「あァ?・・・・・臨時の、バイト?」 「うん。年末までの間だけ、週に二、三回なんだけど・・・・・や。やっても、いい、・・・かなぁ」 淹れたてのお茶が入った湯呑を、まるでお供物でも捧げるかのように差し出し。 机に向かう土方さんの背後で、あたしは誰が聞いてもご機嫌伺いなのは見え見えな、猫撫で声で切り出した。 「・・・。俺ァいつからお前の保護者になったんだ」 びくついてるあたしの気配には、気付かなかったみたいだ。振り向きもしないで、淡々と言った。 カリカリと書類を書き綴る音が止み、ペンを机にぽいっと投げ出すと 首を回してボキボキ鳴らしたり、手で揉んだりして肩凝りをほぐし始める。はァ、と疲れたような短い溜息をこぼした。 「そのバイトはあれか。二十歳超えた女雇おうのってえのに、親の許しでも要るのか」 「う、ううん、そーいうあれじゃないんですけどォ。・・・・・・いいの?反対しない?」 「いいも何も。やりてえんならやりゃあいいじゃねえか。俺は別に、てめえの仕事にまで口挟むつもりはねえぞ」 「お。怒らない・・・?」 「はァ?何を怒れってえんだ」 「いや、イヤイヤイヤあのねそーじゃないの、別に怒ってもいいのっ。あれだようん全然いいの、二、三発は殴られる覚悟で パンパン顔叩いて気合い入れてきたしぃでも顔だけはやめてね女優の命なんだからあぁ!ってイヤ違うのそーじゃなくてえぇぇ」 「・・・・・?まぁたてめえは、訳のわからねえことを・・・・・。つまり何だ。何が言いてえんだ? つーか普通、人の倍働こうって奴に腹は立てねえだろ。雀の涙まがいの小銭でも、貧乏暮らしの足しにはなるだろうしな」 「寄越せ」と暗黙のお約束で横に差し出された手に、待ち構えていた湯呑を渡す。 さっきあたしが淹れた、相変わらずいまいちな味のはずのお茶を文句も言わずに一口啜ると、 土方さんはすぐ書類に目を戻す。あたしはゴクリと息を呑み、意を決して口を開いた。 「・・・・・あのう。あのね。実はね。お妙姐さんがね、人手が足りなくて困ってて」 「結構なことじゃねえか。この不景気に人手が足りねえとはなぁ。 ・・・・・・ん?おい、あのボロ道場、いつからそこまで繁盛してやがったんだ?」 「・・・いや、その。あの。そっちじゃなくてぇ。・・・人手が足りないのは「すまいる」の方で」 「ああ。裏方の皿洗いか何かか?・・・そいつはえらく思い切ったもんだな。よりによってお前を皿洗いに雇おうたァ。 一晩で皿が全滅すんじゃねえのか?しかしすげーな。この不景気にあの店、そこまで人手に切羽詰まってるとはなァ」 「いやだから裏方さんとか皿洗いじゃなくてェ。違うの。そーじゃなくてェ」 「あ?」 「裏方さんじゃなくて。お店に出て、お客さんの相手をするってゆーかぁ、 つまりぃ。あの〜〜、そのォ〜〜〜、・・・・・・・・・・・・・・・・・・ホステスさん、みたいな?」 途端に黙りこくって背中を強張らせた土方さんからは、何の返事もなく。 代わりに「バキッ」と不吉な音がして。握り潰されて割れた湯呑からは、お茶がダーッと溢れ出た。

 

さん。三番テーブル、お願いします」 「はーいっ」 短い休憩を終えて控室を出ると、時間は一時を過ぎていた。 薄暗い厨房を通ってカーテンの仕切りを潜る。フロアに出ると、照明の眩しさで目がくらんだ。 ほんのり香る誰かの香水の匂い。着飾ったお姉さんたちの笑い声と、お酒を片手にくつろいでいる人たちの声。 そこに、小さく流れるBGMの音が混ざり合い、柔らかいざわめきに変わって店中に漂っている。 普段のあたしだったら、今頃はテレビを消して電気を消して、もうお布団に入ろうかなって思ってる時間だ。 けれどこの街の人達の夜は違う。この街の夜には、静けさも眠りも訪れない。 夜だからこそ生き生きと輝いて、夜だからこそたくさんの人達が集う場所。 今夜も店内には華やかな笑い声と、訪れるお客さんたちの疲れを癒す笑顔が至る所で咲き競っている。 お姉さんたちのレベルに追いつけるかどうかはともかく、あたしも素人なりに頑張ろう。そう思いながら フロアを進み、指定された三番テーブルの前に着く。話に盛り上がっているお客さんたちに笑顔で軽いお辞儀をした。 「こんばんは、いらっしゃいませ」 「あれっ、君ぃ。えーと、確か、新入りの。ちゃんだよね、この前もいた子だよね」 「はい。覚えててくださったんですか」 「覚えてるよォ覚えてますとも。オジさんはねえ、可愛い子はみーんな覚えちゃうの。 ほらほら、そーんな隅っこに座らないでさあ、こっち来なよ」 「あーもォ、ダメだってばぁ田中さん。さんはダメよ、素人さんなの。まだ店にも慣れてないんだからねっ」 変なことしたらお妙にボコられるわよ。 あたしの手を引っ張ろうとしたお客さんを笑顔でたしなめてくれたのは、お妙姐さんの友達のおりょうさん。 初心者で失敗の多いあたしにも気を使ってくれる、気さくで面倒見の良い人だ。 慣れない笑顔で挨拶しながら、ソファの端に座って席に加わる。場の雰囲気も和やかで、口調もお互い砕けているから みんなおりょうさんの馴染みのお客さんなのかも。 あたしとそう年の変わらなさそうなお客さんが一人、近藤さんより少し上に見えるお客さんが二人。 みんな会社の同僚だそうで、前にも少しだけお相手したことがある。その時に、名前を覚えてくれたみたいだ。 お客さんの前ではどの人も、明るい笑顔を絶やさないけれど。実はここ「すまいる」では ホステスさん達の間でインフルエンザが大流行中。今日も三分の一が熱で寝込んでお休みしていて 年末の掻き入れ時なのに人手が足りていない。人手不足解消のために他のお店から人手を借りたり、 ホステスさん同士の伝手を使って助っ人を集めた「臨時メンバー」で営業している状態だ。 あたしだけが「水商売素人」の初心者で、他の全員がプロのホステスさん。あたし以外の、臨時で入ったお姉さんたちは どの人も羽振りの良い馴染みのお客さんをここに呼んでは場を盛り上げて、着々と売上に貢献している。 けど、素人のあたしに当然そんなあてはない。だから仕事はあくまで、他のお姉さんたちのお手伝いだけ。 人手が足りない席でお客さんのお相手をしたり、お酒を作ったり。氷やおつまみを運んだり、灰皿を変えたり。 恰好だけは他のお姉さんと同じだけれど、仕事はホステス見習いというか。言ってしまえば雑用係みたいなものだ。 最初の日は右も左もわからない状態で、トレイごと落としてグラスを割ったり、お客さんとも上手く話せなかったり。 役に立てない自分にすっかりヘコんでいた。でも、どんなお仕事でも慣れてしまえばそれなりの形になってくるようで、 三日目にもなると少しずつコツが掴めてきたみたい。今日はグラスも割ってないし、お客さんともまあまあ話せてる。 これで少しは役に立てているといいんだけど。 目の前のお客さんから少し目を逸らすと、入り口前に立っている黒服さんと目が合った。 こっちへ来て、と手で呼ばれている。あたしは「ごめんなさい、失礼します」と挨拶して席を立った。 「あれっ。なんだよちゃん、どこ行くのォ。」 すぐ戻って来てよォ、と手を振るお客さんに、こっちも小さく手を振り返した。 呼ばれて行った先で言いつけられて、フルーツ盛り合わせとお冷やを運ぶ。 こっちのテーブルには、店の中でも選び抜かれた綺麗どころばかりに囲まれた、大きな呉服屋さんの旦那さん。 「後でこっちのテーブルにもおいで」と、大きなお腹でふんぞり返ったおじさんは、気分良さそうな赤ら顔で ニコニコとお冷やを受け取った。渡す時に、ふくよかな指でぎゅっと手を握ってくる。つい笑顔が強張ってしまった。 お酒を楽しんでもらう店なんだから当然だけど、お相手するお客さんはほとんどの人が酔っ払い。 今のおじさんのような、遊び慣れた人の他愛ないセクハラなら笑って許せる。でも、中には笑えないことをしてくる人もいる。 酔いが回ると人が変わったみたいに大胆になる人もいるし、「こっちはそれなりの金を払ってるんだからケータイの番号を教えろ」 なんて、大声出して迫ってくる人もいる。深夜を過ぎればガラの悪い人も増える。泥酔してる人が来たり、 しつこくセクハラしてくる迷惑な人もいたりするんだけど。あたしが回し蹴りを食らわす前に、姐さんがその人の前に笑顔で しずしずと進み出て、顔色ひとつ変えずに外に追い出してしまう。 そういう時こそ元真選組隊士の出番なんだけどな、と思いながら、明るく賑やかなフロア内とはカーテン一枚で隔てられた 薄暗い厨房の隅で足を振り回して、得意な回し蹴りのキレ味を確かめていたら。 後ろから頭をスパーンと叩かれた。 痛っ、とうめいて振り返ると、そこにはいつにも増して凄味漂う笑顔の姐さん――志村妙さんがスリッパ片手に佇んでいた。 「この忙しい時にサボリですかさん」 「姐さんんんん!!お疲れ様ですっっ」 あたしは親しみを込めて抱きついた。そしてまた小気味良い音がするスリッパ打撃の洗礼を受けた。 会うたび毎回やっているこのハグは、あたしにしてみれば、尊敬する姐さんへのほんのささやかな愛情表現なんだけど。 拒否られなかったことは一度もない。近藤さんほどじゃないけれど、ほぼ完全にあたしの一方通行な片思いだ。 「さん?あなた何度言えばわかるんですか。 その無駄に成長したムカつく腫れ物を私に押し付けないでください。アイスピックでかち割りますよ」 「えーっ。いいじゃないですか、女同士なんだから。このくらいのスキンシップは普通ですよォ。 いつもいつもどーしてそんなに冷たいんですか、姉さんたらぁ」 抱きついて離れないあたしの頭をもう一度パコッと叩くと、眉をひそめた姐さんは いつ見ても笑っているんだか怒っているんだかわからない、絶妙な笑顔を浮かべた。 「いやだわ姐さんだなんて。いつになったらその呼び方、やめてもらえるんですか。 私、こう見えてあなたよりうんと若いんですよ。せめて名前で呼んでくださいな」 「そんなあ!だって姐さんは姐さんじゃないですかぁ。近藤さんの奥様になる、真選組にとっては大事な方ですから!!」 「さん?私、ゴリラの飼育に一生を捧げるつもりはありませんから」 涼やかな声で断言すると、姐さんは少し開いたカーテンの向こうを指した。 「それよりさん。あなたにご指名ですよ」 「へ?あたし、ですか?」 「ええ」 誰だろう。ここでバイトするって決まった時に、姐さんに「知り合いでも誰でも呼び集めて営業活動してください」 って言われたから、色んな人に声を掛けておいたんだけど。「サービスするから一度遊びに来てね」って。 もしかして誰か来てくれたのかな。 にっこり微笑んで店内を指す姐さんのご指示どおりに、十番テーブルに向かう。 と、なぜかそのテーブルにはやたらに大勢のホステスさんが集まっていた。あたしが座る隙間なんてどこにもないくらいに ビッシリと、それこそ満員電車並みに。埋ったソファから天井に向かって、細く一筋に伸びる白い煙が立ち上ってる。 ・・・・・・・このままここで回れ右して、厨房に速攻で逃げ戻りたくなった。 だって、あたしの知り合いの中には他にいない。あんな恵まれた目に遭う男の人は、一人しかいない。 色っぽい目線で誘いをかけてくるお姉さんたちにちやほやと囲まれていても、浮かれるどころか、 動揺の色をちらつかせることもなく居直って、煙草の煙を味わっている。あんな可愛げのない態度で通せる 図太い神経の持ち主も、一人だけだ。 「・・・・・いらっしゃいませ。別に来てくれって頼んでもいないのにわざわざご指名ありがとうございます」 「悪かったな。呼ばれてもいねえのが初客で」 予想通りだ。 十番テーブルには、左右からお姉さんたちにべったりすり寄りられた土方さんが待ち構えていた。 仕事帰りに寄ってくれたのか、隊服のままだ。時間はもう一時過ぎだから、きっと今日も忙しかったんだろう。 吸い終わった煙草を灰皿に押し付けているうつむいた顔には、なんとなく疲れた影が漂ってる。 顔を上げると、あたしを頭の天辺から足先まで眺めた。 「派手すぎやしねえか」 いつもあたしが何を着ようと、興味無いって顔してるのに。今日は片眉を吊り上げて、じいっと念入りに眺めてる。 お店から借りている真っ赤な着物や、普段つけているよりも濃い色の口紅やしっかりメイクが気になるみたいだ。 「派手に着飾るのもお仕事のうちなんです」 言い返したら、しょうがねえな、とでも言いたげに口をへの字に曲げて引き結ぶ。顎で自分の右を指した。 そこにはあたしと同じ日からヘルプに入っているお姉さんが座り、蜂蜜色のお酒と丸い氷の入ったグラスを カラカラと優雅な手つきで掻き混ぜている。 「座れ」 「あたしが座る必要ないじゃないですか。・・・・・・お相手してくれる方には、ぜんぜん不自由してないみたいだし」 「気に喰わねえ客でも愛想振り撒くのも、てめえの仕事のうちじゃねえのかよ。 客も取れねえ、役にも立たねえ新米ホステスが、選り好みが出来る立場か」 悪いが空けてくれ、と素っ気なく頼まれて、土方さんの右に陣取ったお姉さんは 恨めしそうにあたしをチラ見した。 ああ、やっぱり。 そうだよね、滅多に来ない土方さんの隣をヘルプのあたしが独占しちゃったら。やっぱり気を悪くするよね。 だから土方さんには「お店に来てね」って頼まなかったんだけどな。 売上に貢献出来ないし、あんまり役にも立ててないのに、このうえお姉さんたちに反感まで買っちゃったら 姐さんを助けるどころか、お荷物になっちゃう。それだけは避けたいから、土方さんには頼まなかったのに。 無言であたしたちの会話を窺っているお姉さんたちの前を、腰を低く屈めて通る。 土方さんの隣に空けられた場所に、肩をすくめて、出来るだけ小さくなって腰を下ろした。 うつむいて、はァ、と溜息をつく。 ・・・・・ああ狭い。すっごく狭い。座れるスペースが狭い以上に、肩身が狭い。 「聞いたぞ」 「・・・・・・?何を?」 「お前、随分と見境なく売り込みかけてるらしいな。 総悟にも山崎にも隊長連中にも。屯所で顔合わせた奴等全員に、呑みに来いって誘ったそうじゃねえか」 「誘いましたよ。だって、一人でもお客さんを増やすのがホステスさんのお仕事だもん」 「だからって、どいつもこいつも相手選ばずってこたあねえだろ。 ・・・ったく、てめえには恥ずかしげってもんがねえのか。節操のねえ真似しやがって」 「いいじゃない、屯所の人なら。みんな知らない人じゃないんだし、見境なく声掛けたって。 それに、引き受けたからには少しでも姐さんのお役に立ちたいじゃないですかぁ。近藤さんのためにも、 ・・・・・・・・あれっ。そういえば。土方さん一人で来たんですか?近藤さんは?」 席の周囲を見回しながら尋ねると、土方さんは苦い顔で店の片隅を黙って指した。 その先には余裕で微笑む姐さんと、顔面をわしっと掴まれて見事なアイアンクローをかまされ、 それでも「お妙さあぁぁぁあぁん」とわめいて迫るめげない近藤さんの姿が。 ゴツい近藤さんを片手で吊り上げ入口に向う姐さんの逞しい雄姿を、冷汗を垂らしながら眺めていると 土方さんは口を開いた。 「」 「はい?」 「・・・・・・お前。すこしは考えろ」 「?・・・何を?」 あたしの反対側に座るお姉さんがさりげなく動いて、土方さんが新しく手にした煙草の先に 両手で包んだライターの火を差し出す。華奢なその手には、凝った飾りのピンクのネイルが施されていた。 火を灯してくれたお姉さんに「どうも」と軽く目を合わせてから、土方さんは煙草を口にする。 ふーっと長めに煙を吐くと、うんざりしたような乾いた声で言った。 「俺の立場がねえだろうが」 そんなこともわからねえのか。 呆れきった目であたしを睨んだ土方さんは、そんな表情をしている。 横から手渡されたグラスを受け取り、あたしは土方さんの前に置かれた紙のコースターにそれを載せた。 「何それ。意味がわかんないよ」 嘘。本当はわかる。言いたいことはなんとなくわかる。 けれど、わざと気付かないふりでとぼけて、つんと顔を逸らした。 お店用に巻いてきた髪の先が、ぐいっと引っ張られる。黙っていたらもう一度、強めに引っ張られた。 きっと土方さんは気に入らないんだろう、あたしがここで働くことが。 派手な着物も濃いめのお化粧も、時間をかけて作ったこの髪型も。 仕事の後でわざわざ来てやったのに、感謝もしなければ喜びもしない。可愛げのかけらもないあたしの態度も。 だけどあたしだって気に入らない。お姉さんたちの前でこんなことを言い出すこのひとの、無神経さが気に入らない。 深夜の仕事帰りで疲れているのに、土方さんが滅多に来ない店にわざわざ寄ってくれた。 それをあたしが喜ばないはずがない。うっかり顔には出せないけれど、こういう店には来たがらないひとが、 自分から時間を作って足を運んでくれたのだ。そんなの嬉しいに決まってる。 でも、それはそれ、これはこれ。ここで土方さんに普段通りに話しかけられるのはちょっと困る。 一見どの人もそれぞれに、隣のひとと談笑しているように見えるけれど。きっと今、ここに座ってる全員が こっちの会話に聴覚を総動員させて聞き耳を立てているに違いないんだから。 そんな中で込み入った話が出来るほどあたしは図々しくなれないし、余計な反感だってこれ以上買いたくない。 「・・・だって。土方さん、一度も反対しなかったじゃないですか。ダメだって言わなかったじゃない。なのに」 「ああ。言ってねえな」 「・・・・だったら」 「だからって、許した覚えもねえが」 「・・・・・・・・・・・・・・」 何よ、今頃。 ここでバイトしたいって相談した時は、割れた湯呑を握ったまま黙りこくっちゃって何も言わなかったくせに。 どうして今頃になって、しかもこんな大勢の人目を浴びる場所でダメ出しするんだろう、このひとは。 そんなに嫌なら、もっと早く言ってくれればいいのに。相談したあの時に「ダメだ」って止めておけばよかったじゃない。 あたしが無視を決め込んでいたから、髪を引っ張るのにも飽きたらしい。 髪を放した土方さんは、目の前に置かれたグラスに手を伸ばした。 横目で気付かれないようにその顔を眺める。グラスを含んだ口端が、なんとなくムッとして下がっていた。 「そこまであの女が大事か」 「・・・・・・あの女って?」 あれだ、と、店の入り口を指す。 そこにはきっちりと首にホールドを決めた姐さんの背中と、白目を剥いた近藤さんの 口から泡でも吹いていそうな瀕死寸前の姿が。 成仏してね、と手を合わせて合掌をささげてから、あたしは土方さんに振り返った。 「当たり前じゃないですか、お妙姐さんは真選組にとっても大事な人なんですから。未来の姐さんなんですよ? 近藤さんはいつもあの調子だから、悪い印象しか与えてないんだもん。せめて関係者くらいは、たまには役に立つって ところを見せておきたいじゃないですか。それに、あたしだって近藤さんの幸せのために一役買いたいんですよォ」 「俺の面子より、あの女の機嫌取りと近藤さんが優先か」 「・・・だからぁ。どうしてあたしが姐さんの機嫌を取ると、土方さんの面子が潰れることになるの」 あたしが膨れて睨むと、土方さんも冷やかな目で睨み返してくる。 こういう時のこのひとが何を考えているのかは、あの目つきでわかる。あたしの表情の裏を読もうとしている時の顔だ。 しばらく黙って見ていたけれど、その間に何かを思いついたらしい。 急に口端を片方だけ吊り上げさせて、にやりと笑う。煙草の先で、店の裏手に通じるカーテンを指した。 「もういい。行け」 怪訝に思いながら、着物の裾をさっと直して立ち上がった。 席にずらりと華々しく居並ぶお姉さんたちの前を通りすぎる。 誰とも目を合わせてはいないけれど、視線はチクチクと痛いくらいに感じる。やっぱり肩身が狭かった。 「せいぜい点数稼ぎに励んでみろ。出来るもんならな」 背後から笑い混じりな声で、意味深な捨てゼリフを投げられた。 何それ。何よ、その余裕たっぷりな言い回し。すっっっごく感じ悪いんですけど。 あたしの頭に血を上らせようとしているのが見え見えだ。 思わずカチンときて口を尖らせる。笑い声があちこちでさざめくフロアの通路を突進した。 「何よ。・・・・・何よ何よ、何よっっっ。・・・・・・呑みに来たんじゃなくて、ケンカ売りに来たんじゃない!」 いいよ、そう来るんなら受けて立ってあげる。どっちが先に折れるか、勝負してやろうじゃない。 あたしにだって人並みに意地くらいあるんだからね。 途方もなく意地っ張りなあのひとに比べれば、ほんのちっぽけな虫ケラ程度のものだけど。 こんだけ見縊られてたら、そりゃあ虫ケラだって怒るっつーの。鬼にだって牙剥いてかじりつくっつーの。 バーカ。土方のバ―――カ。何よ何よ何よ!いつも偉っっそうにしちゃってさ。 結局あのひとは、あたしが自分の思い通りにならないとひとつも気が済まないんだ。 いいよもう。そっちがその気なら、あたしだって絶対に謝ってなんかあげない。下手になんて出てあげない。 ・・・・・・何よ。ほんとは、お店が終わった後で「ごめんね、来てくれてありがとう」って電話しようと思ってたのにさ。 もういい。やめた。そっちから電話してきたって着信拒否してやる。絶対に「俺が悪かった」って謝らせてみせるんだから。 これくらいの脅しで退くもんか。そんな見え透いた脅しになんて、絶対乗ってやらないんだから! 「―――さん。ちょっと。どうしたの、さん」 「・・・・・あっ。はいっ」 気付くと目の前には、空になったグラスを差し出す手が。 そして、急に我に返って目線を泳がせているあたしを可笑しそうに眺めているお客さん達の顔があった。 お願いね、と不思議そうに目を見張るおりょうさんから、グラスをあわてて受け取った。 「どうしたのよォ、ぼーっとしちゃって。具合でも悪いとか?まさか、さんまでインフルエンザじゃないよね」 「い、いえ。そうじゃないんです、ごめんなさい」 ダメだ、今はぼうっとしていい時間じゃない。仕事中だ。 お金を貰う以上は何だってお仕事だ。経験のない素人だけど、素人なりにちゃんとしないと。 これじゃ姐さんにも迷惑をかけることになる。 しばらく他の席の間を行き来してから、あたしはまた、おりょうさん達のいる三番テーブルに戻っている。 お兄さんたちのお仕事の話に相槌を打ったり、慣れない手つきでお酒を作ったりしながら時間を潰す。 さっきからちらちらと、時計に目線を移してばかりだ。お客さん達の話にも乗れずにいる。 落ち着かない気分でお愛想程度の笑顔を浮かべながら「早く終わらないかな」なんて考えていた。 このテーブルに着くのが嫌だ。ううん、この席のお客さんの相手が嫌だとか、そんな理由じゃなくて。 真正面に座ってるお客さんの顔からほんの少し横に視線を逸らすと、すぐにあのひとと目が合ってしまうからだ。 斜め前の十番テーブルで相変わらずお姉さんたちに囲まれている、土方さんの目と。 時々、斜め向かいの席から空気が揺れているような楽しげな忍び笑いが巻き起こって、ここまで聞こえてくる。 あの笑い声が起こるたびにあたしはなんだか心細くなって、何度も力の入った膝と膝をぎゅっと擦り合わせていた。 フロアに流れるBGMと混ざって、何を言っているのかまでは聞こえない程度の、控え目な話し声。 あのさざ波みたいな、雨音みたいな。微かに聞こえる声が、どうしても気に障る。 聞こえそうで聞こえない、微妙に遠い話し声だ。何を話しているんだろう。 相変わらずお姉さんたちの熱い歓迎に囲まれている土方さんは、 お酒はあまり口にしていない。煙草を片手に、聞かれることに答えているみたいだ。 さっきあたしを恨めしげに見ていたお姉さんは、隊服の腕にしっかり抱きついている。 お酒を飲む土方さんを上目遣いに見上げながら話してみたり、楽しそうに何かを耳打ちしたりする。 しかも土方さんはたまにこっちをじっと見る。あの目と視線が合うたびに、反応を見張られているみたいで居心地が悪い。 目が合うたびに頭がかあっと熱くなって、絶対にこっちから謝ったりしないと決める。 でも、目を逸らした途端に落ち込みが増してきて、しゅんとしてしまう。 最初は意地になって目を逸らさずに我慢していたけど。途中でやめた。見ていられなくなった。 「しっかり働かないと」と自分に言いきかせながら、空になったグラスを目の前に据える。 氷を入れてボトルのお酒を注いで、慣れない手つきでゆっくり、教えてもらった量のお水を注いでいく。 マドラーで掻き混ぜるのも、他の人達の倍は時間がかかる。でも、やることがあるほうがまだ気楽かもしれない。 何もしないで話を聞いているだけよりはいい。話を聞いているうちに、つい土方さんの席に目を向けそうになってしまうから。 「ねえ、ちゃんは呑まないの」 「はい、そうなんです。お酒はちょっと。すごく弱いんですよ」 「そうなんだ。じゃあソフトドリンクにしたら」 好きなの頼んでよ、と言ってくれたお客さんにお礼を言って、横からグラスを差し出した。 話しながらマドラーをトレイに戻す前に、膝のところににしずくがぽたりと落ちた。 水滴が着物を通して襦袢まで染み透った。ほんのわずかに、冷たさが脚に伝わってくる。 すうっと膝に広がっていく小さな染みを、じっと見つめる。 こうして顔を伏せてうつむいているだけで、もっと沈んだ気持ちになってきた。 賑やかなお客さんたちの声も、おりょうさんの弾んだ笑い声も。あまり耳に入らなくなってくる。 ・・・・・・意地なんか張らなきゃよかった。あそこで素直に謝っておけばよかった。 謝るまではしなくても「そんなことないですよ」くらいのことは言って、機嫌の悪さをフォローしておけばよかった。 さっきはわざと気付かないふりなんかしたけれど、本当はあたしだって、あのひとの言いたがってることが わからないわけじゃない。 いまだに屯所のほとんどの人が、あたしはまだ土方さんの彼女なんだって信じきって勘違いしてるから。 何かにつけてあのひとが面子面子って言うのは、そう信じ込んでる周りに対して体裁が悪いから。 それに、屯所であたしのくだらない風評を耳にすれば、やっぱり面白くはないだろう。・・・・・・でも。 だからって。何よ。どうしてここで言うの。あんなに大勢の前で言うことないじゃない。 ああ、ダメだ。気にしちゃダメ。 今は仕事だ、仕事の時間なんだから、と言い聞かせながら頭を振って落ち込みを振り払い、顔を上げる。 なるべく自分から話を振るように努めながら、笑顔を作って隣のお兄さんに話しかけた。 時々、斜め前のあの席から視線を感じる。・・・・・確かめてはいないけれど。たぶん、あのひとだ。 「ちゃんはさあ、何時で上がるの」 「あと一時間くらいです」 「何だ、もうすぐじゃん」 はい、と頷くと、家はどのへん、とか、年は幾つなの、とか。次々と質問攻めにされる。 隣のお兄さんは物腰が柔らかいというか、話しやすいタイプの人だった。 年が近いせいもあるのか、明るいノリも親しみやすい。話題もかなり豊富で、話はあっちこっちへと飛びまくった。 だけどあたしは失礼なことに、どの話もほとんど聞いていなかった。適当に合わせているだけの、お酒の勢いに任せた 上滑りな会話が続いていた。けれど、お兄さんはあまり気にしていないみたいで、それでも笑顔が絶えない。 あまり酔っているようには見えないけれど、思ったよりもお酒が入っているのかもしれない。 「ふふっ。やーだァ、・・・・・・・・・」 斜め前のあの席から、はしゃいだ高めの声が上がる。 何だ?と、隣のお客さんがそっちへ顔を向ける。その動きにつられて、あたしもついそっちを見てしまった。 見たくない。でも、あんな声が聞こえたら嫌でも気になる。自然と首が動いてしまう。 「・・・・でね、結局帰っちゃったんですよォ。ねえ、土方さんは?お休みの日ってどうされてるんですか」 さっきのお姉さんは、今度は土方さんの肩にもたれかかっていた。 あたしが見ているのに気づくと、あのひとの腕を持ち上げて。何喰わない顔で自分の肩に回した。 それでも土方さんは拒まない。こういう状況に慣れているからなのか何なのか、あまり気にしてもいないみたいだ。 他のお姉さんたちとの会話に頷く顔は、さっきよりもいくらか打ち解けた表情になっている。 お姉さんたちとは滅多に目を合わせない。あたしの方も見なくなった。伏し目がちに頷いて、たまに短く口を開くだけ。 けれど、いつも身の周りに漂わせている厳しい気配はいつになく緩んでいる。 珍しい、と驚きながら眺めていると、ほんの一瞬だけ短い笑顔が浮かぶ。驚きを越して憎たらしくなった。 「でさァ、また話戻すけど。この後付き合わない?始発までどこかで遊ぼうよ。カラオケとかどう?歌うの好き?」 「カラオケ、ですか。・・・・・・ええと。・・・そうですね。・・・・・・どうしようかな」 気のない声で返しながら、あたしは土方さんばかり睨みつけていた。 お姉さんの肩に回されたままの土方さんの腕。あの腕が気になって、しょうがなくて。 「あれっ。もしかして、俺のこと警戒してる?違うって、二人きりじゃないからね? うちの先輩も一緒だし、変なことなんて考えてないからさ。安心して来てよ」 そう言われて、振り向いて。少しうつむいて考えてから、顔を上げる。 顔を上げたときに、視線を感じた。あの席を見ると、土方さんも丁度こっちを見ていた。 余裕の涼しい顔でこっちを眺めている。 ふいっと目を逸らして、あたしは強張った笑顔で頷いた。 「はい。いいですよ」 あたしの返事にぎくっとしたおりょうさんが、えっ、とつぶやく。 斜め前の席をチラチラと眺めながら、顔色を変えてこっちの話に入ってきた。 「ちょっとちょっと。さんたら、そんなに軽く受け合っちゃっていいの?」 「はい。カラオケでも何でもこいですよォ」 「えーっ。でもォ」 「何、何だよォ。俺らじゃダメだってのォ?そんなに心配ならおりょうちゃんも一緒に来てよ」 「あァっ。何だよ、おりょうちゃんと何の話だよ。お前ェ、俺らにヒミツで抜けがけ企んでんじゃねえだろうなぁ?」 「ちっがいますよォ、何を誤解してんですかァ。だからね先輩、この後なんすけど―――」 あっという間に三人の間で話はまとまり、お客さんたちは口々に「どこ行こうか、やっぱカラオケ?」と盛り上がり始める。 覚えたての新曲を歌い出したり、どこの店にしようかと打ち合わせを始めたり。 黙ったあたしとお客さんの両方を眺めながら、おりょうさんが困ったような顔で相槌を打っている。 あたしもその話に笑って頷きながら、頭の中では全然違うことを考えていた。 斜め前の席に、女のひとの肩を抱いて座っているひとのことを。 きっとあれで充分だと思ってる。 あの姿を見たら、妬いたあたしがすぐに降参すると思ってるんだ。 ああ、もう。これだから土方さんは酷い。 何もしなくてもモテ続けてきたひとに、そういうひとに散々やきもきさせられてる側の気持ちなんてわからない。 あのひとにわかりっこないんだ。 めげずに図々しく土方さんを追いかけてきたあたしが、あの姿を見ただけで身体が竦んで。不安で一杯になるなんて――― 「あーーっ、やだァ。ごめんなさぁぃい」 今度はわざとらしいくらい甲高い、笑い混じりな声がして。 あの声を聞くだけでも嫌なのに、やっぱりあたしはそっちを見てしまった。 見た瞬間。口から勝手に、あ、とわずかな声が漏れた。 土方さんは、あの人の髪に触れていた。 あたしのよりずっと綺麗に巻かれた長い髪の先が、隊服の肩のボタンに絡まっている。 肩の憲章に縫い付けられたボタンを指に挟んで、ふんわり巻かれた毛先を解していく。 少し弄っただけで、絡まっていた髪はするりと外れた。 あのひとは、外した髪を手にして眺めている。 お姉さんに何かを話しかけて。何か言いながら何度も頷いて返すお姉さんに、ふっと口端を緩めて笑った。 珍しいあのひとの笑顔に、お姉さんはぼうっと見蕩れて。ひどく嬉しそうに何かを話し始める。 まっすぐに向き合っている二人の姿を見ているうちに。あたしは我慢がきかなくなった。 ふぁっ、と、一瞬で目が熱さに染まった。 「・・・・・・ごめんなさい。」 「えェ?何?・・・・・・・え。ちょっとォ。ど、どうしたの」 「ごめんなさい。あたし。・・・・・・・・・・」 ごめんなさい。カラオケ、行けません。 それ以上何も言えなかった。絶句した途端に、ぽろっ、と涙の粒が頬を転がり落ちる。 ぽたっ、ぽたっ、と、落ちた雫が着物の裾に染みていく。ぎゅっと膝小僧を掴んだ手にも。 「・・・・・えっ。やだっ、どうしたのよ!さん?」 「いやァ・・・俺も何が何だか。急に泣きだしちゃってさ。ねえ、具合でも悪いの?大丈夫?」 驚いたおりょうさんが立ち上がって、あたしの前で膝を折る。どうしたの、と困った声で繰り返した。 ポン、と背中に手を置かれても、涙で声が詰まって何も言えなくて。あたしは黙ってかぶりを振った。 隣のお兄さんは、それでも背中を撫でてくれている。申し訳なくなって、袖で涙を拭いながら鼻声で答えた。 「・・・・・・ごめ・・・・なさぁい。違うんですぅ、すっ。すみま・・・・せ、」 お客さんが箱ごとティッシュを渡してくれて、あたしはすっかり情けない気分になりながら すみません、すみません、と頭を下げてひたすらに謝った。 ここで泣いたらお店にも迷惑がかかる。 けれど、泣いたら駄目だ、駄目だと思えば思うほど泣けてきて、涙が溢れてくるから困ってしまう。 おりょうさんにもお客さんにも、あの席のお姉さんたちにも見られる。 あのひとだって見てるのに。 悪い癖だ。他のことなら我慢出来ても、こらえきれない。あのひとのことになると、あたしは感情的になりすぎる。 誰かが目の前に割り込んできて、あたしはそのひとに腕を掴まれ、ソファから引っ張り上げられた。 涙でぼやけてはっきり見えない。 煙草の匂いがする、頭から足先まで黒い影だ。 勝手に零れまくってる涙をティッシュで抑えて、顔を上げると。 ひどく気まずそうな顔をした土方さんが、口端で噛んだ煙草を揺らしながら所在無さそうに立っていた。 あたしの顔を眺めてから、おりょうさんに向かって一言だけ詫びた。 「すまねえな。こいつが迷惑掛けた」 「そんな顔じゃ他のお客さんの前には出せないからねぇ。うん、今日はもう君、あの席専用ってことでね」 お店のど真ん中で突然泣き出したのだ。 クビを言い渡されはしなかったけれど、泣き止んでもおりょうさんたちの席には戻れなかった。 困った顔の店長さんと、怒りで笑顔がひきつっている姐さんに、ごめんなさいごめんなさい、 すみませんすみません、とペコペコ頭を下げまくってから、あたしは土方さんに連れられて十番テーブルに向かった。 「・・・・・バカ。土方のバカ。ボケカスハゲ。ニコ中マヨ中ド変態女たらし。・・・・・・・バカぁああぁ」 泣き腫らした目には眩しすぎる明るいフロア内を歩きながら、先を行く背中を睨み続ける。 呪いでもかけるみたいに、悔し紛れにつぶやき続けた。 土方さんのバカ。最低。ドS。これって何のイジメだよ。 何度言ったって気は晴れない。あたしの呪いが聞こえているのか、たまにあのひとの背中がピクリと硬直するのがわかる。 それでも何度でも繰り返したくなった。 土方さんのバカ。いい年こいて子供みたいな意地悪すんな、バカ。 あたしの髪に触った手で、他の女のひとの髪に触らないでよ。 どうしてあたしが見ている前で、他の女のひとに触ったり出来るの。 何よ。知ってるくせに。 自分が女のひとに囲まれてるだけで、あたしがバカみたいにヘコんじゃうのを知ってるくせに。 肩なんか抱いちゃって、髪まで触って見せびらかして。何よ、わざとらしい。 知ってるくせに。嫌がらせなんだって判ってても泣きたくなるって。 あんなところを見せられたら、すっごく不安になっちゃうじゃない。 ソファに座ると、土方さんは水差しを手に取った。黙ってグラスに注ぎ始める。 さっきまで満員御礼の鮨詰めだったソファは、今はガラリと空いている。 ちやほやと取り巻いていたお姉さんたちは、一人も残っていない。見るとどの人も、それぞれ別のお客さんのお相手を務めていた。 みんな何事もなかったような艶やかな笑顔を振り撒きながら、それぞれお仕事に励んでいる。目を真っ赤に腫らしてうなだれている あたしとは雲泥の差だ。恥ずかしくなって目を擦ったら、手の甲がうっすら黒くなる。・・・マスカラ特盛りしたせいだ。 「いつまで突っ立ってんだ」 座れ、と命令されて、あたしはそっぽを向いた。すると、コン、と硬い音がした。 土方さんは何も言わずに、水を注いだグラスをテーブルに置いていた。自分の前にではなく、自分の隣の席の前に。 もしかしてあれは、あたしに淹れてくれたんだろうか。 腫れた目を見開いて眺めていると、なぜか悔しそうな顔で舌打ちする。 ふいっとあたしに背を向けて、ソファの背もたれに伸ばした腕を乗せた。 「いくら何でもお前。あれはねーだろ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・いや。・・・・・そーじゃねえ。さっきのあれは、・・・・・・・・・・・・・」 「・・・さっきあれは、って何。何ですか」 「・・・・・・・・いや。・・・・・わ。・・・・・・・」 「わ、って何。何ですか。何が言いたいんですか」 「・・・だから。あれったらあれだ。あれじゃねーか。その。・・・・・わる。・・・・・・・」 悪かった。 そう言いたいんだろうけど、言わないだろう。どうせ言えっこないんだから。 これまで何があった時も。絶縁寸前の大ゲンカをした時だって、このひとがあたしに謝ったことはない。 「悪い」とか「すまねえ」とか、普段のちょっとしたことで軽く口にしそうな言葉だって、一度も言ったことがない。 このひとの中で、あたしに謝るのと他のひとに謝るのとでは何がどう違うのか。聞いたこともないし、理由は判らない。 けれど、何が何でも。たとえ天が裂けても口が裂けても、あたしに謝るのだけは絶対に嫌、・・・というか、よっぽど癪にさわるらしい。 謝ろうにも意地が邪魔して言葉が出ないほど葛藤してるのは、強張り具合がひどくなっていくその背中を見れば一目でわかった。 少しだけ見える横顔が、口を開いてはまた閉じて、また何か言いかけて黙って…を、さっきから焦った様子で繰り返している。 それでもあたしはふてくされたままで口を引き結んで、じっと見ていた。助けてなんてあげなかった。無言で隣に腰を下ろす。 淹れてもらった水を飲んでいると、続く沈黙にたまりかねたのか、土方さんは苛立たしげに煙草を灰皿にかなぐり捨てた。 「っせえなしょーがねーだろォ!?言いたかねーこと言わされんだ。口が嫌がってんだ口が!!」 「お店の中で怒鳴らないでください。ただでさえ土方さんの声はよく響くんだから。 これじゃ営業妨害と同じですよ。いいんですか、真選組の局長副長が揃って店を追い出されても」 ぐっ、と喉に何か詰まらせたような低い声で呻いて、土方さんは黙り込む。 ああ、まただ。まだ葛藤してる。怒ろうか謝ろうか、すっごく迷ってる。握った拳が今にも震え出しそう。 眉間の皺の深さが只事じゃなくなっていくのが可笑しくて、つい吹き出しそうになった。 「つまりあれですか。口では言えないけど、悪かったとは思ってるんですよね」 「・・・・ああ。まあ。・・・・・・・そーなんじゃねーか。よく知らねーけど。言いようによっちゃあそうとも言うんじゃねえか」 「じゃあ、言わなくてもいいです。一生言わなくていいです。今すぐここで謝らないと一生許してあげないだけですから」 「・・・・・・・おい、コラ。ざっっっけんな。ここで醜態晒せってえのかよ!?」 「いいじゃないそのくらい。人をあれだけ泣かせたんだから、恥ずかしいマネでも何でもしてみせてくださいよー」 「ぁんだとこの。よく言えたもんだな。鼻の下が伸びきった奴等に囲まれてた奴が言えたことか、あァ!?」 「ダメならいいですっ。ただしもう店には来ないでください。屯所にも行かないし、家にも入れてあげない。電話にも出ませんから」 一方的に拒まれて頭に来たらしい。顔を強張らせた土方さんが勢いよくこっちを向いた。 それを待っていたあたしがにっこり笑うと、表情が固まる。笑っていたのが意外だったのか、怪訝そうに眉をひそめた。 「・・・・・・・どうしてもダメなら。これくらいで、許してあげる」 土方さんの腕を両手で持ち上げる。あたしは骨太な重たい腕を、自分の肩の上に回して乗せた。 ね?と怪訝そうな表情のままのひとに笑いかける。すると、土方さんは真顔になってあたしをじっと見て。 しばらく考え込んだ後で、目を伏せて。何かとても大切なことを諦めたような、悔しそうな顔で溜め息をこぼした。 その顔を眺めていたら、こっちまで苦笑いしそうになった。 結局あたしはこのひとの、こういうところに弱い。このひとの、こういう無器用さも好きだから。 普段は隙を見せない涼しい顔で構えていても、いざとなると、ひとつも自分に嘘がつけなくなっちゃう。 そういう子供みたいなところを間近で眺められるだけで、嬉しくなって。怒っていたことなんて忘れてしまうんだけど。 だめだなぁ。言ってることがめちゃくちゃだ。 意地を張るより先に謝っちゃえばいいのに。どうしても、素直にごめんなさいって言えない。 来てくれてありがとうって言えない。せめて、言い訳くらいしたらいいのに。 ここで働いてるのは、姐さんに喜ばれたいからって理由だけじゃなくて、土方さんにも喜んでほしかったからだ、とか。 あたしがこの店で役に立って、姐さんが少しでも喜んでくれたら。近藤さんはたぶん、大袈裟なくらいに手放しで喜んでくれる。 近藤さんが喜ぶことを、このひとが喜ばないはずがない。ちょっと遠回しだけれど、結局それは土方さんの役に立てることになる。 そう思って張り切ってたんだって、言いたいけど。気恥ずかしくて言えない。 そんな迂回しまくりな理由じゃ、黙っていたって気付いてもらえるはずがないのに。それがわかっていても、正直に口に出せない。 お店でお客さんを喜ばせるのだって、素人のあたしには難しい。 でも。好きなひとに喜んでもらうのは、もっと難しい。 好きだから。大事だから、却って色々考えすぎてしまう。一人で頑張って空回りしちゃって、なかなかこのひとまで届かない。 肩に乗ったままの腕がざわっと動いた。あたしの頭を土方さんは軽く小突いてきた。 店の中をじろりと見渡しながら、薄く口を開いた。 「おい」 「え?」 呼ばれて振り向いたあたしの頬を、硬い手のひらが包んだ。煙草の匂いが移ったその手に引き寄せられる。 あ、とつぶやく間もないくらいに短い時間。ほんの一瞬だけ、唇が素早く重なった。 顔を離すと、何もなかったような平然とした様子で、土方さんは店の入り口に目を移す。すっかりいつもの無表情に戻っていた。 お姉さんたちに見送られる呉服屋の旦那さんを眺めながら、喉に籠った、あたしにしか聞こえないくらいの声で言った。 「・・・・・・・まさか誰も、あの程度であそこまで泣くたァ思わねえだろ」 唇に残った感触が熱い。嬉しいのに、なんだか少し物足りない気もした。恥ずかしくて、うん、とあたしはうつむいて返した。 黙って空のグラスを手に取り、少し溶けかかった氷を中に落とす。 ばつが悪くて口には出せなかったけれど。心の中で、ごめんなさい、と謝った。 そうだよね。あたしだって思わなかった。自分がたったあれだけのことで、あそこまで泣くとは思ってなかったんだから。 土方さんはあたし以上に戸惑ったんだろう。 もしかしたら。このひとだって、あたしとおなじなのかもしれないな。 あの程度、ってこのひとは言ったけれど。あの嫌がらせだって、多分そう。あたしと同じ。 あれは土方さんが、本気であたしに怒っていたからしたことで。 それは、傍目にはすごく判り辛いのかもしれないけれど。このひとがあたしのことを それだけ真剣に、色々と考えてくれていて。大事にしてもらっている証拠みたいなものかもしれない。 「お前。帰りはいつも同じ時間か」 「・・・?ううん。早い時もあるけど。少し遅いときもあるし」 「終わったら電話しろ」 「え。」 「迎えに来てやる」 素っ気ない口調で、土方さんが言う。 グラスにお酒を注ぎ足す手を止めて、驚いたあたしは目を瞬かせながら見つめた。 「いいな、これからは客に誘われたからってノコノコついてくんじゃねえぞ。 玄人さんに混じってホステスの真似事したところで、お前は所詮ド素人だろうが。玄人の真似してついてくこたあねえんだ」 片手で器用に取り出した煙草を咥え、テーブルの端に置かれたままになっていた誰かのライターに手を伸ばす。 自分から言い出したのが気恥ずかしいのかもしれない。あたしとは目を合わせなかった。 「つーか何の嫌がらせだ。てめえが客とカラオケなんざ行ってみろ。 狭苦しい中で、あの酷でェ唄歌ってみろ。死ぬぞ客が。それこそ店に対する営業妨害じゃねえか」 「・・・・・土方さん。聞いてたんですか、さっきの」 「っせえな。知らねーよ。とにかく迎えに来てやる。・・・・・暇があればな」 暇な時は、だぞ。 火を点けながらボソッと投げやりに繰り返した。念を押すかのようにあたしを見る。 細めた眼は、昼間に見せるあの鋭い迫力が薄れている。気だるそうな顔が少し眠たそうにも見えた。 いいのかな。あたしが帰る時間なんて、土方さんがとっくに寝てるか、部屋で書類と睨み合ってる時間なのに。 ほんとに来てくれるのかな。 暇な時間どころか寝る間も惜しんで、毎日をひたすら仕事に費やしているこのひとが。 眠そうで疲れた、こんな不機嫌そうな顔をして。たまに欠伸を噛み殺しながら。それでも迎えに来てくれるんだろうか。 マドラーを手に、あたしは水と混ざって溶けていく蜂蜜色を笑顔で見つめた。 グラスと氷が触れあう音がカラカラと、軽やかに心地良く耳をくすぐる。 しっかり肩を抱いたままの腕が、聞いてんのか、と、不満そうにあたしの髪を引っ張っている。 嬉しすぎて可笑しくて、自然と顔が緩む。ふふっ、と笑いがこみ上げた。 「しょうがないなー。じゃあ、毎回必ず迎えに来てくれたら許してあげる」 「図に乗るな。暇な時だけだって言ってんだろーが。 って。おい、違げーだろ。酒が九割水一割だろ。どんだけ薄める気だ。身内と思ってケチってんじゃねえ」 「だめです。これでいいの。ただでさえニコ中なのに、今度はアル中にもなる気ですか」 すっかり普段の調子に戻って遠慮なく言い合いながら、拙い手つきで作った薄めの特製水割りを、はい、と手渡す。 それはなぜか、今まであたしが作った中では一番、とびきり美味しそうに見える出来だった。

「 白夜の華にはなれないけれど 」 text by riliri Caramelization 2009/12/17/ ----------------------------------------------------------------------------------- 10万打企画物。No.5で「モテモテ土方さんに主人公が落ち込む」「嫉妬してほしくてわざとあてつける主人公 → 連れ戻しに来る土方さん」 「ヒロインが他の男の人と → 副長が嫉妬する」「素直になれなくってすれ違っちゃう二人」等のリクエストを元に書かせていただきました イチカワさま はちこさま 匿名リク主さま ありがとうございました!! 副長はアフター阻止できて裏では一安心してる で 次のバイト日からは店裏にパトカー停めて「遅せぇよ」とかいいつつ待ってます