月灯り はにかむ猫

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翌朝、雌猫は出勤してきた女中頭に風呂に入れられた。 ふらつきながらも歩いて部屋に戻る途中の、風呂上りの雌猫。 娘時分に大奥勤めに入ったこともあるという、品の良い女中頭に手を引かれている。 その姿を廊下ですれ違いざまに目にした彼は、驚きに足を止め、さらに数瞬見蕩れた。 それから、余計なものを拾ったと苦い顔で舌打ちした。 これはいったい、どういう女なのか。 気品というものが質感を持つとしたら、女はまさにその質感を纏っていた。 薄衣のように自然とそれを纏い、さらりと従えている。 武家生まれの品の良い初老の婦人と、拾われてきた里の知れない雌猫。 二人が並んで歩く姿は まるで生まれたときから付き従った乳母と、生来そうであったかのようにかしずかれる姫の図だ。 ぼんやりと歩く雌猫。 その輝く双眸はどこを見ているのか、焦点は危うく定まらない。 心を捨ててしまったような顔で歩いているだけなのに、なぜここまで目を惹きつけられるのか。 彼には解らなかった。 風呂上りの雌猫は、軽く白帯を結んだだけの真っ白な着物を身につけていた。 衿元がわずかに乱れて、そこから淡い色のなめらかな胸元が覗く。 そのわずかな乱れだけで、全体に滲み出る清楚さを掻き消すほどの艶かしさが伝ってくる。 彼は二つ目の舌打ちを呑み込み、黙って二人の横をすり抜けた。 雌猫も何も言わなかった。 しかしすれ違いざまに一瞬だけ、ちらりと彼の背中に目線を動かした。 虚ろに目を見開き、心を捨てたような表情の猫が、その背中にだけかすかな反応を見せたのだ。 横をすり抜けた彼が、その視線に気づくことはなかったが。 すれ違った後、ほのかに石鹸のかおりがした。 廊下に漂う残り香が纏わりついてきそうな気がして、彼は足早にその場を離れた。 「土方さん。ありゃあいったい何ですかィ。」 土方さん、とよびかけた男は、いつからそこに立っていたのか。 一番隊の隊長を務める沖田が、いつのまにか隣にいた。 縁側で胡坐座になって煙草をくゆらす彼を、しげしげと眺めている。 眉間を険しく寄せて、土方は沖田を追い払うように手を振った。 思えばこいつとも付き合いは長い。長いが、その腹の底はいつまでたっても読み難い。 思惑の掴めない薄笑いを浮かべ、沖田が遠慮なく彼の横に腰を下ろす。 ほら、と指した方向は、縁側から見える対の棟。 雌猫が寝起きしている一室の障子戸には、中を覗こうと貼りついている隊士の人だかりが出来ていた。 「ただの捨て猫だ」 「捨て猫ねェ」 たしかにあれは、猫の類か。 沖田はさっき局長室の襖に貼りついて覗いた、雌猫の姿を浮かべてみる。 女中頭に付き添われ、せめて身元を聞き出そうと困惑顔の局長にぼんやりと向き合う姿。 わずかに吊った大きな目。その中で瑞々しく輝く瞳。 細身の身体は座り込んだまま、凍ったように動かなかったが、 白い着物からこぼれた肌は、しなやかな質感を思わせる。 何より目に付くのは、いや、鼻につくのはその気配。雰囲気だ。 黙っていても匂い立つ、周りの空気を無言で変えるほどの清楚な気品。 押し黙ったままの横顔を、沖田は襖の陰から勝手に品定めした。 美しい猫だとは思う。鼻につくあの雰囲気は好みではないが。 しかし、どちらにしたところで興味は無い。 しょせん魂の抜けた猫。生気の絶えた、死にかけだ。 「たいした捨て猫だ。で?どこのお姫ィさんをかっぱらってきたんです」 「はっ。泥まみれの姫さんか」 「灰かぶり姫、って話もありやすぜ」 「俺は拾っただけだ」 彼にとっては、猫も女も大差はなかった。 餌を与えようと可愛がろうと、どこか一方通行で甲斐が無い。 媚びた啼き声で甘えるくせに、気に入らないことがあればついと顔を背け、出て行ってしまう。 手間ばかりかかって、繋いでおくには面倒な生き物。 深い関わり合いにはなりたくない生き物。 そうは思いながらも、彼は猫という気ままな生き物のありようをよく知っていた。 甲斐が無いとは思っていても、嫌いではないからだ。 「元気になりゃあ、勝手に出ていくだろうよ」 恩義などという概念は、猫にしてみれは迷惑なだけ。 窮屈を押し付ける気はなかった。 ましてやそれが、ひとのかたちをした雌猫なら。 煙草をくわえた無表情を、沖田は興味深く眺めた。 あの死にかけの、気取った猫には興味が無い。彼が興味があるのは、この男のほうだ。 荒くれ揃いの隊士を厳しく律し、その鋭い眼光と一喝で率いる鬼の副長。 ふてぶてしく笑いながら先陣切って敵地に飛び込む、戦いを厭うどころか楽しんでいるような姿。 敵を一刀で血染めに変えることに、何の躊躇も持たない非情な男。 そんな男が時折ちらつかせる、「鬼の副長」には不似合いな、情に脆くて純な部分。 非情さとそれとが立ち並んでいるのがこの男の妙なところで、そこが何より沖田の興味を惹く。 あの猫を拾ったことも、この男の妙な情の向けかたには適っている。 適っているとは思うが、気に食わない。 口にしたことは一度もない。しかし沖田には、この男にひそかな私怨があった。 彼等の故郷、武州で暮らす女性のこと。 患った身を抱えながらも一人気丈に暮らし、ずっとこの男のことを想っている。 沖田にとっては、この世の誰より大切な女性。 そのひとの心を思えば、彼の胸には何も言わずに斬りつけたくなるほどの怨火が揺れる。 しかしその火も、以前よりはうんと和らいだものだ。 彼の姉であるそのひとも、今は悪くない縁談を持ちかけられている。 人並みの幸せを掴みつつあるのだ。 「知ってやすかィ?あの女の名前。さっき近藤さんが」 吸いさしの煙草を灰皿に押し付ける。 土方は立ち上がることで、沖田の話を打ち切らせた。 なぜか知りたくなかったのだ。あの女の名を。 拾った雌猫は、やたらと大人しい猫だった。 大人しい、といえば聞こえはいいが。 要するに口を聞かないのだ。 誰が話しかけても、返ってくる返事は素っ気も愛想もない短いものばかり。 無表情に押し黙ったまま、ただ隊士の竹刀稽古を物陰からじっと窺っている。 いくら美しい女とはいえ、これではとっつきようもない。 十重二十重とざわめきながら、ちやほやと世話をやいていた輩も、日に日に数が減っていく。 最後には誰も寄り付かなくなった。 拾ってきたのが自分とはいえ、土方も内心この得体の知れない女のことを、うっとおしく思いかけていた。 雌猫には、行くあてが無いらしい。 屯所の門をくぐって以来、一度もここを出て行こうとはしなかった。 数日経っても半月が過ぎても、ひたすら石のように押し黙るばかり。 見かねた女中頭が、局長に申し出た。 女中として使ってみたい、ということだった。 世話好きで人の良い初老の婦人は、根気強く無口で愛想の無い女に仕事を教え込んだ。 十日経たずに音を上げた。 音を上げたのは、女中頭のほうだった。 雌猫は、家事のいろはすら満足にこなせない女だった。 女中頭に輪をかけて人の良い局長は、老婦人へのねぎらいと、見て見ぬふりで場を収めた。 我慢強い老婦人が音を上げてしまえば、雌猫はまたふらりと稽古場に戻ってきた。 そして以前と同じように押し黙ったまま、竹刀を奮う隊士たちを物陰からじっと眺めている。 家事仕事は出来ない。愛想も言葉も足りなさ過ぎる。 無気味で得体の知れない、近づきたくもねえ女。 誰もがそう決め込んで持て余していたころに、雌猫の様子が変わってきた。

「 月灯り はにかむ猫 2 」text by riliri Caramelization 2008/07/25/ -----------------------------------------------------------------------------------                               next