ぽたぽた、ぽた、と泥が混ざった茶色い雫を滴らせる腕を、ぐーんと真上へ上げてみる。
空を掴もうとしてるみたいに伸ばした手のひらの向こう側には、どこまでもどこまでも真っ青な快晴。 ターミナルを目指して遥か上空を横切って行く、どこかの星から来た宇宙船。その後を追いかけてまっすぐに伸びる、 クレヨンで描いたような飛行機雲。それから、あたしが立ってる浅い川の水面をまばゆく輝かせる初夏の太陽。 眺めるうちにふとあることを思い出して、頭上に影を作る汚れた指先をじっと見つめた。
浮かんできたのは小さい頃に寺子屋で習った歌だ。
音楽の授業で合唱したし、教科書にも載っていたくらいだから、誰でも知ってる有名な曲じゃないのかな。
――まぶしいおひさまに手のひらを向けてみると、身体に流れる血の色まで真っ赤に透けて見えるよ、…っていうあれ。 もしかしたらあの歌は、こんな天気のいい日に生まれた歌なのかなぁ。
……………あれっ。でも――


生 き と し 生 け る 全 て の バ カ ど も
( バ カ で 物 騒 で 江 戸 の 平 和 を 護 る 奴 ら の と あ る 日 常 )


「……見えませんよねぇ赤なんて。ていうか、どんなに頑張っても手のひらって透けて見えないしー」
「たりめーだ、見えてたまるか。キモいだろーが」
「………」

すかさず口を挟んできたひとをじとーっと睨む。
すぐ傍の河原から話しかけてきたのは、この場の監督役を務めてる土方さん。 大抵の事なら眉ひとつ動かさずに悠然と構えてる鬼の副長も、陽射しがぎらぎらと乱反射する砂利敷きの河原の うだるような暑さには参ってるみたいだ。 上着はとっくに脱いじゃってるし、首元の白タイもどこかへ消えてる。シャツの袖を捲り上げてみたり、 ボタンを外したシャツの衿をばたばたさせたりしてたけど、それでもまだ暑いみたいでしきりに額を拭ってる。 光のまぶしさが目に刺さるのか、目元をきつく顰めながら空を仰いで、

「考えてもみろ。陽ぃ浴びた程度で人の身体が透けようもんなら、どいつもこいつも理科室の人体模型じゃねえか」
「いや人体模型って。ちょっとーやめてくださいよー、想像しちゃったじゃないですかぁ」

おひさまの下では人という人全員がスケルトン状態、筋肉も内臓も血管も骨もすべて丸見えな世界。
想像しただけでブキミだ。さらさら流れる川の水に浸かった足元から、ぞわぞわと寒気が這い上がってくる。鳥肌立っちゃう…! うわあぁぁ、気持ちわるっ、とあたしが自分を抱きしめて身震いしてる間に、土方さんは煙草を出した。 どうせあのつまらなさそうな顔は「馬鹿女の頭ん中の馬鹿妄想でまで俺の知ったことか」なんてことでも思ってるんだろう。 「…ちっ、あちーなー畜生…」って独り言をつぶやきながら咥え煙草に火を点けたひとの 背後には、この街の条例を掲げた看板が立ってる。
『犬の放し飼い・川での遊泳行為・河原での花火・バーベキュー・喫煙は全面的に禁止です』
……公共マナーなんてどこ吹く風で所構わず喫煙しちゃうふてぶてしいおまわりさんには、完全に無視されていた。

「土方さぁん。どーして土方さんて人の話に水を差したがるんですかぁ。そーいうがっかりなこと言われちゃうと、 あたしがいたいけな少女だった頃の愛らしい思い出まで台無しになったよーな気がするんですけどー」
「はっ、いたいけな少女だぁ?思い出補正にも程があんだろ」

くだらねえ、とばかりに失笑する態度にかちんときて、川から拾い上げたばかりの汚れたペットボトルをぶんっと投げた。 別に拾ったゴミを皮肉屋で憎たらしい上司さまに一発ぶつけてやりたかったとか、そこまで命知らずな ことは考えてない。皮肉屋で憎たらしい上司さまが立ってるあたりに、江戸の条例に従って分類された各種のゴミ袋が並んでいるからだ。
「可燃ゴミ」「不燃ゴミ」「資源ゴミ」「びん・缶」――その他、あれこれ。
水飛沫を振り撒きながら飛んで来たペットボトルをろくに見もせずにすっと避けると、土方さんは手にした煙草の先でこっちを指して、

「グダグダ言ってねえで動け、働け。アレを見つけねえことにはてめえら川から出れねえんだぞ、おら探せさっさと探せ」
「えぇーそんなぁ、少しくらい休ませてくださいよー。あーもう痛いー、腰痛いー!足冷えるー!」

一時間に及ぶ中腰姿勢のおかげでもう腰はガチガチだ。 揉み解しながらぶーぶーと文句を垂れたら、土方さんは呆れきったような半目になった。 フン、と無表情に笑い飛ばして、

「ったく、使えねー奴だな。しょうがねえ、お前は上がってゴミ分別でもしてろ」
「はぁ!?なにそれっ、悪かったですね使えない奴でっっ。いいですよやりますよゴミの分別、きっちり分けてあげますよ! 何かっていうとカーッとして刀抜きたがる土方さんは燃えるゴミでいいですよね!?」
「んだとコラ、それを言うならてめーなんざ燃やす価値もねえ不燃ゴミだろーが」
「いいですよ不燃ゴミで、可燃ゴミなんて二酸化炭素増やすだけじゃないですか!禁煙が常識なこのご時世に ヤニ臭さを振り撒いてる時代遅れな可燃ゴミよりずーっとマシですよっっっ」
「まあまあそう言わずに。ここは副長の気遣いを察しておあげなさい、さん」

ぽん、と宥めるように肩を叩かれた。振り向くとそこには、額の大きなホクロが目立つ一番隊の隈無さんが。 手にはゴム手袋とトング、背中には拾ったゴミ用の背負い籠。あたしや他のみんなはブーツを脱いで裸足で水に入ってるけど、 一人だけ防水用の膝丈長靴まで履いてる。局内一きれい好きで几帳面な隈無さんらしい、お掃除用の完全装備だ。

「気遣い?どこに!?あの憎たらしい態度のどこに気遣いを感じたらいいんですか隈無さんっ」
「落ち着いて下さいさん。あの方があまり素直じゃないことはあなたもご存じでしょう?いささか乱暴な物言いに聞こえたでしょうが、 要はあなただけ特別にサボらせてやると仰っているのですよ」
「そうそう、今のは清蔵さんの翻訳が正しいよ。少し休んできたらさん」

隈無さんが背負った籠の影からひょいと顔を出してきたのは、トングに潰れた空き缶を挟んだ山崎くんだ。
五十人もいるんだからさ、一人抜けたって平気だよ。
そう言って額の汗を拭きながら川辺を見渡す。それから、その先に見える古びた木橋も。 橋脚だけが石造りの赤い橋には、不思議そうにこっちを眺める見物人の人だかりが出来ている。川の左岸に沿って続く柳の並木道にも、 右岸にひしめく昔ながらの風情漂う商店街にも、同じような人垣が。
威圧感たっぷりな黒服の真選組隊士たち、総勢五十数名。
そのほぼ全員が上着の袖を腕まくり、ズボンの裾も捲り上げ、わらわらと川で這いつくばって何かを探す光景は、 川沿いを行く善良な市民のみなさんにはすごーく異様に見えるらしい。
――局長からの命を受けてこの川に入ったあたしたちが、市民のみなさんの好奇の目線を浴びながら探し物を始めてもう一時間。 みんなで黙々と水の中を探ってたんだけど、残念なことに、お目当てのものはいまだに発見出来ていない。……みんな結構頑張ってるのに。 あたしだって、かなり真面目に取り組んでるんだけどなぁ…。

「…とはいえモノがモノだからなぁ〜、そう簡単には見つからないと思うよ。だからさん、今のうちに休憩してきなよ」
「そうですよ、適度な休憩を挟むことによって作業の効率は上がるものです。もっともうちの隊長は例外ですが」
「えぇー、でも。………みんなに悪いよ、あたしだけ休憩なんて」

おそるおそる背後を向けば、全員同じ中腰姿勢でひたすらに川の中を探り続けてるみんなが。
ぼそぼそぼそぼそぼそぼそ。ぶちぶちぶちぶちぶち。
恨めしげにつぶやきながら汚泥だらけの水底を睨む顔はどれもこれも鬼気迫ってて、もやもやーっとした暗黒オーラが全身から垂れ流し状態だ。

「……痛てぇえええ。腰、いっってぇええ…!!」
「いつまでやるんだよこれぇぇ」
「いつまでってお前、見つかるまでだろ」
「けっ、簡単に言いやがって。このまま続けてみろよ、明日は全員もれなく腰痛だぜ」
「腰痛くれーならまだいいって。俺なんて持病のヘルニアが再発しそーなんだけど」
「あーあー、勘弁してほしいよなー。何だってうちの局長はああもお人好しなんだか」
「今に始まったことじゃねーからなー、局長のアレは。…あれっ、そういや居ねぇな。どこ行ったんだ?」
「もう流されてっかもしんねーから下流も探してみるっつって、数人連れてったぜ」
「いやいや、ゴミ漁りは俺らに押しつけて自分はすまいるにシケ込んでたりして」
「マジでか!あーあーやってらんねー、どーにかしろよあのケツ毛ゴリラ」
「姐さんにブレーンバスターキメられて死ねケツ毛ゴリラ」
「っとによー。何が悲しくて川でゴミ漁りしなきゃなんねーんだよ、俺ら武装警察だろぉ?清掃局員じゃねーっつの」
「いくら人海戦術ったってよー、三隊投入してやるよーなことかぁ?」
「おいィィィ。今近藤さんをディスった奴、全員手ぇ上げろ」

こそこそと小声で囁やいていた悪口を、土方さんの地獄耳はしっかり拾い上げたみたいだ。 ドスの効いた声にみんながぴたりと動きを止めて、河原中に緊張が走る。 すると、黙って橋脚のあたりを探っていた十番隊長――陽の光をぴかぴかと照り返すスキンヘッドがまぶしい、原田さんが身体を起こした。 だるそうに腰をとんとん叩きながら、

「けどよー副長、こいつは愚痴の一つも言いたくなるぜ。なにしろ砂ん中から砂金を一粒拾い出そうってなもんだからよー」
「つーかズリーよなぁ、副長も俺らの監視してねーで一緒に探してくれりゃーいーじゃねーですか」
「そーだよ探してくださいよー」
「そーだそーだ!!」
「探せ、探せ、さ・が・せ!さ・が・せ!さ・が・せ!!」

遠慮気味な手拍子つきで始まった「さ・が・せ!」コールは一人二人と参加者が増えて、しまいには川中での大手拍子と大合唱になった。 すっかり調子づいて「さ・が・せ!ハイ!さ・が・せ!ハイ!」って宴会的なノリで盛り上がるみんなを、土方さんは冷えきった目で眺め回す。 真っ黒な前髪の下で眉が片方吊り上がって、びしり、とこめかみに青筋が浮かぶ。 無言で引き抜かれた鞘から現れた白刃が、ぎらり、と不吉な光を放って――

「そうか、てめーらそんなに斬られてーか…!」
「〜〜〜っっ!」

(すんまっっっっせんしたぁああああ!!)
…とは、怖すぎて誰も口にできなかったみたいだ。
地を這うような低音の脅しに、河原中の空気が凍る。泣く子も黙る鬼の副長の恐怖政治に怯えるみんなは、 すごすごと腰を屈めてまた水中を探り始めた。






――それにしても川の中って、思った以上にいろんなものが落ちている。

きりりと冷えて気持ちいい水の中や川底の泥を探りながら、これまでに拾い上げたものを数えてみる。
えぇと――空き缶に空き瓶、ペットボトル。コンビニやスーパーの袋、スナック菓子の袋、コンビニ弁当なんかの食べ物の容器。 この手の食品系ゴミが一番多いんだけど、子供のちいさなビーチサンダルとか、下駄とか、穴が開いた長靴なんかも沈んでたりする。 それから軍手、段ボール、何かの鍵、何かの部品みたいな鉄の塊、野球のボール、サッカーボール、自転車のタイヤみたいな細いゴムチューブ。 この一時間でこれだけの品数が揃ってしまった。 あとは河岸の水草の群生に引っかかって、川藻みたいにゆらゆら揺れてるマンガに雑誌に――

「あーあー面倒臭せぇ、この雑誌ってのが厄介だよなあぁ。泥ん中に埋もれてっから重てぇんだよな……って、うぉおお!」
「んぁー?んだよお前、まさか見つけたのかぁ?」
「俺っ、このエロ本持ってる!」
「え、マジで。今度貸せよ」
「エロ本ならこっちにもあるぜー、しかも大量に」
「大人のおもちゃもあるぜー。つーかこれ箱入りだし使用前っぽいんだけど」
「どーせ水でサビてんだろ、未使用でも使えねーじゃねーか」
「大人の風船もあるぜー。ちなみにこっちは使用済みみてーだけどな」

最初に雄叫びを上げた人のところに数人が寄って行って、そこへまた人が集まって…、
と、川から拾い上げたものをあれこれと持ち寄った人たちがどんどん集まる。あっというまに人の輪が出来た。
みんな目の色変えて盛り上がってて、なぜか全員揃ってにやにやしてる。
あたしは川底から拾い上げたコンビニ袋からばしゃばしゃ水を零しながら首を傾げた。どの人も小声でひそひそ話してるから、 よく聞き取れなかったんだけど、
……なんだろう大人の風船って。そんなもの、見たことも聞いたこともないよ。

「ねえ山崎くん、大人の風船ってなぁに?何に使うの?山崎くんは見たことある?持ってるの?ねえねえ」
「…………」
「…ちょっ。どーして耳塞いじゃうの、山崎くんっ」
「そーいうこと俺に訊かないでくれるさん。副長の目が怖ぇーから。聞き耳立てながらこっち見てるからっ」
「えぇ?何で土方さんが見てたらダメなのー。いいじゃん教えてくれたってー」
「そーいうことは副長に尋ねてみたらどうでしょう、さん!」

そこへ大きな声で割って入ったのは、レンズが分厚いうずまきメガネの一番隊隊員、神山さんだ。 なぜか「録画機能」をオンにしたケータイをあたしに向けて「恐縮ですっさん、もう一度さっきの神台詞「大人の風船って何に使うの?」を言ってもらえないでしょーか! 出来ればエロ…、セクシーなカンジが希望であります!!」なんて言いながらずんずん迫ってくる。唾が飛ぶ勢いで畳みかけられて、 山崎くんとあたしはたじたじになって後ずさった。

「え、えぇと…よくわかんないけど、それって男の人が遊ぶおもちゃなんですかぁ?土方さんも持ってるかなぁ」
「無論であります!なにしろ副長は局内一のモテ男、男の身嗜みとして必ず持っておられるはず!」
「へぇ〜〜、そんなおもちゃがあるんですかぁ。頼んだら見せてくれるかなぁ、土方さん」
「むしろ喜んで見せてくれるのではないかと!何なら一緒に遊んでみたらどうでしょう、『ねぇ土方さぁんお願いー、 今夜はと大人の風船で、いっぱいいっぱい遊んでほしーの…!』なぁんてさんに甘えられたら、副長もさぞお喜びになるのでは!」
「へえぇ〜〜〜、そうなんですかぁ〜〜!」

知らなかったよそんなおもちゃがあるなんて、とひたすら感心して何度も頷く。 頬を染めて興奮気味に語る神山さんの息遣いが、妙にハァハァと荒いところは気になったけど。

「じゃあさっそく後で訊いてみますねっ」
「うっス!出来ればその後どうなったのか事後報告希望っス!いやぁ〜想像しただけで滾るであります! 卑猥な風船遊びを無邪気におねだりしてくるさんにその気になった副長がハァハァハァ」
「いやいやいやダメだからね、こんな奴の話を真に受けちゃダメだからねさんっ」

そんな話で盛り上がってる間に、ゴミを持ち寄ってわいわいと騒ぐ集団にはさらに人数が増えていた。見ればなぜか全員が目をぎらつかせていて、

「…うぉおっっ何だよこれすんげーカタチしてんなぁ、しかもデケえし!コレでナニのどこをどーすんだよえげつねー!」
「エロ本に風船におもちゃに……これで夜のお楽しみセット完成だな」
「ばーか楽しめねーよ。そんなセットが必要なリア充、俺らのどこにいるんだよ」
「楽しむ相手がいねー奴にはエア彼女もあるぜー。破れて使い物にならねーけど」

河岸近くから声が上がる。ざざーっと滝のように水をこぼしながら持ち上げられたのは、白っぽい大きなビニールだ。 それを目にしたみんなから「おぉーーっ!」と野太い歓声が。
……何だろうあれ。空気を入れる前のふにゃふにゃした浮き輪みたい。
初めて見るそれに、興味津々で目を凝らす。ていうか何なの、「えあかのじょ」って…?

「あのー、何ですかぁ「えあかのじょ」って。あたしも見せてもらっていいですかぁ?」
「いい!さんは見なくていいから!あれは男のおもちゃだから、女の子が見て楽しいもんじゃないからぁぁ!」
「えぇー、でもみんなすごく楽しそ……って、ちょっ、離してよ山崎くんっ、あたしも見たいー!」
「いや、いやいやいやいや!やめてお願いっ、さんにアレ見せちゃうと副長の機嫌がさらに悪くなるからあぁぁ!!」

ぱしゃぱしゃ水を跳ね上げて走って行こうとしたら、なぜか血相を変えた山崎くんに羽交い絞めで止められた。
どうしてなのかわからないけど、あたしがあの集団の仲間入りすると、山崎くんをとんでもなく困らせることになるらしい。 変なの、どうしてそんなことになるんだろう。女の子が川に沈んだゴミを目にするのって、そんなにいけないことなんだろーか。
そこへ土方さんの耳に痛い怒鳴り声が飛んできた。
!山崎!てめえらいつまで油売ってやがる!」
びくーっと背筋を跳ねさせた山崎君がおたおたと持ち場へ戻る。あたしは咥え煙草の不機嫌そうな顔をじーっと見つめて、

「あのー、土方さぁん」
「あぁ?何だ」
「土方さんも持ってるんですかぁ、「大人の風船」とか「えあかのじょ」とか」
「………」

なぜか土方さんはあたしの質問に目を剥いた。口端の煙草がぽろっと落ちる。石膏像みたいにかちんと固まる。と思ったら、 「ぶふぉっっ」と煙を盛大に吹いてゲホゲホと咳が止まらなくなった。
……こっちが目を剥きたい気分だ。そこまで驚かれるよーなことなんて訊いてないのに。土方さんって、時々よくわからない。





仕方がないから「謎のえあかのじょ見学」は諦めることにした。走ったせいでぐっしょり濡れた隊服のスカートをぎゅうぎゅう絞る。 見下ろした透明な流れにしずくがぱたぱたと落ちて、まぁるい波紋がふわっと広がる。 濡れた生地が太腿に貼りついてきて、肌がひんやりしてかなり涼しい。 まだ湿気が少ない爽やかな初夏の風が、スカートの下を撫でていく。


「ふあぁぁ〜。涼しい〜〜〜、きもちいぃ〜〜……」

つぶやきながら頭上を見上げれば、ぴちちち、と軽やかにさえずりながら飛んでいくすずめの群れが。
曇りの無い晴天の空は思わず目を細めてしまうまぶしさで、自然と顔がほころんでしまう。 なんだか不思議なくらいに嬉しさが湧いて、空を見上げながらゆっくりと深呼吸した。足元を擦りぬけていくせせらぎの音が心地いい。 足裏に感じる冷えた土の踏み心地も、子供の頃の川遊びの楽しさを思い出させてくれる気持よさだ。

…………うん、いいかも。
気持ちいいよね、こういうのって。自然が少ないって言われてる江戸の街だけど、こうしてちょっと立ち止まって目を留めてみれば、 川の流れが涼やかだったり、そこに吹く風が心地良かったり。 一見ゴミが多くて汚く見える水辺も水は意外ときれいだったり、鳥が飛んできたり、いろんな虫が住んでいたり、水を清らかにしてくれる水草がたくさん生い茂ってたり。
こうして見てるだけで、いろんなものが生き生きと息づいてるんだなぁって感じられる。狭くてゴミゴミしてるって言われるこの街も、 捨てたもんじゃないなぁって思えてくるよ。

「…普段の真選組なら、こんなふうに感じられるお仕事なんてありえないんだけどなぁ…」

気分よくへらへら笑いながら、膝上20センチ丈の短めなスカートを指で摘まむ。 少しでも早く乾くといいなと思って、空気が通りやすいように軽く持ち上げてみた。ぱたぱた、ぱたぱたと裾を振って扇いでいたら――

「――ぅおおおぉぉおおお!!」
「……、へ?」

どおおぉっ、と背後から、地鳴りみたいなどよめきが湧いた。目を丸くして振り返ったら、
――拾ったゴミの鑑賞会で盛り上がってた集団に、新たな祭りが起こったみたいだ。 なぜか全員がガッツポーズで歓喜に打ち震えてる。一人が思いっきり腕を伸ばして、空を仰いで、

「キタ――――――!!!ぃよっっっしゃああああ!!」
「主よ!天の恵みを感謝します……!!」
「やっっべーわ今のはやっべーわ!俺っっ、この仕事押しつけてったゴリラが神に思えてきた…!」
「〜〜〜見っっ、見たか!?」
「見たに決まってんだろ!?脳内HD保存は万全だ!!」
ちゃんのちゃんの!っっぱぱぱぱぱっ、ぱん、ち!」
「……?どうしたんですかぁみなさーん。あたしが何かしましたかぁ?」
「えぇっ!?いやいや何でもない、何でもないよ!ちゃんは気にしないでっっ」
「そうですかぁ?でも、どーしてみんな顔面が崩壊しそうなくらい緩みきってるんですかぁ」

ぱたぱたとスカートをはためかせながら首を傾げていた、その時だ。


ず、どぉぉおおんんんんっっっっっっ。


いきなり河原中に鼓膜が破れそうな爆音が響く。ずずずずず…、と不気味な地響きが川を揺らし、水を震わす。
何事かと思えば――土方さんだ。
発砲直後で煙が噴き上がるバズーカをどさっと河原に下ろして、こっちを瞳孔が開ききった凄まじい顔で睨んでる。 あのバズーカで誰もいない対岸に向けて一発打ち込んだみたいで、対岸に広がる緑の草むらからは、もわもわぁぁ〜〜〜っと、 きな臭い黒煙が。
それを見たみんなが揃って顔面を硬直させる。だらだらと冷汗を流しながら、おそるおそる土方さんのほうへ振り返って――

「――見ただぁ?何をだ?誰の何を見やがったのか、俺の前で言えるもんなら言ってみろ……!」


ごっくん。

笑い混じりだけど冷えきった声に、全員が固唾を呑んで固まった。
ベキベキボキ、ベキボキ、ベキッッッ。
握り合せた両手の指の関節を豪快に鳴らし始めた土方さんが、寒気のするような物騒な顔でにやりと笑う。 こっそり逃げようとしていたのか、集団の端からそろそろーっと退散しかけた人をびしっと指して、

「まずは最初に吠えた奴、お前だお前、こっち来いィ!あとはそことそことそこォォォ!!そっちとそっちといま水に潜った奴! それからあれだ、柱の陰に隠れたお前!今見たもん全部脳内から抹消してやる、来いィィィィ!!!」

かあぁっ、と瞳孔全開で怒鳴った鬼が瞬時にバズーカを担ぎ直す。弾頭の照準を合わせられ、ご指名を受けた全員がひぃぃぃっっと絶叫。 あわてて逃げようとした人もいたけど、逃げる間もなく砲弾は川へ飛来した。 どかーん、どっかーんと次々に爆発、ざっぱーん、ざっっぱーーんと川岸に並ぶ商店街を越える高さの水柱が上がる。 穏やかに流れていた川に大波が起こる。狙われた人が次々と、爆破の衝撃に吹き飛ばされる。あまりにも軽々と吹き飛ばされちゃって、 下から見てるとおもちゃの人形が飛んでいくみたいだ。
言葉を失うその光景に、あたしは震える唇をぱくぱくさせながらぽかんと見入った。 そのうちにあたしの頭上にもばっしゃぁあああんっっ、と大波が押し寄せて、全身ずぶ濡れになったらやっと目が醒めて、

「土方さんんん!ゃややめてぇぇ危ないぃ!爆破はダメです爆破はっ、 もしアレまで壊れちゃったらどーするんですか!?ていうかみんなが何したっていうんですか!」
「あぁ!?っっっだとコルぁああざっけんな、お前こそあいつらに何を見せてんだ何を!!」
「〜〜〜〜ひ、っっぎゃあああ!!」

弧を描いて飛んできた弾が目の前数メートル地点に水を割って着弾、ばっしゃああん、と盛大に飛沫が飛び散り、人も飛び散る。 人口密度は高かったけどそれなりにのどかで平和だった川の中は、今や着弾と水飛沫と逃げ惑う隊士たちの悲鳴で騒然だ。 橋の上や両岸の見物人たちまで怖れをなして、蜘蛛の子を散らす勢いで逃げていく。そんな大騒ぎの中へ、近藤さんに連れられて川の下流に向かった一人が 意気揚々と駆けてきた。
「ちぃ―――ッス!みなさんお疲れさまっス!局長からの差し入れをお持ちしたっス!」
何も知らずに河原に現れたのは、大きなクーラーボックスを抱えた鉄之助くん。 しかも、きらきらと星が瞬く大きな目を輝かせながら無邪気に寄って行ったのは、
――よりにもよって、荒ぶる破壊神と化した土方さんだ。ひぃぃっ、とあたしは青ざめた。

「副長、お疲れさまっス!……ってどーしたんスか、すっげー顔しちゃって。あれっ、顔どころか全身ガチガチじゃないっスか! あれっひょっとして副長、勃っ」
「てめーは引っ込んでろ、鉄!!」

ああっ、と思わず目を覆う。ぎろりと睨んで照準を合わせた土方さんが砲弾を発射、何の罪もない鉄之助くんが橋を越える高さで吹き飛ばされていく。 今や完全にブチ切れてるのか、バズーカで撃ちまくってる土方さんはやけに楽しそうだ。誰がどう見たってあれがおまわりさんとは思わないだろう、 そんじょそこらの過激派攘夷浪士なんて目じゃないくらいに凶悪そう。
ずぶ濡れの頭からぼたぼたとしずくを滴らせながら、あたしは震える声を絞り出した。

「……とっっ。と、ととっ止めないと、あのテロリストを止めないと…!」
「いやぁ、ああなっちまうと手に負えねえからなぁ。全員束になっても止められるかどーか」

あたしと同じく全身ずぶ濡れな原田さんが、やれやれ、と水切れのいい頭を掻く。 その隣では同じくずぶ濡れな山崎くんが、うんうん、と相槌を打って、

「そうそう、俺らには無理だって。ああなっちまった副長と渡り合える奴なんて沖田隊長くらいだし」
「――あーあぁ、何を年甲斐もなくはしゃいでやがるんでェあの人ぁ」

とそこへ、聞き覚えのあるとぼけた口調が降ってきた。
見物人が逃げて人影すらなくなった橋の上には、ぽつんと真っ黒い隊服姿が。 赤い欄干に腰掛けて足をぶらぶら揺らしてるのは、土方さんがちょっと目を離したスキにふらぁ〜っと消えてしまった一番隊隊長だ。 全身びしょ濡れなあたしの頭から爪先までを、悪戯っぽく光る明るい色の瞳が愉快そうに眺める。小さく肩を揺らして笑って、

「よう。野郎は一体どーしたんでェ、あんたまで濡れ鼠にさせちまって」
「総悟!あんた今までどこ行ってたのっ」
「何って見廻りでさァ。隣町で縁日やってたんでそっち方面を重点的に」
「つまりサボってたんですね沖田隊長」

山崎くんが呆れ顔でぼそりとつぶやく。右手には齧りかけのイカ焼き、左手にはとうもろこし。腕にぶら下げた袋から透けて見えるのは、 たこ焼きの箱にホットドッグに綿飴にチョコバナナに……、 市中見廻りに励んでいた(と自己申告してきた)一番隊隊長の出で立ちは、どう見ても仕事そっちのけで縁日を満喫してきた人のそれにしか見えない。

「まぁそう言うなィ山崎。さっきは近藤さんがどーしてもっつーから従ったが、物探しなんざ俺の性に合わねーや。 だが、そこで暴れてる奴の始末なら請け負ってやってもいいぜ」

言うが早いが、ひらりと総悟は飛び下りる。欄干を蹴ってジャンプした先は、ちょうど土方さんの目の前だ。
ばっしゃああああんんんっっっ。
たぶんわざとやったんだろう。河原に飛び降りればいいのに、総悟はわざわざ川の中に飛び降りた。当然総悟もずぶ濡れになったけど、 ざっぱぁああん、と真正面から飛び散った大波が土方さんを頭から洗う。いきなり大量の水を浴びた土方さんはしばらく物も言えないくらい呆然としてたけど、

「〜〜〜っっ総悟おぉぉ、やりやがったなてっっっっめええぇえええええ!!」
「何でェ、そこまで怒るこたぁねーでしょう。俺ぁ親切でやってるんですぜー、この暑さで煮え滾ってるあんたの頭を少し冷やしてやろーかと」
「嘘つけぇえええ!!!」

土方さんと視線の火花を散らしながら川から上がってきた総悟が、挑発的ににやりと笑う。近くに放置してあった予備のバズーカを澄まし顔の一番隊長が掴んだ瞬間、 そこは爆風荒れ狂う戦場と化した。ちゅどーん、とか、どっかーん、とか、物騒な音が絶え間なく轟く。 河原の砂利や土が飛び散り、水が飛び散り、喧嘩好きな二人の迷惑な爆撃に巻き込まれた隊士も派手に飛び散る。 普段は子供や散歩中の犬が遊んでるささやかな江戸の自然が、あっという間に破壊されていく。
爆心地からのきな臭い黒煙に巻き込まれながら、げんなりした目であたしたちは眺めた。やがて原田さんが溜め息をついて、

「なんつーか…どっと疲れたな」
「……はい。もう疲れすぎて止める気も失せました…」
「いいよねあの二人は放っといても。なんか妙に楽しそうだし。下手に関わって怪我したくねーし」
「そうだよね。あんなバケモノみたいな人たちに関わってたら、命がいくつあっても足りないもんね…」
「おーいてめーら休憩にするぞー。あと誰か、吹き飛ばされた奴ら回収してこーい」

原田さんの号令一下、みんながざぶざぶと川から上がってくる。どの人もこの爆破騒ぎと長時間の中腰姿勢が堪えてるみたいで、 ぐったりとお疲れ気味な様子だ。そうだ、と思いついて、あたしは鉄之助くんが持ってきたクーラーボックスへと走った。
へとへとになってるみんなに、近藤さんからの差し入れで一息ついてもらおう。
いそいそと箱を開けて、中に詰まってた大量のアイスを配ろうとしたら、

「…………………… あれっ?」

ふと目についたのは、クーラーボックスの横の地面でちらつく微かな光の瞬きだ。
気になってそこの砂利を浅く掘ってみたら、



「――あぁーっ!あったー!!」
「?どうしたのさん」
「あったよ山崎くん、あった!土方さぁん、見つけましたぁ!きっとこれですよ、赤くて小さい石が付いた銀の指輪で、 キズがいっぱいで、裏に日付……うん、間違いない!」


――すごい。見つかった。探していたものが意外なところから顔を出した。
砂利に埋もれて泥だらけになった古い指輪。あまり高価そうには見えないおもちゃみたいな指輪なのに、なんだかとっても素敵な宝物を見つけたみたいで胸が高鳴る。 こんな小さなものが見つかるのかなあって、探してる最中は半信半疑だったけど、
……ほんとにあった。みんなで苦労して探していたものが…!
きゃーっ!て叫びたくなるような嬉しさに顔中をほころばせながら、「ありましたぁー!」と指輪を高く上げる。嬉しさのあまり、その場でぴょんぴょん跳ねてしまった。 指輪を見せるために土方さんと総悟の元へ走ると、二人とも驚いた様子で動きを止める。爆音が止んでようやくのどかさを取り戻した河原に、 ぐったりしていたはずのみんなが疲れも忘れたような勢いで集まってくる。指輪を自分の目で確かめると、どの人も嬉しそうな表情になっていく。
「やれやれ、これで捜索終了だな。おぉい、誰か局長に報せてこーい」
どこかほっとしているような原田さんの指示が飛んで、やったな、よかったな、とみんなが口々に言い合う。 指輪を手のひらに乗せたあたしの周りは、しだいに和気あいあいとした楽しげな空気に包まれていった。







それからほんの数分足らずで、近藤さんはやって来た。
上着は脱いで腕まくり、膝から下がびしょ濡れな姿で駆けつけた局長は、背中にちいさなおばあさんを背負ってる。 あたしたちが追っていた攘夷浪士にここの川べりで突き飛ばされて、脚を捻挫したおばあさんだ。 小刻みに震える両手に古い指輪を握り締めると、おばあさんはじんわりと涙ぐんだ目でそれを見つめた。 お礼を言おうにも言葉にならなかったみたいで、近藤さんの手をひしっと握る。泥で汚れた大きな手の甲に額を擦りつけるようにして、

「……本当に…本当にありがとうございます…!他人様にはみすぼらしい指輪でも、私にとってはかけがえのない思い出の品 にございます。局長さんにも皆様にも、どうお礼を申し上げたらよいか…」
「いやいや、我々のことはお気になさらんでください。それにしても見つかってよかった、本当によかった!」

深々と頭を下げるおばあさんの肩を抱き起して、近藤さんが快活に笑う。嗚咽に身体を震わせながらお礼を繰り返すおばあさんの言葉に、 何度も何度も嬉しそうに頷いていた。 指輪が見つかったことをおばあさんと同じくらい喜んでいそうっていうか、心底良かったと思っていそうな顔してる。

「……ふふっ。あんなに喜んでもらえたら疲れなんて吹き飛んじゃうなぁ…」

商店街から河原へと降りるための古い石段で休憩しながら、おばあさんに泣きつかれる近藤さんを眺める。
ちょこんと小さいおばあさんと、上背があってがっしりと逞しい近藤さんの組み合わせは、見ているだけで こっちまで笑顔にさせられてしまう微笑ましさだ。
「何をにやついてんだ」
頭上でぼそっと声がしたと思ったら、ひゃっ、と声を上げて飛び上がってしまうくらい冷たい感触を頬に押しつけられる。
首を竦めたまま目線を下げると水色のアイスの袋が見えて、おそるおそる目線を上げれば、そこには煙草を咥えたひとが立っていた。

「ただでさえ緩みやすい面が溶けきってんぞ。何がそこまで面白れぇんだ」
「違いますよー、嬉しいんですよー。近藤さんがああやって感謝されてるところを見ると、なんだか嬉しくなりませんかぁ」
「ならねえよ。あの人が誰彼構わず助けたがるのは毎度のこった。今更何も感じねえ」

あれで捨て猫だの捨て犬だのの類は拾って来ねーのが不思議なくれぇだ、と土方さんは肩を竦めて厭そうにつぶやく。
…うーん、どうなのかなぁ。本当は捨て犬だって拾いたいけど、屯所に連れ帰れば土方さんに叱られるから諦めてるんじゃないのかな。
貰ったアイスの袋を開けながら、子犬を腕に抱えた近藤さんを想像してみる。 「こんなに小せぇのに捨てられたなんて可哀想じゃねえか。飼っていいだろートシ、なぁなぁ」なんて 困った様子で頼み込むんだろうな。思い描いた姿は似合いすぎていて、ぷっと吹き出してしまった。

「毎度のことでも嬉しいんですよー。ああいうとこ見るたびに、うちの局長が近藤さんでよかったなぁって思うんです」
「呑気でいいなてめえは。あの底抜けのお人好しのせいで俺がどんだけ苦労してきたと思ってんだ」
「底抜けのお人好しだからいいんじゃないですかぁ。……きっと、みんなそう思ってるんじゃないのかなぁ…」

近藤さんとおばあさんをぐるりと囲むようにして、隊士たちの輪が出来ている。
集まったみんなの反応は様々だ。
おばあさんの涙に感激してもらい泣きしちゃった人もいれば、泣くなよばあさん、と笑ってる人もいたり、 なんだか照れ臭そうに頭を掻いてる人に、黙って温かい目で見守ってる人に。 だけどどの人のどの顔も、すっきりと晴れて満足そうだってところはみんな同じ。どの人も嬉しそうな目でおばあさんを眺めて、 それから誇らしげに近藤さんを見つめ直しているのが印象的だった。

――おばあさんの落し物捜索、なんていう似合わない仕事に「チンピラ警察」なんて呼ばれてるあたしたち真選組が精を出す。
そうなったきっかけは、道に倒れて起き上がれなくなっていたおばあさんを隊士の一人が助け起こしたところから始まった。
突き飛ばされた拍子に巾着袋を川に落としてしまったおばあさんは、怪我をしてすごく痛がっていたのに、それでも川辺に降りようとしていた。 その場に居合わせた近藤さんが事情を尋ねたら、おばあさんは涙ながらに答えたんだそうだ。
(あの中には亡くなったおじいさんから貰った指輪が入っている。自分にとっては何より大切なもので、川に入ってでも見つけたい)
おばあさんに同情した近藤さんは、自ら川に入って巾着を拾った。けれど中にあるはずの指輪は見当たらなかった。 投げ出されたときに巾着の口が緩んだみたいで、擦り抜けやすい小さな指輪は川のどこかに消えてしまっていた。
濡れた巾着を抱きしめて啜り泣いていたおばあさんのためにと、近藤さんは思い立った。「ゴミ漁りなんざ万事屋にでも任せときゃいいだろうが!」と 反対する土方さんを溢れる熱意で説得して、攘夷浪士の捕縛に成功して屯所に帰るはずだった五十数名を総動員した。
『次の任務は予定を変更して、おばあさんの落し物探し。』
そう聞かされたみんなは拍子抜けしていたし、ひどく不服そうだった。 落し物探し、なんて殺伐とした荒事専門の真選組にはお門違いもいいところな任務だ。 そんなことを呑気にやってる場合かよ、俺達がやるべき事はもっと他にあるだろ、って顔してた。けれど今は、誰一人不服そうな顔なんてしていない。
――他にやるべきことは山積みだ。
けどまぁ、……たまにはこんな清々しい気分で終えられる任務ってのも、いいもんだな。
みんなそんなふうに感じてるんじゃないのかな。それから、この予定外で面倒な任務がもたらした、 普段の真選組のお仕事ではあまり味わえない「誰かを助けて感謝された実感」にしみじみしてたり。 悲しむおばあさんを放っておかなかった近藤さんの、懐の広さや温かさを再認識したり。そんな人の下で働けることに嬉しさを感じてたり、…とか。
……まぁ、約一名、この任務のおかげで清々しい気分どころかイライラが溜まりまくってる人もここにいるけど。

「……あぁ畜生。婆さん一人にこうも振り回されたもんか」

周囲のみんなに頭を下げるおばあさんを眺めながら、土方さんはぼやいていた。
不機嫌そうに荒く煙を吐いたひとは、どさりと隣に腰を下ろして、

「ったく、たまったもんじゃねえな。あの婆さんのおかげでこっちは予定外の皺寄せ喰らって徹夜だぞ」
「あはは、あたしも書類の処理手伝いますから頑張りましょうよー。それに、こういう時の無理をどうにかやってのけて近藤さんを支えるのが、 土方さんの役目じゃないんですかぁ」
「フン、簡単に言やがる。そこまで言うからにはお前、俺の徹夜に付き合うんだろうな」

どうなんだ、ときつい視線を流して、土方さんが返事を催促してくる。
「えぇ〜〜〜。それはほら、えぇと〜〜…」
ごにょごにょと言葉を濁して逃げようとしたら、途端にゴツンと小突かれた。あたしがずきずき痛む頭を抱えて涙目になってる間、 隣のひとはこっちの様子なんて知らん顔で近藤さんたちを眺めていた。涼しげに整った横顔は、いつも通りに隙を見せない無表情だ。 何を思ってあの光景を眺めているのかを、傍にいるあたしには悟らせてくれない。だけど、近藤さんや仲間のみんなをこうして遠目に眺めてるときの、 土方さんの表情があたしは好き。普段の鋭さや厳しさがほんの少しだけ抜けたような、どこか眩しげな目をしているこのひとを見るのが好きで。


――なぁんて、…………こんなこと、恥ずかしくって死んでも口に出せないなぁ。


横のひとをちらちらと盗み見ながらそんなことを考えるうちに、かぁーっと頬が熱くなった。
火照った顔が一秒でも早く冷めるようにと、溶けかかった棒付きソーダアイスをあたふたと食べる。焦って大口で詰め込んだせいで 頭がきーんとしてきたけど、こめかみを押さえてうぅ〜っ、て唸りながらぱくぱく食べる。
土方さんはあたしのおかしな態度になんて気づいてもいないみたいだ。近藤さんやおばあさんを囲むみんなを見据えて、呆れたように溜め息をついて、

「見ちゃいられねぇな。どいつもこいつもお前と似たり寄ったりの馬鹿面しやがって」
「……土方さん。土方さんはおばあさんがあんなに喜んでくれてるのに、ちっとも嬉しくなかったの?」
「別にどうも思わねぇよ。俺ぁてめえらほど年寄りの涙に弱かねえからな」

どうでもよさそうに言ってから、土方さんは何が考え込むみたいに口を閉ざし、目を伏せた。ふうっと短く煙を吐くと、

「だがまぁ……、ああいうもんも、お前のやけに緩みきった馬鹿面も、うちの頭があの人だからこそ見れるもんではあるな」
「……?それで?」
「あぁ?」
「だから、えぇと…どうなのかなぁって思ったんです。近藤さんや、みんなや、…あたしが嬉しそうにしてると、土方さんも少しくらいは嬉しいのかなぁって」

土方さんが何か言いたげな顔でこっちへ視線を戻す。きょとんとしているあたしを眺めると、細い紫煙を昇らせる口端を歪めてふっと笑った。
……な、なんだろう。あたしの顔に何かついてるのかな。
ううっ、と肩を竦めてじりじりと下がる。すると土方さんは、じりっとこっちへ迫ってきた。 こんなに近い距離で真正面から視線が合ってるだけでも恥ずかしいのに、こんな時に限って顔はまだ火照ったままだ。
シャツの袖を肘まで捲った腕がゆっくりと、顎のあたりへ向かって伸びてくる。その手で顎を持ち上げられて、 ええっ、と目を丸くして驚いていたら、
――むにっ。
硬い指先で唇を撫でられて開かされて、口の中までむぎゅっと押し込まれて。
唇の裏側の粘膜に触れられる。柔らかい中を探るように動く熱い感触に、全身がびくんと震え上がった。



「〜〜〜〜〜〜っっ!?」

どーして、何で、待って、ええっ、何するつもり!!?
耳や首まで真っ赤になって固まったあたしに、土方さんが意地の悪い顔つきで笑いかける。
咥えさせられた指先に舌の先を撫でられて、ぎゃあああぁぁ!!って心の中で最大音量の悲鳴を上げたら――、

「んむ、っっ!?」

もう一本、指を手荒く突っ込まれた。くくっ、とこらえきれずに笑いを噛み殺して横を向いたひとをぽかんと見上げる。

………指先からあたしの舌に、ひんやりと甘い氷が――ソーダアイス味が移ってきた。
見れば土方さんの手のひらには、このひとに気を取られてすっかり存在を忘れていた水色の氷の塊が。
溶けすぎて棒からぽろりと落ちたのか、ほとんど水状の半透明になっていて――


「……ずるいぃ。そっ、そぅやって誤魔化すのって、ずるいですよぅぅ……!」
「何を赤くなってんだ。俺ぁお前の食べこぼしを拾ってやっただけじゃねえか」
「〜〜〜だからそうやってはぐらかすのが、ず、ずるいって、言っ………っ!
〜〜〜ひぅぅ!〜〜〜〜や、ふむむ、やらっ、ゆ、ゆびっ、奥まで、入れな、く、くるひ、ふむ、っっ」
「おぉーい、トシ!!」

頭上から呼ばれて顔を上げると、近藤さんが石段を駆け降りてくるところだった。
面白がった土方さんに顔を抑えつけられ、喉の奥までアイスを突っ込まれて悶絶してた間に、 おばあさんは土方さんが手配した車に乗り込んだみたいだ。 エンジン音を響かせながら、一台のパトカーが川沿いの道を去っていく。一度足を止めて車を見送ると、 近藤さんは人懐っこい笑顔でこっちへ向かってきた。ありがとうな、と大きくて分厚い手があたしの頭をぽんぽん叩いて、

「よく見つけてくれたな、お手柄だぞ!どうだ、トシにも誉めてもらったか」
「あんたじゃねえんだ、この程度でいちいち甘やかさねえよ。この馬鹿すぐ調子に乗るからな」
「甘やかされるどころか馬鹿にされていじめられてましたよっっ。近藤さんっ、この鬼上司の代わりにあたしを甘やかしてくださいぃ!」
「ははは!まぁ喧嘩するほど仲が良いっていうからな。お前らが仲が良いと俺も嬉しいぞ!」

河原中に響く通りのいい声で言われて、赤みが引きかけていた顔にぼんっと高熱が戻る。しゅーーっ、と煙が出そうなくらいのぼせ上って、 あたしは隣のひとの影にこそこそと隠れた。……土方さんは憎たらしいくらい平然としてるけど。

「皆もご苦労だった!今日は慣れねぇ仕事に四苦八苦させちまったからな、留守番組の奴らも含めてパーッとやるか?なぁ、いいだろトシ」
「ああ。まぁ、いいんじゃねえか」

え、とあたしは目を見張った。あっさりと許可した土方さんが意外で、一見冷たそうで感情が読み取れない横顔をしげしげと眺める。 さっきはおかげで徹夜だ何だってグチってたくせに、ほんと、近藤さんには甘いんだから。 なんだか可笑しくて声を殺して笑っていたら、無言でゴツンと小突かれた。痛い……!
「よーし、決まりだ。トシの許しも出たことだし、今夜は夜通し騒ぐとするか!」
皆を見回しながら近藤さんが宣言する。わぁっ、と「待ってました!」的な歓声が上がる。お祭り好きが多い真選組では、 近藤さんの一声から始まるこんな宴会は恒例行事だ。

「そうと決まれば買い出しだな。帰りに近所の酒屋でつまみと酒と、 …………――」

なぜか急に口籠ると、近藤さんははっとして目の色を変えた。川を挟んだ向こう岸の一点に、その視線が釘付けだ。
一変した近藤さんの態度を怪訝そうに窺っていた土方さんが、

「おい、どうした近藤さ――」
「こんなところで奇遇ですねっっっお妙さぁああ――――んんんんん!!」


唐突に叫んだ近藤さんが猛然と川に飛び入り、水をばしゃばしゃ蹴散らしながら対岸めがけてダッシュする。
そこには微笑を浮かべながら歩く清楚な美人――近藤さんの思い人で、あたしたち隊士一同が「姐さん」として崇め奉っている志村妙さんの姿が。 ほぼ四つん這いでだだーっと河原を駆け昇っていく近藤さんの「飢えた肉食獣が獲物目指してまっしぐら」的な姿に、 うわぁっ、とあたしは顔を背けて目を覆った。 あの勢いで迫られたら、どんな女の人だって恐怖とヤバさと貞操の危機しか感じないだろう。 「お妙さぁああん!」と両腕を広げて駆け寄る近藤さんに対し、ボクサーよろしく拳を構えた姐さんは軽快なフットステップを踏みながら待ち構えていた。 「あら近藤さん、永遠にさようなら」とにっこり笑って拳を繰り出し、強烈な右フックが近藤さんの顔面に炸裂。 ごっっっ、と周囲に風が巻き起こるほどの高速打撃で近藤さんの顔が思いきりひしゃげて、そして――、

――頭上に広がる晴天の彼方へ、まるで明るい昼空を横切っていく彗星のように、ひゅ―――んとあっけなく飛び去った――



………鼻血を撒き散らしながら飛んでいく局長の情けない姿を、ほぼ全員が遠い目で見送る。
「た〜〜まや〜〜〜〜〜」とすっとぼけた声を張り上げた総悟以外は、誰一人として口をきかなかった。





「…………………… さてと。ばーさんも無事帰ったことだし、俺らも帰るか」
「ああ、だな。撤収撤収」
「あー疲れた、腹減ったー。早く風呂入りてぇなー」

――それから数十秒後。
何も見なかったような顔したみんなは、河岸に停めたパトカーに続々と乗り込んでいった。全員が醒めきった目になってる。 悲しいことに、困っていた御年寄りを助けたことでMAXに高まった局長の威光と尊敬度は、ほんの一瞬で最底辺まで堕ちたみたいだ。

「えーと局長は……また随分と飛んだなぁ今日は。落下地点は商店街の裏通りですねぇ」
商店街のほうへ双眼鏡を構えた山崎くんが、淡々と現場の実況を務める。
「懲りねえなー近藤さんも。この前みてーに電柱に激突して頭割れてねーといいけど」
チョコバナナをむぐむぐと頬張りながら寄ってきた総悟が、商店街の上空を見上げて丸い瞳をぱちくりさせる。
「……どーなってんだあの人は。婆さんに見せた好男子っぷりを何であの女の前じゃ出せねえんだ……!?」
押さえた眉間に深々と皺を寄せて頭痛をこらえてるような顔になった土方さんが、本気の苦悩に頭を抱える。
「おぉーい、誰か局長回収してこーい。それと救急車呼べー」
原田さんが慣れた様子で指示を出す。どこまでもどこまでも真っ青で見ていると目が痛くなるほどの晴天を、 あたしは何ともいいようがなく残念なしょっぱい気分で見上げる。
見慣れたはずの江戸の空のまぶしさは、なぜだかやけに目に染みた。





 「生きとし生ける全てのバカども」
text *riliri Caramelization 2013/06/29/ → re: 2014/06/15/
「バクチ・ダンサーズ」さま提出物 ありがとうございました !!
鉄ちゃんとバラガキ篇設定はあまり取り込めそうにないけど一度書いてみたかったので。