毎週のように通っている、駅前のレンタル屋さん。 その店の、新作コーナーの最上段に置かれている恋愛映画のDVDが、あたしはいつも気になっていた。 先々週に行ったときもそうだったし、その前の週に行ったときもそうだった。 「こんなありがちなキャッチコピーで映画館にお客さん呼べるのかなあ」と、ジャケットで見つめ合う 主人公らしい写真の二人を、大きなお世話というか、まったく要らない余計な心配をしながら 首を伸ばしてじーっと見上げていた。 そして先週。なんとなく手が伸びて、なんとなく借りてしまった。たいして観たいとも思ってなかったのに。 だけど先週は夜勤が入ったり、夜中まで残業があったり。 今週は今週で総悟や山崎くんたちと飲みに行ったりで、結局見る時間がなくて。 観終わったのは返却期限ぎりぎりの今夜。ついさっきになってしまった。 終わってすぐに大急ぎでお風呂を使って、半乾きの髪はシュシュでひとつに括って、 湯上がりにいつも着ている、パジャマ替わりの短い浴衣をいい加減に羽織った。そのまま屯所を抜け出して、夜道を急ぐ。 覗き見た居酒屋の壁時計の時間は、十一時五十分。延滞料金の五百円を課金されるまで、あと十分しかない。 暗い道にからからと、下駄の音を甲高く鳴らしながら走る。 駅前のレンタル屋さんを目指して、深夜でも人通りの多い大通りを一直線に。 酔っ払いのおじさん達が数人、肩を組んでたむろしているのを避けながら、繁華街と交差する十字路を突っ切ろうとする。 ところが勢いが良すぎて、十字路を曲がってこっちへ来た人と肩が思いきりぶつかった。 「あっ。すいませ、――――・・・・・」 「あぁ。悪りィ――――・・・・・・・・」 謝ろうとしたのとほとんど同時で、ぶつかった相手の声が背中越しに返ってくる。 えっ、と思いながら後ろを振り返った。 直属部下のあたしが聞き間違えるわけがない。この無愛想な、抑えていても迫力のある声を。 「土方さんじゃないですかぁ」 「・・・・・・・・・お前か。」 「おかえりなさい。飲みに行ってたんですか? ・・・?あれっ。もしかして一人ですか。近藤さんは?一緒じゃなかったんですか」 「・・・・・・・・・・いや。今日は、・・・・・あ――、・・・・・・・・・・まあな」 「そうなんだ。でも珍しいですね、土方さんが一人で飲みに行くなんて。じゃ、おやすみなさーい」 「・・・・・・・・待てコラ」 「!?え、ちょっ・・・・」 後ろから、ぐいっと襟首を吊り上げられた。耳元に人の体温が近づいてきて、ふあっとお酒の匂いが広がる。 振り向いて迷惑そうに見上げると、眉根を寄せて細めた眼は少し眠たそう。・・・ていうか、あれっ。珍しい。 土方さんの目、焦点がゆらゆらしてる。目つきの悪さは変わらないけど、お酒で潤んだ目になっている。 なんだか意外かも。結構な量を呑んでいる時でも酔ったところを見たことがないし、 いくら呑んでも顔が赤くなったりしないから、てっきりザルなんだと思ってたけど。 「・・・・・おやすみなさいじゃねーだろ。この時間にどこをうろつく気だ」 「別にうろついたりしてないですよォ。離してくださいってば。土方さんに構ってる場合じゃないんですっ。 あたし急いでるんですからぁ。この十分にあたしの貴重な五百円が懸ってるんですからね!?」 うぐぐぐぐ、と、歯を噛みしめ、目一杯の力で前に踏み出し、あたしはなんとか横暴上司を振り払う。 勢いづいてる脚に任せて、たたっと駅前方向に駈け出した。 でも。・・・惜しかったかな。ちょっともったいない気もする。 ほんとはもう少しあの場に残って、あの珍しい顔を眺めてみたい気もするんだけど。 酔っ払ってる土方さんなんて、この先も滅多に見れそうにないし。 いつ何を聞いても間を置かずにパシッと即答してくるひとが、聞かれるたびに言葉に詰まっちゃってたもん。 ちょっとぼんやり気味っていうか。ほんの少し隙が出来てるかんじが、可愛く見えなくもないってゆーか・・・ あれっ。何か聞こえる。後ろから聞こえる。やけに速くて大きな足音が、バタバタ迫ってくるよーな・・・・・・ これはひょっとしてもしかして、と、おそるおそる振り向いたら。 ・・・・・・すぐ横を、据わった目をした隊服姿の酔っ払いが併走していたのです。 「おい、答えになってねーぞ!この遅くにどこうろつく気だって訊いてんだろーが!答えろバカパシリ!」 「ど、どこって、・・・・ええっ。ちょっ、やだっ、何で追いかけてくるんですかぁ!?」 「てめーが逃げっからだろーが!」 「そんなこと言われてもォォ!」 違うのに。逃げたがってるのはあたしじゃないのに! 脳が、身体が率先して逃げたがるの!脚が勝手に動いて逃げようとするんだもの、しょーがないじゃん!! 身体が勝手に動くんだもん!!条件反射で動くんだもん!! 「追いかけてくる土方さん+しかも顔が怖い、どう見ても怒ってる = ガッツリ怒鳴られる もしくは ガッツリ殴られる」 毎日叱られっ放しのあたしには、どう考えたってこのヤバいパターンしか頭に浮かんでこないんだもん!! 「おまわりさああん!助けてえ!酔っ払いに襲われるうううぅ!!」 ・・・・なんてことは、もちろん叫べない。 頭の中で高々と「撤退!」とサイレンを鳴らす本能に従って、あたしは全力で逃げた。駅前に向かって一目散に。

奇跡だ。奇跡が起きた。 どれだけ急いでも片道十分はかかるはずのレンタル屋に、たった五分で着いてしまった。 十二時にギリギリ五分前で到着。 ギリギリで延滞にならずに済んだDVDを、入口前にあるカウンターで、顔見知りの店員さんに返した。 昼間はそうでもないんだけど、この時間はさすがにカップルが多い。棚に並んだDVDをあれこれと指して 楽しそうに話している二人を眺めながら、店の中央を走る細い通路を、突き当たりの「新作映画コーナー」に向かう。 ところで。嫌がるあたしをなぜか追いかけて来た、あの不審な酔っ払い上司がどうしているかというと。 着いた時は店の壁にぐったり寄りかかって、ゼェハァと盛大に息を切らしながら 「・・・気持ち悪りィ・・・これァ、・・・駄目だな、煙草やめねえと」とか何とか、苦しそうに呻いてたくせに 呼吸が落ち着いたとたん、さっそく店の外でスパスパと煙を吸入し始めた。・・・いつになったら懲りるんだろ、あの末期中毒患者。 突き当たりに構えた棚の、一番上の列。 さっき返したばかりのDVDは、まだ先週と同じところに置いてあった。新作映画コーナーの最上段だ。 ジャケットに使われているのは、道ですれ違った二人がお互いに振り向いて、ちょうど目が合った瞬間を映した写真。 女の人は、はっきりした顔立ちとまっすぐな目線に気の強そうなかんじがよく出ている、姐御肌タイプの眼鏡美人。 彼女と見つめ合ってるのは、身体はゴツいのにちょっと気弱そうな顔の、なんとなく優しそうな男の人。 ・・・・・そう、これこれ、この人。何が気になるって、実はこの俳優さんが気になる。この人、ちょっとだけ似てるんだよね。 虫も殺せないんじゃないかと思うくらいに穏やかそうな顔の作りは、どこから見てもまったくの別人なんだけど。 顔の輪郭やひきしまった顎の線だけは、よく見ると土方さんにそっくりだ。 見つめ合う二人のどこかせつなげな表情が印象的で、見掛けるたびに気になってはいたんだけど。 これを借りるつもりは全然なかった。 だって、見つめ合う二人の足元に書かれてる、この映画のキャッチコピーが、・・・・・・・・・・萎える。 「恋はいつも偶然から始まる」 ・・・うーん。萎える。いっそ感心しちゃいそうになるくらいへなへなと、借りる気が萎える。何度眺めてもそそられない。 何なの、このやっつけ仕事感漂う駄コピーは。この映画のヒットなんて微塵も期待してませんって感じが この一行にモロに出てるんですけど。てゆうか、ヒットさせようって意気込みを、これのどこに感じろと・・・? これを考えた人には悪いけど。もう少しヒネリようがなかったのかなあ、と首を傾げたくなる。 これじゃ、この映画の良さがちっとも伝わってこないもん。 その俳優さんの顔は気になったけれど、あの駄コピーのおかげであたしは全然、ちっとも映画の中身には期待していなかった。 なのに、観終わってみれば。何の期待もしてもいなかったその映画に、あたしは泣かされまくっていた。 外れだったのはキャッチコピーだけで、映画の中身は大当たりだったのだ。 ラストシーンなんて本当にせつなくて感動的で、ティッシュの箱を抱えながらびいびい泣いてしまった。 しかも、気になっていたあの主演の俳優さんが。・・・顔や表情はやっぱり似ていなかったけど、 低めの声や素っ気ない喋り方は、土方さんに激似だった。 彼がヒロインの女の人に話しかけるたびに、あたしは自分が土方さんに話しかけられているような気になって。 その俳優さんが、恋愛映画ならではの甘ったるい台詞をささやくたびにドキドキさせられて、意味無く顔を赤らめながら 息を詰めて見つめてしまった。 また今度借りよう。もう一度ゆっくり観よう。 映画好きの小菊姐さんにも、今度会ったらお勧めしよう。 そんなことを思いながら、あの写真をもう一度、手元でじっくり眺めようと、爪先立ちになってうんと背伸びして、手を伸ばす。 だけど最上段に飾ってあるあのDVDにはなかなか手が届かない。ちょっと背丈が高すぎだよね、この店の棚。 ・・・・・あ。指先、やっと届いた。でも取れそうにないなあ、どうしよう。 踏み台を借りようかと思いながら爪でDVDをカリカリ引っ掻いていたら、後ろから伸びてきた手にDVDを横取りされた。 「これか」 「あ」 伸びてきたのは黒い隊服の腕。土方さんの手だ。 あたしにそれを持たせると、棚の上段に腕を伸ばした。あたしの頭の真上あたりに手を掛ける。 嗅ぎ慣れた煙草の香りと、見慣れた隊服で目の前が覆われる。視界が薄暗く遮られた。 土方さんがやたらに近い。とにかく距離が近い。前が開いた上着の中に、あたしの身体まで隠れてしまいそうだ。 お互いの身体の間には、抱き合う寸前の距離しかなかった。思わず後ろに一歩引いたら、背中が棚にぶつかった。 眠たげに目を細めてあたしを見下ろしていた土方さんは、DVDを顎で指す。怪訝そうに尋ねてきた。 「これじゃねえのか。今、取ろうとしてただろ」 「・・・そ、それは。あの。はっ、はい。・・・じゃなくてぇ、・・・・・・・あ、あああああの、ええとぉ」 「・・・?何だお前。何を口籠ってんだ」 あたしが口籠る理由が判っていないみたいだ。 珍しく酔っているせいなのかもしれないけど。・・・・・・それにしたって。・・・この近さは、・・・・・・・・・・・・。 「え。あ。あの。はぁ、いえ、な。な、何でも・・・・・・・・」 うわずった変な声でつぶやきながら、あたしは目のやり場を探すのに必死になっていた。 ちょっと目線を上げれば、いきなり挙動不審になった部下を訝しげに見下ろす 副長さまの鋭い視線とぶつかるし、ちょっと動けば、目の前を塞いだ身体とぶつかってしまう。 あわててうつむいて、すでに赤くなってきている顔をDVDで隠した。 「いいだろこれで。これで充分だろ。つーかもォ面倒くせえからこれにしとけ」 「・・・・・・・・面倒臭いって。か。借りるのは、あたし・・・なんですけど」 困って言い返すと、土方さんは苦い顔で舌打ちした。他のDVDに手を伸ばす。 ちょうどあたしの顔の横にあったひとつを棚から抜く。袖がさっとあたしの顔を掠めて、煙草の香りが一瞬だけ強くなった。 興味なさそうな目でそれを眺めてから、ほらよ、とそれを差し出してくる。 「こんなもん、どれ見たところで同じじゃねえか。この手の映画の結末ったら、どれも似たようなもんだ」 「で、でも。・・・あと五分。あと五分でいいですから。もう少し自由に、っていうか、・・・ 一人でゆっくり選ぶ時間がないと。見たいものも選べないっていうか、選ぶ余裕が、ないっていうか・・・・・・・・・あの、だから。・・・・」 はあ、と、頭のすぐ上で、嫌そうな短い溜息が聞こえた。 上から香ってくるお酒の匂いは、さっきまでと違ってすごく近い。 隊服の肘は、あたしの顔にもう少しでぶつかりそうな位置にある。棚を掴んだ手は、いい加減に括った半乾きの頭に当たってる。 こんな近くで見られるって判ってたら、もっと綺麗に結わえてきたのに。そう思うと、急に恥ずかしくなってくる。 頭をひょいっと下げて腕の下を潜り抜けて、滅多に眺めない隣の「新作アクション映画」のコーナーに、あたふたと逃げた。 あっという間に五分が経過した。 ・・・・・焦ってる時って、どうしてこんなに時間が短く感じるんだろう。 ところで今、あたしがどこでどうしているのかというと。まだレンタル屋さんの店内で、モタモタしながらDVDを物色中だ。 だけど頭の中は他のことで一杯で、何を手に取っても、何を眺めても、タイトルやあらすじが全然頭に入って来ない。 これじゃ、どのDVDを借りるのかを決めるどころじゃない。あの不審なうえに強引な酔っ払いが、また横にぴったりと、 まるでバスケのマンツーマン状態でくっついているのが、気になって気になって気になって気になって気になって・・・!!! 「早く決めろよ。俺ぁさっさと帰りてえんだ」 「ね、・・・・・眠そう、ですね」 ああ、とつぶやき、目をぎゅっと閉じて眉間を抑えてる土方さんの顔は、疲れきってげんなりしている。 珍しいよね、土方さんがこういう顔を人前で、しかも屯所の外で見せるなんて。 飲みに行った先で、そんなに大変なことでもあったのかな。 「あー・・・・。そういやァ、もう三日はろくに寝てねえか。 今日もあれだが・・・昨日もおとといも、明け方まで近藤さんに付き合わされちまったしなぁ・・・・・」 「・・・・・?じゃあ、まっすぐ屯所に帰ればよかったじゃないですか。 てゆうか、そんなにお疲れなら今からでも先に帰っててくださいよォ」 あたしは土方さんの背中を、店の出口方向にぐいぐいと押した。 ・・・そりゃあ、偶然会えたのは嬉しかったし、仕事してる時間以外に二人でいられるなんて滅多にないことだけど。 こんな近くにずっと立っていられると、それだけで心臓バクバクしちゃって。借りるDVDを選ぶどころじゃなくなっちゃう。 「ほらほらぁ、誰も引き止めませんから。あたしは一人でゆっくり見てから帰りますから。 それに、誰もついて来てくれなんて頼んでないじゃないですか。土方さんが勝手について来たんじゃないですかぁ」 土方さんは何か言いたげに口を動かしたけれど、結局何も言わずにふいっと顔を逸らした。 眉が吊り上がった横顔は、ひどく不満そうだ。言い返されたのが癇に障ったのか、指先が棚に並ぶDVDの背を苛々と弾いた。 「フン、こっちも来たくて来てんじゃねーよ」 「?はァ?だったら何で来たんですかぁ」 「・・・・・っせえな。おら、いいだろこれで。つか、面倒くせえからこれにしとけ」 最上段から適当に引き抜いたDVDを押しつけられ、ドン、と背中を押し出される。 「そこまで面倒臭いならついて来なきゃよかったじゃないですか」とは言わなかったけど 酔っ払いの理不尽さにムッとしたあたしは、頬をぷーっと大きく膨らませたままレジに向かった。 借りたくもないDVDを借りたあたしは、ムッとしたままで店を出た。 入口の前で煙草に火を点けていたひとを無視して、さっさと前を通り過ぎる。 終電まではもう少し時間がある。屯所へ続く大通りは開いている店も多いし、この時間でも人通りが多い。 からからと下駄を鳴らして小走り気味に、外灯の立ち並ぶ狭い歩道を急ぐ。 学生らしい賑やかな男の子の集団とすれ違って、疲れ気味に背中を丸めているお仕事帰りらしいお父さんを追い抜いた。 追い抜いたところで、背中のどこかをぐいっと後ろに引っ張られた。感触からみて、帯の端が引っ張られているみたいだ。 それでもあたしは立ち止まったり、振り向いて確かめたりしない。誰が引っ張っているのかは判ってる。 少し経ってから横に目を向ける。煙草を咥えた副長さまが隣を歩いていた。 車線を行き交う車のライトや、まだ営業中のお店の明り。目につく光を眩しく思いながら、横目に隣のひとを眺める。 土方さんは、眠たそうに細めた目で遠くを見据えていた。隊服のスカーフをうっとおしげに引っ張って、襟元をわずかに緩めた。 赤く灯った煙草の先から煙が流れ出ている。外灯の光が届いた薄明るい暗闇に、白い流線がすうっと長く尾を引いていく。 「お前なぁ。屯所の中はともかく、外に出るなら着物くれえ替えて来い。」 呆れ気味にそう言って、あたしの帯に目を向ける。 浴衣に巻いた真っ赤な薄手の兵児帯。 この帯はあたしのお気に入りだ。蝶々結びにすると大きく広がって、歩けばふわふわ揺れる。 生地が透けるほど薄いから、寝間着用の普段使いとはいえ、結構大切にしてるんだけど。 今は隣からグイグイと「これが気に喰わねえ」って顔をしたひとに、端を掴まれて引っ張られている。 ・・・・・・・・もし破れたら弁償してもらおう。これよりも倍は値段の張る、うんと素敵な帯を。 「夜店帰りのガキじゃあるめえし。浮ついた格好しやがって、・・・・・ったく、てめえは。 んなもん着た女が褒めそやされんのは、せいぜい寺子屋通いの間までだぞ」 「悪かったですね。どーせガキですよ。夜店帰りのガキですよ。 ああ、もぉっ。そんなに引っ張らないでください、生地が破けちゃうじゃないですかっっ」 帯を掴んだ力の強さが気になったから、あたしは隊服の腕を引っ張って外した。 ところが振り払っても振り払っても、しつこい酔っ払いはまた同じところを掴んでくる。 やけになって先にどんどん歩いても、嫌がらせにぴたりと止まってみても同じ。 あたしが足を止めると、土方さんも隣で立ち止まる。 ガキくさい部下の不機嫌を面白がっているのか、酔い醒ましを兼ねてからかって遊びたいらしい。 見上げると、据わった目が気だるそうにこっちを見下ろしている。 眠さとお酒で少し和らいだ顔は、何かをほのめかすように笑っていた。 普段ならどきっとするような、その珍しい表情に、あたしはなぜかムッときた。悔しいから、じとーっと睨んでやった。 「そんな言い方しなくても、いいじゃないですか」 「あァ・・・?どう言えってえんだ。遠回しに言えってえのか」 「そうじゃなくて。・・・・・・・・・だって。子供っぽくてもいいじゃないですか別に。 これは外で着てるわけじゃないんだし。寝間着なんだし。 それに、あたしがこれを着てるからって、土方さんや誰かに迷惑かけることなんてありませんから」 「だからってなあ、ガキくせえ寝間着のまま出る奴が、・・・・・・・・・・」 急に黙り込んだ土方さんは、一瞬だけ、後ろに刺すような目線を向けた。 なぜかあたしの腕を掴むと、ぐいっと車道側に引っ張る。 そこに走ってきた、結構なスピードで通り抜けた車のライトに目を焼かれる。目の前がぱあっと真っ白に染まった。 「え?」 眩しさに目を瞬かせているうちに、よたっと足がよろめく。いつのまにか土方さんの前に追いやられていた。 その間に土方さんはあたしの右側に回り込んでいて、左右の位置が入れ替わっている。 「――おおっ、いいねェ〜〜。いい足してるらなぃのォ、お姉ひゃーん。どうだいあんたァ。おじさんと一晩」 笑い混じりな、へらへらと呂律の回らない男の人の声がした。でも、声は聞こえても姿が見えない。 誰だろう、と不思議に思って見回すと、土方さんの影から誰かが顔を出してこっちを覗き込んでいる。 ギャハハハ、と、真っ赤な顔で豪快に笑っていたのは、小太りな酔っ払いのおじさんだ。 そのまた影から出てきたのは、頭のてっぺんがすっかり禿げ上がってるおじさん。 こっちは首や腕まで、茹で上がったタコみたいな色に染まってる。 二人のおじさんたちと目が合った瞬間、あたしはうっかり吹き出しそうになった。 絵にかいたような酔っ払いというか。その酔っ払いぶりが、見た目にハマりすぎている。 これで頭にネクタイを巻いて手にはお土産の寿司折りなんか持ってたら、もうどこから見ても完璧なのに。 後から顔を出したおじさんが、よせって、と失笑しながらもう一人の肩を引っ張った。 「おいおい、だーめだってぇ、やめとけってェ。いやぁ、すいませんねぇ」 「三万っっっ。なあっ、一晩三万でどォ、お姉ひゃぁぁあん」 「バカ言ってんじゃないよ。今どきの女の子はよォ、三万ぽっちじゃ買わせてくんねえよ。 ねえ、どうだいあんた、五万でどうだい。五万なら好きなだけ遊ばせてくれるよなぁ、ねーえ、お姉ちゃん」 「は、はぁ。いや、あの。あはは、ご、五万て・・・・・・・や、あたし、そーいうのは、ちょっとぉ・・・・・」 セクハラコントを苦笑いで凌ぎながら、どうしようかなと困っていると おじさんたちは赤い顔でにたにた笑って、危なっかしい足取りで迫ってくる。 ・・・・・どうしよう。たぶん泥酔して気が大きくなっているだけで、たいして悪気はなさそうな人達なんだけど。 あたしは仕方なく、じりっと一歩下がった。 すると、土方さんが無言であたしとおじさんたちの間にすっと割って入って。 おじさんたちはぴたりと立ち止まり、揃って興覚めした顔になった。 「ぁんだよォ、お兄ちゃん。冗談じゃねえかよ。そんなに怒んねえでくれよう。あーあァ、怖い怖い」 うひゃひゃひゃひゃ、と下世話な笑い声を夜道いっぱいに振り撒きながら、おじさんはもう一人の肩を抱いて よろよろと、飲み屋街へと向って行った。二人が遠ざかってから振り返った土方さんが、あたしの目の前を塞ぐ。 なんとなくその顔を見上げて、悲鳴を上げそうになるくらいぞっとして。身体がカチンと凍りついた。 ちょっとしたホラーだ。暗い中に立ちはだかった副長さまが、頭からブスブスと煙が吹き出していそうな怖い顔になっている。 眉間を寄せて凄むと「馬鹿かてめえは」と吐き捨てて一発、あたしに拳骨を振り下ろす。 「色ボケジジイにヘラヘラと、無駄な愛想振り撒きやがって・・・!」 「痛ぁいっ」とわめく間もなく怒鳴られる。 怒鳴り声と同時でさらに一発、頭にガツンと重たい拳が落ちてきた。 「ほら見ろ、しっかり絡まれてんじゃねえか!だから俺ァんな恰好で出て来んなって言ってんだ。 世の中にはなぁ、物好きの類だって少なかねえんだぞ。てめえみてえな色気無しのガキでも、色目で眺める勘違い野郎が」 じんじん痛む頭を抱えて涙目になりながら、まだ拳骨を握りしめてるひとを黙って睨む。 痛い。泣きたくなるくらい痛い。おじさんたちがいなくなったことにほっとして、すっかり気を抜いていたし、 まさかここでいきなり殴られるなんて予想してなかったから、突然落ちてきた拳骨二発はめちゃくちゃに痛かった。 「俺ぁなァ、別にお前のガキくせえ浴衣がどうこう言ってんじゃねえ。 風呂上りの寝間着姿で暗れェ中の一人歩きが問題だって言ってんだ。だいたいてめえは、自覚ってもんが―――」 あ。まただ。また言われた。ここを歩いてた短い時間だけで、もう何回言われたんだろう。 「ガキ」「ガキくさい」さっきはダメ押しで「色気無しのガキ」とまで言われたし。 いつもよりしつこい感じがするのは、・・・まあ、酔っ払いの説教だから仕方ない。そこは目を瞑るけど。 それにしたって酷い。だって、口を開けばそればっかりじゃない。 そりゃああたしだって自覚はある。自分が年の割に子供っぽくて、色気がないのは自覚してるけどさ。 でも。自分でそう思ってるのと、それを好きなひとから直接ガミガミと指摘されるのとじゃ、・・・・・・・・・・・・・・・・。 「―――おい。わかってんのか。つーかてめぇ、聞いてんのかコラ」 「・・・・・そーですねぇ。ええ、そうですよそうですとも。認めますよ。どうせあたしなんて。・・・どうせ、その通りですよっ」 「あぁ?」 「そんなこと、土方さんに言われなくたってわかってますよぉ。どーせあたしはいつまでたってもガキくさいままですよ。 どーせどこにもありませんよっ。・・・・・・胸を張って人に自慢出来るような、色気なんて。・・・・・・・」 情けない。 夜中とはいえ、まだ人通りの多い街中でこんなことを言ってる自分が、泣けてくるほど情けない。 だって、そんなのあんまりだ、と思ったら、急にすごく泣きたくなって。 途中で思わず涙声になって、言葉が続かなくなってしまった。 とはいえあたしだって、ガキくさい浴衣はともかく、自分のカラダの出来具合いを泣きたくなるほどに卑下してるわけじゃない。 この際だから白状してしまうけど、たまに鏡を眺めて「まあまあ、そこそこじゃないのかな」と自惚れたりすることだってある。 でも。だからって。男のひとをメロメロにさせるような色気があたしにあるかどうかというと、それは全く別の話で。 ・・・・・・・鏡の中に映る自分を舐めるようにじっくりと眺め回して、必死に探してみても 「あれっ。でも。これは意外とイケるかも!」・・・なーんて驚いてしまうような、はっとするような色香漂う自分を 発見した試しはない。悲しいことに、ただの一度も。 でも。でもさ。だからって何よ。この致命的な色気のなさをあたしにどうしろっていうのよ。 どうせ色気はありませんよ、ガキですよ子供ですよ。ええ認めますよ認めますとも、でも、それが何か!!!? だって仕方ないじゃん。女の子の色気なんて、努力や訓練だけで身につくものじゃないんだもん。 才能と同じで、それこそ天性のものじゃない。だいたい、峰不二子的な☆姉妹的なフェロモン爆弾的な、 セクシーダイナマイトな魅力や色っぽさがあたしにあれば、こんな苦労はしてないっつーの。 そんな素敵な特殊装備が備わってたら、こんな人生送ってないっつーの。 これまで付き合ってきた人たちにことごとく捨てられ続けてきた、聞くも無残、語るも無残の 「涙なしには語れない貢がされ女人生」なんて!! どんどんエスカレートしていくムカつきが(ヤケクソとも言う)収まらなくなったあたしは、勢いよく顔を上げた。 涙のたっぷり溜まった目で恨めしげに睨んだら、土方さんは「うっ」と呻いて言葉を詰まらせた。 きまりの悪そうな顔になって、じりっと一歩後ずさって構える。 「なっっ。ぁんだコラ。文句でもあんのか!?・・・・・・・ま。まさかケンカ売ろうって気じゃねえだろな」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「いや。俺ァその、別に。・・・てめえの恰好がどーだろーと、・・・・・・・・・ ともかく、てめえの恰好はともかくとしてだ。つ、つまり。あれだ、その、少しは防犯意識ってもんを」 「あたしはコンビニに用があるので、副長さまは先に帰ってゆっくりお休みください。 どうぞご心配なく。平気ですから。夜道で痴漢が寄ってくるほどの色気なんて、どこにもありませんからああぁ!!」 「あァ!?・・・・・っっておいィ!どこ行く気だ!?つーかそっち行ってどーすんだ!?コンビニなんてねーだろーがァァ!!」 どうせ土方さんが後ろで何か怒鳴ってるんだろーけど、もう知らない。 耳を手で抑えてるからもう何も聞こえない。てゆうか聞きたくない。 あああああ。もうイヤ。もう聞きたくないっ。色気がどうとかガキくさいとか、そんな言葉、もう聞きたくない! しかも土方さんに言われると、他の人に言われる以上にグサッと心臓に突き刺さる。 それこそさっきのおじさん達のセクハラ以上にNGワードなのに!! 「おい。そこのバカ。」 後ろから呼びかけてくる不満そうな声は、どれだけ急いでもぴったりと後をついてきた。 カラカラと下駄を甲高く鳴らしながら、あたしは出てきた時と同じように屯所の門を小走りに抜ける。 門前から玄関までを脇目もふらずに突っ切る。飛び込んだ薄暗い玄関の三和土で 足を勢いよく振り上げて下駄を脱ぎ散らす。大きく弧を描いて宙を飛んだ片方は、まるで狙い澄ましたかのように 後ろから来たひとの目の前に落ちて弾んだ。 「いい加減に返事くれえしろ。聞こえねえのか。返事しろって言ってんだろバカ女。止まれバカ。ガキくせえ浴衣着たそこのバカ」 「誰のことですか。まさかあたしに言ってるんじゃないですよね」 「やっぱ聞こえてんじゃねーか」 ったく、と苦々しい顔でつぶやいて、あたしの下駄を横に蹴り飛ばす。 カタカタと転がった下駄は、三和土の隅まで追いやられた。 腰を下ろしてブーツを脱ぎながら、土方さんはあたしを見上げる。いまいましそうにじろりと睨んだ。 「いつまで機嫌損ねてやがる気だ」 「損ねてませんよ。あたしはただ、部下として気を遣ってるだけです」 「フン、そうかよ。てめえに気遣われるようじゃ、俺もお終いだな」 「御冗談はよしてください。これでも反省してるんですよ。部下として立場をわきまえないといけないなあって。 あたしみたいなガキくさい浴衣着た、色気のかけらもないバカな女が、ご立派な副長さまの傍をウロウロして ご高名に泥を塗るわけにはいきませんからぁ」 うんと皮肉たっぷりに、けれど笑顔で、あたしはスラスラと答えた。 最後に「お疲れさまでした」と付け加えて、隅っこに蹴られた下駄を拾いに走る。 裸足で隅までたたっと走って、拾った下駄を下足棚に放り込んで、黙って立っている土方さんの横を通り抜けようとしたら。 バンッ、と大きな音と同時に、目の前を何かが遮った。 白塗りの古い土壁にヒビが入りそうな勢いで叩きつけた手に、前を遮られた。目の前に腕を突き出されてる。 えっ、と驚いて目を瞬かせた時には、壁に手を突いた土方さんの両腕で身体が挟まれていた。 「このくれえで拗ねるな。だからガキだってえんだ、てめえは」 ドスの効いた凄味のある声が、深くうつむいて表情がよく見えない顔の口許から、ぼそぼそっ、と吐き出される。 ぎょっとしたあたしは借りたDVDを手から落とした。まるで大敵に怯えるヤモリか何かのように、壁にびたっと張り付いた。 逃げられる場所がそこしかなかったからだ。 顔を見るのも怖いから、手で頭を覆って土方さんに背を向ける。 ど、どどど、どうしよう・・・!また殴られる。いや、それともこれって、殴られるだけで済めばまだマシなほう!? 青ざめた顔に冷汗を流しながら、あたしはいつ来るか今来るか、と、ビクビクしながら鉄拳制裁を待った。 無言で片手があたしの肩を掴んだ。続いてもう片手が、もう一方の肩を。 「逃げんじゃねえぞコルァ」とばかりに両肩が、がしっと固定され。 「・・・・もしかして頭突き!?えっっ、それとも蹴り!!?」と、これから始まるはずの攻撃に震え上がったあたしは、 それでも後ろへ振り向こうとした。よせばいいのに、つい、怖いもの見たさというかなんというか――― ようするに、背中から迫られる怖さを我慢出来なかっただけなんだけど―――ところが。 「・・・・・・・・・・・・・・・・ったくよォ。お前の耳は。節穴どころか。一体何を聞いてんだ、何を」 ごつん、と、頭の上に重たい何かをぶつけられた。ていうか、重たい何かが乗せられた。 乗せられたものが何なのかが判った瞬間、思わずぽかんと口が開いた。 酔っ払いがいったい何を思ったのか、いったい何の悪ふざけなのか。土方さんは、あたしの頭に顎を乗せてきたのだ。 さらに、その腕が。あたしの首に回って来て、ぎゅっと巻きついて。 大きな身体が背中から、のしっと体重を預けて抱きついてくる。 突然の重さで身体が沈む。膝が、がくん、と折れそうになる。はっとして踏みとどまって、うろたえたあたしは 裏返った声で叫んだ。 「な。なな。何で、何、え、や、ひっ、土方さ・・・・・!!!?ななな、何してっっ」 「だから。・・・・・・・・あれじゃねーか。あれだろーが。俺ァハナから言ってんだろーが。 ・・・・おい、。お前、わかってんのか。誰が悪りィんだ誰が。てめえが逃げっから、・・・・・・・」 低くて抑揚のない、いかにもだるそうな声でポツポツとつぶやいて。なぜか土方さんは黙り込んだ。 抱きつかれた背中が熱い。耳元に吐息が当たる。巻きつけられた腕のおかげで、首が締まって呼吸が苦しい。 お酒の匂いが。煙草の匂いが。土方さんの身体の重さや体温と一緒に、身体に纏わりついてくる。 急に抱きつかれて、わけがわからなくて、でも、抱きつかれたのは嫌じゃなくて。 もう、何をどう言ってどうしたらいいのかわからない。 ・・・・・わかってるのは、心臓がもうすぐ壊れるんじゃないかってくらいにドキドキしてることくらいだ。 じたばたと身体を揺すって、巻きついた腕を引き剥がそうと奮闘しながら、なんとか振り向こうとした。 なのに「こっち向くんじゃねえ」と頭をベシッと叩かれ、後ろ頭をグリグリ小突かれる。 「・・・・・・・・バ―――カ。放っとけるかよ」 「えっっ。ひゃ、や、ややや!?」 「んな遅せェ時間に。短けェ浴衣で。うろうろと。 ぁにがおやすみなさいだ。女が夜中に。一人で。夜道に風呂上りの匂い振り撒いてんじゃねえ。 どうせ、んなもんはなぁ、てめえを見過ごして、部屋で布団に入ったところで。どうせ。・・・・・・・・眠れたもんじゃねえんだ」 「うぁあ!?や、ちょっ、おおお重っ」 抱きついてる身体が急に、ずん、と重みを増して、肩にぐったり圧し掛かってくる。 あたしは独り言をつぶやき続ける酔っ払いを背負ったままで、がくん、と膝を折った。 後はただ、呆然としながら、へなへなと、なし崩しに。玄関の床にしゃがみ込むしかなかった。 「・・・放っておけるか。お前が。放っといたところで何の心配もいらねえ、どこにも見所の無え女なら。 ・・・誰が。わざわざ、・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 声が少しずつ小さくなっていって、最後には何も聞こえなくなった。 誰も通らない廊下も、誰も入って来ない玄関も。しんと静まり返っていて、空気すら動かない。 身じろぎも出来なくて、あたしはしばらく壁と土方さんに挟まれたままになっていた。 どうしようかと迷っていると、背中のあたりから微かに寝息が聞こえてくる。 「ひ。土方、さん?・・・・・あの。ねえ。だめですよ、こんなところで寝たら。ねえ。起きて、・・・・・・・」 着物を通して背中にに染みる寝息が、すごく深い。 駄目だ、ぐっすり眠っちゃってる。 さすがに外じゃ平気そうに歩いてたけど。用心深いこのひとが、まさかこんな場所で熟睡するなんて。 本当に眠さの限界だったんだ。 「・・・・・・・・・・・何それ。バカみたい」 口をめいっぱい尖らせて、うんと拗ねた声でつぶやいた。 もぞもぞと身を捩って、ゆっくり、少しずつ身体の向きを変える。 180度方向転換。寝ているひとと向き合うと、伏せた頭はちょうどあたしの肩に乗ってきた。 肩にだらりと乗った腕の重みも、圧し掛かってくる頭の重みも。ぐったりとあたしに預けられて、身体ごともたれている。 「・・・・・・どうしてそれを先に言ってくれないんですかぁ」 耳元で文句をつけてみても、土方さんは動かない。 急に電池が切れたみたいに、びくりともしない。 起こさないように気をつけて肩を支えながら、もぞもぞと身体をずらして、少しずつ頭を倒す。 途中で抑えた手が滑りそうになったり、男のひとの骨太な重さに苦労しながら、揃えた太腿の上になんとか頭を下ろした。 眉間に少し皺を寄せた、しっかりと目を閉じた横顔。 眠ってるのに険しくて、眠ってるのにどこか苦しそうな顔だ。 「・・・やっぱり似てない。顎の線と声はすごく似てるのに」と、さっき見た映画の俳優さんの顔を思い返しながら。 少しの間、初めて見る無防備な寝顔にぼうっと見蕩れていた。 まっすぐに続く廊下の、ずっと奥。 この棟の突き当たりに、わずかな灯りが漏れている。廊下の床板をそこだけ光らせていた。 微かな笑い声が重なり合って響いてくる。どこかの部屋に集まって、騒いでいる人達がいるみたいだ。 あたしは顔を上げて、薄暗い玄関前から廊下の方をそっと覗いた。 薄暗い廊下と玄関の外を交互に何度も振り向いて、誰にも見られていないことを繰り返し確かめてから 眠っているひとの頭の天辺に、胸を高鳴らせながらちょっとだけ触れる。硬めの毛先に、ざわっと手のひらをくすぐられた。 隊服と同じ深い黒の髪。頭の天辺のあたりを、そっと撫でてみる。 撫でた瞬間、とくん、と大きく心臓が弾んだ。 撫でられたひとは、何にも知らずに眠ってるのに。 バカみたい。なんだか悔しい。 どきっとさせられた腹いせに、小声でもう一度「バカ」とつぶやいた。 バカみたい。このひとは、どうして気づかないんだろう。 言ってくれたらいいのに。 たったひとことでいいのに。 行くな、って。こんな時間に出歩くな、って。出歩かれると心配だ、って。 どんなに素っ気ない態度でも、あなたがそう言ってくれたら。 それだけでいいのに。それだけで土方さんは、簡単にあたしを屯所に引き戻せるのに。 けれど、このひとは。これからもずっと、気付かないんだろう。 心配されたことに気づいて嬉しくなる理由も。子供扱いされて傷つく理由も。 たったそれだけのことに一喜一憂しているあたしの気持ちも。 まして、このひとが何気なく口にした言葉や、今はもう忘れてしまっているような、小さくてつまらない出来事が あたしの中では、どんなに大きく響いているのかなんて。 鬼の副長なんて厳めしい通り名で呼ばれて。 気の荒い男のひとばかり集まるこの屯所の中を一手に束ねて。 仕事中ならどんな難しい事件の最中にいても、何があっても頼りになる。いつだって冷静な顔を崩さない。 あたしよりずっと大人で、鋼のように芯が強いひと。 そんな土方さんだって、こういうところは相当にバカだ。意地っ張りだしすぐムキになるし、子供みたいなところもある。 だけど。あたしは、このひとよりももっとバカだから。もっとバカで子供で、弱いから。 ほんとうは怖い。こうしているのが怖い。 こうしてずっと触れ続けているのは怖い。 手を離したくなくなるのが怖い。 膝に沈む頭の重さや、着物越しに伝わってくる、このひとの温かさを。少し湯冷めした薄着の身体に染み込ませたら。 これから先も忘れられなくなってしまう。きっとまた、触れたくなる。 「・・・・・・・・・・。バカみたい。」 小声でもう一度繰り返す。 少し硬めな髪の感触を惜しみながら、ゆっくり手を離した。 けれど、ここから動けない。声を掛けて起こせばいいのに、そうしなかった。 黙って寝顔を見つめるだけで、どうにも出来ずに。 薄暗くてしんとした玄関に座ったままで、じれったさに身体を苛まれるような時間が もどかしく過ぎていく感覚に浸っていた。 あと十分。ううん、五分でもいい。せめてこのひとが起きるまででいい。ここを動きたくなくかった。 薄暗い廊下の一番奥。 どこかの部屋に灯った明りに照らされて、ぼんやりと光る向こうから。 誰かの楽しそうな笑い声が、ざわざわと漂ってここまで届く。 その声を聞いたら、なんだかひどく淋しくなって。あたしは結局、また。触れてはいけない髪に手を伸ばした。 明日になればきっと後悔するのに。手のひらに残った、泣きたくなるほどくすぐったいこの温かさを。

「 染みる体温 」 text by riliri Caramelization 2009/11/27/ ----------------------------------------------------------------------------------- 10万打企画物。No.5で「主人公のことが大好きなのに気づいてもらえない→せつない土方」「ちょっとなさけない土方さん」「主人公に ハラハラさせられる」等のリクエストを元に書かせていただきました 柚香さま 千夜さま 匿名リク主さま ありがとうございました!! この後 偶然ザキが帰ってきて玄関に → 寝ちゃった副長を二人で部屋まで運ぶ → 翌朝 覚えてないフリをする副長と 何もなかったフリをする主人公→ お互い意識しちゃって余計ぎくしゃくする → 二人を影から眺めて面白がるザキ…てのはどーでしょーか