I fall into “ SO BLUE ”



足が止まった。 耳に充てたヘッドフォンから流れ込んでいる歌が、一瞬だけ聞こえなくなった。 バイト帰りに、偶然土方さんを見掛けた。 夕方の繁華街。 飲み屋の立ち並ぶ大通りに、あのひとと他の隊士たちがいた。 何か事件があったのかもしれない。 隊士の人数がやたらと多くて、パトカーも数台停まっていた。 あのひとを囲んでいるのは、遠目に見ても華やかな女性の集団。 たぶん、あのあたりにある会員制高級クラブのお姉様たち。 まだ隊士だったころ、一度だけその店に入ったことがある。 松平のとっつあんのお伴で近藤さんが呼ばれて、ついでだからとあたしまで入らせてもらった。 気品高いお姉様たちにすっかり気後れしてしまったあたしは 何を飲んだのかもどんな話をしたのかも、とっつあんがドンペリを何本開けたのかも覚えていない。 あの夜目にしたことで、今でもはっきり覚えていることはひとつだけ。 ただ黙って、仏頂面で飲んでるだけの土方さん。 その周りに、お姉様たちが吸い寄せられるように集まってくる。 あっちのテーブルから一人。こっちのテーブルからもまた一人。 ひらひらと、蜜を求める蝶のように。 その夜あたしは、枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。 泣くつもりなんて全然なかった。 飲みなれない高価いお酒でフラフラになって、総悟に支えられて。 屯所に着いたときのあたしはまだケラケラ笑い続けていて、煩い、とあのひとを怒らせた。 なのに、部屋でひとりになったとたんに、涙が止まらなくなった。 あのときはまだ、完全なあたしの片思いで終わると思ってた。 いくらこのひとを追いかけても、きっと相手にすらしてもらえない。 そう思うのに、あきらめきれなくて。こっそり泣いて紛らわすしかなかった。 女扱いすらしてもらえない自分の立場を、一晩かけて味わうしかなかった。 いつのまにか通りに立ち止まっていた。 いつのまにか目が離せなくなっていた。 あんな綺麗なひとたちに囲まれた土方さんなんて、見たくない。 なのに目を逸らせない。ここを離れることも出来なかった。 ただ突っ立って、あのひとを見ているあたし。 バイト帰りで普段着。もちろんお姉様たちの高級和服と違って、バーゲンで買った安物。 しかも、今日の着物は「ガキじゃねえんだからよ」といつも嫌な顔をされるミニ丈。 綺麗な着物をしっとり着こなしたお姉様たちとは、雲泥の差。 なんとなく気になって、着物の裾を掴んでみる。 ちょっと引っ張ってみる。 引っ張ったからって、丈が伸びるはずもないのに。 「・・・・土方の馬鹿・・・」 つぶやいたひとりごとが、通りの石敷きに落ちる。 ヘッドフォンから出てくる音の大きさが煩わしい。 さっきまでは心地よかったこの曲。 ヴォーカルの女の子の、透きとおるような高音の声にさえ胸が騒ぐ。 こんな気持ちになるのは、初めてじゃない。 なのに、いつも同じように嫉妬する。悲しくなる。 悔しくなってしまう。何をされたわけでもないのに、ひとりで勝手にさみしくなって。 土方さんはもうあたしの彼氏じゃない。 あのひとが誰といても、何も言えない。 誰と付き合うことになっても、黙って見ているしかない。 自分から別れるって言い出したあたしに出来るのは、笑って「おめでとう」を言うくらい。 たとえばあの綺麗な夜の蝶たちの中から、あのひとが特別に素敵な誰かを選んだとしても、 あたしはそれを黙って見てているしかない。 枕に顔を押し付けて、一晩泣いて。自分の愚かさを、弱さを呪うしかない。 あのひとは、どんなふうに切り出すだろう。 「女が出来た」と告げられるのか。 それとも、他の誰かの口から。 いつかはその日が来る。それは知っているのに、あたしの心はずっとその日が来るのを拒んでる。 もしその日が今日だったら、 きっとあたしの耳は、聞かされた言葉を受け入れようとしないだろう。 目の前が夜に包まれたみたいに暗くなって、苦しくなって。 何も受け入れられなくて、耳元から流れる音で頭を埋め尽くして。 ただ立っているだけで精一杯かもしれない。 こんなことだったら、せめて彼女だったうちに言っておけばよかった。 いつも言えなかった、心の狭さをさらけ出してしまう情けない本音。 「他の女のひとと並ぶ土方さんを見ると、さみしくなる」って。 今になってこんなことを思っても、もう遅い。 彼女だったときに言えたことが、今は言えない。 もう彼女じゃないんだもん。他の我侭は言えても、こういう我侭は言えない。 あたしが前と同じようにあのひとを好きでいても、あのひとが前と同じように会ってくれても。 もう前とは違う。 もうあたしは、あのひとの彼女じゃないから。 重い足を引きずって、一歩踏み出す。 ずれてきたヘッドフォンを直しながら、土方さんたちに背を向けた。 ボリュームを上げる。頭の中を、耳を塞ぐ大きな音で一杯にする。 他のことを考えなくても済むように。 あんなに心地よかった女の子の透明な声が、今は苦しい。 これから広がる重苦しい夜に沈められる。引きずり込まれる。 そんな声に聴こえてしまう。 急に頭が軽くなった。 つけていたヘッドフォンが外された。 背後から来た誰かの手が、ヘッドフォンを取り上げた。 大音量と暖かさに覆われていた耳がすっと冷える。 日暮れの冷え始めた空気に。周りの騒音に、晒される。 「おい。止まれ」 背後から響いた声が、耳を奪う。 「逃げんじゃねえよ」 投げられた声は、振り向かないあたしに苛立っている。 立ち止まった。 その声に唇を噛んだ。 動けない。 後ろから引っ張られるヘッドフォンのラインが、ぴんと張りつめてあたしを進ませてくれない。 土方さんを囲むひとたちの陰に隠れているつもりだった。 気づかれていないと思ってた。 けれど、向こうもこっちを見ていたらしい。 「逃げてないです。そっちこそ何するんですか。離してよ」 後ろにいるひとには振り向かなかった。 ラインを掴んで、思い切り引いた。 「職質だ職質。膨れたツラでこっち見てる怪しい女が、目の前で堂々と逃げやがった」 「逃げてません膨れてないし!」 「ウソつけ。誰が逃げてねえだ?どー見ても逃げてんだろ。どー見ても膨れてんじゃねえか」 「・・・ウソつけ。誰が警官?どー見てもヤクザでしょ?どー見ても人浚いじゃん!」 周りを歩く人たちが、皆こっちを眺めている。 誰も近寄ろうとはしないけれど。 何事かと思いながらも、やることが荒いと評判の真選組の制服を遠巻きにしているんだろう。 だからあたしは、わざと声を張り上げた。早く解放されたかった。 土方さんはあたしの横に回り込んだ。 見上げると、怒ったような、呆れたような顔で睨んでくる。 「バカ、声下げろ。デケェんだよ」 顔をめがけて広げられた土方さんの手の平が、あたしの口を覆う。 温かい手から、煙草の匂いが漂った。 苛々した顔。口許が大きく曲がって不機嫌そう。 咥えた煙草にはまだ火が点いていない。 さっきはまだ手にすら持っていなかったから、あたしを追いかける間に出したんだろう。 お姉様たちの前だから、吸うのを控えていたのかもしれない。 「何しに来たんですか、不良警官。こんなに堂々と職務放棄してていいんですか」 「どこが職務放棄だ。職質だっつってんだろ。お前こそ何で逃げる」 「だから。逃げてないってば」 「どうせまた、馬鹿な勘違いしてんだろ」 土方さんは何か見越したような目でこっちをじっと見ている。 しばらくして、あたしの口から手を離した。 ヘッドフォンを返してもらおうと手を伸ばしたけれど、その手は無言で遮られた。 すんなり返してくれる気はないらしい。 自分の首にヘッドフォンを掛けると、土方さんはだるそうに溜息をついた。 「目が腫れ上がってたじゃねえか。あの店に行った、次の日。」 そう言うと、土方さんは黙った。 あたしも何も返さなかった。返す言葉が出てこなかった。 あのときとっくに見抜かれていたなんて、知らなかったから。 土方さんが、黙ってあたしの様子を窺っている。 何か探るような気配が、探られたくないあたしの身体を硬くする。 うつむくと、短い着物の裾が目に入った。 その裾を掴みかけて、手を止める。 さっきも試してみたこと。いくら引っ張ったって裾は伸びない。 それなのに、この手は勝手に動いた。 しっとりと綺麗なあの着物姿たちが、ふと浮かぶ。 なんだかみじめな気持ちになった。 「・・・何のことですか?」 あたしたちの間にゆるく垂れている、ヘッドフォンの黒いライン。 手にしたそれを、強く引いた。 「ただ、仕事の邪魔しちゃ悪いと思っただけだし。 土方さん一人じゃないし、他のみんなもいるし。・・・ちょっと遠慮しただけです。 それだけだもん。・・・土方さんが自意識過剰なんじゃないの。」 隊服の懐に手が伸びる。 大きな手が、そこからライターを取り出した。 「そーかよ」 咥えた煙草に火が点る。 首からヘッドフォンを外すと、土方さんはそれを放った。 あたしは黙ってそれを受け止めた。 伏せられた目は、もうあたしを睨んではいない。 けれど、もうこっちに目を向けることもなかった。 「職質終了だ。さっさと帰れ」 土方さんが背を向ける。 早足で現場へ戻っていく。 煙草の匂いが、その後を追うようにして離れていった。 隊服の背中が、どんどん遠ざかる。 手の中で鳴るヘッドフォンが揺れている。 ドラムの音が喚いている。 振動を起こして揺れている。びりびりと揺れる。 振り向いて。 もう一度、こっちを見て。 あたしを見て。 なんて身勝手な願いだろう。 自分でも半分呆れながら、心の中でつぶやいた。 心の中でつぶやく声は、今にも泣きそうだった。 たぶん今、あたしの顔も泣きそうになってる。目元がじわっと熱くなって、緩んでいた。 たぶんまた電話は来る。 たぶん数日経たないうちに、土方さんの声が聴ける。 あの大きな手に触れて。またくだらないことで叱られて、笑って、隣で眠る。 これが最後なんかじゃない。 たったこれだけで縁を切られるようなことはない。 態度はいつも素っ気無い。けれど、そんな仕打ちをするようなひとじゃない。 あの朝。 腫れてしまった目が気になって、あたしはずっとうつむいていた。 人目が気になって、仕方なかった。誰とも目を合わせずにいた。 そんなことをしたらよけいに不自然なのに。わかっていても、顔が上げられなかった。 「もうてめえとは当分飲みに行かねえ」 後ろから、不機嫌そうな声がした。 「昼までに片付けろ」と書類の束を押し付けると、そのまま近藤さんのところへ行ってしまった。 たったひとことぼやいただけ。こっちを見ようともしなかった。 いつもどおりの素っ気の無さにも、気づかれなかったことにもほっとした。 あたしだって忘れかけていた、ほんの些細なこと。 なのにあのひとは、ずっと覚えてくれていた。 何も見なかったような顔をして、ずっと覚えていてくれた。 わかってる。これが最後じゃない。 わかっているのに。 あたしは、どうして。 いつのまにか走っていた。 首に掛けたヘッドフォンが頬に当たる。 そこから流れる女の子の高い声も、動きにつれて弾む。 何も言わずに、隊服の背中を掴んだ。 土方さんが立ち止まる。 大きく息を吐いて、肩を落とした。 「んだよテメ、寄ってきゃ逃げる、戻りゃ引き止める。いったいどうしてえんだ・・・」 苛々と振り返った顔に、いきなり手を伸ばした。 ふと息を詰めた土方さんの視線が、あたしの顔に注がれる。 咥えていた煙草を取り上げて、それを地面に落とした。 何も言わずに唇に触れる。指先でそっと、温かいそこをなぞる。 背伸びをして、土方さんの胸のあたりをぎゅっと引っ張った。 目を細めて何も言わない。動かない土方さんに、顔を近づける。 自分から、しかも人前でこんな真似。 今まで一遍だってしたことがない。 どうしてなのか、わからない。でも、どうしてもそうしたかった。 このひとに触れたい。急にこのひとに触れたくなってしまった。 「やめろ」 唇が届く寸前。 ぶっきらぼうな声が、あたしを遮った。 その声で目が醒めた。大きく瞬きをした。 見上げた土方さんは、目を細めたまま不機嫌そうな顔をしている。 頬に触れるヘッドフォンから、耳障りな大きな音が漏れている。 身体が竦んだ。 ちいさな地震みたい。 眩暈がして、身体が揺れる。 自分のしたことが急に恥ずかしくなった。 どうしたらいいのかわからない。 ゆらゆらと目を泳がせながら、顔を逸らす。そのまま後ろへ下がった。 なぜか、土方さんもこっちへ踏み出す。 あたしの肩を片手で掴むと、無造作に後ろに押す。 押されるままに数歩下がる。背中が何かに押し付けられた。 振り返って見る。 背中に当たったのは、通りに面したビルの壁。 「」 名前を呼ばれて、反射的に振り返った。 振り返ったあたしの肩を、土方さんが下へ押す。 「座れ」 言われたとおりに、その場に崩れてしゃがんだ。 急に身体がだるくなって、足から力が抜けて。 このまま顔を埋めて泣いてしまいたい。 だけど出来ない。我慢しようと唇を噛んだ。 そんな姿を見せるのは嫌だ。このひとには見せたくない。 土方さんの手が、首からヘッドフォンを取り上げた。 それを地面に放り出して目の前にしゃがむと、いきなりあたしの頬を両手で挟んだ。 挟まれた頬は、大きな手に軽く持ち上げられて。 土方さんは何も言わなかった。だけど、あたしは自然と目を閉じていた。 そのまま唇が重ねられた。 暖かさに包まれた身体から、力が抜けていく。いつのまにか地面に座り込んでいた。 身体が急に熱くなる。触れられている頬はもっと熱い。 暗闇の中で、土方さんの気配を追う。 やわらかく重ねただけの唇から。 あたしの頬を持ち上げる手から。 しがみつくように握りしめた隊服の胸から届く、煙草の匂いを辿って。 ただ触れただけの唇は、すぐに離れていった。 そっと目を開けた。 何も無かったかのような無表情さ。 土方さんが、真正面からこっちを見ている。 こんなキスの後でそんな冷静な、探るような目をされるのはすごく居心地が悪い。 恥ずかしくなって顔を逸らした。 ヘッドフォンが、足元から大きな音を響かせている。 それを拾い上げると、土方さんはあたしの腕に引っ掛けて持たせた。 そのまま腕を引かれて、一緒に立ち上がる。 「だから隙だらけだってんだ、お前は。ちったァ周りに気ィつけろ」 「え・・・?」 「見てんだろ。クソガキが」 顎で指したのは、パトカーのほう。 目を凝らしてよく見たら、その中には総悟がいた。 頭の後ろで手を組んで、助手席のシートにもたれてこっちを見ている。 座れと言われた理由は、総悟の視線だったらしい。 あたしたちがしゃがみこんでいた場所とパトカーの間には、お店の看板が置かれている。 あの看板が、パトカーからの視線を遮っていたんだろう。 「あのヤローに連続でサービスしてたまるか。冗談じゃねェ」 あたしの顎に指をかける。 すこし上向かせて、意地の悪そうな顔で覗き込んだ。 「こんなツラ、わざわざ見せてやるこたねえだろ。ガキにゃまだ早ェ」 そんなことを目の前で言われると、頬がもっと熱くなってしまう。 なんだかすこし悔しくなって、あたしは口を尖らせた。 「・・・・総悟以外には見えてるのに」 「細かいこたァ気にすんな」 どうでもいいとばかりに言い切られる。 あたしは顔に疑問を浮かべて、土方さんを見上げた。 総悟に見られるのは絶対にダメ。なのに、他の人ならどれだけ見られようと構わないらしい。 このひとの不思議なところだ。 拘るところには、神経質なくらいに細かく拘る。 なのに、それ以外には極端なくらいに構わない。 ときどき、こっちが驚いて言葉も失くすようなことをすごく唐突にしてみせる。 しかも本人は平気な顔だ。 あの大胆さと精密さの使い分けの基準点って、どこにあるんだろう。 どこからがダメで、どこからが構わないのか。聞いたところで、あたしには理解出来なさそうだけれど。 「・・・いいのかなあ。オマワリさんが街中で、一般市民にこんなことして」 「オマワリさんだってたまには息抜きくれえする。」 「息抜きって・・・なにそれ。人を煙草と同じ扱いにしないでください」 「何言ってやがる。・・・おい。他に、どこでどうしろってんだ。」 土方さんの指が動いて、あたしの頬をぎゅっと押した。 その指先がすこしだけ痛かった。 目の前に立っているひとは、黙ってあたしの答えを待っている。 鋭い眼差しはこっちをじっと見ている。 なのにあたしは、何も答えられない。 どこにも行ってほしくない。誰のところにも行ってほしくない。 あたしの傍にいてほしい。 そう言いたかった。 でも、言えない。 あたしにはもう、このひとにそんなことを言う資格が無い。 何も言わずに、目の前の唇に触れた。 そこに移っていた口紅を、指先で拭き取ろうとする。 半分拭ったところで止められた。 「もういい」 「でも。まだついてるよ」 「いーんだよ。あのクソガキの前で拭いてやる」 土方さんはパトカーのほうに目を向けた。 淡いピンクの紅を口端に少し残したままで、ふっと笑った口許が歪む。 鋭い目が、暗い色に光った。 これが市民の安全を護るオマワリさんの顔とは、とうてい思えない。 妙に楽しそうにも見えるし、企んでるみたいにも見える。 それを見た総悟がどんな顔をするのかが、そんなに楽しみなんだろうか。 「・・・なにそれ。コドモみたい」 わざとらしく口許を拭う土方さんと、その仕草を目にする総悟。 それを想像したら、なんだかおかしくなってしまった。クスクスと笑った。 「うっせえ」 目を伏せて、つられたように一瞬だけ笑う。 その顔は、やっぱりオマワリさんの顔とは思えないふてぶてしさ。 だけどあたしは、このひとのこんな顔を見るのが好き。 つい嬉しくなってまた笑ってしまう。 「・・・早く仕事に戻ってください、不良警官」 「お前こそさっさと帰れ、不良娘」 ポケットに手を突っ込んで、土方さんが歩き出す。 離れていく背中を、あたしはそこから見送った。 振り向いて。 もう一度、こっちを見て。 あの背中を追わずにいられなくなるような、迸るような衝動はもう消えてしまった。 なのにあたしは、さっきと同じことを心で唱えていた。 まるで子供だ。 口に出したら自己嫌悪でいっぱいになってしまいそうな、勝手な願い。 こんな気持ちは、あのひとの邪魔をすることにしかならない。 なのに、手を伸ばしたくなる。 また追いかけたくなる。 どうしてこんなに不安になっているんだろう。 どうしてあたしの心は、こんなに不安定なのか。 いつまでこんな、弱い気持ちをひきずって。あのひとにしがみついて邪魔しているの。 夕日がビルの向こうに沈みかけている。 あたりはすっかり影の中に暗く落ちて、車に乗り込む土方さんの姿はよく見えなかった。 さっき浮かべたはずの笑顔は、いつのまにか夕暮れに呑まれて消えていた。 ヘッドフォンから漏れてくる大きな音が、手をかすかに揺らし続けている。 硬く握りしめた指が、身体の疼きを誘うようなその振動にびりびりと震えていた。

「 I fall into “ SO BLUE ” 」text by riliri Caramelization 2008/08/16/ ----------------------------------------------------------------------------------- 次は過去話 縁日へ行きます                              next