「あ、そういえば。土方さんのおみくじ、まだ見てないですよね」 土方さんの運転するパトカーに乗って、屯所を出てから。 ふと思いついて、食べかけのまま取り上げた土方さんのチョコの袋を開けてみた。 中に入れてあるおみくじをぱらっと開くと、そこには。 『大凶 ちゃんに一生呪われます』 スゴい。さすが土方さん、とあたしはつい拍手で褒め称えそうになった。 だってこれを引くのはある意味特賞、大当たりと同じ確率なのだ。 あの大量のチョコの中にたったひとつしか入れなかった「大凶」を、ここまで見事に引き当てるなんて。 ・・・と、せっかくあたしが胸に湧き上がる熱い感動を伝えたのに。 肝心の当選者はハンドルをトントンと指先で弾きながら、馬鹿にしきった表情でこっちを睨んでくる。 「引き当ててねえだろが。これァテメーが俺に渡したんだろーが。テメーが引き当てたよーなもんだろォが!」 「あ。そっか。そうそう、そういえば。そうでしたよね。 ・・・ええェー、スゴい!スゴいじゃん!さすがじゃんあたし!!」 「ああさすがだな。さすがバカだ。まったくめでたすぎて言葉もねえよ。 つかお前、すげえよ。てめえで作ったバカクジでてめえを呪う気か。まったく二重にめでてえバカだな」 「何言ってるんですか。どーして自分で自分を呪わなきゃなんないの。 てゆーかバカ言うのやめてください。本格的に呪いますよ。総悟に丑三つ参りセット借りてきますよ!? 何かっていうとバカバカ言うヒトはねえ、呪われたって仕方無いんだからね!一生呪いつづけますからね!?」 さっき食べかけたチョコを口に無理やり突っ込んでやろうと、運転中のひとに手を伸ばす。 でも、口に届く前に奪われてしまった。 憤慨しきりなあたしには目もくれずに、面倒そうな顔でガリッとそれを噛み砕くと 土方さんはフロントガラスの向こうの標識をじろりと見上げる。 ぼそっと、強気な口調の独り言を口にした。 「何が呪いだ。んなもんに、今更怖気づくかってえんだ」
君だけの魔法使い 3
「土方さん。・・・・つーか。おいコラ土方」 「何だ。」 「さっき言ったよね。言ったよねあたし。おいしいパスタが食べたいって。」 「ああ。」 「じゃあイタリアンの名店に連れてってやる、って。俺に任せろ、って。さっき、そう言ったよね?」 「言ったな。」 「どこが!?コレのどこがイタリアンの名店!?この崩れそうなボロ道場の、ど・こ・がァァ!!」 育ててもらった恩も返せずに、行先も言わずに飛び出して以来。 数年ぶりに拝んでしまった、冬の夕暮れに赤く染まる懐かしいボロ道場を震える指で指して。 あたしは門柱にしがみつき、必死の抵抗を続けながら抗議している。…というよりは、暴れながら悲鳴をあげている。 ここはあたしが育った家。 町道場を開いている義父さんが、今でも住んでいる場所だ。 ここに着いてからずっと、一瞬たりとも気の抜けない戦いが続いている。 必死の形相で門柱にしがみついているあたしは、今、決して人目につきたくはない、情けない目に遭わされている。 土方さんに着物の背筋あたりをガッチリ掴まれて、衿元がだらしなく開いてしまっていた。 夏の終わりのセミのように、命賭けで柱にしがみついた可哀想な女を 容赦なく引き剥がそうとしているのだ、この鬼は。 「・・・ひどい。ひどいよォ!」 「あァ?」 「何よコレ。どーして?数年ぶりに戻った家の前で、何がどーしてセミの真似!?」 泣けてくるよ。自分が情けなさすぎて、涙が出るよ。 バレンタインって、普通はこんな目に遭う日じゃないはずだよ!?ひどすぎて泣けてくるよ! だってこんなの詐欺じゃない。 あたしが貧乏で「奢り」に目がないのをいいことに、ご飯で釣って騙すなんて。 絶対に家には戻らない、何があっても帰らない、ってあたしが覚悟しているのは 土方さんだって知っていたはずなのに。 やられてしまった。ご飯につられて、すっかり油断していた。 車の中でも、途中から「何かおかしい」とは感づいていたけれど。 いつのまにか懐かしい風景が見えてきて、覚えのある道がどんどん近づいてくるんだもの。 確かに「何が食べたい」なんて聞かれたときにも、変だなとは思った。 でも、まさかここまで。いきなり家まで連れて来られるなんて。 しかもナビも地図も無しに、迷うことなく一発でここへ乗りつけるなんて。100%計画的犯行じゃん! 「何がイタリアンよ。何が俺に任せろ、だよ!返せ!返してよォォ! 浮かれてついてきたあたしのピュアな喜びを、耳を揃えて一括返済しなさいよォォ!」 「バーカ。だからお前は考えが浅せェってえんだ。ナリ見ただけで白黒つけてんじゃねーよ。 いい店ってえのはなあ、隠れ家的な店構えになってんだよ。そうとは見えねえ鄙びた造りになってるもんだ」 「鄙びすぎ!てゆーか純和風家屋じゃん!!イタリアンの気配なんてどっこにも無いじゃん!」 「んなもんわかんねえだろ。入ってみねえことにはわからねえだろーが。おら行け。中入って見て来い。 道場の奥にあるかもしれねえだろーが、イタリアンの名店が」 「ない。絶対ないィィ!あるのは崩れそーなボロ道場と傾いたボロ母屋だけなのォォ!」 「んなこたァねえだろ。まあ、騙されたと思って入ってみりゃいいじゃねえか」 「はァ!?何が騙されたと思って、だよ。もうとっくに騙されてるしィィ!!!」 目の色を変えた土方さんに、いまいましげに舌打ちされる。 ここに着いた最初は、あたしが暴れようが何をしようが、取り合おうともしなかったくせに。 耳元でおかまいなしに喚き続けているあたしに、だんだんムカついてきたらしい。 頬を思いきり掴まれて、手加減もなくぎりっとつねられた。 「っっ痛あひいィィィ!ァにすんのよコルァ土方ァァ!!」 「いーからおら、来いよ。ここからでも聞こえんだろ、中の音が。 聞こえんだろーが。中でイタリアンの巨匠がピザ生地ブンブン振り回してる音が」 「いないのォォ!知ってるもんっっ、そんな人いないから絶対ィィ!! アレは素振り好きの頑固親父が木刀ブンブン振り回してる音だからァァァ!!」 メキッ。 とその時、乾ききった不吉な響きが耳元で鳴った。 あたしははっとして門柱に振り向き、青ざめた。さーっと血の気が引いていく。 ボロ道場と同じに朽ちかけて、立っているのがやっとだった門柱が身体を軋ませ、悲鳴を上げたらしい。 その音に反応した土方さんが、軽く片眉を吊り上げる。けれど、すぐにしれっとした無表情に戻って言った。 「おい。里帰りに来たのか。それとも実家を破壊しに来たのか」 「どっちでもないィィ!アンタに騙されただけですうぅぅ!!」 「んだとコラ、調子づきやがって。いい加減にしろ。 さっさと行って、その甘ったりいのを置いて来い。これ以上、ガキみてえな駄々は通らねえからな!」 苛々とした、険しい声で怒鳴り飛ばされる。 近すぎて耳鳴りがするくらいだ。隊士だった頃の条件反射で、思わず身体が縮みあがる。 土方さんの言う「甘ったりいの」は、あたしの帯に挟まれた小さな袋。 こっそり義父さんに送ろうと思っていた、チョコの入った緑色の袋だ。 「お世話になった人に送る」 あたしが渋々口にした、たったそれだけで。土方さんは送り先を見抜いたらしい。 この家の門前で車を停めると、何も言わずにあたしの胸元にコレを押し込み。 無理やり車から引きずり降ろして、素振りの音と掛声が聞こえる道場まで連れて行こうとした。 今は「ったくよォ」と迷惑そうな顔で、あたしの耳をグイグイと引っ張っている。 「っっ痛ったあい!!切れるぅ、耳が千切れるうぅ!!」 「いいか。俺ァ何も、いきなり親父とツラ突き合わせて来いとは言ってねえ」 土方さんは、あたしの帯に挟まれたチョコの袋を引き抜いた。 人の顔のすぐ前で、わざと見せつけるようにブラブラと振って見せる。 「こいつを道場の軒先にでも置いて、ついでに親父の背中でも眺めてくりゃあ それで許してやるって言ってんじゃねえか!」 「ちょっ。何ですか「許してやる」って。何よ、何であたしが悪いことになってんの? 騙したのはそっちでしょ?何なの!?何なんですかその傲慢俺様ルールは!?」 「っせえなァ。つーかそこまで意地が張れるなら、このくれえ出来んだろ! 意気地振り絞って行って来い。俺じゃねえ、先にあの親父と話をつけて来いってえんだ。 お前と偏屈親父だけじゃいつまでたっても片ァつかねえから、ここまで連れてきてやったんじゃねーか!」 ムッときて、思わず目を見開いた。 あらんかぎりの抗議を込めて、土方さんをきっと睨み返す。 けれど口許を固く引き結んだひとは、ひるむことなく鋭い目線を突き返してきた。 何が「連れてきてやった」よ。どうしてこんなことするの。 心配してくれてるのは解ってる。 でもこんなの困る。突然すぎて、気持の整理がつけられない。 来るつもりなんてなかった。義父さんに会うつもりも、顔を見るつもりもないのに。 こんなの強引すぎるよ。 傍から見れば些細なことかもしれない。でも、あたしにとってはすごく、複雑で。 考えただけで足が竦んでしまうくらい、怖くなる。 会いたくない。 義父さんに会うのが怖い。義父さんの顔を見るのが、怖い。 あたしが急に姿を見せたら、義父さんはどんな顔をするだろう。 見たくない。その瞬間の、義父さんの表情を見るのが。怖い。 「ざっけんなコラ。返事くれえしろ。聞こえねえのか」 あまりに頭にきて。文句が頭に渦巻いて、溢れすぎて。逆に口から言葉が出てこない。 黙って睨み返すだけのあたしを、土方さんは呆れたような口調で叱った。 叱られてもまだ石みたいに固まって黙りこくっていたら、土方さんまで苦々しい顔で黙り込む。 なぜか後ろに回ると、あたしの帯の辺りに腕を回してきた。 「仕方ねえ。そう出るんなら、こっちも手加減無しだ」 身体を後ろへ、ぐいっと引っ張られる。 突き放すような声が、耳元で脅しをかけてくる。 実力行使に出るつもりだ。無理やりここから引き剥がして、連れて行くつもりなんだ。 一気に力で引き剥がされるのかと、土方さんを見上げて構えた。 ところが。帯に回されていた手は、なぜかあたしの口を抑える。 もう片方の手が、下ろしたままになっている髪を一纏めにして掴んで。 それを持ち上げると、肩から胸へと垂らした。 「・・・あの。ねえ、何す・・・っ」 大きな手が、広がって乱れた衿元にすうっと入り込んで。 うろたえて固まったあたしの胸元から首筋までを、硬い指先がゆっくり撫で上げていく。 耳元まで顔を寄せると、笑い混じりにささやいた。 「好きなだけ喚け。」 「え。・・・・っ!」 髪を避けられたうなじに、土方さんの唇が触れた。ちゅっ、と小さく音をたてる。 噛み痕をつけられる、熱い感触に耐えきれなくて。びくっと震えてしまう。 身体の奥がかあっと火照って、きゅっと縮んだ。 「っ、ちょっ、・・・や、やだっ」 うなじに煙草の匂いが当たる。吐息が熱い。嫌がって逃げようとしたら、ふっと笑う声がした。 いっそう身を竦めたあたしの胸を、土方さんの腕がきつく抱きしめる。 肩から力が抜けてしまって、腕が抱きついていた門柱から離れそうになる。 膝が、脚が。力無く崩れそうになる。立っているのがやっとになってしまう。 「まだ残ってんじゃねえか。」 「・・・ぇ、・・・なに・・・・」 「一昨日の、痕が」 「や、っっ」 もう一度、同じところに軽く歯を立てられた。 抑えられた口から洩れてしまった自分の声が、やけに生々しく聞こえて。 驚いて、また身体が縮み上がった。 「これじゃ当分消えねえなあ・・・」 「っ、・・・っ、やだっ、土方さ、離し」 「親父が見たら目ェ剥くんじゃねえか。まあ、俺ァ別に構わねえが」 やだ、どうしよう。こんなところで、誰かに見られたら。 やめて、と大きくかぶりを振ってもがいてみても、また同じところに唇が落とされる。 反応を面白がっているのか、やめてくれない。 いつのまにか大きな手が衿元から忍び込んで、胸をもてあそぶように掴まれる。 抵抗しようにも、もう身体に力が入らない。膝から崩れ落ちそうになった。 「そろそろ観念したか」 耳元でぼそっと、醒めた声が訊いてくる。 と思ったら、あたしの身体は宙に浮いた。抱きあげられて、土方さんの肩へ。 無造作に担がれて、まるで引っ越し荷物のように運ばれる。 門をくぐってすぐ目の前の、崩れかかったボロ道場へ。 軽々と担いだひとは、やってらんねえ、とか何とか、面白くなさそうにブツブツ文句を垂れている。 道場の玄関へ続く石畳を速足で進みながら 「こっちが寸止め喰らったようなもんじゃねえか」と、呆れた戯言まで口走っていた。 それを聞いているうちに、頬がじわじわと熱くなって。あっという間に真っ赤になってしまった。 「・・・・だ・・・・騙した・・・・また騙したあァァァ!!」 「黙れ。おめおめ引っ掛かる奴が悪りィんだ」 「ちょっ、やっ、っっひ、ヒキョー者ォォ!!!」 「好きなだけほざいてろ。何とでも言え。おら、行って来い!」 どさっと石畳の上に降ろされ、チョコの入った袋を押しつけられ。 さらに、ドン、と道場へ向けて押し出された。 大きく乱れた着物の衿元を、あたふたと直して。数歩だけ前へ進んだ。 それでもまだ、義父さんの顔を見る決心なんてつかなくて。怖くなってしまう。 戻りたくなって後ろを振り向いたら。腕組みして身構えている、怖い顔をしたひとと目が合った。 口がパクパク動いてる。何か言ってる。・・・ええと。 ・・・「いいから行きやがれ。怖気づいてんじゃねえバーーーカ」・・・・・ ううっ。悔しいいいいィィィ!!! 仕方なく、やむを得ず。泣く泣く道場へ踏み出す。 深くうつむいて、地面に敷かれた石畳だけを見て。なるべく周りは見ないように、速足で。 見たら駄目だと思った。 もし立ち止まってしまったら。きっと、そこから動けなくなる。 だって、懐かしい。門から一歩入っただけで漂う匂いが。道場から流れてくる空気が。 空を切る素振りの音の響きが。隙間だらけの古い道場から洩れてくる掛声が。 それだけでもう泣きそうなのに。目で周りを確かめてしまったら、絶対に泣いてしまうって、わかってる。 石畳を飛ぶように踏んで、玄関に入って。 視線を上げずに駆け込んで、床にチョコの袋を放り出すようにして置いた。 すぐに踵を返して、慌てて敷居を跨いで玄関を出る。そこで待っていた土方さんと、目が合った。 すると土方さんの表情が、何かにはっと反応した。腕組みがすっと解けた。 「・・・。、なのか」 素振りの音が聞こえない。掛声も。いつのまにか、止んでいる。 呼んだのは、土方さんじゃない。かすれた義父さんの声だった。 聞いたのは何年ぶりだろう。こんな声をしていただろうか。 それとも家を出る前から、こんな声だったんだろうか。 違う。こんな震えたような、乱れた声音じゃない。 あたしが憶えているのは。もっと力強くて、厳しくて。張りのある迷いの無い声。でも。 何も言えずに、義父さんに背を向けたまま走った。土方さんの横をすり抜けて、門から駆け出す。 背の高い木塀に挟まれた細い路地に飛び込んで、夢中でそこを突っ切った。 足が勝手に道を選んでいく。走りながら思い出した。 この道。小さい頃によく遊んだ、幼馴染みの家に続く近道だ。 木塀が両側から迫ってくるような、薄暗くて息苦しい視界の中で。 頭の上にぽっかりと抜けた赤い夕空だけが、まぶしかった。 何も考えられずに、オレンジ色に発光する夕陽を。 手を伸ばしたら掴めそうなオレンジを、ぼうっと見上げながら走った。 日暮れの深い赤に染まった、人通りの少ないさびれた商店街を走り抜ける。 通りを歩く人達からは目を逸らした。見れなかった。 懐かしい駄菓子屋の前を。幼馴染みの家の前を。通っていた寺子屋の前を、通り過ぎて。 あたしの足は、育った家の次に懐かしい場所を目指して。勝手に走り続けていた。 はあはあと、息が切れる。心臓がとくとくと、高く速く鳴っている。 いつのまにか辿りついていた、懐かしい場所。 夕陽の影に落ちて薄暗い、小さな赤い鳥居の立った神社の境内では 十年前のあたしと同じように、寺子屋帰りらしい女の子たちが縄跳びで遊んでいた。 息を切らして境内に飛び込んできたあたしを、あどけない目をした子達が遠慮もなく、不思議そうに眺めてくる。 ざわざわと、血が騒ぐような落ち着かなさに襲われながら。 あたしの耳の中で、聞いたばかりの義父さんの声が鳴った。かすれておぼろげな、耳鳴りのように。 それを聞いたら、色んな思いが押し寄せてきた。 小さかった頃。厳しかった稽古。音をあげて木刀を放り出すあたしを叱る、義父さんの声。 家を出たときのこと。 逃げるようにして門を抜けたときも、道場からの素振りの音が追いかけてくるような気がして。夢中で走った。 最後に義父さんの姿を見た、の家の墓前。 手を合わせている背中が、小さく縮んだような気がして。悲しかった。 もし隣にあのひとがいなかったら。 あたしは泣きじゃくったままで、墓地から一歩も動けなくなっていたかもしれない。 ごめんなさい。許して。 声が聞けた。よかった。ううん、もう忘れて。 義父さん。ずっと元気でいて。ごめんなさい。ごめんなさい。 呼んでくれて、ありがとう。 数え切れないくらいたくさんの感情の波に、一瞬で呑み込まれて。 わけがわからなくなって、あたしは泣いた。 遊んでいた女の子たちが縄跳びの手を止めて、あっけにとられてこっちを見ている。 見られるのが恥ずかしい。それでも涙が止まらない。 一際強く鮮やかになったオレンジ色を放ちながら、沈んでいく夕陽を見上げて。震える声で泣いた。 ひとしきり泣いて。 いつのまにか、女の子たちがいなくなっていることに、やっと気づいた。 一人でぽつんと、夕暮れの寒空の下に立っているのに。さみしくもなければ、せつなくもならない。 胸の奥から、ほのかな暖かさが湧いてくる。 夕陽の色をしたやさしくて懐かしい灯りが、ほわっと胸に灯ったみたい。 ずっと心の奥で澱んでいた何かも、涙ですっかり洗い流されてしまったような気がした。 夕陽がすっかり落ちた頃に、着物の袖で涙を拭っていたら。ポン、と頭を叩かれた。 くしゃくしゃと、あたしの髪を掻き回す大きな手が。ひとことだけ云った。 「いいのか」 「・・・うん」 「走って逃げたまんま、挨拶も無しか。親父のツラもろくに拝んでねえだろう」 「・・・・・うん。いいの」 それだけ言って、深く頷いた。 こっちをじっと見下ろしていた土方さんは、なぜか深い溜息を吐いた。 何か文句を言いたげな顔で、もどかしそうに頭を掻く。 それから腰のポケットに手を突っ込み、入口に立つ赤い鳥居に向かって歩き出した。 闇に落ちた神社の境内を、その闇色よりも濃い色の隊服を着たひとが遠ざかっていく。 大きな歩幅で進むその背中を、あわてて追いかけた。 あたしも驚いたけれど。義父さんはあたし以上に驚いただろう。 家を飛び出したきりの娘が、いきなり道場の前に立ってたんだもの。 すごく戸惑っただろう。呼ばれたのに、返事もしないで逃げ出してしまったから。 でも。声が聞けた。 義父さんには悪いと思ってる。けれど今のあたしには、それだけで。 「挨拶なんて。いまさら虫が良すぎるよ。いまさら顔出したって。・・・あたし。 義父さんには何も言えない。何も出来ないよ。ひたすら謝るくらいしか出来ないもん」 「んなもん求めちゃいねえだろうよ、あの偏屈親父は」 「え?」 「どうせ口にはしねえだろうが。腹に抱えてるこたあ、お前とそう変わらねえはずだ。 詫びも手土産も、遠慮も無しだ。お前が顔さえ出してやりゃあ、それで済む」 「・・・・そうかなあ」 泣き腫らした目を袖で擦りながら、少し先を歩くひとに目を向ける。 先に立つ鳥居のあたりを見上げている横顔を、ぼんやり眺めているうちに。あたしは首を傾げていた。 何なのかわからない。何か説明のしようがない、ふっと沸いてきた不思議さに捉われた。 「親ってえのは。ありゃあ、難儀なもんだな」 ぽつり、と独り言のように、土方さんは漏らした。 「ガキのためならいくらでも、重てぇ荷物を負いたがる。 俺にゃさっぱり判らねえが。ガキに背負わせるくれえなら、てめえで背負うのが本望なんだろ」 あたしに言っているのか。それとも自分に言い聞かせたのか。 どちらともつかない口ぶりだった。 見上げた夜空の向こうのような、もっと遠くのどこかへ向けている声。そんなふうにも聞こえた。 けれど。それを聞いて気がついた。さっき言われたことを、もう一度思い返した。 腹に抱えてるこたあ、お前とそう変わらねえはずだ。 さっき、このひとはそう言った。 土方さんはお寺で義父さんの姿を見ているけれど、義父さんはこのひとの顔なんて知らないはずで。 お互いに今日が初対面。これまで一度も会ったことなんてないはずだ。なのに。 言われたときは、何の不思議も感じなかった。 あたしを慰めるために口にしてくれた、ほんの憶測なんだろうと思ってた。 でも。ほんとうにそれだけだろうか。 あの口調には、ただの憶測にしては確かなものが。もっと強いものが籠っていた気がする。 「土方さん。もしかしたら。前にも義父さんに。・・・会ってた?」 呼吸するのと同じ自然さで、ちいさな疑問はあたしの口をついて。いつのまにか、かすれた声になっていた。 眉ひとつ動かさずに、仏頂面で立ち止まったひとの前に回ってみる。 ねえ、と顔を覗き込んで繰り返し袖を引いたら、あっさり手を払われた。 一歩踏み出したひとが、あたしの頭を軽く小突く。黙って通り過ぎていく。 その横顔を、あたしは目を曇らせて見上げた。 いつもと何も変わりない。表情の薄い、厳しい面立ち。 なのに鳥居のむこうの夜空を見上げた目線は、一瞬だけ揺れた。 戸惑ったような、困ったような。ぎこちない笑みが口許に、わずかに浮かぶ。 視線が揺らいで、ちらりとこっちを流し見て。一瞬で厳しい顔に戻った。 速足に歩く背中は、どんどん離れていく。 見慣れた背中が離れるほどに、胸がざわめいた。また泣きそうになった。 このひとは、いつもそう。 訊かれても応えにくいことに、はっきりとは応えてくれない。 土方さんのいつもの癖。ただ黙って通り過ぎていった、ぎこちない無言の肯定。 ああ。まただ。 あたしの知らないところで、あたしの目には届かないように。 あたしが気づかない何かを、このひとはしているんだ。自分のためじゃなくて、あたしのために。 「おい。何やってんだ。てめえん家まで戻らねえと、車が・・・・」 鳥居の真下で振り返った土方さんが、こっちを向いた。 暗闇に突っ立ったままのあたしに気付くと、しばらくそこに立ち止まって待っていた。 けれど途中でしびれを切らしたのか、足早にこっちへ戻ってくる。 目の前に立った人は、ふっと表情を緩めると。あたしの顔を覗き込んで、苦笑いを浮かべた。 「馬鹿。なんてツラしてんだ」 「だって。」 声を出したら、肩が震えた。 涙が溢れて、止まらなくなる。 「土方さんだって。・・・・頑固親父と同じだよ。何よ。人のこと言えないじゃない」 今までに付き合ってきた人達の前では、泣いたことなんて滅多になかった。 親の前でも。友達の前でも。少なくとも、こんなに泣き虫じゃなかったのに。 どうしてこのひとの前だと、我慢出来なくなるんだろう。 「いいのに。今だって忙しいのに。真選組のことで手一杯なのに。どうして。 ・・・どうして。あたしが知らないところで、あたしのことまで背負ってるの」 「背負うより他に仕様がねえだろ。俺ァ、とうの昔に呪われちまってるからな」 「呪うって。・・・何に。・・・あたしの、おみくじに?」 ぼんやりと訊き返したら、片手でぎゅっと肩を掴まれた。 少し乱暴で痛かったから、困ってその手を見下ろした。 うつむいたら、土方さんが顔を寄せてきて。泣き腫らした目元に唇で触れる。それから素早く、唇を重ねられた。 熱い感触と、突然さに驚いて。あたしはひゃっ、とマヌケな悲鳴をあげて身を縮めた。 「てめえが呪いみてえなもんじゃねえか。何かってえとびいびい泣いて煩せえ、化け猫の呪いだ」 すぐ目の前で、口端が片方だけ上がった、意地の悪そうな顔でニヤっと笑う。 掴まれていた肩から手が離れて、またくしゃくしゃと髪を掻き回し始める。 「おい。決まったか」 「・・・・・っ・・・・なに、が?」 あたしはごしごしと、痛いくらい強く目を擦った。 きっと真っ赤に腫れている。マスカラも落ちちゃったかもしれない。 上からの視線を気にしながら、ぐすぐすと詰まった声で訊き返す。 すると、いつもより険の無い、穏やかな返事が返ってきた。 「まだ決まらねえのか」 「だから・・・・何が?」 「だから。・・・ったく、何も聞いちゃいねえなあ。 つーかさっさと決めろ。何が喰いてえんだ。今日は特別に、何にでも付き合ってやる」 「・・・いらない」 「は?ァんだとコラ。人がせっかく気ィ遣ってやろうってえのに。いい度胸じゃねえか」 不満そうに睨んでくる顔を見上げて。あたしは笑った。なぜか嬉しかったから。 どうしてだろう。嬉しい。叱られるのが、すごく嬉しい。 怪訝そうに訊き返してきた、拍子抜けした声が嬉しい。 まるで何もなかったみたいに、普段通りに叱ってくれるのが嬉しい。 優しい言葉で慰められるよりも。大きな手が髪を掻き回しながら、無造作に頭を撫でてくれるのが嬉しい。 「いらない。もう、何も欲しくない」 そこからあたしは、自分がどう動いたのかわからない。ただ夢中で、思いきり腕を伸ばした。 気がついたら、土方さんの胸に。隊服にしがみついて、泣きじゃくっていた。 「もう、いい。・・・んにも、いらない。もう、一杯・・・貰ったもんっ」 涙でぐちゃぐちゃな顔を、ごしごしと土方さんの胸に擦りつけながら。何度もかぶりを振った。 駄々をこねている子供みたい。 ああ、ほんとにあたしって馬鹿みたいだと、可笑しくなる。胸が詰まって笑えそうにないけれど。 上手く笑えないけれど。上手く言えないけれど。 それでも伝えたくて。これだけは、伝えておきたくて。 涙声で、途切れ途切れにつぶやいた。 「何にもいらない。ただ、一緒に、いてくれたら。それだけで、いい」 土方さんの胸に顔を埋める。広い背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。 煙草の匂いに包まれながら、心の中で何度も繰り返す。 同じことを、何度も繰り返し唱えた。 いらない。何もいらない。もう、何も欲しくないの。 こうして一緒ににいてくれるなら。他に何もいらないの。 どんなに優しいひとも。どんなに素敵なひとでも。他の誰でも、意味がないの。 どんなに柔らかくて滑らかな、甘い言葉も意味がない。 優しく撫でてくれるような慰めの言葉も。上手に触れる器用な手も、欲しくない。 いつになったら気づいてくれるのかな。 「あたしのための何か」なんて、本当はもういらないのに。護ってくれなくていいのに。 あたしの嬉しいも悲しいも、さみしいも。楽しいも、せつないも、涙も笑顔も。全部。 みんな、あなたがくれた。全部ここにある。煙草の匂いの染みついた、温かい腕の中にある。 他にいらないの。 他のひとじゃなくて。あたしが欲しいのはこの手だけ。この声だけ。 拙いくらいにぶっきらぼうな言葉が、そっとあたしに触れてくる。 熱くて硬い指先が、ぎこちなく頬に触れるみたいに。 自分でも可笑しいけど。それだけで嬉しいの。 ただそれだけのことで、泣きたくなるくらいに嬉しくなるなんて。 こんな思いは知らなかった。このひとに会わなかったら、知らなかった。 「土方さん」 「ああ」 ぼそっと言い捨てるような。短い返事が、いつもどおりに素っ気なく返ってくる。 それを聞いたら、また涙が湧いて。色んな思いが押し寄せてくる。 さっきここへ着いたときと同じだ。 ありがとう、なんて感謝の言葉じゃ言い足りない。 ごめんなさい、でもない。全然足りない。他のどんな言葉に変えても、きっと言い尽くせない。 このひとにしか向けられない思い。たったひとつしかない、特別な思い。 いつも思っていることなのに。口にしようとするたびに、唇が震えそうになる。声が小さくなる。 「好き、っ」 か細くなった声が、抱きついた胸に。温かい隊服を通して、あたしの浅い息遣いと一緒に吸い込まれていった。 「どんな呪いだ、そいつは」 思い切って口にしたのに。 返ってきたのは、どうでもよさげで醒めた口調だった。 しかも、言われたあたしが思わず顔を上げて、目を丸くしたのが可笑しかったらしい。 くくっ、と喉の奥で、笑いをこらえて表情を崩した。 ・・・気持ちはありったけ込めたのに。全然届いていなかった。 届くどころか、肩透かしを食らってしまった。真に受けてもらえない。 「・・・もう。真面目に、言ってるのに・・・」 滅多に言わない言葉を、二度も言わされる恥ずかしさで顔を覆って。 あたしはもう一度、同じセリフを口にしようとした。 けれど二度目ともなると、夢中だったさっきまでの勢いはどこかに消えてなくなっていて。 たった二文字の言葉が声にならなくて、涙目でひたすら口をパクパクさせていた。 すると「もういい、やめとけ」と、頭を抑えられて遮られる。 「また泣かれちゃあ、敵わねえ」 頭の後ろに回された手で乱暴に引き寄せられて、また土方さんの胸に顔を埋めた。 頬に添えられた手が、首筋へと這っていって。硬い指先がすうっとうなじを撫でてくる。 あっ、と口をついて出そうになった甘い声を、隊服に顔を押し付けて噛み殺した。 「仕様がねえ。一生呪われてやるから、てめえも覚悟しろ」 からかうような口調で、耳元にささやいてくる。 局内一の吐かせ屋にしては、棘も殺気も凄味も無い。苦笑気味で柔らかい、ちっとも迫力の無い脅迫だ。 隊服から顔を離して、見上げると。 こっちを眺めていた目が、ふてぶてしい笑みに細められる。 吐息と一緒に近づいてきた唇が、耳を噛むようにして触れて。頬へと移る。 このくすぐったい温かさと、慣れてしまった煙草の香りだけで。幸せな気持ちになる。 そっと目を瞑って、唇が重ねられるのを待つ。意味もなく、届くまでの秒数を唱え始めた。 1、2、3、4。 口の中でぼんやりと唱えた5秒目を。肌に馴染んだ体温と、どこか懐かしい煙草の匂いが塞いだ。
「 君だけの魔法使い 」end text by riliri Caramelization 2009/02/14/ -----------------------------------------------------------------------------------