っていない。「何でそんなところに」とでも言いたげな顔でぽかんと空を見上げる女の はるか頭上 ――銀杏の幹の天辺にぽすっと落ちる。ぷっ、とは吹き出した。 「あはは、なにそれー、大暴投じゃないですかぁ。どこに投げてるんですかぁ土方さぁん」 手を叩いて嬉しそうにからかってくる。それでも醒めた顔つきを崩そうとしない土方が、くっ、と口端で嘲笑う。 ――すると、その瞬間。 の頭上で、ずず、ず、ずずず・・・、と地鳴りのような音が響き始めた。 え、と目をぱちりと瞬かせたは、間もなく上から落ちてきたバケツ一杯分の雪をばさりと被り。 ぱくぱくと口を開け閉めしながら真上を仰ぎ、そこで起こっている現象にかちんと身体を強張らせて。 「・・・・・ぇ、・・・・・・・・ちょっ、な。なに。うそっ・・・」 上から雪が降ってくる。――というか、雪崩れが起きている。 三階建てほどの建物に相当する高さの銀杏の天辺から、どどどど、と幹を揺らしながら頭上にばさばさと落ちてくる。 さっき土方が放った大暴投の雪玉ひとつで、高い幹全体に雪崩れの連鎖が巻き起こったのだ。 頭上を白い雪煙で曇らせながら滑落してくる大量の新雪。 冬枯れした銀杏の枝をばさばさと揺らし、ざああ――っっと、幹の真下にいるめがけて―― 「ちょっ、やっっ、な、〜〜〜〜っっ!!?」 軽い地響きを立てて落下した大量の雪が、慌てるを一瞬で襲う。 最初こそあわてふためいた叫び声が聞こえていたが、最後にはそれも聞こえなくなった。 土方が計算して起こした人工の雪崩。その崩落音がようやく収まり、辺り一面に舞っていた雪煙も消え、 屯所の庭が元の静けさを取り戻した数十秒後。 の姿は雪の小山に埋もれてしまい、完全に見えなくなっていた。 「おい馬鹿パシリ。聞こえるか。どうだ、ちったぁ懲りたか」 「・・・・・・・・・・・」 「まぁ、少しそこで頭ぁ冷やせ」 びくりとも動かない白い山に向けて、吸い終えた煙草を縁の下に放りつつ言い渡す。 どーせ暫くすりゃあ、てめえでのこのこと這い出してくるだろう。いつもの情けねぇ泣きっ面で出てくるはずだ。 ・・・ったく、世話のかかる女だ。出てきたら軽く小言をぶつけて、それから雪ん中から引っ張り上げてやるか。 煙草の箱を浴衣の袂に放り込み、面白くもなさそうな顔で腕組みした彼は、 暫くそこから小山の動きを眺めていたのだが―― それから十秒。 二十秒。三十秒。―― 一分経っても、雪山はびくりとも動かない。 「・・・・・・・・・・・・」 腕組みで待ち構えた男の気難しげな様相の顔が、ぴくりと引きつる。 どちらかといえば気が短いほうの土方は、それでも悶々としつつ待ち続けて。 「・・・・・・おい。。おいコラ、出てこい。いつまで不貞寝してんだ」 とんとんとんとん、と指先で組んだ腕を弾きながら、苛々と声を張り上げる。 ところがいくら待てども、は一向に出てこない。 「・・・・・・いつまでいじけてんだ、さっさと出て来ねぇか。そこは寝心地はいいかもしれねえが、凍るぞ。 そのまま埋もれてみろ、美代が来る頃には雪だるまどころか凍死体の出来上がりだぞ。おい。聞いてんのかコラ返事しろ。 年端のいかねえガキにどんなトラウマ作る気だ、てめーは」 それでもは出てこない。 しびれを切らして雪を丸め、小山にびしっとぶつけてみる。 それでもは出てこない。怒り一辺倒だった表情が、じわりと湧いた焦りの気色に曇り出す。 唇を噛んだ土方は、足下に置かれていた下駄を引っ掛けることもなく縁側を飛び下りる。 ざっっ、と新雪を深く潰し、飛び下りた勢いのままに庭へと駆けた。 小さな鳥の足跡と、華奢な女の足跡。ふたつの足跡が刻まれている白銀の層を踏み荒らし、一直線に走る。 雪崩で出来た小山の麓を蹴散らして踏み込む。彼らしくもない焦りが滲んだ表情での名を呼び、 湿った重たい雪の層を無我夢中で掻き分けた。 「!どこだ、返事しろ!!」 怒鳴りつけながらがむしゃらに雪を払い除けてゆく。じんと手を痺れさせる灼けつくような冷たさに 焦りはじりじりと増していき、もはやこの中にいる女のこと以外考えられない。 心臓の鼓動が早鐘のように打つ。それでも一心不乱に掘り進めるうちに、 生命の色などどこにも感じられない眼前の景色に、ほんの小さな暖色のかけらが現れて。 見つけたそれは指先だった。冷えすぎたせいで赤く染まった、細い指―― 「目ぇ覚ませ、おい!」 指先がくったりと垂れた腕をぐいと引き抜き、雪を払い、しっとりと濡れて凍りかけた浴衣の肩を抱き起こす。 力任せに引っ張り上げながら何度も何度も呼びかけたが、は目を閉じたまま動かない。 冷えきった頭を彼の胸にもたれさせ、ぐったりと腕の中に横たわったままだ。 彼女の唇に耳を寄せて呼気を確かめた土方は、険しい表情で歯噛みする。頭の奥まで痺れさせる 冷たい不安を振り払いながら、柔らかな女の頬をぺちぺちと叩く。雪中に埋もれた下半身を引きずり出そうと、 細い腰を抱き寄せたのだが、 「――っ!?」 ――とそこで、視界が急に反転した。女の腕にぐいっと衿を鷲掴みされたのだ。 ぱちり、と唐突に目を開けたは、黒の浴衣地を素早く掴んだ。まるで柔道の寝技のような体勢から 巧みに彼の脚を払い上げ、どさり、と真横に転がしてしまう。 はっとした土方が真上を塞ぐ人影を見上げた時には、とっくに互いの位置は逆転していた。 は土方の腰に跨り彼を見下ろしている。片や土方は女の細腕に組み敷かれ、雪に半分埋もれるような状態に。 頭に被った白い煌めきを陽光にちらちらと瞬かせながら、は長い髪を冷えきった指で掻き上げる。雲間から 漏れた朝日を浴び、ひどく無邪気に笑っていた。いつもやり込められている土方をまんまと騙せた嬉しさに、 表情が生き生きと輝いている。 「わーーーいぃ、ひっかかったーぁ!」 「・・・・・・・・てめえって奴ぁ。ったく、・・・・・・・・・・・・何がひっかかったーぁ、だ、この野郎・・・!」 始めはただただ呆然とを見上げていた土方だったが、――やがて、じわじわと怒りが湧き上がってくる。 しかしほんの一瞬とはいえ、本気での無事を案じていたのだ。極度の緊張感から解放されたせいで、 身体はすっかり脱力していた。体裁をつけるために叱りつけてはみたものの、その声は自分でも どうかと思うほど精彩に欠けている始末。ぺち、と女の頬を叩いてみても、その手に力は入らない。 まだ驚きから抜け出せていないような硬い表情で、土方はを無言で見上げる。彼の視線を浴びる女は 自分で自分の身体を抱きしめ、今さらながらに襲ってきた寒さにかちかちと歯を鳴らしていた。 「あぁもう、寒かったぁ・・・!土方さんなかなか来てくれないから、このまま凍っちゃうところでしたよー。 ねえねぇ、どうでしたかぁ?すごかったでしょ、迫真の演技だったでしょ?びっくりした?びっくりした?」 「・・・・・・・・・・・。してねえ」 「えぇー、うそぉ。雪の中からでもちゃんと聞こえましたよー、すっごく怖い声で呼んでたもん」 「・・・うっせぇな呼んでねーよ。誰がてめえなんざ呼ぶかバーカ」 ふいっと土方は顔を横へ逸らす。 目前の雪に睨むような視線を注ぐ目つきは、どこか迫力に欠けて彼らしくない。 不貞腐れて黙りこくった男の表情を、は不思議そうに覗き込む。遠慮がちながらも顔を近づけ、 さらりと枝垂れた長い髪の先が土方の視界を塞ぐほどに迫っていく。 すると雪を睨んでいた男の刺すような視線が、彼女のほうへすっと流れた。どきっとしたがびくりと肩を竦めると、 それと同時に腕を掴まれ、背中を力強い腕に抱かれる。 え、と目を見張った時には、抗いようのない男の腕力でそのまま前へ引き倒されて―― 「っっ・・・!」 息を詰めた細い身体が、雪に埋もれた男の胸に押しつけられる。 力任せに抱きしめられて、の心臓は鼓動を高く跳ね上がらせた。 互いに薄い浴衣を着ているだけだ。土方の体温や引き締まった胸や腕の感触、そこに染みついた煙草の香りが ありありと肌身に感じられる距離。はあわててひゃああっっと叫ぶ。すっかり血が昇った顔は 雪うさぎに貼りつけた南天の実の色ほどに赤く染まる。それでもきつく抱きしめてくる男の腕力に逆らい、 どうにか逃げるべく暴れ出す。ところが、逃げようとすればすれほど腕の包囲は狭まってくる。 いきなりの抱擁が恥ずかしくてたまらない彼女がわずかに身じろぎしようものなら、背骨がしなるほどの強さで ぎゅっと抱きしめられてしまうのだ。 「っ、く、くるひ・・・っ。〜〜ひ、ひじかたさぁ、はなして、っっ」 「・・・・・・」 頼んでみても返事はない。離すどころかますます腕に力を籠められてしまい、は途方に暮れてくる。 痛い、と弱った声でつぶやき、黒地の浴衣に顔を押しつけられた息苦しさに、うぅ、と喘いだ。 ・・・困ったひとだ。土方さんて、都合が悪いといつもこう。 じきに逃げ出すのも諦め、男の身体にくったりと身を預ける。ぽつり、とか細い声を漏らした。 それは高熱が出そうに火照った彼女の頭に浮かんできた、半信半疑な問いかけで。 「・・・・・・・もしかして。本気で、心配して、・・・くれたの・・・・・?」 ひどく自信なさげな上擦った声は、吐息とともにふわりと浮いた。二人の周囲を覆った新雪に吸い込まれていく。 「・・・・・・土方、さん・・・?」 おそるおそる呼びかけてみれば、男の腕が徐々に緩んで息苦しさが消えてゆく。思いがけない変化に驚き、 はわずかに顔を上げる。濡れた輝きを放つ大きな瞳を、自分を抱きしめる男の素気無い横顔にじっと凝らした。 そんなの信じられない。驚きを隠せない女の表情にはそう書いてある。しかしその一方では、自信なさげな目の奥に かすかな輝きを灯し始めた。 期待しているのだ。本音など滅多に見せない男の態度が綻びて、珍しく真意を覗かせつつあることに。 知りたがっているのだ。 ――自分が本当のところは、土方の中でどれほどの存在になっているのかを。 むっとした様子で黙りこくっている男の雪にまみれた横顔に、は身じろぎもせずに熱い視線を注いでくる。 潤んだ瞳から無言のうちに発せられる期待がどんな類のものなのか、――それは察しているのだが。 きつく眉を寄せた土方は、どこか悩ましげな溜め息を吐いた。 それは、女の幼稚な手口にかかった己の間抜けさを戒めるうちに湧いたものでもあったのだが―― いまいましげな舌打ちを鳴らし、わざと気怠げに表情を緩める。努めて淡々と、愛想のかけらも無い声を発した。 「――そういやぁ随分と久しぶりだな」 「・・・え?」 「ガキの時分以来だ。庭で雪遊びなんざしたのも、女に押し倒されんのも」 「・・・そ、そぅ、なんですか。・・・そっか。そうですよね。しないですよね。雪遊びも、押し、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ えっ、」 言いかけた唇がぴたりと固まり、人並み外れて大きな瞳がぽろりとこぼれそうなほどに見開かれる。 平然とした様子の土方が、しれっとした顔で両耳を塞ぐ。次の瞬間、 「〜〜〜〜〜ひぃいいゃああああああああ!!」 屯所中を突き抜けるほど甲高い悲鳴が庭に響く。 真っ赤に顔を火照らせた女にばしばしと叩かれきゃーきゃーと喚かれ、耳が痛い。 土方は苦笑しながら彼女を腕に閉じ込めた。 「〜〜〜っっ!?ち、ちがっ、違いますよこれは、ぁあぁぁあたしっ、そんなつもりじゃ・・・!」 「フン、そうかよ。ならどんなつもりで男の腹に跨ってんだ、てめーは」 「偶然!偶然です偶然っっっっ!!」 腕の中の女が暴れれば暴れるほど、ずず、と身体が白銀に沈む。 今や弱い痛みを感じるほどに身体は冷えて、かじかんだ手足は痺れきっている。 けれど、このぬくもりをこうして腕に閉じ込めておけるなら。 たとえそこが果てなく続く白銀の原野だろうと、どんなに冷えきった凍土の底だろうと、 ――こいつと二人で埋もれてゆけるなら、それも悪くはない気がしてしまう。 そんな馬鹿げた夢想にかられて、の額を掻き上げる。 しっとりと柔らかい前髪を撫で上げ、薄桃色に染まった頬を掌で覆う。 羞恥に潤んだ女の目をじっと見つめる。いつになく大事そうに、ゆっくりと撫でた。 「・・・もう二度と心配なんざしてやらねえからな」 「・・・・・・・・、え・・・?」 「何でもねえよ。ただの独り言だ。・・・ところでお前、判ってんのか」 「え?・・・なっ、ちょっ、ぇえっ、〜〜っ!」 女を乗せたままで肘を突き、そこを支点に身体を返す。 濡れた小さな頭を抱いた恰好で横へと転がり、一瞬で体勢を入れ替えた。 雪上に組み敷かれたは冷たさにぶるりと身体を震わせ、ややあってからはっとして土方を見上げる。 しかしその時にはすでに、目の前を黒地の浴衣に塞がれていて。 暗く狭まった視界を覆う、余裕たっぷりな薄い笑み。 涼やかな色香を醸し出した甘い無言の問いかけは、たとえ何度目にしようと身体が慣れるものでもなくて。 はふたたびどきりとさせられ、唇をきゅっと噛みしめる。 濡れて艶の増した黒い前髪。そこから滴る冷えた雫が、ぽた、と彼女の首筋へ伝っていった。 「――朝っぱらから火ぃ点けたのはてめえだぞ。 他の奴らが寝床から這い出してくる前に、きっちり鎮めてくれんだろうな」 ほのかな朱色を昇らせたの瞼が、ぱち、と大きく瞬く。土方はそこに親指を這わせ、 愛おしげにそうっと撫でてやった。濡れたこめかみへと指先を流していくと困った様子で目を逸らされたが、 こっちを見ろ、と言い含めるような仕草で頬を撫でれば、熱を帯びてぼうっと輝く女の瞳はゆっくりと光を弱めていく。 彼の指の感触に酔いしれたような表情で、戸惑いながらも瞼をじわりと閉じていった。 きらきらとまばゆい白銀に横たわるしどけない浴衣姿。すっかり蕩けた小さな顔。 腕の中で息を詰め横たわる女を見つめ、土方は満足げな笑みに表情を深める。 薄桃色に染まった頬に唇を落とせば、冷えきった肌はびくりと震えた。 無垢な少女のようなぎこちない可愛らしさに見惚れながら、寒さで色の醒めた唇を柔らかく塞ぐ。 はぁ、と淡い吐息を漏らして彼を受け入れた唇は冷たく、触れれば融ける雪のような儚さで。 ――なのに、凍てつき始めた彼の身体をじわりと融かすほどに熱かった。 ずず、と二人の自重で氷雪に腰が沈み込み、深く沈み込んだぶんだけ辺りの音や気配が絶たれてゆく。 かじかみ動きが鈍くなった身体に反して五感は強まり、やがての縋るような息遣いとぬくもりに頭を占められ、 それだけを追い求めて四肢が動く。後はただ深く、甘い吐息を漏らす柔らかさの奥へと埋もれていった。
「淡雪に眠る」 text by riliri Caramelization 2013/01/13/ -----------------------------------------------------------------------------------