「土方さんっ、今日から禁煙しよーよ!」
ぴらっ。
咥え煙草で机から振り向いたひとの前に広げたのは、ポスター大の紙だ。
「その一本が命を縮める!喫煙はあなたの健康を確実に蝕む行為です。 江戸××医療協会」
お化け屋敷の看板とかに使われそうな、おどろおどろしい書体で強調された文の下には、写真が二枚並んでる。
どちらも臓器の中身を映したモノクロ写真だ。左の写真は白に近い灰色、あまり濃い影はない。
対照的に、右の写真は臓器の中一杯にどろっとしたヘドロが詰まっていそう。隅までほとんど真っ黒、
白っぽい部分なんてどこにもない。それぞれの写真の下には小さい字の説明書きがある。
目の前に立ちはだかったあたしに非難がましい視線を向けている土方さんの鼻先まで紙を押しつけ、その字をびっと指して迫った。
「ほらぁ見て、よーーーく見て!こっちの白くて汚れのないきれいな臓器が「喫煙歴のない健康な人の肺」で、
このダークマターがぎゅーぎゅー詰まってそーなどす黒いのが「喫煙歴三十年の肺がん患者の肺」なんだよ!
見てよこの真っっっ黒な肺!ねえこれ、なんだかわかる?全部ニコチンの汚れなんだって」
「・・・・・・・・おい。どっから持って来た、このバカでけえ白黒写真は」
「近所の病院でポスター借りて拡大コピーしてきたの!!あっ、目逸らしちゃダメっ、よーく見て、そして想像して!
ね、怖いでしょ?ぞっとするでしょ?このままずっと吸い続けたら、二十年後の土方さんの肺はこーなってるかもしれないんだよ!!?」
「見れねえ。つーか見えるか。こんだけ顔にべったりひっつけられたもんを」
うっとーしいもん持ち込みやがって。
目の前を塞いだ紙を醒めた目で睨むと、土方さんは無言で煙草の先を押しつけた。じりっっ。
「!ああっ!ちょっ!何すっ」
「フン。これで見通しが良くなった」
ぐしゃっ、ぐしゃぐしゃっっ。ぽいっ。
せっかくコピーしてきた拡大写真は穴を空けられ丸められ、ごみ箱へホールインワン。馬鹿馬鹿しい、とばかりに
興醒めしている土方さんは、あたしにくるりと背を向ける。机に向かうと、
ずっと続けていた書類整理に疲れていたのか、だるそうに首を曲げたり肩を回したりした。
それが終わると、さっそく煙草の箱に手を伸ばす。足元にあったライターを掴む。口に咥えた新しい煙草から、瞬く間に細い煙が。
ふう、と肩の力を抜いたような短い溜め息と一緒に、ゆらめく白い紐がふわりふわりと頭上まで上った。
あたしはささっと背後に寄った。真っ黒い着物の背中にぴたっとくっついて、顎が土方さんの肩に乗りそうな近さから、
じいーーーーーっと、恨めしげな目つきでその煙を眺める。すると煙草を咥えたひとが、眺めていた報告書からこっちへと
目線を流してきた。
半分伏せた目がじろりとあたしを睨む。手に負えないすっごく厄介なものを仕方なく眺めてるよーな、警戒心たっぷりの目つきだ。
何よその嫌そうな目は、失礼な。あなたの身体を心配しているけなげで可愛いちゃんを危険物扱いですか、失礼な。
「ねえ土方さん。ねえねえねえっ。聞いてよ、お願いぃぃ」
「説教の続きなら聞かねえぞ」
「えーっ。違うよぉ、お説教じゃないもん。違うよ。違うのに。あたし、ただ、・・・・土方さんの身体が心配で」
「身体が心配で」のところは声にめいっぱい感情を込めて、まっすぐ目を見つめて、悲しそうに切々と訴えた。
ちょっと芝居がかってたかな。やりすぎたかも。でも、土方さんの身体を心から心配してるのは本当だもん。
まあその実は、土方さんの身体と同じくらい、土方さんに副流煙を吸わされ続ける自分の身体も心配っていうか(モゴモゴモゴ)・・・、
いやえーと。こっちの理由は黙っておこう。
「でもね、わかってるよ?ヤクを断つのは大変なんだよね、死ぬほど辛いんだよね、
土方さんみたいに五分に一回は煙草吸わないと錯乱して暴れ出す重度のニコチンジャンキーには」
「誰がニコチンジャンキーだ。話を勝手に捏造すんな、ぁんだ五分に一回って」
「いいのっ、何も言わないで!廃人同然の末期中毒症状から抜け出したくても抜けだせない土方さんの苦しさは、
言われなくても痛いくらいわかってるよ!」
「おいコラ、誰が廃人だ誰が!つーかお前が痛てーぞコルァ!!」
「ううっ、可哀そうな土方さんっ。中毒症状のせいでこんなに瞳孔開いちゃって!ううっ、ひっく、ぐすっ、・・・あ、鼻水出たぁ」
「おいっ、どこで拭いてんだどこで!それァ俺のっ」
「それでねー(ずずっ、ちーん)」
「人の袖で噛むな!つかお前っ、切り替え早すぎんだろォォ!!」
「あたしねー(すりすり、ゴシゴシゴシ)考えたんだけどぉー」
「なっ、っっのやろっ、手まで平然と拭きやがって!!!」
「いきなり禁煙するのは大変だろうから、これからしばらくの間は一日一箱に抑えてみるとか、どうかなぁ」
巷に広がる禁煙ムードなんて断固無視して、頭の先から足の先まで、全身煙に浸って生きてるようなひとだ。
骨の髄までニコチン中毒の土方さんにとって、「禁煙しろ」って押しつけられて急に一本も吸えなくなるのは、ものすごいストレスになるはず。
だったら急に禁煙するんじゃなくて、少しずつ本数を減らせばいい。
時間をかけてゆっくり止めるほうが、このひとだって気分的に楽かもしれない。そう思って、
この頑固なひとに真剣に禁煙を勧めるにあたって、あたしも一応、土方さんが実行出来そうな禁煙プラン的なものを考えてきたのだ。
名付けて「土方完全禁煙計画」。先が思いやられそうな険しい道のりだけど、これも土方さんの(そしてあたしの)ためだもんね。よーし、まずは手始めに――
「はいっ、さっそく今から30分間、禁煙ターイム!」
「っ、コラてめっ、勝手に!」
不満そうに下がっていた口端から煙草を素早く抜き取り、満面の笑顔で土方さんの背中にぴたっと抱きついた。
めずらしくあたしから飛びついたのを怪訝に思ったのか、肩越しに振り向いた土方さんは目を見張っている。
意外そうな視線を感じて、ほっぺたがぽうっと熱くなった。
やり慣れていないことをするのはちょっぴり恥ずかしいけど、今はそんなことも言ってられない。何でも最初が肝心だっていうもんね。
とにかくここは重症ニコ中患者さまを健康体にリハビリさせるべく、一所懸命ご機嫌取りに励まなくては。
「まあまあっ、そう怒らないでくださいよー!最初はちょっと変わったゲームをしてみるくらいのつもりで始めたらいいじゃん!
どのくらい我慢できるか試しにやってみようよ、あたしも全面的に協力するからっ。はいっ、これも30分没収〜!」
――そう言って煙草を箱ごと取り上げて、眉間に皺寄せて食ってかかってくるひとを宥めすかしてから五分が経過。
・・・気のせいだろーか。空耳だろーか。
殺気だった凄まじい目を畳に向けて、腕を組んで黙りこくってる土方さん。
その真っ黒な頭の天辺あたりから「じりじりじりじり」とか「ちりちりちり」とか、
「もう我慢の限界をとっくに超えちゃって脳内回路がショートして焼け焦げてます」的な、きな臭い音が聞こえるよーな・・・。
怯えながら見つめていたら、ギリギリと歯を噛みしめていた土方さんが、がばっ、と頭を抱えてうめいた。ガシガシと髪を掻き毟る。
「だあああああァァァ!!限界だ、間がもたねえ・・・!ヤニをっ、ヤニを吸わせろォォォ!!」
「うそっ、もう!?どんだけ我慢知らずなんですかっ。まだたった5分だよ!?」
「っせえっっ、犬のお預けだって初回で5分も保ちゃー充分だろーがああァ!!!」
と、身もフタもない台詞を口走って土方さんが逆ギレする。あたしは思わず後ずさる。ここっ、怖いいいいィィィ!!
目をぎらっと光らせ、両腕振り上げたゾンビみたいな禁断症状患者が、煙草を奪い返そうと切羽詰まった形相で迫ってくる!
「オラ返せ今すぐ返せ。何かアレだこう、そいつがねえと口淋しいっつーか、
何か咥えてねーとどうも物足りねぇんだよ!」
大声で不満をぶちまけた土方さんは、食い入るような目でこっちを見つめてから、
「ん?」と眉を曇らせる。何か悪だくみを思いついたような意地の悪い顔になって、ふっと口端を吊り上げ笑った。
「まあいい、もう少し付き合ってやる。おい。とりあえずお前、代用品になれ」
「・・・・・・は?」
言うなり頭を抱いて襲いかかってきたひとと、ふわっと顔がくっついた。塞がれた唇が温かくなって、中まで入り込まれて息が苦しくなって、
ふぐぅっっ、とマヌケな悲鳴を上げながら、あたしはばたっと畳に押し倒され。それからそれから――
十分経過。
・・・協力するなんて言うんじゃなかった。
とんだ藪蛇もいいところだ。愉快そうにこっちを眺めながらあたしの髪を引っ張る土方さんは、禁煙の辛さなんて忘れちゃったような涼しい顔してるのに、
あたしはもうすっかり息が上がって顔は真っ赤で、苦しくって涙目になっちゃったし!!
「ひ。土方さぁん?も、もう、」
「コラ、勝手に起きんじゃねえ。お前がいねーと間がもたねえだろーが」
「ガ、ガムとか禁煙用の、ええとあれ、ほらあのっテレビでよく見る禁煙グッズとかあああ!」
「いらねえ。てめーが身体張って協力しろ」
「だ、だって身体って、いつまで!!?」
「さあな。俺が飽きるまでか、お前が音ェ上げて煙草出すまでじゃねーか」
「!!!???」
「まあそう慌てんな。時間まであと二十分ってえとこだろ、それまで根性見せてみろ」
「ちちがっ、ここで根性見せるのは土方さ・・・っ!ひ、んぎゃああァァァ!!ちょっ、どっどこ触っ!!!」
「土方完全禁煙計画」 ・・・・・・・・十分で挫折しました (あたしが)。