「きょうは遅かったな総悟!とりっくおあとりーと!」
声も高らかに沖田の前に立ちはだかった娘。ちいさなその娘のちいさな頭には、ぽよぽよと風にそよぐ大きなりぼんがついている。
彼の身長の半分にも満たない、ちいさなちいさな女の子。彼女の名は、。今年七つになる屯所の近所の駄菓子屋の孫娘は、
一年前まで大きな病気を患い入院していた。そのせいか同じ年の子供たちに比べてやや発育が悪い。
大人の視線の高さで前だけを見ていれば簡単に見過ごしてしまうほどに、ちいさなちいさな看板娘。
しかし物言いはやけに大人びているし態度はちょっぴり尊大なので、この界隈で彼女を見逃すような大人はそうそういなかった。
「知っているか、今日は異国の祭りの日だ、はろうぃんだぞ。あまーいお菓子をたーんとおくれ。くれないと総悟にいたずらをする!」
「何を言ってんでェ駄菓子屋の娘が。菓子ならお前の後ろにたーんとあるじゃねーか」
ぐしゃっ。大きく広げた指の細い手が、のちいさな頭を掴んで、ぐるり。
大人の手に急に頭を掴まれ上半身を捻られ、強制的に回れ右をさせられたは下半身がまったくついていかない。
ふぁ、とうめいた幼い娘の両足は、よちよちと頼りないたたらを踏んだ。
はほっぺたを風船のように膨らませて総悟を睨む。放された頭を手探りで触って、乱れた髪の毛を
ふくふくした手で懸命に直す。頭のてっぺんからすこしななめの位置に飾った、
オレンジ色のりぼんの形を整え直し、縁についた飾りのレースもせっせと伸ばした。総悟のばか。今日は総悟に会える日だから、
ははりきっておめかししたのに。このおりぼんを選ぶだけで十五分もかかったし、頭のどこへ付けるかを決めるには、
さらに三十分も悩んだというのに。
今日は月曜日。「けいさつかん」の総悟が週に一度、ばぁばのお店にやってくる日。
総悟は体が弱くて寺子屋に通えないの、長かった病院生活以外で出来た初めての「ともだち」だ。
が総悟に初めて会ったのは半年ほど前で、出会った場所は、ばぁばの駄菓子屋へ行く近道に突っ切ろうとした公園だった。
ここいらを牛耳っているいじめっこ「よっちゃん」にとおせんぼされ、「ここを通りたいなら通行料としてうまい棒を上納しろ」
なんてわけのわからない因縁をつけられ、無視して通るかいじめっこの急所を蹴り上げて通るか、さぁてどっちにしようかなと迷っていた時だ。
そこを通りかかって助けてくれたのが総悟だった。「よっちゃん」はどうやら総悟に何か痛い目に遭わされたことがあるらしく、
伝説のカブト狩り野郎が来ただとか、「俺たちじゃ勝ち目がねえ、誰かっ、かぐらを呼んでこいィィ!」だとか何とか怯えてわめいていた。
どうして総悟が「カブト狩り野郎」なんて呼ばれているのか、には何のことやらだったけれど。
一瞬にしていじめっこを追い払い、一瞬にしてをピンチから救ってくれた「王子さま」との出会い。
それはにとって運命の出会いだった。
大事にしている着せかえ人形「りかちゃん」のボーイフレンド「れんくん」にそっくりでかっこいい総悟を、は一目で気に入ったのだ。
の「ともだち」になってくれ。つぶらな目を輝かせて頼んだ。
するとお人形みたいにきれいな顔をした男は、大きな目をぱっちり開けての全身を眺め回して、こう言った。
『育ちそうにねえ身体してっけど、器量はまぁまぁそこそこか。いいぜ、あと十年も経ったら友達になってやっても』
『それではだめだ。は今すぐがいいのだ!』
十年だって?そんなには待てない。は今すぐともだちになりたい。
その約束は十年前倒しの前払いにしろ。いますぐ、すぐさま果たしてくれ。
は総悟に縋りついて頼んだ。あまり子供が使いそうにない「前払い」「前倒し」などという大人びた語彙は、
たまに店に立ち寄ってラムネを一瓶空けていく高利貸のおじさんとの世間話で学んだものだ。
真っ黒な服の背中に顔を押しつけて涙と鼻水を擦りつけながら頼んだら、総悟は渋々だったが頷いてくれた。
が、そのかわりに、と「お前そこの駄菓子屋の孫だろ。助けてやった礼に奢れ」なんて恩着せがましいことをしれっと言うので、
はこころよく総悟をばぁばのお店に連れて行って、こころよく奢ってあげた。うまい棒こーんぽたーじゅ味を一本。それと、
ちょっと奮発してすいかバーを一本。それ以来、総悟は毎週お店に通うようになった。そしてに毎週「うまい棒奢ってくれィ」と言ってくる。
まったく総悟は困った男だ。ばぁばはいつも「ありゃあポリ公になってなかったらヒモか女衒か人間のクズになってたね」と
には意味のよくわからないことを言うけれど、つまりそれは『総悟は大人のくせによりもお金を持っていない』というような意味のことらしい。
けれどはそのことで総悟を嫌いになったりはしなかった。とうさまにいつもこう教えられているからだ。
『いいかい。お金のない家の子はね、他の子よりも苦労をしているんだ。
お前は商家の子なんだから、ちゃんとそのことを判ってあげなきゃいけないよ』
なのでは子供らしい純粋な気持ちから出た純粋な同情心で、総悟に何かしてあげようと思って、
総悟が来た時は必ずうまい棒を一本奢ってあげることにしている。そんなに、ばぁばはいつも苦い顔をするけれど。
「はろうぃんねェ・・・そーいやぁここ一月、近所のケーキ屋の飾りつけが真っ黄色に染まってやがったよーな」
「そうだ、はろうぃんだ。子供はみんな誰かにお菓子をねだっていい日なんだぞ」
「だから菓子寄越せってか。ふーん。まぁ、たまにはお前にやったっていーけどよ。・・・、知ってんのかよ、おめー」
「何がだ?」とは頭を傾げて訊き返した。ぽよん、と明るいオレンジ色のりぼんが大きく揺れる。
本日のからの貢ぎ物――うまい棒さらみ味の細長い袋をぺりぺりっと千切りながら、総悟はすっとぼけた顔で教えてくれた。
「はろうぃんは子供の祭り、みてーに思われてっけどな。実は夜中になると、大人の祭りが始まるんでェ」
「・・・?そうなのか?かあさまはそんなこと言ってなかったぞ!」
「そりゃー子供にゃ教えらんねー話だからだろ。夜中になると大人はどいつもこいつも
素っ裸で頭にカボチャ被って街に出てきて、らんこうぱーてぃ、ってぇのが始まるんでィ」
「ほ・・・・・・本当か!!」
「ああ、本当だぜ。今晩父ちゃん母ちゃんに訊いてみろィ」
「・・・おい。いちいち真に受けんな、チビ」
すると総悟の隣でマヨネーズまみれにした奇っ怪なみたらし団子を食っている男が、見兼ねたようにぼそっと言った。
「なんだ土方。お茶ならそこにあるぞ、は忙しいから自分で淹れて飲んでくれ」
「てめえんとこの出がらしなんざ薄すぎて飲む気しねぇよ。つーかおい、ころっと騙されてんじゃねーよ。
こいつの言うこたぁ、全部たぁ言わねえが七割方が嘘だぞ」
「は総悟にならだまされてもいいぞ。それに、女は男のうそにだまされているほうが幸せなこともあると、この前ばぁばが言っていた」
「・・・・・・・・」
もごもごと団子を頬張りながら、土方は渋柿でも食べてしまったかのような苦そうな顔をした。無言で後ろを振り向いて、
古びた店と一体化しているかのようにちんまりと座っているばぁばに声を掛ける。
「他人事たぁいえ泣けてくるぜばあさん。絶望的に男を見る目がねえなあんたの孫は。
よりにもよってハナから、とんでもねーのに引っかかっちまってんじゃねーか」
「何でェ土方さん、引っかかったなんて人聞きが悪りーや。俺ぁ引っかけてませんぜ。こいつが俺を引っかけたんでェ」
「そうだぞ土方。総悟をいじめるな」
「気の毒になばぁさん。こんなドS小僧を庇うようじゃ今から先が思いやられるぞ」
「何言ってんだぃ。だからこうやって幼いうちから店先に出してるんじゃないか。
ここで男を見る目を養っておけば、年頃になってもお前らみたいな悪い男にたぶらかされるこたぁないさ」
「そーか残念だったなばぁさん。今のところはどう見ても養えてねえぞ」
お互いに不気味な薄笑いを浮かべたばぁばと土方は昔からの知り合いらしいけれど、あまり仲がよろしくない。
顔を合わせるたびにこんな遣り取りばかりしている二人だ。は物識りだから知っている。野良猫どうしが縄張りをかけて総毛を逆立て
「フーッッッ!!」と睨み合っているようなこの状態――こういう険悪な状態を「ちょうちょうはっし」と言うのだ。
今日はどっちが勝つんだろう。がわくわくしながらつぶらな瞳を見張っていたら、
頭のおりぼんをくいくい引っ張られた。くるっと振り向くと総悟の手が目の前にあって、そこには食べかけのお菓子が握られていた。
さっきが総悟に奢ってあげた「今日のおやつ」だ。破った袋からぴょこんと飛び出た、うまい棒さらみ味。
「ほらよ。食べかけだけどな」
「・・・!にくれるのか!」
「ああ、いーぜ。俺ぁいたずらすんのは好きだけど、やられんのぁきれーなんでェ」
は目を丸くして総悟を見つめた。こんなことは初めてだ。半分くらいは食べてしまったうまい棒を、ほらよ、と口に押しつけられる。
顔の前に出されたそれを、はぽーっと頬を染めて見つめる。それから総悟をじーっと見つめた。
ぱくん、と先端に口をつける。しゃりしゃりと、さくさくと、少しずつ、少しずつ食べていく。これはが総悟にあげた「今日のおやつ」だ。
けれど総悟はにそれを食べさせてくれた。の口許にうまい棒を出して、が食べる様子を黙って眺めながら、
何かとても機嫌が好さそうな顔で笑っている。いつも眠たそうな、なんだかつまらなさそうな顔ばかりしている総悟だけれど、
今はなんとなく楽しそうだ。
嬉しい。すごーく嬉しい。はこういう総悟を見ていると、いつもすごく嬉しくなってしまうのだ。それに何より、総悟が自分を眺めて、
何かとても楽しそうな顔をしてくれている。そのことが何よりも嬉しくって仕方がない。
かわいいおりぼんをふわふわ揺らして、くるくる回って踊りたい気分だ。やっぱりそうだ。なんだかんだで総悟はには優しいんだ!
「どーでェうめーだろ、タダで食う菓子の味は」
「うん!うん!とってもおいしいぞ!」
本当だ、どうしてだろう。いつもおやつに貰って食べているものよりもうんと美味しい。
は縁台に座ると地面に届かなくなる足の先を、上機嫌でぱたぱたと揺らす。
そんなの姿を皮肉っぽい目で眺めていた土方には「おい、そんな食いかけで騙されていーのか。
女がてめえを安く見せたら終わりだぞ」なんて厭味を言われたけれど、
そんなことは気にしない。だいたいこのおじさんはいつも厭味が多いのだ。まったく度量のせまい男だ。
きっと看板娘のが総悟にばかり構うのが面白くないんだろう。
「土方さんはね、自分が総悟みたいにちゃんに特別扱いしてもらえないからひがんでるんだよ」
と、土方がたまに連れてくる、猫みたいな目をした女も言っていたし。
笑顔でうまい棒を食べ終えて、手についた粉をぺろっと舐める。すると総悟はそれを待っていたかのように、ひょい、との前に
手のひらを出した。なんだろうこの手は。が白くて大きなてのひらを眺めていると、総悟はにんまり笑って言った。
「とりっくあおあとりーと」
「・・・?」
「俺もやったんだからおめーもよこせィ。おめーよかちっと年上だが、俺もまだまだガキって言われるお年頃なんでェ」
は瞼を半分伏せて、呆れきった目で総悟をじとーっと眺めた。
総悟は大人のくせに大人げのないことばかりする困った大人だ。
「ほらほら、持ってこいよ。よこさねえんならいたずらするぜ」
「もうないぞ。お前にやるうまい棒は一日一本だけにすると、ばぁばと約束しているのだ」
「野良に餌でもやってるような言い分だな。おい、これ聞いて情けなくならねーのか総悟、」
「無いならばばぁからくすねてきな」
「・・・総悟お前、職業倫理ってぇ言葉知ってるか」
「だめだぞ総悟。ぬすみやまんびきはとってもいけないことだ。ばぁばのお店みたいな「れいさいきぎょう」にとっては
いのちとりになりかねない、とってもつらいことなんだぞ。今日のぶんはもう渡したんだからそれでがまんしろ」
「そうだ総悟、チビの言うとおりだ。これを機にちったぁ日頃の悪行三昧を反省しろ」
うんうん。
さっきのに負けず劣らずの呆れきった目をした土方と一緒に、は深々と頷いた。
総悟は大人のくせに我慢のできないかわいそうな大人だ。
それにくらべては我慢強さには定評があった。毎日飲まなくちゃいけない苦いおくすりや、
とっても痛い病院のお注射を、いつも涙をこらえて我慢している。のほうが総悟よりずっと大人なんじゃないかとたまに思う。
「何でェお前、よこさねーのか。いたずらされてもいーのかィ、俺に」
「何だいたずらって。に何をするんだ?」
「あーあーいーのかねェ、その年で貞操の危機を迎えても。お嫁にいけねー身体にされても」
「何だ?お嫁にいけないって。ていそうのきき、って何だ?土方」
「・・・俺に訊くな。ばーさんに訊け」
土方に尋ねたら、ぎゅっーと寄せた眉間を抑えて言い辛そうな答えを返された。どうしたんだろう、頭痛でもしているような痛そうな顔をしている。
素直なはくるりと首をまわして、早速ばぁばにお伺いを立てようとした。しかしばぁばは「あたしゃ何も聞いちゃいないよ」とでも
言いたげなすっとぼけた顔をして、仕入れの帳面をぺらぺら捲って眺めてる。
「だめだ。ああいう顔してる時のばぁばは絶対教えてくれないぞ。いつもにはまだ早いからだめだって言うんだ」
「ああ、それが道理だな。お前みてーなガキはまだまだ知らねェでもいいってこった」
「・・・なぁ、もしかして、いたずらってああいうことか?お前がときどき連れてくる、あの猫みたいな目の女にしていたことか?」
「――」
「そうなのか?答えろ。・・・?なんだお前、きこえなかったのか?じゃあもう一度言うぞ。
お前がこの前あの猫目女とあっちの小路の影に隠れてしていた、ああいうことかときいているんだ」
「・・・・・・!!!」
の言葉に目を剥いた土方はずずっと後ずさって、もうちょっとで縁台から転がり落ちそうになる。
なんてわかりやすい男だ。はちょっと得意げな気分でそう思った。
台帳を見るふりをしてしっかり話を聞いていたらしいばぁばが「大胆だねェ最近の若いもんは」と冷やかすと、今度は煙草の煙にゲホゲホとむせ始めた。
「困るねぇ、うちの孫にろくでもないとこ見せないでおくれよおまわりさん」
「なら大丈夫だぞばぁば。ちょっと見てしまっただけだ。すぐにちゃんと目にフタをした!」
「っっっ、ちが、違げーぞチビ!あ、ありゃあその、〜〜〜あれだっ、あいつが、目にゴミが入って!!」
「ごまかそうったってもう遅いさ。子供の目ってのはなかなかどうして、あなどれやしないもんだからねェ」
「そうそう、そーですぜ、てーことでさあ、土方さん。潔く出してくだせェ」
「・・・ぁんだ出せって。おい何だ、この手は」
「何って財布に決まってんだろィ。今夜の俺の軍資金でさァ。つべこべ言わずにばしっと出せや土方ァ」
「はぁ!!?んだっと、何が出せだ、どーしててめえに!」
「へーぇ、いいんですかィ?今の話、屯所の奴等にばら撒いちまっても」
「・・・・・!!」
「諦めなせぇ土方さん。いいですかィ、みてーなチビの目ぇごまかすのも一苦労だけどねィ。
俺みてーなデケぇガキの口にフタすんのぁ、もっと、も―――っと大変ですぜぇ〜〜〜」
くくく、と総悟は大きな瞳を輝かせて土方を嘲笑っていた。は思った。悪魔っていうのはこういう顔をして笑う生き物なんじゃないか、と。
すーっと顔が青ざめていった土方は無言で立ち上がり、「ばーさん、勘定」と小銭を置く。ものすごい速足で商店街から逃げていった。
さーて、今晩は土方さんの奢りで豪遊だ。
どんどん遠くなる真っ黒な制服の男の背中を、総悟はしばらく眺めていた。
その時の総悟は笑っていたのに、なぜか苛立っていそうにも見えるというか、どこか不機嫌そうにも見えた。はそんな総悟の様子が気になった。
どうしたんだ、総悟。何かいやなことでもあったのか。
そう言おうとしたのだけれど、がそれを口にするよりも先に、総悟がひょいっと腰を上げた。
「じゃーな看板娘。ああ、来週はめんたい味にしてくれィ」
からかうようにそう言って、隣に座ったの頭に挨拶代りに手を置いた。むぎゅっ。
わし掴みにした手に力を入れて、の頭を押しながら立ち上がろうとするから――
「あっっ」
「んぁ?」
ぽろり、と手の中に落ちてきたものを、は呆然と見つめた。
「・・・・・・・・・・」
「?どーしたんでィ、がきんちょ」
総悟は頭を下げての顔を覗き込んできた。明るいきれいな色をした目が、不思議そうに瞬いてを眺めた。
「どうした。おい、またどっか痛てぇのか」
もう一度尋ねられた。それでもは答えなかった。総悟の顔が怪訝そうに眉を曇らせて近寄ってくる。
その顔を呆然と見つめているうちに、胸の奥が、ちくん、と痛んだ。
まるでそこに細い点滴の針を刺したみたいな痛さだった。は思った。この「痛さ」はたぶん、が総悟に「悪いことをした」と思っているから痛くなったんだ。
だっては知っている。
総悟がこんな顔をして心配そうなことを言うのは、が以前にここの店先で、軽い発作を起こしたところを見ているからだ。
いつもいじわるなことばかり言って周りをからかってばかりの総悟は、人をいじめるのが何よりも好きだって言う。
なのに、なぜかたまに、ちょっと優しいところを見せることもある。(…もっとも、が誰かにこれを
言うと、総悟を知っている全員が全員、揃って「そんなはずはない」と首を横に振るのだが…)
お店でに元気がないと感じたときの総悟は、ほんのちょっとだけ――ほんの一瞬だけ、
ふっと顔を曇らせる。何か言葉を掛けてくるわけじゃないけれど、の様子を気にしている。
だからは、総悟の前では出来るだけ元気な顔をみせることにしている。ちょっとでも疲れていたり、
具合が悪いときはお店に出ないことにしている。泣いたり塞ぎ込んだりしているところなんて、もちろん一度も見せたことがない。
だけど。今は。だけど、――
「言えねえほど苦しいのか?おい、、」
「・・・総悟のばか。せっかくつけたおりぼんがとれたではないか・・・」
「・・・・・・・・」
胸の高さに上げた両手の中に握り締めているものを、は総悟に突き出して見せた。
さっきまで彼女の頭を飾っていたもの。はりきって選んだオレンジ色のおりぼんだ。
かあさまにおねだりして、何個か買ってもらったおりぼんのひとつ。どれも総悟の目につきそうな、明るくてきれいな色のものばかり揃えてもらったのに。
「・・・・・も、総悟にほめてほしかったのだ」
「はぁ?何でェ、誉めるって」
「ほめたじゃないか。あの女のことはほめてたぞ。・・・だって、かわいいおりぼんを付けてみたのに」
総悟はぜんぜん気付かないじゃないか。
は精一杯真剣に、今にも泣きそうな顔をして打ち明けた。
なのに総悟はその時のことなんてちっとも覚えがないみたいだ。なんだか気が抜けたような顔をしている。
『男ってのは女の見た目をああだこうだ言うけれど、女のお洒落には興味がないのさ』
数あるばぁばの格言のひとつを思い出して、はなんだか泣きたくなった。それでもぎゅーっと歯を食い縛って、ちいさな身体を
強張らせて。彼女は精一杯がまんした。
長かった入院生活の中で――家族以外の人たちに囲まれて暮らしてきたには、いつも心がけてきたことがある。
それは自分のことで周りの人に厭な思いをさせないこと。治療が痛くても苦しくても、家族以外の誰かに泣きごとを言ったりはしなかった。いつも明るく元気に振る舞ってきた。だから解っているのだ。
こんなことでおへそを曲げてしまうのはよくないこと。自分にしかわからないことで拗ねてひがんで、誰かに八つ当たりするのはよくないこと。
だけど。それでも。だけど。
そうだ。だって総悟に誉められたかったのだ、あの女みたいに。
ある日総悟は、あの女――土方が連れてくる、あの猫目の女がつけていたおりぼんを
「かわいい」って誉めていた。それを見ていたは、猫目女のことがなんだか急にうらやましくなったのだ。
総悟がいつも気にしているあの女が。めったに人をほめたりしない総悟に「かわいい」と言ってもらえる、あの女が。
「お前はあの女をいつもほめるけど、は一度もお前にほめてもらったことがない。
も。・・・も、総悟にかわいいって言ってほしかったんだ」
ちょっとだけ胸が苦しい。息をつくのも忘れてぺらぺらと喋ってしまった。
これがの病気の元だとお医者さんは言っていた。呼吸がちょっと苦しくなって、胸の中がきゅーっと狭くなるかんじ。
ああ困った。どうしよう。また泣きたくなってきたぞ・・・!
はよろけそうになる足をぐぐっと踏ん張らせて、くるりと総悟に背を向けた。苦しそうなところを総悟に見せてしまうのは、なんだか、――そう、
なんだか、すごくいけないことのような気がするからだ。ふぅ。ふぅ。ふぅ。息の上がった胸を押さえて、は背中を丸めて我慢した。
次第に胸の苦しさはおさまっていったけれど、・・・どうしよう。泣きたい気持ちはまだまだ、全然おさまらない。あわててぎゅうっと目を閉じる。
大くて熱い粒が目の中を一杯にしていく。
「・・・!」
その時にちょうど、がびくっと肩を弾ませてしまうくらいびっくりすることが起きた。
ふらりと後ろへ倒れそうになったのだ。くい、と肘に引っ掛けた大きな手が、の腕を急に引っ張ったからだ。
総悟はを軽々と抱き上げて、向かい合う恰好で膝に座らせた。とすん。膝の上にの腰が収まると、にやりと笑った顔が上に
影を落としてくる。
「とりっくおあ、とりーと」
笑い混じりにそう言うと、お人形みたいにきれいな顔はそのままどんどん近づいてきた。あっけにとられて見上げているの頭にぶつかった。
ちゅ、とやわらかい感触が落とされた。がおりぼんをつけていたあたりに。
ぱちりと開いたつぶらな目から大きな涙のしずくが
零れ落ちたことにも気付かずに、は呆然と疑問を口にした。
「・・・なんだ?いまのは」
「だから、とりっくおあとりーと、だろィ」
「・・・???」
「おめーが菓子くれねーからいたずらしてやったんでェ」
「いたずら・・・?」
いたずらって、はろうぃんのことか。
総悟の顔をぽーっと見上げる。総悟はいたずらっ子みたいな目を細めてにんまり笑っている。あの笑っている唇が、さっきの頭にくっついた。
――の髪に。優しく触った。
ここかな。それとも、このへんだっただろうか。自分の髪ををふくふくした手で探りながら、ほとんど上の空では思った。
「総悟。・・・・・へんだぞ。どうしよう。、また病気になったのか?」
ちょっと怖くなってそう尋ねると、総悟はくくっと可笑しそうに肩を揺らして、「そーかィ」と言って笑った。
その顔を見ていたら、怖さはすうっと引いていったけど。・・・やっぱり変だ。の身体はおかしくなった。
こうして総悟に抱っこしていてもらわないと、身体がふわふわと空まで浮いてしまいそうな。
こうしているだけで全身がぽわーっと暖まってくるような。
「総悟。総悟。はまだ言ってもらってないぞ。にはかわいいって言ってくれないのか?」
「どーかねェ。元々俺ぁ、そーいうこたぁ姫ィさんにしか言わねーことにしてんだ」
「・・・・・。どーしてもだめか?」
しゅんとして眉を下げた顔で尋ねてみたけれど、総悟は何も言わなかった。どこか遠くを見つめて笑っただけだ。
「姫ィさん」というのはあの猫目女のことだ。そうか、とはちょっとだけ肩を落とした。けれど、すぐに気を取り直すことにした。
の元気がないと総悟は心配する。だから落ち込んだ顔も総悟には見せたくない。
ぜいたくを言えば、かわいい、と言ってもらえなかったのは、ほんのちょっとだけ心残りだ。
でも。だけど。
・・・そんなことは、この次に総悟に会ったときでもまた頼んでみればいいかな。
そう思ってしまうくらい、は総悟が自分の頭に落としてくれた、優しいいたずらが嬉しかった。
「総悟。今度お菓子をあげなかったら、またいたずらしてくれるか?」
「そうだなァ。あと十年も経って、お前が綺麗な姉ちゃんになったらな」
そん時にはもっと悪りーいたずらも、教えてやってもいいぜ。
そう言ったときの総悟は、普段が見ている総悟とはちょっと違っていた。軽く伏せた長い睫毛の影で、きれいな瞳が
意地悪そうに笑っている。いつもの総悟よりもずっと大人みたいに見える。目にしたことのないその雰囲気に気押されてしまって、
今度はも「その約束、十年前倒しにしてくれ」とは言わなかった。
本当は「今すぐにしてくれ!」と頼んでしまってもよかったけれど、「男ってのはね、女がうんと待たせてやったほうが喜ぶもんさ」という
ばぁばの格言を、なぜか急に思い出したのだ。
だからは、ばぁばの忠告に従うことにした。色づいたちいさな顔をこくこく振って、精一杯にうなずいた。
「総悟がそこまで言うなら教えられてやってもいいけど」という無言のアピールだけにした。
総悟になら「もっと悪いいたずら」とやらをされても、我慢してあげてもいいかもしれない。そう、十年先といわず、来週にでも。