車窓の向こうを流れる夜を、あたしはぼんやり目で追った。
星が見えない闇色の空。高々と天に伸びるビルやターミナルを淡く照らす、心許なさそうにぽつりと浮かぶちいさな月。
青ざめた光を放つそれは、水に溶けていく氷みたいにとろりと透けて見えていた。
「――ねぇ土方さん。見てくださいよー、あの月」
「・・・・・・」
話しかけながら、あれっと思う。普段通りに出したつもりだった声は、掠れ声どころかひび割れている。
生気もごっそり抜け落ちていた。まるで枯れきったおばあさんの声だ。
自分でも驚くような「らしくなさ」に戸惑って、ちらりと運転席を見たら、
――隣のひとは睫毛一本動かしていない。
声をこらえてこっそり笑った。普段と変わらない無反応さに安心したから。なのに、その安心だけじゃちょっと物足りない気もする。それは
たぶん、あたしが好きなひとと二人きりの時間を過ごせるしあわせに慣れてきたから。一生叶わない思いだと
諦めていた頃よりも、うんと贅沢になってしまったせいかもしれない。
「きれいですよねぇあれ。カクテルの中に浮いてる氷みたいじゃないですかぁ。
そーだ、帰ったらお月見しましょーよー。あの月を肴にビールでも、くいっと」
「・・・ざっけんな。今朝方は死にかけてた奴がけろっとぬかしてんじゃねぇ」
「ぇえーもう大丈夫ですよー、傷口はきれいに縫ってもらったし、輸血も点滴もしてもらったし。むしろ普段より健康なくらいで」
「そこの月より青白れぇ面した奴のどこが健康だってぇんだ。いいから黙れ。屯所に着くまで眠ってろ」
隣でハンドルを握るひとの凄んだ声に、取りつくしまもなく遮られた。
・・・場を和ませる冗談のつもりだったのに。
空に向けた指をへなへなと下げる。麻酔のせいで動きが鈍っている身体をシートに沈めると、
ふぅっと自然に溜め息がこぼれた。白糸みたいな煙が漂う運転席に視線を送る。
口端の煙草を噛みしめ気味にした横顔は、どことなく剣呑な硬い表情。
頭から足先まで闇の色に同化してしまいそうなひとの背景を、車窓を透した夜の街が過ぎる。
派手な虹色を撒き散らしたような鮮やかな光が流れていく。深夜を回っても人がひしめく繁華街。
隙間を開けた窓から忍び込んでくる喧騒の気配。管轄区域の取り締まりや市中見廻りで見慣れたはずの夜の街は、
今日はまるで映画のセットみたいに空々しかった。
――それは今のあたしがくたくたに疲れきっていて、今にも眠ってしまいそうなくらいぼろぼろになってるせいなんだろうか。
「・・・・・・。おい、」
「はい?何ですかぁ?あ、もしかして一杯くらいなら飲ませてやってもいいかって気に」
「なってねえ。お前、こっちばっか見てねえで目ぇ閉じろ」
弱った時は寝るに限る。
独り言のようにつぶやいたひとは、それきり口を閉ざしてしまう。普段は一方的に喋り倒すあたしがこんな調子だ。
病院を出て車に乗り込んでからというもの、車内はずっと静かだった。
前方から目を逸らそうとしない横顔に、慌ただしかった今日一日の疲れが薄い影を落としてる。
煙草臭くて汚れた上着を口の高さまで引き上げて、あたしはふにゃりと頬を緩めた。
嗅ぎ慣れた煙草の香り。男のひとの匂い。分厚くて重い上着の触り慣れた感触。手を伸ばせば届く距離にある土方さんの気配。
消毒薬の匂いだけが漂う無機質な病室では感じたくても感じられなかった、慣れた近さと温かさにうっとりと目を細める。
人の声が消えた暗い車内には、窓から吹き込む風音と無線からの微かなノイズが響いていた。
「・・・・・・土方さぁん、まだ怒ってるんですか」
「怒ってねえ」
「怒ってますよー。顔が怒ってるじゃないですかぁ」
「これは地顔だ。人の面構えに文句つける暇があんなら、一分でも多く眠っとけ」
「・・・はぁい」
またこれだ、と心の中で舌を出す。今日の土方さんはふざけた遣り取りにちっとも応じてくれない。
何か馬鹿げたことでも言おうものなら、鋭い視線ときつい口調が矢の勢いで飛んで来る。
だけどそれも心配の裏返しなんだってことは判っているから、あたしは大人しく口をつぐんだ。
車はいつもより荒めな運転で進んでいく。屯所を目指して夜の街を滑っていく。深夜の短いドライブが終わるまであと何分だろう。
急いで戻るつもりなのかもしれない。車は渋滞のない車線を選びながら、左に右に車体をくねらせて走っていく。
前方に割り込んできた黒いセダンに、土方さんが舌打ちする。大きく、勢いよくハンドルを切る。そのおかげで、ただでさえ頼りなくぐらついていた
あたしの頭が思いきり窓に衝突した。
・・・痛い。頭がじんじん痺れてる。普段なら「痛い!」って叫ぶレベルだ。だけど今日はそんな元気すら残っていない。ただ横を向いて、
運転席を恨みがましい半目で眺めるだけが精一杯で。
「あのー。あたし、それなりに重症ってことになってるんですけど」
「知るか。お前が窓にべったり張りついてっからだろーが」
「・・・あーそーですねー、はいはいそーですよねー今日は何でもあたしが悪いんですよねーすいませんでしたー」
「フン、完全に棒読みじゃねーか」
「ところで土方さぁん。まだ怒ってますかぁ?」
「・・・・・・」
不意打ちを狙ってみたけれど、やっぱり返事は返ってこない。この車に乗ってんのは俺だけだ、他に誰もいねえ、って顔が
フロントガラスを睨みがちに見据えてる。かと思えば、唇を薄く開ける。何か応えてくれるのかと思わず身構えてみれば、
それはただ、つまらなさそうに煙を漏らすだけの仕草だった。
あーあ、と心の中で肩を竦める。腫れて重たくなった瞼をぱちぱちと瞬かせながら、土方さんをじいっと眺める。
こんな距離だ。もちろん視線には気づいてるはず。それでも無視を決め込むつもりなのかな。半分はご機嫌伺いのつもりで、
もう半分は興味本位で面白がって、そーっと顔を近づけてみる。しげしげと遠慮のない目で眺めれば、影を纏った横顔はこっちへすっと視線を流した。
信号が赤に変わる。交差点前で乱暴なブレーキを掛けると、土方さんがあたしの眉間に指を構える。
もう身体に馴染んでしまったあの煙草の香りに、鼻先をふわりとくすぐられた。
「目ぇ閉じろっつっただろうが」
「――っ。・・・・・・・・・・、はぁい」
ぱしっと眉間を弾いてきた指先に、普段の手荒さは感じられなかった。声には苦笑が混じっていた。
だけど表情は硬いまま。信号が青に変わって、長い指がウインカーを弾く。
緩めにアクセルを踏み込んで、手早くハンドルを切る。見慣れているその姿から滲み出る気配は、深い思索に沈み込んでいるみたいに重たいままだ。
土方さんはずっとこんな顔をしている。病院を出る前から、―― ううん。もっと前からだ。
あたしが現場で怪我をして病院へ運ばれた時も。手術が終わって麻酔が切れて、病室のベッドで目を覚ました時も。
脚を斬られて自力では起き上がれなくなったあたしを黙って見下ろしていたのは、ずっとこんな顔だった。
(病院はいや。どうしても帰りたい。)
下手な泣き落としで駄々をこねて困らせて、とうとう根負けしたひとに屯所へ連れ帰ってもらうことになったのは
日付が変わる直前で。深夜の警察病院で無理を通して、退院許可を出してもらうまでに一時間以上。その間、
土方さんはあたしに代わって何度も頭を下げてくれた。鬼、なんて異名が巷に罷り通ってるようなひとだ。
土方さんを知る誰もが、あれを目にしたら驚くだろう。もちろんあたしだって驚いた。
(…あたし、まだ夢を見てるのかな。)
そんなふうに自分の目を疑ったくらいで――
・・・・・・どうして。どうして土方さんは、あたしを連れ帰ってくれたんだろう。
人に頭を下げてまで、あたしの子供みたいな我儘に付き合ってくれた、
――その理由すらわからない。
もしも誰かに頭を下げざるを得ないことがあったら、後でそいつの頭を
自分の倍は下げさせてやる。そのくらいのことは思っていそうな、矜持も気位も人並み外れて高いひとが――
「――とにかくだ、てめえは医者が退院を渋る程度には重症だ。当分は部屋に籠って大人しく寝てろ」
「えぇー、大丈夫ですよー働けますよー。・・・まぁこの脚だし、外回りは無理っぽいけど・・・」
掛けて貰った土方さんの上着をゆっくり撫でる。煙草の匂いが染みついた生地を通して、自分の左腿に触れてみた。
びしりと巻かれた包帯の中で、縦に長い傷口が疼く。斬られて隊服が裂けた右腕からも、かすかな痛みが主張してくる。
生々しく痛む二つの傷は、ここへ座ったときよりも熱を増している。あたしはこっそり眉をひそめた。
数か月がかりで追っていた攘夷浪士たちを命令無視で追走した最中、袋小路へ追い込まれて出来た傷。
やむなく負った刀傷は、今までに受けた傷の中で一番の深手で。痛み止めは打ってもらったのに、
それでも疼いて鳴りやまない。嫌になるくらい規則正しく、つきん、つきん、と鼓動のように響き続けている。
(使えるようになるまで十日。完治までには一ヶ月以上。)
そう診断された利き腕を目の前にかざす。手をきゅっと握って、筋肉が引き攣れるような痛さをこらえながらゆっくり開く。
大丈夫。どの指も動く。神経はしっかり繋がってる。麻酔から醒めた病院のベッドの上でも何度も確かめたことにまたほっとして、
その手を隣に振ってみせた。
「見てくださいよー、ちゃんと動くでしょ?これなら雑務くらいこなせますってば」
「立てもしねえ奴に雑務なんざ任せられるか。・・・それに、どのみちお前は向こう一週間の謹慎処分だろうが」
「あ、そういえばそーでしたっけ。すっかり忘れてましたよー」
「・・・・・・ったく、何が忘れてましただ?妙にすっきりした面しやがって」
眉間を顰めた隣のひとに、すいませーん、と呑気に笑ってみせる。
ちょっと無理をして作った笑顔は、まだ神経が麻酔から醒めきっていないせいか引きつり気味になってしまった。
そんなあたしを何か言いたげに眺めてから、土方さんが脱力したみたいに長々と、は―――っ、と深く煙を吐く。
口端から抜き取った煙草を挟んだ指が、狭まった眉間を苛々と揉んだ。ぱん、とその手でハンドルを叩く。行き交う車が放つ光が尾を引き流れる
暗い路上に、闇を裂くような高いクラクションが鳴り渡った。
「おい。まさかお前、謝りゃ何でも赦されるとでも思ってんじゃねえだろうな」
「・・・ほらぁ。やっぱり怒ってるじゃないですかぁ。どーしちゃったんですかぁ・・・?おかしいですよー今日の土方さん」
命令されていた任務の遂行放棄。そこに加えて、追っていた攘夷浪士どころか仲間まで攪乱する身勝手な行動。
あたしがしでかしたことは、誰が見たって隊規を乱す服務違反だ。
命令を破った瞬間にもう覚悟は出来ていた。それなりの処分はあるだろうし、麻酔が醒めると同時に、
土方さんに拳骨の十発や二十発は落とされるだろうなって。
なのに今日の土方さんは、拳骨どころか一度として怒ろうとしない。
それどころか深夜の病院で何度も頭を下げて、文句も言わずに連れ帰ってくれた。
我儘を聞き入れてもらったことは嬉しかったし、正直、その時は看護師さんたちの目も
憚らずにぐずぐず泣いてしまうくらいほっとした。だけど、
――よく考えたら、そんな土方さんなんて逆にこわい。珍しく優しい、なんてレベルを通り越してるからこわい。
むしろ嵐の前触れみたいで不気味なくらいだ。
なんてことを思ったままに訴えたら、フロントガラスを睨んでるひとの眉間の皺がじわりじわりと深まってきた。
普段はあまり感情を露わにしない切れ長の目に、苛立ちの色が浮かんでくる。真っ黒な前髪で半分隠れたこめかみに、
びしっと青筋まで浮き上がる。それでも頑として唇を噛みしめたままだから、あたしまで溜め息をつきたくなった。
「・・・ひょっとして遠慮してるんですか?怪我人だから怒鳴りつけるのはやめておこうとか、
そーいうらしくないこと考えてたりするんですかぁ?いやですよーやめてくださいよー、却ってこわいですよそれー」
「はっ、笑わせやがる。俺が今更お前に遠慮する必要なんざどこにある」
「えー。それはー、・・・・・・・・ないんですかぁ?ひとつも?」
「ねぇな。一つも」
「土方さん。それはそれでこわいです」
「〜〜〜〜うっせえぞコラ。今のはあれだ、物の例えってやつだろーが。いちいち茶化してくんじゃねえ」
「ほらぁ、それですよそれ。そーやっていつもの調子で怒ってくれたほうがいいですよー。
そりゃあ土方さんの拳骨は泣くほど痛いし、怒鳴られるたびにヘコむけど・・・」
怒鳴られたほうがまだマシだ。こんな時に何も言ってもらえないのって、結構堪える。
急に距離を置かれたみたいでさみしい。硬い顔してひたすら黙りこくってる土方さんを見てると、こっちだって調子が狂ってしまう。
「こーいう事をいつまでもねちねちと根に持たれるのってキツいですよー。だったら思いきり怒鳴られるほうが全然いいもん」
「・・・・・・」
交差点前に差し掛かった車にブレーキを掛けながら、土方さんは大きく煙を吐いた。灰皿に押しつけた吸いさしをぐしゃりと潰す。
何かを仕方なく諦めたひとが漏らすような重く沈んだ溜め息が、車内に薄い紗を掛ける煙の白と共に広がっていく。
「――お前、俺が怒鳴ればやめるのか」
「・・・・・・」
問いかけられて息を詰めた。静かに切り出された低い声音に、心臓を掴まれたような気分になってしまった。
黙って目を見張っていると、土方さんが唇を噛む。やっぱりな、とでも言いたげに確信を得た目があたしを射抜いた。
「そうじゃねえだろ。俺が怒鳴ろうが殴ろうが懲りやしねえだろ。今後どこかで似たような局面に出くわせば、
また今朝方のあれみてぇな、目も当てられねえ危なっかしい真似に走るんじゃねえのか。どうせ手前のやりてぇようにやるんだろうが。おい。違うか」
・・・この程度の怪我で懲りるような利口者じゃねえこたぁ、とうの昔に判ってんだ。
独り言めいた声がつぶやく。は、と自嘲気味に笑い飛ばすと、
「組織を預かる立場として、お前の行動を認めるわけにはいかねぇ」
「・・・うん」
「路頭に迷ってくたばりかけた馬鹿女を、行きがかり上預かった責任者としてもだ。・・・・・・こんなこたぁ最後にしろ。いいな。肝に銘じとけ」
「・・・・・・・」
そう言われても――頷けない。
もしここでその場凌ぎに「はい」と頷いてみせても、このひとはあっさりと見抜くだろう。
包帯の白で覆われた自分の腕を、泣き笑いのような情けない顔で見つめることしか出来なかった。
「おい。返事はどうした」
「・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい・・・」
「――・・・・・・。それが返事か。ったく・・・」
懲りねぇ奴だ。そう言って、土方さんは苦い顔でわずかに笑った。
ざあっ、と強く流れ込んできた窓からの風音が耳を塞ぐ。窓の向こうを見据えたひとが何かをつぶやいた声も、
スピーカーからがりがりと漏れていた無線の音も、深夜の冷えきった風に掻き消される。明滅していた信号が青に色を変えて、
路上に光の波を灯す長い車の列がゆっくりと動き始める。
「・・・土方さん」
「何だ」
「・・・・・・あたしが血まみれで倒れてた時、びっくりした?」
「ああ。こっちまで血の気が失せた」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい・・・」
「真に受けんな。冗談だ」
――嘘。わかってる。そんなことを冗談で口にするようなひとじゃないって。
ハンドルを握る白いシャツの腕にそっと縋ったら、途端にせつない気分が溢れてくる。なんだか急に、泣いてしまいたくなった。
唇を噛みしめてこらえていたら、照れ臭くて素直に言えなかった言葉が喉からほろりと零れてきた。
「土方さん。・・・連れて帰ってくれて、ありがとう」
「――・・・」
「・・・一人でいるのがこわかったの。昼からずっと病室でひとりぼっちだったし。脚はぜんぜん動かないし、心細くて・・・」
「・・・もういい、話は済んだ。着くまで寝てろ」
遮るように土方さんが腕を伸ばしてくる。視界を塞ぐようにして広げられた手のひらが目元を覆う。
当てられた手の乾いた熱を受け止めて、重苦しい気分で目を閉じた。
眠れ、と言い聞かせるような仕草で目元や額を撫でられる。
あたしは黙って頷いた。運転席のほうへ身体を向けて、黒革のシートに頬を埋める。
目元を覆った手のひらの熱と重みが心地いい。身体中に響くかすかな痛みを弱めてくれるような気がした。
――認めてもらえなくても、いい。
認めてほしい、なんて言わない。許してほしい、なんて言わない。
それでもいつかまた、今日みたいな局面に立たされたら。
あたしはきっとまた勝手な真似をする。
理由なんてたったひとつだけだ。土方さんの役に立ちたいから。ただそれだけのために
一分の迷いもなく命を賭けてしまうあたしを、このひとが持て余してしまうのは当然のことで。
(認めるわけにはいかねぇ。)
そう言われても、突っ撥ねられても、全否定されても仕方が無い。それでもいい。
人よりも少し剣の遣い方を知っているだけの小娘。土方さんに拾われるまでは、人を殺めるためだけに生かされてる人形にすぎなかったあたしだ。
他には何も持っていないから、だから――自分の命くらいなら、このひとの傍に居られる理由と引き換えに差し出してもいい。
ごく自然にそう思えてしまうのは、一度心を失くしたあたしのどこかが、今でも壊れたままになっているせいなのかもしれないけれど――
「・・・ごめんなさい・・・」
そんな自分に、こんなふうに無言の優しさを注がれるほどの価値があるとは思えない。
どうしようもなく心苦しくなって、ひび割れた声で許しを乞うように繰り返した。
けれど、隣の人からの返事はなかった。
遠くのどこかで救急車のサイレンが鳴っている。
街を漂う夜の香りを連れた風が窓から吹き込む。ふわりと肌を撫でては過ぎる。
やがて手は離れていったけど、肌に残った温もりのせいであっという間に眠りに落ちた。
「――着いたぞ。起きろ」
無愛想な呼び声を、暗く閉じた意識の内側にぼそりと投げかけられて。
ふぇ…、とあたしは寝惚け声を漏らす。ぽん、と頭を叩かれて、びくり、と身体が揺れを起こした。
起こすついでみたいに髪を撫で下ろした指の先に、目ぇ開けろ、と腫れた目元をぎゅうぎゅうと押される。
・・・ここはどこだろう。どのくらいの間眠ってたんだろう。薄目を開けて、潤んだ視線を車窓に向ける。
車はもうエンジンを止めていた。しんと静まった闇の空気には機械油の匂いが混じっている。
照明が数か所を照らすだけの広い場所だ。街を走っていたはずの車は、いつのまにか屯所の車両庫に辿り着いていた。
「聞こえてんのか、おい。目ぇ覚ませ」
「・・・んぅぅ・・・。ふぁあぃ・・・・」
欠伸混じりの生返事に、隣の席で苦笑いが漏れる。起きなくちゃ。そう思うのに身体はまだ心地良いまどろみに溶けていて、
意識は底へ底へと沈んでいく。うつらうつらと目を閉じた頃に、土方さんが車体をぐらりと揺らして車を降りる。ばん、と強く運転席のドアが鳴った。
数秒も経たないうちに助手席のドアががちゃりと鳴る。
車内の温かく緩んだ空気が逃げていく。おい、と呼ばれて気配が近づいてきた。何が起こってるのかもわからないうちに、
しゅる、と胸元を滑ったシートベルトが勝手に身体を離れていく。
ようやく瞼を上げると、開けたドアの向こうで腰を屈めている姿と視線が合った。
白いシャツの袖を肘まで捲り上げた腕が、まっすぐに手を差し伸べてくる。見た目よりも力強いその腕に黙ってしがみつけば、
当然のことのように抱き上げてくれた。
無音の車庫に、硬い靴音だけがかつかつと響く。速い足取りに合わせて、肩に担ぎ上げられた身体はゆらゆらと揺れた。
「・・・・・呑むか」
「え・・・?」
「酒だ」
思いついたようにぼそりと漏らして、土方さんは足を止める。頭上に何かを見つけたような視線を向ける。
あたしも顔を上げて、まぶしげに目を細めながら真上を仰いだひとの視線を追った。
二人で見上げた天井の明かり窓には、さっき見上げた青ざめた月。天高くぽつりと浮かんだ月から、
視界をわずかに明るくするだけの淡い光が降り注いでいる。
「えー、どうしたんですか。急に気が変わったんですかぁ」
「・・・。まぁ、そんなとこだ」
「じゃあ一晩中付き合いますよー、どうせ明日から謹慎だし。じゃあ一杯目は冷蔵庫に2本残ってた近藤さんのビールを」
「何で近藤さんが買った酒の数まで把握してんだお前は」
まったく、酒に関しちゃ油断も隙もありゃしねえな。
感心半分、呆れ半分な声が抱きついたひとの口からこぼれる。きつく眉を寄せた土方さんが、目線だけをあたしのほうへ流してきた。
「つーかお前は無しだ、手足が裂けた奴に酒が呑ませられるか」
「ぇえーっ。いいじゃないですかぁ一本くらいぃ。なにそれー、土方さんって変なところで真面目ですよねぇ」
「何とでも言え。へべれけに酔った怪我人なんざ面倒見きれるかよ。――まぁ、治ったら浴びるほど呑ませてやる。今日くれぇは辛抱しろ」
どこがいい、と短く問われた。たぶん、どこか好きな店に呑みに連れて行ってもらえるってことだろう。
わぁ、と嬉しさに顔中を緩ませて馴染みの店を幾つか思い浮かべてから、ふと視線が天井に戻る。暗い倉庫に青くやわらかな光を落とす
明かり窓を見つめて、あたしは笑った。
「いいです。どこにも行かない。土方さんの部屋の縁側がいいです。一緒に呑んでくれるなら、どこでもいいけど」
「――。欲の無ぇ奴だな」
「ううん。そんなことないですよ。・・・土方さんが知らないだけで」
眉を寄せ気味にしてあたしを見上げた切れ長の目が、ふっと細められる。そうか、と薄い笑いに歪めた顔は、どこか遣る瀬無さそうだった。
同じ高さで重ねられたお互いの視線が、ゆっくりと距離を詰めていく。
土方さんが迫ってきているのか、それともあたしが無意識のうちに顔を寄せようとしているのか、どちらなのかはわからなかった。
目を逸らすことを許そうとしない鋭い双眸に誘われるまま、抱いてくれるひとの熱を感じながら目を閉じる。
きつい煙草の香りを感じると同時で、唇が乾いた熱と触れ合った。
頭の後ろを支えた手に、もどかしげに髪を掻き寄せられる。背中が軋むくらいきつく抱きしめてくる腕に籠められたものが、腕力だけじゃない気がして――
そこに言葉じゃ言い表せない、こうして抱き合っていないと伝わらない何かが籠められている気がして。
きっとあたしと同じで、土方さんもこうしたかったんだろう。だから無理を押して病院から連れて帰ってくれたのかもしれない。
そんなことを、熱を帯びてきた頭の中で思う。かすかな痛みが脈打つ腕で、冷えたシャツの首元に縋りついた。
(欲の無ぇ奴だな。)
身体の内で燻っていた感情や苛立ちをそのままぶつけるようなキスに呑まれながら、言われたばかりの言葉を胸の奥で巡らせる。
耳に甘く残った優しい呪文のような響き。愛想は無いしぶっきらぼうだけれど、笑みを含んだ穏やかな声。
どれもがあたしを許して包んでくれる免罪符だ。けれど、何の気もなく投げかけられた救いの言葉を、手放しに喜ぶ気にはなれなかった。だって――
――あたしが欲が無い、だなんて。
違う。そんなことないのに。とんでもない買い被りだ。
本当のあたしを土方さんは知らない。
本当のあたしは、このひとが思ってくれているよりもずっと欲しがりで、自分勝手で、厭な子で。
だから今日は、――病室の枕元で、後悔に暮れた目であたしを見つめてくれるあなたが、本当はたまらなく嬉しかった。
あたしのことで苦しんでくれるあなたが嬉しかった。この程度の痛みや傷と引き換えにこのひとを引き止めておけるなら、
怪我なんていくら負ってもいいと思った。
この身体も命も全部犠牲にしてもいい。このひとの心を一生繋ぎ留めておくための、卑怯な鎖に変えてしまってもいい。
――麻酔から醒めたベッドの上で、いつになく色を失くした顔と目が合った時は、そんな酷いことまで思っていたんだから。
「――もうこんなこたぁ無しにしろ。・・・てめえのせいで、今日は生きた心地がしねえ」
疲れと焦燥が滲んだ囁きで耳を埋められても、頷くことも、かぶりを振ることも出来ない。
弱音なんて滅多に吐かない強靭なひとの、縋るような切望の声。腹の底から絞り出された切実な思いに、
どうしてあたしは応えられないんだろう。それが辛くて、隙間なく重なり合った胸が潰れそうなくらいに痛くなった。
射るような強い視線から逃れたくて、黙ってシャツの衿元に顔を埋める。
暗い車庫の冷えた空気に、あたしを抱きしめるひとの重苦しい溜め息が沈んでいく。
ずっと二人でこうしていたい。一緒にいたい。誰にもこのひとを渡したくない。
明日なんて来なくていい。この夜に閉じ込められたままでいい。このままひとりじめにしていたい。
自分のことは語りたがらないこのひとが胸の奥深くに閉じ込めている、すべてが欲しい。
うれしいこともかなしいことも、苦しい思いも。すべてを分け与えてほしい。
(ぜんぶ。――ひとつ残らず、全部、ほしい。)
――ほら。こんな途方もない身勝手を本気で希ってしまうくらいには、きっとあたしは欲深いのに。