がしばらく城詰めになった。一カ月ほど帰ってこねえんだ」 ふとした瞬間に告げられたその言葉は、ひどくはっきりと彼の耳に飛び込んできた。

 鈍色胡蝶    片恋方程式。 *39.5

吹き溜まった湿気が肌に貼りつき、気色の悪いカビ臭さが鼻につく廃屋の中。 突入前の待機場所となっている暗がりの隅で刀を抱いてうずくまっていた沖田は、軽い驚きを浮かべた顔を上げる。 見開いた瞳はどこかうつろな色を残していて、彼の容貌の人形めいた端正さを ――見ようによっては儚げな少女にも映る彼独特の雰囲気を、さらに無機的なものへと引き立たせていた。 見上げられた近藤は戸惑い顔で目を見張り。やがてへなりと眉尻を下げ、はは、と困ったような笑みを浮かべた。 「そうか。やっぱりお前も、あいつがいねえと淋しいか」 「・・・・・・。」 俺ぁ今、どんな顔をしたんだろう。 首までずり落ちていたアイマスクを外しながらそんなことを頭の片隅に浮かべはしたが、 沖田が驚いていたのは、それとはまったく別の事だ。 いつ以来だろう。 人の声がこんなにも鮮明に、頭の隅々まで響き渡る感覚を味わったのは。 あれから誰に何を言われても、目には映らない分厚い膜でも通したかのようにぼんやりとしか響かなかったというのに。 澄んだ大きな目をぱちりと瞬かせながら沖田は思う。 彼の目の前を塞いでいる、上背のある分厚い身体。その後ろでざわざわと動き回っているのは、攘夷浪士たちが 会合している煤けた小料理屋への突入を前に、緊張を募らせつつある一番隊の隊士たち。 無線で他隊と連絡を取っている者。隙間を空けた戸口から外を窺う者。刀や銃砲などの手持ちの武器の具合を 几帳面に確かめ直している者。どことなく顔つきが硬い彼らとは異なり、刀の先を地面に突いて立つ近藤の表情は 普段通りに悠々としている。 何です、と目で問うつもりで、沖田は首を傾げながら彼を見つめた。 にかっと大きく笑った近藤の左手は背後に隠れたままだ。何かを持っているらしい。 「そこの奴らに聞いたぞ。お前、昼飯抜きだったそうじゃねえか」 指の節がごつごつと太い頑丈そうな手が、ほら、と紙袋を差し出してくる。 「あまり時間はなさそうだが、喰えるだけ喰っておけ。今夜は長丁場になりそうだからな」 「あぁ、わざわざ買ってくれたんですかィ。ありがとうごぜーやす」 「それでな、なんだがなぁ。ほら、前に城で見ただろ、本庁の女性警官で 結成したっていうそよ姫様の専従SP隊。あれになぁ、・・・」 緊張の欠片も感じさせない表情で続く、身ぶり手ぶりを交えての近藤の話。 土間の影で隠れるようにしゃがんでいた自分に向けて、惜しみなく降り注いでくる屈託のない笑顔。 (まるでお陽さんの光だ。) 子供の頃から幾度となく感じてきた感想が、口の端まで上ってきておかしくなる。 片手を伸ばし、硬かった表情をわずかに緩め、くすりと小さく笑い返す。差し入れとして 持って来てくれた肉まん入りの紙袋を受け取った。 手渡された差し入れは、これを手渡してきた当人の笑顔と同じに温かい。 肌に直接触れた底が湿り気を帯びている。持っているだけで冷えきった手が暖まる。 だというのに何だかみじめな気がした。 このちっぽけな温かさに、嫌悪と紙一重な違和感を覚えている卑屈さがみじめだ。 ・・・見知らぬ誰かに慈悲を授けられたあわれなガキは、こんな気分になるんだろうか。 そんなことをぼんやりと考えながら、袋の中身に手を伸ばす。 ぱくりと一口食いついてみる。ほとんど噛まずに喉を通した。手の中で温かな湯気を昇らせているものに視線を落とす。 喉を落ちていく甘辛い肉汁の旨み。決して不味くはない。ただ、あれからずっと、 ――彼にとってたった一人の肉親が月に一度の検査に通っている病院から、突然の呼び出しを受けて。 それ以来、ずっと、――何を食べても味や匂いがろくに判別出来ていない。 何を食べても同じに感じてしまうのだ。 これでは砂や汚泥を食べたって同じだろう。何を舌に乗せても感覚が身体に味を伝えてこない。 いや、それとも。これは身体が感覚を拒んでいるからなのか。 あれから俺の身体はずっと、何かを感じることを拒否している。胸の奥に滞っている感情を押し流そうとする すべてを拒み、頑なに押し返してしまう。だからなのか、自分が腹が減っているのかどうかすらわからなくなる。 食欲なんてとうに失くした。それでもこの人にこうして与えられれば、礼を言って笑い返し、漫然と口に詰め込む。 これは身体を動かすための燃料だ。そう自分に言い聞かせながら我慢して食べる。 ただそれだけの、苦痛を生む行為になり果てた食事は、身体と心を潤し満たすものには程遠かった。 「俺もを預けついでに候補生の顔ぶれを見てきたが、さすがにどの顔もきりりと凛々しいっつーか、 実に優秀そうな女性ばかりでなぁ。 ・・・・・・・っておぉい、総悟ー?聞いてるかぁ、俺の話」 「聞いてやすぜ。うちの姫ィさんが城の姫さんのお守り役になるかもしれねえってえんでしょう」 「いやいや、お守りじゃなくてな。警護な、SPな」 「どっちも同じじゃねーですかィ。どっちにしろ小便臭いガキの機嫌取りでさァ、くだらねェ」 「おい。そういう聞こえを憚るようなこたぁせめて小声で言え」 近藤の背後で人影が動き、声が上がった。声音そのものは淡々としたものだが、口調には微妙な刺が感じられる。 しゅっ、とライターを磨る音が響き、咥え煙草に火を点そうとしている土方が姿を見せた。 近藤同様、刀は腰から外され、すでに左手に握られている。 とぼけきった顔で肉まんを咥えている沖田を眺めると、周囲の闇に同化している黒髪に隠れた鋭い目つきが、 気に食わなさそうに吊り上がった。 「お前何か忘れてねぇか。俺達の元来の仕事は何だ?その乳臭せぇ小娘の一族護って身体張るこったろーが」 「よく言うぜ。あんたも乳臭せーとか大概言ってんじゃねーですかィ、土方さん」 「一緒にすんじゃねえ。少なくともてめぇよりはお上仕えの自覚があんだよ、俺は」 呆れた口調で言い捨てるなり踵を返した土方を、残りの肉まんを頬張りながら見送った。 戸口前から外を伺う目つきの冴えた横顔は、冷静に戦況を見定めようとしている。放つ気配の種類こそ 近藤とは根本的に違っているが、こちらも悠々としたものだ。 次の一口に大きく齧りつき、沖田は口端だけで不遜に笑った。 なんでェあの機嫌の悪さは。笑わせやがる。 本人は平静を装っているつもりだろうし、他の奴らも気づきはしないだろう。ところが彼には見えるのだ。 野郎が身の内に抑え込んでいる苛立ちが、あの取り繕った背中の端から綻び出ていやがる。 「けっ。あの野郎、よくも承諾したもんだぜ」 城詰めなんぞになったって、姫ィさんの実にはなりゃしねぇや。そんなもんは判ってんだろうに。 乾いた笑いと一緒に漏れたのは、呆れ混じりの本音だった。 聞いた近藤が何か弁明したそうな苦笑いをしたことには気付いたが、構わずそのまま喋り続けた。 「研修だか何だか知らねぇが、んなかしこまったとこに預けたって無駄ですぜ」 「そーかぁ?いやー、そうとも言い切れんだろう。そよ姫様のおわす奥向きなんざ、とっつあんだって そう簡単に出入り出来る場所じゃねえんだぞ。かしこまった場で貴重な経験を積むのも悪くねえさ」 「・・・そーいうことじゃねーんでェ」 「ん?」 「そりゃあ、あんたやあの野郎ならそうかもしれませんがねぇ」 独り言のようにつぶやけば、近藤が目に疑問を浮べて首を傾げる。 率直なその表情を見上げ、手にしたものを淡々と頬張っていた沖田の顔には、醒めた微笑が一瞬だけ浮かんで、 すぅっと引いた。 ――そうじゃねえや近藤さん。 違う。 あんたらとは根っこが違うんでェ、俺たちは。 「・・・いやね、何事も適材適所ってもんがあるんじゃねーかってことでさァ。 あの腕が生かされんのは護りじゃねえ。先手を奪って敵陣に攻め入ってこそだ」 勿論、実践を積んで腕を磨いた今のなら、不意の護りだって不足なくこなすだろう。 が入隊して以来、先陣を切って飛び込む役目を共に担ってきた沖田の目から見る限りでも、 後手に回って迎え撃つ役目を彼女が苦にしているような様子はどこにも見当たらない。 だが、だからといって、始終護りに徹するだけの役目となると。 「あいつのガラじゃねえってか」 「まぁ、そーいうことですかねィ」 そう。要はそういうことだ。合っている。  ――だが、違う。 違うんでェ、近藤さん。 俺たちは。 俺たちは、違う。 近藤にそう言い切りたくなる理由は確かにある。 しかしそれを事細かに言語化して第三者に伝える術を彼は持っていないし、持とうと思ってもいなかった。 それに、それはとっくの昔に――と初めて手合わせした日に匙を投げたことでもある。それを 今さら言葉にしようなど。だから沖田はいかにも満足がいったようなふりで目を細める。 表情を幾分和らげて肩を竦め、やんわりと近藤に笑ってみせた。 「・・・で、土方さんは何て」 「ああ、トシもなぁ、が選ばれるこたぁねぇだろうとよ」 「ふーん。ま、そーなるでしょーねィ」 「ほう。お前もそう思うか」 「ええ。こいつは聞いた話ですがね。あの専従SPってえのは、普段は城の奥女中に紛れて任務を遂行してるそうで」 姫様のお傍仕えとしての任も両立出来る女じゃねえと、とても務まらないらしいですぜ。 以前に松平との軽口で耳に挟んだ、そんな話を持ち出した。 「は立ち居振舞いこそ奥女中並みだが、女らしいこたぁからっきしだ。正直者だけに何でも態度に出ちまうし、 澄まし顔で姫ィさんに傅く役目なんざ向いてねえや。すぐボロが出ちまうんじゃねーですか」 「うーん。そういやぁ、そうなんだよなぁ・・・」 大丈夫かなぁあいつ。 顎を抑えて斜め上を見上げ、近藤は心配そうな思案顔になる。 味のしない温かさを黙々と頬張りながら、沖田は長い睫毛を伏せる。カビ臭い土間の陰鬱な暗さに視線を落とした。 冷えて硬い土間の感触が腰に染み込んでくるのがわずらわしい。 近藤さんがくれた温かさを取り込んで、腹の中が緩んじまったせいだろうか。 それまでは何の苦も感じていなかった地べたの温度を、身体は氷のように感じ始めていた。 そうだ。俺たちは違う。と俺は、あんたたちとは違っている。 剣を奮うことわりが他とは違う。 人としての根源からが。資質、などという一言で容易く括られるものが。 剣を奮うための糧となる何かが、他とは違う。俺たちは、違う。 それは、一見、近藤さんたちと酷似してみえるのかもしれない。 だが、傍から見れば近くも見えるそれは、俺からしてみればおそろしく遠い。歩みよりようもなく、違うのだ。 も同じ。一見そうは見えねえが、実は姫ィさんも俺と同じだ。 俺が身近で知る限り唯一の、こっち側の人間。屯所の道場で初めて討ち合ったあの日に判った。 この女、俺と同類だ。 身体がそう認めるまでにかなりの時間がかかっていたこともあってか、その時の感覚は今もはっきりと覚えている。 あの手合わせは初手からして戸惑いっ放しだった。 自分と同じ呼吸で間合いを掴んでいる女が目の前にいた。 自分と同じ呼吸で間合いを詰め、一撃を繰り出すことの出来る奴が――しかも女が、存在する。 目の前に突きつけられたその事実に、ともすれば動きが止まりそうになるほど驚いていた。 思いがけない彼女の動きに虚を突かれ、剣先を揺らして戸惑っているうちに、気付けば道場の端まで打ち飛ばされて。 それまでは何の興味も芽生えなかった女に目を釘付けにされた。 美しいには美しいが、辛気臭くてどこにも面白味の感じられなかった女。そんな女に、別人のような生気が宿った、 煌々と光り輝く瞳で見下ろされていた。青白かった頬をほのかに紅潮させ、緊張のためか息が上がり気味な細い肩を 絶え間なく上下させながら、それでも彼の動向をじっと見据え。は一瞬たりとも構えを崩そうとはしなかった。 その凛とした姿にぞくりと背筋が粟立った。 今は手合わせ中だ。そんなことすら忘れてに見蕩れてしまっていた。 それと同時に、自分の中にそんな生温さが存在するとは知らなかったものが湧いていた。 ――他人はそれにみだりに名前を付けたがる。孤独感とか淋しさだとか、そういう名を付けたがるものだが―― 石のように硬くて冷えきっていたそれらが、ひとつ、またひとつ、と胸の中で溶けていく。 感動、と呼んでも差し支えのないような、その強い驚きが胸を暖めていくのを感じているうちに、何かが溶けて癒えていった。 こいつは俺と同類だ。初めて見つけた、同類だ。 そう認めた女を――を見つめているだけで、ずっと胸の内を冷たくしていた何かがほろりと崩れ、 見る間に癒えていくような。そんな鮮やかな、思いがけなく救われたような思いがしたのだ―― 「・・・・・・い。総悟。おい」 「――、」 「どうした、喰わねぇのか?冷めちまうぞ」 そう言われ、手にしたものから昇っていた湯気がいつの間にか消えていることに気付く。 温かさをほんのり残した食べかけを、急いで口に詰め込んでいると。こちらを見ている誰かの気配を感じた。 顔を上げた瞬間に、戸口前の土方と目が合った。 軽く頷いて揺れた視線が、「出番だ」と冷やかに語りかけてくる。 沖田は頷き返すこともせずに腰を上げた。隊服に付いた土間の埃とカビ臭さを、ぱん、ぱん、と軽く払い落とす。 「御馳走さんでした」 「もう食わねーのか?途中で腹減ってバテても知らねーぞ」 「ええ、折角買って貰ったもんをすいやせん。朝に食い過ぎたせいかねぇ、ちっとも腹が減らねーんです」 あらかじめ用意していた答えをすらすらと口にした。 どれもまったくの嘘だ。今朝だってろくに食べてなどいない。 朝は食堂にの姿がなくて、不思議を覚えつつも、沖田は久しぶりに一人で朝食を摂った。 一人で黙って喰う飯は日頃よりもさらに味気なくて、結局、半分も喰わないうちに席を立ったが の不在をさみしく感じる反面で、少なからずほっとしてもいた。 これであの心配顔を前にして、食う気のしない飯を無理に腹に詰め込む理由はなくなった。 俺の食欲を隣から横目に推し量っては一喜一憂しているような、あの不安げに曇った顔を見なくても済む。 そんな安堵に肩を竦めて食堂を後にした。とはいえであろうと他の誰だろうと、あんな顔をされるのは嫌だ。 周囲に心配そうな顔をされてしまうこと自体が、人に弱味を晒すことを嫌う彼にとっては、ちょっとした屈辱でもあるのだ。 それに――心配されんのぁ昔から苦手だ。 それまでは一点の曇りもなかった誰かの笑顔や、穏やかだった表情が、自分を見つめて見る見るうちに曇っていく。 他の誰でもなく、自分のせいで。そういう変化を見ているとたまらなくなる。 滅多に感じることのない自己嫌悪までこみ上げてくる。  そうだ。そんなことになっちまうくらいなら俺は一人きりでいい。この人やをそうさせてしまうくらいなら、俺は―― 「残りは食っていーぜ」 通信室から出張してきた後方支援の隊士たちに、ぽい、と袋ごと放り投げる。 珍しい一番隊隊長からの施しに、彼らは互いに顔を見合わせながらも「ありがとうございます」と声を揃えた。 沖田のためにと近藤が買い与えた肉まんの中身は、実はどれも彼の好みに合わせた激辛だ。 口にした奴はもれなく土間をのたうち回って苦しむことになるだろう。その光景を想像して なんとなく愉快な気分になり、目を細めた沖田は意地の悪そうな笑みを返した。 「じゃあまた後でな。お前にはしばらく負担掛けちまうが、しっかり頼むぞ」 真後ろから、ぽん、と頭に手を置かれる。 髪をぐしゃりと掴んでくる手のくすぐったさに首を竦めた沖田は、いかにも呑気で気だるそうな仕草を 装って振り返り、「へーい」と気楽そうな調子で近藤に笑ってみせる。 人目につかない裏口から他の待機場所へ向かう近藤の背中を、ひらひらと手を振りながら見送った。 やがて隊服を纏った広い背中が外へ出て、ぎしぎしと抵抗しながら、建てつけの悪い古い扉が閉まる。 ぴたりと閉まって外からの光が絶たれた瞬間に、飄々としていた沖田の笑顔が影を落とした。 すっと表情が消えていく。曇った感情を引き結んだ口端に閉じ込め、じっと押し殺しているような表情へと変わっていく。 そうだ。これでいい。 近藤さんも。も。姉上も。太陽ってのはいつ何時だって輝いてなくちゃならねえ。 ・・・俺が曇らせちゃならねぇんだ。 近藤が消えてひっそりと静まった廃屋の裏口。 沖田は黙ってそこを見つめていた。暗かった表情が次第に気配を変えていき、瞼がゆっくりと伏せられていく。 刀を握った手の内側――右手の内側に湧いてすでに彼を待ち構えている、鋭敏な感覚に意識を研ぎ澄まそうとする。 この場でたった一人きりになり、身体を闇に落としたようなつもりの錯覚に浸ろうとしていたが 通信係の隊士たちが操っている無線機器から飛び出た大きな雑音に遮られ、雑念が混じった。 ノイズに紛れてふっと浮かんできたのは、二人の女の姿だ。 最初に浮かんだのは、「総悟」と屈託なく呼びかけ、ぱたぱたと屯所の廊下を駆けてくる姿。花のようなあの笑顔。 こちらは集中して息を整えているちに、すうっと闇の中に溶けていった。 それから、どんな時でも温かな愛情を籠めた目で自分を見つめてくれる、ほっそりと儚げなひとの面影が浮かぶ。 幼い頃からの記憶ですっかり網膜に焼きついた姿だ。さすがにこちらは手強くて、そう簡単には消えてくれなかった。 その姿を完全に消して、深めな呼吸をゆっくりと終えてから瞼を上げる。 目を見開いた瞬間に、迷いは勝手に消えていた。身体が動くに任せて戸口へと向かう。 彼の動向に注目している隊士たちの視線や緊張気味な気配を背中に感じながら、何食わぬ顔つきで土方の背後に立った。 戸口の向こうに広がっているのは、けばけばしいネオンが煌めく江戸の夜。 ぎらぎらと騒々しく点滅する光が飛び交い、酒気に頬を染めた人々が行き交っている。歓楽街にはありふれた夜景だ。 刺すようなきつい視線を通りの対面に注いでいる男は、背後に貼りついた彼の気配には気付いているだろうに、 一人でいけるか、とも尋ねてこないし、そもそも視線をちらりと後ろに向けようともしない。 いつ眺めてもこの世の誰より気に食わない横顔を斜め上に見上げ、ついでに外の様子も窺いながら、 沖田は、フン、と鼻先で笑った。 締め殺してやりてえくらいにむかついた覚えは腐るほどある。だが、この野郎のこういった面倒の無さは嫌いじゃねえや。 「のれん前の見張り役が一人。階段の上り口に張りついた奴らが五人。戸口に二人で座敷の中は十七、八ってえとこだ」 暗闇に浮き立つ白い煙を昇らせながら、表情の無い口端がぼそりと告げる。視線は外を見つめたままだ。 沖田が背後に迫っていたことにはやはり気付いていたらしいが、通りの様子から片時も目を離そうとはしなかった。 短くなった煙草を足許にぽとりと落とし、黒い革靴の踵でざっと踏み消しながら状況説明が続く。 「得物を挿した奴ぁ戸口の二人だけらしい。監察の目が届くのはそこまでで、中の様子までは窺えねえがな」 「へーい」 生欠伸でも漏らしそうな気抜けした調子で応じると、すらりと刀を抜き払う。 埃じみた廃屋の暗闇に、その周囲までぼうっと輝かせるような、一筋の青白い光明が浮かび上がる。 蜂蜜のような甘い色をした前髪の下で、沖田は細めな眉をわずかに寄せた。 明るい色の瞳がじっと光を見つめる。 何の感情もその表情に映し出すことなく、じっと自らの手許を見つめる。 抜いた鞘は土間の隅へひょいと放り投げた。 しばらくはあの鞘には用がない。今夜はこれを一人きりで、納める暇がねえほどに奮うのだから。 さっき土方に言われた賊共の数を思い返す。頭の中でごく単純な足し算を諳んじた。 内偵している監察が報せてきた賊の頭数は、見張りの下っ端を入れて三十足らず。 特攻役の任を首尾よく果たさなければ、今日の俺には退路すらない。あの小料理屋へ踏み込んだら最後、 どうせ足を止める暇すらありはしないだろう。 こんな時、自分の分身であるかのように信用しきって背中を預けてきた女は、 ――彼のもうひとつの眼となって敵刃の嵐を一緒に駆け抜けてくれる女は、今はいない。 「それじゃあお先に。いってきやーす」 がら、と硝子にひびの入った引き戸を軽く引いた。 左手には軽く握った剥き身の刀をぶらりと携え。右手は上着のポケットに無造作に突っ込み、 細身な姿が戸口の隙間をするりと抜け出る。 まるで突入前の待機場所からではなく、屯所から散歩にでも出かけようとしているような身軽さだ。 繁華街に流れる秋の夜風を浴びて、額を流れる前髪をさらさらと靡かせながら進んでいく。 夜半の暗さと通りの喧騒に乗じて四方から包囲を終えている小料理屋は、今や目前に迫っていた。 凝った細工が目につく二階の飾り戸。その障子を通して揺れている灰色の影を目で数え、 そこを見据えた沖田の脚が不意に止まる。賊の頭数をわざわざ浮き彫りにしてくれている真っ白な窓灯りを、 意味深な目つきでじっと見つめて。どこかうつろで殺伐とした色が、柔らかく細められたその瞳に宿った。 愉快なもんだぜ。 あそこで俺を待ち受けているのは、誰の目に気兼ねすることもない一人舞台。 ここんとこさっぱりご無沙汰だった、またとねぇ憂さ晴らしが出来そうだ。 「さぁて。今夜は姫ィさんもいねえことだし、ちぃと派手に行かせてもらいやすかねェ・・・」 夜の喧騒をぶらぶらとひやかしに歩いているようなとぼけた少年の姿は、ただ一人で、ふらふらと、 光に誘われた蝶のように、派手な蛍光色が点滅する華やかな闇に吸い込まれていく。 左手に下げた細い鋼が揺れている。 ゆらりゆらりと左右に揺れては、剥き身の刀に偶然気付いた通行人たちの背筋をぞくりと底冷えさせるような、 寒色の残光をちらつかせていた。

「 鈍色胡蝶  〜片恋方程式。*39.5 」 text by riliri Caramelization 2011/09/11/ ------------------------------------------------------------------------------------------------------------ ×××編直前のそうごを捏造してみた話。 本編のつづきは → *こちら* からどうぞ。