「――・・・・・・・・・・副長ー・・・!どこですかー、副長ー・・・!」 耳を掠めるその呼び声は、たしかに彼を呼んでいた。 しかし聞き慣れたはずの監察の声は、すべてを拒絶しかけた意識の壁に固く隔てられていた。 耳鳴りのように遠くおぼろげに届くその音は、鼓膜をかすかに震わせるだけ。 室内に立ちこめた薄灰色のきな臭さのせいで、息を吸い込むごとに喉はざらつきを増していく。 咳払いひとつで紛らわすには濃すぎる量の粉塵が、この部屋に立ちこめたきな臭さの中を舞っていた。

ワ ン ダ ー ブ ル ー

「――ああ。判った。すまねぇ近藤さん、よろしく頼む」 黒く焼け焦げた壁に向き合っていた土方は、耳に当てていた携帯の通話を切った。ぱちりと折った 携帯を隊服の懐に戻し、うつむいて視線を深く伏せる。やがて何か決意を固めたかのような表情になり、 ゆっくりと瞼を上げていった。 暗く燻った色を孕んだ鋭い目が、挑むようなまなざしで目の前の壁の一点をじっと見つめる。灰や木材の木屑で すっかり汚れたブーツの足で、黒い残骸が散らばる床を踏みしめるようにゆっくりと進む。 一歩踏み出し、さらに一歩踏み出し。ぱりぱりと乾いた音を鳴らし、割れては砕ける足元の瓦礫を ざく、ざく、と踏み均しながら壁へと近づく。窓ガラスをぶち抜いて放り込まれた爆弾が 一瞬にして放った高熱によって、この江戸郊外に建つ小さな研究所の中枢部に当たる広い室内は、何が何とも つかないほどに溶けている。部屋中に備えられた実験機器の数々も、研究資料や資材を格納していたと思しき 壁一面の棚も、――見渡す限りのすべてのものが、煤けた黒い残骸と化して融解していた。 天井は大破し、砂埃を被った照明灯の残骸はだらりと宙にぶら下がり。壁はところどころに剥がれ落ち、 爆破の衝撃で窓のガラスは粉状に割れ、建物の外へ飛散している。壁や床に点々と熱を残している 燃え残りの火種が、冷えきった黒をぼんやりと透かす。ちらちらと、どこかもどかしげに小さく赤く 燻っては、眉を顰めたくなるきつい異臭を彼の鼻先まで運んでいた。 「あぁ、いたいた。ここでしたか副長」 ばたばたと廊下を駆けてきた山崎が、部屋の戸口前で足を止める。建物中を駆け回って 探していた上司の姿を認めると、さっき土方が蹴り壊したこの部屋の扉を踏み越え、 きょろきょろと辺りを見回しながら入ってきた。 部屋中に漂うきな臭さにけほけほと咳込みながら口を覆う。部屋の隅に目を留めて、 「うわぁ・・・夜中の蜷川もひどかったけど、ここもひどい有り様だなぁ」 などと神妙な顔つきでつぶやく。黒く溶けた表面に粉塵を被った巨大な分析用機器を、物珍しげにしげしげと眺めた。 それから土方へと振り返り、 「源さんが探してましたよ、そろそろ消防の検分が入るから一旦戻ってきてくれって」 「・・・早かったなお前。東雲はどうした」 「はい、向こうは十四時に鎮火、軽傷者が二、重症者一、死亡者なしです。 もっともマスコミ向けの公式発表もこれとそっくり同じ数字だってあたり、信憑性には欠けますが」 進路を邪魔する大きな瓦礫をひょいひょいと身軽に避けつつ、山崎は携帯を取り出した。 近寄ってきた土方に開いた画面で写真を見せる。 最初に出てきたのは守衛たちが右往左往する東雲科研の門前と、その背後の空を曇らせる黒煙の映像。 次いで、鉄格子めいた門扉を通して覗く研究所内の映像数枚だ。一見工場のような無機質な外観の建物から 煙が濛々と吹き上がっている。現場から遠めな映像とはいえ、建物の中を渦巻く火の勢いは見て取れた。 「休日で出勤していた所員が少なかったのが幸いしたようですね。 まぁ、火元になった地下の実験機器はどれも水を被っちまったらしいし、 マスコミに対応していた研究所長の慌てぶりからして、被害の総額は甚大になるかと」 「所長?あそこの所長が面ぁ出したのか。そいつは前代未聞だな」 「ええ、そうなんですけどねぇ」 答えながら手早く携帯を操作し、動画映像を呼び出して土方に手渡す。 それは記者会見中の映像だった。テレビで流れた画像を落とし込んだものではない。 会見会場に潜入して、こっそり撮影してきたものだ。 画面中央に肩を竦めて立っているのは、報道各局の取材陣にぐるりと取り囲まれた初老の男。 マスコミ陣に囲まれた男は見るからに気弱そうで狼狽しており、江戸の最先端技術の粋を集めた科学研究所の 所長たる態度とは程遠い印象を見る者に与えた。目触りな速さで焚かれるフラッシュの光をまぶしそうに浴び、 簡潔な謝罪文をおうむ返しに読み上げ、何度も繰り返し頭を下げる。困惑しきった表情でしきりに額を拭っていた。 「見て下さいよこの汗の量。どう見ても急場凌ぎに担ぎ出されたお飾り所長じゃないですか、これ」 「フン、用意がいいこった。・・・原因不明な爆発騒ぎの直後がこれか。胡散臭せぇ化け物屋敷の体は どうあっても崩す気がねえらしいな」 「ええ、そのようで」 おそらく所長とは名ばかりだろう男が映る短い映像を、土方は然程興味もなさげに眺めた。 すぐさま携帯を閉じ、山崎へと放る。ざく、ざく、と炭化した瓦礫を踏み鳴らしながら、部屋の奥へと戻って行った。 「俺ぁ先に屯所に戻る。後のこたぁ源さんに一任するが、何かあったら取り急ぎ報告しろ」 「了解です。ああ、それとですね、ここの実地検分は明日になるって話ですよ」 「あぁ、明日だぁ?えらく待たせやがるじゃねえか」 「ええ、これは鑑識の第三班長からの垂れ込みですがね、何でも公安の本部長から直々に 東雲の検分を最優先しろって要請があったそうで。おかげで人員の殆どが東雲に駆り出されてるらしいです」 明日は副長も立ち合われますか。 そう尋ねられ、土方はわずかに振り返る。ああ、と軽く頷いてみせた。 「午後から顔を出す。第三の班長にもそう言っとけ。それと、お前の明日の予定だが」 「はい?」 「明日は総悟に一日張りついてろ」 「へっ。・・・沖田隊長に、ですか?」 命じられた山崎は怪訝そうな顔つきになる。黒焦げになった壁と向き合う上司の背中を、 ぽかんと見開いた目で眺めた。いったい沖田の何を見張れというのか、どうも察しがつかなかった。 それに明日は、すでに他の任務の予定が詰まっている。彼ともう一人の監察にしか明かされていない、 ごくごく内密に行うべき任務の予定が。 ・・・いやぁ、まさかね。命じた本人がそこを失念しているとは思えないけどさぁ。 そう思いつつも、土方の斜め後ろまで進んできて彼の様子を窺う。控え目に確認を入れてみた。 「いやでも、ほら、明日は吉村が非番ですから。俺がさんの警護担当なんですけど」 「明日はいい。・・・あいつも検分に立ち合わせる」 「あぁー、判りました、そういうことなら了解です。それじゃあ俺は沖田さんの方に」 「――山崎。てめえの任をひとつ解く」 「・・・?」 壁を睨みつけている土方を見上げ、山崎はぱちくりと大きく瞬きをする。 表情の薄い男の横顔は、そんな監察には目を向けることなくこう告げた。 「今日限りでの警護は終了だ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・はいぃ?」 「吉村の任務も同様とする。あいつの兄貴に関する内偵も終了だ。お前ら、明日からは通常の任務一本に絞って動け」 淡々とした命令を終えると土方は口を閉ざした。 何か考え込んでいるような気難しげな表情で、黒焦げの壁に設置された大きな黒板をじっと見つめる。 壁と同じように焼け焦げたその黒板は職員たちの伝言用に使われていたのか、メモらしき紙片の燃え残りが 幾枚も画鋲や磁石で貼り付けてあった。 表情を固まらせて土方を見つめていた山崎は、声もないほどに唖然としていた。じきにあんぐりと大きく口を開け、 「ちょっ、ま、待ってくださいよ!そんな、何で急に・・・!」 「てめえらには長げぇこと世話ぁ掛けた。済まなかったな。吉村にもそう伝えてくれ」 「副長!いやいや待って下さいって!どういうことですか。どうしていきなりそうなるんです!」 山崎はおろおろと叫んだが、土方に睨まれ絶句する。それでも両腕をぱたぱたと振り回し、 眉が下がった情けない表情ながらも、必死に土方を見返した。 あまりの驚きに言葉が何も出てこない。だが、の警護役を突然解任されたことに抗議する気は満々だった。 「〜〜っ、どういうことですかっっ、おかしいじゃないですか急に! 俺たち二人じゃさんの護りが不足だ、だから他の奴に任せる、それなら話は別ですよ!? だけど違いますよね、そうじゃないですよね、今の副長の言いっぷりは!」 「どーしてもこーしてもあるかよ。命令出した俺がそう言ってんだ、黙って従え」 「そっ、それはそうですけど。そうなんですけど・・・!」 「何だ、解ってんじゃねえか。ならこれ以上の口出しは無用だ。いいな」 「〜〜〜〜ええそうですよっっ解ってますよ、俺ら監察の仕事はそういうもんだって!だけど副長、 今回だけは言わせてもらいますっ。・・・お、俺っ、従えません、納得できませんよそれだけじゃ・・・!」 山崎は震え気味な声で言い放った。 握り締めた拳もわずかに震えていたが、それは普段の彼がたびたび起こしている、 鬼の副長の鉄鎚を怖れての震えとは訳が違っていた。むしろ武者震いに近いものだ。 「・・・奴等が京での潜伏期間を終えて江戸に戻っている。この情報を掴んできたのは、副長、あんたじゃないですか。 今は逆にあの子の周りをより一層固めるべき時でしょう、なのに、どうして・・・!あんたはさんが 心配じゃないんですか。いつ奴等が現れるか判らないんですよ。いつさんが狙われるか判らないんですよ!?」 殴られる覚悟で土方の肩をがっと掴んだ。勿論、鬼に逆らって自分から命を縮めるような真似など したくはないに決まっている。しかし今回ばかりはそう怖気づいてもいられなかった。曲がりなりにも 信頼しているこの上司に急に裏切られたような気分になっているせいもあったが、土方に殴られる怖さよりも このわからずやな上司に対する歯痒さや悔しさ、そしての身を案じる必死な思いのほうが 大幅に上回っていたのだ。 真選組の隊士としてはかなり異例なの身の上が発覚してからというもの、監察に属する山崎たち二人は、 義兄の捜索やの護衛にほぼ一日交替で当たってきた。この任務の存在は護衛される当人である には知らされておらず、仲間である隊士たちにも秘密裏なものとされているのだが、 ――つまりそれは。裏を返せば、どうしようもなく手薄な現状があるってことだ。 もしさんに忍びよる危機があったとしても、その危機を見抜ける可能性を持ち、 なおかつ彼女を庇える奴は、局内にはたった四人しかいない。彼女とその兄貴についてを僅かながらも 知っている局長に副長、吉村に俺。たった四人しか、彼女を護ってやれる奴が局内には存在しないってことだ。 ・・・なのに、どうして。 「お願いです副長、どうか考え直して下さいっ。もし誰の目も届かないところで、 さんに危険が及んだら・・・!」 いつ殴られるかと全身に冷汗を流して怯えながらも、山崎はがばっと大きく頭を下げる。 ところが土方は彼の渾身の訴えなど気にも掛けていない様子で、焼けた黒板に注いだ厳しい視線を 微動だにさせようとしなかった。うぐぐぐ、と歯噛みして不満たっぷりに唸った山崎は、 せめてものストレス解消に土方の背後でじたばたと滅茶苦茶に地団駄を踏む。床の瓦礫がバキバキと割れた。 ――ああもうっ、わっかんねぇなぁ!こんな時でも相変わらずな仏頂面だし、何考えてるんだよこの人はっっ。 何でだよ。よりにもよってこんな時じゃないか。どうして副長は、さんをわざわざ危険の渦中に 放り出すような真似をするんだよ・・・! 「その点については心配いらねえ」 「・・・・・・、えっ」 「奴はもうには手出ししねえだろうよ」 不意に語り出した男の乾いて抑揚のない声に、じたばたと暴れていた足が止まる。 山崎はぱっと振り返り、目を丸くして彼を眺めた。 「――いや。・・・直接あれを奪いに来る気なんざハナから無かった。そういうことかもしれねえが」 そう言ってかすかな溜め息をこぼした土方は、黒板の一点を伏し目気味に見据えていた。 隊服のポケットに突っ込まれていた手が、煙草の箱を掴んだままですっと上がる。黒板の中央に留められていた あるものを指した。 伸ばした指先に射抜かれたものを山崎も見つめる。長めのピンで刺し留められた二枚の紙だ。 一つは走り書きのような文字が綴られた小さな紙片。もう一つは、蝶の形に切り抜かれたもの。 黒い羽根の紋様は実に細やかで、間近で眺めない限りは本物の蝶と見間違えそうな精巧さだ。 もしもこれが蝶の標本と並べて箱に飾られていても、素人目には本物の標本との差が判別しにくいことだろう。 「・・・・・・・・?あのー、副長。妙じゃありませんかこれ」 鼻先が黒板にくっつきそうな近さに顔を寄せ、山崎は二枚の紙を見つめる。この二枚に共通する 小さな異常に気が付いたのだ。他のメモたちと同様に煤を被って薄汚れてはいるものの、 なぜかどちらも綺麗に原形を留めたまま。爆破の熱で焼け焦げた跡もなければ、飛んできた火の粉を 被って出来る小さな穴すら空いていない。 「おかしいよなぁ。部屋の中はどこも黒焦げだってのに、何でこれだけ焼けてないんですかねー・・・・・・・・、 あれっ、そういえばこいつ・・・ほら、あれに似てませんか。去年の連続爆破事件で――」 不思議そうに首を傾げながらも、山崎は紙片に書かれたたった二行の文面を読み終える。 頭の中で二度ほど、その短い言葉を反芻した。と同時に、―― さぁっ、と全身の血の気が引いていって。 「・・・・・!」 喉に湧いた薄気味の悪さにごくりと大きく息を呑む。紙を覗き込んだ姿勢のままで ふらりと一歩退いたが、それでも目の前にある紙片からは目を離せなかった。 小さな紙に綴られた文面が頭の中で渦巻いている。その文面から連想した過去の事象や次々と際限なく 浮かんでくる疑問に、脳裏を一気に占領される。呆然とつっ立っていると、 「おいコラ、この程度で呆けてんじゃねぇ」という醒めきった声の叱咤と共に、横から膝蹴りを入れられた。 そこで山崎ははっとした。あたふたと泡を食って土方に飛びつき、 「ふ・・・!副長っっ、これって・・・!」 「ここだけじゃねぇ。これと同じもんが蜷川の現場にも貼りつけてあったそうだ」 「・・・!」 「向こうの研究所も、状況はこことそっくり同じらしい。火の回りが一等酷かった部屋に入った近藤さんが 運良く見つけて、他の目につく前に回収したそうだ」 慌てふためく山崎を邪魔そうに避けながら、土方は煙草の箱を隊服に戻す。 カチカチと荒い手つきでライターを打ち、咥えた煙草に火を灯した。喉の奥へとゆるやかに回っていく 煙の感触にはとっくに慣れているはずなのに、今は妙に違和感を感じる。まったく、この紙切れを 眺めながらの一服の苦々しさといったらなかった。屈辱感で反吐が出そうだ。 ・・・俺も服部の野郎もまんまと一杯食わされたものだ。上手いこと取り越し苦労をさせられて、 あれやこれやと気を揉まされて。その挙句に掴まされたもんが、この火事場に残された紙切れ一枚の伝言ときた。 ――畜生、とことんふざけた野郎だ。結局のところ俺は、奴の意のままに踊らされてきただけじゃねえか。 「夜中の蜷川が十四人。関連性が不明な東雲は差っ引くとしても、今朝方のここでも八人・・・か」 「・・・・・・・・・・」 「昨日の深夜から朝にかけて起こった爆破騒ぎに巻き込まれた奴が、総勢二十二人。うち死亡者が四人だ。 ――これだけの犠牲を代償にした置手紙にしちゃあ、読み応えに欠けた、随分とつまらねぇ文面だがな」 感情を律した冷静な口調で話しながらも、例の紙片を怒りの籠った目で睨む。 山崎はそんな彼の目線の動きにつられたかのように、力無く首を黒板へと巡らせた。 「昨日の深夜から今朝方にかけて、たった一晩で三か所の爆破。合わせて二十二人の死亡者に重軽症者。 それらを引き起こした原因が自分にあるかもしれねぇ。二十二名を負傷させ、死に追いやった爆破事件の引鉄が、 もしかしたら自分の存在そのものかもしれねぇ。・・・にそう思わせてぇんだろうよ、奴は」 ピンで留められた蝶に鋭く突き刺すような視線を据えた土方が、ちっ、と歯痒そうに舌打ちする。 ――やられた。完膚なきまでにたぁ言わねえが、俺達は、・・・いや。俺は、まんまとしてやられたのだ。 これはあいつを護ろうと躍起になってる俺や服部の野郎からしてみれば、一等面白かねえ筋書きだ。 しかも、狙いが決まりすぎてむかっ腹が立つくれぇに、の弱味を心得てやがる。 「蜷川の研究員に夜勤の警備員。ここの研究員に門前の守衛。 いずれも本人の関知が及ばねぇところであいつに関わっていた奴。しかも、何の罪も無さそうな奴等ばかりだ。 自分に害が及ぶならまだしもだ。そういう罪の無さそうな奴ばかりが、このふざけた火遊びの巻き添えを食って死んでいく」 他の誰でもねえ。てめえのせいでな。 土方は独り言のように淡々とつぶやく。斜めに視線を流し、表情を曇らせて口籠っている山崎に目を向けた。 「・・・そんなのさんのせいじゃないでしょう。さんに何の咎があるっていうんです。 彼女だって被害者の一人ですよ。罪もないのに巻き添え食って、いいように振り回されてきた一人じゃないですか・・・!」 「山崎。始終あいつを見張ってきたんだ、お前にも見当はつくんじゃねえか」 「・・・・・・・・・・・・」 「ったく、想像するだけで頭が痛てぇぜ。これを見たがどう思うか。どれだけうろたえそうなもんか。 たった一日で四人を死に巻き込んだと知ったあれが、どれだけ馬鹿げた無謀さを発揮しそうなもんか」 「〜〜〜〜・・・・・・・っ」 山崎は唇を噛みしめる。拳を握り締めてうなだれた。 そうだ。俺にだって想像がつく。いや、あの子を知ってる奴なら誰だって、簡単に想像がつくに決まってる。 きっとさんは嘆くだろう。涙も出ないくらいに嘆いて、悲しんで。そして自分を責めるだろう。 こんなことになるくらいなら、自分が死んだほうがましだった。そう思いつめて、何も喉を通らなくなって、 何も手につかなくなってしまうほどの罪悪感に苛まれて苦しむ。屯所に来たばかりの頃のような、 魂が抜けた人形みたいなあの子に戻ってしまうかもしれない。 そして、そんなさんの取り乱した様子を誰より近くで見守らざるを得ない副長は、 ・・・・・・・・・・・心境の想像がつくだけに言葉も出ない。 「・・・負けを突きつけられたようで認めたかねえが。奴ぁそのへんしっかり判ってやがる。 これはあいつが一番弱りそうな遣り口だ。その辺りが計算ずくだからこそ、こんな手間も金も掛けた手口で来やがった」 足元に視線を落とした土方が、苦々しげに眉を顰める。 胸に積もった苛立ちも一緒に吐き出すかのように、はっ、と荒く煙を吐いた。 こうして正鵠を射た手を打ってくるあたり、あれはなかなかどうして奸智に富んだ、頭の切れる男 なのだろう。だが、――つくづく野郎とは趣味が合いそうにねえ。この血生臭い爆弾騒ぎの趣向からして 吐き気がするほど気に食わねえ。もっと気に食わねぇのはこの置手紙の見せつけ方だ。 奴はこの気色が悪い遣り方でもって、に思い知らせようとしているのだ。 お前もこの蝶と同じだと。 どんなに遠くまで羽ばたこうと、決して俺の手からは逃れられないと―― 腹立ちを噛みしめた口端を苦々しく歪め、土方は針に留められた蝶に手を伸ばす。 重ねて留められた紙片とともに、ぴっ、と勢いよく破り取った。 「・・・・・・・・副長、」 「何だ」 一度口を開きかけ、また閉じ。何度か同じことを繰り返すと、山崎は意を決したように問いかけてきた。 「さんが馬鹿げた無謀さに走るって。それは、つまり・・・、これを知って弱りきったさんが、 自らあいつらの元へ戻るかもしれない。それを奴は手薬煉引いて待ってるんだろうっていうんですか」 「ああ。昨日今日で充分な餌は撒いたからな。今頃は舌舐めずりで待ってやがるだろうよ。 真っ当な判断力を失くすほどに弱ったあれが、てめえが張った蜘蛛の巣にふらふらと絡まってくる瞬間をな」 土方がそう答えたのを最後に、二人は互いに無言になった。 重苦しくて息が詰まるような静けさが、きな臭い粉塵が舞うこの部屋の空気を張りつめさせた。 ふと手許を見下ろし、土方は皮肉な笑いを口端に浮かべる。心中で激しく渦巻いている業火のような怒りは、 極力態度に出さないようにと腹の中で抑えきったつもりだった。だが、紙の端を押さえていた指の方には 自然と内面の怒りが滲み出ていたらしい。 蝶も紙片もぐしゃりと潰され、きつく皺が寄っていた。 「・・・・・・・・・ちっ、外道が。腐った手ぇ使いやがって・・・」 いつかぶった斬ってやる。 咥えた煙草をぎりっと噛みつつ、低く籠った声で本音を漏らした。 切れ上がった鋭い目には、物騒な光がぎらりと浮かぶ。 煤を被った紙切れに走り書きで綴られた、たった二行の文句を再び眺めた。 『早く戻っておいで。この悪夢の中に僕だけを置き去りにしないでくれ。  待っているよ、。』 たった二行の短い伝言。細身で神経質そうな癖が強い字の走り書きには、 なぜか写真でしか眺めたことの無い痩せた男の姿が重なる。自分でも不思議になるほどに、自然と重なり合っていた。

「ワンダーブルー *1」 title:alkalism http://girl.fem.jp/ism/  text by riliri Caramelization 2012/05/30/ -----------------------------------------------------------------------------------       next