「およそ芸事なんてものは、人に見せねえことには腕が上がらねえもんだぜ。」
最初にそう言い出したのは晋助だった。
この有事におなごの舞いなど、と眉間に皺を寄せて渋ったのがヅラ。
おおっ、の踊りならわしらも見たいのー、とお気楽に笑って皆を煽ったのが辰馬。
あいつだけは部屋の片隅にごろりと寝転んで、頬杖をついてうとうとしていた。
久しぶりのささやかな遊興に湧き立つ仲間たちを、目を細めて楽しそうに眺めるだけで。
どうにかしてよ、とあたしが助け船を期待して目配せしても、何も言わなかった。 何も。
W h a t a w o n d e r f u l w o r l d !
撫子
―なでしこ―
「・・・やれやれ。一人前の芸妓になるにはまだまだ精進が足りんようだな。
。お前、半年の間いったい何をしておったのだ。これでは素人舞いもいいところではないか」
――と、ヅラが心底呆れた顔で溜め息を吐き、額を抑えてあたしの素人芸を憂いている。
「おい。ぁんだそのへっぴり腰は。んな腰つきじゃあ、男をたぶらかすどころか畑も耕せそうにねーぞ」
どこかの遊郭で借りたままの女物の羽織を肩に掛けた晋助は、まるで踊りのお師匠さんのような
尊大さで目の前に居座っている。たまにくつくつと、肩を揺らして失笑するのが憎たらしい。
「いやぁー、おまんら二人は見る目が厳しすぎじゃー。若い娘はもっと褒めて伸ばさんといかんぜよー。
だいたい今のこれは、お里で習うた田植え舞いか何かじゃろー?のう、?」
辰馬は片手に大きな握り飯、もう片手に味噌汁のお椀を持ち、がつがつと夢中で喰らいながら口を挟む。
特大の握り飯をもう五個以上食べているのに、胡坐を掻いた足の中にはご飯のお櫃を抱えて離さない。
「ちょっとぉ。せっかく披露してあげたってのに何よ、その態度は。
ろくに踊れなくて当たり前でしょ?踊りのお稽古なんてたった二か月前に始めたんだから!
あたしはまだ行儀見習い中という名の雑用係なの、芸者どころか半玉でもないの!」
ひとつ覚えのぎくしゃくしたぎこちない舞に足をもつれさせそうになりながら、あたしは喚いた。
しまいには、仲間の怪我の手当てを終えたヅラと、お櫃を抱えた辰馬までやってきた。
特等席を並んで陣取った三人は、腕の振りがどうとか足捌きがどうとか、
勝手なことをああだこうだとほざきながら、真正面からにやにやと見据えてくる。
奴等と視線が合うたびに顔がかあっと熱くなる。ああ、やりにくいったらありゃあしない。
「しかしまあ、あれじゃのー。踊り自体は、稽古を重ねていきゃー、そのうちどーにか見れるように
なるじゃろーがのー。なんちゅーか・・・・・・・こりゃー、致命的じゃ」
「ああ、さすがにこれはなァ・・・。どんな名師匠もお手上げじゃねーか?」
「うむ、まったく致命的だ。致命的なまでに・・・・」
三人はおもむろに口を揃え、揃って深刻そうな面持ちでぼそっと吐いた。
「「「色気が足りん」」」
「うっっっさいわァァァ!!放っとけェェェェェ!!!」
「ったく、泣かせやがる。お前の一年の苦労の成果がこれだぜ。たいそう出来のいい弟子じゃねーか、ヅラ」
「ヅラじゃない桂だ。無理を言うな。行儀は教えられても、おなごの色香の有り方までは手解き出来ん」
「まぁまぁ、悩むなヅラ。いい手があるぞー、これでほら、どうじゃ!」
すっくと立ち上がった辰馬は前に進み出ると、突然がばあっと、あたしの着物を裾から捲り上げた。
太腿まで晒された脚を「ほぉー」とジジ臭く唸ってしげしげと眺め、ぱあっと表情を輝かせて笑う。
あっけにとられて見ていた高杉とヅラにくるっと振り向いた。
「な?踊りのまずさはどーにもならんが、色気の無さならこれで一挙解消じゃ!アッハッハッハッハッ!」
「アッハッハッハッハッ、じゃねええェ!小学生かお前はァァァァァ!!!」
手刀で脳天チョップを叩きつけ、笑う辰馬を殴り倒す。唐突過ぎて行動が読めない
無駄に陽気なモジャモジャ頭が、鼻血を噴いて床に沈む。それでもあたしの踊りの披露は続いた。
「いいぞー、脱げー」と笑い混じりに野次が飛ぶ。脱ぐかバカ。まったくどいつもこいつも、
芸者がいかなる仕事なのかをちっとも判っていないんだから。もしかしたら
あたしが置屋で習ってるのが、野球拳だとでも思ってるんじゃなかろーか。
マジでムカつく。いやもうかなりムカつく。だけど仕方ない。どんなに笑われても踊ってあげる。
他の誰に頼まれて断るよりも、こいつらの前で踊りを披露しないのは、それこそあたしの不義理だろう。
こいつらは――特に辰馬は、あたしを江戸に出してくれたパトロンでもある。それに、ここの皆には少なからず
どいつにも世話になっているのだ。修行の成果を見せろと望まれたら、進んで恥をかくくらいは仕方がない。
でもやってられない。目の前で腕組みして眺めている晋助を筆頭に、ぐるりとあたしを囲んでいる奴等は
面白い座興だ、田植え舞い、と容赦なく囃し立て、不味さをいちいち指差しながらにやけているし。
踊っているこっちは人目の多さに緊張して息は弾むし、妙な汗は出てくるし。
演るんじゃなかった。ああもうやってられない、最悪だ。
お盆休みは、置屋で暮らす芸妓にとっては半年に一度の長い休みだ。
お姐さんたちはみんな、いそいそと楽しそうに里に帰った。けれど、あたしにはもう帰るところがない。
だから里帰りの代りに、半年ぶりでこいつらに会いに行くことにしたのだ。
今の野営地がどこに置かれているのかは、今月届いたヅラの手紙でわかっていたから
お土産代りの食糧を担いで、バスを数本乗り継いで、歩きで山をひとつ越えて、
一日がかりでこの廃屋に辿り着いた。それが今から数時間前、まだ陽が高かった頃の話だ。
足を棒にしてここに辿り着いた時には、麓の村から借り出された見張りの子供しかいなかった。
聞けば、最近場所を移した敵方の野営地の偵察に出ていると言う。
「ここだよ」と子供に指されたのは、戦火は免れたけれど住む人をなくした廃屋だ。一歩踏み入って、
あたしは男所帯につきものの鼻が曲がりそうな汗臭さを一瞬にして思い出し、うっ、と呻いて顔を顰めた。
ところどころに腐れて穴の空いた板張りの床は、固まった泥の足跡だらけ。
置屋で寝て過ごせばよかった、と本気で後悔したけれど、この惨状を見てしまったからには
放ってもおけない。はああ、とうなだれて嘆いてから、
うんざりするほど溜まった台所の洗い物の前で、着物の袖を肩まで捲くった。
茜色の見蕩れるほど綺麗な夕陽が、なだらかな山の稜線にゆっくりと沈みはじめた夕方。
泥だらけの床をきれいに磨き終え、食事の支度も準備万端に整えて、
あたしは一仕事やりきった満足感でほくほくして皆を出迎えた。
ところがこいつらときたら、半年ぶりに顔を見るあたしのことなんてそっちのけ。
ねぎらいの言葉も一切なく、お盆に積んだ握り飯の山に突撃して一心不乱に貪り食い始めた。
磨いた床は言うまでもなく、こいつらが通った途端にどこもかしこも泥だらけに逆戻りだ。
握り飯は奪い合い、味噌汁はお椀まで食べ尽くしそうな勢いの殺気立った光景は、
まるで地獄に落とされた餓鬼の集まりだ。あんなに喉に支えそうなくらいガツガツ貪っていたら、
味付けの良し悪しも、手間暇かけた下ごしらえの成果も何もない。これじゃ食事というよりは餌だ。
見ているこっちは、なんだか腹ぺこのブタや牛に餌でもやってる気分になる。
まったく、これだから男どもの集団は。
がっかりしたあたしのつぶやきなんて、誰一人として聞いちゃいない。
「おかわり!」「俺も俺も!!」「わしもー!大盛りで!!」
と、競い合って突き出されるお椀を受け取り、大急ぎで次々と盛っては返し、盛っては返し、
「そこぉ!ズルしない!一人二杯までだって言ってるでしょ!?」とお玉を振り回しながら
怒鳴っているうちに、呆れていたのも忘れて、なんとなく懐かしい気持ちになってくる。
早くも鍋底が見え始めた味噌汁を盛りながら、いつの間にかくすくすと笑い出していた。
そうだ。都会に気後れしながら過ごす毎日があまりにめまぐるしくて、すっかり忘れていたけど、
半年前までは、この男臭くて騒々しい生活は、たしかにあたしの日常だったのだ。
故郷を離れたのは一年半前のことだ。
子供と年寄りだらけの、貧しくて鄙びた里の西端に、あたしの生まれ育った家はあった。
小高い丘を均して広げた田畑で暮らしを立てていた、古くて小さなあばら屋だ。
あの村のほとんどの家がそうだったように、父も兄もすでに無い。
二人とも、数年前に戦に出て行ったきり音沙汰はなかった。
戦地で負傷して戻って来た人伝いに、前線に出されてすぐに死んだようだと報せは届いた。
どこでどう命を落としたのかもわからない。結局何ひとつ戻ってこなかった。
遺品のひとつも、手紙の一通も。一房の遺髪も、わずかな遺骨の欠片も。何も。
戦争はもう十年近く続いている。前線で命を落とした多くの人が、今でも家に戻ることが叶わず、
廃墟と化したどこかの冷たい瓦礫の下で眠っている。
父や兄の最期だって、特に珍しくもない死に様でしかない。ありふれたよくある話だ。
あたしがこいつらに出会った理由も、山脈に閉ざされた寒村が点在する一帯ではよくある話だ。
あれは、泣いて臥せってばかりいた母さんが、やっと台所に立ってくれるようになった春。
瑞々しい新緑の匂いが風に薫るような、よく晴れて暖かな日だった。
村は天人に襲われた。
萌黄色に染まりかけていた里の春は消えた。
すべてを火に覆われ、灼熱に舐め尽されて、黒く焼け墜ちた。たった半日で。
あの戦禍の中をあたしが生き残れたのは、ただの偶然にすぎない。買い出しで村を離れていたからだ。
雑木林に挟まれた暗い山道の途中。あと少しで里に出る、というところで、
硝煙の匂いに気が付いた。山火事の匂いとは違うきな臭さだ。嫌な予感で一杯になった。
里を見晴らせる断崖へ出ると、見慣れた小高い丘を火が呑み込んでいた。巨大で不吉な
赤黒い生き物は、天を仰いでゆらゆらとうごめいていた。あたしは走った。
何も考えられなかった。母さん、母さん、とうわ言のように呼んだり、妹の名を繰り返し叫びながら
泣きながら狂ったように走った。張り出した木の根に躓いて転んでも、草履が脱げても、
妹へのお土産に買った砂糖菓子の袋が手からすっぽ抜けて、駆け抜けた吊り橋から谷に落ちても、
それでも死にもの狂いで走り続けた。でも。間に合わなかった。
好物の砂糖菓子を待っていた妹は、居間の押し入れでうずくまったまま灰になった。
血まみれの槍に胸を貫かれた母さんの身体は、土間で焼け崩れた梁の下敷きになっていた。
黒焦げになった家の中で、母さんに縋って泣きじゃくっていたあたしの声を聞きつけて
瓦礫の中から引っ張り出したのが、次の野営地に移る途中だった銀時だ。
野営地についていったあたしが「身寄りがないから、後は遊郭にでも行くしかない」と
打ち明けたら、「春を売るのは最終手段だ。その前に、踊りでも覚えて芸を売ったらどうだ」と
怪しげな伝手を頼って江戸の置屋に口を聞いてくれたのが晋助。
「読み書きも出来ぬ女に江戸の芸妓は務まらんだろう」と、暇を見ては手習いをつけたり、
いったいどこで覚えてきたのか、良家の子女向けの行儀作法を仕込んでくれたのがヅラ。
「国の未来を支える若いおなごに投資するんは良かことじゃー」と二つ返事に引き受けて、
田舎者のあたしが目を剥くような額の支度金をポンと用意してくれたのが辰馬。
金の無心のための帰郷に附いて行った人の話では、放蕩息子に手を焼く親父様の怒りを
のらりくらりとかわしてせしめた札束を抱え、ワハハと笑いながら実家の門を駆け出る姿は、
妙に陽気で頭のおかしい強奪犯にしか見えなかったらしい。
天人たちが襲来しようとしている里へと先回りしたり、お互いに前線を急襲したりされたりで、
戦線はいつも慌ただしく移動する。それに伴って、野営地から野営地へと、山を越えての旅は続いた。
あたしは飯炊き女扱いで、ほぼ一年近くこいつらについて回った。朝から晩まで騒々しくて
むさ苦しくて、大量の食事の用意や洗濯はもちろん、徒歩で山を降りての買い出しや雑用まで、
すべてを一手にこなさざるを得ない重労働の日々だ。周囲の奴等はどいつもこいつも、一筋縄では
いかないバカばかり。しかも、女日照りに血流を滾らせている、血の気があり余ったケダモノ揃い。
規律に煩くてクソ真面目なヅラの庇護がなかったら、一体何度襲われていたことか。
最初は毎晩布団の中に包丁を持ち込んで怯えていたのも、今は懐かしい笑い話だ。
「――そうか。あれから半年も経つのだな」
感慨深げにそう言うと、ヅラは刀の切先を鞘に収めた。
月の光を浴びていた銀の刀身が、するりと鞘の中に消えていく。パチン、と冷えた音で鍔口が鳴った。
洗い物を終えて広間に戻ると、みんな姿を消していた。
残っていたのは縁側で刀を手入れしていたヅラと、広い部屋の隅で寝ているあいつの二人だけ。
晋助はさっさと部屋に戻ったらしい。辰馬は壊れた銃火器を弄りに、他の数人と外へ出ている。
天人が捨てていったものを「部品としてならまだ使える」と帰りの道で拾ってきたんだそうだ。
広間から縁側に出る。ヅラの横に座った。床板がしっとりと冷たい。熱帯夜の続く江戸とは、
ここは空気がまるで違っている。暗がりでちろちろとざわめく虫の声も、秋の近さを感じさせた。
門前の方から辰馬のバカ笑いが響く。それに続いて、つられた数人の笑い声がさざめいていた。
小さく頼りなげな光を灯した蛍が、ふわり、ふわり、と弧を描きながら、崩れかけた石垣の向こうを流れる
小川の方へ飛んでいく。縁側に刀を置いたヅラは、その光が遠ざかっていくのを黙って眺めていた。
暗闇を遠ざかっていく別の何かを見送っているような目だ。
なんとなく部屋の中を振り返ると、あいつの背中が目に入った。
月明りの当たらない真っ暗な部屋の中で、寝癖みたいな白髪頭と白い装束はやけに目についた。
鼻先に握り飯の皿を置いても、「晩飯くらい食べなさいよ」と声を掛けても、銀時は起きようともしなかった。
甲冑もろくに外さないまま、肩を丸めてごろりと横になっている。
「どうだ。江戸の暮らしにもそろそろ慣れたのではないか」
「さあねー。置屋のしきたりだってまだてんで身に着かなくて、毎日失敗ばかりだし。
お稽古やお姐さんたちの手伝いだけでも手一杯でさ。江戸の生活に慣れるどころじゃないよ」
「そうか?しかし、半年見ない間に顔つきは変わったようだがな」
「へえ。そう?」
「ああ。俺たちと居た頃よりも良い顔になった」
「・・・何よ、気持ち悪いわね」
眉をひそめてヅラの腕を肘でつつく。
今のは皮肉なのか、それとも似合いもしないお世辞の類なのか。
冗談でも何でも、区別なしに真顔で淡々と口に出すのは相変わらずらしい。
「言っとくけど、いくら褒めたって土産のひとつも出やしないからね」
「世辞などではない。変わったぞ。江戸の女らしい顔つきになってきた」
心外そうに眉を曇らせ、ヅラは大真面目に言い切った
皮肉でもお世辞でもなく、心からの実感だったみたいだ。
「まあ、当人はわからぬものかも知れんが。お前が江戸の暮らしに溶け込み始めている証だな」
「そーねぇ、…あと半年で半玉だし。お母さんや姐さんたちもいい人だしさ。なんとかやっていけそうよ」
「当然だ。あれだけ手を掛けて教え込んだのだからな。ものになってもらわねば困る」
「ここまで身に着けば、江戸の女に混じってもひけはとるまい」と
ヅラのお墨付きが出て、あたしが置屋に送り出されたのが半年前だ。
「そうか。半玉まであと半年か」としみじみつぶやき、ヅラはなぜか困った顔で溜め息を吐いた。
「まったく。あれから半年も経っているというのに・・・」
「・・・?」
「半年もあれば這っていた赤子も歩き始めるというのに。・・・それに比べて、こいつときたら」
やれやれ、とでもいいたげな苦々しい顔で立ち上がると、ヅラはまっすぐに部屋の奥へ向かった。
図体のデカい化け猫の置物みたいに固まったあいつの背中を、軽く蹴りつける。
「おい銀時。お前もに習って、少しは進歩というものを身につけたらどうだ」
珍しい。ヅラがあいつを真面目に叱るのも珍しいけれど、ヤラれたら即倍返しが信条のあいつが
言い返さないどころかびくりともしない。あたしは目を丸くしながら近寄った。
「ねえ。どうしたのよ。何でこんなにいじけてんの」
「放っておけ。が気にしてやることはない」
「じゃあ何。・・・あ、もしかして。また晋助とくっだらない喧嘩してんの?ったく、懲りないわねー」
「いや。そうではない。いつものあれだ」
言いかけたヅラはふいに口を結んだ。
銀時を見下ろした横顔が、縁側で飛んでいく蛍を眺めていたときのような遠い表情になる。
「一昨日、新入りがこいつの目の前で撃たれてな。三人殺られた。みな即死だった」
「・・・・・そう」
ぽつりと返した。我ながら間の抜けた返事だ。
――やっぱりそれか。そう思いながら、あたしは銀時の頭の傍にしゃがんだ。
ふやけた癖っ毛を摘んでぐいぐい引っ張る。わしっと掴んでぐしゃぐしゃ引っ掻き回す。
それでも銀時は動かない。これだけやられて寝ていられるはずがないのに。
バーカ、とつぶやきながら白髪頭を睨んでいるうちに、ふう、と重っ苦しい溜め息がこぼれた。
あたしにつられたのか、ヅラまで背後で溜め息を漏らしていた。
「背後から遠距離の砲撃だ。いかにこいつでも、・・・いや、誰であろうと防ぎようがあるまい。
自分の身を護れただけでも良しとすべきだ。なのにこいつときたら、言い聞かせても耳を貸さん」
「…馬っ鹿じゃないのあんた。ちょっと銀時。聞いてんでしょ。
いい加減にしなさい、ウザいのよ。あんた、どうせまた自分のせいだとか思ってんでしょ」
「ああ。昼間は空元気でごまかしているがな。夜まではへらず口も保たんらしい。
昨日からは飯も食わん始末だ」
半年ぶりに見る顔ぶれには、知らない顔も混ざっていたけれど欠けもあった。
人数も二、三割方減っている。いなくなっている全員が、どこかで命を散らしたんだろうか。
がやがやと騒々しい食事の間、帰ってきた奴らの顔を確かめながらぼんやりと思っていたことを
口に出す気にはなれなかった。
「おい。いい加減に目ェ覚ましたらどうだ、銀時。どうせ狸寝入りなんだろ」
せせら笑う声に驚いて振り返ると、いつのまにかヅラの隣に晋助がいた。
こいつはたまに気配がしない。冷淡そうな顔に似合わず悪戯好きで、わざと無言で背後に立って
からかってくるから、一緒に暮らしていた頃は本気で叫び声を上げてしまうくらい驚かされた。
手を入れていた着物の袂から何かを出して、ぽいと放る。すると、ぼとっ、と目の前に落ちた音に反応して
銀時の頭がびくんと動いた。かあっと目を開けた途端に腕が動いて、床に落ちたもの――江戸ならどこでも
土産物として売っている、餡子入りのお菓子の包みを鷲掴みに。瞬く間に包装紙をビリビリ破って
引き千切ると、寝転がったままがつがつと、夢中で頬張り始めた。
…心配して損した。あたしは白い目で銀時を睨んだ。「まったく」とヅラも背後でぼやいていた。
この姿を知っていると、世間を賑わす「噂」なんてものは、どれも全く信用ならないと思う。
こんな意地汚い糖分狂いのだらしない奴が、世の中では「白夜叉」なんて
威圧感たっぷりのすかした名で呼ばれていて、バケモノ扱いで恐れられているんだから。
その様子を腕組みして見下ろしていた晋助は、ふん、と鼻先で笑い飛ばした。
「こいつには握り飯より甘味だろ。ほら見ろ、すっかり息吹き返しやがった」
「高杉。お前、菓子などどこから調達してきた」
「俺じゃねえよ。こいつはの荷物から」
「ちょっとぉぉ!!それっ、どっかで見たと思ったらあたしのおやつーーー!!?」
「何だ。お前、自分で食う気だったのか?てっきりこいつに食わせるためかと思ったぜ」
「よさないか高杉。いくら何でも、断りもなく他人の荷物を漁るのはどうかと思うぞ。
親しき仲にも礼儀ありと言うではないか。ましてやは、これでも一応おなごだぞ」
「ちょっと待て。一応って何よ、一応って」
あたしに脚を叩かれても平然と澄ましているヅラを横目に、晋助は床に腰を下ろした。
傍に置いてあった火鉢には、さっき湯を沸かした時の火種がわずかに赤く残っている。
それを引き寄せ、肌蹴け気味な胸元から煙管を出して先を寄せた。
「心配すんな。俺ァこいつの荷物なんざ興味ねえって。
あんなもん誰が漁るかよ。色気づいた下着の一枚も入ってねーのに」
と、口から煙を昇らせながら心底嘆かわしげに眉を寄せる。
唖然とさせられたあたしは煙管を奪い取り、火鉢の灰へと投げ込んだ。
「漁ってんじゃねーかァァ!!」
「あー、無理無理。んなもん期待したって無理だって。
こいつが色っぺーフリフリのブラとかレースのパンツとか穿いてるわけねーだろォ?」
そこで突然、むくっと起き上がった銀時が口を挟んできた。
眠たそうな顔でまだモゴモゴと、口汚く頬一杯にあたしのお菓子を張っている。
「つーか俺ァ、こいつがブリーフ履いてたってふんどしつけてたって驚かねーよ。当たり前だろォ?
こいつに色気を期待できるか?んなもんよー、ゴジラに色気を期待すんのと一緒じゃねーか」
「そーよ当たり前よ。色気以前にゴジラはブリーフもふんどしも履きゃしないわよ!」
ムッとして怒鳴り返す。するとなぜか、はあ―、と気落ちした溜め息が三人から一斉に。
晋助は完璧に見下した目で、ヅラは憐れんでいるような顔で、銀時はすっとぼけた半目でこっちを見ている。
あたしはますますムッとした。何なのこいつら。どいつもこいつも、揃いも揃って失礼な。
膝を折って床に腰を下ろして、ヅラが眉間を抑えてうなだれた。
「…。少しは恥じろ。男の下履きを大声で叫ぶその恥じらいのなさが、ゴジラと同列にされる原因だ」
「はァ!?よく言えたもんね。
下履き程度でいちいち恥じらってる女が、ここで生きていけるとでも思ってんの。ガッチガチの
きったない下履きの山を毎日毎日、花も恥じらう年頃の乙女に洗わせてたのはどこのどいつらよ!!」
「アッハッハッ!そりゃーわしらに違いないのー!」
そこへ古い床板をぶち抜いて踏み外しそうな勢いで、辰馬がドカドカと縁側から入ってきた。
機械に挿す油だろうか。目の下や頬には、黒い汚れがべっとりついている。
腕には黒っぽい鉄の塊が数個抱えられていて、カチャカチャとにぎやかに鳴っていた。
あれがたぶん、さっき言っていた戦利品の部品だろう。
「と言われてものー。ヅラや銀時の言い分も、あながち間違ってもおらんしのー」
「何よそれ。年頃の女がゴジラと同じ扱いってどーいうことよあんたたち。
ここで言えるもんなら言ってみなさいよ。今までいったい、あたしを何だと思ってたのよ!?」
「どーって」
食べ終わったお菓子の屑が指に残っているのをぺろっと舐めながら、銀時はこともなげに答えた。
「毎朝よー、男の寝起きしてる部屋にドカドカ踏み込んで布団剥いでよー、
「んなとこ起こすより先に身体を起こせ身体を!」つって、急所をもろに蹴り上げるよーな女、だろ」
「あれはあんたが悪いの。放っといたらいつまでたっても起きて来ないからでしょーが!」
「いやいやいや、放っとけ?頼むから放っといてくれって。お前よー、俺の健気で愛らしい
ネオストロングサイクロンジェットアームストロング砲が、お前のあれで
どんだけ深刻なダメージ受けたと思ってんの!?」
「うんうん、あれはいかんぜよーあれは。見てるこっちの◎★まで縮み上がるきに」
「だろォ!?もっとあんだろーが他によー、心ときめくラブコメ的な起こし方がよー!
毎朝隣の家から窓伝いに俺の部屋にそーっと入ってきて、「銀ちゃん起きて」って頬にチューとかよー!」
「何よそのウザい幼馴染み設定は。つーかどこがいいのそんな女、泥棒だろそれ!」
「いや俺的には幼馴染み設定よりも義理の母親設定のほうが」
「語るなヅラ!てめーのお気に入り18禁ゲー設定なんて聞いてねんだよ」
うんうん、と一人頷いて悦に入っているヅラの頭をペシッとはたき、銀時はあたしに向き合う。
何を思ったのか、妙に真剣な、少し怒ったような顔で、ビシッと一直線にあたしの鼻先を指してきた。
「おい、予言してやる。お前には一生嫁の貰い手がねえ!」
「へえ。銀時、お前もたまには的を得たこと言うじゃねーか。」
「同感だな。そこは俺も太鼓判を押してやろう」
「いやあ〜〜、すまんのー。せめてわし一人くらいは味方してやりたいところじゃが、
弁護のしようがどっっっこにも見当たらんぜよ!アッハッハッハッハッ!!」
身体を揺らして豪快に笑い飛ばすアホ男の腹に一発入れる。うぐっ、と呻いて辰馬が倒れ、
床にバラバラと部品が転がる。ヅラも晋助も面白がってそれをモジャモジャ頭に投げつけたり、
辰馬の背中を蹴ったりしていた。すると蹴られているうちに辰馬がむくりと起き上がり、
ヅラと晋助にがばっと抱きついた。
「冷たいのーおまんらはァ!わしらは仲間じゃろー!」「違う。そう思っているのはお前だけだ」
嫌そうに眉を吊り上げたヅラは、近づいてきた油まみれの顔をうっとおしそうに引き剥がす。
晋助は二人を眺めてうすら笑いを浮かべてるけど、冷えた視線はツンドラ地帯に育つ氷柱よりも
尖っている。それでも辰馬はめげずに二人の肩を抱き寄せて、ワハハハと呑気な笑い声を上げた。
誰も何も言わないけれど。きっと、みんなが同じ思いでここにいる。
実質上はこの義勇軍をまとめている、心配性のヅラも。銀時とはケンカばかりで口の悪い晋助も。
そして辰馬は、そんな二人の気持ちがわかっているから、こうしてじゃれているんだろう。
あたしがこいつらと暮らしていた頃も、何か起きて空気が重くなると、わざと呑気な笑い声を上げ、
バカな真似で皆を和ませるのは、必ずといっていいほど辰馬だった。
これも相変わらずの光景だ。三人を眺めているうちに、なんとなく可笑しくなってきた。
素直に心配してやればいいのに。笑いながら横を見ると、ごろりと横になった銀時と目が合った。
少しは気が晴れたのかもしれない。疲れ気味のだるそうな顔には、うっすらと苦笑いが浮かんでいた。
単にじゃれつかれるのに飽きたのか。それとも、銀時の表情が変わったのを、目の端で抜け目なく
確かめたからなのか。晋助は無言で辰馬の頭を殴りつけると、さっさと部屋を出ていった。
それに続いてヅラも立ち上がり、辰馬が部品を拾いながらその後を追う。
今は何時なんだろう。
見上げた廃屋の壁時計の時間は止まっていた。六時過ぎを指した針を眺めていたら、欠伸が湧いた。
昨日の夜は長距離バスに揺られていたから、やけに眠たいし身体も重たい。
あたしもそろそろ、と立ち上がりかけたその時。ふっ、と着物の裾が重くなった。
泥と餡子で汚れたデカい手が、着物の裾をがっちり掴んでいる。あたしは銀時をじろりと睨んだ。
恨めしそうな目がこっちを見上げて拗ねていた。
「・・・・何よ。お菓子ならもう無いわよ。放しなさい、あたしはもう寝るんだから」
「お前はババアか。早すぎんだろ。まだ日が沈んだばっかじゃねーか」
いいから座れって。
ぐいっと引っ張られて床に腰が落ちる。いたっ、と悲鳴を上げたあたしの膝に、
銀時はすかさず乗り込んできた。太腿に頭を乗せて、がしっと着物の合わせ目を掴んだ。
唖然としてあたしは目を剥いた。払う間もない早業だ。
「・・・呆れた」
「いいだろ、膝くれー貸せよ。別に何しようってわけでもねーんだからよー」
「甘えてんじゃないわよ馬鹿白髪。人をさんざんこき下ろした奴が、よくまあこんな真似が出来るわね。
よっぽど女に飢えてんのねあんた。そんなに恋しかったんですか、ゴジラ並みに色気のない女の膝が!」
「っせーよ。いーからちょっと黙ってろって。・・・つーか。てめーが女じゃねーから出来んだろォ」
不満たらしくブチブチ言いながら、銀時がもぞもぞ動く。腰にしがみつくようにして顔を腿に埋めた。
「ちょっとォ!」
「黙ってろって。あとで時給払うから、三百円払うから。な?」
あたしの膝は時給三百円か。
殴ってやろうかと思いながら天井を見上げて、また銀時を見下ろして。あたしは諦めの溜め息をついた。
布越しに響く吐息が熱くてくすぐったい。
乗っかってきた頭は大きくて重たい。着物を掴んだ手は力強い。
でも、それ以外は子供に甘えられているのと何も変わらなかった。なんとなく、死んだ妹を思い出した。
「・・・げー。女臭せぇ」
「うっさい黙れ。その白髪頭、真っ赤に染められたいの。ババアのお洒落染めみたいにされたいの」
「んだよ、やる気かァ?出来るもんならやってみろよ。頭かち割られたいんですかこのヤロー」
あたしが頭をベシッと叩いて、銀時があたしの手を叩き返す。
何度も同じことを繰り返してふざけているうちに、あたしたちはいつの間にかケラケラと笑っていた。
しばらく笑い合ったあとで、銀時が急に押し黙る。
あたしの着物を掴んだ指が少し動いて、ぽつりと、声を低めてつぶやいた。
「咲いてたんだ」
「え?」
「あいつ埋めた横によー。・・・こんな色の花。この着物みてーな色だったなぁと思ってよ」
「・・・・・そう」
ヅラに言われた時と同じだ。やっぱりあたしは、間抜けな返事しか出来なかった。
けれど何も言う気になれない。それに、これ以上何か言う必要もあまりないだろう。そうも思った。
こんな時には、どんなに気持ちの詰まった慰めの言葉も、するっと耳からすり抜けてしまうものだ。
あたしも経験したから知っている。それに。・・・たぶん銀時は、あたし以上に知っている。
慰め代りに、ぽんと頭に手を置いた。
それでも気にした風もなく、銀時はぽつぽつと、感情を消した声で話し続けた。
「妙だよなあ。あいつの死に顔がどんなだったかなんて忘れちまったのによ。あの花の色だけ覚えてんだ」
うん、と頷きながら、あたしは別のことを思った。
母さんと妹を失くしたあの日のことだ。
あたしが泣き崩れている間に穴を掘って、妹と母さんを埋めてくれたのも銀時だった。
「もう屋根もねえんだ。仏さんをこんなところで、雨ざらしのまんま置いとけねーだろ」
埋めないで、と母さんにしがみついて拒んだら、そんなことを言われたのを覚えている。
あの日の銀時のことなんて、他には何も覚えていないのに。
今でもたまに思う。
あの日。あの村であたしだけが命を拾った、あの生と死の境目には、いったい何があったんだろう。
なぜあたしは生き残るように選ばれたのか。なぜ母さんや妹は、生きる道を奪われたのか。
それは神様が気まぐれに賽でも振って決めたような、ほんの些細な違いでしかなかったはずだ。
たぶん。そこにはあたしたちの納得がいくような、明快な理由はないんだろう。
転がった賽の目数をそれぞれの運命として押しつけられ、ただ無差別に振り分けられただけ。
あたしの知らない誰かが砲弾で命を落として、すぐ傍にいた銀時がこうして生きているのも。
あの日、唯一あたしだけが、天人たちの蹂躙から目こぼしされて生き残ったのも。
生と死の、薄羽のような、ほんのわずかな境目を潜り抜けた人間だけが生き残る。
失くしたものの大きさを儚んで引きずりながら、あたしは今日もまだここに生きている。
生き残ったあたしたちは、小さくて弱い鳥の群れが身を寄せ合うみたいに同じ場所に集って
――同じ夜に集って、同じ夜に笑い合って。同じ夜に呼吸している。
だけど。夜が明けて明日になれば、一瞬だって同じ時間は戻ってこない。二度と戻ってこない。
同じ奴等と同じように笑い合ってはいられない。それがどんなに大切な人だったとしても。
戦は闇雲に奪っていく。何も与えてくれない。
生みだすものは無念さを告げる術すら持たない亡骸の山と、息絶えた黒い荒野。
そして、理不尽な虚しさだけ。
でも、あたしたちは誰もがその中に生きていくしかない。
生き残ったあたしたちは、失くしたものに思いを募らせる。そのたびに、戦が生みだす虚しさを
否応なしに突きつけられる。嫌ってくらい思い知らされて、また失くす。失くし続ける。
失くすたびに打ちひしがれて、それでもまた身を切られるような思いを繰り返させられる。
穏やかなままに続くと信じていた毎日も。当たり前のように隣で笑っていた誰かの姿も。
ささやかで小さいけれど大切な世界は、ある日突然終わりを告げるんだ、って。
みんな二度と戻ってこなかった。
「晩飯は奮発してくれよ」とか言って笑っていたのに、それっきり二度と野営地に帰って来なかった奴らも。
砲撃に吹き飛ばされて銀時が土に還した、あたしの知らない誰かも。
父さんも兄さんも。あの小さなあばら屋で母さんと妹が待っていた、萌黄色に染まっていた里の春も。
戦は一瞬にしてすべてを奪う。すべてを身包み剥いで奪って、常闇にあたしたちを放り出す。
戦はすべてを突然断ち切る。ぶつっと、日常を目の前から一瞬で断ち切って、
取り戻そうと必死に手を伸ばすあたしたちを振り切って。永遠に手の届かない遠くへ浚っていってしまう。
この夜も。目を覚ませば眩しい朝に繋がっていそうなのに、決して朝には繋がってはいない。
明日の夜には、今夜見た顔のうちの誰かが消えてしまっているかもしれない。
穏やかで退屈でごく当たり前で、でも幸せな日常の数珠繋ぎは、実は奇跡にも等しくて。
決して当たり前には連続してくれない。
「銀時」
「・・・ぁんだよ」
「その人のお墓ってどこにあるの」
「・・・・・。ここから西の山を。ひとつ越えた、・・・山道の入り口だったな。きったねー祠が、・・・」
そこまで言うと、もぞもぞ動いて向きを変えた銀時は、怪訝そうにこっちを見上げた。
薄く開いた目が疑問いっぱいに「何する気、お前」と問いかけてくる。
この表情も今は懐かしい。見慣れた銀時の顔だ。
やる気のなさそうな、だらしない糖分バカの顔にすっかり戻っている。可笑しくなって、ふふっ、と笑った。
「行ってくるわ、明日。花も手向けて、お供えもしてくる」
あの山なら今日も越えてきた。祠の場所も覚えている。
早起きして朝ご飯を作って、大急ぎで洗濯も済ませてから出掛けても、夕方には十分戻って来れる距離だ。
それに仏さんだって、見飽きたむさ苦しい白髪頭にじとっとうっとおしく見下ろされるよりは、
馴染みはないけど若い女がやってきて、墓前に花を飾ってくれて、その女が手を合わせているところを
墓碑の下から「誰、こいつ」と不思議がりながら眺めているほうが、いくらか気分はマシだろう。
それがたとえ色気の足りない、ゴジラみたいな女でも。
「大丈夫。山道には慣れてるからね。途中で天人に会ったって、あんたたちより上手く隠れられるわよ」
軽く請け合って、表面が乾き始めた握り飯を手に取る。
皿に載っているのは二つ。ひとつは自分で食べることにして、もうひとつは
何か言いたげにして眉間を曇らせた銀時の口に、わざと押し込んで塞いでやった。
「あんたのぶんまでしっかり拝んでくるからさ。
だからあんたも。・・・あんたたちも、明日も四人揃ってここに帰って来んのよ」
「・・・そりゃー帰ってくんだろ。当たり前だろ」
握り飯でモゴモゴと口籠りながら、ふいっと目を逸らして答えた。
月の光が届く縁側を眩しそうに眺めている。握り飯をもう一口食べて、眠そうに目を瞬かせて皿に戻した。
銀時は止める気もないのか、何も言わなかった。
あたしも黙ってふやけた癖っ毛の頭を撫でた。撫でられている奴は
何だかふてくされたような、居心地の悪そうな顔をしたけれど、特に嫌がりもしなかった。
その顔を見ていたら、なんとなく気が晴れていく。
半年ぶりに会ったんだから、話したいことはあれもこれも、
短い休みだけじゃ伝えきれないくらいに積っている。
でも。明日でいい。
あたしと約束したんだから、銀時は必ずここに戻ってくる。あいつらを連れて戻って来る。
口煩いヅラと、小憎らしい晋助と、騒々しい辰馬と。五人で。明日も同じようにまた、必ず、ここで。
――そう信じて待つことが、明日、こいつらが生きて戻ってくるための道標のひとつになればいい。
「なァ。あれ、なんて花」
「さあね。色だけじゃね。わかんないわよ。どんな花だった?」
「さあな。男は区別つかねーんだよ、花なんて」
だるそうな声でそう言って、また銀時が黙る。横を向くとすぐに目を閉じた。
夏の虫の微かな声が、かえって耳に静けさを響かせる。
部屋の奥から見上げた星空を、白い鳥の群れが綺麗な三角形の列を描いて渡っていく。
流星が裾野を広げた尾を夜空に引いていくみたいだ。
見上げているうちに、あの鳥たちのさざめくような啼き声まで聞こえそうな気がした。
あたしは。銀時たちは。あの鳥たちのように支え合って飛んでいるのかもしれない。
あの鳥が羽ばたくよりもずっと、狭くて重苦しい空の下を。
「・・・・・なァ。」
「何よ」
「まだ。・・・・・もう少しで、・・・いいからよー。・・・このまんまで、いてくんねーか」
俺が 眠っちまうまでで いいから。
ぼんやりと呆けた声が、途切れ途切れにゆっくりつぶやく。
今にも眠りに溶ける寸前の意識から、やっとで絞り出したような声だ。
「いいよ」と笑って返すと、腰に抱きついていた腕がふっと力を失う。ぱたり、と床に手が落ちた。
預けられた頭は重たくて温かい。確かな寝息も聞こえる。
だけど。煤で汚れた寝顔は半年前よりも生気を殺がれて、薄い影を宿していた。
「 What a wonderful world ! *撫子 」
text by riliri Caramelization 2010/04/09/
新訳紅桜編公開を祝ってNo.5シリーズの銀さん過去話 もすこし後で書くつもりでしたが 祭りに便乗。
桂は「片恋…*3*4」に。主人公は「甘い菓子には…」番外の「ご主人さまと受難の日々*4」他にいます
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