ちゅるちゅるちゅるちゅるちゅる。
ほわほわ湯気が昇るあつあつの丼から、はふはふしながら麺を啜る。塩気薄めなあつあつのスープをれんげで掬って、
ごくん。胡椒のぴりっとした辛みと、煮えかけた葱のほんのりした辛みが鼻にすうっと抜けていく。
あっさりまろやかなお魚味がお腹に溜まって、冷えかけた身体もポカポカだ。
「ふぁぁ〜、おいし〜〜・・・。おいしいねぇ銀ちゃん。当たりだねこのラーメン、85点」
「そーかぁ?そこまでうめーかぁこれ」
ずず――――っ。
スープを一気飲みした銀ちゃんが、中華風の模様が描かれた赤い丼の陰から目だけを覗かせてこっちを見る。
さっきまで居座ってた焼き鳥屋さんでは四時間も飲み倒してたから、どこからどう見ても酔っ払いの顔だ。
今にも瞼がくっつきそうで眠たげな目元は、酔いが回ってほんのり赤い。口調がなんとなく間延びしてるし、
丼を抱えた手つきや箸の持ち方もなんとなくあぶなっかしい。湯気を昇らせる丼の中にぱちぱち瞬きしながら視線を向けて、
「味は薄いし具は少ねーし50点ってとこだろ。つーか何これ、薄っっっ。なにこのチャーシュー、向こうが透けて見えてんじゃねーかよぉ」
完全なるぼったくりだろ、と割り箸でつまんだチャーシューを片目を瞑ってじいっと見る。あたしも銀ちゃんに顔を寄せて、
高く上がったチャーシューを見上げてみたら、・・・ほんとだ。この屋台の低い天井に吊るされた裸電球の光が透けて見えてる。
あともう少しで、通り沿いに並んでる居酒屋やスナックの看板や、その向こうに広がってる夜空まで見えそうだよ。
「正直に言ってやれよ。作ってんのが知り合いだからって甘く点けてやるこたーねーんだよ、
そのほうがこのおっさんのためなんだからよー。チャーシューの薄さがマイナス30、作ってる奴の面構えがマイナス30ってとこだろぉ」
「銀ちゃん計算合ってない。それじゃ40点じゃん、減ってるよ」
「んーそーだっけ。いやだからあれだろ、チャーシューでマイナス30でー、おっさんのツラでマイナス50でー」
「…さらに減ってるんだけど。辛すぎじゃないのその採点、それじゃ完全に赤点だよ」
「いやいやいーんだって、このおっさんの採点なんて赤点でいーんだって」
「――・・・・・」
あたしたちの対面に座って競馬新聞を広げてる手が、ぴくっ、と揺れる。
あの競馬新聞、ずーっと広げっ放しなんだよね。あたしたち二人以外にお客はいないし、暇なんだろうな。
隣の銀ちゃんがお箸でたっぷり持ち上げた麺を、ずずーっ、と豪快に啜る。あたしもお箸の先に麺を引っかけて、つるつる吸った。
何度か噛んでごくんと呑んで、小さく首を傾げる。
・・・そうかなぁ。そこまで辛口採点されるような赤点ラーメンかなぁ、これ。行列が出来るお店の凝った味とは違うけど、
誰にでも好かれそうな素朴な味だよね。そこそこ美味しいよね、これ。もう一度首を傾げながら
次のひとくちをお箸で掬う。箸先を口まで運ぼうとしたところで、ふっと何かの気配を感じた。何だろう。気になって顔を上げると、
屋台の傍を歩いてる女の子の集団がこっちを見ていた。その中の何人かはちょっと足を止めて、
屋台の様子を眺め回したり、他の子と顔を見合わせて何か話してみたり。けど、あたしと目が合うとどの子も照れたような顔で笑って、
なんだか名残惜しそうに何度か振り向きながら行ってしまった。
――あの子たちもお酒を飲んだ帰り、…なのかな。もしかしたら食べたかったんじゃないのかな、シメのラーメン。
・・・でも入れなかったんじゃないのかな。
うんうん、わかる。わかるなぁその気持ち。あたしも前はそうだったから。こんなふうに気軽に暖簾を潜れるようになったのは、
銀ちゃんと知り合って一緒に飲みに行くようになってからだもん。女の子にとっては屋台って未知の世界だ。
女の子が踏み入るには場違いな所っていうか、おじさんたちの聖地なのかなぁって印象が強いっていうか。
なんだか入りづらいんだよね、屋台って。
ラーメン鉢を乗せるのがやっとな狭いカウンターの隅には、
胡椒やティッシュ箱や割り箸なんかと一緒に小さな時計が置かれてる。かちこち動く針が指してる時間は、午前二時半。
こんな時間に開いているのは飲み屋さんとカラオケ屋さんとコンビニくらい。終電なんてとっくに出ちゃってる時間帯だ。
・・・これからどうするのかな、あの子たち。「よかったら一緒に食べませんか」って、
こっちから声掛ければよかったかな。たぶんあの子たちの目にも、この屋台からほわほわ昇るあったかそうな湯気が
すごーく魅力的だったんじゃないのかな。
「――ねぇねぇ銀ちゃん」
「んー。なに」
「飲んだあとに食べる屋台のラーメンってさ、どうしてこんなにそそられるのかなぁ」
「いやそそられるってエロくね、それ。なーなーそれよー、家帰ってからもっかい言ってくれる。
ちゃんちのベッドの上で銀さんがギンギラギンになってから言ってくれる」
「あはははは、絶対言わない」
ふぐごふぉふぉ!?と麺を口一杯頬張ったまま文句をつけてくる顔は、ぐいーっとめいっぱい押し返してあげた。
あつあつの麺をちょっと掬って、ちゅるちゅる啜る。
うん、おいしい。焼き鳥いっぱい食べたあとだし、そんなにお腹が減ってるわけじゃないんだけどな。なのにあの大きな寸胴鍋から昇ってる湯気を見たり、
のれんの向こうから流れてくる匂いを嗅いだりすると、無性に食べたくなるんだよね、そんなにおなか減ってないのに。
れんげを琥珀色のスープの中にちゃぷんと沈めて、銀ちゃんが「味が薄い」って文句たれてたスープを吸ってみる。・・・うん、おいしい。優しい味だよね。
たしかに塩分薄めだしコクもあんまりないんだけど、このくらいあっさりしてるほうがお酒のあとのシメにはぴったりだ。
カップラーメンに入ってるあれみたいな透けそうに薄いチャーシューだって、この時間ならこれくらいがちょうどいい。
お腹にやさしい厚さだよね、これって作ってくれる人の優しさかも、…なんて、好意的な捉え方しちゃうから不思議だなぁ。
――なんてことを、半分口から飛び出たメンマをしゃくしゃく齧ってる銀ちゃんに言ってみたら、
「どこが優しさだよ。客が食ってる前で競馬新聞読んでるあのオヤジのどこに優しさを感じてんのお前は。なーそーだよなー、
万馬券狙ってダート戦にブチ込んでオケラになったおっさん、略してマダオ」
「ああそーだよ、どうせ俺はまるでダメなマダオだよ。この馬券だってゴール0.1秒前までは100万馬券に化けるはずだったんだよぉぉ!!」
対面で顔を隠してた競馬新聞がぶるぶる揺れる。べしっ、べしぃぃっ。湯気が立ってる寸胴鍋が並んでる横に新聞紙と小さな紙切れを叩きつけて、
さらにその上に突っ伏してめそめそ泣き崩れてるのは、先週からここの雇われ店主でアルバイト中の長谷川さんだ。
・・・ああもう、銀ちゃんが意地悪言うからまた始まっちゃったよ、長谷川さんの発作。あたしたちがここに座ってからこれでもう三回目だよ。
あーあー、サングラス外して涙目ごしごしこすって、・・・鼻水まで出てるよ、かわいそう。
「最終コーナーをぶっちぎり独走で回った時は、これはイケる、俺にもついに運が巡ってきたと思ったんだよ!!
なのに最後の最後で一番人気が大外から突っ込んでくるからぁああああっっ」
「ま、まぁまぁ長谷川さん、終わったことは忘れましょーよ、久しぶりにお仕事も見つかったんだし!」
ぱぱっ、とあわてて引き出したティッシュを渡す。こくこく頷きながら長谷川さんは受け取って、
鼻をぐすぐすさせながら目を拭いて鼻をかんで、サングラスをかけ直して、
「うぅぅ、そうだよなぁ・・・ありがとなちゃん。そうそう、そーだよ、終わったことをいつまでも引きずってちゃいけねーよなぁ・・・」
「そう、そうですよ。元気出してお仕事がんばりましょーよ、ねっ」
「ああ、そうだな頑張るよ。・・・・・・・まあ頑張るったって、ここの仕事も今日までの約束なんだけどさ・・・」
はは、ははははは。暗ーい空笑いが屋台の中で反響する。
長谷川さんの笑顔、怖いくらい生気がない。しかも聞いてると背筋がぞくぞくしちゃうような、乾ききった笑い声。
ほっぺたをひきつらせて愛想笑いを返しながら、横で知らん顔してずるずるラーメン啜ってる銀ちゃんの腕を肘で突く、ガンガン突く。
ヘルプ!ヘルプミー銀ちゃん!ちょうど時刻は草木も眠る丑三つ時、こんな時間に見たい笑顔じゃないよあれは!
ていうか何でもいーからフォロー入れてっ、お願いぃぃぃ!
「いーっていーって放っておけよ、どーせ明日には立ち直るって。案外渋太てーんだぜ、そのおっさん」
銀ちゃんのお箸が残り少なくなったスープの中をぐるぐるっと探る。ひょい、とこっちまで伸びてきた割り箸の先には、薄切りのナルトが。
くっきりしたピンクの線がくるくるしてるそれをあたしの唇まで近づけて、
「これ好きだったよなぁ。食う?」
「え、うん、好きだけど、でも」
「はいはいいーからいーから、食わせてやっから口開けって。はい、あーん」
「〜〜〜〜っ。な。なにそれ。やめてよそういうの、こ、子供じゃないんだから、・・・」
目の前で湯気をほわほわ昇らせてるナルトを落ち着かない気分で眺める。それから、湯気の向こうで競馬新聞をガサガサと広げ直した
長谷川さんを、ちらり。
「あー大丈夫大丈夫、こっちのことは気にしないでくれよ。大丈夫、おっさん何も見てねーから」
すぐに長谷川さんはくるりと椅子を回して、こっちに背を向けてくれた。
・・・そ。それじゃあ、・・・恥ずかしくてどんな顔していいのかわかんないけど、せっかくだからお言葉に甘えて。
おおきめに口を開けて、ひとくちで、ぱくん。
「ははっ。幸せそーな顔してんなぁ。なに、そんな旨めぇのそれ」
「ん。おぃひー・・・」
ほっぺたをもごもごと動かしながら、食べる手を止めて可笑しそうに笑ってる銀ちゃんにこくこく頷く。
・・・どうしてかなー。普段ナルトなんて食べないのに、
ラーメンのスープ吸ってふにゅふにゅになったナルトはなぜかすごーく好きなんだよね。
「スープが染みて膨らんでて、口に入れるとはんぺんみたいにふにゅふにゅして・・・うん、おいひー」
「おいひーって。つーかお前ぇ、口からスープ垂れてんだけど」
横から伸びてきた銀ちゃんの親指が、顎の下に触れてくる。
そこから唇にかけて、指先でなぞるみたいに肌を撫で上げた。滴ったスープの雫にそって、つーっと。
「っ――」
うわ、くすぐったい。びくっと肩が竦み上がる。お箸を握ってる手までぶるっと揺れた。とろんとした目の酔っ払い銀ちゃんが、
そんなあたしを眺めてにやにや笑う。ちろりと覗かせた舌の先が、指先についたスープをぺろりと舐めて、
「うめー。とてもあのおっさんが作ったとは思えねーわ」
百二十点。
酔ったせいで間延びしてる声が気だるげにつぶやく。指先に舌を這わせたまんまでこっちを見てくるその様子が
なんだか色っぽくて。――こんなところで思い出すには刺激的すぎることを連想させる、そんな仕草で。
・・・思えばそれがいけなかったんだ。
おかげであたしはついつい見蕩れた。美味しそうに指を舐める銀ちゃんに。
「――ん、なに、」
眠たそうな半目顔に尋ねられる。けど、理由なんて言えるわけがない。急に火照りだした頬を見せたくなくて、
ちょっとそっぽを向いてから「なんでもないっ」て怒ったふりして返した。
なのに銀ちゃんは、それだけであたしのおかしな態度の理由にピンときたみたいだ。悪だくみしてるときのやらしい顔が、目を細ーくして覗き込んでくる。
にたぁーっと口端を緩めて笑う。お酒が入ってるときのふらふらした動きで、もこもこ分厚い半纏を重ねた腕があたしの背中に回ってくる。
遠慮を知らない酔っ払いの手はもぞもぞっと動いて下へ降りて、腰のところをがしっと抱かれた。えっ、と肩を跳ね上がらせた時にはもう遅い。
腰を抱かれてこっちが動けないのをいいことに、ゆらぁ〜っと、倒れ込むみたいにして顔を近づけてくる。
視界がにやついてる銀ちゃんの顔でいっぱいになる。ふわぁ、と銀ちゃんの身体から漂ってるお酒の匂いが身体を包む。
ひゃああっ、とあたしは仰け反った。
「や、あれな。旨かったからもっかい味見させてくんね」
「〜〜っ!?っな、ちょ、」
「いーじゃんちょっとだけ、な」
「よくないぃ!やだ、ばかっ、こ、こんなとこでっ、〜〜ひゃ、ちょっ、ぎっ、〜〜っぅ、っっ!?」
ふらぁっ、とあたしに倒れ込むみたいにして銀ちゃんは顔を寄せてきた。
きついお酒の匂いがするやわらかさで、むにっ、と唇が塞がれる。
そのありえない感触に驚いて、心臓がばくばく弾み出す。動いて離れようにも腰を押さえられてるから動けなくって、頭の中が真っ白になった。
――わかってるのは、塞がれた唇がものすごく熱いこと。それから、ぺろ、と唇を舐めてきた舌のきついお酒の匂いのせいで、
くらくらっと、真夏の暑さでのぼせあがった時みたいな眩暈がしたこと。
他のことまでは頭が回らない。・・・ううん、他のことなんて考えられない。・・・・・・だって。 だって――
「〜〜〜〜っっっ!!!!!」
ばかばかばかあっっ、と塞がれた口の中で叫んで、顔をぶんぶん振ってむせび泣く。
〜〜〜ああっ信じられないぃ!だって、だってこんな、こんな、
――ちょっと風が吹いたら捲れあがって全部見られちゃうよーな、ピラピラで薄っぺらい暖簾一枚で隠されてるだけの場所で!
んん〜〜っ!って口の中で声を上げながらじたばた仰け反る。それでも離れてくれない顔をむぎゅっと掴んで、
すっかり調子に乗ってちゅーって吸いついてくる銀ちゃんを、じりじりと必死に押し返して、
「〜〜〜〜〜なっ、なっっ、ななっっっ、〜〜やだもうばかぁっ、ばかばかばかああっ。何考えてんのこんなとこで!!」
「っだよ、俺だけじゃねーだろぉ。こそ何考えてんだよー」
「っ!?」
「こーんなに顔赤くしちまってよー。お前あれだろ、さっきのあれだろ。何か人前じゃ言えねーよーなやらしーこと思い出してたんじゃねーのぉぉ」
「〜〜〜っっっ!!?」
「なー、どれ。どれだよ、どれ思い出したんだよ。昨日のアレかぁ?それとも三日前のアレとかぁ、
風呂でちょっとアレしたらすげー可愛い声出してアレしちゃった先週のアレとかぁぁ」
「具体的に言うなぁああ!!〜〜〜ち、ちがっ、そんなんじゃ、」
大声で叫びかけて、はっと気づく。・・・やっちゃった。今のは通りに響き渡るくらいの大きな声だった・・・!
見て見ぬふりをしてくれたはずの長谷川さんまで、咥え煙草がぽろっと落ちそうな驚き顔でこっちを見てる。
ああ顔が熱い。目の前でほわほわ湯気を上げて煮立ってる寸胴鍋にも負けないくらいの熱さだよ。
ぅうう、と唇を噛みしめる。ぐぐぐ、と手に力が入って、握りしめてた割箸がぽきっと折れる。
〜〜やだもうっ、なにこれ!恥ずかしすぎてわけがわかんないよ、腕とか肩にぶるぶる震えがくるくらい恥ずかしいよ・・・!!
銀ちゃんのにやにや笑いが止まらない。やめてよその目、ほとんど痴漢と変わんないよ!?そんな目で見られると
余計に恥ずかしいじゃん・・・!!
「・・・あーあーなんだよその顔ぉ、すっかり真っ赤になっちまってよー。・・・そーいうとこほんっと可愛いよなぁお前」
「ぅ、うるさいいぃっっ。・・・もういい。もういいからっ、黙って食べてよ銀ちゃんっっっ」
すっかり調子に乗っちゃった銀ちゃんが、満足そうににまーーーっと笑う。うんうん、と何か一仕事終えました、みたいなすっきりした顔して頷いて、
ほわほわ湯気が上る丼をゆっくり持ち上げる。
ずず―――っ。
あたしのほうを意味ありげな目でちらちら見ながら、ひどく美味しそうにスープを啜って。
「あのよーしばらくそーやってもじもじしててくんね。その顔見ながら食うと赤点ラーメンが十倍増しでうめーから」
「もういいっ、いいから黙って!〜〜ていうか一生黙ってろこの酔っ払いエロおやじぃぃぃ!!」
「そーそー、酔っぱらってっから俺。ぐでんぐでんでべろっべろの酔っ払いだからね、俺。
だから涙目んなったに叱られてもよー、なーんも、さっぱりわかんねーんだわ。な、だからもっかいちゅーしてもいい」
「し!しねばいいのに!しねばいいのにいいぃぃぃ!!!」